18. 座談会と枕投げ
▽視点の切り替えあり
イリリア→アズハル視点
「起きたか?」
比較的近いところから聞こえた声に、一瞬空耳かなと驚いた。
誰かが動く気配のあと「目開けたまま寝てんのか?」と再び馴染みのある声がして、空耳じゃない!ともう一度驚いた。
「…………その声、リヤーフ!?」
「あ、起きてた。そうそう、特別に許可を貰って連れてきてもらったんだよ。父さん付きでな」
「……ルトフさんも居るの?」
「お花様の護衛役として、特別に。アズハル様は天上を整えに行ってる。その間、イリリアの負担にならない人しか置きたくないから来て欲しいって頼まれたんだ」
「それで……わざわざこんな場所まで来てくれたの?」
ここはルトフが担当する霊峰中腹を大きく超え、高所警備隊の駐屯所にもなっている大拠点よりもひとつ上の階層。
王妃殿下より貸して頂いている小屋に戻って来たと言われているため、アズハルの治める南側のうち大きく東に寄った場所でもある。
「遠かった」と素直に言ってくれるから、「ごめん、ありがとう」と素直に謝罪と御礼が言える。
そんなやり取りが懐かしく思えて噛み締めていると、起き上がるのを手伝ってくれたうえに、手に湯呑みのようなものを持たせてくれたリヤーフが「ひと月程度でずいぶん痩せたなぁ」としみじみ呟いた。
確かに拒食な期間もあったし、元々少ない肉はすっかり削げ落ちているかもしれない。
「血を吐いたんだろ?高所での失血は命取りになるからって母さんが滅茶苦茶気にしててさ……お腹いっぱい食べて元気になって欲しいってクッキー山ほど焼いてたから、湿気る前に食わないと」
「いっぱい食べる……ありがとぉ……」
クッキーをたくさん焼いてくれているリームさんの姿を想像して、堪らず涙が出た。
リヤーフは手から湯呑みを取ると代わりに柔らかな布を渡してくれる。
「泣くなって。強く泣いたら目の奥から血が出るから、泣かすなって言われてるんだよ」
「そうだった……ごめん、涙腺緩んでる」
「なんか散々だったみたいだな。ついこの前、イモリの黒焼きとか渡した気がするんだけど」
「イモリだったんだ…蜥蜴かと思った。乾燥した大きい蜘蛛も干からびた蝙蝠も絶対に食べたくなくて」
「食欲失せただろ?」
「失せた……本当にありがと……」
この前もシリアス気味な話し合いの場面にも関わらず、うっかり食欲が沸きそうになってなってしまったが、黒焼きセットのお陰で事なきを得た。あの状況で大暴れまでしていたらイリリアは完全に再起不能状態に陥っていたに違いない。
アズハルとの話し合いのあとイリリアは高熱を出して三日ほど意識が朦朧としたまま過ごした。
目を開けたら(といっても何も見えないけれど)必ずアズハルかルゥルゥのどちらかが側に居てくれたから寂しくなかったものの、ふたりには随分と心配をかけたし無理をさせてしまったから、どこかでゆっくり休息を取って欲しいと思う。
「そういえば熱でボーッとしてる時にアズハル様から叩いて欲しいって言われたんだけど、竜人族の求愛行動なのかな?」
「いや…そんなの聞いたことないけど……今回の事もあるし、イリリアに叱って欲しいとか?」
「でも、枕で叩いて欲しいって言われたんだよね」
「枕で…?」
リヤーフとふたりで首を傾げ合っていると、部屋のどこかから「あの…」という声が聞こえた。一瞬誰かわからなくてビクッとしてしまったけど、その可憐な声はルゥルゥかなと思い至り、声の方向を探るように首を巡らせる。
「申し訳ありません……おやすみ中に男性とふたりきりにするわけには…と思い、部屋の隅で待機しておりました」
「いえ、気付かなくてごめんなさい。ちなみにルゥルゥはアズハル様の叩いて欲しい症状の理由をご存知ですか?」
「それについてなのですが……」
