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15. 裏切りの夜



「あら……?」

と不思議そうに首を傾げたラウダの手元には、緻密な刺繍の施された濃紺の布が一枚。



まだ遡上の疲れが抜け切っていなかったのか、昨日目覚めてからというもの短時間の覚醒と傾眠を繰り返し続けたイリリアは、ようやくベッドから這い出て隣室の椅子に腰掛けられるまでになった。


夜中目覚めた時にベッド脇にアズハル様が座っていて、暗闇の中で淡く光るような白い髪を流した姿が幽鬼のように見えてしまい驚きで心臓が止まりそうになったけれど、それ以外は概ね平和な時間を過ごしている(というか殆ど寝ている)。

ちなみにアズハル様は、私が驚いてしまうという理由で夜中の看病から外されてしまった。

寂しい気持ちもあるけれど、どう考えても彼も疲れているのだから眠れるときにしっかり眠ってほしいとも思う。


イリリアが起きたことでラウダとラナーも部屋に集まって来てくれて、今は儀式衣装に使う予定の布をいくつか見せてくれているところだった。


衣装の基本型は既に決まっているため、布の素材や色味を工夫するそうだが、イリリア目線ではどうしても防寒重視の選びになってしまう。

厚手の布を重ねると今度は重さがとんでもないことになる。どうしたものか…と悩ましく思っていたところで、布の間に紛れるように深い色味の布が出てきたのだ。


布を持ち上げて検分するラウダはどうにも怪訝そうな表情だ。


「これはアズハル様の纏布ですわ……どうしてこのような場所に紛れ込んだのでしょう……お花様が使う離れの物置に、殿方の衣装が入るなんて……」


黒にも近い濃紺の布は細やかな刺繍のおかげで女性が纏っても違和感はないけれど、ラウダ曰く、お祝いの儀式ではもう少し明るく華のある色が使われるという。


布をじっと見ていたラナーが「この前着てた気がする…」と呟いたことで、アズハルが先日天上でおこなった、これから花嫁を迎えますという儀式の際に身に纏っていた布だと判明した。


一度儀式に使用した衣装は然るべき手順で清めたのち、専用の衣装箱に一定期間保管しなければ他の儀式で使用出来ないという規則があるらしく、ラウダは大慌てでその布を抱えて立ち上がった。

王宮に出向く機会が少なく、普段から華美な装いを好むわけでもないアズハルは、手持ちの儀式衣装の揃えもそう多くない。けれども今後は花嫁関連の儀式が次々とおこなわれる予定のため、予備のことも考えて一枚も欠けさせたくないのだという。

布や模様には格式があり、色には合わせがある。儀式に添った衣装を身に付けなければ礼を失することになりかねない。

高貴な人も大変だなぁと他人事のように思うイリリアに、布を抱えたラウダは頭を下げた。


「申し訳ありませんが、少しだけ席を外しても宜しいでしょうか。衣装の清めのために私邸の方へ行って参ります」


「私邸ということは、アズハル様もそちらに居るんですか?」


「アズハル様は執務棟の方かと思いますが…お呼びいたしましょうか?」


「いえ。もし居るなら、お仕事頑張ってくださいねと伝えてもらおうかと思っただけなので…」


「お見かけしたら必ずお伝えしますわ。きっと泣いてお喜びになるでしょう」


イリリアの居住区となる離れとアズハルの私邸と執務棟は、それぞれから伸びる廊下が交わり繋がっているため、警備の目はあるものの比較的自由に行き来できる。

とはいえイリリアは特別な理由なく私邸や執務棟に足を向けることはないため、基本的には離れから出ることはない。


濃い色の布を抱えて出ていったラウダの背を見送れば、ラナーがこてんと首を傾げた。


「泣くかな…?」


「泣かないとは思うけど、喜んでくれたらいいな」


「それはとても喜ぶと思う…ます」


視線を合わせて微笑み合う。ラナーの笑顔はちょっとぎこちないけれど、イリリアからすれば十分に可愛らしい。

妹ができるってこんな感じかしら…と思えど、実際に生きた年数で比較すればラナーの方が断然年上だ。今年成人したというから、もう百歳。

成人に至る百歳を超えるとあまり細かく歳を刻まなくなるそうで、大体このくらい…という曖昧な感じになる。それでもラウダは二百年近く生きているというし、規模の違いに頭がふわふわしてくる。



離宮がある霊峰の南側は竜帝陛下がもともと治めていた土地で、アズハルが成人してから正式に統治を任されるようになったそうだ。

普段は執務棟で仕事をしている人たちを中心に、アズハルの事を昔から知っている者も多い。そんな中、ラナーは成人するまで殆どアズハルと顔を合わせたことは無かったという。


「成人の儀式の時にはお会いしたけど……」


母親の仕事を手伝いながら実家でボーっとしていたところ、突然ラウダから、お花様が見つかったわ!という事と、アズハル様がラナーを侍女にと希望なさっているの!と言われ、頭にハテナマークを浮かべているうちに母親とラウダの間で話が纏まり、気付いたら南に居たという。

「完全縁故採用……」と告げられた言葉に思わずふふふと笑ってしまう。


「リヤーフとも仲良く出来たし、同じように近しく話せる相手を…と思ってくれたのかも。私はまだ十七年しか生きていないから、アズハル様からすれば子どものような印象かもしれないし……」


「ヌーラ様の花婿様は生まれて八年だったから、大丈夫……です」


生後八年と言われて、そういえば獣人たちは人間よりも寿命が短いぶん早熟なんだわと思い至る。

繁殖可能年齢かどうかで幼子か大人か区切られるそうで、竜人族にとってその境目がおよそ百歳なのだという。

だから十七歳のイリリアも八歳の獣人な花婿もしっかりと大人の括りで、若さを感じることはあっても幼子扱いはされていないと聞き少しだけホッとした。



長閑な時間にほんのりと眠気が戻ってくる。


「寝る…?」と聞かれたため、もう少し起きていたいと告げて湯呑みを持ち上げたところで、空っぽなことに気づいた。いつの間にかすっかり飲み干していたようだ。


「白湯を入れ直してくる…ね??」


おや?語尾を敬語にするはずが敬語じゃなくなった?と首を捻っているラナーに、湯呑みを渡しておかわりをお願いする。

給湯室(というものがあるのかしら?)は別の所にあるようで、ラナーは湯呑みとポットを手にトコトコと部屋を出ていった。


ラウダはまだ私邸で衣装の清めに奮闘しているのだろうか。

下の拠点でのあれこれが嘘のように、ただ穏やかな時間に心がほどけていく。


天上に用意してくれた住処が、誰も味方になってくれなかったあの空間と同じ雰囲気だったらどうしよう……という懸念はずっと付き纏っていた。


アズハルの背中に隠れるのは簡単だけれど、ずっと庇い続けてもらうわけにもいかない。

女主人というのは柄ではないものの、せめて近くに居る人とはしっかり話し合って、互いにどう接していくか折り合いをつけていくべきだろうな…という覚悟はしていた。


でも、蓋を開けてみれば居住区である離れには、頼りになるお姉さんのようなラウダと、拙くも親しみやすい妹のようなラナーが居るばかりで、どちらもイリリアに好意的に接してくれる。


同じ空間に居るのに存在を無視されるようなこともなく、人間だからとあからさまな陰口を聞かされるわけでもない。


もしかするとイリリアの意識のない所では何かしらの協議が行われているかもしれないけれど、イリリアはどちらかといえば事勿れ主義だ。目の前で起きていないことまで探って暴いて糾弾するような真似はしない。



素敵な住環境を与えてくれたアズハルに改めてお礼を言わなきゃ…と思っていると、ノックと共に扉が開かれた。

ラウダかラナーが戻ってきたのかなと眠気の強まってきた頭を持ち上げて確認すれば、そこには気の強そうな女性が豊満な胸を強調するように腕組みをして立っていて、イリリアの意識は強制的に覚醒した。



(………誰かしら)



