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17. 科戸の風




目を開けた筈なのに光も何もなく、そこにはただ暗闇があるばかりだった。


イリリア、と声が聞こえた気がして顔を向けたけれど、相変わらず何も見えないし、まるで耳に何かが詰まったかのように音も不鮮明だ。


指先を握られるような感覚があり、ぼわんぼわんと籠ったように響く音が少しだけ鮮明になる。


イリリア、と再び呼ばれた気がして、自分をそう呼ぶであろう人物の名を口にする。



「……………………アズハルさま…?」



耳が聞こえにくくなっているせいか、自分の発した声もなんだか奇妙に聞こえてしまう。


先ほどよりも強く指先を握られる感覚に、見えていないだけで、どこか近くに居るのかもしれないなと思った。


これが最後になるなら、ちゃんと伝えないと……


目の奥がじくじくと痛んだため、どうせ見えないのだからと目を瞑る。

目蓋の裏の暗闇はいつもと同じだ。



「ごめんなさい………裏切らないって花印に誓っておきながら、アズハル様を信じきれなくて………傷つけてしまいました」



喉がカサカサと渇いていて、呂律がうまく回っているかもわからない。

でも、今伝えておかなければと必死に口を動かす



(…………でも、何を、伝えればいいだろう)



この場に相応しい言葉が思い付かなくて、何度も「ごめんなさい」と口から零れる。



視界の暗闇に侵食されるように、意識が少しずつ削れ落ちていく。



手のひらをぎゅっと強く握られる感覚があったけれど、握り返すのはやめておいた。


もしこのまま死を迎えるのだとしたら、


その手を掴んだままではいけないと思ったから。











………………暗い。





意識がまた浮上するような感覚があったのに、視界は依然として暗闇のまま。

このまま一生、この暗闇を彷徨い続けるのかしら………と思っていると、不意にすぐ近くで声が聞こえた。


「イリリア様」と聞き慣れない女性の声がして反射的に身体がびくりと揺れる。


何も見えないから、自分が何をされようとしているかもわからない。

怖くて言葉もなく身を強張らせていると、右手の指先がそっと優しく握られた。

続けて聞こえる女性の声に敵意は感じられず、少しだけ肩の力を抜いた。



「………驚かせてしまい、申し訳ありません。私はイリリア様の主治医としてお仕えします、竜人族のルゥルゥと申します」


「ルゥルゥ……さん、」


「敬称は必要ありませんよ、どうぞラウダたちと同じようにお呼びください。腕に触れても構いませんか?」


「はい………………あの、私はまた倒れてしまったんですか?」


「そうですね………今回は少し、重い症状が出てしまいました。強い霊薬を使いましたが、痺れや吐き気などはありませんか?」


「それは………大丈夫です、」


喉が乾燥していて、けほ……と咳が出る。

ルゥルゥという可愛い名前の女性は、「失礼します」と上体を起こしてくれたあと背中に枕か何かを挟んでくれた。

両手を導き持たせてくれたのは湯呑みだろうか。見えないと自分の口元がどこにあるのかさえわからなくなくて困っていると、飲む作業まで丁寧に補助してくれる。


「目が見えずご不安もおありでしょう。今残っている症状や今後の治療のことをお話ししようと思うのですが、アズハル様をお呼びいたしますか?」


「いえ………これ以上、迷惑はかけたくないので…」


目が見えていないなんて知ったら、心配のし過ぎて倒れてしまうかもしれない。


………ああでも、怒らせてしまったんだった。


夢のなかでは何度も謝ったけれど、ちゃんと向き合って謝らないと。


ツキツキと細かい棘が刺さるかのように痛む目の奥と、ぐわんぐわんと揺れる耳の奥。

目が見えなくなるほどの不調を来したのだから仕方がないとはいえ、身体の中の各器官が独立して好き勝手騒いでいるようなチグハグな気持ち悪さがある。



ルゥルゥは「心配なさっておいででしたよ。イリリア様がお目覚めになったと聞けばお喜びになると思います」とフォローしてくれたけど、今は難しいことを考えるのを放棄したくて、話が終わってから呼んでもらうことにした。



