23. 謁見と寒露の花見
背筋が丸まらないよう気を付けながら、ふぅ…と深く息を吐き出す。
気づいたアズハルが「大丈夫か?」と背中を支えてくれたから、もう一度気合いを入れて前を向く。
王宮の廊下は長く、迷路のように伸びている。
さすがに王宮内を抱っこしてもらうわけにはいかないからと自分の足で床を踏みしめているけれど、慣れない環境と緊張で、普段の何倍もの疲労感がのしかかって来るようだ。
陛下との謁見は、滞りなく終えた。
玉座に構える陛下は先日ご実家で寛いでいたのが嘘のように威厳に満ちており、イリリアは言葉が震えそうになるのをどうにか堪えながら挨拶を済ませた。
形式通りに終わり、これでひと段落かと思えば、別室に案内されたふたりの前にはご実家モードになった陛下がお茶の入った杯を構えて待っていた。
まさか謁見直後に、陛下とお茶を飲むなんて誰が想像するだろう。
打ち合わせになかった事だったらしく、アズハルも「聞いていませんよ」と苦言を呈していたが、こうなったら抗議は無駄だと早々に諦め、「休憩しようか」とイリリアの為に椅子を引いてくれた。
正直緊張のしすぎで疲れていたし、座れるのはありがたいけれど、豪奢な衣装に身を包んだ最高権力者と共にお茶を飲むことを一般的には「休憩」とは言わない。
王宮に随伴してくれているのはラウダとルゥルゥで、先日まで王宮筆頭女官を務めていたシャイマさんは今日はお留守番。離宮でラナーの行儀指導をすると言っていたから、お見送りの際のラナーは少し不安そうだった。
室内には陛下と給仕の為の女性がひとり居るばかり。
アズハルの近衛隊士であるカイスとドルバは退出を告げられれたため、一礼して扉外へ出た。ラウダたちは内扉の向こうにある待機室へと下がる。
給仕を終えると女性も恭しく礼をして下がり、室内には三人きりとなった。
先日の実家と同じような状況とはいえ、陛下の衣装も部屋の内装も、目から得られる情報すべてが豪華なせいか緊張感が段違いだ。
アズハルが口を開くよりも先に、杯を置いた陛下が「それで?星を見ながら語り合ったのか?」と核心に触れた。
想定済みだったのかアズハルは動揺する事なく「儀式はすべて予定通りにおこないます」と簡潔に返答する。
「意図的に営みを避けるつもりはありません。花嫁の体調を見ながら繋がりを深めるつもりですし、玉が宿るか否かは天運に任せるつもりです」
「そうか。では、諸々の覚悟を決めたというわけだな?」
「ええ……望まぬ余分はツノを折ってでも排除するつもりです。私は花嫁以外に慈悲を与えるつもりはありませんので」
「ほぉ……そう来たか」
アズハルの言葉に陛下は顎を撫でながらイリリアに視線を向けた。
「夫が罪人になろうとしているが、良いのか?」と問われたため、「罪人にはしたくありませんが、罪を負う時には一緒に背負いたいと思います」と正直に告げる。
「人間風情が、雲下に落ちて生きていられると?」
「生きるも死ぬも、アズハル様が抱えて落ちてくれるのであれば、どちらでも」
なので単体で落とされるのは困りますという気持ちで口にしたが、陛下はちゃんと読み取ってくれたようだ。「では落とすときは一緒に落としてやろう」と面白がるように目が細められた。
「まあ……事前に申告してくるだけマシか。アクラムの元にも身の程知らずの女が訪ねて来たことがあったが、あいつは申告もなしにツノを折った挙句、その女を王妃の部屋に放り投げたからな……あわや余が浮気を疑われるところだった」
初めて聞く事だったのか、アズハルは目を丸くして驚いている。
「兄上はもっとスマートに避けているものだと思っていました」
「こちらが気を遣ってやんわり避けてやっているのに、あちらが強硬手段を取ってくるから問答無用の処置を取らざるを得なくなるんだ。政治屋を目指しているというクセにあいつらは本当に血の気が多い」
政治とは名ばかりで、軍隊を組織して霊峰を武力制圧でもするつもりじゃないかと皮肉った陛下は、不意にイリリアを見据えた。
「迷子になりそうだから助言しておいてやるが、王宮で迷った時は廊下に立っているのが賢明だ。迂闊に余やアクラム、そして各花嫁の部屋へ踏み込もうなら、処罰の対象になりかねんからな」
「心しておきます」
「そうしなさい。アズハルも……ツノを折って捨てるのは三人までなら誤魔化してやる。それ以上は処罰の対象になり得ると覚悟しておけ。
……お前は実直すぎるから伝えておくが、ツノを折る前にでっち上げでもいいから相手の瑕疵になりそうな事を用意しておきなさい。シャイマに言えば策を講じてくれるだろう。
花嫁を守りたいと思うなら、泥を被ることばかりを考えず、うまく泥除けを準備することを学ぶように。たとえその泥除けが嘘偽りを固めて作り上げたものだろうと、犠牲や卑劣さの上に作り上げたものだろうと、体裁さえ整っていれば大抵は何とかしてやれる。
花嫁のために罪を被る覚悟があるのならば、その程度の事は出来るだろう?」
