20. 名残の月と来訪者
「目の治療に関わるからルゥルゥさんの質問に嘘偽りなく答えること」
リヤーフの発言ってたまに唐突だよねぇ…と思いながら、了承の意を込めて頷く。
嘘をつくつもりはないけれど、前に最悪の体調を誤魔化すために症状を小出しにして薬をもらっていたという経緯を話したから、今度は隠すなよって事なんだと思う。
右隣のリヤーフに向かって頷けば、後ろ(というか半ば座椅子状態)のアズハル様から「ヒバの副作用がどのくらい残っているか教えてくれるか?」と囁かれ、左隣のルゥルゥが優しい口調で症状の聞き取りを開始する。
発熱や脈拍は毎日細やかな記録がされているから、必要なのは頭痛や耳鳴りといった他者には伝わりにくい症状の程度だろう。
とはいえ、この小屋に来てからは酷い頭痛も吐き気もほとんど感じない。
「昨夜は風も強く少し冷えましたが、如何でしたか?」
「昨日の夜は………アズハル様にお触りされたくらいで、特に困ったことは…」
「ま、待て、あれは不可抗力ではないか…!?」
背後から焦ったような声が聞こえて、右隣からは呆れたような空気が漂ってくる。
「どうせベッドから落ちそうになったところを助けてもらったんだろ?」というリヤーフからの助け舟にアズハル様はうんうん頷いているようだし、実際に、落ちそうになった身体を咄嗟に抱きとめてくれた時に胸がむにゅっとなったくらいだ。
うっかりとはいえ胸を鷲掴んでしまったことに焦って距離を取ろうとしたアズハル様が今度はベッドから落ちそうになって、寒いから勝手に離れないでと寝ぼけたまま手探りで手繰り寄せ、ぎゅうぎゅうと胸に抱き込んだ……というのが事の顛末。どう考えても非はこちらにある。
年下のルゥルゥから「せめて儀式を経てからにしてください」と念を押され、わかっている…としょんぼりしてしまったアズハルを後ろ手で撫でておき、真面目な話に戻る。
聞き取りを終え、ほとんど副作用が残っていないことと、リームさんの素敵クッキーのお陰で体力が戻りつつあることで、目を治すための霊薬が使えそうだという結果が出る。
できればリヤーフと迎えに来たルトフさんの顔を見ながらお別れがしたいというイリリアの思いを汲んで、さっそく今夜、目を治す霊薬を飲むことにした。
ルゥルゥが服用後の注意点を教えてくれる。
さすがにボロボロになった目の奥を強制的に修復させるとなれば、軽い切り傷に使う薬とは強さが違う。
「目を休めている時間に効果が出るよう、就寝前に服用して欲しいのですが、そうすると副次的な作用が強く出てしまった場合に気づけない可能性もありまして……」
「じゃあ今夜もアズハル様をむぎゅっと抱いて寝ます」
「うむ……まあ、呻めき声などは聞き取れる距離だし、それなりに密着しているから体温が上がれば気付けるだろう」
体温上昇に気付きやすいよう、今日は胸元を少しはだけさせて寝よう。そうすればアズハル様は直接花印に触れられるし素肌を通して体温の変化にも気付きやすい。
でも寒くないよう布団を上に引き上げたら、アズハル様の顔まで覆うことになるから息苦しいかもしれない。
少し悩んだあと、今日はアズハル様の服をはだけさせて、そこに頬を寄せて寝ればいいのかと考えついた。
竜人は寒さに強いから少し肌が出ていても平気だろうし、イリリアがくっついていれば体温変化も感知できる。
「アズハル様、夜間に発熱する可能性がありますが、痙攣などを伴わなければそのまま様子を見てください。修復時の痛みが強く、苦痛を呈するようであれば一度中和剤を飲んでいただきますので…」
「わかった。夜通し確認しておく」
頼もしく頷いてくれたアズハルは、まさかその夜、イリリアから襲われ服を乱されるとは思いもしなかっただろう。
イリリアは飲んだ薬の味があまりに酷かったことで少々気持ちが荒んでいて、一刻も早く抱きついて寝たいという思いが強く前面に出てしまい、引きちぎる勢いで遠慮容赦なくアズハルの服を剥いた。
動揺して硬直しているあいだに収まりの良いポジションを探す。滑らかで少しだけひやりとした温度の肌は心地よく、頬を押し当てるなりすぐに眠りの淵へ身を投じることが出来た。
ふぅ…と少し熱い息を吐き出す。
目蓋を開くなり目の前に現れたのが透き通るような美しい素肌であることに一瞬首を傾げてしまったが、そういえば昨晩、自らの手でこの肌を露出させた事を思い出す。
綺麗な肌だなぁと半分寝ぼけた頭で、ふわふわと吸い寄せられるようにその滑らかな表皮に唇を寄せる。
頭上から息を呑むような気配がしたためゆっくり顔を上げれば、羞恥と驚愕に見開かれた目がこちらを見ていた。
濃紺の中に宿る光は、外から差し込む月光を反射しているのだろうか。それとも彼が生来持つ煌めきなのだろうか。
………雪の日に見る、星空みたい。
静かに寄り添ってくれるような、時折ひどく遠く思えるような。
夜空を宿す瞳を見つめていたら、呟きが聞こえたのかアズハルの手がそっと頬に触れた。
「見えるようになったのか…?」
労わるように目尻を指先でなぞられ、少し擽ったく思う。
「痛かっただろう?夜半に少し熱もあった」
今も微熱くらいは残っているだろうが、痛みはない。
頬に当たるアズハルの手のひらが思いのほか熱くて、体調が悪いのだろうかと心配になったが、熱が籠っているだけだと苦笑される。
そういえば、先ほど唇で触れた胸元も温度が高かった。もしかすると寒さに強い竜人にとっては、人間とくっついて寝るのは暑苦しいのかもしれない。
今更そんな事実に気付いて、これまでどれだけ我慢してくれていたんだろう…と申し訳なく思う。
でも今は離れたくなくて、そっと気づかないふりをした。
アズハルはじっとこちらの目を覗き込んだあと、問題なく元通りになっている事が確認できたのか、安堵したように小さな息をつく。
「………よく、頑張ってくれた」
ねぎらいの言葉と共に恐る恐る唇が寄せられ、額に柔らかな口付けが落とされる。
