22. 幾望に希む
平穏な日々は瞬く間に過ぎていき、二回目の遡上を果たしたイリリアが天上での生活を本格的に始めてから早くもひと月以上が経った。
順化の最中の不調が嘘のように体調の波も穏やかで、とはいえ全く影響を受けないということもなく、熱を出したり散歩の途中で息切れを起こして倒れたりと軽微な出来事に見舞われながらも、少しずつ少しずつ天上への生活に慣れていった。
日中の傾眠傾向も落ち着き始め、日光対策であるベールを纏って庭の散歩ができるようになった頃、イリリアは初めて輿というものに乗った。
竜車の前身のような乗り物で、長い棒の付いた箱に貴人を乗せて、数人で棒を担いで移動するというものだ。
これに乗れるようになれば、車輪付きの小型の竜車で練習をして、ようやく本職の人が引く大きめの竜車での移動に挑めるという。
イリリアが声を無くすほどに驚いたのは、御簾付きの乗り物に対してではなく……何故かアズハルが担ごうとしていることに対してだ。
思わず言葉を失ったのはラウダも同じだったようで、すぐに我に返ると「王子が輿を担ぐなど前代未聞ですわ!」と震えながら抗議した。
「なりません」「いやだ」
「お立場をお考えください」「私は夫だ」
「夫であると同時に王子です」「花嫁はこの手で運びたい」
というように、抗議するラウダとツンとそっぽを向いて抗議に抗うアズハルという図式が出来上がり、最終的に花嫁を運びたい系王子に軍配が上がった。
イリリアは軽いからふたりで十分に担げるだろうと言われ、前にアズハル、後ろにカイスという布陣で乗った初めての輿は……激しい車酔いでギブアップするという結果に終わった。
普段は高い花嫁運搬力を持つアズハルだが、手に棒を持ったまま普通に歩こうとすると棒の先は上下に揺れる。
前後の担ぎ手の足を踏み出すタイミングが違えば揺れのタイミングやリズムもずれて、輿の中は嵐の難破舟もかくやという程の揺れ具合だった。
停止を求める鈴を鳴らしまくったあと、どうにか這い出たイリリアは激しい眩暈と嘔気に見舞われ、「無理…」という言葉を残して気絶した。
けれどもイリリアはどうしても竜車に乗れるようになりたかった。
王宮に参内する為ではなく、アズハルと約束した『草食デート』へ行く為に。
輿よりも小型の竜車の方が揺れは少ないかもしれないと聞き、二度目は早くも車輪付きの小さな竜車に乗車してみることになった。
牛車や馬車に近い形状で、今度は側面を御簾で仕切るような開放的なものではなく、四方がちゃんと閉ざされた箱型をしていた。
そこに再び花嫁運びたい系王子が現れ、ラウダとの決死の攻防戦が行われた。
竜人族は基本的に竜としての姿を晒さない。
警備や伝令の任がある隊士であればいざ知らず、貴人となれば尚更だ。
恥とするほどではないものの、日中堂々と竜の姿で移動するのは緊急時や大滝雲を渡る時くらいか。
それ以外でやむを得ず身を変じる際には人目に付きにくい時間帯を選ぶのが一般的とされる。
竜車を牽く専任の者たちは、肉体を鍛えあげ、竜の姿で車を牽き貴人を運ぶことを誇りとしている者ばかり。とはいえやはり万人に受け入れられる職ではない。
いくら花嫁が乗っているとはいえ、王子が竜車を牽くなどそれこそ前代未聞だ。
「別に惜しむものじゃない」「なりません」
「庭先を走るだけだ」「場所の問題ではありません」
「白き竜は誇りだろうに」「誇らしいからこそ車牽きなどしてはなりません」
「それに、初めて竜車に乗る者にとって、アズハル様の飛ぶ速度はあまりにも酷です!」
という意見にその場に居た多くが賛同したため、今度の軍配はラウダに上がった。
最初はラナーくらいにしておきましょうというラウダの意見は適切で、ラナーがゆるゆると牽いてくれた竜車の中で、イリリアは浮遊するような不思議な乗り心地に感動し……再び盛大に酔った。
クラクラする頭と込み上げる嘔気を抑えながら外に出て、真っ先にアズハルへと震える両手を伸ばす。
うまく歩けないから抱っこして…という意思表示を正しく読み取ったアズハルは、車牽きが許されなかったことへの不満を少しだけ収め、イリリアを大事に胸に抱えると安心安全の運搬力で屋内まで運んでくれた。
離れに着くなり「やっぱりアズハル様に乗るのが一番好き」と告げれば、まだちょっぴり不貞腐れていたアズハルの顔は至福の笑みに変わり、あとは体調が落ち着くまで膝に抱っこされたままイチャイチャと仲睦まじい時間を共有するばかり。
そんな風に時間をかけて練習を重ねてようやく竜車に慣れてきた頃、
待ち望んでいた遠出のお誘いを受けた。
向かう先はアズハルが幼少期を過ごした竜帝陛下のご実家で、天上の南端に位置している。
大瀑布の起点となる渓谷に程近く、景色は良いがうっかり踏み込むと危ない場所もあると言われ、絶対にひとりではふらふらしないと心に決める。
竜車と竜車牽きを所有するのは現在、竜帝陛下と王妃殿下、王太子殿下の三人に限られているらしく、アズハルは必要に応じて竜帝陛下の所持する竜車を借りるという。
まだ会ったことのない竜帝陛下にデートの予定が筒抜けというのも気恥ずかしいが、ご厚意で竜車を貸してもらえることになったから、今日から二泊三日の初デートだ。
朝早く、離宮の一角に停められた想像のふた周りは大きな竜車と、その前に立つ筋骨隆々な男性を前に、イリリアは完全に圧倒されていた。
(大きいわ……)
車も大きければ、車牽きの男性も大きい。
アズハルも身長が低い方ではないし、骨格的にそれなりにしっかりしているけれど、目の前で太陽のような笑みを浮かべている男性はまるで大岩のようだ。
実用的な筋肉のついた逞しい身体にどっしりとした安定感……抱えられたらきっと、アズハル以上の抜群な安定感と運搬力に違いない。
男性とアズハルが何かしら話しているのを日差し避けのベール越しに眺めていると、こちらに戻ってきたアズハルがハッとしたようにイリリアの前に立って視界を塞いだ。
「アズハル様…?ご挨拶ができないのですけど…」
「ウェンは……既婚者だし、イリリアは私の花嫁だろう?」
「……また浮気を疑ってます?」
「いや……だが、熱心に見ているから……」
気まずそうに目を逸らしたアズハルの向こうで、はっはっはと快活な笑い声が飛ぶ。
「坊ちゃんの負けですよ」と笑いながら近づいてきた男性は、にかっと歯を見せて笑った。ちょっと尖った牙が笑顔に愛嬌を加え、白い歯が日焼けした肌に映えてまぶしい。
「車牽きのウェンです、よろしくお嬢さん」
「イリリアと申します、よろしくお願いします」
「私の花嫁だ。竜車での長い移動は初めてだから加減するように」
「輿での練習はしたんですかい?」
「ああ。私が担いだ」
「そりゃすごい!王子様が御輿担ぎをするなんて滅多にない事ですよ」
愛されてますねぇと言われ、はいと頷けば、大きな口で笑われた。
嘲笑うのではなく豪快に笑い飛ばす仕草に、天上にも底抜けに明るい人は居るんだなぁとしみじみ思う。
「しっかし細いお嬢さんだ!細すぎて牽き甲斐がないくらいだ!これからもっとふくよかに、大きく大きく育ってくださいね!」
「……ウェンさんは大柄な女性がお好きなのですか?」
「ええ!私の妻はアズハル様の横幅の倍くらいありますよ!抱えて歩くととても楽しい!」
さすがに長時間だと腕が痺れますけどね!と豪快に笑うウェンに圧倒されつつ、アズハルのエスコートを受けながら車の中に乗り込む。
木製の椅子は少し硬いけれど、装飾的で頑丈な作りだ。
荷物を抱えたルゥルゥが乗り込み、アズハルは竜車の近くに立っている部下をウェンに示した。
「ラナーとクルスムが随伴して飛ぶ」
「はいはい。チビ子ちゃん、置いていかれないように頑張ってな」
「持久力はさほどではないが、瞬発力があり速度もある程度出せる。だが、並走を続けるのが難しいときは中に乗せるから一度停まってくれ」
「そこで置き去りにしないところがお優しい。そうそう、これをお渡ししておこうかと」
ウェンの手にあるものを渡された瞬間、アズハルの表情が如実に曇った。
ウェンもまた、快活さを抑えて少しばかり不穏な空気を纏い、仄暗く笑む。
「日々の点検でもあまり見ないところに潜ませてありましたよ。仕掛けた者はこの御車が誰の物か、ご存知ないようだ」
「ウェン、今日はくれぐれも注意して……安全に頼む」
「勿論ですとも!竜帝陛下からもそのように仰せつかっておりますので!」
アズハルが乗り込むと、にかっと眩い笑顔に戻ったウェンが扉を閉めてくれる。
明かり取りの窓は嵌め込みの木板で半分隠されており、さらに内側から厚手のカーテンが引かれている。
少し薄暗い車内でイリリアは、難しい顔をして腰を下ろしたアズハルの膝の上に横座りで座り直した。
「ん?」と不思議そうな顔と目が合う。
「浮気を疑った罰として椅子になってもらおうかなって。ウェンさんの運転は信じていますけど、こちらの座面のほうがお尻に優しそうなので…」
先ほどの事を思い出しつつ唇を尖らせながら言えば、一瞬呆気にとられたアズハルは斜め向かいに座るルゥルゥを目で確認したあと、そっと腰に腕を回してくれた。
これで、たとえ竜車が吹っ飛ぼうとも安心安全に違いない。
「ウェンさんと難しい話をされていたようですが、何か心配事ですか?」
「竜車に細工をしようとした者が居たようだ。幸いウェンが気づいたし、この車は父上の所有物だから竜帝に害をなすつもりであったとして犯人はすぐに捜索されるだろう。もしかするともう捕まっているかもしれないな……だが、だからといって気を抜いていいものではない」
その言葉にルゥルゥは表情を固くし、アズハルもウェンから渡された鉱石のような物を手に、再び考えに耽る。
コンコンと発車の合図がしたあと竜車はぬるりと滑らかに動き始めた。
