16. 花の裁き
▽アズハル視点
「ごめんなさい…」と呟いたイリリアは怯えてはいなかっただろうか。
離れの入り口に立つカイスが、普段とは違う様子で出てきたアズハルを呼び止めた。
今は喋りたくない気分だとそれに応じず通り過ぎようとすれば、滅多なことでは持ち場を離れない彼が数歩進み出て、腕を掴んでくる。
「………必ず、夜のうちにお戻りを」
「わかっている……少し、頭を冷やしてくるだけだ」
「事情はお聞きしませんが、共寝の誓いを破ることを軽く見られませんよう。ラウダは仕事で寝所を離れた私を翌朝、骨が折れるほどに滅多打ちにしましたので…」
そう告げるカイスの表情は真剣そのもので、揶揄されているのではないと一目でわかる。
「イリリアはそんな事はしない」と言いかけて、今の自分に彼女の何がわかるというのだろうと自嘲してしまう。
(あんなにも信頼を寄せてくれて、兄上の花嫁に嫉妬までしてくれたというのに……その裏では私の不貞を当然のものとして受け止めていただなんて……)
昼にナヒーダからも何か吹き込まれたのだろうが、それを疑いなく信じたことが……まるで他の女と関係を持つことを許容するかのような物言いが、どうしても信じられず、ひどく裏切られたような心地だった。
「………カイスは、ラウダから浮気を疑われたことはあるか?」
「交際前は何度も……好きで女を侍らせているのではないかと言われました。群がる女くらい自分でどうにかしろと横っ面を叩かれたこともあります」
「そうか……まあ、ラウダならそうするだろうな…」
質問する相手を間違えたか…と思ったものの、立ち話をしたおかげで少し頭が冷えた。
カイスの後ろにある、今出てきたばかりの扉を見つめる。
イリリアは今、どんな様子だろうか。
強い言葉と剣幕で怒鳴りつけてしまったからには、きっと怯えていることだろう。
下の拠点で布団に包まったまま涙を流していた姿を思い出し、胸が痛む。
ただ、今すぐに彼女の元へ戻るには、まだ感情の整理がついていない。
(再び声を荒げるような事があれば、大きな負担になるだろう……)
ラウダの大声で脈を乱し、心臓を押さえて倒れ込んでからまだ一日しか経っていない。
先ほどの自分の振る舞いは負担にはならなかっただろうかと後悔が湧き出て、余計に感情が乱れ始める。
「必ず戻るが……もう少し頭を冷やしたい」
「私はそろそろ交代になりますが、ある程度の時間で声掛けなどは必要ですか?」
「子どもではないのだから、そこまで面倒をかけるつもりはない。御池に入ってから戻るつもりだったが……その前に少し、執務室へ寄ろうと思う」
夜通し仕事をしようとするユスリーが残っているのは確実だろう。
彼は冷静に状況を判断してくれるため、今のように感情的になった時にはよく愚痴を聞いてもらい相談に乗ってもらうことがある。
カイスと別れ、離れと私邸、執務棟を結ぶ三叉路でひとつため息を落としてから、目的地へと足を向ける。
執務棟の前に見張りとして立っていたサイルが気遣わし気な視線を送ってきたが、言葉の応酬をする気にはなれず無言で頷くに留め、中へ入る。
メインとして使っている執務室の扉向こうはランプの灯りが揺らめいていて、何度「燃料の無駄だ」と苦言を呈しても夜中まで仕事を続けるユスリーが居残っているのは明白だった。
(いつもは早く休めというところだが……今日ばかりは有難いな…)
予想に反して室内にはユスリーだけでなく主治医のスハイルも休憩中のドルバもおり、扉を開けるなり一斉に向けられた視線に苦い気持ちになる。
「………おや、早くもお戻りですか?」と尋ねたユスリーは、アズハルの表情から何が起きたかを早速推測し始めている。
「不貞腐れた顔をなさって如何しましたかな?」と休憩用のテーブルで嗜好品の酒を煽っていたスハイル翁は何もかもを見通したような目で微笑んでみせ、
その向かいでスハイルの話し相手になっていたのか、近衛のドルバは空いている椅子を引いて勧めてくれた。
馴染み深い面々を前に、波立っていた感情が不思議と凪いでいくようだ。
「あれだけ喜び勇んで寝所へ向かわれたのですから、おおかた、花嫁の機嫌を損ねて共寝を断られたというところですか」
「枕だけ置いてお戻りになるとは律儀なことですのぉ。花のご機嫌次第では、明日は袋叩きに遭われることかと」
ユスリーとスハイルは、今宵のアズハルが枕を持っていそいそと花嫁の元へ向かったことを知っている。
大滝雲を遡り天上に至って以降、寝台のそばで看病は続けていたが、隣で眠ることはずっと我慢していた。
まだ目覚めない…と心配しすぎて落ち込む姿も見られているし、今日の夕刻にイリリアの目覚めの報告を受けた後は、調子が悪くなければ今夜からまた共寝ができると浮かれていた姿も見られている。