空色のラウダの瞳よりも灰色がかった青い目を持つ女性を見て、竜人たちは青系統の目を持つことが多いのね…と、場違いなことを考えてしまう。

椅子に座ったイリリアを見下ろす瞳に友好的な色はなく、女官や雷鳥のお姫様と同じような冷たさを宿しているからには、何かを糾弾しに来たのだなと察することが出来た。


(それよりも…ラナーは大丈夫かしら…)


ここまで侵入して来たということは、警備の隊士とグルか、或いはその目を掻い潜って来たということ。

そしてこんなにも自信満々に登場した高飛車なお嬢様風の女性が、たったひとりで乗り込んで来ている筈もない。

白湯を用意しに行っただけのラナーがまだ戻らないということは……彼女の仲間に捕まったか、酷い事をされて身動きが取れなくなってしまった可能性もある。


咄嗟に身構えたところで、脆弱な自分に何が出来るだろうか。


どうにかして助けを呼べればいいけれど、残念ながら湯呑みはラナーに渡してしまっていて、手近に投げつけられるようなものもない。



女性は椅子に座るイリリアの爪先から頭の先までを無遠慮に眺めると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

ただ一点……こちらの胸の辺りを視線で辿った時だけは悔しげに口元を歪めていたけれど。


(すごく胸を持ち上げているし…ご自慢なんだろうな…)


均整の取れた、豊満で匂い立つような肢体を持つ目の前の女性に対して、イリリアは全体的に細くて胸ばかりが大きい。

バランスって大事よね……としみじみ思っていると、お嬢様な女性は腕を組んだまま顎をツンとあげて喋り始めた。


「わたくしはナヒーダと申します。代々王族の閨指南役を務める家系に生まれ、アズハル様には目をかけていただいておりますわ」


既視感を覚えて、脳裏に雷鳥なお姫様の姿が浮かぶ。


ただ残念なことに、彼女の事を思い出すとすぐに、丸々とした鳥肉へと脳内変換されてしまうのだ。慌てて恐怖の黒焼きセットの内容物を思い出して、食欲が湧かないようにと強く念じる。

こちらの脳内ドタバタ大劇場など知らないナヒーダという女性は、いずれは自分こそが王子の妃に…という壮大な野望をイリリアに語ってみせた。


ただ、イリリアからすれば、既にお手付き状態で存分に目もかけられているのなら、わざわざ宣言しに来る必要はないのでは…?と思ってしまう。


儚げな仕草をしながらも我こそはと主張した恋人な雷鳥の姫といい、

豊満な身体でわたくしこそが寵妃になるのだと宣言するナヒーダといい、

アズハルの周囲に居る女性たちはどうにも自己顕示欲が高い傾向にあるらしい。


(だから頭を撫でるだけであんなに恥じらってしまうのかしら……)


彼女たちは穏やかに愛でるというより、襲いかかるという傾向が強そうだ。

頭を撫でたり、抱擁したり…そのくらいで留める関係の方が、アズハルの心にはぐっと来るのかもしれない。


とはいえイリリアも、胸の花印を押し付ける常習犯であるし、天上での様々な儀式が終わったらこれまで我慢したご褒美としてたっぷりキスしたいなぁと思っているため、ぐいぐいと迫り来る女性に翻弄されるのはアズハルの生まれ持った業…というか宿命に思えてしまう。



まだ戻らないラナーを心配しつつ、離れの異常を察したラウダが誰か増援を呼んできてくれないかしらと思いながら、「どういったご用件でしょうか」と聞いてみる。

その問いかけに、つややかな唇が艶かしく弧を描く。


「アズハル様の花嫁が人間であることを憂いたある御方より、適切な指導をするようにと言われて参りましたの」


アズハルから派遣されたと言わないあたり正直なのかもしれないが、不法侵入であることには変わりない。それに、花嫁が人間であることを憂いて…と言うことは、彼女を派遣したという人物もこちらに好意的ではないのだろう。


派遣されたと言っているが、ここへ乗り込むにあたり、彼女の意思も上乗せされているのは確かだろう。

『適切な指導』とやらで一体何をされてしまうというのか。

警戒を露わにするイリリアに、ナヒーダは「お調べするだけですわ」と微笑んだ。


「万が一にも花嫁の身体に不備あったら大問題ですもの」


「そういうのはお医者さんに調べて貰いますので…」


「まあ。でも、見たところ主治医がどこにも居ないようだけれど……天上へと連れられた異種族が身体を壊すのは当然のことなのに、医者さえ付けて貰えないだなんて。本当に貴女、大切にされているのかしら?」


小馬鹿にするように笑われたところで、深く傷つきはしない。

例の一件以来、アズハルはイリリアの周りに置く人材に殊更慎重になっている。

もしかすると用意してくれていたお医者さんがハイファのように人間に悪感情を持つ人で、急遽変更を強いられている可能性もあるし、蛇人族のナルジスが言っていたように『人間』という霊峰では極稀な種族を担当させることの出来る医者を探すのにただ手間取っている可能性もある。


言葉で反論しないイリリアに勝ち誇ったような笑みを浮かべたナヒーダが、一歩二歩と近づいてくる。


いざとなったら黒焼きセットによる封印を解放して、食欲大解放による大暴れを披露するしかないのかしら……。


そんな事を思っているとテーブルを挟んだ向かいで立ち止まったナヒーダが冷たい目でイリリアを見下ろした。



「貴女の順化が遅れたことで、アズハル様がどれだけ我慢なさったと思っているの?」



今度の言葉は小さく刺さった。

けれど、本来は霊峰の環境に適応しない種族なのだから、責められたところでどうしようもない。


ナヒーダは、まるでアズハルを憐れむように言葉を続けた。


「アズハル様はいずれ次期竜王となられるの……たとえ悲願叶わずとも、その血を継ぐ御子が意思を継承なさる。

でもそれは、貴女の生む子ではないわ。

今は花嫁としてあの方の腕に包まれていようと、どうせすぐに無用になる。

尊き血を持つ然るべき女たちが、そして私が、あの方の栄誉をお支えするの」


自己陶酔に満ちた言葉のあと、ゾッとするような冷たい声で「ああ、けれど…」と続けられる。


「人間のような淫猥で下品な種族があの方に触れるなどと、考えただけでも悍ましいわ…!」


その狂気じみた様子に恐怖を感じて、思わず椅子から腰を浮かせる。


またアズハルを悲しませることになるだろうけど、このまま対峙し続けたとしても良い結果にはならないだろう。

やられる前にやらなくちゃ…!という心の叫びを受け止め、美味しそうな鳥肉料理を片っ端から想像しようとしたその時、扉が大きく開いて、誰かが弾丸のように飛び込んできた。


「離れなさい!!」とナヒーダに体当たりをかましてその魅惑の肢体を吹き飛ばしたのは、他ならぬラウダで。

ナヒーダは痛みに呻きながら「なぜ、……っ、ここに居るの!?」と驚きを隠せないで居る。


「不法侵入者に答える義理はないわね!」


大きく振りかぶった拳が空を切る。

ナヒーダが腰から刃物を取り出したのが見えたのか、ラウダは「お借りしますわ!」と四人がけの円テーブルを軽々持ち上げるとその面で刃物ごとナヒーダを押し潰そうとする。


「っく、この…、馬鹿力女…!」


「刃物を持ってお花様の元に侵入するなんて、一体何を考えているの!」


「これは、自衛の為よッ!わたくしがここに居るのは人間への『指導』のため、すべてはあの方の為!退きなさい馬鹿力女!」


視線は二人から離さぬまま、巻き込まれないように少しだけ距離を取る。

入り口に新たな人影が見えたためドキリとしたが、ずっと身を案じていたラナーだとわかり胸を撫でた。ただ、大怪我こそしていないように見えるが、服が汚れているし頬に傷もできている。