イリリアは走っているとも飛んでいるともつかない不思議な乗り心地に内臓がぞわぞわする感じを覚えたため、出来るだけ酔わないように……とすぐ近くにある端正な顔をじっと見つめることにした。
「………イリリア、あまり見られると……何をしているんだ?」
「お髭の確認を……」
「髭?」
見つめるだけでなく、手慰みに顎や頬をおさわりしていると流石のアズハルも気になったようだ。
悪戯をしてはいけないと言われたが、なぜ髭などを探すのかと心底不思議そうに首を傾げられたため、人間社会に伝わる竜の姿を軽く説明する。
空を渡る竜といえば、立派なツノと長い髭、鋭い爪と牙、そして固い鱗がトレードマーク。
ツノと鱗は隠されていると聞いたが、髭も隠してあるのかな…と思い触っていたのだ。
ちなみに人間社会に於いて竜は全身が貴重な薬として扱われる。
肉を食べれば寿命が伸び、血を口にすればたちどころに傷や病が治り、ツノ、髭、爪、牙、鱗……どれも万能薬として取引される超高級品。
さすがにそこまでは口にしなかったが、アズハルたちはおそらく知識として伝えられ既に知っていることだろう。
だからこそ竜人たちは、人間のいる地上を離れ、霊峰という前人未到の地へ逃れたのだから。
たまに車輪がガタンと音を立て、車内が跳ねるように揺れることもあるが、イリリアはとても贅沢で安全なところに座っているためお尻は微塵も痛くない。
「髭はこの姿の時にはないな……竜の時にはあるが、年齢と共に伸びるものだからさほど長くはない」
「アズハル様の主治医である私の祖父の髭は長いと思いますよ。それに、髭は男性にしか生えないんです」
「爪や牙よりも逆鱗のほうがよほど重要だと思うが、それは伝わっていないのだな」
「逆鱗?怒らせることを『逆鱗に触れる』なんて言いますけど…」
「では言葉だけ残ったのか。竜にとっての重要な感覚機関だ。それを失えば風の流れを掴むことが出来なくなるし、方向感覚や高所への適応性も失われると言われている」
思った以上に重要なパーツで驚いた。
逆鱗を失えば天上どころか霊峰に住むことも難しくなる。地上には竜を素材として狙っている人間たちが蔓延っているし、絶対絶命と言っても過言じゃない。
狙われたら大変だ、守らなきゃと思い「アズハル様の逆鱗はどこですか?」と聞けば、苦笑したルゥルゥから「その聞き方ですと『殺してやりたいほど憎んでいるから今すぐ逆鱗を差し出せ』という意味に取られかねませんよ」と指摘され、そういうつもりではないと慌てて否定する。
アズハルも困ったように眉を下げつつも、イリリアがそんな事をしないと理解しているのか優しく微笑んでいる。
「場所は教えられないし、できれば剥がさないでいてくれると助かる」
「剥がしませんけど、しっかり守っておいてくださいね」
「そうしよう。先ほどのことを心配してくれているのかもしれないが、ウェンが牽いている限りこの車は大丈夫だ。彼は父上の抱える車牽きの中で最も優秀だし、父上に仇なす者を決して許しはしない」
「ウェンさんは竜帝陛下を慕っておられるんですね」
「とてもな。父上から私のために車を出してやれと言われれば喜んで出すし、乗り込んだ私を車から振り落とせと命じられたら全力で振り落とすくらいに」
「え!?振り落とされてしまったんですか?」
「有事の際の動きを学べと、これまでに五回程振り落とされた」
「アズハル様のお父様は、少し厳しい気もしますが、ちゃんと自分の身を守る方法を教えようとしてくれたんですね」
「五十歳の時に大滝雲から突き落とされた時はさすがに命が消えたかと思ったが…」
おっと何だか不穏な言葉が聞こえたぞと思っていると、斜め向かいのルゥルゥも「本来大滝雲は、成人したあとに万全な安全対策を講じたうえで挑むものなのですけど…」と困った顔をしている。
「散歩に行こうと南端の渓谷付近に誘われて、滝雲の始まりに稀少な花があるから採って来るようにと言われ…覗き込んだところ、『耐えろよ』と背中を押されて落とされた」
強く育てと願って、獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすようなものかしら……と思ったが、事態はもう少し政治的な駆け引きを含むものだったようだ。
「当時は私の母の一族が色々と調子に乗っていた時期で、王妃の派閥と諍いを起こしていたらしい。父上は私が雲下に落ちたという情報だけを公開して、王宮内が平静となり王妃と兄上の安全が確保できるまでは捜索隊は組めないと断言し、ひとまず諍いを終結させた。母の一族は半信半疑だったようだが、実際に雲下から救出された私の姿を見て、これはやばいとその後の振る舞いを見直すようになったそうだ」
「怪我とかはしなかったんですか?」
「多少の骨折と打撲で済んだ。諸々示し合わせての出来事だったらしく、滝壺で動けなくなっているところをすぐに救出されて密かに匿われていたが……さすがに父上とは二週間ほど口を利かなかった」
二週間で許してあげるところがアズハル様らしいですねと白く艶やかな髪をさらさら撫でる。
ルゥルゥも深く頷いているし、もっと怒っていい場面であるのは間違いない。
根本的に怒るのが下手なんだろうな…と髭の生えていない鼻下を指先でくすぐり、頬に唇を寄せる。アズハルは擽ったそうに目を細め、優しい声音で悪戯を諌めながらも、仕方ないなとすべて受け止めてくれる。
「着いたら美味しい草をいっぱい教えてくださいね」
「イリリアの気に入る草があればいいが」
草食デートに想いを馳せて微笑み合っていると、ぐわんと一度大きくたわんだあと、竜車は静かに動きを止めた。
開けますよー!と元気な声と共に扉が開かれる。
「ご乗車ありがとうございます……おやおや、花嫁のお嬢さんはさっそく王子様を尻に敷いておられるようだ。最高の乗り心地だったでしょう」
「おかげさまで初めて車酔いせずに降りることが出来ます」
安全運転とアズハルの膝、どちらにも感謝しながら、先に降りたアズハルに助けてもらいながら扉をくぐる。
降り立った地は、一面に草原が広がる緑豊かな地だった。
「わぁ……すごい…」
「豊かな場所だろう?天上では草木が多い土地は誉れを得ているとされる」
手を繋いで、霊峰の山頂とは思えぬほどに緑深く、草と低木に満ちた土地を見渡す。
歩いて行ける程の場所に平屋造りの豪華な家屋が見える。話に聞く限り、あそこが陛下のご実家なのだろう。
「まずはお散歩からですか?どなたかご挨拶すべき方がいらっしゃいますか?」
「いや、警備の隊士と管理を任されている者しか居ない…はずだが…」
アズハルはウェンの牽いていた竜車の向こうを見て、眉を顰めた。
そこには、シンプルなデザインで、イリリアが乗ったものよりひと回り小さなサイズの竜車が停められている。
「ウェン、あれは父上の竜車ではないだろうか」
「そうですね。リューの牽く車ですよ」
「………いらしているのか?」
「今朝から休暇に入られたようで、ご滞在中かと。王妃殿下はいつもの通り、田舎の地には興味がないと王宮にお残りでいらっしゃいます」
ウェンの言葉に頭を抱えるようにしたアズハルは、ややあって諦めたように深いため息を吐き出した。
「イリリア、デートは父上に挨拶をしてからのようだ…」
「へ??」
突然の展開についていけないまま。
イリリアは、義父となる竜帝陛下との顔合わせイベントへ挑むこととなった。
▼
「はじめまして」の挨拶は正式な謁見の席で告げるため、今日は言わなくていいと注意される。
この場に居るのはあくまで『休暇中の竜帝』であるため、気楽に…いつもの座談会くらいの気持ちで居て構わないと言われ、「それは無理。」と心の中で素早く否定する。
あまり待たせる方が良くないだろうと、着くなり陛下の私室へ訪問の許可を貰いに行かされたラナーは、ガチガチに緊張した面持ちで戻ってきた。
せめて同伴者がラウダだったら…と思ってしまうのも致し方ないことだろう。
ラナーはまだ若く経験が浅い。アズハルが手早く用意してくれた文章を扉越しに読み上げて返事をもらってくるだけの行為でも、相手が竜帝陛下となれば泣きそうになるのも当然のこと。
「父にしては珍しく女官を伴っているようだ」
「このような場合は、目上のかたの侍女や女官が飲み物を用意してくださいますので、それを口にするのが礼儀となります。私は控えの間で待機しておりますから、体調にご不安などありましたらすぐにお声掛けください」
ルゥルゥに励まされ、アズハルと一緒に陛下の私室へと足を運ぶ。
廊下の果てにあるその部屋の前で、アズハルは何の気負いもなく扉をノックした。
「入ってよいぞ」
「ご挨拶に参りました。花嫁の同席をお許しいただけますでしょうか」
「許す」
アズハルに促されて入室し、深く頭を下げる。
はじめましても名前も言わなくていいという前提のため、なんと言うべきか悩んで無難に「失礼致します」と口にした。
アズハルから背中をポンポンとされ顔を上げると、そこには歳を重ねた美しい男性がいた。
目尻の皺は優しげで、藍色の瞳はアズハルのものより僅かに明るい。
白い髪は流すように緩く編まれ、大ぶりの金細工の髪留めでとめられている。
装飾品は控えめで服装も派手ではないものの、よく見れば細かな刺繍が細部にまで施されており、圧倒的に高貴な雰囲気を纏う男性が木製の椅子にゆったりと腰掛けていた。
「花嫁共々、座るといい」
卓の向かいを示されて、アズハルが座ってからイリリアも腰を下ろす。
どんな話をするんだろう…と緊張で胸が早鐘をうつ。
年配の女官がお茶を給仕し終えるのを待ってから、まずはとアズハルが口を開いた。
「………何してるんです、父上」
(え…!?)