近衛のドルバはカイスよりも幾分か年下ではあるが、寡黙で落ち着いた雰囲気の者だ。
「彼らと少し密談をしたい」と告げれば、諸々察してくれたのか飲み物の支度を整えると一礼して部屋から出て行った。
冷えた水、ぬるめの白湯、寝酒の三種類を置いて行ってくれるところが気遣い屋の彼らしい。
椅子に腰を下ろすなりスハイルが自分の飲んでいた酒の猪口を差し出して来たため、受け取って一気に煽る。
「……っ、強いな…」
「歳を取ると色々と鈍感になるものですからのぉ」
思いのほか強い刺激に喉が焼けるようだ。
ちょっと涙目になりながら追加で水を流し込めば、わだかまっていた感情が一緒に内腑へ流れ落ちるような心地になる。
「落ち着きましたかな?」と長い眉毛で隠れる目を細めてみせたスハイルと、
「愚痴と答え合わせはお早めにどうぞ」と、どんな時でも執務机から離れないユスリーに苦笑しつつ、花嫁の機嫌を損ねたのも確かだろうが……ついカッとなって出てきてしまったのだと白状する。
おや?と珍しいものを見るような目を向けてきたふたりに、どんな言葉で説明したら良いのかわからず、部屋に少しだけ沈黙が落ちる。
「………………他の女と関係を持つものだと思われていた」
いつまで共寝は続くんだろうと聞いてきた時の、イリリアのキョトンとした顔を思い出す。
悪気なく、共寝をしない日もあると信じている様相で……他の女の元へ行くのは当然だとばかりに尋ねられたことが何よりも衝撃的だった。
ずっとそばに居てと言ったのは、自分だけを大切にして欲しいという意思表示じゃなかったのだろうか。
「私はそういう振る舞いをしたつもりは一切ないのに、何故疑われたのだろうか………それに、嫌がる素振りもなく他の女との同衾を許容するなど……まるで……裏切られたような心地になって……」
声を荒げてしまったし、そばに居るのが苦しくて、ラウダに場を預けて出てきてしまった…とあの時の状況を見直しながら改めて言葉にすると、落ち着き始めていた心が再び攪拌されるかのように千々に乱れる。
(カモシカ族の集落にいた頃から毎夜共寝を続けたというのに、私が花嫁をどれだけ探し続けたかも伝えたのに……彼女は一体いつから、私の心を信じていなかったのだろうか)
「なるほど…」とユスリーが得心気味に頷いたことで、煮詰まっていた思考が一瞬だけ冷静になる。咄嗟に、今は混乱しているだけだと言い訳のように補足する。
昔から自分を知ってくれている顔ぶれに気が緩み、つい口から不満が零れてしまったが、イリリアばかりを責めるつもりはない。
おそらく自分の振舞いのどこかにも欠陥があったのだろう。
だが、それが何か自覚できないからこそ困っているのだ。
戻って説明し、誤解を解くことは出来る。彼女は話せばちゃんと耳を傾けてくれる人だ。
けれども今後、どうすれば同じような誤解を受けずに済むか……自分に必要なのは花嫁だけなのだと信じてもらえるか、わからないのだ。
情けなくもつい項垂れてしまうと、背中にスハイルの皺立った手があてられた。
「宮廷女にしてやられましたのぉ」
「宮廷…女に…?」
見上げたスハイルの顔は困ったように眉が下がっており、ユスリーは「あれだけでは賠償が足りなかったな」と苛立ったように机を指で叩いた。
「アズハル様は毒のように滴る悪意を読み解く経験がまだ浅くておられますからね……それにしてもお花様が疑念を胸の内に留める気質だったとは、完全に読み違えました」
「カイスやラウダが言うには、アズハル様が傷つかぬよう振る舞われるお優しい方とのこと……おそらく、第二王子であり正妃の子ではないという立場を鑑みて、口を閉ざしてくださったのでしょうな」
「まあ実際に、竜帝陛下が庇ってくださらない限り、あの一族の女を捩じ込まれる可能性は大いにありますからね………この先、最悪の場合があったとしても、そのように覚悟が出来る御方であれば逆に安心ともいえる」
「たとえ覚悟なさったとしても、たったひとりで天上まで来られた花嫁にそこまで我慢を強いるのは如何なものかと。いざとなればこの老骨を削ってでもどうにかしましょうぞ」
「なに………?」
ユスリーとスハイルのふたりだけで、全てを理解したかのように交わされるやりとりを呆然と眺めることしかできない。
ため息をついたユスリーが理論的に、苦笑したスハイルが噛み砕いて話してくれた内容をひとつずつ飲み込んだあとは、これまでの憤懣とした感情を忘れてただ愕然とした。
「………女官たちの企みだと…?」
「おそらく事実や詳細を教えることなく、彼女らにとって都合の良い事だけを聞かせて誤解を植えつけたのでしょう。