「……はい。重々、胸に留めておきます」
「優しい子に育ったことを喜ばしくも思うが、そろそろお前も現実を見据えて巣立つ時なのだろう。………イリリア、」
「はい」
「余の息子は花嫁の為にこれだけの覚悟を固めたのだ。アズハルの心を疑い、踏み躙るような真似は許されぬぞ。ここは余が治める天上……地上の理は通じぬと思え」
向けられた視線はどこまでも鋭く厳しい。
花と竜……運命で結ばれた唯ひとりを愛し、決して余所見をするなという忠言に、イリリアは左胸に触れながら粛々と答えた。
「はい。決して裏切らないと、花印に誓っております」
誓いの事は報告していなかったのか、陛下は少し気圧されたように背筋を伸ばした。
「お前が誓わせたのか?」という慎重な問いかけに「誓ってくれたのです」とアズハルが答える。
「そうか……すでに命さえ差し出す覚悟をしていたか。そうとは知らず厳しい目を向けた。一種の通過儀礼とはいえ、すまなかったな」
「通過儀礼ということは、叔母上の花婿にも同じような忠告をしたのですか?」
「異種族の花には総じて宣告することになっているからな。ヌーラのところのはどこまでも反抗的だったが……こちらはまさか花印に誓いを立てているとは思わなかった。
誓いを受けた竜からすれば誉れ高い事だが、あまり大っぴらにするものではないぞ。弱みになりかねない」
「承知しています」
「では改めて、寿ぐとしよう。新たな花の来訪を祝して」
陛下とアズハルを見倣い、杯を掲げる。
父親らしい眼差しで「息子を頼む」と言われ、じんと胸に沁みる。
「アクラムからは、諸々の覚悟が決まっているのであれば面会に応じると聞いている。予定通りあちらの離宮を訪ねるといい」
そう言われて陛下との短い面談を終え、王太子殿下の離宮へ向かって歩き始めて早五分。
(遠いわ……)
もう少しだと励まされながらどうにか足を動かすけれど、正直そろそろ、人目も憚らず座り込んでしまいそうだ。
(ちょっと息が…上がってきたかも…)
一歩一歩が重くなってきた。
つい俯きそうになる顔をどうにか持ち上げようとしたら、足が縺れて転びそうになった。
咄嗟に支えてくれていたアズハルは「…こちらへ」と空き部屋の一つにイリリアを連れ込んだ。
勝手に使ったら怒られるのでは…と思っていると、ここは貴賓室ではないから大丈夫だと言われ、身を預けていいと抱き寄せてくれる。
いつもの距離感に、緊張で強張っていた心が緩くほぐれる。
ありがたく胸元に凭れかかり、何度か深呼吸を繰り返す。
ゆっくりゆっくり背中を上下に撫でられ、脈打っていた鼓動が少し落ち着いた。
「大丈夫か?兄上の離宮まで、あと……少しなのだが」
「だ、大丈夫、です……ここで息を整えるので、行きましょう」
「ルゥルゥ、軽めの霊薬があるなら頼む」
「はい。脈が少々速くなっておいでです……息苦しさの他に症状はございませんか?」
「耳鳴りと眩暈が少し……と、頭痛がほんの少し……」
複数の症状が出ていると知って、今すぐ帰ろうと言いかけたアズハルを制止する。
自分の体力を信じていないからこそ、出来れば今日中にすべて終わらせてしまいたい。
この先、儀式に向けて様々な支度をする必要がある。重要な面会などを後日改めてと先送りにしたら、儀式の当日に疲労を溜め込んで倒れてしまう気がする。
ルゥルゥから受け取った霊薬を飲んで、深呼吸を繰り返していたら随分と楽になった。
なおも心配そうにするアズハルに「明日は丸一日寝ているかもしれませんが、いつでも隣に寝に来ていいですからね」と告げ、一度ぎゅっと抱きしめてもらってから再び歩き出す。
それから二分ほどで辿り着いた離宮の前では、数名の護衛と共に、王太子ご本人が腕組みをして待っていた。
アズハル様よりも幾分か年上で…カイスやルトフと年が近いのかもしれない。
眉間に縦皺があるせいか少しばかり厳しめの表情に見えるものの、陛下と良く似た顔立ちをしている。アズハルや陛下よりも明るい、蒼天を思わせる瞳の色が印象的だ。
「遅かったな」という声かけに、アズハルが「遠いです」と文句を言う。
「謁見の間から歩いて数分だろうが。ここへ来たということは、無駄な抵抗をするつもりはないと認識してよいのだな?」
「無駄な抵抗かは知りませんが、少なくとも兄上と喧嘩するつもりはありません。このまま立ち話を続ける予定ですか?」
「陛下から、お前たちがこちらへ顔合わせに来る予定だと先ぶれを貰ったからな。意思確認のために待っていただけだ」
付いて来るなら勝手に来いとばかりに王太子は踵を返してスタスタと離宮内へ入っていく。
ゆっくりでいい…と引き続き支えてもらいながら門をくぐってなかへ立ち入る。
南の離宮と比べて警備は物々しく、静かな視線が刺さる。
ドルバがさりげなく立ち位置を変えてくれたし、アズハルが守るように肩を抱いてくれているから、緊張以上の恐怖は抱かずに済んだ。