「頑張ったらおでこにキスして」とねだったのは自分だけれど、実際にこうして触れられると、喜び半分、気恥ずかしさ半分で、どう反応すれば良いか迷ってしまう。
アズハルは熱が籠るのも構わず、背に回した腕で引き寄せるように、イリリアの身体を優しく抱きしめた。
「たくさん痛い思いをさせてしまったが……命まで奪われなくてよかった…」
「アズハル様も……たくさん頑張ってくれて、ありがとうございます」
「………そんな風に言われると、泣いてしまいそうだ」
それに私は何も出来なかった…という呟きに、心配してくれて、ずっとそばに居てくれただけで十分だと伝える。
散々謝り合ったというのに再び謝られそうな雰囲気を感じたため、謝ったらキスで口を塞ぎますよと脅しておく。
乙女の口付けが脅し文句になるというのも微妙な心地だが、効果は覿面で、アズハルは開きかけていた口をそっと閉ざした。
「情けない姿しか見せていないな」
「優しいアズハル様が好きです」
「そうか……イリリアから好きだと言ってもらえたのは初めてだな…」
「そうでしたっけ?」
「好きかと聞かれたことは何度かあるし、先日の話し合いで『私も』と同意してくれたが…」
言葉で貰うのは初めてだと言われて、そうだったかなと首を捻る。
アズハルから好きだと言ってもらえることは自分にとっては免罪符のようなもので、気持ちを前に向かせるために必要な言葉のひとつだった。
(私を求めてくれるのはアズハル様しか居ないけど、アズハル様を求める人は他にもたくさんいるから…)
「私に好かれても迷惑かなと思う気持ちもあったので、口にしなかったのかもしれませんね」
自己肯定感の低さは暴露済みなのでそう白状すると、苦しげな表情をしたアズハルから首を横に振られる。
「これからもっと……その言葉が欲しいと思うのは、我儘だろうか」
「いいですよ。でも恥ずかしいので、こっそり言います」
肌の露出は大胆なのになぁ…と苦笑されて、それとこれとは別だと告げておく。
服は剥けば済むが、言葉は発すると自分の耳にも届いてしまうから、羞恥心が段違いなのだ。
「謝罪を口にする代わりに花に許しを乞うていいだろうか」と聞かれたため頷けば、アズハルの両手がそっと服の合わせに添えられた。
慎重に衣服をずらす動きがなんとも焦れったく、周囲に満ちる夜の帳と合わさって不埒な行為を連想させ、胸がドキドキと高鳴り始める。
(この先どう触れられるかも知っているから、余計に…)
露呈した花印に、身を屈めたアズハルの唇が触れる。
三つ並ぶ花の中央に掠めるほどの口付けが落とされ、祈るように額があてられた。
背中の花がじわりと熱を持ち、花印を通して、アズハルが何か強い祈りを込めているのが感じられる。
やがて額が離れ、アズハルは丁寧に服を整え直してくれた。
「何か…お祈りをしたんですか?」
「次に何かあった時は私を罰して欲しいと祈っておいた……誓いはふたりのものなのだから、そうでなければ公平でない」
相変わらず真面目なことを言うアズハルは、そのままコツンとイリリアの額に自身の額を合わせた。
真摯な瞳に至近距離から見つめられて、心臓はきゅうと細くなる。
「好きだイリリア…望むなら毎日だって伝えるから、どうか信じて欲しい」
アズハルの花嫁に対する気持ちまで疑ったつもりじゃなかった。
でも信じきれなかったのは確かだから、その誠実さに誓いを立てるかのように「信じています」と囁き返す。
「………その気持ちと言葉を深く信じるからこそ、ひとつだけ約束してください」
何を言われるのだろうと不思議そうな瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。
嘘偽りなく、自分の思いを伝えるために。
「もしもこの先、私以外の誰かと体を繋げる事になっても、自分を責めないで」
「イリリア……」
苦しげに歪んだアズハルの頬に手を伸ばす。
信じていないわけじゃない。触れるのは私だけでいて欲しいという気持ちに嘘はない。
それでも、互いの心だけではどうにもならない事はたくさんある。
「政治のこととか難しい事情はよくわからないけど、私が愛されず育ったことが事実なように、アズハル様が少しだけ危うい立場にあるのも事実だと思うから…」
無理をすればどこかで綻びができてしまう。
アズハルが心底真面目だからこそ、花嫁を大切に思うあまり、他の女性に触れたというだけで自分の心を深く傷つけてしまうだろう。
罪悪感から、こちらに手を伸ばすこともやめてしまうかもしれない。
雪の日の夜空のような凛と澄んだ瞳が好き。
だから、それが曇ってしまうくらいなら、どうか私のことは切り捨てて欲しいとさえ思う。
(花印がある限り、それは出来ないと知っているけれど……)
他者を撥ねつけることも花嫁を切り捨てることも出来ないのなら、あとは目を覆うしかない。
「……『道具』はね、道具だと割り切ってしまえば案外傷つかずにいられるんです。どんな目で品定めされようと、どんな言葉を聞かされようと……道具に心はないから」
かつての自分を思う。
父の知人を名乗る人物からどのような目を向けられようと、家族からどのような残酷な言葉を聞かされようと…それが自分の運命なのだと、死んだ心のまま、ただ生きていた。
最後の最後に心を動かしてしまったからこそ、道具になりきれなかったからこそ、惨めに森を彷徨う羽目になり……自死の決意の末、奇跡的に今がある。
目の前にあるアズハルの胸元に触れる。
あたたかな熱を持ち、傷ひとつない、美しい肌。
「どんな女性が来たとしても、どうせその人も政治の道具に過ぎない。ここに宿る想いが私だけのものなら、道具と道具が交わす営みを見逃すくらいのことは出来ます。だから………決して自分を責めないで」
彼は、私のためならどんな道具にもなってくれると言った。
ならばその柔らかな心を守るために、心ない道具になって欲しい。