竜人族の、ましてや王族の抱えるしきたりは他種族にとっては煩雑ですから、何も知らない者が、竜帝には花嫁である王妃の他に側女が居るという事実を聞かされればどう思うことか。
さらに竜人族であるファティナ様を特別視するようなやり取りもあったとなれば余計に好都合。それを踏まえたうえで、王子は異種族の花嫁とは別に、然るべき竜人族の女を娶る必要があるのだと思い込ませれば、そういう習わしかと誤解する可能性は高い」
「だが、王妃殿下は竜人なのだから…」
「花嫁はそれを知っているのですか?」
ユスリーからの鋭い指摘に慌てて記憶を探ってみたが、アズハルの口で直接説明した記憶はない。
誰かしら…リヤーフや女官らが教えているものだと思い込んでいたか、あるいはそんな事は常識だからと全く気にも留めなかったか。
(確かに……王太子妃殿下は竜人族であるとは伝えたものの、王妃殿下については全く触れていない…)
王太子しか子を産んでいないのだから察しろと言うのも酷な話だろう。獣人であれど多産でない者も居る。
言葉を失うアズハルの頭上を、スハイルとユスリーの言葉が飛び交う。
「昔からよくある手法ですな。そうやって夫婦仲に歪な亀裂を入れておいて、利用する……疑心暗鬼を抱かせれば、文化や風習の違いが勝手に亀裂を深めてくれますからのぉ」
「先代竜帝の花嫁もその手法で嵌められ、悲嘆の末に自害したのではありませんでしたか?怒り狂った先代により宮廷にいる血統主義者共の多くが粛清されましたが、北にはまだ根強く蔓延っていますからね」
あまりに卑劣な遣り口に驚愕で言葉を失ってしまう。
先代竜帝の花嫁が自死したことは聞き及んでいたが、まさか謀略の末の悲劇だとは知らなかった。
冷静であれと思えば思うほど、沸々と湧き上がってくるのは怒りだろうか……
王族にとって唯一無二である花嫁を、醜い感情のままに貶めた女官ふたりの顔を思い出し、彼女たちの処断を兄や王妃に任せるべきでなかったという強い感情が膨れ上がる。
「………あの場でツノを捻じ切ってやればよかった…!」
「そうすると女官らを派遣した王太子殿下との諍いになりますので、あの対応で宜しかったかと」
怒りを過分に孕んだ呟きは、ユスリーの冷静な指摘によって止められた。
「やはりもう少し賠償を多く取っておくべきでしたね」という知略家らしい言葉に、そうだがそうじゃないんだ…!と、どれだけの賠償を得ようとも発散されることのない、けれども行き先を失ってしまった感情を歯痒く思う。
アズハルの心の動きを理解しているものの静観の構えを貫いていたスハイルは、唐突に「ところで」と話を切り出した。
「お花様の故郷はどのような習慣をお持ちか、ご存知ですかな?」
「スハイル?いや……彼女はあまり、故郷のことを話したがらない」
「ふむ……人間は繁殖力が高い…集落や国によって制度は違うようですが、ひとりの男が複数の女を妻とすることもあると聞きますゆえ。お花様にとっては、王子が側女を得ることは『当然』という認識であった可能性もあるかと…」
アズハルの意識に根付いた天上のルールがあるように、イリリアの中にも根付くものがあるのではと言われ、今更ながらにハッとする。
確かに彼女は初めての共寝の際に躊躇いなく身を差し出そうとしてきたし、竜胆の花を与えた夜にも、口付けをしたいがどのような規制があるのかわからないと聞いてきた。
竜人族側の決まりを伝えれば理解を示してこちらに合わせてくれるからとすっかり甘えきっていて、完全に失念していた。
(そうか……彼女の中で私は、夫である前に『王子』なのか…)
念願の花嫁を得たのだと浮かれきっていた心が、今になってようやく現実を見始める。
「王族だが立場が弱い」「道具として生まれた」などと弱音を吐いておきながら、彼女がそれを深読みしないとどうして考えていたのだろうか。
(立場の弱い男であれば尚更、政治的な理由で側女を押し付けられると考えるのは当然の流れではないか……)
誰からどれだけ悪意の潜む言葉を吹き込まれたかはわからない。自分の言葉が誤解を生む発端となった可能性だってある。
それもこれも全て、順化を優先しているように見せかけて、彼女が嫌だと逃げ出さないよう、必要な情報も薄暗い事情も出来るだけ隠しながら小出しにして伝えてきた自分の咎だ。
(だが……私はイリリアにだけは、『王子』という肩書きを持つ私のことを、後継者を作るための道具と見做して欲しくなかったのだろう……父のように、王族の血を絶やさぬためにと、嫌々ながらも花嫁以外に情けを与えなければならなかった例を知っているから……)
自分が『そう』なる可能性があるのだと認めたくはなかったし、それを花嫁から指摘されるのはもっと苦しかった。