用意してくれていたお茶席は入り口からそう遠くない一室で、床はふかふかの絨毯敷きで、壁には豪奢なタペストリーがかけられている貴賓用の部屋だった。
テーブルには王太子殿下とベールで顔を隠した女性が先に座っており、アズハルに導かれるまま、その向かいに腰を下ろす。
「こちらを害する意思はないな?」と重ねて確認してきた王太子に「ありません」とアズハルが答えたのを機に、護衛や侍女たちが部屋を離れ、室内には四人だけが残された。
何度も執拗に確認を取るのは、王太子にとって大事な人物が同席しているからだろう。
王太子が杯を持ち、それに倣って皆が杯を掲げる。
「念願の花嫁を得た弟を心から祝おう」
先ほどの陛下の時のように胸が熱くならないのは、目の前の人物が笑んでいるように見えて、眼差し鋭くこちらを観察しているからだろうか。
それとも、「ありがとうございます」と答えるアズハルの声にいつもより温度が籠らないからだろうか。
冷えた水が、口の中に残っていた霊薬の後味を流してくれる。
「お前のことだから怖気付いて決心出来ずに今日を迎えるのではないかと思っていたが、決断力が身についたようで何よりだ」
「……紹介させてもらえますか」
「許す」
「私の花嫁のイリリアです。先ほど陛下より居住と婚礼の儀式の許可をいただきましたので、兄上にお知らせに参りました。どうぞお見知りおきください」
「イリリアと申します、よろしくお願いいたします」
「ああ。アズハルの兄のアクラムだ。今より『殿下』と呼ぶことを許そう。
陛下から、小動物のような花嫁だから会わせて問題ないだろうと聞いてこの場に同伴させることにした……彼女は我が花嫁であり王太子妃のファティナである」
「ファティナと申しますわ。アズハル殿、イリリアさん、おふたりが結びを得られたことを喜ばしく思います」
「ありがとうございます。そしてお久しぶりでございます、ファティナ妃殿下。ご健勝そうで安心致しました」
「アズハル殿の花嫁が見つかるまではと遠ざけられておりましたし、なかなかお会いする機会がありませんでしたものね」
「未婚で適齢期の男と自分の花嫁を会わせたいとは思わんだろう」
「義弟ですのに…」
「アズハルの髪が白くなければ会わせたが、花を得ていない王族は不安定だ……嫉妬に駆られて何をするかもわからない」
そういえば下の小屋でサーリヤと対面したときにアズハルもそのような事を言っていたな…と記憶を探っていると、思考を読んだかのように「サーリヤに会ったそうだな」と話しかけられる。
「何と言われた?」
「…アズハル様は甘えん坊で泣き虫だとお聞きしました」
「ああ…」
「納得しないで下さい……ひとまず、私には暴言を吐いて立ち去りましたが、イリリアには幾つか重要な言葉を残して行ったようです。本来は兄上が派遣した女官たちが指導すべきことも幾つか伝えてくれたようで、その点は感謝しています」
「根に持つなぁ…シャイマを得たのだから良かろう。あれ以降、母上の機嫌が悪くてかなわん」
肩を竦めた王太子は、アズハルとは違い会話のテンポが速い。
かといって話を聞いていないわけではなく、敢えて次々に尋ねることで、じっくり考え込む猶予を与えまいとするかのようだ。
アズハルから事前に「兄上との会話には必死についていこうとしなくていい」と助言されていたが、やはり問いかけが自分に向くと気持ちが逸ってしまう。目力が強いのか、向けられる眼差しに圧を感じてしまうから余計に。
「それで、一体何の花を持つ?」
「えっと…竜胆です」
「花弁の先が五つに分かれた、薄紫色の花です。イリリア、兄上のペースに乗せられると疲れてしまうから、ゆっくりでいい。兄上も次々に質問を重ねないでください」
「過保護なことだ。ではファティナ、アズハルの花嫁に何か聞きたいことはあるか?」
話を振られた妃殿下は、そうですね…と穏やかに言葉を紡いだ。
「わたくしは右目に星花の印をいただきましたの。イリリアさんはどちらに印をお持ちなのかしら」
「左胸と背中に竜胆の花が咲いています」
「二ヵ所もあるのか?」
ずい、と身を乗り出すように話に割り込んできた殿下に、アズハルが「兄上」と苦言を呈す。
別に見せろと言っているわけじゃないだろうと口を尖らせた殿下は、わざとそう見えるように振る舞っているようでもある。
アズハルは今日までに何度も「兄上は王宮で生まれ育った人だからな」と苦々しげに言っており、イリリアの中では密かに、言質を取ったり話を誘導したりするのが上手な人なんだろうな…という印象が育っている。
総じてあまり良い印象は持っていないが、イリリアも処世術として表情を整える事には長けているし、今のところ猛り狂うほどに酷いことは言われていない。
「初めは左胸に一輪だけでしたが、アズハル様に口付けをいただいたところ増えました。今は胸に三つと背中にたくさん咲いています」
「ほぉ……増えた事例は初めて聞くな。叔母上の花婿の花印は首筋にあるが、隠さず誇示しようとするから大変だと言っていた。胸ならば隠さざるを得ないからお前も安心だろう」