どうやら夜中のうちに血圧が高まり過ぎて、目の奥の血管が破裂したらしい。


なかなか強烈な字面だと思っていると、さらに吐血までしたから強い薬が効いているうちに急いで下の階層へ運んだと言われてしまった。


決死の覚悟で天上へ向かった筈なのに、たった数日で下りなきゃいけなくなったと知り、悲しい半分申し訳なさ半分が胸に募る。


余計にアズハル様と顔を合わせづらくなったなぁ(合わせたところで何も見えないけど…)と思っていると、強い霊薬の効果が落ち着いたら、目を治すための霊薬を使いましょうと言われて驚いた。



「目は治るんですか?」


「治ります。今のままでも、時間をかければ徐々に治るとは思いますが、霊薬を使えばもう少し早く元に戻すことが出来ます」


「霊薬ってすごいですね…」


ここでまた軽く咽てしまって、ルゥルゥは丁寧な仕草でもう一度水を飲ませてくれた。この短時間で何度お礼を言ったかわからない。



話している間ずっと指先を握っていてくれるからどうしたのかな…と思っていると、気絶したまま大滝雲を降りて氷雪地帯を移動した影響で末端がカチンコチンに冷えてしまったらしく、手で温めて血行を戻してくれているらしい。

天使かな…?と、まだ見ぬ可愛らしい名前の女性の優しさに感動する。



今居るのはイリリアが大暴れしたあとに移動した南東側にある小屋のひとつだと聞き、脳裏にはアズハルと見た美しい朝日の情景が浮かんだ。



(また……見れるかな……)



あの時は、眩く昇りくる朝日よりも、その光を受けたアズハルの方が輝いて見えた。

どれだけ荘厳な景色であってもひとりで見ても意味はなく……また隣に居てくれるだろうかと考えて、チクンと胸の奥が痛んだ。



声は穏やかで落ち着いているけれど、表情が窺えないから彼女が今どんな様子でこちらを見ているかがわからない。

部屋には他に誰もいないと聞き、イリリアは初めましてなルゥルゥに、勇気を振り絞って尋ねてみることにした。

たとえ否定的な答えが返ってきたとしても、最初に知っておいてよかったと自分を宥める一助にはなるだろう。



「ルゥルゥは……アズハル様の花嫁が人間であることをどう思いますか?」



そうですね…と柔らかな声が、考えを纏めながらゆっくりと言葉を紡ぐ。


「私の祖父がアズハル様の主治医をしておりますので、アズハル様のことは昔から存じております。

お花様が見つかったとお聞きした時には、祖父と共に喜んだものです。お花様の主治医を務めて欲しいとは前々から打診いただいていたのですが、獣人族でなく人間だとお聞きし、慌てて知識の補填をしながら諸々の支度に取りかかる事になったのですけれど…」


おや…これは私のせいで苦労をかけてしまったかな?と思えば、

獣人の診察は経験していたもののさすがに人間は未経験だったため、過去の花嫁の診療記録を探して読んだり、行商を介して人間の医学書が入手できないか奔走したりしていたそうだ。