だからこそこんなにも、心が揺れて乱れてしまったのだ。
「……何と伝えたらいいのだろうか………ユスリーの言った通り、結局のところ私は、父上からの庇護なしには自分の身も守れない。それを告げて……失望されるのが怖い」
「これまで共に困難を乗り越えて来たアズハル様にしか、お花様の反応は予測できないかと。とはいえ、側女を容認する懐の広さがあるのですから、貴方の立場の弱さくらいは受け入れて下さるでしょう」
「ユスリー、アズハル様の悩んでおられるのはそういう事ではなかろう。
そうですなぁ…もしも失望されたら、その時はその時。気が済むまで泣けば宜しい。誠実さを示すには時間がかかりますから、焦らず時間をかけてお気持ちを伝え続けるしかないでしょうな」
苦悩するアズハルに対し、「運命の花嫁だろうと絶世の美女だろうと、女から見限られることへの恐怖は私には理解できませんね」と切り捨てたユスリーは、すっかり興味を失った様子で仕事を再開し始めてしまった。
仕事が恋人だと豪語し続ける彼の確固たる姿勢には堪らず苦笑が漏れる。
妻帯者で子も孫も居るスハイルは「色恋など失敗してなんぼですので、たとえ恋に敗れてその身が砕け散ったとしても爺が責任持ってくっつけて差し上げますぞ」とにっこり笑った。
ある意味いつも通りのふたりの様子に、鬱屈としていた気持ちが楽になると同時に、自分ばかりがこのように信頼出来る者たちに相談できる環境であるのだと顧みて、寝所にひとり残してきてしまったイリリアの孤独を思う。
ラウダに頼みはしたが、まだ顔を合わせて数日の相手では、胸の内を吐露するには至らないかもしれない。
イリリアには自分しかいないのだから、弱気を晒すばかりではいけない。
たとえ失望されようとも罵られようとも胸が痛むほどの悲嘆を目の当たりにしようとも…
彼女の話を聞き、考えを知り、それと向き合わなければ。
「……水を浴びて覚悟を固めたら戻る。もう寝ているだろうから話し合いは明日になるだろうな…」
「目覚めてすぐの話し合いを嫌がられるようでしたら、あちらの心が整うまで時間を置けば良ろしいかと」
「まずは置き去りにしたことを謝罪して存分に枕で叩いてもらい、それから話し合いを始めた方が良いかもしれませんね」
アズハル様が居なくとも滞りなく回せるくらいには優秀ですので明日はこちらへ来なくて大丈夫ですよとユスリーに言われ、頼もしいやら不甲斐ないやら、微妙な気持ちで執務室を出た。
私邸の庭を回り込み、キンと冷たい水を湛えた御池を覗き込む。
水面にゆらゆらと揺れる月は細い三日月で、イリリアからの呼びかけを受けた日は満月だったな…と、幸福な記憶の一端を引っ張り出す。
花印を月光に晒して水浴びをする彼女の姿は壮麗でありながらも儚く……顔にかかった水飛沫が、まるで涙のように見えた。
(早く、謝りに行こう……)
これ以上ひとりにしてはいけないと……何よりも自分が一刻も早く花嫁の元に戻りたいのだと、心の訴えに頷き、向き合う覚悟を決める。
手早く寝間着を脱いで冷たい御池にトプン…と浸かる。
鱗のおかげで凍りはしないが、流石に深夜の水浴びは身に沁みる。
タオルと替えの寝間着を用意していないことに気付き、やはり今の自分は冷静ではないのだなと改めて苦笑する。
「イリリア……」
細く欠けた三日月を見上げて、最愛の名を呼ぶ。
「ごめんなさい…」と泣きそうな顔で謝罪した彼女の姿がくっきりと思い出され、心急くままに池から出ると、濡れた身体を整えるべく私室へと急いだ。
▼
美しい湖のほとりで、みずぼらしい格好の少女が座り込んでいた。
顔を両手で覆ってさめざめと泣く彼女の身に、一体どんな悲しい事があったのだろうとひどく気になった。
その細く小さな背中に見覚えがある気がして、一歩二歩と少女へ向かって足を踏み出す。
歩み寄るにつれて、少女の左胸にキラリと光るものが付いているような気がして目を凝らしたが、それが何かはわからない。
ただ、顔を覆って涙しながら、『 』して………と呟いた彼女の声が、
痛いくらいに胸を締め付けた。
▼
ふと寒気を感じて目を開けた。
真っ暗な部屋の中、ここは何処だったか……と周囲を見回し、私室であることに気づく。
「…………寝てしまっていたか…」
覚醒に至らない頭で、イリリアの意識は戻っただろうか…と思い、ふと、そういえば夕方には目覚めたとラナーから報告を受けたはずだと思い出す。
断片的な記憶を辿り、共寝に向かった先で、イリリアを置いたまま寝所を出たことを思い出した。
カイスと話してから執務室へ行き、御池で頭を冷やしたあと、着替えを取りに部屋へ戻ったところまでを思い出す。
(そのまま寝てしまった……のか?)