「よかった、お花様は無事だった…」


「ラナー、怪我を…!」


「少しだけ。あとどれだけ敵が居るかわからない。だから、今すぐアズハル様をお呼びする…!」


ごめんなさいと聞こえた気がして、何が?と疑問に思うまもなく、足先に思いっきり衝撃が走った。ラナーが強引に引き寄せた椅子の脚が、室内用の履き物の上からイリリアの足の指をぎゅっぅと押し潰している。


「ーーー痛ぁ!!??」


「お花様!?……ラナー!?」


慌てて振り向いたラウダの驚愕の声と、あまりのピンポイントな痛みに涙が滲むのと、駆けてきた誰かが廊下側の扉を壊す勢いで全開にしたのはほぼ同時だった。


「イリリア!!」


怒号のような声だけれど、それがアズハルのものだとわかって、ぷるぷるしながら両手を伸ばす。咄嗟にぎゅっと抱き込んでくれたアズハルは、室内がめちゃくちゃになっている事と、ラウダの向こうに立ち入りを許可していない人物がいる事に素早く気付いたようだ。


「……なぜここに居る」と警戒心に満ちた低い声が室内に響く。



「アズハル様、わたくしは……きゃ!?ラウダ!離しなさい!!」


一瞬の隙を逃さず、ラウダがナヒーダの両腕を拘束して床に引き倒した。

ジタバタと踠く女を無視して、アズハルは腕の中に囲ったイリリアを見た。

足先がじんじんして少しばかり涙が滲んでいるものの、安心させようとどうにか口角を上げて笑顔を作る。


「強い痛みがあっただろう?こちらにまで伝わってきた……怪我はどこだ?」


「だ、大丈夫です」


つい爪先をもぞもぞしてしまったせいか、怪我の箇所にすぐさま気付かれてしまった。


二人の男性の影が扉前に現れたため再び緊張したけれど、「私の近衛だ」と背中をさすられて安堵する。

ラウダは容赦なくナヒーダの意識を落として黙らせたようで、脱力した女性を放り投げるようにして近衛のひとりに手渡している。


「足を見せてくれ」と屈まれたため、「一瞬すごく痛かったけどもう大丈夫です」とどうにか誤魔化そうとしたが、「だとしても治療が必要か見ておかなければ」と押し切られてしまう。


「あの、でもこれはたまたま角でぶつけただけで…」


「私、…です」


隣で正直に白状したラナーを咄嗟に背で庇う。

ラナーが引き寄せた椅子が原因かもしれないけど全部うっかりな事故です!と言おうとした刹那、後ろからラウダの鋭い叱責が飛んできた。


「ラナー!貴女どうして!お花様の足を潰したりしたの!!」


「アズハル様を急いで呼ばなきゃと思って……お花様が痛いと、飛んで来るって聞いたから…」


そんな理由だったのね…これ幸いと鬱憤をぶつけられたんじゃなくて良かった…とイリリアが胸を撫でる一方で、ぶるぶると怒りに身を震わせたラウダはラナーの頭を引っ掴むと床に叩きつけるような勢いで土下座させた。


「ん申し訳ありませんんんっ!!」


「ラ、ラウダ、大丈夫ですから。それ以上はラナーの頭が潰れるので…」


やめてあげて、と言おうとしたところで、こんな状況にも関わらず冷静に足の怪我を調べていたアズハルがぽつりと呟いた。


「爪が欠けて内出血もできている…」


「ラナーーーー!!!!」


ラウダの怒りが頂点に達したのか、物凄く大きな声でのお叱りが部屋中に響いた。

あまりの迫力に心臓がキュッとなる。


(あ。……驚きすぎて、脈が…)


ぽこんと跳ねた脈が、少し不規則な動きを始めてしまった。

落ち着け落ち着けと胸を押さえて呼吸を整える。

このまま治療をするつもりなのか足元に屈んだままのアズハルは気付いていないようだが、代わりに近衛のひとりがイリリアの様子に気付いてくれたらしい。


「ラウダ。お前の声がお花様の負担になっている」という冷静な指摘に、ハッとなったラウダの怒りがみるみる萎んでいく。イリリアが胸のあたりを押さえているのを見るなり、怒りで真っ赤だった顔は青褪め、掴んだままのラナーの頭部と一緒に深々と頭を下げられた。

そんなに一気に感情を揺らして、ラウダの方は大丈夫なのかしらと逆に心配になるほどだ。


「申し訳ございません…っ」


「だ、大丈夫、です……」


ふたりとも気にしないでと言おうと思ったのに、一度乱れてしまった脈は竜蛇のごとくうねり続け……意識が後ろへ引っ張られるような感覚と共に、そのまま気を失ってしまった。








目覚めたらひとりだった事に、少しだけ悲しい気持ちになる。

騒動の後始末で誰も彼も忙しいんだろうな……と思いながら身を起こして、少しよろけながらベッドから下りる。


喉がカサカサな事に気付いてサイドテーブルに綺麗に並べ置かれた茶器からお白湯をもらい、ふぅ…とひと息ついた時だ。

寝室のドアが開いてラナーが顔を出し「あっ」と声をあげた。

慌てたような足音と共に横からラウダが顔を覗かせ、扉の前でふたり並ぶと揃って深々と頭を下げた。


「おはようございます……入室をお許しいただけますでしょうか」


「入ってもよろしいでしょうか」


「勿論です……すみません、ナヒーダさんの事とかで色々と吃驚してしまって」


しずしずと入って来たラウダはまず、寒くないようにと肩に羽織をかけてくれる。

ラナーは床にちょんと座った。

イリリアは、ふたりが何かを言う前に「ありがとうございました」と頭を下げた。

寝起きだったせいでくらりと目が回って、ラウダが慌てて肩を支えてくれる。


「ラウダ、危険な人から守ってくれてありがとうございます。ラナーも、あの場にアズハル様を呼んでくれてありがとう」


「とんでもないことです。わたくしのせいでお身体に負担をかけてしまって…」


「足に怪我を負わせてしまって……ごめんなさい」


ふたりの謝罪を受けて、どう返そうか一生懸命考えてから「許します」と答えた。


「おふたりとゆっくりお話がしたいので、隣の部屋に行きませんか?」


座って白湯でも飲みながら…と提案すれば、頷いたラウダが「準備して参ります」と先に寝室を出る。ラナーは「寒くないように」ともう一枚上着を掛けてくれたうえに、膝掛けになりそうなふわふわの毛布まで用意してくれた。


いつもよりも少し温かい白湯を飲みながら、今が翌日の夕方だと知って驚いた。

脈は早いうちに落ち着いたものの、意識がなかなか戻らず心配したという。


「アズハル様にお伝えして参りましょうか」と聞かれたため、お話が終わったらお願いしますと頼んでおく。

執務を中断させてまで駆けつけて貰うような症状ではないし、目の前のふたりがまだ難しい顔をしているからには、今後同じような事やトラブルが起きた時のためにちゃんと話し合っておきたいと思ったのだ。


イリリアが「足の件ですが」と切り出せば、ラナーの背筋がピッと伸びた。


「私としても、困った時にどうすればアズハル様を呼べるのかを学べたので、良しということにしましょう。便利なものは何でも使う方針で。ただ、痛いのは好きではないので、緊急時に限り有効ということで……」


イリリアの言葉があまりに予想外だったのか、ラウダもラナーも呆気に取られてしまったようだ。

だから、実はあの時、あまりにもナヒーダが危険に思えたため、食欲大解放な状態になって大暴れするしかないかなと考えていたのだと白状すれば、ラウダは物凄く青褪めた。

拠点の後片付けをしてくれたからか、イリリアが本能剥き出しで暴れたらどのくらい部屋がめちゃめちゃになるか知っているのだろう。

ただ、ナヒーダとの乱闘時、ラウダもなかなかの壊しっぷりだったように思う。


「それはいけません!あの時、お花様のお身体がどれだけ傷ついていたことか…!」


あら…そっち?と思っていたら、ラウダにしっかりと両手を握られた。


「負傷による呼び出しも、決して多用してはなりません。何か大きな音が出るものを所持できるよう手配いたしましょう」


諸々の儀式を済ませたらもう少し繋がりが深まりますので、強く念じるだけでも感情や言葉が届くようになりますよと言われ、それはそれで頻繁に迷惑をかけてしまいそうでちょっと嫌だなぁと思う。