そのせいでご挨拶が遅れてしまい…と申し訳なさそうに告げられたため、むしろこちらこそイレギュラーな種族ですみませんと謝り返す。

地上の大多数を占める種族がまさか、珍種として扱われるとは思わなかった。



「過去の記録を遡っても、人間のお花様が見つかることは本当に稀なんです。イリリア様、アズハル様の祈りに応えてくださってありがとうございます」


顔こそ見えないけれど、柔らかな声には労りと思いやりが宿る。


「天上には人間の治療記録が少なく……力不足な事もあるかもしれませんが、これからどうぞ宜しくお願い致します」


温めるように両手の指先を包んで告げられた言葉に、堪えがきかなかった。


「よろしく…、……おねがいします………」


丸まるんじゃないかってくらいに頭を下げて、深々と御礼を言う。

ツキツキと痛む目からはぬくい液体が溢れ、その雫が手の甲を濡らす。



不意に扉が開く音と共に「ルゥルゥ、診察記録の件だが…」と耳慣れた声が聞こえたと思えば、「イリリア…!」と切実な想いを宿すように自分の名が呼ばれた。


目覚めを喜ぶと共に、背中を丸めて泣いていることに対して不安を覚えたのか、気遣わしげな声が掛けられる。


「………どうした?」


「ルゥルゥが………、やさしい………」


どうにか絞り出した声に、アズハルが漏らした息は安堵だろうか。

そうだな…と肯定しつつ、その姿勢はつらくないか?と背中を撫でられる。


「私の主治医であるスハイルの孫娘だ。まだ若いが知識が豊富で技能も高く、穏やかな気質だからイリリアとうまくやれるかと…」


「やさしい………ルゥルゥもラウダもやさしい……ラナーはかわいい……」


「あまり泣いては目に負担がかかる………ルゥルゥ、大丈夫なのだろうか」


「擦らないように優しく布で押さえて差し上げてください。イリリア様、目の奥が熱かったり痛かったりはありませんか?」


「熱くて…痛いです……あと、なんか視界が、暗いのに赤いのがじわじわと広がるような……」


「冷やしましょう…!」


よくわからないから感じるままに伝えたら、大慌てで冷たい布を充てられた。


アズハルからも、つらいだろうが泣いては目に負担がかかるからと、落ち着かせるように背中をゆっくりと撫でられる。

変わらず触れてくれる手が嬉しくて余計に涙が溢れてくる。


「眼底からの出血は今暫く繰り返してしまうかもしれませんね……」というルゥルゥの言葉で、この赤いのと痛いのは目の奥からの出血なのねと理解する。

時々プチプチと音がするのはもしかして小さな血管が千切れる音かもしれない。



安静にと念押しをされたあと、部屋にはアズハルとふたり残されることになった。


ルゥルゥに代わって今度はアズハルが冷えた指先を温めてくれる。

指先がカチコチだったのなら、耳先とか凍って千切れてないかな…と心配になって聞いたら、怖いことを言わないでくれと悲しそうに言われてしまった。



「イリリア………今回のことだが、」


「ごめんなさい…!」



先手必勝とばかりに勢いよく頭を下げたら、ゴチンと何かにぶつかった。

一瞬だけアズハルの呻めきが聞こえて、ちょっとだけ声がくぐもったから、もしかしたら鼻とか顎とか…とりあえず顔面付近に頭突きしてしまったのかもしれない。


見えないながらに手を伸ばしてあわあわしていると、大丈夫だと前置きしてから、アズハルは悔いの滲む声で「謝るべきは私のほうだ」と言う。



「血を吐くほどに苦しむことになったのは、花印への誓いを……破ったことが原因かもしれないんだ」



そう言われ、そういえば寝入り端に頭の中に声みたいなのが響いたなと思い出す。

『裏切り者』『竜に償え』と言っていたから、花印判定でも私が悪いという事なのだろう。

だからアズハル様は悪くないですよと告げれば、だが…と逡巡したあと、ひどく苦しそうに謝罪された。


「罰が下るなど知らぬまま、軽々しく誓い求めたのは私だ。それに、感情を御しきれずひとりで置き去りにしてしまった。ましてや私室でうたた寝まで……そのせいで寝所へ戻るのが遅れてしまい不調にも気付けず………本当にすまなかった」