ルゥルゥの説明によると、どうやら共寝の約束を破ってしまった事に対する罰をまだ受けていないから…と、あの発言に繋がったという。
騒動に乗じて曖昧にするのではなく、罰則を受けなければ次の共寝が出来ないとするあたりが生真面目なアズハルらしい。
「でもそもそも、アズハル様が出ていくきっかけを作ったのは私だからなぁ」
「自分が居ないせいで不調に気付けなかったと悩んでおられるかもしれないし、とりあえず数回叩いて差し上げたらどうだ?」
「うーん……まあ……それでアズハル様の気が済むなら叩くけど……それより次回からは別のことを罰則にしたいなぁ」
「例えば?」
「ごめんねって言いながらおでこにちゅーしてもらうとか」
「ハードル高そ……」
「ルトフさんとリームさんはそういうスキンシップ的な事はしないの?」
「あー……母さん、発情期以外は淡白だから」
「そっかぁ………竜人族は超奥手で規則に煩くてゴネ始めたら長いから、いざというときは問答無用で襲い掛かって良し!ってアドバイスを貰って心強く思ってたんだけど……スキンシップ系はやっぱり価値観に違いがあるんだねぇ」
「いや母さん何言ってんだ。……王族には色々と作法とかあるかもだし、また拗れる前に話しとけよ」
出発前の俺からのアドバイスは今回全然役に立たなかったみたいだけど、と付け加えられて言葉に詰まる。
リヤーフからしっかりアドバイスを貰っていたというのにこの体たらく…情けないやら申し訳ないやら。
「う………ごめん……実は目が見えなくなってから思い出した………」
「大方、体調崩してて喋る余裕なかったんだろ?集落にいた頃も、頭痛いと口数減ってたもんな」
自覚のない事だったため「そうかな?」と首を捻れば、そうだよと頷かれる。
ずっと一緒に居てくれたリヤーフがそう言うのなら、そうなのだろう。
リヤーフがルゥルゥに、雑談中の口数が少なくなったらまず不調を疑った方がいいですよとアドバイスしているのを聞きながら白湯を飲む。
一ヵ月間も続けた座談会の成果はこんなところにも発揮されていて、リヤーフがどこに湯呑みを置いてくれているのか、目が見えなくても大体の感覚でわかるのだ。
逆に自分の顔の位置がよくわからなくて、湯呑みの縁を押し付けて位置を確かめながら慎重に飲まないと、うっかり零してしまいそうだ。
気を付けつつ集中して湯呑みを傾けていたら「イリリアもだからな」と呆れた声が聞こえた。
「ルゥルゥさん優しいんだから、痛いときはちゃんと痛いって言うようにな。アズハル様も霊薬をケチる人じゃないだろうし」
「ケチらないけど、大きい拠点に居たときに、霊薬の飲み過ぎで体調崩しちゃって……」
「どのくらいの頻度で飲まれていたんですか?」
「毎日小さい瓶を1本ずつです。頭が痛いとか目眩がするとか軽微な症状を言って出してもらって……」
「それは………合わない効果の霊薬を続けて飲んだせいかもしれませんね」
言い難そうな、少し困ったようなルゥルゥの言葉に、「でもちゃんと頭痛も目眩もあったんですよ?」と主張の正当性を訴えてみる。
こういう風に意見が言えるのは、まだ知り合ってから日は浅いけど、ルゥルゥが優しいと知っているから。少なくともあの拠点での侍女や医者に言うことは出来なかった。
「耳鳴りも酷かったし、吐き気と胃痛と息苦しさと心臓がバクバクする感じと……」
「それ全部言ったか?」
すかさずリヤーフの鋭い指摘が入って再び言葉に詰まる。
「う………いや………ひとつずつ小出しで………」
「今度からは該当する症状をすべて教えてくださいね。霊草から作る霊薬には多少の副作用があります………痛み止めの薬のせいで、余計に胃痛や心拍の乱れが強まっていた可能性もありますから」
「はい………すみませんでした……」