私の言葉を聞き届けたアズハルは、少しだけ目を潤ませて、苦々しく口角を上げた。
「………それでも私は、弱い自分を責めるだろう」
困った人…と見つめれば、こればかりは仕方がないと苦笑される。
わかってる…目の前に居る優しい人が、自分の夫として縁を繋いだ人が、そういう器用な割り切り方が出来ないことくらい、十分にわかっている。
「じゃあ、ここに、どんな貴方でも許す存在が居るということを…忘れないで」
両腕を伸ばして、その頭を胸に抱く。
私の裏切りを許さない花は、貴方の裏切りであればどんなものでも許してしまう。
(あの時『裏切り者』だと私を詰ったのは、他でもない、私自身だったのかもしれない)
白く何もない空間に響いた責め句を聞いたとき、違うと否定したくもあり、許して欲しいと泣き叫びたくもあった。
けれどもその根底には、自分が彼を裏切り悲しませたのだという深い後悔と自責の念が横たわっていて………優しいアズハルを傷つけた自分が許せずに、心臓に絡まる花の根が、強く強く、戒めるように自身を締め付けたのだろう。
アズハルは誓いへの平等性を謳っていたが、この先もきっと、何かあれば自分が罰を負うに違いない。
イリリアにとってアズハルは救いでしかない。自分が彼を責めることなど万に一つもありはしないのだから。
……でも、それで構わない。
(私がどんな傷を負おうとも、アズハル様が無事ならばそれで……)
抱え込んだ運命を包んで守るように、イリリアは腕の中のアズハルをぎゅうっと強く抱きしめた。
▼
離宮での出来事は、ある程度秘匿されている。
特にイリリアが一度天上へ至ったにも関わらず体調を崩して再び下におりた事は厳重に箝口令が敷かれ、ナヒーダは花嫁の居住区域への無断侵入と侍女へ刃物を向け室内を破壊した事が罪として申請され、ハイファは侵入幇助と花嫁への害意が罪として申告された。
これから然るべき機関の精査を受け、罪の程度と処罰が定められる。
当然ながら申請人であるアズハルは必要な証言をするために王宮へ呼び出される。
花嫁の順化が最優先であるため、ある程度は代理人のユスリーが捌いてくれているものの、今日ばかりは直接足を運ぶ必要があるな…と、目が見えるようになったイリリアと離れるのを惜しむように小屋を出て行った。
すべての裁定を下すのは『竜王』の肩書きを持つ者であり、その裁定に異議を唱えることが出来るのは『竜帝』ただ一人。
竜王と竜帝が兼任されている現状では、陛下の一声ですべてが決まる。
申告の正当性を奏上するべく天上へ向かったアズハルを見送ったイリリアは、いつも通り小屋で大人しく白湯を飲んでいた。
久しぶりに見るリヤーフの顔は変わりなく、初めて見るルゥルゥは驚くほどに可憐な美少女だった。
「リヤーフの言った通りだ…可愛い」
「だろ?」
「うん。愛らしさが溢れてる」
とリヤーフと真面目に品評会をしてしまったせいで、頬を染めて可愛らしさ大爆発になったルゥルゥは「ご冗談はおやめください」と盛大に恥じらい顔を隠してしまった。
姉御肌な頼れるラウダと、小動物的な可愛さのあるラナーと、美少女で才女なルゥルゥ。
完璧な布陣すぎて、もう一生その面子に囲まれてひっそり目立たず埋もれていたいなと思う。
右手側にリヤーフ、左手側にルゥルゥという最高の布陣で茶卓を囲んでいたら、外から何やら鋭い声が聞こえた。
警備として立ってくれているのはカイスさんで、その実力は折り紙付きだから安心していたけれど、剣戟の音などはなく……どうやら誰かと口論になっているようだった。
「外が揉めてる……イリリア、ルゥルゥさんと部屋にいてくれ」
腰を浮かせたリヤーフが部屋を出たけど、彼は無謀なことをするタイプじゃない。
カイスさんの足手纏いになるだけだからと外には行かず、イリリアの部屋の扉前で備えていてくれるようだ。
しっかりと閉ざされた扉を固唾を飲んで見守る。
ルゥルゥが背中に手をあてて「大丈夫ですよ」と励ましてくれるが、彼女もこのような事態には慣れていないのだろう…瞳の奥が不安げに揺れている。
やがて小屋の扉が開かれたのか、風が吹き込む音と共に「サーリヤ様!」とカイスの鋭い声が聞こえる。
ルゥルゥが「え…!?」と動揺の声をあげると同時に、閉ざされた扉向こうから凛とした声が響いた。
「お前は……ルトフの子だったか。まだ若いが良い面構えをしている」
「初にお目にかかります…」
「自己紹介も時間稼ぎも必要ない。アズハルの花嫁に会いに来た。個室に押し入られたくなければ、ここへ出せ」
静かだけれど力ある物言い。
カイスでも制止できず、王子であるアズハルのことを呼び捨てに出来るとなれば、王族に連なる者であることは間違いない。
(サーリヤという名前にも聞き覚えがあるわ…)
母か、姉か、どちらかはわからないが、恐らくアズハルに近しい者だろう。
イリリアは立ち上がると迷いなく扉へ歩いて行った。
ルゥルゥが慌てて追いかけ来て、「私が扉を開けますので後から出られてください」と背に庇ってくれる。
開かれた扉の先に居たのは、腰まで伸びた真白い髪を大きく三つ編みで編み込んだ、女傑……と呼ぶに相応しい、威厳溢れる女性だった。
アズハルと同じ夜色の瞳がルゥルゥとイリリアを捉え、満足げに細められる。
「なるほど、確かに人間のようだ。卑劣な種族であると名高いが、誰かを守るために姿を現す潔さは持っているようだな」
腰に刺した剣を鞘ごと抜いてカイスに向けて放り投げたかと思えば、ラグの上にどかりと腰を下ろした。
なかなか豪快なお人のようだわ…と、アズハルに似た面立ちの、けれども自信と気力に満ち溢れた佇まいの女性の向かいに、イリリアもちょんと腰を下ろす。
「我が名はサーリヤ、竜帝陛下の第二子であり第一王女である」
「はじめまして……イリリアと申します。このような粗末な身なりでお目見えすることをどうぞお許しくださいませ」
「よい。先ぶれもなく突然訪ねたのはこちらだ。