「いえ、そもそも怒らせたのは私ですし、勝手に花印に誓ったのも私ですし……罰が下ることを知らなかったのなら仕方がないと思います」


もしも全て承知の上で、あれやこれやを花印に誓え!と強要された結果だったなら流石に許せないが、そもそもアズハルはひとことも花印に誓って欲しいなどと言っていない。

安心できる言葉が欲しいという求めに対してイリリアが勝手に、花嫁の証だからという軽い理由で花印に誓いを立てたに過ぎない。


翌日リヤーフから「花印に誓うのは命を賭けるのと同義」と聞いたときに、やり過ぎたかなぁと思ったのも事実だけれど、喜んでくれたならまあいいかと軽く受け流したのも事実だ。


(とはいえ、『裏切らない』っていう定義は案外難しいな……)


あの時はどちらかと言えば他の男に懸想しません…的なニュアンスが強かったけれど、今回のように相手の心を踏み躙ってしまった時も、どちらかが裏切りだと強く感じれば誓いを破ったものだと見做されてしまうという事が証明された。

『浮気しません』とかにしておけば良かったかな……でも浮気の線引きって人によって違うし……などと取りとめなく考えていると、暫く無言で居たアズハルが「私を責めないのか…?」と茫然と問うてきた。



責めるもなにも、傷つけてしまったのはイリリアの方なのだから、責任転嫁するつもりは毛頭ない。

もしかすると私室でうっかりうたた寝してしまった事に責任を感じているのかもしれないが、イリリアも起きて待っているつもりで床で寝てしまっていたし、そもそも常日頃から居眠り常習犯な自分が誰かを責められる筈もない。



「アズハル様こそ私を責めないんですか?勘違いしやがって!とか、お前なんかもう嫌いだ!とか…」


「嫌いになどならない。だが……もし良ければ、何故あのように考えたのか、その経緯を教えて欲しいとは思う」


私は不誠実な振る舞いをしていただろうか…と慎重そうに問われたため、「アズハル様に原因は一切ないですよ」としっかり告げておく。


「ではやはり、女官やナヒーダから何か吹き込まれたのか?」


「概ねそこからの情報ですけど、私が首を絞めた雷鳥さんもアズハル様から寵愛されている恋人だと言っていて…」


「は?」


思わず素が出たような「は?」に笑ってしまいそうになる。

アズハルは「心当たりがない」と心底戸惑っているようだ。


「雛の頃は、彼女の両親から請われて抱えてやることもあったが…」


「そんなに昔からのお付き合いなんですね」


「お付き合いというか……竜人と比べると雷鳥の寿命は短いからな…何世代も雛鳥の誕生を見ている。集落の長に子どもが生まれたと聞けば寿ぎに行くくらいの関わりだが…」


「生まれたての柔らかいひなどり……」


「イリリア!?すまない!リヤーフの…いや、見えないのだったか…!」


慌てた様子のアズハルの声に、ふと食欲に引きずられそうだった意識が引き戻される。

羽を毟った柔らかな雛鳥を丸焼きにする様を想像しかけていたが、『リヤーフの』という言葉に、反射的に脳裏に恐怖の黒焼きセットが浮かんで、ひぇ!っとなった。急いで口の中の唾を飲み込む。


「だいじょうぶです……黒焼きも大蜘蛛もご勘弁……」


「すまない、迂闊なことを言った。それで、その……彼女とは本当に何もない。集落に行くと近くに寄って来るなとは思っていたが、ただ懐いているだけかと…」


「じゃあナヒーダさんとは?」


「彼女の一族は確かに王族の閨指導を請け負う家系ではあるが、未婚で出産経験のない女性は指導員にはなれない。万が一身籠ってしまったら一生が狂うことになるからな」


竜人族の女性は一般的にふたり以上の子を安全に生むのが難しいとされるため、確かに場合によっては大問題になりかねない。

一方で既に出産経験のある女性は身籠る確率がさらに下がるため指導員になったとしても問題は起きにくいという。


「私の指導をしてくれたのは彼女の祖母にあたる。その……イリリアがそういう事に対して嫌悪感を抱くのであれば誠心誠意謝るしかないのだが……規則として、成人を迎えた夜に一度だけ指導を受けることになっているから…」