もしも身体的な苦痛を感じるたびにそれが伝わってしまったら、アズハルは大変なことになりそうだ。



ラウダの大声については慣れれば大丈夫と結論づけ、(今後は控えると約束してくれたけど、場合によっては怒ることもやむなしと思う。)これからも遠慮せずに接して欲しいとお願いする。


ラナーの「イリリア様は人間なのに優しいね」という言葉にペシッとお叱りの手が飛ぶ場面があったけれど、それもあまり気にしていないと伝えておく。

歴史書を読んだことで竜人たちが人間をどのように捉えているかも知っているし、交流のない種族のことを正しく理解しろと言われても難しいだろう。

それにやはり、人間は優しいばかりの種族じゃないから。



「起きたよって、アズハル様に伝えてくる……です」


湯呑みが空っぽになったのを機に、ラナーが席を立つ。


ラウダはイリリアの湯呑みに白湯を足したあと、立ち上がって一歩身を引くと、改めて深々と頭を下げた。



「此度の件、手引きしたのはハイファかと……身柄はすでに捕らえてあります。それに、御身を危険に晒してしまったこと、深くお詫び申し上げます」



ああ、この先は少し大人の話になるのねと、顔を上げたラウダに頷きかける。


離れの警備で立っていた者は、ナヒーダを連れてきたハイファが「お花様の指導役にと指名されていた者が到着しました。私は離れへの立ち入りを許されておりませんので侍女を呼んで来てください」と言ったため、事実確認も兼ねてラウダを呼ぼうとしたところを襲われ、昏倒していたという。

命に別状はないものの、霊薬を飲んでなお数日間の休養を要するというのだから相当な怪我だったのだろう。

怪我を負ったとはいえ油断したことでお花様を危険に晒すことになったのですから、警備の者からの謝罪の場は改めて設けさせていただきたく…と言われ、それは区切りとして受けておかなければならないのだろうなと頷いておく。出来れば、その場にはアズハルも一緒にいて欲しい。


ラウダは椅子に座り直すと「お知りになりたいことはございますか」と問うてきた。

イリリアは少し考え、かつての拠点で十日以上共に過ごした、アズハルの部下のことを教えてもらうことにした。


「……ハイファさんは、どういう方なんですか?」


その問いかけに、ラウダは少し困ったように微笑んだ。


「……侍女に任じられるまで、わたくしたちはそれぞれ別の場所で職務を得ていたため、実はあまり交流がありませんの。わたくしはアズハル様の私邸に控えて生活をお支えする役割でしたけれど、彼女はどちらかといえば公務を補佐する役目についておりましたから」


「秘書みたいな感じですか?」


「秘書は…ユスリーという参謀役がおりますわ。いつも執務室に詰めておりますので滅多に会うことはないと思いますけれど、ユスリーと、主治医であるスハイル翁がアズハル様にとっての相談役です」


主治医の老翁はそれこそアズハルが子どもの頃からそばに居る親代わりのような存在だという。


「ハイファは……事務処理や王宮との連絡役を担っていると聞いた気がします……お花様を迎えた後は儀式関係の連絡も増えますし、身の回りのお世話というよりも、事務的な補佐を目当てにお付けになったのかもしれませんね」


優秀な事務官だったのであれば、急に侍女として花嫁に仕えろと言われたら腹立たしくも思うだろう。

ラウダたちもハイファの前職を汲んで、身の回りの世話よりもアズハルとの連絡係としての役目を多く果たしてもらおうと思っていたようだが、今回の一件で彼女が厄介な思想を持つ者たちと繋がっている可能性が出てきたという。


その一族はアズハル様にとっての泣きどころのような存在ですわ…と表情を曇らせるラウダに、また改めて事情を教えて欲しいとお願いしておく。

今後の対応のためにも、自分が知って良い範囲で色々と把握しておくべきだろう。


「今回の件と繋がるかはわかりませんが、アズハル様から……自分は政治の道具として生まれたと聞いたことがあります」


ラウダは一瞬痛ましい顔をしたあと、「そのようなことは…」と否定しかけ、自分の発言を訂正するように緩く首を振った。


「お花様には正直に申し上げます。あの方が『不遇の第二王子』と呼ばれていることを否定は致しません……わたくしもこの離宮へ来た時は、そのような存在だと認識しておりました。不遇だからこそ、親身になってお支えせねば、と……」


苦々しい表情の中には、かつてそう思っていた自分を後悔するような色があり、アズハルの事を知っていくうちにラウダのなかにも変化があったのだろうなと理解する。


「じゃあ、今のラウダにとって、アズハル様はどんな存在ですか?」


「今は……不敬ながらも、アズハル様のことは不器用で優しい弟のように感じております」


照れたように微笑むラウダに、じゃあ私のことは義理の妹のように思ってくれるかな…と考えたことは、口にしないでいた。そばに居る年数が違うのだから、そこに無理矢理割り込むような真似は無粋だろう。


トントンとノックの音がして、ラナーが戻ってくる。

「アズハル様が、もう少ししたら共寝の伺いに来るって…」と告げられ、ラウダはあらまあと窓の外へ目を向けた。


「お話に夢中で時間を忘れておりました。もうじき夜が来ますね…寒くなる前に身を清めましょう。お食事もご用意致します」


ラウダたちに「話し相手になってくれてありがとうございます」と言えば、こちらこそ同席をお許しいただきありがとうございますと丁寧なお礼で返される。


そのやり取りを何だか気恥ずかしくも感じながら、これからも時々、お茶を一緒に出来たらいいなぁと思った。







夜の入りにアズハルが枕を持って訪ねて来たことを告げられ、お招きしてくださいとお願いする。

嬉しそうに了承の意を示したラウダは、隣に備えられた控えの間におりますわとアズハルと入れ替わるように出て行った。


寝室の壁向こうには護衛や侍女が使える控えの間があり、男女で別れたその部屋には仮眠用のベッドなども置かれている。普段は輪番制で使うことが多いが、今はラウダの他には侍女としては未熟なラナーしか居ないため、基本的には夜半はラウダが控えているという。


明日にはイリリア付きの医者となる女性が仲間入りする予定だと聞き、どんな人物だろうと思いを馳せる。糸目じゃなければいいな…と思ってしまうのは致し方ないことだろう。


緊急時には寝台脇のテーブルにある手振鈴を鳴らしてくださいませとよくよく念を押され、飲み物の置かれたテーブルに乗せられた真鍮色の美しい鈴を確かめた。



「ラウダとラナーから報告は受けているが、彼女たちに罰は必要ないか?」


「起きてからゆっくりお喋りする時間も貰いましたし、必要ないです。むしろふたりからは守ってもらったと感じていますよ」


イリリアの返答に一瞬だけホッとした表情を見せたアズハルは、生真面目な顔になると深々と頭を下げた。


「部外者を花嫁の居住区に立ち入らせるなど……私の落ち度だ、すまない」


「ラウダが気づいて庇ってくれたので……すごく強いですね」


確かに見知らぬ人がいきなり来てびっくりはしたけれど、こんなにも広い離宮で、しかも内部からの手引きがあったのでは仕方のないことだろう。

そんなに自分を責めないで欲しくてラウダの戦闘力の方に話を移せば、その意図に気付いてくれたのか、顔を上げて眉を下げつつ「そうだな」と頷いてくれた。


「護衛も兼ねている。陛下との謁見後に改めてイリリア付きの護衛隊士を決めることになるが、そばに居る者として侍女にもそれなりの武力は必要だからな……ラナーはあれでいて、武器を持たせると良い動きをする」