優しく諭してくれたルゥルゥは、ですが担当医はその不調を把握していなかったのでしょうか…と訝しげだ。
イリリアは脳内で、あの人は把握してても聞かれない限り積極的には情報を開示しなかったもんなぁと糸目で癖の強かった医者の顔を思い浮かべた。
「拠点では誰が診てくれてたんだ?」
「蛇人族の胡散臭い感じの糸目なお兄さん」
「え!?いえ、お花様の担当医に異性を付けることはありませんので、女性だと思いますよ。もしも男性を付けるなら、蛇人族などに頼らずアズハル様の主治医である私の祖父に担当させていたでしょうから」
「…………そうなんだ?」
「俺に聞くなよ。なに、性別不詳だったわけ?」
「声低かったし、ねっとりと嫌みっぽい話し方だったし、感情読みにくい糸目だったし……嘘ついたり酷いことされたりはなかったけど、アズハル様とか竜人族にすごい不満タラタラな感じで」
「蛇人族は口悪いしすぐに僻むからなぁ…大方、竜人族が天上を独占してるのが気に入らないんだろ。じゃあ大滝雲を上れって言ってもあいつらには到底無理な話なんだけど」
「色々あるんだね。それにしても女の人だったのかぁ……」
「もしかして男だと思って相談できなかった?」
「ううん、単に合わなかっただけ」
「じゃあ主治医がルゥルゥさんになって良かったな」
「うん」
たくさんご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします、とルゥルゥが居そうな方向へ頭を下げると、どうぞ顔をお上げくださいと慌てたような声が聞こえた。
顔を上げるとホッとしたように「こちらこそ不慣れな事も多いですがよろしくお願い致します。また目が治られましたら改めてご挨拶させてくださいませ」と言われたため、小さく頷き返す。
早くルゥルゥの顔を見てみたいなぁ…と目が治るのが待ち遠しく思う。
「声も名前も可愛いから、既に沢山癒されてる」
「顔も愛らしい人だよ」
「え……っ」とびっくりしたようなルゥルゥの声と、「え!?」とリヤーフの男前な発言に反射的に食いついたイリリアの声が被る。
リヤーフは恥じらう様子もなく「俺、白湯のおかわり持ってくるけど、母さんのクッキー食べるか?」と聞いてきた。
声がちょっと遠くなったから、立ち上がったんだろう。
「食べる」
「じゃあついでにルゥルゥさんの湯呑みも持ってきますね」
「あ、すみません、お構い無く……!」
慌てたルゥルゥと終始マイペースなリヤーフのやり取りを経て室内は静かになる。
リヤーフが天然タラシなのかルゥルゥが本気で可愛らしいのかは置いておくとして…
「……………ロマンスの予感?」
「そんな!とんでもない…!」
「ルゥルゥとリヤーフがくっついてくれたら嬉しいけど、ルゥルゥが居なくなったら困るので、その時は絶対にリヤーフに天上へ来てもらいましょうね」
決意を込めた言葉にルゥルゥは、弱りきったアズハルと同じような調子で「どうか揶揄わないでくださいませ」と言う。
接しやすいと思ったけど、ルゥルゥの真面目さはアズハルに近いのかもしれない。
それから時間を置かずにノックの音が聞こえ、扉の方からリヤーフの声が聞こえた。
「部屋に父さん入れてもいい?」
反射的に「どうぞ」と言った後にルゥルゥの意思を確認してなかった事に気づいて慌てて視線を巡らせれば、落ち着きを取り戻した声で「勿論大丈夫です。入っていただきましょう」と同意してくれた。
「失礼いたします。イリリア様、お久しぶりです」
「ルトフさん!こんな格好でごめんなさい……声が聞けて嬉しいです」
「どうぞご無理なさいませんよう。アズハル様がお戻りになるまで、私は室外で警護を担当させていただきます。何かありましたらいつでもお声掛けください」
「ありがとうございます。私がリームさんのクッキーを食べたいと我儘を言ったせいで、ご迷惑を……」