入室の時はもう少し堅苦しい物言いだったのに、普通に話し始めたためびっくりしてしまう。向かいの竜帝陛下は、気にした様子もなく手元の湯呑みを掲げて見せた。
「見ての通り、実家で白湯を飲んで寛いでいる」
そこで普通に答えるんだ……と、出来るだけ気配を殺して親子の会話を見守る姿勢を取る。
けれども、陛下の目はあっさりとイリリアを捉えた。
藍色の瞳としっかり目が合ってしまい、見つめすぎて不敬にならないように、微笑みながら僅かに視線を下げていく。……と、湯呑みの隣に置かれたお皿に目が釘付けになった。
(……これは、月餅かしら)
すぐそばで展開される親子の会話をよそに、イリリアの意識はお茶うけとして置かれている、平べったいお饅頭のような月餅によく似た食べ物に集中してしまう。
リームのクッキーよりもバターが豊富に練り込まれているように見えるし、中にどのような餡が入っているのかと想像するだけで口の中が涎で満ちていく。
不思議と食欲大暴走な危機は起きないものの、どうしても話よりも月餅の方へと意識が持って行かれてしまう。
「お前が花嫁の順化に苦心していると聞いて様子を見に来たのもある」
「叔母上も同じくらい時間をかけていたでしょう」
「あちらは完全に花婿が好き勝手に振る舞ったせいだろう。それに、花嫁が大滝雲を越えたようだと聞いてからひと月あまり……ようやく知らせが届いたかと思えば、遠出がしたいから竜車を貸せという暢気な内容だ。『竜車に慣れるため』などとそれらしい理由は付いていたが、天上に居住する正式な許可を得る前に満喫しすぎるのはどうかと思うぞ」
「南の離宮からここまで来るのと、離宮から王宮へ向かうのは同じくらいの距離ですから、ここまでの移動で問題がなければ謁見の申請を出そうと思っていたのです」
「ヌーラの所のは、目覚めるなり亥の一番に竜帝に会わせろと騒いだというのに」
「叔母上のところの花婿とうちの花嫁を一緒にしないでください」
「うちの花嫁、なぁ……随分と我が物のように言うじゃないか。ところでその花嫁だが、お前が茶請けを食べないからずっと『待て』を食らっているぞ」
急に話題を振られたのが聞こえて、イリリアは月餅に釘付けだった目線を上げる。
少し意地悪そうな目をした陛下から微笑みかけられ、困ったように微笑み返す。
どうやらイリリアがお茶請けに夢中になっていることに気づかれていたようだ。
礼儀知らずな事をしてごめんなさいの気持ちを込めて隣のアズハルを見上げると、「確かにイリリアの好きそうな菓子だな」と苦笑された。
「……これはどこからどのように調達したものです?危険な薬草はもちろん、虫や爬虫類は入っていませんか?」
「疑いすぎだ。下層の獣人の作ったものだが、味は悪くない。
月の名を冠する菓子だというし、満ちた月にちなんで円満やら幸福やら何かと縁起の良い意味合いを持つと聞いたからわざわざ用意してやったというのに…。
心配なら食べてみるといい。お前も時々口にしていたから乳や卵は少量なら食べられるだろう?」
「父上は御召しにならないのですか?」
「待っているあいだにもう食べた」
マイペースな父親に対して小さくため息をついたアズハルが、竹のフォークで月餅を小さく切り出して口に入れる。
あまり好まないのなら無理して食べなくていいですよと言いたいが、陛下の用意してくれたお茶菓子を拒否していいのかもわからず、成り行きを見守ることしか出来ない。
味を探るようにして咀嚼したアズハルは、白湯で口の中を整えてから小さく頷いた。
「……中身は潰した豆と乾燥した果実の味ですね」
「獣人が作ったものだから人間が食べるものとは少し違うだろうがな。順化の途中で随分と苦しんだのだろう?天まで至った褒美があっても良かろうよ」
イリリアに向けた言葉だと理解し、その気遣いに「……有り難く頂戴します」と頭を下げる。
まだ陛下が優しい人なのか厳しい人なのか判断がつかず戸惑ってしまうが、とはいえ目の前にある月餅に罪はないし、普通に美味しそうだ。
アズハル様が『食べて構わない』という顔でこちらを見ていたら口にしようと決心して隣を向けば、小さな竹のフォークに刺された月餅が目の前に差し出された。
「イリリア、ほら」
「え……っ」
「どうした?」
「あの……ええと……」
竜帝陛下の前でさすがに「あーん」と食べさせてもらうわけにはいかないのでは…とオロオロしていたら、苦笑した陛下が「今は父として居るばかりだから気にせず口にしなさい」と助け舟を出してくれる。
失礼しますと断って、一口大に切られた目の前のお菓子を頬張る。
ほわりと広がるのは、牛乳とバターの香り。
生地は小麦粉とは違う少し大粒で舌触りのある粉で出来ており、控えめな甘さを纏っている。
生地の素朴さをカバーするように、豆と乾燥した果実を丁寧に練って作られた餡の甘味が追いかけてくる。
リームの作ってくれる薬草クッキーは栄養を盛り込みつつ苦味やえぐ味が出ないよう丁寧に味を整えたものだが、こちらは最初から嗜好品として作られている贅沢な代物だ。甘さが全く違う。
久しぶりの甘味に、目の前がキラキラと輝くようだ。
イリリアの表情から感動を読み取ったのか、アズハルは嬉しそうに目を細めた。
「うまいか?」
「はい…!おいしいです……それに、少しだけ懐かしい味がします」
「そうか…………此処に来た理由を父上に横取りされてしまったな」
ん?と首を捻り、そういえばアズハルはここに、イリリアが気に入るであろう美味しい草を食べさせに連れてきてくれたのだと思い出す。
草食デートをするより先に、草よりもずっとおいしくて故郷を思わせる食べ物を口にしてしまったものだから、少しだけ悲しく思ったのだろう。
「………これは私の故郷の味に近いですけど、ここで一緒に食べる約束をしたのはアズハル様の子どもの頃の思い出の味ですし、私にとっても思い入れのある草なので……楽しみなのは変わりないですよ?」
「そうか……」
噛み締めるように頷いてくれたアズハルに「デートしてくれます?」と尋ねれば「勿論だ」と微笑まれる。
「好きな味なら私のも食べるといい」と皿に残った月餅を全てくれようとするアズハルに、イリリアは自分の分をひとくち切り出してその口元へと差し出した。
「ん?これはイリリアの分だが……」
「幸福や円満の象徴なら、分け合ったほうがご利益がありそうなので、一緒に食べて欲しいなと…」
「ああ……では、もらおうか」
ひと口ずつとはいえ、お互いに食べさせあったのだからご利益は増し増しの筈だ。
本格的に月餅へ取り掛かる前に、一度フォークを置いて向かいの陛下に御礼を述べる。
「あの…素敵なお菓子をありがとうございます……お義父様?」
先ほど『父として居るばかりだ』と言っていたし、アズハルも『父上』と呼んでいる。だったら『お義父様』と呼ぶべきだろうかと思って口にしてみたものの、不敬にならないだろうかという気持ちのせいで語尾が疑問系になってしまった。
頬杖をついて興味深そうにこちらを見ていた陛下は、不意打ちを食らったかのように目を瞬かせたあと、面白そうに口角を上げた。
アズハルと全体的な雰囲気は似ているけれど、表情の作り方が違うため、そっくりだと言えるほどには似ていないような気がする。
「人間と聞いていたからどれほど欲深く恐ろしい者が来るかと思えば、牙のない小動物のようだなぁ……妹婿とは全く違う」
「だから、あの者と一緒にしないでください」
「まあそう言うな。異種族の花を得たという条件は同じだろう。
あちらは会うなり『俺の子が次の竜帝だ』などと言うものだから……妹の花婿でなければ雲下に投げ落とすところだった。
あとでヌーラが涙ながらに謝罪して来たから御咎めなしにしたが、つい最近まで全く態度を改める様子もなく……本当に苦労した」
竜帝陛下のしみじみとした言葉を聞きながら、イリリアは月餅に切れ目を入れる。
餡に練り込まれた果物は杏だろうか…ほのかな粘り気がしっとりとした生地に良く合う。
貴重なお菓子だから小さくひとくち分ずつ味わって食べなければ。
陛下とのお話がどのくらい長いのかはわからないけれど、まだ天上へ住むことを認められていない花嫁が親子の会話に割って入るのは無粋だろう。
口の中に広がるお菓子の甘味を噛み締めていると、陛下がちらりとこちらに視線を寄越した。
そこに宿る色は呆れだろうか……リヤーフから向けられるものに近い気がする。
「この短期間で、温厚なお前が何度も怒っては周囲の者たちに処罰を与えたと聞いたから、花嫁から悪影響を受けているのではと心配して見に来たが………杞憂だったようだな」
肩を竦められてしまったが、イリリアのせいでアズハルが周囲の者を見咎めているのは間違いではない。
ただ、花嫁であるイリリアが「あの侍女は気に入らないから辞めさせて」と我儘放題している姿を想像していたのなら、それは違う。
アズハルは「ちゃんとご報告申し上げたでしょう」と遺憾そうな様子だし、イリリアは月餅を味わうのに夢中だ。
何か悪巧みでもするのかと思えば本当に草を食べに来ただけか…と呆れ果てた陛下は「羨ましい……」と肩を落とした。
おや?と首を傾げると、隣でアズハルも苦笑を浮かべている。
「余もそういう…安穏とした交際を望んでいたのだがなぁ」
「王妃殿下は都会育ちでおられるから、草の多い土地を田舎と呼んで嫌っているんだ」
「一度でもいいから来てくれれば、王宮周辺では見られぬ絶景も見せてやれるというのに…」
「王宮でも月見や星見にはお付き合いくださるのでしょう?」
「まあな……だが最近は私よりも子や孫への愛が深いように見える。ファティナも子が生まれてからつれなくなったとアクラムも言っていたぞ」
お前のところはどうなるだろうなぁ……とこちらを見る竜帝陛下の目に探るような色を見つけて、真面目な話が始まりそうだぞと月餅用のフォークを一旦皿の端に置く。
陛下は、よく空気を読んだと言いたげに口角を上げ、アズハルとイリリアを見遣った。
「謁見を許可する前に聞いておこう。サーリヤからの問いに答えは出たか?」
「姉上から…?一体何の話を……」
「なんだ、アズハルには話していないのか。仲睦まじいと聞いたが案外信用されていないのだな」
陛下の棘のある言い方に、アズハルの機嫌が少しだけ下がる。陛下は「うちの末の子竜はわかりやすく顔に出る」と肩を竦めたあと、何の反応も示さないイリリアをジッと見据えた。
「だが其方のほうは……動揺を見せぬとなると、さすがの余でも異種族の思想まで読めるものではない。考えがあるのなら何か申してみよ」
先ほどまでの父親然とした態度から一変して、今は威厳ある様子で人間の花嫁を見定めている。
向かいからの厳しい視線と隣からの悩ましげな視線を受けながら、イリリアはゆっくりと口を開いた。
「……先日初めて、天上からの星を見たのです」
「初めて…?」
いつでも見れるだろうと言いたげな陛下に、アズハルが「霊峰の夜は人間には寒過ぎて酷なので、体調の良い朔の晩に、私の屋敷にある天窓から見たのです」と補足する。
「地上から見る夜空との違いに驚きました。星の数もそうですが、大きさも色も多彩で、目が眩むほどに綺麗で目映く……話そうと思っていたことをすっかり忘れて魅入ってしまいました」
「………。」
「あー……前日も無理して起きていたから、眠そうにしていたものな」
サーリヤからの話はとにかくデリケートな内容だったため、日常の会話に盛り込むというよりは何か特別な景色を見ながら話をした方が良いかと思っていたのだ。