「一度だけ!?」


ぎょっとした声を出したイリリアに、アズハルは気圧されながらも「一度だけだ」と頷く。

もっとこう……熟練するまで繰り返し指導を受けるのを想像していたと告げれば、それはない!と大慌てで否定されてしまった。


普段の純情初心な反応を思い出し、だからなのね…と納得する。

王子様だし年上だし美丈夫だから経験豊富だろうと自分勝手に思い込んでいたが、すべて先入観でしかなかったのだと改めて思い知る。


無言になってしまったイリリアに不安が募ったのか、アズハルから緊張したような空気が漂ってきた。

目が見えないから表情はわからないが、これまでの経験上、おそらく悩ましげな顔をしていることだろう。

頭を撫でてあげたいところだけれど、両手は引き続き指先を温めるためにと握られたままだ。


イリリアは「誰かに言われた言葉だけを鵜呑みにしたわけではなく…」と、自分の中にも誤解を深める要素があったのだと伝えておく。



「私の故郷の王様にはお妃様が十二人居て」


「十二!?」


「王子殿下にも、正妃こそまだ居ないけど愛人は既に五人以上居るって噂で…」


「正妃も居ないのに愛人が居るのか……?」


「そういう国で育ったから、王族が子孫を残すのは義務だと思っていたし、たくさんの女性を相手にしなきゃいけないから大変だなぁ……くらいに感じていて」


途中途中で挟まる相槌に込められた感情からも、イリリアの故郷に於ける常識はアズハルにとっては未知の領域であったようだ。



好きだと言ってくれたことや、長年花嫁を探し続けていた気持ちをまでをも否定したかったわけじゃないこと。

ただ、竜人族の婚姻制度についての知識は断片的にしか持っておらず、花嫁は正妃としての枠を埋められる唯一の存在というだけで、他に側妃や愛人的な存在は居て当然だと思い込んでいたことなどを、どうにか言葉を選びながら伝える。



アズハルはイリリアの言葉にじっと耳を澄ませ、最後までしっかり聞いてくれた。

最後に「傷つけてしまってごめんなさい」と改めて告げると、それはもういいんだとばかりに指先を優しく撫でられる。



少しの沈黙のあと、硬い声で「ひとつだけ聞かせてくれないか」と言われ、何だろうかと首を傾げた。



「……イリリアはそれで良かったのか?私が、複数人の女性を相手にしていても、平気だったのだろうか」



慎重な問いかけに、ああ、彼はそれこそが不愉快だったのね…と理解する。


王族だから仕方ないと思っていたのは確かだし、側女を許容するような言い方をしてしまったのも間違いない。

王太子妃殿下の星花印を「美しい」と言ったアズハルに嫉妬してみせたように、たとえ政治的な理由があるのだとしても、他の女性の元になんて行かないで欲しいと素直に告げていればまだ良かったのだろう。



私だけであって欲しいと、思わないわけがない。


……だけど、そう願えない理由もあった。



唇が震えないよう意識しながら、頭の中を整理して、言葉を選ぶ。



「………年齢が年齢だし、成人してから花嫁が見つかるまでに五十年もかかったんだから、その間に誰かと深い関係になったとしても不思議じゃないとは思いました」


「イリリア、そうではなく……」


判断した経緯ではなく、私が側女を持つことに対してイリリアがどう思うのかが知りたい…と改めて言われ、思わず笑顔が歪んでしまった。

アズハルも気づいたのだろう、イリリア…?と怪訝そうに問いかけられ、堪えていた堰が切れた。


目からは再び生温かい液体が滲んでは零れ、唇はみっともなく震えてしまう。



(泣くなって、言われたのに……)