「イリリア、また涙出てる」
「え!?」
ルトフの落ち着いた声を聞いて胸に広がったのは安堵だろうか。
リヤーフの時もそうだったけれど、ようやく安心できる場所に身を置けると心が緩んで、結果として涙が溢れてしまったようだ。
「擦らずに押さえるだけな」とリヤーフから手渡してもらった布で目元をぬぐい、「痛みがおありでしたら教えてください」というルゥルゥに今は大丈夫だと答える。
「父さん、俺が少し外を見とくからイリリアと話してやってよ。アズハル様の周辺の方々のこと少しは知ってるだろ?」
「あ、では私が代わりますので…」
「ルゥルゥさんは患者見といてください。その患者は何も言わないまま急に悪化させて倒れるんで」
「う…心当たりしかない……ごめんなさい」
ルトフさんはアズハル様がまだ竜帝陛下のご実家に匿われていた頃から護衛を務めていたそうで、同期のカイスさんや主治医のスハイルさん(どうやらルゥルゥのお爺ちゃんらしい)とは顔見知りで、参謀役のユスリーさんとは直接顔を合わせたことはないものの、王宮で働く有能な出納係だったと教えてくれた。どうやら仕事を恋人や婚約者と呼ぶちょっと変わった嗜好があるようで、宮廷女官らのアプローチが面倒だから、王宮から遠まきにされているアズハルの元へ来たというなかなか癖のある人物らしい。
「とはいえ、王宮との交渉がうまい人材が手元に居るのは大きいです。イリリア様の侍女とはもう顔合わせをなさいましたか?」
「ラウダという女性と、彼女の姪っ子のラナーという子が付いてくれるようです」
「ラウダのことは覚えていますよ。快活でエネルギッシュなお嬢さんで……訓練所に来てはよく私に声援をくれましたが、その度にカイスから足先を踏まれたものです」
ラウダとカイスさんの恋物語を聞かせてもらえるのかな?とウキウキしていると、「彼女がイリリア様の侍女であることは心強いばかりですね」とルトフはあっさり話を切り上げてしまった。
残念だけど、あとはご本人やアズハル様から教えてもらうことにしよう。
ルゥルゥは「ラウダが聞けばとても喜ぶと思います」と口にしたあと、少し言い難そうに、「実は王宮で女官を務めていた私の母が、行儀指導係として加わる予定なのです」と告げた。
王宮女官という言葉に一瞬ドキリとしてしまうが、アズハルから一度聞いているし、ルゥルゥのお母さんなら安心だなと動揺はすぐに収まる。
一方でルトフはどこか緊張したように「まさかシャイマ様ですか…?」と尋ねている。
ルゥルゥのお母さんのシャイマさんは先日まで王宮筆頭女官を務めており、王妃殿下からの信頼も厚い人物で。引退を願い出てもなかなか許可を貰えなかったが、先日の騒動の一件の責任を取るというかたちで王宮を辞して南の離宮へ移ってくることになったという。
ついでに竜帝陛下の近衛を務めているルゥルゥのお父さんなサディオさんもこちらへ移りたいと申し出ているらしく、それを聞いたルトフさんは「叶えばより盤石になりますね」と満足そうに頷いて外へと戻って行った。
ちなみにルゥルゥのお婆ちゃんは王妃殿下の主治医をしているそうで、こちらは生涯を捧げると王妃殿下に誓っているため離宮へ来ることはないそうだが、家族が南の離宮に集合すると知り、スハイルさんに山ほど文句を言っているらしい。
戻ってきたリヤーフにルトフさんから聞いた話を掻い摘んで話す。
ルトフさんがあんなにもアズハル様の立場やその周辺人物について詳しいのは、それだけ密に寄り添ってきたという事に他ならない。
「アズハル様としては本当は、カイスさんとルトフさんで両脇を固めたかった感じかな?」
「大事な花嫁の順化を任されるくらいだから相当な信頼を得ていたってのはわかるな………それに本当は、誰かの元に預けたとしてもあんな風に花嫁のそばを離れる事はないし、逃げ出さないよう護衛という名の屈強な監視役を付けるのが普通だって父さん言ってたから」