星見の時にうっかり話すのを忘れてしまったから、ここの夕日を見ながらにしようかな……と思っていたのだが、それよりも先に陛下から結論を問われてしまった。
深く反省したイリリアが「ごめんなさい」と謝れば、アズハルは慌てて「ここでも星は見えるから、また改めて教えて欲しい」とフォローしてくれる。
陛下は完全に呆れ顔だが、イリリアが「そういうわけで全くお話し出来ていません」と頭を下げれば、お前たちがふたりとも鱗も生え揃わぬ子竜であることがよくわかったと苦笑を浮かべた。
「そこの子竜には一時的に星見の任を与えているから、また空を見ながら詳しく天相を読んでもらうといい」
どんなお仕事をしているのかと思えばお星様の観察係だったのね…とアズハルを見上げようとしたら、正面の陛下が「話は戻すが」と真面目な声音で言うものだから反射的に背筋を伸ばす。
「つまり、お前たちの間にナスリーンの魔の手を差し込みたくなければ子を作るなという話なのだが」
「父上!?」
「この前提がないと話は進まぬし、お前が無駄口を挟む余地はない。詳細はまたあとで嫁から聞けば良かろう」
王太子側の事情も聞いているか?と問われたため、素直に頷く。
陛下は「王家の抱える因習よなぁ……余もその被害者である」と呟いた。
前情報のないアズハルを置き去りにする形にはなるが、こうして対話できる機会は貴重だと思うため、今は聞きたいことを優先的に口にするべきだろう。
ただ、ナスリーンという女性の立場がわからないため、どのような人物かと聞けば、陛下は「それすら教えていないのか」とアズハルへ批難の目を向け、アズハルは申し訳なさそうに「母だ…」と口にした。
別に教えて貰っていないからとアズハルを責めるつもりはないため、了承の意味を込めて頷き陛下へ向き直る。
「天上を統治する竜帝陛下であっても、王家の因習を断ち切ることは出来ないのでしょうか」
「竜帝を継ぐ条件に『白き髪』という縛りがある以上、逃れられぬ定めなのだろう。でなければ血が途絶える。…というのは大仰に言い過ぎかもしれんが、過去に実際、竜帝以外に『白き髪』を持つ者がひとりしか居ないという事態に陥ったことがあり、滅びを恐れた者たちがこの慣習を作り上げたとされている」
「その時々の状況に応じて慣習を適用していくのでは、いけなかったのでしょうか」
「誰も彼も皆、自分の花を守りたい。となれば結局は泥試合よ」
苦々しくも無理やり口角を上げた竜帝陛下は、被害者である自分を慰めているかのようだ。
イリリアはサーリヤとふたりで話をしたとき、ふたつの情報を得た。
ひとつは、イリリアが子を産まなければ『花嫁とのあいだに子がない限り側女は持てない』という規則を盾に、アズハルの元へ女が送り込まれるのを防げるということ。
もうひとつは、王族に残る慣習により『次代を担う白き髪を持つ王族は最低ふたり以上必要』だ、と定められているということ。
今の陛下から見て『次代』にあたるのは、王妃との子であるアクラム、そして側女として送り込まれたナスリーンの産んだ、サーリヤとアズハルの三人が居る。
ただ、その次は王太子殿下の子がひとり居るばかり。
王太子妃であるファティナが竜人であり、ふたり以上の子を安全に産むのが難しいとされているからには、サーリヤかアズハルの元に子が生まれることが求められていた。
サーリヤにはまだ花婿は無く、アズハルは仇敵であれど多産と名高い人間の花嫁を得た。
当然ながら自分の花嫁に無理をさせたくない王太子は、アズハルとイリリアの間に子が出来ることを望んでいる。
だが、花嫁が子を産めば、アズハルを政治の道具にせんと目論む者たちによってこちらに竜人族の側女が送り込まれるのは不可避。
アズハルが子を生すことを拒み、サーリヤも独身を貫くとなれば、いずれ王太子が泥を被ることになる。花嫁であるファティナに無理をさせるか、あるいは側女を迎え入れ孕ませるか。
話のなかで状況に気づいたらしいアズハルが物凄く不愉快そうな顔をした。
竜帝はかつて今の王太子と同じ立場に立たされ、結果として花嫁を守ることを選び、ナスリーンという女性に慈悲を与えたという。
「余の花嫁は、アクラムを産んだ時に随分と危険な状態に陥った。私としては彼女以外に慈悲を与えたくは無かったが……あの気の強い花嫁から涙ながらに『もうひとり産むのは無理だ』と言われ、医者共から次を望めば命の危険もあると言われて、どうして強要できようか」
さらには妹ふたりも盾に取られたという。
ヌーラとリューダという現竜帝陛下の妹たちは、生まれた腹は違えど、互いに憎み合う関係ではなかった。
「サーリヤが生まれてすぐあの女は『もう一度慈悲を』と縋り付いてきた。もちろん跳ね除けたがな……その後、嫌悪する一族の女に五十年近くも縋られ続けた余の気持ちがわかるか?」
妹たちが花婿を得て子を生していればまだ状況は違ったが…その頃もまだ見つからず、悲嘆に暮れていたからな……と陛下は苦々しく笑う。
失意に暮れながらも希望を諦めきれない妹たちの元へ、強引に花婿の代わりとなる者が送り込まれようとするのを看過できなかった陛下は、いくつもの条件をつけて再びナスリーンへ慈悲を与え……結果、アズハルが生まれたという。
それはアズハルも知らない話だったのか、イリリアの隣から小さく息を呑む気配がした。
「父上が母上に与えた条件は、私を政治に関わらせないというものだけではなかったのですか…?」
「そんな生易しい条件で二度目の慈悲を与えるわけがなかろう。慣習に則ったとしても、子は最低ふたり居ればよい。アクラムとサーリヤが生まれた時点でそれは達せられた。それなのにまた行為に至るというのは、花嫁に対する裏切りに他ならぬ」
陛下の声は厳しく、少しだけ怒りを孕んでいるように聞こえた。
サーリヤが生まれた時点で、次代を担える子の数は最低限満たしている。慣習に従うためでもなく、政治的な駆け引きと我儘な願いのために最愛の花嫁を裏切るような真似をせざるを得なかった陛下の声は軋んで聞こえた。
ヌーラとリューダに今後一切干渉せぬこと。
行為は一度限り。
万が一子が生まれようとその子どもは政治に関わらせぬこと。
竜帝の子を産んだことでナスリーンを側妃と呼び浮き足立っていた者たちに、花嫁以外は妃を名乗ることは許さないと断じ、王宮への立ち入りも厳しく制限した。
「だがまさかたった一度で身籠るとはな……しかも一族悲願の男児ときた。孕んだのも産んだのも執念としか思えぬ」
自嘲するような陛下の物言いにアズハルは苦しそうな表情を浮かべたものの、陛下はそんなアズハルに小さな苦笑を向けるだけだった。
そこに恨みや憎しみの感情はなく、困ったものだと苦く笑うばかり。
「宿った玉に罪はない。病などで死なぬ限りは、守り育てる義務がある。ナスリーンやその一族の振る舞いには業腹だが、サーリヤやお前にまでその怨みを向けるつもりはない」
だがな…、と続けられた言葉には深い感情が込められていた。
「誰も彼も、根っこの考えは同じだ。余も、アクラムも。遡れば私の父とてそうだった。大事な花嫁に無理をさせ命の危険に晒すくらいならば、他の女を犠牲にすればいいと考える。
実際にリューダたちの母親は二度の出産に耐えられずに命を落としたし、ナスリーンもお前を産む時に死にかけていたが……あいつは皮肉にも生き残った」
「父上、」とアズハルが咎めるように言葉を挟んだ。
母親を擁護するためというよりも、イリリアにその言葉を聞かせたくなかったのだろう。
「……何故、そこまでして彼らは竜帝の座が欲しいのです」
「ん?ああ…お前は知らないか。あいつらが欲しいのは竜帝の座ではなく『竜王』の座だ」
「竜王?ならば別に、白き髪に拘らずとも…」
「これも慣習だな。竜帝が竜王を兼任して久しい…それに、竜王の座を途中譲渡する場合も次期竜帝や竜帝となる可能性のある王族に渡すのが殆どだ。
そして何より、竜王の座には男しか就けぬ。サーリヤが生まれたところであの一族にとって意味はなく、ゆえに再びの慈悲をと縋り付いて来たのだ」
あいつらは血で縛られる帝位に興味はない。ただ政治がしたくて堪らないだけだ…と言い捨てた陛下に、アズハルは続ける言葉なく押し黙った。
イリリアはゆっくりと竹のフォークを手にすると、月餅のひと切れを口に運ぶ。
難しい話を処理するためには糖分が必須であったし……サーリヤが苦々しく「私に花婿が居ないばかりに苦労をかけるな」と言っていたのを思い出したからだ。
竜帝陛下の妹たちにも強引な縁談話があったのなら、サーリヤにも無いとは言えない。
そんな中で、イリリアたちの事を思ってわざわざ忠告しに来てくれた彼女の強さと優しさに、改めて尊敬の念を抱く。
口の中を甘さで満たしてくれる月餅を飲み込み、白湯で後味を流す。
向かいでこちらの様子を見ている陛下へ、心のままに問いを投げた。
「私は、居ないほうが良かったのでしょうか」
隣のアズハルが驚愕の眼差しを向けてくる一方で、陛下は眉尻を下げて苦笑した。
「否定はできぬな。理不尽な者たちから哀れな子竜を匿ってやるためには、そうだったのだろう。正直、長く膠着状態であった盤面が、其方の登場で一気に動き出したように思える」
「父上!」と憤るアズハルの膝にそっと手を置く。
イリリアの気持ちを汲んで口を噤んではくれたが、代わりに膝上の手をぎゅっと握られた。
「それは私が人間だったから…ですか?」
「あいつらは執拗な血統主義者だからな…花嫁がどの種族でも結局は同じ状況に陥っていただろう。だが人間であることで、ハイファのようにアズハルの近くに身を置く者まで唆される事態になったことは確かだ。王宮内にも人間の花嫁を得たアズハルを憐れむ声は多い」
「王宮の者たちに何がわかるというのか……彼らはいつも余計な時にだけ口を出す。普段は私と関わり合いになるのを避けるくせに…。
それに兄上も、私が花嫁が見つかった事を報告したときに良い顔はなさらなかった。姉上の花婿であればという言葉を聞いていないとでも思っているのか。それでいてなぜ、こちらにばかり問題を押し付けようとするんだ…!」
珍しく言葉を荒げたアズハルは、感情が籠ったのかイリリアの手を強く握りしめた。
すぐに「すまない、痛かったな」と謝ってくれたため、大丈夫だと首を振り指を絡めるように握り直す。
陛下は「またあいつはお前の心を計るような事をしたのか」とため息を吐いた。
「まあ……アクラムも難しい立場にあると察してやれ。
万が一お前がナスリーンの派閥の女を迎えることになり、その女との間に男児が生まれた場合は大層面倒なことになる……王宮での暗殺騒動などしばらく起きていないが、自身の花嫁や子の安全を確保するためにもそれだけは避けたいのだろう。
サーリヤは中立だ。あの子は自分の花婿が見つからぬ限り、どの立場にも立てぬゆえ」
もはや不機嫌さを隠そうともしないアズハルは、夜色の瞳に静かな怒りをたたえ続けている。
「では、姉上を帝位につけて竜人族の男をあてがえばすべて解決するのでは?」
「お前は酷いことを考えるな……生涯唯ひとりしか子を生せぬかもしれんのに、最愛の花婿ではなく用意された道具との子を生せというのか?」
「結局のところ泥試合なのでしょう?誰かが犠牲になる」
ならばその犠牲が姉上であったとしても仕方がないと言うアズハルの手の甲を、空いている方の手でポンポンと叩く。
瞳に宿っていた静かな怒りはいつのまにか苦悩に変わっていた。
アズハルが本当にサーリヤを犠牲にしたいなどと思う筈がないのだ。ただ、守りたいもののために必死に足掻こうとしているだけ。
感情がぐちゃぐちゃになった時は、甘いものに限る。