「叔母上の花婿殿は頻繁に王宮を訪れるのでしょうか」
「年の初めの挨拶くらいだ。最近ようやく落ち着き始めたと聞く。だが…お前の花嫁とはとことん相性が悪そうだから会わせぬ方がいいだろう」
「女官が悪巧みでもしない限りは、鉢合わせる機会はないかと」
「過ぎたことをネチネチと……護衛と侍女に関してはお前の管理不足だろうが。反省しろ」
アズハルは機あらば拠点での女官の件の謝罪を引き出したかったのかもしれないが、あっさり跳ね除けられてしまったようだ。
殿下とアズハルの間には百歳近い歳の差があると聞いているし、もともと口喧嘩にも慣れていないのだから、口達者な年上のお兄ちゃんに勝てないのは致し方ない。
帰ったら休む前にぎゅっとしてあげようかな…と思っていると、再び殿下からの矛先がこちらへ向けられた。
蒼天の瞳に一瞬だけ、虐めっ子な兄たちの面影が重なる。
「それにしても大人しいな……雷鳥相手に大暴れしたと聞いたが、その細腕で本当に鳥の首を絞めれたのだろうか」
「兄上、そのような言い方はおやめください。あの一件でどれだけ負担をかけたか…」
「絞めたあとはどうするつもりだったんだ?」
「兄上!」
「茹でるか揚げるかして美味しく食べるつもりでした。鳥は普通、絞めたあとに羽をむしって下処理をしますので………大蜘蛛」
「…蜥蜴と蠍も入っていたな」
「あの黒焼きはヤモリだそうですよ…蜘蛛が一番嫌」
「何の話だ?」
「食欲を抑えるための措置です。まだ時々不安定ですから、食事の話はしないでください」
「あれもダメこれもダメとは窮屈な……」
「…とはいえ、今の尋ね方は感心しませんわ。わたくしはアズハル殿の花嫁とお会いするために居るのであって、貴方の高圧的な態度を見るために同伴しているのではありません」
ここは祝いの席でしょう?と静かに諫めたファティナに、殿下は「すまなかった」と素直に謝罪を口にした。
今のはファティナに対して「高圧的な態度を見せて悪かった」と謝罪するついでに、イリリアやアズハルに対しても言外に謝罪を向けたのだろう。
アズハルからちらりと視線で確認されたため、気にしていないと小さく首を振っておく。
今の自分は、王族の花嫁として相応しいか、今後どのような付き合いをしていくべきか、見定められている最中なのだと思う。
頭ごなしに否定されたわけでも、理不尽な暴力に晒されたわけでもないし、この程度であればさしたる不快感はない。矢継ぎ早な質問にどう答えるべきかと躊躇う程度だ。
花嫁に諌められた殿下は「どこで怒り始めるものかと試しただけだ」と肩を竦めてみせた。
「しかし全く怒らぬな……叔母上のところの花婿は顔を合わせただけで牙を剥き出しにして来たぞ」
「なぜ皆、あの者とイリリアを比べるのです」
「今の王族の花のなかに異種族の者は、あいつとお前の花嫁しかおらんからだろう。人間の方がよほど獰猛だと思っていたが、小鼠よりも大人しいとは…」
「イリリアさんは、先ほどのアクラム様の言葉はご不快ではなかったの?」
「純粋に尋ねておいでかと思いました。竜人族の方々は、おにく、は…お召しにならないと聞きましたので、下処理の方法や…調理法を……ご存知でないのだろうな、と」
「イリリア、そんなに頑張らなくていい。人間が蜘蛛を乾燥させたものを食べないように、竜人族も肉を食べないからと、色々説明しようとしてくれたんだな?」
脳内で鳥肉と大蜘蛛を競わせながら、こくこくと頷く。
事情を察してくれたファティナは「お優しいのね…でも、無理はなさらないで」とベール越しに穏やかに微笑んでくれた。
「シャイマは元気にしているか?父上が結婚祝いとして夫のサディオを南の離宮に送ると言っていたから、家族でお前に仕えることとなるだろう。北の動きが不透明であるし、私からも護衛を担える者を送ろうと思っている」
「助かります。助力をお願いできぬか改めてお尋ねしようと思っていました」
「そうか。お前が私に聞きたいことがあったように、私も聞きたいことがある。花嫁から高圧的だと批判されようとも、これだけは聞いておかねばならない」
そう口にした殿下は真っ直ぐにイリリアを見据えた。
先ほど陛下から向けられた視線と重なる眼差しに、どのような問いかけが来るか、ある程度予測がつく。
「人間よ。お前は、自分の子どもを帝位や王位につけたいと思うか?」
「いえ…私にそのような思いはありません」
「では、生まれて来た子に何を望む」
「健康と安寧を」
ふむ…と陛下によく似た仕草で顎を撫でる殿下から視線を外し、隣のアズハルを見上げながら「一緒に竜車でお出かけも出来たら嬉しいのですけど…」と言ってみる。
目が合ったアズハルは、とても優しく微笑んでくれた。
「竜車か……これまで外出の時は人目の少ない時間帯に飛翔していたから必要性を感じなかったが、これからは竜車を貸していただく頻度も増える。イリリアを南端へ連れて行くと言うたびに父上は歯噛みなさるだろうから、折を見て専用の竜車か、車牽きの者を貸し与えていただけないか申請してみよう」