あの弟があまりにも礼儀を知らず、儀式が済むまで花嫁には会わせぬなどというから会いに来てやったのよ。つまり、嫌がらせだ」
「嫌がらせ……」
つまり今の状況をアズハルが見たら、蒼白になるか怒るかのどちらかということ。
(前にお姉さんは話を聞いてくれないと言っていた気がするから……ちょっぴり怒るかもしれないわ)
これから話し合いが始まるようだと察したルゥルゥがお白湯を用意してくれる。
お供の人はいないのかなと思えば、散歩がてらひとりで来たというから、なかなか行動力のある人のようだ。
大ぶりのイヤリングが耳元で揺れ、意志の強い瞳がイリリアを射抜く。
その眼差しに、恐怖よりも憧れが先に芽生えた。
力強くも気品ある風格は、人を惹きつける魅力に溢れている。
イリリアが目を逸らさず見つめ返したことがお気に召したのか、ふ…と微笑まれた。
その微笑みの思いがけない柔らかさに、胸がぎゅんと跳ねるようにときめいてしまう。
「宮廷女たちの策謀により負傷したそうだな……具合はどうだ」
「貴重な霊薬をいただいたおかげで、この通り回復しつつあります」
「それは重畳。地上に住む種族の順化は特に難しいと聞く。私に花婿は居らず、ゆえに経験は無いが、王族として最低限の知識はある。病も傷も、恥と思わず努力の証と思え」
まさか肯定的な言葉を貰えるとは思えず、イリリアは一瞬惚けたあとに、ありがとうございますと頭を下げる。
(これは大変……恋をしちゃいそう……)
目の前の第一王女殿下はアズハルとは違う魅力に満ち溢れている。
アズハルがここに居れば正気を保てるだろうが、不在の状態で向き合ってしまったばっかりに、心はすっかり虜になりかけている。
これは…裏切りではないわ。アズハル様のご家族に好意を抱いているだけだもの…と激甘な判定をして、目の前に居るとても魅力的な女性を目に焼き付ける。
イリリアの熱心な視線に気づいたのか、サーリヤは「私に何か聞きたいことがあるか?」と首を傾げた。小首を傾げる姿はアズハル様とよく似ている。
「えっと、サーリヤ様は……」
「義姉と呼べ。一応はあれと全く同じ父母の血を持つ」
思いがけない言葉に、胸をドキドキさせながら「お義姉様」と呼びかけてみる。
「お義姉様は……アズハル様と仲良しでいらっしゃいますか?」
「そうきたか………」
片眉を上げたサーリヤは、ふむ…と少し考えて「好かんな」と言い放った。
「弟は長らく陛下から手厚い庇護を受けていた。まずそれが気に入らん。
それに、お忙しい陛下に目をかけていただき、そのご実家でぬくぬくと守り育てられたというのに、自己を肯定せずウジウジと……見ていると叩きたくなる。ゆえに好かん。仲良しでもない」
キッパリと告げられた内容に圧倒されつつも、頷き返す。
サーリヤはアズハルの存在を丸ごと理不尽に嫌っているのではなく、こういう部分が嫌なのだとちゃんと理由付けて考えており、総合的に嫌いだと言ってみせた。
つまり、姉としてちゃんと弟のことを見ているという証だ。
返すように「花嫁に聞きたいことがある」と言われ、イリリアは背筋を伸ばした。
「運命とは何だ?我々は何故、花を探さねばならぬ」
投げかけられた難しい質問に、イリリアは必死で頭を巡らせた。
何故と聞かれても、自分が聞き返したいくらいだ。
何故竜人は竜帝の血を引く者だけ花を得るのか……どのような基準で花は選ばれるのか。
(どうして私だったのか……)
イリリアは自身の胸の中にある疑問を一旦拭い去り、サーリヤからの問いかけに真摯に向き合うことにした。
「……………私の花印は左胸にあります」
「胸か……破廉恥なことはされていないか?」
「既に夫婦ですし色々とされても構わないのですが、儀式前だからとしてもらえません」
「そうか、人間の繁殖意欲が高いというのは本当なのだな。……それで?」
「花の根が絡め取るもの……それが『運命』なのだと思います。私の花の根には、アズハル様の運命と……私の心臓が絡まっている」
「ほぉ……」
「私が朽ちて花が枯れればアズハル様の運命は解き放たれる………感覚的なお話になりますが、そのような思いを自覚したのは、花印に口付けをいただいてから随分経ってのことでした」
薄暮の小屋でアズハルからの告白を受けた時に初めて、そう感じた。
アズハルは花嫁とは感覚的に繋がっていると言っているし、イリリアが怪我を負ったときもすぐに察知して飛んできてくれた。けれどもイリリアは、アズハルが負傷した時にその痛みを感じ取ることは出来なかったし、繋がりを探ってみてもよくわからない。
ただ……胸に咲く花、その根元に、何か大事なものが埋まっていることだけはわかる。
「弟が生来自分で持つべき運命を、花の根で絡め取り独占したというわけか」
サーリヤの言い方に、確かにそういう事になるわね…と心中で苦笑する。
花が竜の運命を握っているからこそ、彼らは花を求め、手中に収めるのだろう。
だが運命とは本来、自分で持つべきものだ。他人に握られていて良いはずがない。
「では、花の意志でそれを解き放つことは出来るのだろうか」
「おそらく………自死すれば」
「そうか」
神妙に頷いたサーリヤは「前竜帝の花はそうして、運命を解放して差し上げたのだな…」と呟いた。
聞き流すべきか迷い、深く追求しなかったが、前竜帝の花嫁はおそらく何らかの事情があって自ら死を選んだのだろう。
解放された竜帝がその後どうなったかは知らないが、サーリヤの表情を読むに、あまり幸福ではなかったのかもしれない。
サーリヤは暫く考え込んでいたが、ひとつ頷くと「叔母上の花婿は全く話にならなかったから期待していなかったが、存外に良い話が聞けた」と穏やかな表情をイリリアへ向けた。
「あの花婿は本当に酷い男だった……『竜人の王族に平身低頭迎え入れられるとは、俺こそが天上を支配せよと言われているかのような無敵の心地だ』などと言いおって。
天上は竜帝陛下の治める地であるというのに、あまりに不敬であろう?