落ち着いて…という意味を込めてアズハルの目の前に月餅を差し出す。
今は食べている時では…と狼狽えるアズハルに「あーん」と促せば、渋々小さく口が開かれた。
イリリアはアズハルが月餅を飲み込み終える前に陛下を見て、小さく首を傾げた。
「お義父様は、アズハル様の幸せを願いますか?」
「勿論だ。すべての子らの幸せを願っている」
それはなんと難しいことだろう。こんなにも誰も彼もが雁字搦めになっている状況で、皆が幸せになる道を見出すのは至難の業だ。
陛下も当然理解しており、まあ難しいだろうなと表情が物語っている。
「お義父様ではなく竜帝陛下にお尋ねしたく思います……私たちが苦境に立たされたとき、陛下に助力を願い出ることは許されますか?」
「願い出ることは構わん。だが、余が手出しできるのは『何かがあってから』だ。いくら血の繋がりのある息子のためとはいえ、憶測だけで動けるほど自由な身の上ではない……それをすれば余の花嫁に危険が及ぶし、今度こそ彼女から見放されることになる」
「では父上、離宮の警備強化をお許しください。そしてイリリアの近衛に付けれるような人材をお貸しいただきたい」
すかさず支援を求めるアズハルに、陛下は「お前のそういうところは素直で可愛く思う。アクラムであればプライドが邪魔してなかなか言えぬだろう」と苦笑した。
父親から可愛いと評価されたアズハルは渋い表情になったが、イリリアは可愛いですよねと心の中で深く頷く。
「結婚祝いの制度を使って余の近衛であるサディオをお前の元へ送る予定だ。
南は警備面で不足しているため支援してやれとアクラムにも話してある。サーリヤは北の者たちの目があるゆえ、流石に目立った支援は出来ぬが、嫌がらせという体で若く未熟な隊士を送ることだろう。うまく育て、相性が良ければゆくゆくは花嫁の近衛とすればいい」
陛下の言葉にアズハルは安堵と不安の混ざる微妙な顔をしたものの、有難うございますと頭を下げた。自分のために近衛を割いてくれるという陛下の心遣いにイリリアもぺこりと頭を下げる。
「サーリヤの抱える若い隊士達は中央出身の者も多く、あの子が指導したのか軒並み余への忠誠心が高い。ゆえに余がひとこと添えてやれば、お前達を邪魔立てすることはなかろう。ただ、まあ…せっかく送るのだから花嫁好みの者を選んでやろうとは言っていたが」
「は!?」と驚いたアズハルがこちらに視線を向けたが、好みと言われても思いつく要素があまりない。
「もしかして、お義姉様のような凛々しい女性でしょうか……」
「イリリア!?」
「隊士になれるのは男だけだ。屈強な侍女が欲しいなら検討してやってもいいが、近すぎるからアズハルが嫌がるだろう」
陛下から言われた『近すぎる』の意味がわからなくて首を傾げると、苦笑したアズハルから「外部からの者を、寝所にも出入り出来る侍女として置くのは少し抵抗がある」と言われ、慌てて首肯した。
「すみません、考えなしの発言をしてしまいました」
「いや……だが、そうか……やはり凛々しい女性が好きか……」
「一番はアズハル様ですよ?」
「二番目に姉上が居るのが許せない…」
見るからに落ち込んでしまったアズハルをどう宥めようかと困っていると、陛下が頬杖をつきながら「情けないなぁ」と呆れたように呟いた。
「そこはお前が突き抜けて一番になればいいだけの話だろう」
「父上だって子や孫に負けそうになっているくせに」
「む。子竜が一丁前に揚げ足をとるつもりか」
「揚げ鳥……」
「イリリア、蜘蛛だからな。揚げられているのは乾燥した大きい蜘蛛だ」
「ん?お前の花嫁は蜘蛛を食べるのか?」
「「食べません」」
カオスの様相を呈し始めた空間は、アズハルがイリリアの口に月餅を入れたことでひとまず落ち着いた。揚げ鳥への渇望は無事、甘味で上書きされる。
陛下は白湯を飲みながら静かな瞳でこちらを観察しているようだったが、何かしらの結論が出たのか「一番小さいお前がせっせと花嫁の世話を焼いている姿を見るのは不思議な心地だなぁ」と苦笑して湯呑みを置いた。
「お前が『白き髪』を持つ王族でありあの一族から目を付けられている以上、面倒事は付き纏うだろう。だが、謁見にて余がふたりの婚姻を許し、花嫁の天上への居住を認めれば、表立って否やと言える者はいなくなる。
五日後に時間をあけてやるから、それまでここで静かに過ごしなさい。人材が足りていない南の離宮よりは安全だろうからな」
さて……余は王妃への土産を摘んだら帰るとしよう、と立ち上がった陛下に倣って椅子から腰を上げる。お見送りはどのようにしたらいいのかしらと思っていると、テーブルを回り込んで来た陛下はアズハルの肩にポンと軽く手を置いた。
「もうすぐ夕刻になる。滝雲の近くに行くのなら誤って転げ落ちぬようにな」
「不意打ちで背中を押されない限りは大丈夫かと」
「周囲には常々気を配るといい」
見送りは不要だと言い残して扉へ向かうと思いきや、不意にパンパンと大きく手を叩いた。
奥にある待機室の扉が開き、最初にお茶を給仕してくれた女性が姿を現した。背筋の伸びた凛とした雰囲気の女性だ。
そちらを見たアズハルが小さく目礼したのが見えて、慌ててイリリアも頭を下げる。
扉側の陛下を見ればいいのか、奥に居る女性のほうを向けばいいのか。
ひとまずアズハルを見倣うしかないと注意深く状況を見ていると、扉の取っ手が回される音がした。どうやら陛下はこのまま退出なさるようだ。
「此処へ来たのは彼女を送り届ける為でもあった。おかげで昨夜は月を見ながら王妃から散々文句を聞かされたな……。彼女に追加の月餅を預けているから、褒美を受け取れるようよくよく学びなさい」
返事の代わりに深く頭を下げる。
扉は閉じられ、頭を上げると改めて奥の女性へと目を向ける。
あちらこちらと目まぐるしい状況に少し焦っていると、アズハルから慌てなくていいというように背中を撫でられ、促されるままに小さく深呼吸をした。
「ご挨拶申し上げても宜しいでしょうか?」という女性の言葉にアズハルが頷く。
「スハイルの娘でありルゥルゥの母親のシャイマで御座います。御目にかかれて嬉しく存じます」
「私の花嫁のイリリアだ」
「イリリアと申します、よろしくお願いします」
「アズハル様、そして花嫁たるイリリア様、先日は王宮女官が多大なるご無礼を働きましたこと、女官統括の立場にあった者として深くお詫び申し上げます」
「その謝罪を受け取ろう。同時に、其方のような優秀な者を迎え入れられることをとても嬉しく思う」
自分も何か言った方がいいのだろうかとアズハルを仰ぎ見れば、「女官の事で何か言いたいことはあるか?」と聞かれたため、ないと首を振る。
「では、『構いません』と返答するといい」
アズハルからは事前に、礼儀不足を恐れる必要はないと言われている。
誰かからそれを指摘されれば「王太子殿下ご指名の女官による教育の賜物です」と答えれば良いとも。なんとも皮肉めいた返答だが、そうして非を王太子に擦り付けることも、謝罪の場にて許可を捥ぎ取った賠償のひとつだという。
ただ、被害者面ができるのはここまでだろう。
この先の礼儀不足の指摘はシャイマの指導不足として受け取られることとなり、結果としてシャイマの元主人である竜帝陛下や王妃殿下の顔に泥を塗ることになりかねない。
娘さんであるルゥルゥにはいつもたくさんお世話になっていると伝えれば、シャイマは「娘を認めてくださりありがとうございます」と目元を和らげた。
「早速ですがアズハル様、この後のご予定はどのようになっておりますでしょうか」
「この後は…周辺を散歩しようにも日が落ち始めたからな……軽く食事や休息を取り、身支度を整えたあと夕焼けを見に行く予定だ。外で身体が冷えるだろうから、その後は身を清めたあとに就寝となるだろう」
星は見たいか?と聞かれたため、起きていられそうなら見たいと伝えておく。
すでに少しばかり眠気が来ているから、もしかすると夕焼けを見ているうちにコテンと眠ってしまうかもしれない。
以降の予定が詰まっていることを聞いたシャイマは、「では、行儀指導は明日より始めることと致しましょう」と頷きイリリアを見た。
「陛下との謁見は五日後……それまでに基本的な礼儀を身につけていただきます。お覚悟はよろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
「アズハル様にも僭越ながら指導をさせていただきます。守りたいものが出来たのであればこそ、王宮で戦う術を身につける必要がおありかと」
「その通りだ……お手柔らかにと言いたいところだが、どうか厳しく頼む」
シャイマに視線を向けられると不思議と背筋が伸びる心地だ。
その後、待機してくれていたルゥルゥとラナーを部屋に呼び寄せて顔合わせを済ませ、イリリアが着替えと小休憩を取っているあいだにアズハルの近衛たちにも紹介が済んだようだ。
シャイマは陛下との謁見が済んだ後は肩書き上イリリア付きの女官となる。頼もしい人材が増えてくれたことが嬉しくて、ついにこにこと笑顔が溢れてしまう。
「ルゥルゥのお母さん綺麗だった…ね?」
「とても凛とした美人さんだったね。これから母娘での仲の良い掛け合いが見れるのかな」
「母は公私をキッチリ分ける人なので、掛け合いのようなものは少ないかと……ただ、祖父が混ざると少し様相が変わるかもしれません」
となればアズハル様に頼んで、スハイルさんを交えた家族の時間を取ってもらうのが良いかもしれない。
楽しみだなぁと思いを馳せていると、安心できる面子に囲まれているからか強い眠気に襲われ、思わず大きな欠伸が出てしまった。
もう日が暮れ始め、そろそろ夕焼けデートへ向かう時間だというのに、慣れない移動と突然の陛下との面談での緊張が疲労として重くのしかかってくる。
思わずテーブルに伏してしまうと、ラナーがすかさず薄手の枕を差し込んでくれて、ルゥルゥが肩に毛布を掛けてくれる。その優しさに心が蕩けるようだ。
「もう少し時間がありますので、どうぞおやすみください」
その言葉に甘え、アズハル様が来たら起こして欲しいと告げて、しばらくのあいだ夢に身を浸した。
▼
「そういえばここは霊峰の南側ですけど、夕日は見えるのでしょうか」
毛布で包まれアズハルに抱っこされたイリリアは、太陽の動きを考えながら首を傾げた。
東側寄りの小屋から朝日が美しく見えたように、夕日を見るのであれば西側が良いだろう。
小休憩のお昼寝から目覚めたイリリアを、アズハルは寒くないよう防寒に防寒を重ねて厚手の毛布で包んだあとに抱き上げた。
ぐっと冷え込む外に出て、近衛のクルスムに足元を照らしてもらいながら迷いなく歩を進める。
「夕日そのものは見えないが、染まる雲なら見える」
「染まる…雲?」
「地上からの夕焼けは…もしかすると空が赤くなった状態を言うのかもしれないが、霊峰からの夕焼けは雲が赤く染まった状態を言う」
抱っこされたまま見上げる空はもう随分と暗い。
中天から覆い被さるように濃紺色で染まり始めており、淡い闇の中で月が白々と輪郭を強め、一番星さえキラリと輝いている。
夜だからとベールを外してもらっているが、吐く息は一瞬で凍り、吸う空気も鋭く刺さるように冷たい。
這うように生える蔦草の道を歩きながら、屋敷を出て五分くらい経ったところでアズハルが立ち止まった。
ゆっくりと降ろされ、ぐるぐる巻きだった毛布が少しだけ緩む。
灯りとなるランプを近くの岩場に置いた近衛は一礼して距離を取った。少し離れたところで待機してくれるらしい。
イリリアは眼下に広がる景色に、言葉もなく見入った。
ちょうど大滝雲の始まりに当たる場所なのだろう。