意外な事実に驚きつつも「一度手合わせしてみたい」と口にすれば、アズハルの目が大きく見開かれた。


これでもイリリアは武門の家に生まれ、生家の流派に限るが多少は武術のような動きが出来る。

酸素が薄い山の上では碌に身体は動かないけれど、ここの環境に慣れてもう少し動けるようになったら、ちょっとだけ、戯れ程度の手合わせでいいからやってみたいと思ったのだ。

そんな気持ちを伝えると、絶対にダメだとばかりに首を横に振られる。

「怪我をしたらどうする」「危ないことは控えるように」と頑ななアズハルに食い下がって、必死のおねだりの末に「………五十年後くらいならば」という許可を捥ぎ取った。

そのくらい経てば、さすがに身体を動かすくらいは出来るようになっているだろう。

問題は、六十歳を超えた自分の体の耐久性がどのくらいか…ということ。骨とかが脆くなっていたら目も当てられない結果になりそうだ。



五人は並んで眠れる大きな大きな寝台の端に並んで腰掛けて座り、アズハルのゆったりとした穏やかな声に耳を傾ける。


二日前の昼にイリリアが目覚めるまでのあいだ殆ど寝ていなかったのか、アズハルの目元には隠しようもない疲労の色が滲んでいる。

ちょうどイリリアの方にある右側の目尻に伸び上がって唇を触れさせれば、照れたようなアズハルから「花嫁と共に眠ればすぐに元気になる」と微笑まれた。


「私の意識がないあいだも、隣に寝転んで良いんですよ?」


「ありがとう……だがラウダから、花嫁の安眠の邪魔になるからと追い出されると思う。それに一度、夜中に驚かせてしまっただろう?」


「あれは暗い中でぼうっと座っているからですよ……アズハル様が居てくれたほうが温かくてよく眠れるので、隣に配備してもらえないか交渉しておきます」


「どうやら布団代わりにされるようだ」


柔らかく目元を緩めたアズハルににっこりと微笑み返す。


酷い熱に浮かされていたため記憶が断片的でどうしてそんな話になったのか前後の繋がりが朧げではあるものの、アズハルから「布団にでも安全ベルトにでもなる」という言質を取った気がする。


(確かその会話の時に、アズハル様が自分は道具だと言っていたのよね……)


よく覚えていないけれど、ぼんやりとする意識の向こうで、誰かが泣いていた気配を感じた気もする。


真面目な話をしてくれたのに、記憶がこれじゃあ取りこぼしている部分もあるかもなぁ…と思いながら身体を斜めに倒して、アズハルの肩に寄りかかる。

「眠くなったか?」と聞かれたけれど、まだ眠気は遠いと首を横に振る。

それよりも、こうしてふたりきりで過ごすのは久しぶりだから、もう少しこの時間を堪能したかった。



「……これから忙しくなりますか?」


その問いかけに悩ましげな表情になったアズハルは、すぐにではないが……と言葉を濁した。

竜帝陛下との謁見があると聞いているし、それが済んだら結婚式に相当する儀式が控えている。忙しくないはずもない。


「結局、必要最低限の挨拶くらいしか身についていないんですけど……私はこれからどなたとお会いすれば良いのでしょうか」


「まずは体調を整えるのが最優先だ。朝から夕刻まで起きていられること、離宮の廊下を端まで難なく歩けるようになること、竜車を使った移動に不調を伴わないこと……この三点が可能になって初めて、王宮への参内を考える」


竜車(りゅうしゃ)?」


「竜が牽く車のことだな……貴人が使う移動手段で、車牽きの竜は、それを生業とする者たちが居る。あまり竜としての姿を示さぬ者が多いなか、鍛え抜かれた肉体で車を牽くことを誇りとする力自慢たちだ」


ムキッとした肉体の竜を想像しながら「速いんですか?」と問えば、僅かに思案したアズハルが不本意そうに頷いた。唇がちょっとだけ尖っているように見えるのは見間違いではないだろう。


「何も持たぬ状態でなら速さは白き竜に勝るものはない。だが、同じだけの荷物を抱えて飛べと言われると……流石に難しいな……」


「白……じゃあ、アズハル様は飛ぶのがとても速いんですか?」


「そうだな。警備隊士とのかけっこで負けたことはない」


今度は自信を持って頷かれた。

どうやら先ほどは、イリリアが車牽きの竜に興味を引いたことにちょっぴり拗ねていたようだ。

それに、隊士との競争はおそらく彼らの訓練の一貫に違いないが、それをかけっこと言ってしまうあたりがどうしようもなく可愛い。


堪らず手を伸ばして頭を撫でる。

「可愛い……」と口から零れてしまったことに、可愛いだろうか…と首を捻っているけれど、きっと一緒に訓練した隊士の中にもそう思っている人が少なからず居るだろう。


(ルトフさんも、アズハル様のことを親身に思っていらっしゃるようだし……)


まだ多くを知るわけはないものの、離宮全体の空気はとても穏やかに思える。

アズハルは天上で、自分のことを『道具』だと自称してしまうくらいに悲しい目に遭っているのかしら…と、ドロドロとした政治的な陰謀渦巻く、気の置けない空間であることを覚悟していただけに、目の当たりにした離宮の雰囲気の良さに正直とても驚き、そして安堵したものだ。


弟のようだと称したラウダを筆頭に、離宮に居る人たちの多くがアズハルを慕っている。

ハイファのように間違った方向に暴走してしまった部下も居るけれど、それもこれも、アズハルの花嫁が人間であったことが起点となってしまったに過ぎない。


(むしろ今の時点では、私という存在がここの空気を乱す要因になってしまってるわ…)


昼間のナヒーダの事といい、それを手引きしたハイファの事といい、アズハルの花嫁が人間(イリリア)でなければ起きることのなかった騒動だろう。


少しばかり申し訳ない気持ちになっていると、何事か考えていたアズハルがイリリアをじっと見つめた。どうしたのだろうと見つめ返すと、柔らかく微笑みかけられる。


「身体が慣れたら、竜車に乗って甘い草を食べに行こうか」


それはまるで、下の拠点で朝日や樹氷を見に行こうと誘われた時のような声音で。

嬉しくなって「天上での初デートですね」と返せば、麗しい顔に喜びの色が灯る。


デートのお誘いが「草を食べに行こう」というところが何とも異種族を感じるけれど、その草がアズハルにとっての嗜好品であり思い出の味だと知っているから嫌な気持ちはしない。

イリリアが食事に消極的になった時にわざわざ天上から取ってきてくれた草だからこそ、余計に。


南の端に近い場所だから景色も綺麗だと言われてワクワクがとまらない。

少しはしゃぎ過ぎたのか、軽く息が上がってしまって、ふぅ…と小さく深呼吸をする。


目敏く気づいたアズハルから「苦しいなら横になろう」と背中を支えられたが、白湯を飲んでひと呼吸つけば胸の苦しさはすぐに消えた。


あまりにも心配そうにするから、「アズハル様が眠いならぎゅっとするので、寝転んだままお喋りしましょうか」と提案すれば、その体勢では私は喋れないだろう…と苦笑されてしまった。


「無理せずとも明日も話せる」と言われたけれど、これまでの順化の行程では体調を崩していたり寒さで震えていたりと、こうして穏やかに話せる場面は少なかったから、寄り添い語り合う今の時間を終えるのがどうにも惜しい。


そんな思いを汲んでくれたのか、アズハルはイリリアの肩に薄い羽織を追加して、先ほど問いかけた『今後会う必要のある人』についてポツポツと教えてくれる。



「竜車で王宮に行けるようになったら、竜帝陛下に目通りをして、イリリアが正式に天上で住むための許可と様々な儀式を執り行うための許可をいただく。基本的にこの許可さえあれば万事罷り通るが、一応は兄上にも挨拶しておこう。兄上の花嫁に会えるかどうかは、兄上の判断次第となる」