直前まであんなにもイリリアの元へ戻らなければと思っていたのに、着替えてからの記憶がパタリと途切れている。まるで唐突に意識を失ったかのような不自然さだ。
それに変な夢を見たせいか、頭がなかなか再稼働してくれない。
(戻ると約束したのに……)
幸か不幸か外はまだ薄暗く、空の色から夜明け前だとわかる。
こうしてはいられないと立ち上がり、背筋や腕を這い上がるような寒気にぶるりと身を震わせた。
「………………なんだ?………寒い?」
手のひらは小刻みに震えているし、身体の芯から寒さが広がっているような感覚がある。
霊峰に生きる竜は寒さに強い。
多少の冷えを認識することはあっても、このように明確に「寒い」と感じることはなかった。
寒さに震えるなど、まるで彼女のようだ……と思いかけ、ゾッとした。
「イリリア……?」
そうだ、竜である自分がこんなにも寒くなる事などありえない。だとすれば感じるこの不調は花嫁のものである可能性が高い。
慌ててイリリアの胸に咲く花印を思い描きながら、意識を絞るようにして探る。
動揺して早鐘を打つ自分の鼓動に紛れて、僅かに心臓が引き攣れるような感覚があり、一気に血の気が引いた。
心で呼びかけても応えるものはない。
ただ、何かが滑り落ちては失われていくような予感が続いている。
叩き割るような勢いで扉を開け、屋敷を飛び出す。
長く伸びる廊下をもどかしく思っていると、寝間着姿のラナーが向かいから走って来るのが見えた。
嫌な予感が急速に実体を帯びていく。
「ア、アズハルさま…!」
「ラナー、何があった!?」
「ラウダが、急いで呼んで来てって、……爺様も!」
泣きそうな顔で告げられた言葉から詳細を読み取ることは出来なかったが、皆から爺と呼ばれるスハイルも指名されたということは、それだけの事が起きているという事に他ならない。
彼は主治医としてすぐに駆けつけられるよう、私邸の一角に部屋を持っている。
アズハルは「先に離れへ向かう!スハイルを連れて戻れ!」とラナーに告げ、全速力で廊下を駆けた。
離れの扉前に立つ警備のクルスムは、弾丸の如く飛び出して行ったラナーと、顔色悪く駆けて来たアズハルの様子に驚きを隠せないでいるようだ。
転がるように飛び込んだ控えの部屋は無人のまま薄暗い。
奥の寝室の扉が開かれたままであることに気付いて、うるさい心臓を押さえながらその向こうに足を踏み入れる。
誰かを抱え込んでいるかのようなラウダの背中の隙間から、床に投げ出された細い腕が見えた。
現実逃避を始めた頭が、転がってベッドから落ちたのか…?などと呑気な事を思う一方で、
こちらを振り返ることなく深く項垂れたラウダの首が、最悪の可能性を告げている。
「ラウダ……状態は……」
早く駆け寄りたいのに、足が重い。
どうにかラウダの隣に立ち、見下ろした先に倒れて居たのは、血の気を失って蒼白になったイリリアだった。
髪は乱れ、こめかみに赤い筋が入り僅かに血が浮いている。指先には数十本もの髪の毛が千切れて引っかかっており……尋常ならぬ事があったのだと、嫌でも理解できた。
崩れ落ちるように膝をつき、その頬に触れる。
たくさん泣いたのか目が腫れていて、頬には乾いた涙の筋がいくつも残っていた。
「……寝台へ上がって頂き、就寝のご挨拶をしたのは夜中を過ぎてからです。一刻ほどしてご様子を窺いに来たところ……頭を抱えて苦しんでおいででした。額や目元は燃えるように熱いのに四肢はひどく冷たく……呼びかけても意識は朦朧とされておいでで、先ほど……意識を失われたところです」
ぽつり、ぽつりと語るラウダの言葉を茫然と聞きながら、ひどく冷たいイリリアの身体を胸に抱える。
目元やこめかみが驚くほどに熱いことに対して、心配するよりも先に、まだ生きている…と実感して泣きそうになる。
布を冷やして参りますと立ち上がったラウダが戻るまで、ただぼうっとしていた。
冷たく絞った布で額と目元を覆いながら「何度も、痛いと呻いておられて……」と噛み締めるように口にしたラウダは、その空色の瞳でこちらをまっすぐに見た。
意思の強い眼差しが向けられると、自分はこの離宮の主なのだと嫌でも理解させられる。