「そうなんだ…」
もしも監視を付けられていたら、窮屈で居心地悪く感じて、逆に逃げ出したくなったかもしれない。そう告げると、リヤーフは何言ってんだ?と言いたげに「いや、逃げなかったじゃん」と切り返してきた。
その返答に首を傾げ、少しばかり考えて、あるひとつの可能性に辿り着く。
「ん?…もしかしてリヤーフが監視役だったの!?補佐役って言ってたじゃん」
「補佐役兼、監視役。隊士じゃないし屈強でもないけどな」
しれっと告げられた言葉に衝撃を受け、思わず硬直する。
補佐役兼、教育係兼、話し相手だと思っていたのに、まさか監視役も兼ねていたなんて。全然気づかなかった。
「騙されたぁ………アズハル様を枕で叩く理由が出来たかも」
「………だそうですよ?」
「ん?」と顔を上げれば、扉の方から困惑に満ちた声が聞こえた。
ルゥルゥの方からはどうしたものかとオロオロするような気配を感じる。
部屋を訪れたのがアズハルだと察知し、イリリアは勢いよく枕を投げつける覚悟を決めた。
「ええと……その、戻った……が?」
「ルゥルゥ、枕をください!」
「え!?は、はい!」
「お覚悟!………どこ!?」
「扉の入り口んとこだから……この角度かな」
受け取った枕を振りかぶったものの位置がわからず静止すれば、リヤーフが腕の方向と角度を調整してくれる。そのまま勢いよく振り投げれば、飛んで行った枕がばすっと何かに当たる音がした。
その後、部屋に満ちるのは沈黙。
助け舟を出してくれるのはいつだってリヤーフだ。
「なあ…何の説明もなく急に枕ぶつけられて、アズハル様が困惑しておられるけど」
「うん………待って。急に動いたから、心臓に来た………」
投げ終わった姿勢のまま動かなかったのは、動けなかったからだ。
脈が乱れて早鐘を打ち始めた心臓を無言で落ち着かせていると、右隣からは呆れたような気配が漂い、斜め向かいと扉付近から慌てる気配を感じた。
「し、診察を!殿方は室外に!」
目が見えないと気配に敏感になるものだなぁとしみじみ思いながら、もう少し元気にならないとアズハルが望むような激しい枕攻撃は難しそうだと、ルゥルゥの診察に身を委ねることにした。
▽
天上から小屋へ戻るとルトフが柔和に出迎えてくれた。
「お部屋で楽しく過ごしておいでですよ」という言葉に胸を撫で下ろす。
ルゥルゥとの関係も悪くないようだが、それでも気兼ねなく話せる相手が居たほうが気持ちが軽くなるだろうと、イリリアの熱が下がったタイミングでカモシカ族の集落まで足を運び、ルトフとリヤーフに小屋まで来て欲しいと頼み込んだ。
思いがけずリームがとても心配していて、「クッキーをいっぱい焼きますから届けて差し上げて」とルトフを後押ししてくれたのも有り難かった。
小屋の戸を開けるとイリリアを寝かせていた部屋のドアが半分開いていた。
リヤーフとふたりで過ごすのに密室にならないようにという気遣いだろうが、今はルゥルゥも中に居るようだ。
ドアが開いたままで寒くないだろうかと、戻ったことを告げるべく顔を覗かせると、思いがけないイリリアの嘆きが聞こえて硬直してしまった。
「騙されたぁ………アズハル様を枕で叩く理由が出来たかも」
話の前後がわからないため、どう反応して良いのかもわからない。
こちらに気付いたルゥルゥがハッとした表情になったものの、目が合ったリヤーフがおどけるような仕草で肩を竦めたため、深刻な話ではなく何か雑談の延長だったのだろうかと思う。
「……だそうですよ?」
「ええと……その、戻った……が?」
目が見えないためアズハルの戻りに気付いていなかったイリリアが、顔を上げるなり「ルゥルゥ、枕をください!」と指示を出す。