身の程を知れと取っ組み合いをして池に叩き落としてやったが、そのせいで叔母上から離宮への出入りを禁じられた」
もし自分も身の程知らずの発言をしていたら外の雪原に放り投げられていたのだろうかと小さく震えていると、満足げなサーリヤはイリリアの前に二本の指を立てた。
「良い話を聞かせてもらった礼としてふたつ、情報を渡そうと思う」
その瞳が少し意地悪そうに細められたため、おや…と首を傾げる。
サーリヤは、聞くか聞かぬかはそちらに任せようと悪戯っぽく口角を上げた。
「私とアズハルは同母の胎より出たが、生育環境は全く異なる……ゆえに、これから聞かせるのは嘘偽りや悪意に満ちた情報かもしれんが、それでも耳にする覚悟はあるか?」
嘘かもしれんぞという優しい忠告に、微笑んでしっかりと頷く。
「はい。ありがたく頂戴したいと思います」
「ふっ……あれには勿体無いくらいに肝が据わっている」
悪意に満ちた女官たちに比べたら、なんと潔い忠告だろう。
真偽は自分で見極めろという優しい言葉を胸に刻み、さてどんな話だろうかと姿勢を正したところで、サーリヤはイリリアの後ろに控える面々に退出を促した。
「カイスと侍女とルトフの息子は外に出よ。花嫁にしか聞かせぬ」
「出来ません」
即座に断りを入れたのはカイスで、入室こそ許してしまったがそれ以上は断じて許容できないと表情が物語っている。
こんなにも厳しい顔つきのカイスを見るのは初めてで、イリリアは今の状況がなかなかに危ういのだということを改めて理解した。
(そういえば…女官たちがサーリヤ様は『北』に所属すると話していた気がする)
ナスリーンという女性と近い立ち位置に居るのであれば、アズハルやイリリアとは敵対関係にあると言っても過言ではない。
だが、本当に敵であるのなら、カイスが何としてでも小屋の中には立ち入らせなかった筈だ。
判別がつかない立ち位置……裏を返せば、いつでも敵に回る存在の可能性もある。
けれど、イリリアは直感的に、サーリヤの持ってきた話をこの場で聞いておかなければならないと悟った。
(アズハル様もサーリヤ様も難しい立ち位置におられるのであれば、奇跡的に邂逅を果たした今以外に話を聞くチャンスはないと思うから…)
「皆さんどうか、お願いします」
三人に向かって頭を下げる。
悩ましげな表情になったカイスが「せめてアズハル様がお戻りになるまでお待ちください」と粘ったが、それまで待てないと首を横に振った。
「アズハル様の不在の時に来られたということは、私が聞くべき話なのでしょう。私は、お義姉さまとの対話を望みます。外は寒いかもしれませんが……話が終わるまでのあいだ、どうか二人にしていただけませんか」
深々と頭を下げて願うイリリアの態度に、真っ先に折れてくれたのはリヤーフだ。
腰に下げた鈴から詰め物を外し、いつでも鳴らせる状態にしたあとイリリアの隣に置いてくれる。
「……有事の際の鈴を手元にどうぞ。王女殿下、失礼致します」
サーリヤに頭を下げて扉へ向かうリヤーフに続き、ルゥルゥが近くに来て屈むと、そっと追加の上着を肩に掛けてくれる。少し寒いなと思っていたから、ありがたい。
「お身体に不調が出た際には必ずお呼びください」
優しいひと言を残して出ていくルゥルゥを見送ったあと、カイスはイリリアとサーリヤに向かって深々と礼をした。
「どうぞ穏やかな時間をお過ごしください。お花様の身に何かありましたらこのカイス、ツノも鱗も剥がして第二王子殿下にお詫び致します」
場を離れたことへの叱責を受ける覚悟も決めたのだろう、凛と扉を出るカイスの背を見送ると、何だか急に心細くなってしまった。
けれど、向き合うと決めたのは自分なのだからと背筋を伸ばしてサーリヤを見れば、彼女は苦笑を深めるところだった。
「……カイスを失うわけにはいかんな。危ないことはしないと約束しよう。しかし随分と警戒されたが、私はそんなにも有害な者に見えるのだろうか」
「私の耐性が低いのが問題なのです。侍女が叱る際の大声に驚いて、脈を乱して倒れてしまったことがあるので」
「弱いな……其方を見ていると我らが人間に害を受けた歴史が嘘のように思える」
「人間は…悪辣ですよ。手段を選ばず、集団で襲いかかる。欲の前には慈悲もない」
「同族に手厳しい評価だな…そのような所も潔く好ましい。其方が竜人で、アズハルの花嫁でなければ侍女として召し上げていたところだ。
さてイリリア、一度しか伝えぬからしかと聞け。これを他者に話すとしても、相手は見定めろ。いいな」
「はい」
そしてサーリヤが語った内容は、イリリアがある程度は予測していたものであり……予想していたよりも随分と複雑な事情を孕むものだった。
聞き終えたイリリアは、注ぎ込まれた情報を処理しようと、くらくらする頭を抱えて湯呑みに手を伸ばす。今こそクッキーを…と思えど、残念ながら冷えた白湯しか手元にはない。
サーリヤも「話し疲れたな」と湯呑みに口をつける。
毒とかの警戒はしないのかな?と思えば、あの小心者がそんな策を巡らせるわけないだろうと、弟を軽視しながらも信用しているのだと示してくれた。
「随分と厄介な男に嫁いだものだと辟易しただろう」
「思った以上に大変でした……私はこの通り、この世にはどうにもならない事もあるものだと諦めがつく性格なのですが、アズハル様はすべて真面目に捉えてしまいそうで……」
「そうだな、あの小竜は誤魔化しが下手で悩みが全部顔に出る。話すにしても時期を見極めるといい」