彼女からの言葉を聞き逃がさないよう、脳を叱咤して頭を働かせる。
「こめかみを掻くほどに苦しむことは、これまでもあったのですか?」
「いや……あの雷鳥の一件以外で、ここまで苦しんだことはなかったはずだ」
あの時も、泣いて暴れることはあったが、こんなにも身体が冷え切ることはなかった。
むしろ発熱を伴っていたせいか全身は熱く、汗をたくさんかいていたように思う。
だからこそ、今の事態の異常さが際立つ。
額は熱いのに汗ひとつかかず、身体も冷たい……理由がわからず、言いようのない不安だけが募る。イリリア…と名を呼んでも、睫毛の先すら動かない。
「あのようなことで感情を揺らさず……そばを離れなければよかった……」
ましてや置き去りにしたまま私室でうたた寝をするなど、どうかしている。
氷のように冷えた指先を少しでも温めようと、空いている手で握り込む。
床にアズハルが持参した枕が転げ落ちていることに気付いて、目覚めたらあれで何度も何度も気が済むまで叩いてもらおうと思う。
(そして謝って……ふたりで話をしよう)
どうしてあのような考えに至ったのかを聞いて、私の置かれている立場を話して……聞けるのならば、イリリアの思いの丈も聞きたい。
(また、そばに居ていいと言ってくれるだろうか……私を、望んでくれるだろうか…)
信じてもらえるまで何度でも説明をするし、十年だろうが二十年だろうがこの気持ちを伝え続ける覚悟はある。
たとえ失望される可能性があっても、嘘偽りなく自分の立場を話す覚悟も決めてきた。
(だからどうか……目覚めてくれ…)
時間がかかってもいいから、目蓋を開いて、その瞳に私を映して欲しい。
どれだけの苦痛を伴ったのか、爪で掻いたこめかみの傷が痛々しい。
せめて傷跡に軟膏だけでも塗っておこう……と言いかけたとき、抱え込んでいたイリリアの身体が大きく痙攣した。
ごぼ…と口から吐き出された液体は赤く、喉からは細く絞ったような奇妙な喘鳴が聞こえた。
一瞬頭が真っ白になり、ラウダから咄嗟に目を覆われる。
「アズハル様…代わりますので、どうぞ御退出ください」
「………だめだ…今、離れるわけにはいかない…」
硬いラウダの声音を聞きながら、どうにか頭を冷静に動かそうとする。
天上で体内の血を失うことは命の危険に繋がる。ましてやその身が高所に馴染んでいない者であれば、余計に。
「手を外してくれ…」と願えば、戸惑うような間のあと、覆われていた視界は元通りになった。
抱き込んだイリリアの胸元は赤く染まり、彼女を抱く自分の手も鮮血に濡れている。
厚手の寝間着に染みる赤を否定したくて堪らない。
今、この手の中で花嫁の命が儚く失われかけている。
その現実を認めたくないのに、彼女の胸元を汚す鮮明な色が、意識の逃避すら許さない。
「……落ち着いて、喉に血が流れぬよう上体を起こすようにお支えください」
不意に聞こえた声に顔を上げれば、老翁と呼ぶに相応しい姿の主治医が隣に居た。
あれだけ強い酒を飲んでいたのに、寝ぼけた様子も酔いを残した様子もない。
「……スハイル、」と縋るようにその名を呼べば、彼はテキパキと手を動かして治療の準備を整えていく。
「意識がありませんので器具を使って薬を飲ませることになるかと……体と頭をしかと固定しておいてくだされ。ルゥルゥ、ヒバの煎じ薬を」
「はい」
イリリアよりも少し年上くらいの少女が、指示に従い手早く薬を用意する。
「このような事態を想定して備えておいて良かったですな」というスハイルの言葉に、先日の王妃との交渉の場で、女官らのおこないに対する補償として、王妃の管理する小屋を使わせてもらうことと、王宮の一角に生える『一本ヒバ』という木の葉を要求したことを思い出す。
天上に生えるヒバの葉は強い薬になる。
霊薬の何十倍もの効果を持つその葉の煎じ薬であれば、今の症状を落ち着かせることも出来るだろう。
この先の事を思い、万が一の為に備えたものだった。
まさかこんなにも早く使う機会が巡るとは思わなかったが、イリリアの為であれば惜しむつもりはない。
器具を通して薬が無事に喉の奥へ流れていったことで、少しだけ心臓が落ち着いた。
花嫁の主治医として付ける予定にしていたルゥルゥが、スハイルと話し合いながら症状を見定めていく。