もうもうと湧くように集まる雲の上面は灰掛かった鈍色で、そこから流れ落ちるように下へ伸びる雲はことごとく朱に染まっている。
雲が揺れ動くたびに朱色が波打ち、まるで炎が揺れるかのよう。
少し遠くに視線をずらせば、空高くは濃紺の夜であるのに、下方へ行くほどに大気は赤く染まり、浮かぶ筋雲が夕焼け色に濃淡をつけて空気中に幾筋もの模様を描いている。
「西の夕焼けは雲の切れ間が黄金に見える時もあるようだが、東と南はただただ赤い」
赤いといっても、べったりと塗りたくった赤ではない。紅葉や真紅…あるいは人参や杏や熟れた柿を連想させるような多彩な色が、雲の揺れと共に混ざり合っては色を変え、雲下を染め上げている。
時折雲の陰から覗く暗澹とした赤黒さが、どこか不穏な気配を纏わせる。
幼少期のアズハルが地上は毎日燃えて生まれ変わっているのだと勘違いしていた…というのも頷ける話だ。
山頂から流れ落ちる滝雲は内側から燃え上がるように染まり…霊峰から下は見渡す限りに赤が広がる。その壮大さは地獄の業火をも連想させるほど。
言葉なく景色を見つめるイリリアに不安が募ったのか、アズハルがそっと毛布ごと腰を抱き寄せた。
「寒くないか」という声掛けにも無言で頷き返してしまうほど、あまりに圧倒的な光景すぎて言葉が出ない。
やがて向こうの空の濃紺が段々と下がり始めた。侵食するように夜が広がっていく。雲下はまだ赤いけれど、上空で瞬く星は着実に数を増やしている。
(夜の狭間……)
かつての自分であったなら、燃え盛る赤に飛び込みたい気持ちになっただろう。業火に焼かれ骨まで溶けるような高温に晒され、欠片ひとつ残さず消えてしまいたいと……そう、思ったかもしれない。
けれども今は、覆い被さるように降りてくる濃紺にこそ身を浸したいと思う。
(アズハル様の色だもの……)
空には幾許かの星が輝き、ふくよかな月が輪郭を強めている。
夕焼けは十五分ほどで終わりを迎えた。
ずっと無言でいたことを詫びなければ…とすっかり闇色に染まった滝雲から顔を上げると、アズハルは「戻ろう」とだけ告げてイリリアを抱え上げ歩き出した。
ランプを持った護衛が後ろから付いて来るのがちらりと見えたものの、アズハルの足元を照らすものはない。
どうしたのかしらとその顔を見上げても、瞳は行く先を見つめたまま。
やがて屋敷に迎え入れられ、待機してくれていたルゥルゥに手渡される。そのままラナーとふたり、すっかり冷えてしまった手足の末端を温めながら手早く身体を清めてくれる。
イリリアの表情が晴れないことに気付いたルゥルゥが寝支度を整えながら気を遣ってくれたが、明確な返答ができずに困るばかり。
「抱えられていて表情がよく見えなかったのですけど、戻ったときにアズハル様は怒っていましたか?」
「いいえ、いつも通りでいらっしゃいましたよ。少し足早に戻られましたし『温めてやってくれ』と言われただけですので、お花様の身体が思いがけず冷えてしまわれたのかと…」
心の変化ひとつであっても今のイリリアは簡単に体調を崩す。
心配そうなルゥルゥに、特に喧嘩をしたわけじゃないと言いながらも、夕焼けのあいだ殆ど言葉を交わさなかったことを白状した。
「あまりに圧倒的で思わず魅入ってしまって……ルゥルゥも夕焼けを見たことがありますか?」
「ええ、幼少期は祖父と一緒にこのお屋敷で過ごす日も多かったので、見たことがありますよ。その時はまだ幼く…大滝雲から下がすべて燃えていると勘違いしてしまい、怖くて泣いてしまった覚えがあります」
ルゥルゥの小さい頃を想像して、可愛いなぁと思いつつ、夕焼けが終わったあとに感想を言おうとしたら無言で抱っこされて屋敷に戻されたのだと告げる。
ルゥルゥは少し考えたあと、今は理由よりも『この後』のことを考えましょうと手を握ってくれる。
「共寝のお誘いは承諾してもよろしいですか?」
「大丈夫です。むしろお誘いがなかったら、アズハル様の機嫌を損ねてしまったんだと深く反省します……私から向こうのお部屋に突撃するのはいけないんですよね?」
「共寝伺いは基本的には男性からですが……ラウダが、お花様が枕を持って『淋しい』と伝えに行けば簡単に陥落するだろうと言っていましたよ」
「じゃあ、お誘いがなかった時はラウダの案を採用します」
「そうしましょう。お話の際は、おふたりにして大丈夫ですか?ご不安でしたらお側におりますよ」
今夜はルゥルゥが夜番として控えてくれる予定だ。
ひとまずふたりで話してみて、何か不穏な感じになったら声を掛けても良いかと尋ねると、いつでもどんな時でも構いませんと微笑んでくれる。
「アズハル様とは、言いたい事があるときはちゃんと喧嘩をしようって話をしたんです。ただ、お互いに喧嘩が得意ではないので、いつかラウダに極意を聞いてみようかと思っていたところで…」
「ラウダにですか?ではラナーでも良いかもしれませんね。よく叱られていますが、怯まず言い返していますので」
思わぬところに頼れる人物が居そうだと視界が開けたところで、寝所を整えに行っていたラナーが戻ってきた。
今宛てがわれている部屋の隣にも寝室はあるものの、寝台が広くないからとわざわざ別の部屋を用意してくれたらしい。
これ幸いと口喧嘩の仕方を聞いてみると、難しい顔をされてしまった。
「ラウダとは、思ったことを口にしていたら喧嘩になるだけだから……」
「そういえばラウダはラナーのお母さんの妹さんなんだよね?喧嘩してて、年の差とか気にならない?」
「あまり……叔母さんだけどお姉ちゃんに近いから…かも?」
聞けばラウダは、僅かな差ではあるものの実姉であるラナーの母親よりもラナーとの方が年が近いそうで、叔母・姪の関係とはいえ、ふたりは姉妹のように育ってきたという。
そもそも同母の兄弟が居ること自体が珍しいのだが、二人目を授かるまでに百年以上かかることも多いため兄弟姉妹のあいだで年齢差が大きいのは一般的なことらしい。
人間の常識を遥かに超える年数での出来事をどうにか事実として飲み込みながら、本題である喧嘩のあとの仲直りの仕方について聞く。
するとラナーは余計困ったように「次に顔を合わせた時には普通になってる…」と眉を下げた。
「言いたいことを言ってスッキリする感じ?」と問えばうんうん頷かれたため、なかなか難しそうだけどやってみるしかないと気合いを入れる。
拗れてしまったら……反省して思いっきり血反吐を吐けばいいだけだ。
でも出来るだけ穏便に終わらせたいから、最終奥義も考えておくとしよう。
(前みたいにアズハル様が怒って部屋から出て行ってしまったら、上の服を脱ぎながら追い回せば、花印が晒される前に止まってくれるはず…!)
素早く逃げられたら全力で「脱ぎまーす!」と宣言して潔く廊下で上衣を脱ぎ捨てよう。たとえ痴女と呼ばれようとも、花印を餌に呼び寄せるのが一番効果的なのは間違いない。
よし、と今からの方針が固まったところで、枕を持ったアズハルが登場した。
とりあえず共寝はしてくれるようだと胸を撫でる。
寝室へ移動しようかと言われたものの、一旦部屋にお招きして椅子に座ってもらい、イリリアも向かいの椅子に腰を下ろした。
「問題ないか?」
「大丈夫です。でも、共寝の前に、喧嘩をしようかと思っていて」
「ん?喧嘩?……夕焼けが気に入らなかったか?それともやはり、父上との遣り取りで不快に思うことがあっただろうか」
「へ??」
首を傾げられ、思わず素っ頓狂な声が出る。
息を殺して成り行きを見守っていたルゥルゥたちも、アズハルの様子に不思議そうに顔を見合わせている。
事態が掴めないからか、どんな不愉快なことがあったのかとイリリアの意見を全面的に聞く姿勢で待っているアズハルに、おそるおそる「怒ってませんか?」と尋ねた。
「怒る?いいや、全く……心配はしたが」
「心配?」
双方で首を傾げ合う状況に、とりあえず一から整理しようと言葉を並べる。
夕焼けに魅入ってしまいつい無言になってしまったことを詫び、終わってすぐに抱えられて連れ戻されたためアズハルの気分を害してしまったのではないかと心配になったことを伝えれば、ようやく状況を理解したアズハルは眉を下げて苦笑した。
「夕焼けを見ているあいだに顔が蒼白になっていた…気付いてなかったか?」
「え!?全然……寒いとかも感じなくて…」
「感じていなかったのか。何度も寒くないかと聞いたが、首を横に振りながら、もう少し、終わるまでと言うから待ったが……滝雲が宵闇に染まった途端、いよいよ血を失ったかのように真っ白になったものだから慌てて屋敷へ連れ帰ったんだ」
随分と冷えていただろう?と、アズハルの確認がルゥルゥに向く。
ルゥルゥは頷きながらも「手足の末端はとても冷えていらっしゃいましたが、体は震えてはおられなかったので本当にお気づきでなかったのだと思います」と答えた。
どうやら、知らない間に体温が下がり過ぎていたようだ。
「宵の入りとはいえ外に出るのはまだ早かったかもしれないな」と言われ、面目なさに眉が下がってしまう。
「繋がりが深まれば寒さにも強くなる筈だ。今はもう少し安全な方法で景色を楽しめばいい」
立ち上がって差し伸べてくれたアズハルの手に、手のひらを重ねる。
「他に言いたいことや聞きたいことはあるか?」と尋ねられたため首を横に振る。
誤解してしまったことを詫びれば、焦っていたから運んでいるあいだに気遣う余裕がなかったことを謝られた。
「問題なければラナーは今日の務めは終わりだ、ゆっくり休んでくれ。ルゥルゥは寝所まで枕を運んでくれるか?イリリアは…」
「寝室まで手を繋いで歩きたいです」
「そうしよう…廊下の端の部屋だから、歩き疲れたら教えてくれ」
そう言ってアズハルが導いてくれたのは、大きな天窓から満点の星が見える部屋だった。
中央に置かれた大きな寝台に寝転がれば、眠る直前まで星が楽しめる贅沢な部屋。
天体観測が趣味だったという現竜帝の父親が使っていた部屋らしく、夜更かしして星を観察した翌朝はたっぷり朝寝坊できるよう、朝の遅い時間まで日が差し込みにくくなっている。
王族らしい贅沢さだと思う一方で、自由気儘に星を眺めていたであろうアズハルのご先祖様を思ってくすりと笑ってしまう。
「現竜帝のお父様ならアズハル様のお祖父様ということですよね?」
「そうだな…お会いした事がないからお人柄は知らないが、父上が言うにはのんびりと穏やかな人だったと聞く」
先帝の叔父という立場であったが、政治に余計な口出しはせず、南側を束ねながらただ穏やかに過ごしたという。
そのような人物でも、先帝の花嫁が子を成さずに自死したことで、晩年になって随分と翻弄されたそうだ。
ここ数年は特に王家は悲しみの連鎖の中に居るな…というアズハルの言葉をしんみりとした気持ちで聞く。
五日後には陛下との謁見があり、王宮へ出向くからには王太子殿下にも挨拶をするのだろう。
それまでに自分たちの置かれた立場を見つめ直し、この先どうするつもりなのか、心を決めておく必要がある。そして結論次第では、王太子殿下と袂を分かつことになる。
かつてアズハルは、お兄さんとの関係は悪くないとは言っていたが、良好であるとも言っていなかった。昼間のやり取りを振り返れば、アズハルはこれまでに何度も試されるような事をされてきたのだろう。
イリリアの脳裏には、サーリヤのように「好かぬ!」と堂々と言う潔い人ではなく、明確に引かれた線の向こうからお前はこちらに立ち入るなよと睨みをきかせているような…そんな策略家な人物像が浮かぶ。
空に煌めく星たちもいつもよりも複雑な色をしている気がする。