確か王太子妃殿下は瞳にお星様の印のある人だって聞いたような……とリヤーフとの座談会で得た情報を思い返してみる。

アズハルは竜人族の花に現れる(しるし)星花印(せいかいん)と呼ぶのだと補足してくれた。


「星にも雪の結晶にも見える透明感のある花の模様で、イリリアの胸に咲くものよりも図形に近いと聞いている……兄上の花嫁であるファティナ様は、瞳にその煌めきを宿しておられる」


「キラキラの瞳とか、絶対に綺麗でしょうね」


「そうだな……基本的に花印は伴侶以外には見せない。妃殿下は常にベールを纏っておられるが、ベール越しでもその輝きは美しく見えるようだ」



感慨深くしみじみと同意され、イリリアはベール越しでもいいからその美しい瞳を拝見したいなぁと思う反面、アズハルが他の女性の花印を褒めたことに少しだけモヤモヤとした。

身を乗り出すようにして「アズハル様もキラキラの花印がよかったですか?」と問えば、ぎょっとしたあと、慌てて「違う」と否定される。


「確かに花嫁が見つかる前は妃殿下の花を美しくも羨ましくも思ったものだが、イリリアに出会ってからはその胸に咲く竜胆が一番だと思っている…!」


「ちょっとしかキラキラしていなくても?」


「私からすればいつでも煌めいて見える………イリリア、その、もしかして、妃殿下の(しるし)を褒めたことに嫉妬してくれたのだろうか…」


「私も嫉妬くらいします」


「そうか……」


余程嬉しかったのか、片手で口元を隠してしまったアズハルの脇を、指先でつんつんと突く。


アズハルの恋人を名乗る麗しの雷鳥や艶っぽい美女はどう見ても自己肯定感が高めだ。私こそが!と思っている女性からは、あまり嫉妬という感情を向けられた事がないのかもしれない。

ただどちらも、花嫁であるイリリアに対して向けた感情は、嫉妬であり嫌悪であったのは間違いない。相手を貶めることで自分こそはと主張するやり方だから、アズハル自身へ嫉妬の矛先が向かなかったのだろう。


対して、イリリアの嫉妬は嫌悪の伴わないさらりとしたもので、いいなぁという相手への軽い憧れも含む。

羨ましくなるから私以外を褒めないでというお願いスタイルの嫉妬はどうやら効果覿面だったようだ。


つんつんと突くイリリアの腕を取って「やめなさい…」と咎めたアズハルは、照れた表情を誤魔化すように小さく咳払いをした。


悪戯が強制終了となったイリリアは残念に思いつつも「今後お会いするのはアズハル様のお父さんな竜帝陛下と、お兄さんな王太子殿下なんですね」と話の軌道を戻しながら、ふと気になった事を口にした。


「お母さんやお姉さんには……」


「……少々複雑な事情があるから、そこは必要ない。特に母上のことは、王宮内では口にしないようにしてくれ」


如実に顔を曇らせたアズハルに、イリリアは深掘りせずにただ頷いた。

代わりに、今度ラウダからいくつか事情を教えてもらおうと思っていると言えば、アズハルは「それでもいいが…」と首肯しつつ「新しい教育係を招く予定だ」と告げた。


「王宮からひとり来てもらう予定になっている。

ああ……そんな不安そうな顔はしないでくれ、その人はイリリアの主治医となる女性の母親で、私の主治医の娘なのだ。それに、一時期は私の教育係を務めてくれたこともある。指導に関しては厳しい部分もあるけれど、理不尽な事は絶対にしない」



アズハルが断言してくれたことで少しは気持ちが楽になったものの、それでも不安が完全に払拭されるものではない。

聞けばその女性はつい先日まで王宮筆頭女官を務めており、王妃殿下が重用する補佐役だったらしい。

しかし例の女官たちが起こした事件の責任を取るという形で引退し、父親と娘がいる南の離宮……つまりアズハルの元へ来てくれる運びとなったそうだ。

前々から引退を申し出ていたとはいえ、信頼を寄せる部下が手元を離れるキッカケにもなってしまったことで、先日の一件は王妃殿下の怒りに大いに触れることとなり、例の女官たちには重い罰が与えられたという。


「あの者たちの振る舞いは私と兄上が諍いを起こすキッカケにもなりかねなかったからな……その点で平穏を望む竜帝からの怒りも買ったようだ」


「竜帝の怒り……私、人間ですけどご挨拶しても大丈夫なんでしょうか…」


「玉座に居る父上は見た目こそ威厳に溢れているが、基本的には安穏としているから大丈夫だ。統治の邪魔さえしなければ怒りを買うこともない」


けれど先日の拠点の一件は、イリリアが人間だからこそ起きた一件でもある。

となれば自分こそが竜帝による統治を乱す者になるのでは……と心配していると、政治的な事情も関与しているし、父上は人間に対して理不尽な恨みは持っていないから大丈夫だと慰められる。

陛下との謁見もリヤーフと雑談する時のような心地で挑んでいいと言われ、それは絶対に無理だなと思った。



「さて……そろそろ眠ろうか」


「昨日も今日も寝てばかりな気がします…」


「寝ているあいだに馴染むものもあるから、暫くは食べて寝ての繰り返しになるかもしれない」


「ナマケモノ生活………」


「散歩をしたいなら最初は離宮の中だけで済ませ、日差しが柔らかい時間帯に徐々に庭先へ出るといい。私邸との境にある御池は凍るほどに冷たく深いから、安全のためにもあまり近づかないように」


最初はとにかく無理をしないことと身体を馴染ませることに注力するようにと何度も念を押され、苦笑を返す。

これまでの不調具合を見ていれば過剰に心配されるのもわかるけれど、今はありがたいことに頭痛もないし耳鳴りもしていない。


(ちょっと呼吸が重い感じはあるけれど……)


それはやはり、空気の薄い、遥か高い場所に至ったという証なのだろう。



寝る前の軟膏を肌に塗り塗りしながら、そういえば…と上を見上げる。

美しい建物ではあるけれど、しっかりと壁と天井に守られており、当然ながら空は見えない。


「星はどこから見えますか?」


「ああ………離れに天窓はあっただろうか……私の屋敷のほうにあるから、もう少し馴染んだら連れていこう」


日中アズハルが居る執務用の建物と、イリリアの住む離れ、アズハルの私邸は長い廊下で繋がっており、徒歩で行き来できるくらいの場所にある。

夜半にあちらこちらと移動するのは寒いだろうから、星見の日は私邸に泊まることにしようと言われ、アズハルの私的な空間に招かれることへの喜びと期待で胸がそわそわした。


アズハルにはアズハルの生活があるため、いくら花嫁とはいえ好き勝手に私邸を訪問するわけにはいかない。

これからは、この離れでアズハルが訪れてくれるのをじっと待つ生活になるのだと思うと少しだけ寂寥感を覚えたけれど、それにも少しずつ慣れていくしかないのだろう。



律儀なアズハルが持参した枕をベッドに据え置けば、共寝を了承する合図だ。

これだけ大きなベッドなら十分に距離を空けて並び寝ることも出来るだろう。今日はぎゅっと寄り添って眠る予定のため、真ん中あたりにふたり分の枕を仲良く配置する。



「ところで、共寝のお作法はいつまで続くものなんです?私の体調が安定するまで?」


「? 許される限りずっとだが………」



何故そのような事を聞かれたのかわからないと虚を突かれたようなアズハルの顔は、「ずっと」という言葉にポカンとするイリリアを見るうちに、じわじわと怪訝な色を帯びる。


「…………何か不都合でもあるのか?」と慎重そうに尋ねられ、思わず、それはむしろそちらでは…?と言い返しそうになる。



「えっと………お渡りのあとに戻って来る感じ?」


「お渡り……?」


「他の人と夜を過ごしたあと、わざわざ戻って来るのかなって…」



それはちょっと嫌だし、受け入れ難い。


でも、そこを拒絶するとひとりぼっちで眠る日ばかりが続くことになるのかもしれない。そう思うと…それはそれで寂しい。

けれど、他者との色事の残り香を纏ったままの夫を平気な顔で受け入れられるほどの胆力は、今のイリリアにはない。


夜の共寝を続けるにしても、出来ればこれまで通りに、他の人との行為は匂わせないでいてくれると嬉しいなぁという気持ちをどう伝えようか悩んでいると、アズハルの顔から柔和さがすっかり消え失せ、ひどく強張っていることに気付いた。