どのくらい経ったか……「体温も徐々に上がっておいでですし、容体は安定しているかと思います」と報告を受け、ようやく呼吸することを思い出したかのように息を吐く。
目元を僅かに赤くしたラウダから「お花様のお召し物を替えますので、アズハル様もお召し替えを」と言われ、スハイルと共に寝室から出された。
どこか現実感がなく、まるで夢の中の出来事のように思えるが、べったりと服や手についた赤が夢ではないと訴えてくる。
ラナーに着替えを持ってきてくれと頼み、緩慢な動きで続き間の椅子に腰を下ろしたアズハルの隣の椅子にスハイルがよいせと座る。
「もう年ですから立ちっぱなしは腰に悪うございますので」と悪びれもなく言う爺に、アズハルはただ静かに「……原因は、」と問うた。
天上へと導くまでに多くの負担をかけてしまったことは自覚している。
だが、昨日目覚めて以降、たくさん眠っていたが不調を訴える様子はなかった。
今夜も寝室では、眠るよりも話がしたいとばかりに多くの言葉を交わし……その中ですれ違いがあり、そばを離れてしまった。
思わず感情的な言葉を投げたアズハルに対し「ごめんなさい…」と謝罪する姿が脳にこびりついている。
ぐちゃぐちゃになった感情を持て余し、これ以上強い言葉をぶつけないようにとあの時は思わず部屋を出たが……離れずその場でちゃんと彼女の考えを聞いていれば。
執務室を出たあと、覚悟を決める為だなどと言い訳じみた理由で水浴びなどせず、あのまま戻っていれば。
こんな事にはなっていなかったかもしれないと、悔恨ばかりが渦を巻く。
あのやり取りが一層に負担を掛けてしまったことは明らかだ……だが、血を吐く程に肉体へ損傷を与えたとはどうしても思えない。何か別の要因があるのだろうか……もしあったとして、それは治るものなのだろうかと不安が渦を巻く。
アズハルの問いかけに、スハイルは眉毛で半分ほど隠れた目をしょぼしょぼさせながら、悩まし気に顎を撫でた。
「………確か、花の誓いを受けたと、仰せでしたかな?」
「ああ……ルトフの息子とふたりきりになることを懸念した私に、イリリアは『決して裏切らない』と花印に誓ってくれた」
唐突に何の話だろうかと思っていると、替えの服を持ったラナーが戻ってきた。
召し替えの補助は断り、部屋を出てもらう。
ルゥルゥとラウダがまだ奥に居るのを確かめ、先に話を聞こうとスハイルに目を向ける。
「花の誓いは命を捧ぐに等しい……誓いを破りし者には、相応の罰が与えられる」
前半は承知の上だが、後半については初耳だ。初めて聞かされる内容に、思わず椅子を揺らして立ち上がる。
スハイルは「確かな情報ではありませんので、爺の憶測としてお聞きくだされ」と言葉を続けた。
「王家の記録には残らぬことですから、知らずとも仕方ありませぬ。今は花印への誓いも御伽噺や理想のように語られるばかり……ただ、竜人のあいだで『軽々しく誓いを口にせぬよう』と伝えられているからには、相応の理由があると想像できますな」
「まあお座りなさい」と言われ、あまりに衝撃を受けすぎて、半分自失状態で腰を下ろす。
花からの誓いを受けて浮かれていた自分を叱咤したいと思う一方で、あの時イリリアが告げてくれた言葉と、今回のことに何の繋がりがあるのだろうかと考える。
思いついた唯一の可能性に胸が苦しくなったのは、そんな事があって欲しくないと強く思ったからだ。
「彼女は……他の男に懸想したのだろうか……」
天上に来てから顔を合わせた者の中に、彼女の心を射止めた人物が居たのなら。
目覚めた日も今日もアズハルが伴っていたのはカイスだけだ。
彼は確かに魅力的な男ではあるものの、ラウダの配偶者でもある。
イリリアはそれを知らずに恋をして……誓いを破ったと見做されてしまったのだろうか。
項垂れるアズハルの頭にスハイルの皺皺の手が手刀となって落とされた。
「これ、」といつも通りの口調だが、言葉には多少の呆れが混ざっている。
「そこを疑うでない。執務室で言うておったろう……『裏切られた心地だった』と」
言われた内容にハッとして、慌てて首を横に振る。
「そんなつもりでは…!ただ、信じてもらえなかったことが悲しかっただけで…!」