地上から見る星はもっと単純で単調で……
「イリリア」と呼ばれたため声の方を振り向けば、目元にそっと口付けが落ちた。
アズハルの瞳に贖罪の影がよぎった気がして、イリリアはそれを否定するように小さく首を横に振った。
普通の女性であれば、ここに至るまでに今の王家やアズハルの抱える複雑な事情について説明されなかった事に対して腹を立てたかもしれない。そしてそのような厄介な場所へ行くのは御免だと、天上へ至ることすら拒絶していた可能性もある。
(むしろそうならないよう、口を噤んでいたようにも思えるわ…)
相手に誠実さを求めるのならば責めるべきだろう。むしろ今こそ、アズハルはイリリアからの手酷い責め句を望んでいるのかもしれない。
確かに複雑すぎてちょっと面倒だなぁと思う気持ちはあれど、なぜ教えてくれなかったのと憤るような気持ちはない。
なるようにしかならないのであれば、せめて少しでも、こちらの望みが反映される形になればと思うばかりだ。
(せめてアズハル様が悲しくないように……)
温かな布団にふたりで包まり、寒くないようぴたりと身を寄せたまま満天の空を見る。
朝日を見ようという約束は残念ながら先延ばしとなってしまったため、明日は存分に朝寝坊しても構わない。
あまりにも荘厳だった夕焼けのことや、今まさに目の前に広がっている絢爛な星空のこと…話すことは色々あるはずなのに言葉が纏まらないイリリアへ、アズハルは静かに問いかけた。
「………もしも私が天上から追放されるとしたら、どうする?」
あまりに脈絡のない問いかけに、少しだけびっくりしてしまう。
「追放されるんですか?」
「……場合によってはな」
「一緒に連れて行ってくれないんですか?」
「付いてきてくれるのは嬉しいが、行き先が思いつかなくて困っている」
「ひとまず……ルトフさんの家の離れを占拠しましょうか」
「ツノを折られるだけなら中腹に留まれるが…逆鱗まで剥がされたら下層まで下りる必要があるからなぁ…」
「………飛べなくなるんです?」
「そうだな……風を掴めなくなるから飛翔も難しい。逆鱗を失うと寿命が減るというし、そもそも中腹以下には霊草が生えないからな……どう生きたものか」
淡々と口にしているものの、その言葉のすべてに、実際に起こりうる可能性が含まれているのだろう。けれど、うまく想像できていないせいか、輪郭がなくふわふわとしている。
イリリアは子どもの空想を聞くような心地で「うーん」と頭を捻った。
不思議と眠気は訪れることなく、視界には無数の星が広がり続けている。
「ツノは折られるとして…肌の鱗は隠しておけるのでしょうか」
「心身が衰弱すると隠しておけなくなる」
「隠れ蓑生活ですね………でも、肌に鱗があってもアズハル様の美麗さがあれば、地上にあるその辺の国のお貴族様やお姫様をたぶらかす事ができそうな気がします」
「絶対に嫌だ。花嫁以外に触れたくない」
「八方塞がり……。おにく…は当然のこと、爬虫類とか昆虫も食べないから、完全に野草生活になりそうですよね……野草って、美味しくないんですよ。全然お腹にたまらないし、そもそもどれが食べられる草なのかよくわからないし…虫ついてるし」
実体験から、食の乏しい環境下で隠れながら生きることがどれだけ難しいかを知っている。それこそ、どちらかが身売りでもしなければ待っているのは終わりだけだろう。
でもイリリアはアズハルを犠牲にして生き延びたいとは思っていないし、逆もまた然り。
となれば、ふたりで破滅へ向かうしかない。
そんな未来を思い描いても、イリリアは不思議と暗い気持ちにはならなかった。
一番恐ろしいことはアズハルを失ってひとりで生きることだ。一緒に居られるのなら何だって構わないとさえ思えてしまう。
天窓からアズハルへと視線をうつす。こちらを真剣に見つめる瞳は星空の青藍に重なり、やはりとても美しい。
「いいですよ……アズハル様と一緒なら、野草生活でも大丈夫」
その言葉に、アズハルが抱いたのは安堵だろうか。それとも悲しみだろうか。
細やかな表情を読み取るべく、添わせた身をそっと近づける。
アズハルは小さく眉を下げながら微笑んで、ありがとうと呟いた気がした。
「野草生活か……私は一生、イリリアの花を食むだけでも構わない気持ちだ」
「…………ハレンチ」
「ん!?……破廉恥だろうか?」
「だって……花は胸にあるのに」
「いや、背中の花でいいのだが」
「ずっと胸に吸い付いていたいだなんて、サーリヤ様の言っていた通り甘えん坊さんなんですね」
「いや、背中で……姉上がなんて?」
「アズハル様のことを甘えん坊で泣き虫だと仰るので、それなら私の花印付きの胸で存分に甘やかしますとお話ししたんです」
「報告してもらった時に、そんな話をしたなんて言ってなかっただろう?…それに、今は別に、甘えん坊でも泣き虫でもない」
姉上と一体何の話をしているんだと少しむくれた様子のアズハルに、じゃあ要りませんか?とふくよかな胸に手を当てながら聞けば、小さな小さな声で「…………要る」と返される。
可愛さで堪らなくなって、びょいんと弾むように抱きついてアズハルの目尻に唇を押し付けた。
少しばかり拗ねたような表情をしていたが、お返しとばかりに、腰をぐっと抱き寄せられて額に一瞬だけ口付けが落とされる。
それもまた嬉しくて顎先と首筋へ順に唇を寄せれば、降参だとばかりに小声で名を呼ばれた。
「んふふ……それで、どうして追放されるんですか?」
「………もしも、私の元に花嫁以外の女性が送り込まれたときは……ツノを捥いで逆鱗を剥がして、雲下に落としてしまおうかと思ってな…」
思いがけない過激な発言にその顔を伺えば、軽く微笑んではいるものの、その目はどこまでも真っ直ぐにイリリアを見ていた。
天上の竜は須く竜帝のもの。
徒に数を減らすことは許されず、ツノを折るという重罰は竜帝や竜王の裁可なしに課せられるものではない。個人の感情に任せてそのような事をすれば、たとえ王族であろうと罰を免れない。
それでも花嫁以外は嫌なのだと、アズハルの真摯で物悲しい表情が語っている。
誠実さを示してくれることが嬉しくて……でも、きっと無理しているんだろうなぁと思いながら、イリリアは微笑み返す。
「アズハル様とサーリヤ様ってやっぱりご姉弟なんですね」
「ん?」
「同じことを言っていましたよ。花を悲しませる者が居たらツノをへし折って雲下に蹴り落とすって」
「………そうか………姉上と同じ思考回路なのか……」
相当ショックを受けた様子のアズハルに我慢が出来ずに笑ってしまう。
「叔母様の花婿さんを池に叩き落としたら離宮への出入りを禁じられたそうです」と付け加えると、あの人は何をやっているんだ…とすっかり項垂れてしまった。
そんなアズハルを横目に、服の上から確かめるように花印へ触れる。
アズハルはいつも、ここに触れるとこの上なく幸福な気持ちになると言う。
だからいつでも何度でも、触れて欲しくて堪らない。
私が貴方を幸せに出来ているという事が、嬉しくて堪らないから。
「アズハル様がそれだけの覚悟を決めてくれているのなら、私も覚悟を決めるべきですよね…」
「……覚悟?」
ハッとしたように「イリリアは何も罪を被らなくていい」と言うアズハルに、一蓮托生ですからと首を振る。
「もしもアズハル様の寵を求める女性が来たら、アズハル様がその人のツノを折ってしまう前に、私が実家でされてきたことを全部やってやろうと思います」
「う、む………それは……なかなか、じゃないか?」
頬を引き攣らせたアズハルに、にこり…と微笑み返す。
ひとりでは難しそうな事はラウダ達にも手伝ってもらうことになる。場合によっては彼女たちからの信頼を失ってしまうだろうけど、それでも相手の心をヘシ折る為には頑張るしかない。
最終目標は生まれてきた事を後悔させることだと決意表明すれば、むぎゅっと抱き寄せられ、やめようと真剣に止められたため、その覚悟はひとまず仕舞っておくことにした。
視界の端でさらさらと流れる白い髪を目で追いかける。
今日の陛下との話の中で何度も『白き髪』という言葉が出てきた。
歴史書の中では、最初に滝雲を遡り天上に至ったのが白い鱗と髪を持つ竜人であったとされ、その人物こそが竜帝という地位を得た。以降代々、竜帝の地位には白き鱗と髪を持つ者が就き、その歴史は千年単位で続いている。
長い歴史の中で紡がれた仕組みや慣習を変えようと突然言ったところで…反発は大きく、なかなか同意は得られないだろう。
アズハルは一体いつから、王家の慣習と自分の立場で板挟みになりながら頭を悩ませて来たのだろう。イリリアという異種族の花嫁を得た時からか…あるいはもっと前からか。
ぐるぐると考え過ぎた頭を冷やすために、一度起き上がって白湯を飲み、ふぅと息を吐く。
体調が思わしくないと思ったのか、身を起こして心配そうにこちらを見ているアズハルにも湯呑みを手渡した。
まだ眠気は来ていないし体調も悪くない。
もう少しだけ星を見たいと告げれば、無理はしないようにと、もう何度目かになる気遣いの言葉をくれる。
「アズハル様は星見の王子様なんですか?」
そういえばと、昼間の陛下の言葉を思い出しながら聞けば、各所に居る星見たちの取り纏め役のようなものだな…と苦笑された。
「一応天の相を読むことは出来るし、空で大きな変化がある時は立ち会うが、基本的には報告書を読んで吉兆の巡りについて陛下にお伝えするくらいだ」
「大きな変化?」
「星が大きく近づく時や、流星群の時だな」
「流星群…!」
幼い頃に一度、夜更けの空に星が多く流れるという噂を聞いたことがあった。
たくさんの流れ星に願いをかければきっと惨めな自分も幸せになれると思って必死で起きていたのに、結局見ることは叶わず…諦めと共に眠った覚えがある。
小規模なものでよければ毎年冬の頃に見えると言われて思わず期待してしまったが、職務として立ち会うと言っていたからには一緒に見るのは難しいだろう。
そもそも宵の入りの寒さにすら耐えられなかった自分が、外で流星群を見るなんて無謀すぎる。
湯呑みを置いて寝台へ戻ったあと、布団に入らずシーツの上に座ったイリリアの肩にアズハルが羽織を掛けてくれる。
見上げた星は相変わらずキラキラと美しく、天いっぱいに広がっている。
地上にも星の物語はたくさんあったけれど、イリリアはあまり詳しく覚えていない。
天窓から見える星の中で一番強く瞬いている星と色味の強い星を指差して、どんな星なのかと問いかければ、アズハルは低くゆったりとした声で星の名前や配置を説明してくれた。
星の数が多いから、目で追うのがなかなか大変だ。
「星の並びや月の満ち欠け、蝕や流星といった空の動きを総じて『天相』という。竜人族は古くからこの天相をもとに吉兆を占い、儀式や祭事をおこなうのだが……私が生まれた時の天相は最悪だったらしい」
「最悪……」
「白き髪でなければ忌み子として目が開く前に川に流され雲下へ落とされていただろうと……だからこそ、王宮に住まうことは許されなかったし、天の相を読んで慎重に行動しろと空の見方を教え込まれた」
天窓を見つめるアズハルの瞳は夜の空そのもので、たとえ天相が良い日に生まれていたとしても、その目は星を見上げるのに相応しかっただろうなと思う。
「私たちの儀式の日取りも、アズハル様が選んでくれるんですか?」
「そうだな…そちらは星の配置よりも月の満ち欠けの要素が大きいが……次の次に巡り来る満月の夜に、儀式をおこないたいと申請している」
思いがけず結婚式まであまり日がないと知り、びっくりしてしまう。