アズハルは難しい立場にありながらも、多くの人に慕われ、幸せな未来を願われている。

そんな人に対して、私だけの王子様で居てなんて、どうして言えるだろう。



イリリアは異種族の人間で……地上に数多いる人間のなかでも底辺に近い存在だ。


お金に換わる以外に価値はなく、この肉体以外に捧げられるものはない。


王子様(アズハル)の隣に並び立つには、あまりに不釣り合いで、……あまりに。



アズハルの事を知り、その存在を愛おしく思うほどに、彼の運命の花嫁という唯一無二の枠組みに自分のような人間が選ばれてしまったことが無念に思えて仕方がなかった。


人間なんてごまんといるのに。

もっと容姿も心も美しい人は、たくさん居るのに。


「ごめんなさい…」と言葉が震える。



「花嫁が私なんかで……ごめんなさい……もっと……誰にも誇れるような、そんな存在だったらよかったのに……こんな、塵屑みたいな私で……ごめんなさい、」



イリリア!と咎めるような声が聞こえたけれど、一度堰が壊れてしまったからには止まらない。


自分がどれだけ無価値なのか、嫌というほど知っている。


母親には生まれたことを否定され続けた。

お前なんか産まなければ良かったと蹴り飛ばされ、どうにか許されたくて「生まれてきてごめんなさい」と地面に頭を擦り付けて謝ったところで「そうね」と冷たく踏み付けられるばかり。

ならばどうして生かすのかと聞いた私に、父から殺さず生かしておけと命じられたのだと悔しげに言った母は、私の幸せを奪ったお前なんか無残に死ぬためだけに生きればいいわと吐き捨て、それから二度と私の名を呼ぶことはなかった。


『女』という商品としてただ売るために生かされ続けた自分は、何も持たないのだと嗚咽混じりに告白する。

金銭と引き換えにやり取りされて、消耗され消えるだけの人生だった。


そんな人間が、花の印があるというだけで、選ばれてしまった。

もっと美しくて、もっと丈夫で、もっと優れた人物であれば、きっとアズハルはたくさん幸せになれただろう。


そう思うと、申し訳なくて、苦しくて、堪らなくなる。



薄暮の小屋でアズハルから受け取った告白を忘れることはない。


探し続けた花嫁(運命)を彼が手放せないことも知っている。



けれども本当は、麗しの王子様から好きだなんて言ってもらえる存在ではないのだ。

優しいアズハルの心を利用して、無理矢理その言葉を引き出して、自分勝手によすがにしていただけ。

でもその言葉(よすが)さえあれば、この先どんな理不尽な目にあっても大丈夫だと思えたから。



(他の誰を愛してもいいから、私が死ぬまではどうか、そばに居て……)



なんてひとりよがりで、自分勝手な想いだろう。


だけど、優しさに触れてしまったから……愛を知ってしまったから、ひとりぼっちで死ぬのはもう嫌だった。




言葉が喉に詰まって出てこなくなったイリリアの身体が、大きな腕に包み込まれる。

ぎゅっと抱きしめながら、「すまない……ひどい問いかけをした。言いたくないことをたくさん言わせてしまった」と悔恨の滲む声で言われ、悪いのは貴方じゃないと懸命に首を振る。



「……たとえ誰に何を言われようと、これまでどんな目に遭っていようと、私が求めるのはイリリアだけだ。だからどうか、花嫁であることを悔やまないでくれ。自分のことを塵屑だなどと…悲しいことを言わないでくれ」


「でも、私には……花しか、ない……」


「そうだ……花印があるから出逢えた。私はイリリアと会って初めて、王族であることに救いを見た……王族であったからこそ、イリリアという花を得ることが出来た。それまではただの政争の道具でしかなかったこの身に、初めて慈しめる宝が出来た。

イリリアも、私と会えて良かったと……そう思ってくれるか…?」



そんな事、聞かれなくても当然のことなのに。


貴方が居てくれなきゃダメだった……と、引くつく喉から搾り出せば、私もだと震える声で返される。


縋るように手を伸ばし、その身体にしがみつく。

アズハルも隙間が出来ぬくらいに強く抱き返してくれる。


消え入りそうな声で「好きだ」と聞こえたから、私もと伝え返す。

どうしようもないくらいに…世界にふたりだけ居ればいいと思える程に。


全部あげたい。命も、祈りも……そして許されるなら、貴方のすべてを私だけで満たしたい。




抱き合ったまま泣いたせいで、また目を冷やさなければならなくなった。

痛いのか熱いのかよくわからないし、目蓋の裏が真っ赤だと言ったら心配をかけてしまうだろうな…と思ったけれど、悪化させてしまったのは確実だから、あとでルゥルゥにはちゃんと伝えなければいけない。