自分は妃から同行を断られ続けているのに、息子とその嫁が仲良く何度も田舎デートをしていたら歯痒くもなるだろう。
今後のデートの為に専用の竜車や車牽きを貸し与えてくれと願い出るのもなかなか豪胆なことだが、許されるのであれば自由に使える一台があると嬉しい。
視線を正面に戻し、こちらの様子を窺う殿下に言葉を重ねる。
「先ほどの続きですが、自分の子が大きすぎる権力を持つことは望みません。ただ、自衛できる程度の力は必要だと思っておりますし………子ども自身が何らかの目的をもって困難な道を進みたいと言ったとき、その意志を尊重し、支援することはあるかもしれません」
「あくまで子の意志を優先するということか………洗脳する気は?」
「ありません。申し上げました通り、健やかに育ってくれれば、それで」
「なるほどな…今のところはそういう考えであると理解しておこう」
思考は変動するものだ。だが今は信じよう。と言ってくれた殿下に小さく頭を下げる。
ファティナからは「今のような問いかけにもお怒りにはならないのね」と感心したように言われ、ベールの向こうの視線がちらりと自分の隣を見たような気がして、同じ方向へと視線を移す。
先ほど「陛下に竜車の申請をしよう」と穏やかに返答してくれたアズハルは今、瞳に静かな怒りを宿らせ殿下を見つめている。
王太子もそちらへ視線を向けたものの、一笑に伏すかのように肩を竦めただけだった。
「子どもっぽく不機嫌そうな顔をしているが、どうせ花嫁とこのような話はしていないのだろう?」
「私の立場をご承知のうえで、わざわざそのような問いを花嫁に向ける必要があるのでしょうか」
「お前に野心がなくとも、花嫁には違う思惑があるかもしれないだろう」
「陛下からの忠告を受け、互いの気持ちは十分に確認しております。こちらの意向は全て示し、兄上と妃殿下の立場を尊重するとも告げたはずです」
「異種族の思想が我らと違うことはお前も知っているはずだ。ゆえに事実確認をしたに過ぎない。それに、宮中ではいつもこのような話ばかりだ…辟易するほどにな。お前もいい加減に慣れろ」
「だとしても……先ほどファティナ様が仰ったように、祝いの場に水を差すような事は控えて頂きたい」
「これ以上は言わんさ。それに、相手がお前だからこそファティナを同席させたうえで正々堂々と聞いてやったのだ。サーリヤならば私が最初の問いかけを口にした時点で、花に無礼を働くなと机をひっくり返しているだろうからな」
お前のことはある意味信頼していると言われたアズハルは物凄く不本意そうだ。
ここが王宮でなければ今すぐにでも頭をいっぱい撫でてあげるのになぁと、膝の上で固く握られている拳にそっと手を重ねておく。
それに気づき、指を絡めるように手を握り返してくれたアズハルと視線を交わし合っていると、向かいの席からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「まあ、祝いの場で何度も水を差したことは確かだ。謝罪は獣人手製の菓子が良いと陛下から聞いたゆえ用意させている、後ほど持ち帰るといい」
「父上は何を伝えているんだ…」
「だが花嫁は喜んでいるようだぞ?」
菓子と聞いて先日の月餅を思い出してしまい、つい目が輝いてしまった。
こちらの顔を確認したアズハルは、仕方ないなぁというように目元を緩めて微笑む。
「………欲しいのなら貰って帰ろうか」
「いいのですか?」
「受け取れば兄上を許すことになるが……イリリアは不愉快じゃないか?」
「裏でこそこそ嗅ぎ回られるのも嫌ですし、いずれ確認される事だったのであれば今終わって良かったなと思います。でも、さっきは私の考えを自分勝手に口にしただけですから、今度アズハル様の思いも教えてくださいね」
「私もイリリアと概ね同じ意見だ…安寧であるのが最たる望みだからな。だが、家族で出かけるのは考えていなかった」
「どこか景色の綺麗なところで草食ピクニックをしたり、一緒に寝転がってお星様を見たり?」
「ああ、いいな……明日は月の出が遅いから、星を見ながら色々と話そうか」
「また部屋にお泊まりしてもいいですか?」
「いつでも構わない。何もない部屋だが気に入ってくれたのなら何よりだ」
握ったままだった手をにぎにぎしながら話をしていると、向かいから二度目の咳払いが聞こえた。
殿下は場を弁えろと言いたげな顔をしているし、ファティナ様はベール越しのせいであまり表情が読めないものの、驚いているような呆気に取られているような、そんな感じがする。
「……とても仲睦まじいご様子で安心致しましたわ」
「とはいえ堂々と手を繋ぐのはやり過ぎだろう。まさか陛下の前でもそんな態度だったのか?」
「玉座の前で礼儀を欠くような事はしませんので」
「当たり前だ。茶席でも控えろ。あとで小言を聞くのは私なんだぞ?