あの融通の利かなさはもう少しどうにかならんものか…と呟いたあと、サーリヤはイリリアの顔をじっと見た。
何か良からぬ事でも考えているのかな?と思えば、不意に「ここから逃げたくないか?」と問うてきた。
吃驚していると、この過酷な環境も不出来な夫も見捨てて逃げないか?と問い直される。
あまりに真剣な眼差しを向けるものだから愛の逃避行に誘われているのかしらと一瞬ドキリとしたものの、それはないわね…と浮ついた心を冷静に処断する。
無言のまま苦笑を返したことでイリリアに逃走の意思はないと判断したのか、サーリヤは少し白けた顔で湯呑みを傾けた。
「既に色々とボロボロだろう……そんなになってまで何故、天上へ至ろうとする?」
「そうですね……アズハル様と一緒に居るためです」
「自分のためではなくアズハルの為に上を目指すというのか?」
「アズハル様と一緒に居たいと思う自分のために、上を目指しています」
「あの愚弟を随分と甘やかすものだ…まあ、あれは甘えん坊で泣き虫だからな」
「甘えん坊で泣き虫なのですか?」
「なんだ?花嫁の前では一丁前に格好つけているのか?」
格好つけているかはわからないが、言うまでもなく美丈夫であるし、優しく穏やかな印象が強い。
撫でたら気恥ずかしそうに照れるし、悲しい時は薄く涙を浮かべもしているようだけれど(残念ながらイリリアは視力を失っていたからまだ泣き顔をはっきりと見れていない)、馬鹿だの阿呆だの牛の糞だの言い合いながら喧嘩をしていた兄達に比べると、ずっと素敵な魅力に溢れている。
サーリヤからすればアズハルの気質はお気に召さないようで、いつまでも弱々しく赤子同然なのだと不満を噴出させた。
「あれは王太子の政敵とならぬよう、丹念に柔らかく揉まれて育った。悪意に唆されぬよう耳を塞がれ、反意や敵意を抱かぬよう目を塞がれ、王宮内で力を持たぬよう口を塞がれ……尖った部分がないようにと削がれ揉まれて今のような腑抜けになった。だから、怒り方も碌に知らんだろう?」
表現に多少の棘は感じるものの、アズハルがこれまで大事に隠されて、守り育てられたことだけはわかる。
怒るのは苦手だと本人から聞いて知っているから、そこに失望や落胆を感じることはない。
だがサーリヤは、先日の女官の件を引き合いに出して「信じられないことだ」とさらにアズハルの軟弱さを強調した。
「いくら王太子との兼ね合いがあろうと、私なら自分の花に悪意を齎した者共の裁決を、他者へ委ねはしない。自らの手でその者のツノをへし折り、二度と天上へは至れぬその身を大瀑布の下へと蹴り落とす」
竜人とて獰猛な面はある。と断言するサーリヤに、イリリアは頷いた。
どんな種族であろうと思考と感情を持つ生き物である限り、獰猛や残虐と思える行為に及ぶことはあるだろう。言葉が通じることで、暴力以外の悪意すらも届く。
「だがあれは尖りを持たぬ雪玉だ。まぁるくて脆い。口先でしか怒れない情けない男だが、それでも添い遂げたいと思うのか?」
サーリヤの問いかけに、父兄の真似事でしか他者を叱れないことを「情けない」と自嘲していたアズハルを思い出す。
けれども……かくいう自分もそうなのだ。
これまで抑圧され自分を殺し続けてきたせいで、感情の一部を見失ってしまっている。
優しさや情愛に触れる喜びはある。嫌だなと思うことも、抗いたくなる気持ちもある。
けれど……あれだけの悪意を向けられたというのに、女官やハイファたちに対して、我が手で報復してやりたいという激しい感情は湧いてこない。
(気付かなかったけれど……私とアズハル様は案外似ているのね……)
悪意に触れないようにと他者の優しさで目と耳と口を覆われていた者と、
心が壊れないようにと自分の手で目と耳と口を塞ぎ…思考を閉ざした者。
うーん…と考えたイリリアは、自分の胸元に付いているふたつの膨らみを手のひらで掬うように持ち上げた。
他に大した魅力のないイリリアの、唯一と言ってよい優良な部分だ。
サーリヤの言うようにアズハルが甘えん坊で泣き虫だというのなら、この長所を生かすにはもってこいだろう。
「甘えたい時や泣いてしまった時に抱きしめてさしあげる胸で、これ以上のものはないかと思います。……花印も付いてますし」
まぁるい雪玉のようで頼りないと評価されようと、イリリアはアズハルの優しさに寄りかかっているし、アズハルはイリリアの事をちゃんと受け止めてくれている。それで十分だ。
イリリアの持ち上げた花印付きの胸を見たサーリヤは、弾けるように笑った。
「ははは!確かに、胸に花があるのは強いな!あの小竜も男であるからには、その柔さに包まれるのは大好きだろう。
本当にどこまでも甘やかすつもりだなぁ……まあ、お前たちはそれでいいのだろう」
笑うサーリヤの瞳には一瞬だけ寂しさがよぎった。
それはきっと、自身の花婿をまだ得ていないがゆえの寂寥感なのだろう。
サーリヤが「白湯がなくなったな」と口にするのと、扉が勢いよく開かれるのは同時だった。
「姉上……!」と飛び込んできたアズハルは床に座ったサーリヤとイリリアを見比べ、ひとまず怪我などをしていない事に安堵したようだ。
イリリアの隣に腰を下ろすと、守るように肩を抱いてくれる。
風雪の中を歩いてきたせいか身体はまだひやりと冷たい空気を纏っていた。
「一体何を企んでいるんです。まさかひとりで来たのですか?」
「散歩していたらこちら側へ迷い込んだだけだ」
「北からどれだけ距離があると………通達のない訪問がどれほど不敬かはお分かりの筈だ」