「タオルを冷やし直そうか」


「ありがとうございます…でも、腫れてて不細工だからあまり見ないで…」


「私も泣いているから、おあいこだろう?」


「見えない…!」


貴重な泣き顔が見えないなんて、こんなにも悔しいことはない。


目が治ったらまた泣かせてみせますからねと宣言すれば、それはどうなんだろうな…と苦笑されてしまった。



気遣ってくれているのかルゥルゥが部屋を訪れる様子はなく、赤くて暗い目蓋の裏をぼんやり眺めながらイリリアはアズハルにもたれ掛かった。


いっぱい興奮したせいで熱も出始めたみたいだけど、既にどこもかしこも不調だからあまり気にならない。

タオルを冷やし直してくれる音を聞きながら、ひとつだけ『これから』の提案をした。



「アズハル様……喧嘩をしませんか?」


「ん?」


「お互い気を遣い過ぎてる…ってリヤーフに言われたことを、今になって思い出しました。

だから、言いたいことはその場でちゃんと言えるように練習しましょう。花印から問答無用の裁きを受けないように、これからは何かしらの行き違いがあったときは、相手の気持ちを推し量るばかりじゃなくて、ちゃんと声に出して態度で示して、喧嘩しましょう?」



そう伝えたら、少し考え込むような気配のあと「だが……喧嘩とは、どうやればいい?」と真面目に聞き返されてしまった。

イリリアの脳裏にはかつて兄三人がやっていた馬鹿とか阿呆とか言いながら叩き合っている稚拙な喧嘩の光景が浮かんだものの、アズハルとやりたいのはそういう事じゃない。



「私はあまり口喧嘩は強くないのだが……」


「私もそんなに強くないですけど……じゃあ試しに、お互いに不満なところをひとつずつ言い合って、それぞれごめんなさいしてみます?」


「不満……?」


「ほら、寝相のこととか…」


「元気な事はいいことだ。それに、愛らしいばかりだから何も不満はない」


「よく倒れてしまうし…」


「天上へ連れて行くために無理を強いてしまい、申し訳なく思っている」


「……ナマケモノ族だし」


「人間だと思っていたが、いつのまにか種族を変えたのだな…」


小さく笑われてしまったけれど、目が見えないあいだはどこへ行くにしてもアズハルに運んでもらう必要がある。アズハル様が居ないとどこにも行けない…と言えば、少しだけ嬉しそうな「そうか」が聞こえた。

天上でも思ったけれど、もしかするとアズハルは大事なものは抱えて持ち歩きたい派なのかもしれない。


ひやりと冷たいタオルが額と目元を大きく包む。どうやら熱が出ていることはバレているようだ。


「……イリリアの、私に対する不満を聞かせてくれないか?」


「寝相で元気かどうかを判定しないで欲しい」


「だが……体調が悪い日は、あまり動かないだろう?」


困惑したように返されて、ぐうの音も出なかった。

確かに、イリリアは体調を崩しているときはベッドから落ちない。転がるのは、アズハルと仲良く元気に共寝をしている時だ。



「………喧嘩って難しいですね」


「ああ……ラウダに聞いたらもう少しわかるかもな……」



彼女はカイスの隣に立つにあたって、その辺の恋敵たちを千切っては投げまくっていたし、口喧嘩でも基本負けなしだ……と言われ、そんな楽しい情報をどうして今言うのかとちょっと叱りたくなった。

天上に戻ったら、ラウダに恋物語な武勇伝を語ってもらうとしよう。







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