しかしまあ、堅物すぎたお前がここまで蕩かされるとはな……花嫁も、懸念していたような人物像ではないようだ。異種族なうえに仇敵である人間と聞きそれなりに警戒していたが、話も出来るしよく懐いている」
「懐く懐かないではなく、こちらの事情を汲んでおおらかに受け止めてくれているのです」
「いくら小動物のようだとはいえ噛み付くこともあるからな……雷鳥を襲った時のように感情的に暴れ出しては堪らないと思い試すような事もしてみたが、どうやら効果的な制御方法を得ているようでその点でも安心した」
「人間の身でよくぞ天まで至った」と、ようやく本物らしい笑みを向けられたため、「ありがとうございます」と頭を下げておく。
居丈高な物言いは置いておくとして、殿下の堂々とした笑みはどちらかといえばサーリヤに似ていて、三人の血の繋がりを思う。
「儀式はおよそひと月後だったか……見届け人として同席するのは私と陛下とサーリヤとなる」
「姉上はまだ花を得ておりませんが大丈夫でしょうか」
「問題ないと陛下が判断なさったのだから大丈夫だろう。それと、次代に備え、我が息子の見学を許可するように」
「それが頼む側の態度でしょうか」
「私の時は父上から同じように言われ、お前の見学を許した」
アズハルは勝手に了承するのではなく、儀式の事情や作法に詳しくないイリリアにもわかるよう端的に説明してくれる。
「イリリア、兄上の息子が儀式の見学を望んでいるそうだ。本来、成人した三人の王族が見届け人として立つ以外に同席者は置かないのだが、許可があれば白き髪を持つ血縁者に限り、未成年の者も置くことができる」
アクラムの子でアズハル様の甥にあたるアクルは、叔母の儀式の頃はまだ幼く、何より花婿である獣人の発言が不穏すぎて参加させなかったという。
その時は陛下と王太子とアズハルの男三人が見届け人となり、獣人が身勝手に振舞い始めたときには対処できるようにと構えていたそうだ。
今回はそうした危険は少ないだろうという判断で、後学のために同席させたいという。
「私は構わないのですが……何か問題があるのでしょうか」
「………湖に入り服が濡れた時に、花が透ける可能性がある」
「ああ、背中が………まあ、アズハル様のお気持ち次第で決めて頂いて大丈夫です」
「ありがとう。本当は見せたくないが……こればかりはな……」
イリリアとしては別に、背中の花を見られたところで痛くも痒くもないため、アズハルの心が納得できる方向で調整してくださいと伝えておく。
緊張の糸がほぐれて来たのか、あるいは先ほど飲んだ霊薬の副作用が出始めたのか。単に疲労が重なっただけかもしれないが、そろそろ眠気が強まってきた。
アズハルと王太子が儀式について話すのを、欠伸を我慢しながらボーッと待ち、やがて話が落ち着いたところで解散の流れとなった。
約束の菓子の入った箱を渡してくれながら、王太子は「念のため毒味をするように」「もう少し部下を厳選して離宮内でも警戒を怠るな」と弟を心配するような忠告を重ねている。
それが本物の優しさなのか何らかの打算の上なのかイリリアにはわからなかったが、王太子の隣に立つファティナの雰囲気が柔らかいことや、警備に立つ年配の隊士が微笑ましくやり取りを眺めていることからも、今はお兄ちゃんとしての側面が出ているのだろう。
「結婚祝いは適任を選出し五日後に送り届ける。儀式まで節粛に過ごすといい」
離宮近くで待機させておいてくれた竜車へ、眠気と闘いながらどうにか乗り込む。
車牽きのウェンは相変わらず太陽のような眩い笑顔で、イリリアはもはや定位置と化したアズハルの膝の上に乗り上げると、そのままコテンと意識を落とした。
▼
目覚めたのは二日後の午後だった。
寝過ぎてしまったと反省するイリリアに、アズハルはただただ安堵の表情を向けた。
何度言っても寝相でイリリアの体調を判定するアズハル曰く、寝返りを打つどころかぴくりとも動かなかったため、負担をかけ過ぎてしまったのではとハラハラし続けていたらしい。
寝過ごしたせいで、星を見ながら話をしようという約束も反故にしちゃったな……と静かに落ち込んでいると、今日も月の出は遅いから星はよく見えるだろうと慰めてくれる。
「ラウダがせっかく整えてくれているし、体調が悪くないのなら今夜星見の部屋へ行こうか」
「良いんですか?アズハル様は疲れていませんか?」
「そうだな……数日花印に触れていないし、また背もたれにしてくれると嬉しい」
それならばいくらでもと了承の返事をして、診察のために入室してくれたルゥルゥにも今夜星を見ても大丈夫かと聞いてみる。
昨日から今朝にかけて久しぶりに氷雨が降ったらしく、まだ空気が冷えていますので温かくなさってくださいねと厚手の毛布を用意してくれた。
眠っているあいだに王宮用の衣装からの着替えは済んでいて、起きた時にはすでに寝間着だったものの、清拭や夕食を済ませて新しい寝間着に着替え、迎えに来てくれたアズハルと共に私邸へ向かう。
渡り廊下はひやりと冷たくて底から冷気が上がってくるようだ。
そろそろ冬が来るな……という呟きと共に、白い吐息が湯気のように立ち昇る。
今まで色んなことに必死すぎて季節なんて考えたこともなかったけれど、どうやら今は晩秋で、そろそろ冬の入りに差し掛かる。
半年前には命を断とうとしていた自分が、霊峰の頂にある桃源郷のような場所に導かれて、異種族の王子様と結婚式を挙げるに至るなんて、一体誰が想像できただろう。