信じられないものを見るかのような目が向けられ、その濃紺の瞳の奥には、絶望に似た色彩の他に、わずかな怒りの欠片が潜む。



「何故、私が他の女性の元へ行かねばならない…」


「あの……花嫁とのあいだに子どもができたら、竜人族の側妃を迎えるんですよね…?」


「………誰が吹き込んだ……ナヒーダか?」



その問いかけに対する答えをイリリアが口にする前に、内腑に溜めきれなかった怒りを吐き出すかのような深いため息が落とされた。

今にも発露せんとする感情を必死で抑えているのか、きつく握り締められた拳は震え、太い血管が浮き出ている。



「それを……信じたのか?私が、花嫁でもない女に手を出すと……」


「……でも、アズハル様は王族だから……」


「王族だろうと強要される謂れはない!まさかこれまでにも、他の女と懇意であったなどと思っているのか!?」



鋭い牙を向けられたような言葉に身が竦む。

向けられた瞳に浮かぶのは、怒りだけじゃない。失望や嘆き、悲憤。


イリリアの言葉がアズハルの逆鱗に触れ…そして深く傷つけたことは確かだった。



「……………ごめんなさい」



謝罪の言葉を肯定と取ったのだろうか、アズハルの表情は一瞬だけ悔しげに歪められた。

違う、と言いたいのに言葉が出ない。

不貞を疑っていたわけじゃないと言いたい気持ちと、彼には恋人や側妃候補がいるのだと信じて疑わなかった自分の心が、矛盾を指摘し合う。




「大きな声が聞こえましたが、いかがなさいましたか……?」



控えめに寝所の扉が叩かれ、扉向こうからラウダの声がする。


感情を御するように片手で目元を覆い、もう一度腹の底から深い深いため息を吐き出したアズハルは、踵を返すと扉へと向かった。

引き留めるための言葉も出ず、ランプの灯りで橙黄色に染まる白い髪を見つめることしか出来ない。



「少し頭を冷やしてくる……私が戻るまで気にかけてやってくれ」



ラウダを寝所に押し込むようにして、アズハルが出ていく。

氷が溶けるかのようにじわじわと広がる感情は、自分への失望と、後悔ばかり。



「………………ごめんなさい……」



もう居ない背中に謝罪の言葉をかけても、届くはずもないのに。

じわりと滲み出す涙を受け止めるように、両手で顔を覆う。

頭の中では、そんなつもりじゃなかったのにと、何度も何度も言い訳めいた言葉が巡って。


……長く生きる時間のなかで恋人を作っていても仕方がないと思っていたし、側妃を娶るのは王族の義務のようなものだと思っていた。


厚かましくも、花嫁である自分は今、誰よりも大切にされているという自覚はあった。だから、アズハルが花嫁に向ける心までも否定するつもりはなかった。



(でも……)



カモシカ族の集落で、リヤーフと必要以上に親しくなるのでは…と懸念を抱いたアズハルに、自分は怒らなかっただろうか。潔白を信じて欲しいと願わなかっただろうか。



ああでも、と、これまでに聞かされた言葉の数々がイリリアの心をガリガリと引っ掻いていく。



竜人族の王族にとって『花』は必ず必要な存在で…

(でも彼の叔母は、花婿探しを諦めて長年連れ添った竜人を伴侶に据えたと聞いたわ)



花嫁のことを五十年も探し続けていて…

(竜人族とも獣人族とも、恋愛は自由にできるって聞いたもの)



漸く得た花嫁は人間で…

(人間なんて、多産であること以外に利点はなくて、竜人にとっては仇敵で…)



アズハルは数少ない竜帝の子なのだから…

(………政治的な立場を、無視できるはずもない)



花印を持つ者は唯一無二などと言いながらも、竜人側にはいくつもの逃げ道が用意されている。それに、種族的な偏見も根強く残るなかで、どうして竜人から最も嫌われている人間が、数少ない貴重な王子を占有できるなんて思えるだろう。



ぐわんぐわんと混乱する頭のなかでアズハルの咆哮にも似た叫びがこだまする。



(あの優しい心を傷つけてしまった……)



立ち尽くしたまま懊悩し涙し続けるイリリアの肩に、落ちてしまった羽織が掛け直される。

「……お身体が冷えますよ」と気遣わしげな声をかけてくれるラウダに、ごめんなさいと震える声で謝罪する。

ラウダの主人であるアズハルを深く深く傷つけてしまったのだから、糾弾して、ここから引き摺り出して、外に放り出したっていいのに。

イリリアの背中を撫でるラウダはどこまでも親身で居てくれて、ぼたぼたと手の隙間から零れる涙を丁寧に布で拭ってくれる。



「今は少々気が立っておられますが、頭から水を被って落ち着いたらお戻りになるでしょうから、どうぞ先におやすみくださいませ」


「起きて、待って、います……」


「ですが………」


「傷、つけて、しまった、から………」



ひくつきながら震える喉から声を絞り出す。

背中をさすってくれたラウダはイリリアをベッドへ導くと、ではせめて座ってお待ちくださいと涙でびちょびちょの顔を拭って、水を手渡してくれる。



「のちほどもう一度ご様子を伺いに参ります。その時にまだアズハル様がお戻りでなければ、お布団に入ってくださいますか?」



しゃくりをあげながらどうにか頷いて、でもやっぱり、戻ってくるまで起きていなければと思う。



(もしかすると、もう私の顔なんか見たくないかもしれない…)



それでも、謝らなければ。


言い訳ばかりになってしまうけど、どうしてあんな事を言ってしまったのかを説明して、謝罪して……それから……。


それから……どうしたらいいのだろう。


見放されたところで、行くあてなんかどこにもないのに。




ひとりになった部屋はがらんと広く寂しくて、アズハルが怪我を負った日の夜のことを思い出す。


のろのろとした動きでベッドに置かれたアズハルの枕を手に取ると、床に座って、枕を抱き込むようにして身を小さくした。


頭の中を行き来するのは自分を責める言葉ばかり。

それをひとつひとつ噛み砕いて飲み込んでいく。

女官たちの侮蔑も、雷鳥の嘆きも、ナヒーダの嘲りも。やがてその顔は兄になり母になり、イリリアが生まれたことさえ罪であるのだと言及してくる。

惨めな人生を反芻するたびに、心は削り取られていく。



(優しさになんて触れなければ……)



そう思うのに、アズハルと出会って、彼が与えてくれた温もりを思い出すだけで、絶望ばかりの人生に月明かりのような光が差し込んでくる。



ごめんなさい、ともう何度目かもわからない謝罪を心で唱える。



何度も、何度も、何度だって謝るから……どうかそばへ戻ってきて。








「お花様、ここで眠られては……ああ、身体が冷えてしまっています」


ラウダの声に重たい目蓋を持ち上げる。

枕を抱えて床に座り込んだまま寝ていたようで、冷えた体を温めるように厚手の毛布でぎゅっと包まれる。


不思議と寒いという感覚はなくて、ただ、隣に誰もいない事が悲しかった。



「………アズハル様は…?」


「執務室へ行かれたあと、一度私邸に戻られたようです。今暫くお戻りにならないかもしれませんので、先に寝台へ…」


「もう少し、ここで」と首を振れば、「なりません」と厳しい口調で首を振られる。

まさかダメだと言われるとは思わず小さく驚いていると、ラウダは困ったように眉を下げながら「お花様をこんなにもお待たせするなんて、アズハル様にはお説教が必要ですね」と微笑みかけてくれる。