明日が次の満月だから、その次の満月が儀式だと考えれば、実質残り一ヶ月だ。
(だから陛下も、デートする前に謁見に来いと言いに来たのかしら…)
体調を整えるのが優先だと急かさないでいてくれたのは嬉しいけれど、急すぎてまだ心の準備が出来ていない。
隣から困ったように見つめられていることに気付き、驚いたけど嫌ではないしむしろ嬉しいと伝えれば、そうじゃなくてな…とアズハルは申し訳なさそうに口を開いた。
「もし、姉上や父上が伝えなければ……すべてを隠したまま、婚礼の儀式を執り行うつもりでいた」
昼間に聞いた、王家や彼の抱える事情のことだと理解し、頷き返す。
アズハルはくしゃりと表情を歪めると「すまない…」と苦しげに吐露した。
アズハルの母親は北側に居を構える古い一族で、遡れば初代竜王の血筋にあたるとも言われている。
白き髪を持つ竜帝と対照的な黒き髪を持つ一族は、竜帝と表立って対立することはないものの、霊峰における政治的な覇権を手にすることを望み続けている。
そんな北の一族と竜帝との間に生まれたサーリヤは陛下に忠誠を誓い、一族への抑止力として北の地を任されており、陛下からの支援を受けつつ中央出身者や北の若い世代を中心に自身の地盤を固めている。
姉であるサーリヤが居る限りアズハルはいつまでも三番手でしかない……アズハルこそを擁立したい一派はまず、王宮で守られる王太子よりも先に、自分たちに近い場所に居るサーリヤを狙うだろう。
だが、万が一にもサーリヤに危害を加えれば、北の一族は厳しい粛清の対象となることが誓約されているという。
「竜帝、正妃、兄上とその子ども、姉上……彼らの誰かひとりにでも危害を加えた場合、北の一族は竜帝との誓いを破ったものとして粛清の対象となる」
そこにアズハル様は入っていないのね…と思っていると、こちらの心を読んだかのように「私は真っ先に殺される側だ」と苦く笑う。
「私を処理してしまえば、彼らの野望は白紙に戻るからな」
兄上や姉上の為にも自分は生きていない方がいいと何度も思ったけれど、結局自分で自分を終わらせる決心もつかないまま生きて来てしまった……というアズハルを、自死を決意したことのあるイリリアがそっと抱きしめる。
生きることを諦めたからこそ奇跡に見舞われたイリリアとは違い、アズハルの死はきっと、多くの人に悲しみしか与えなかっただろう。
「アズハル様が死んでしまっていたら、私の胸には花が咲かなかった」
「……花を見るたび、イリリアのぬくもりを感じるたび、生きていて良かったと思う。同時に……この先の私の人生に巻き込んでしまうことを申し訳なく思う」
それでも手放すことが出来ないと苦しげに口にしたアズハルの頬に、イリリアはそっと口付けを落とした。
竜人族にとって花嫁や花婿がどのような存在なのか、多少なりと知っているつもりだ。
逆にこちらにどんな瑕疵があろうと決して手放されることはないと分かっているからこそ、イリリアはここまで踏ん張って来れたのだ。
「大好きですよ…」と囁いて、苦悩に満ちた瞳を至近距離で覗き込む。
「……ちなみに、今の時点で、竜帝の統治を邪魔しているとか何とか理由を付けて、北の一族を皆ごろし……ええと、厳しく粛清することはできないんですか?」
こてんと首を傾げたイリリアに、アズハルは驚愕に目を見開いてみせた。
(こんなに目をまん丸にしたのは久しぶりに見たわ……)
初めて共寝をしようとした夜に、勢いよく服を剥いた時以来だろうか。
それに、目が治った時に素肌へ口付けた時にも見た気がする。
溢れ落ちんばかりに目を丸くしたアズハルは「……久しぶりにイリリアのことを人間だと感じたな…」と圧倒されたかのように呟く。
「人間ではなく体力のないナマケモノだと思っていました?」
「いや、そうではなく倫理観として………そうか、人間の価値観では、邪魔者を生かし続けるのは不思議に思えるのか」
古い一族だろうと、代々困らされているのであれば、いっそ思い切りよく排除してしまえばいい。竜帝は天上で絶対的な存在なのだからそのくらい容易いだろうと思ってしまう。
けれども竜人族に根付く思想や社会的な規則のもとでは、重い違反行為をしなければいかに竜帝であれど処断には踏み切れないという。
ましてや一族全体を排除するにはそれなりの理由や前提が必要で、中途半端に手出しをした方が付け入る隙を与えて面倒なことになりかねない。
そのため、破れば最たる罪として問う事のできる『誓い』を立てさせ、幾重にも牽制しながら留め置かれているそうだ。
だから陛下は『何かがあったとき』にしか動けないと言ったのか。
納得するイリリアに、アズハルは「私を含め、北の一族は用意された枠からはみ出ることは許されていない」と、まるで自分が王族ではなく北の一族として扱われているかのように口にした。
幾度も耳にした『不遇』という二文字が輪郭を帯びる。
「今日の面会も、私が花嫁を得て浮かれていることに気付いて釘を刺しに来たのだろう。父上も兄上も、助言や提案をするように見せて、ただただ現実を突きつけてくる…」
打ちひしがれたように項垂れてしまったアズハルの頭をイリリアはそっと撫でた。
「でもお義父さまは、アズハル様の幸せも願っていると言いましたよ?」
「それは……どこまで本気なのだろうな。うまく信じきれない」
「じゃあひとまず、謁見の日取りを早急に手配してくれるくらいには大事にしてもらっていると思いましょう。意地悪なお父さんならきっと、儀式直前まで許可してくれないはずですから」
イリリアの言葉にのろのろと顔を上げたアズハルへ、出来るだけいつも通りの調子で言葉を重ねる。
「夫婦円満のお菓子も持ってきてくれましたし、デートの為の竜車も貸してくれました」
「……。」
「身の回りに気をつけろと注意を促してくれて、お兄ちゃんも難しい立場にあるんだからあんまり喧嘩するなよと諌めてくれて、それから………花嫁が酷いやつじゃないかなって心配してわざわざ見に来てくれた」
「イリリアは酷くない」
拗ねたような言葉に、思わず笑みが浮かんでしまう。
「アズハル様を困らせる奴らは全員さっさと居なくなればいいのにと思っているのに?」
「………価値観の違いだから仕方ない」
「んふふ……そうですね。私は人間なので、酷いんです」
酷くない、と重ねて言おうとした唇に人差し指をあてて言葉を止める。
「酷い人間だし、正直なところ……竜人族の小難しい事情はよくわからない。
アズハル様も知っての通り、私は半年くらい前に絶望の末に自死したばかりなので、未来についてあれこれ言われてもまだあまり現実味がないんです。
複雑で大変だなぁとは思うけど、子を産むか産まないかと選択を迫られたところで、そもそも身籠るかもわからなかれば、こんな脆弱な身体で無事に産める保証もない」
アズハルが何かを言いかけて、ぐっと言葉を飲んだのがわかった。
代わりに告げられた「…すまない」という言葉に「こちらこそ」と苦笑しておく。
「無事に天上へ来れたから、もうゴールした気分になっていました」
どうやら試練はまだまだ続くらしい。
けれどもひとまずは、婚礼の儀式を終えて遠慮なく口付けが出来るようになる事を到達目標としても良いだろうか。
それ以上先の事を言われても、まるで雲を掴むかのようで、どうにも自分事とは思えない。
アズハルに手を貸して欲しいとお願いすれば、神妙な顔つきで両方の手を差し出してくれる。
いつも自分を抱えて、支えてくれる手。
そのふたつの手のひらで、自身の左右の頬を挟みこむ。
じわりと皮膚から染み込んでくる優しい熱に体温を重ねる。
親指で目元をそっとなぞられ、擽ったさに小さく肩を竦めた。
「難しいことも未来の事もよくわからないから、せめてアズハル様が悲しくない結果になればいいなって思います」
出来るだけ悲しませたくないし、幸せになって欲しい。
「陛下やお兄さんに何を言われても、アズハル様の運命は今、私の花がぎゅっと抱え込んで守っていますから。この先どんな事があっても全部受け止めるので、後悔しない道を選んでください」
望むままで良いんですよ、と言えば、
そんな事を言ってもらえたのは初めてだと濃紺の瞳が美しく潤む。
「こんなにも危うい立場に居て、自分の願いを優先するなどあってはならないと思っていた……だが、イリリアが許してくれるというのなら、望んでもいいだろうか…」
両親と共に暮らし、妻子に恵まれた兄上がずっと羨ましかったと目を伏せたアズハルの表情に、いつか自分が諦めた家族への憧憬が蘇る。
兄たちが父や母を呼ぶ声…それに応える、慈しみ溢れる声。
無条件に与えられる愛を知らないからこそ、それに強く憧れてしまう。
「すべての儀式をつつがなく済ませて……いつかカタチになるものが来てくれたなら、守り、育てたいと思う」
「じゃあ、たくさんキスをして、たくさん愛し合って…たくさん紡いで残しましょうか。いい加減にしろって陛下とお兄さんから叱られるくらいに」
「そうしようか……だが、イリリアの身体が一番だから、そこだけは譲るつもりはない」
拠点に居た女官らは獣人や人間は多産であると軽んじていたが、それでも命を紡ぐ行為に危険を伴わないはずもない。
ようやく得た花嫁を決して喪いたくはないと、祈るように告げるアズハルの目元に唇を寄せ、時間をかけてゆっくり紡いでいこうという言葉に同意を示す。
歩むのが茨の道だとしても、その果てにあるのが惨めな野草生活だとしても、大切なのは、誰と共に歩み、生きていくのかということ。
(ひとりぼっちはもう嫌だけど、アズハル様と一緒なら、悲しくない)
「お星様に願いをかけますか?」
「なんと願おうか……どうか末長く、共に幸せで在れるように」
「幸せになれますように」
手を繋いだまま寝転がって、満天の星に願いをかける。
窓の端に見える月は白々と冴えて、希望で満ちる日を今か今かと待っている。
「そういえば…寝相のことはもう願わなくていいのか?」と聞かれたため、安全ベルトが手に入ったから今はいいと答えておく。
カモシカ族の集落にいた頃に全力でかけたお願いの事を、どうやらリヤーフ経由で聞いたらしい。
そんな事まで報告していたとは。有能な監視員に垂れ流してしまった自分の迂闊さを呪うばかりだ。
「代わりに、安全ベルトなしで眠るとベッドから落ちるので責任重大ですよ」
「困ったな…共寝を断られてしまった時はどうすればいいだろうか」
「その時は自己責任で落ちます」
基本的に断らない方向性だが、時には落ちて反省するのも良いかもしれない。
身を寄せて天窓からの壮大な景色を見上げながら、竜人族に伝わる星の伝説や地上にあった星の物語を語り合い、どちらからともなく眠りにつく。
手を繋いで寝たはずなのに、朝起きたときに寝乱れた胸元に白い頭が埋まっているのを見て嬉しくなったのは言うまでもない。
アズハルは「寝惚けたイリリアに襲われた」と主張しているけれど、イリリアは夜中にアズハルがこっそり服越しに花印に口付けようとしたのを知っている。
それを捕獲しただけだし、襲いかかって良いのならこれ幸いともっと熱烈な事をすると主張したい。
翌日は熱を出してしまったせいで草食デートは延期となり、寝台で横になったままシャイマから礼儀作法についての講義を受けた。
アズハルが見本となる事例を示してくれたおかげでとてもわかりやすかったし、昨日陛下の姿を見ていたため想像もし易かった。
ただ…シャイマから、「玉座におわす竜帝陛下は、昨日とは比べものにならないほどに迫力と威圧感に満ちておいでです」と言われてしまい、儀式への不安が薄れることはなかった。