立派なお屋敷の長い廊下を渡って、二度目ましてな星見の部屋に辿り着く。
開いた扉の向こうは先日と同じように可愛くも暖かく整えられており、電気を消した手に導かれながら、敷物の上に座したアズハルの膝のあいだに腰を下ろす。
背中を凭れさせてぴたりとくっ付ければ、待っていましたとばかりにそっと背後から抱き込まれた。
アズハルの手は胸の下…お腹のあたりでお行儀よく組まれていて、悪戯なお触りなどをする気配はまったくない。
空には相変わらず色彩豊かな星がキラキラと瞬いていて、アズハルの瞳と同じ濃紺の空は遠く澄み渡っている。
イリリアを背後から抱き込むアズハルの体温はぬくぬくと温かく、二日近くも眠っていたのに、包まれている安心感のせいでまた眠気が襲って来そうだ。
事前に用意してくれていたのかヴォルヴェルと呼ばれる月や星の描かれた美しい回転盤を手にしたアズハルが、盤面を動かしながら夜空の説明をしてくれる。
婚礼の儀式を執り行う日は何時にどの方角から月がのぼり始めるのか、そんな事まで予測できてしまうことに純粋に驚きながら、鮮やかに輝く星を見上げる。
ふと気になることがあって、服の上から胸の花印に触れてみたものの、そこから何らかの感情が伝わってくる感覚はまだ無い。
けれども、困ったような顔も苦々しく笑う顔も少しだけ拗ねた顔も……色んな表情をすぐそばで見て来たからこそ、今のアズハルからは、微かに怒りの感情が読み取れた。
普通に会話に応じてくれるし、イリリアに向ける表情も普段通り優しい。
ただ……廊下の先を見る視線や、星を見上げる横顔がどこか冷ややかで、その怒りの矛先は彼自身に向けられている気がした。
(アズハル様が不機嫌なのは、王宮での出来事が原因かしら……)
王太子殿下とのやり取りは、隣で聞いていてハラハラする場面もあった。
下の拠点にいる時に『兄上とは言いたいことは言い合う仲だ』と聞いていたし、悉くあしらわれていたものの、アズハルもちゃんと主張を口にしていた。
けれどもやはり、結婚の決まった弟を祝うというよりも、こちらを試し、釘を刺すような発言が多かったのは確かだ。
祝おうとは言っていたけれど「おめでとう」の言葉もなく、唯一本心から告げられたのかなと感じられた言葉も、別に嬉しいものではなかった。
年の離れた異母弟を心底忌み嫌っているようには見えなかったし、竜帝と正妃の息子として、側女の息子とのあいだに厳しく線を引く必要があるのはわかるけれど……。
「……イリリア?」
胸に手をあてたまま黙り込んだイリリアを心配するように覗き込んでくるアズハルを見つめ返す。
視界に流れる白い髪が、夜に淡く光る筋雪のようで美しい。
その白を高貴とする文化にありながら、どうしてアズハルだけが軽んじられなければならないのか。
「……とても酷いことを言ってもいいですか?」
「ん?」
星の話が面白くなかっただろうかと、手にしていた回転盤を遠くに置きながら首を傾げられる。
イリリアは、ぐっと全身を預けるように背中を凭れされた。
よろめくこともなく難なく受け止めてくれる厚い胸に密かにきゅんとする。
「アズハル様が悲しい王子様でよかった」
「………どうした?」
「王宮の感じが苦手でした…」
「ああ……私もあまり得意ではないな。多くの目が向けられるし、直接的な言葉がなくとも視線が煩わしい時がある」
同意してくれたアズハルは、小さな声で「私は王宮に部屋を持っていないから安心して良い」と口にした。その言葉は少しだけ寂しい響きを帯びていて、イリリアは首をぐぃっと傾けてアズハルを仰ぎ見た。
それでは首が痛くなるだろう?と優しく元に戻される。
「王宮は得意ではないのだが、それでも昔は……離れでもいいから王宮内に居場所が欲しくて、酒に酔った兄上からの提案に一喜一憂したものだ」
提案?と深掘りすれば、成人の折に天上で花嫁が見つかったら離れをやると言われたんだと教えてくれる。
「きっと監視も兼ねての提案だったのだろうが……以前も言ったように私は星の巡りが悪い日に生まれたから、離れだろうと竜帝のおわす王宮に身を置くことは許されない。
結局天上で花嫁は見つからなかったし、兄上を諌めるついでに父上から改めてそう告げられて、儚い希望がすべて打ち砕かれた気分だった」
「……サーリヤ様の潔さは好きだけど、王太子殿下のやり方は傲慢な感じがして嫌いです。うちの兄達みたい」
「あんな感じだったのか?」
「あれを……さらに歪めて拗れさせて、下品で下劣にした感じかな」
「それはひどいな……」
正直比べものにならないくらいの最低野郎共だったから早々に話題から消し去って、よいしょと手を伸ばしてアズハルの頭を撫でる。
撫でやすいように肩口に身を寄せてくれたけれど、流れる髪が頬に当たって少し擽ったい。
「サーリヤ様がアズハル様をまぁるい雪玉だって言ってたんですけど」
「……姉上とそんな会話をしたなんて聞いてないぞ?」
サーリヤとの会話を報告するとき、何をどう伝えたものかと困ってしまったイリリアに、言いづらいのならば言えるところだけでいいから…と優しく譲歩してくれたのは他でもないアズハルだ。
甘えん坊発言に続き、今度は雪玉発言か…?とちょっとばかりじっとりとした視線を向けられたため、よしよしと一生懸命に撫でておく。
暫くして諦めたように小さくため息をついたアズハルは「…それで?」と先を促してくれた。
「雪玉でよかったな、って」
さらりと流れてきた髪を持ち上げてその毛先にちゅっと口付ける。