「訪問ではない。散歩をしていたら南側へ迷い込み、休息のために小屋へ立ち寄っただけだ。そこで同じく足を休めていた者と会話をして何が悪い」
「屁理屈を………!」
珍しく噛み付くように文句を連ねるアズハルの膝をポンポンと叩き、「おかえりなさい」と告げる。
イリリアに目を向けたアズハルは「ただいま」と眉を下げながら目元を和らげた。
「変なことはされていないか?花を持たぬ王族は不安定とされる。嫉妬や僻みなどで何をしてくるかわからないからな」
「お前に嫉妬などするものか、阿呆」
「いつも私が幼少期に陛下の実家で過ごしていた事をネチネチと言ってくるではありませんか」
「陛下直々に目をかけて下さっているのに、お前がウジウジと情けないからだ」
「仲良し……」
「「ではない」」
テンポの良い掛け合いに思わず仲良しの疑いをかければ、ふたり揃って否定される。
向けられた顔立ちがよく似ていることも相まって、堪らず笑いが零れた。
笑われたことに虚を突かれ、サーリヤは「お前の花嫁は随分とふわふわした人間なのだな」と呆れた表情を浮かべる。
イリリアは佇まいを正してにこりと微笑んだ。
「お義姉様、もう少し時間がかかるかもしれませんが、私はアズハル様の花嫁として天上へ参ります。義妹として、これからどうぞよろしくお願いします」
「そうしよう。仲良しの証として、人前では義姉ではなくサーリヤ様と呼べ。あるいは一切話しかけるな」
「姉上…!」
先のやり取りを聞いていなければ誤解しがちだが、つまり公的にはサーリヤとアズハルは仲良く交流する間柄ではない為、義姉と呼びかける状況は見定めろという事なのだろう。
人前では特に礼節を弁え、距離感を間違えるなという忠告にしっかり頷き返せば、サーリヤは「愚弟よりもずっと見込みがある」と満足げに口角を上げてから立ち上がった。
「まずはゆっくり身体を整えるといい。私と茶席は囲めんだろうが、機会があればまた話そう」
「はい」
「それと愚か者」
「愚か者という名ではありません」
「お前など愚か者で十分だ。愚弟よ、花嫁を母上に会わせる必要はないが、陛下とは必ず話をしておけ。お前では押し負ける」
サーリヤからの忠告にアズハルはハッとすると、勢いよく立ち上がった。
「北の一族に企みがあるのですか!?何かご存知であるなら教えていただきたい…!」
「すぐに顔に出るうえ行動が迂闊なお前に教えるわけがなかろうよ。余計な事を考えず今は花嫁の順化に注力しろ。大事な花に傷を負わせるなど情けない…」
負傷させてしまった負い目からアズハルが押し黙ると、サーリヤは「口喧嘩すら出来んのか、軟弱者め」と追い討ちをかけてから扉へ向かう。
アズハルと共に室内へ戻り、扉前でこちらのやり取りを見ていたカイスは、先ほどから預かっていた剣をサーリヤへ戻した。
お見送りを……とイリリアが立ちあがろうとすれば、振り向いたサーリヤが口角を上げて凛々しく笑む。
「献身的で良き花嫁だ。見送りは不要。甘えるばかりでなく死ぬ気で守れよ、泣き虫小竜」
ではな、と出て行ったサーリヤを見送るように扉を見つめていると、外からリヤーフとルゥルゥが戻ってきた。
寒い思いをさせてしまったとルゥルゥに自分の羽織りを掛けようとすれば、イリリア様が冷えてしまいますのでと固辞される。
リヤーフは「寒いというより顔に当たる雪が邪魔なんだよな」と言いつつ、皆に手拭いを渡して回った。
「すまない、まさか留守中に姉上が突撃して来るとは…大事なかったか?」
「素敵なお義姉様でした」
「どこが……」
「目が合ったからと叩いて来ないし、的当てをしたいと石をぶつけて来ないし、虫の入った泥水を浴びせて来ないし……」
「基準が低いって」
イリリアの主張にリヤーフは呆れ返り、アズハルは悲しそうな顔をしてイリリアを背後からぎゅっと抱きしめる。
実家での事を隠さなくなったものの、口にするたびアズハルが悲しげな痛ましい表情を浮かべるため少しばかり申し訳なくなる。
リヤーフみたいに「またやべぇこと言ってるよ」くらいの呆れを滲ませるような反応で構わないのになぁ…と、羽織りもののように背後から抱き込んで離さないアズハルの頭をわしわしと撫でておく。
「リヤーフとラシャちゃんも喧嘩するの?」
「するにはするけど、年が離れてるし、ちょっと言ったらすぐ泣くからなぁ」
暴力が基本形に入っていない時点でイリリアからすれば優しいお兄ちゃんだ。
小屋の周りに潜伏する者が居ないか、サーリヤは間違いなく立ち去ったかを入念に確認して戻って来たカイスに、抱擁の手を解いたアズハルが声を掛ける。
「カイス、姉上を招き入れるに至った経緯と、私が不在時の会話について報告を」
「力及ばず申し訳ありません…」
「いい。強硬で訪れたということは、何か伝えるべき事があるという意思表示だ。言外に察しろと伝えているのだろう」
「アズハル様、私がお義姉様とふたりでお話がしたいと我儘を言ってカイスさんたちに出て貰ったんです。叱るなら私を叱ってください」
「イリリアが怖い思いをしていないのであれば、叱る必要はないが…」
「素敵なお義姉様でした」
笑顔で告げるとアズハルは渋面を隠さないまま、カイスと共に外へ出て行った。
今から報告と多少の密談が行われるのだろう。
とはいえサーリヤとの話し合いの最中、カイスは殆ど外に出ていたため、後でイリリアにも聞き取り調査が行われるに違いない。
どこまで話そうかと悩んでいると、ルゥルゥが手早く脈拍や体温に異常がないか調べてくれる。
リヤーフは人数分の白湯とクッキーを持つとイリリアの隣に腰を下ろした。