お説教を受けるのはどう考えても自分の方で、アズハルは何も悪くない。

出て行ったことも間違っていないし……たとえこのまま戻ってこないとしても、悪いのはすべて自分だ。



ラウダは温かな白湯を用意してくれたあと「………先ほど少しだけ声が聞こえてしまったのですが」と口火を切った。



「昼にもお伝えした通り、あの方は確かに、少しばかり厄介なところに立たされておいでです。竜帝陛下の庇護がなければ、すぐに政治的に利用されてしまうでしょう…」



『利用』という言葉が、アズハルが自称する『道具』という言葉と繋がり、胸がちくんと痛む。

この離宮の雰囲気は悪くないが、中央にあるという王宮はどうなのだろう。

王子として参内するたびに陰口を囁かれ、少しでも気を抜けば厄介な者たちから腕を掴まれる環境にあったのなら、彼は幾度となく苦しく歯痒い思いをしてきた筈だ。


(もしかしたらこれまでも……花嫁でない女性を側に置くようにと、何度も打診されてきたのかもしれない)


強要されたくないと声を荒げたアズハルの表情には、切実さが籠っていなかっただろうか。


花嫁不在の不安定さを突くように望まぬ関係を強いられそうになったとして……もしも彼が、いつかどこかで運命の花嫁が見つかるかもしれないという一筋の希望だけをよすがに、その要求を跳ね除け続けていたとしたら。



(あんなにも深い感情で……あんなにも真摯に、好きだといってくれたのに…)



必死に跳ね除け続けてきたそれを…ようやく見つけた花嫁から疑われ言及される残酷さに思い当たり、イリリアは自分が口にしてしまった事がどれだけアズハルを傷つけ失望させてしまったかを改めて実感した。



(裏切らないと、約束したのに……)



花印への誓いを思い出す。

それは最初、イリリアが他の男に懸想しないことを誓うばかりのものだった。

けれども……アズハルの想いを知り、その想いに心を重ねたからには、誰から何を言われようとも、彼を信じ、その心に寄り添い続けることこそがイリリアの為すべき事だった。



自分自身を道具だと皮肉った彼の心を、悲嘆を、苦悩を……どうしてしっかり汲み取ってあげられなかったのだろう。



胸が痛い。花印が熱を持ったようにじくじくと痛む。



「……イリリア様はもしかして、アズハル様が王妃殿下の御子ではないこともあり、側女を持つものだと思われたのではありませんか……?」



自己嫌悪が渦巻く頭のなかで、ラウダからの問いかけを必死で処理して小さく頷く。

すべて言い訳でしかない。

けれど。

子を為す重要性については示唆されても、王妃や側妃のこと、竜人族の婚姻制度のことなど、他の大事なことは誰も教えてくれなかった。

ラウダは痛ましい表情で、どうぞご自分を責めないでくださいませと慰めてくれる。



「竜帝陛下もまた難しい事情を抱えておいでです……けれども、軽々しく口には出来ないその事情について、霊峰へ来たばかりのお花様に知っておけというのも酷な話でございましょう…」


その言葉はイリリアに、誤解した理由と正当性を与えてくれる。

それに甘えて縋りつきたくなる気持ちを、必死に抑え込む。



足が凍り付いてしまったかのように床から立ち上がれないイリリアを、ラウダが抱えて寝台に上げてくれる。

そして冷えた指先を温めるように両手をそっと握られる。


涙の膜越しに見るラウダの瞳は空のように澄んでいて…その奥に苦悩の色を宿していた。



「本来は、花嫁に代わる存在を置くことはありません。ですが、イリリア様に様々なことを吹き込んだ者たちは、花嫁が竜人族の作法に疎いことを利用して嘘を植え付け……このように仲違いをさせようとしたのかもしれません」


「……アズハル様は…花嫁を五十年も探していたと聞きました……だから……そんなに長い間ひとりだったなんて、思わなくて……」


「ええ……竜人にとっても五十年は短くない年月です。だからこそ、アズハル様もつい、お花様の言葉に感情を昂らせてしまったのでしょう。

大丈夫ですよ。お戻りになったときに、なぜそのような誤解があったかを話せばわかってくださいます………うまく言えずにお困りでしたら、このラウダにお声掛けください」



ただただ労わるような言葉に、再び涙が滲む。


だとしても……だとしても、信じきれなかったのは、アズハルの心を裏切ったのは、私だ。



(謝って、話を聞いてもらって、それから……それからどうしたらいいのか、本当にわからない……)



また素知らぬ顔で、花嫁として隣に並ぶことが、果たして許されるのだろうか。



悲鳴のような痛みを訴え続けるのは、心臓ではなく胸に咲き開いた花の印。


悔恨の念は消えず、誰でもいいから私を責め立て罰して欲しいと心が叫ぶ。



感情の乱れと共に短くなっていく呼吸を落ち着かせるように何度か指先を撫でてくれたラウダは、イリリアのそばにそっと枕を置き、殊更明るい調子で言葉を紡いだ。


「それに、お花様にはこれを投げ付ける権利がございますからね」


「……?」


言われた言葉がわからなくて首を傾げたら、その意味を教えてくれる。


「枕を持参して共寝を願い出たにも関わらず、夜中のあいだに寝所を出て行った男は、その枕で滅多打ちにして構わないのですよ!」


こんなにも悔やんで謝ろうとしているお花様を待たせ続けるなんて本当に…!と憤慨して見せてくれる様子に、どうにかして口元で笑む。


「ありがとうございます」と「ごめんなさい」を繰り返すイリリアの顔を拭い、温かな布団をかけてくれたラウダは、夜中にも様子を伺いに参りますねとそっと寝室の扉を閉めた。



目を閉じ、未だ戻らぬ人を想いながら、アズハル様…と心の中で呼びかける。




遠のく意識の向こうで誰かが、「裏切り者」と囁く声が聞こえた気がした。













何もない真っ白な世界で、ひとりきり。



辺りを見回しても何もなく………ただ、どこからか、重たい声だけが響いた。



『裏切り者……』



こちらを押し潰すほどの重い声に、イリリアの胸の花がずきりと痛む。



『竜の想いを信じることなく、その献身を踏みにじった』



『裏切らないと、誓っておきながら…』



それはまるでアズハルの嘆きのようで。


イリリアは部屋を出ていく前の彼の表情を思い出す。

胸は引き裂かれるほどに痛み、ただただ、震える声で「ごめんなさい……」と呟く。



事実を確かめようともせず、謠言に惑わされて決めつけ………深く心を傷つけた。


それが彼の愛情に対する裏切りではないと、どうして言えようか。



『裏切り者よ……花の誓いを破りし者よ……竜への償いを。』



まるで裁きが下されるような重々しい宣告。

イリリアの左胸が熱を持ち、心臓が押し潰されるような痛みと共に身体中から冷や汗が吹き出る。



(ああ……これが、罰なのね……)



ならば受け止めよう、粛々と。


これですべてが許されるなんて都合の良いことを思いはしないけれど……

竜への償いになるのなら、たとえどんな苦痛でも。



心臓が破れるほどにバクバクと跳ね、目も耳も頭もどこもかしかも、血潮の濁流に呑まれてしまったかのように熱い。



(でも………寒いわ………)



身体がぶるぶると震え始める。



意識はいつのまにか、白い空間を離れ、ひとりぼっちの寝室に戻っていた。



頭が割れるかのような痛みに、堪らず髪を掻きむしりながら。

イリリアは赤く染まり始めた目蓋の裏で、深く傷ついた夜色の瞳を思い出していた。



(もう一度ちゃんと、謝りたかった……)







「お花様……!?」と膜のかかった意識の向こうで、ラウダの悲鳴のような声が聞こえる。



でももう、何も見えない、何も考えられない




痛くて苦しくて悲しくて




どこかで聞いた、『裏切り者』となじる声が、頭の中で歪みながらこだまする。




せりあがる嘔気に血の味が混ざる。




一瞬だけアズハル様の声が聞こえた気がして、ごめんなさいと伝えようと思ったのに……喉からは、生暖かい何かが溢れ出るばかりだった。










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