アズハルはイリリアのお腹へ回していた腕に、苦しくない程度にぎゅっと力を込めた。
「情けない男だと、嫌にならないか…?」
おや、これはどこかで聞き覚えのある言葉だなと思うと、イリリアの顔には自然と笑みが浮かんだ。
お腹の腕をよいしょと外して、身体を捻って向かい合わせになる。
すぐそばにある頬を両手で包み込むようにして、おでこをこつんと合わせた。
「出逢えた喜びと、こうして一緒に居られる幸福を噛み締める事はあっても、嫌になるなんてことはありませんよ」
いつかの夕暮れの小屋でアズハルが告げてくれた言葉を、そっくり返す。
「それは…私がイリリアに告げた言葉だな……」
「ふふ。あの時、本当は少しだけ怖かったんです」
怖かったという感想に、至近距離にある濃紺の瞳が揺れた。
安心させるように、長いまつ毛に縁取られた目元に唇を落とす。
「誰かに恨み以外の強い感情を向けられたのは初めてだったから……少しだけ身が竦むような心地がして、同時にすごく、高揚した」
「……だからキスして欲しいと言ったのか?」
「そう。胸がドキドキして、いっぱい触れて欲しくなって………あの時にようやく、花嫁や運命という言葉の意味を自覚した。私がアズハル様の運命を絡め取ってしまったんだから、この命はアズハル様の為に使わなくちゃ、って…」
「イリリア、それは……」
「わかってます。でも、あの時は本当にそう思ってた……死んだはずの私が生かされたのは、花としてアズハル様に捧げられる為だったんだって」
五十年も祈りを捧げて花嫁を探し続けたアズハルに与えられた花が、自分のような女であることを、ただただ心苦しく思っていた。
口付けの代わりに受け取った「好き」という言葉を免罪符に、せめてアズハルの望みが叶うよう天上へ至らなければと、自分の命を軽視したまま順化の行程を進み続けた。
花嫁が痛み苦しむことで、アズハルがどんな思いをするかも考えずに。
「未来のことをあれこれ言われても現実味がないって言ったけど、ここ数日、儀式を終えたあとにアズハル様とどんな事をしたいかなって考えてみたんです」
そうして思い浮かんだのが、竜車に乗っておでかけをする事だった。
景色の綺麗なところで草食ピクニックをしたり、一緒に寝転がってお星様を見たり……そこに居るアズハルは悲しみの片鱗もなく、穏やかに優しく微笑んでいて。
もしその光景のなかにアズハルによく似た子どもの姿があったなら…と、想像するだけで胸がじわりと温かくなる。
自分は遠巻きでいいから、穏やかで幸せな家族の姿をずっと見ていたいと思うほどに。
「甘えん坊でも頼りなくとも、私は今のままのアズハル様が好きです。どうかそのまま、変わらないで」
「ありがとう……私も、今のままのイリリアが好きだ。だからどうか、ずっとそばに居てくれ」
私だけの花嫁……と吐息が混ざるほどの距離で囁かれる。
その響きの甘さに眩暈がするようで、鼻先を触れ合わせたまま視線を絡ませる。
夜色の瞳に見つめられながら、今はお星様よりアズハル様を見ていたい気持ちだわ…と思っていると、アズハルから遠慮がちに「星見を切り上げてもいいか?」と尋ねられた。
「星よりも花を見たい……嫌でなければ、だが」
「嫌じゃありませんよ」
手を繋いで寝室へ行き、望まれるままに背中の花印を晒す。
腰から背にかけて、味わうように辿る唇に言葉にならない想いが込み上げる。
もどかしいような触れ方で背中の花を堪能したアズハルは「寒かっただろう?」と手早く上衣を着せてくれる。
確かに肌に触れる空気は冷たいものの、身の内には甘い熱が籠っている。
ぼぅ…と蕩けたように目の前の美丈夫を見ていると、その表情は困るな…と苦笑されてしまった。
「胸も…」
「……いいのか?」
整えてもらった上衣を再び乱して、はしたなくない程度に胸元を晒す。
普段であれば制止するような言葉がかけられるのに、今日は花蜜に誘われた蝶のように、無言のまま花に唇が触れる。
甘く食んだあと、祈るように額をあてたアズハルは、噛み締めるように呟いた。
「こうして花印に触れさせてもらうと、すべて許されたような気持ちになるな…」
幸せだが、甘やかされ過ぎている気がしてならない…と困ったように笑うから、どれだけでも甘えて欲しいとその頭を撫でた。
「これまで、誰かに甘えることも誰かを甘やかすこともなかったから……触れられるたびに私だけが特別な気がして、胸がいっぱいになるんです」
「そうか……」
需要と供給が釣り合っているのだから、遠慮することなどない。
胸元から顔を上げたアズハルは夜色の瞳を柔らかく細め、今日は早々に切り上げさせてしまったから、また星を見る時間を作ろうと言ってくれる。
(月がもう一度満ちれば、ようやく深く繋がれる……)
そう思うと、さまざまな感情がぐるぐると渦を巻き始める。
喜びと共に差し迫る不安……本当にこのまま何事もなく幸せになれるのだろうかと夜空に問うたところで、未来が見えるはずもない。
まだ空に現れない月に思いを馳せていると、そっと頬を撫でられ、夜に染まった瞳に見つめられた。
「どうした?」と囁くような問いかけに、胸に芽吹いた不安を吐露する。
「……今が幸せすぎて、少しだけ怖いな、って」
「私もだ……だが、このまま進もう。きっと運命が導いてくれる」
おいでと誘われるままに逞しい胸元に身を預け、揺籠のような腕のなかで目を閉じる。
じわりと染み入るような温度があまりに優しくて、少しだけ涙が滲んだ。