反射的に枕を手渡してしまったルゥルゥは展開についていけず戸惑ったままで、リヤーフは冷静にイリリアの腕の角度を調整してやっている。
「てぇい!」と勢いづけて投げられた枕が顔に直撃した。
鼻にぶつかってズリ落ちた枕を腕でキャッチする。
衝撃はあったものの痛みは殆どなく、イリリアからどのような意図で攻撃されたのだろうかと混乱するばかり。
投げたあと軽く俯いたまま動かなくなったイリリアへ、リヤーフが助け舟を出すように声を掛けたところで彼女が心拍に異常を来していることがわかり……俄かに場が騒然となった。
閉じられた部屋の扉を見ながらリヤーフに視線で問いかけると、「話の流れで、集落では花嫁の監視役も担っていたと伝えたんです」と端的に言われ、なるほどと理解した。
仰々しく監視させるつもりはなかった。そもそもイリリアはアズハルを拒絶しなかったし、故郷を恋しがることもなく、逃げ出そうという素振りすら見せなかった。
集落に着いた初日から花印に誓ってくれたこともあり、リヤーフにはイリリアを注意深く見ておいてくれと頼んだに過ぎなかった。だが、彼女の言動については細かく報告を受けていたし、監視じゃないのかと追求されれば、そうだったと認めざるを得ない。
イリリアはそれを不愉快に思い枕を投げたのかと考えたが、肩を竦めたリヤーフから「全然怒ってないと思いますよ」と言われ、首を捻る。
「だが…騙され、枕で叩く理由ができたと……」
「本気で怒ったり思い悩んだりしたらあんな風に軽々しく口にしないと思うので、おそらく…ちょっとはしゃいでみただけだと思います」
実際に枕を投げる時は楽しそうでしたからねと言われ、なるほどよく見ていると感心してしまう。
すれ違いが生まれぬよう後ほど本人にも確かめる必要はあるが、リヤーフからの言葉はどうにも信憑性が高く思えてしまう。
他にどんな話をしたのか聞き取っているとルゥルゥがイリリアの部屋から出てきた。
視線を向ければ、大丈夫ですと言うように頷かれる。
「胸の症状はすぐに落ち着きました。少し血圧が高まったせいで目の奥の内圧が上がったようで、『目がチクチクするしクッキーでお腹が満ちたので少し寝ます』とおやすみになられました」
「喋って食べて暴れて寝るって、子どもみたいですね」
「それだけ楽しく過ごせたのだろう……ありがとうリヤーフ」
「とんでもないです。こちらこそお声掛けいただきありがとうございました」
そろそろ日が暮れ始める時間だ。
いくら竜人族とはいえ、山中の移動に慣れていないリヤーフが夜道を進むのは危険だろう。
ルトフを呼んで帰還準備をしてもらおうと思っていると、ルゥルゥから躊躇いがちに声を掛けられた。その表情には困惑が揺れている。
「あの、アズハル様、イリリア様から伝言を預かっているのですが……」
「伝言?」
「その……『ルトフさんたちが帰る前に起こして欲しい。起こしてくれなかったら家出する』と……」
「いや、どこにだよ」
リヤーフからの的確な指摘に、家出という強烈なワードのせいで一瞬固まってしまった思考が再び巡る。
確かにイリリアは行き先を持たないが、彼女は生家を飛び出して野宿生活をしていた過去がある。霊峰でそんな事をすれば一瞬で命が失われてしまうだろう。
「家出は困るな……警備にはドルバを連れて来たし、日が暮れ始める前にルトフたちを帰そうと思っていたのだが、もう起こすべきだろうか……」
今寝たばかりのところを起こすのも忍びないなと困っていると、外周の警備をドルバに任せたルトフが雪を払いながら室内へ戻ってきた。
今し方眠ったばかりのイリリアがふたりとの別れの挨拶を望んでいて、起こすべきか悩んでいると告げれば、ルトフは「でしたら、ひとつご提案があるのですが……」と、頼もしくも優しい顔で頷いた。