「初めてお会いしたけど、噂通りの御方だったな……勇猛で剛毅果断。俺は姉ちゃん居ないから迫力感じたな」
「私は兄たちが最悪だったから優しと頼もしさを感じたかな。すごく素敵だった」
「そしてアズハル様はどこまでも渋い顔をなさる、と……それぞれだなぁ……」
軽い口調で「何の話だったんだ?」と聞かれたため、うっかり口を滑らせそうになり慌てて自制する。
なるほど…こうやって情報を得ていたのかと、リヤーフの監視員兼諜報員としての能力の高さに感心してしまう。
「難しい話だったけど、総じて『注意しなさい』って内容だった」と言えば、「教えてもらえて良かったな」という肯定的な言葉のあとに「アズハル様ともちゃんと共有しとけよ」と念押しされた。
耳に痛いけれど、遠慮なく忠告してくれる人が居ることはとても心強く、明日に迫ったリヤーフとの別れが物凄く惜しくなってしまう。
「リヤーフ、明日帰るんだよね?」
「そ。イリリアの目が思ったより早く治ってよかったよ」
「すごいよねぇ……昨日霊薬を飲んだばかりなのに」
「揺り戻しに気を付けろよ」
「うん。足腰がすっかりナマケモノだから歩行練習から再開かなぁ…」
「もう開き直って抱っこされとけば?」
アズハル様もそっちの方が安心なさるだろ…と言われ、確かに花嫁運びたい病に罹っているのではと思うくらいに甘やかしてくれるアズハルのことを思う。
明日の昼頃にルトフさんが迎えに来て、リヤーフとはそこでお別れになる。
「……誰かと仲良くお喋りするのなんて初めてだったから、嬉しかったよ」
「放っておいたらマジで何も喋らねぇもんな」
隣でルゥルゥが、え…?という顔をしていたけれど、何も最初から円滑にお喋りを続けていたわけじゃない。そもそもイリリアは誰かとの楽しい雑談を許される境遇ではなかったし、黙っていろと言われれば一日中だって沈黙を貫ける。
最初はどのくらい会話が許されているのかわからなかった為、座談会として円卓を囲む時や話しかけられた時以外は殆ど口を開かなかったくらいだ。
そんなイリリアにリヤーフは、俺もあんま喋る方じゃないんだけど……と言いつつ、気を遣って色々と声を掛けてくれていたのだ。
リームさんもルトフさんも、イリリアの事を何かと気にかけてくれていた。
集落での温かな思い出が蘇って、ちょっとだけ泣きそうになる。
「天上へ行ったあとも、たまにリームさんのクッキーを所望してもいいかな?」
何気なく言った言葉だったし、リヤーフもいつも通り「母さんの負担にならない程度ならな」とさらりと流してくれるものだと思っていた。
でも、無言で向けられた眼差しはいつもと少し違っていて。
「…………リヤーフ?」
「母さんの寿命が多分、あと二十年くらいだから、甘えられるあいだに存分に甘えといてくれな」
「そう、なんだ…………ルトフさんは…」
「当然知ってる。母さんはラシャを成人まで見守れないことを残念がってたけど、これ以上同族を見送らなくて済む…って穏やかに言ってた」
急な現実に、胸がぎゅっと締め付けられるようだ。
でも、命が永遠でないことは……必ず終わりが来ることは嫌というほど知っているし、終わりの果てに救われる何かがあることも知っている。
近しい身内や同族たちを見送ることは、リームにとっての心の暗部だったのだろう。
「そっか………それでも集落に残り続けたんだから、強い人だね」
「イリリアのことが心配すぎて寿命が縮みそうって言ってたし、母さんの為にも無理すんなよ」
「うん。でもこんな感じだし、あんまり長生きはできないかもなぁって」
「また重い事をさらっと言う」
「リヤーフ相手だとしょうがないよ」
「聞かされる身にもなれって。二十年くらい後に成人の儀式で天上へ行くから、ちゃんと生き残っとけよ。あと、アズハル様と仲良くな」
苦笑するリヤーフに頷き返したところで、外からアズハルが戻ってきた。
「起きていて大丈夫か?」と真っ先にイリリアの体調を心配してくれる事に、大事にされているという事実を噛み締める。
アズハルの顔を見て安堵したのか急に猛烈な眠気が襲ってきた。
「お布団…」と手を伸ばせば、幼子を抱え上げるように抱っこしてくれる。
アズハル様はお布団じゃないぞーというリヤーフの指摘や、おやすみなさいませというルゥルゥの可愛い声を聞きながら、アズハルにしがみついたまま寝台へ上がる。
上着を脱いで一緒に横になってくれたアズハルは、事情聴取よりもイリリアの眠気を優先してくれるようだ。指先で頬と目元を撫でられ、少し擽ったく思う。
「姉上は恐ろしかっただろう…?」
「いえ、とても素敵な方でしたので…」
「……ん?」
「胸がドキドキしました…」
眠さで夢うつつのため取り繕う言葉は出てこない。
素敵なお義姉様だったなぁと余韻に浸っていると、小さく震える声でアズハルが「う…裏……切りではない、が…それは…」と絶望を吐露する。
「でも、アズハル様が一番好き」
「い、一番ということは姉上が二番手に控えているということではないのか!?」
「あまりお会いできないようですけど、素敵なお義姉様ができて嬉しい…」
勇猛で剛毅果断。凛々しくて思いやりがある素敵なお義姉様。
目を閉じたまま、んふふ…と、結婚したことで結ばれた縁と身に余るほどの喜びを噛み締める。
浮気だと責めることも出来ないアズハルが、ぴえんと泣きつくように縋り付いてきたのを片手でよしよしと撫でて宥めながら、イリリアは安らかな気持ちで夢の中へ降りて行った。