「だとしても、お前さんが裏切りと感じれば誓いは破られたと見做されるかもしれん。或いは、花嫁自身が、お前さんを裏切ったと認識したかじゃ。その裁定を下すのが『何』であるのかは知らぬが……少なくとも、普通の生活でここまでの事が起きることはない」
花嫁が命を失いかけた原因が自分にあると言われ、全身から血の気が引く。
(私はどこまで愚かなのだろうか……)
知らなかった、そんなつもりではなった…そのような言い訳は何の役にも立たない。
自分のせいで、この世で一番大事な人の命が消えかかっている……その事実が、ただ重くのし掛かる。
両手に付いた血の痕を見つめて黙り込むアズハルに、スハイルは「追い討ちをかけるようですがの」と切り出した。これ以上、一体何があるというのか。
「原因が何であろうと、起きてしまった事は受け止めねば。ゆえにもうひとつ……それが追い討ちになろうとも、儂は医者として事実を伝える義務がありますゆえ」
「爺……」
「今の花嫁は視力を失っておられる。いずれ霊薬で治すことは出来ると思いますが……ヒバの効果が続くうちは、光のない生活を強いることとなるでしょう」
もう言葉も出なくなったアズハルの背中をスハイルがポンポンと軽く叩く。
「今、貴方が壊れてはなりませんぞ」と言われても、両足を踏ん張る力はどこにもない。
「体温が戻り次第、一度、下ろすのが宜しいかと」
「下ろしてしまえばまた……順化が必要になる。それに、大滝雲を下りるだけの体力が今のイリリアにあるとは思えない…」
「ですが今の状態で天上に留め置けばそれこそ命の危機になりかねるかと……大滝雲の降下は遡る時とは違い、比較的負担は軽い。ヒバの効果が続いているうちに、どうぞお早く」
そのためにはまず身支度を整えませんとなぁと言われ、スハイルが導くようにゆっくりと振り向いた先には、寝室の扉横に涙を流しながら立っているラウダが居た。
「ルゥルゥから聞きました……わたくしとカイスは先に下りて小屋を整えて参ります」
「ラウダ……イリリアは……」
「呼吸は落ち着いておられます。目の奥が……傷ついていると聞きましたが、いずれ霊薬で治るとも聞きました。アズハル様、お花様はお身体を治すべくおひとりで頑張っておいでです。我々は、我々にできることを致しましょう」
涙で濡れているものの、やはり空色の瞳には力強さが宿る。
情けなくも足に力が入らないと白状すれば、「カイスに支度を手伝わせましょう。爺様は布で肌の汚れを拭って差し上げて」とテキパキと指示が飛ぶ。
ラウダは年寄りにも容赦ないのぉと笑ったスハイルは、水桶と布を用意して手についた赤を丁寧に拭い取りながら、静かに告げた。
「異種族の花は手がかかるといいます。ゆえに、急がず」
「………。」
手間だとは思わない。
待ち望んだ花にどれだけ振り回されようとも、その花が手元にあるだけでこの上ない幸福なのだ。
ただ……イリリアの花は色鮮やかに美しく、背中いっぱいに満ちるさまは圧倒的でさえあるというのに、瞬く間に儚く消えてしまいそうで…それがひたすらにおそろしい。
アズハルの服に付いた赤を見てもカイスは何も言わなかった。
代わりに出発の前に「アズハル様の枕をお借りして参ります」と寝室から持ち出した枕を掲げて見せた。イリリアが無事に目覚めたらそれで存分に叩かれろという事なのだろう。
意識のないままの花嫁を毛布で包めるだけ包んで、大滝雲を滑るように降りる。
少しでも負担にならぬよう……少しでも早く小屋に辿り着くよう、濃霧の雲を掻きわけ、吹雪の白を踏みしめ、慎重に運ぶ。
冷静であるべきだった。
最愛の存在から身上を疑われようとも……どれだけ心が揺れて傷を負おうとも、そばを離れるべきではなかったのだ。
(それに、誓ってくれ、などと……軽々しく言うべきではなかった……)
無知は罪だ。自分にこそ罪がある。
だというのに、どうして花嫁ばかりが苦しい目に遭うのか。
「誰でもいい…どうか私を罰してくれ……」
風に紛れた氷の粒がいくら顔を叩こうとも、今は隠された鱗に弾かれるばかり。
どれだけ自分を責めても果てがないほどに
ただただ、後悔ばかりが胸に押し寄せた。




