13. 朝焼けの色と思い出の味
あれから七日のうちに、イリリアは幾度か発作を起こした。
そのたびにアズハルが抑えて宥めてくれたけれど、一度だけ、その腕に噛みついてしまった時にイリリアの中の何かが決壊した。
狂乱するように部屋を飛び出したけれど、すぐに追いかけてきたアズハルに捕えられ。
いやだ、離れて、ごめんなさい!と叫びながら泣いて、泣いて、泣いて。
大丈夫だ、傷ひとつないと何度も何度も抱きしめてくれるアズハルをこれ以上傷つけるのが怖くて、寝台に戻されたあとも頭から布団を被って泣き続けた。
身体が保たないから霊草と水だけは口にしてくれと懇願され、どうにか機械的に口に運んだけれど、それ以外の食べ物はもう見たくもなかった。
(どうせおいしくないもの……)
鳥肉の事件以降、舌が地上の食事をすっかり思い出してしまったのか、何を食べても美味しくない。
霊草の味は薄い草の味だし、行商から買ってくれているのか、栄養補助やおやつとして出される固形食は土のような味がしてうまく飲み込めなくなった。
こんなものをどうやって食べてきたんだろうと思うほど、食事へのありがたみも意欲も失せ、ただ摂取するだけの行為に成り果てていた。
どうせいつかは霊草だけで生きなければならなくなるのだから、今からそれに慣れればいい。
必要なものだけを口にして、命を繋げばそれでいい。
イリリアが布団に丸まってから二日ほど経った頃、布団越しにアズハルから優しく背中を撫でられた。
また食事の時間かしら…と気鬱さを隠さずに布団の隙間から顔を出せば、少し疲れた目元をしたアズハルから「拠点を移動しようか」と提案された。
「ここより東寄りにある小屋を貸していただけることになった。ひとつ上の階層だから天候が不安定なのが少し心配ではあるが、環境が変わればイリリアの気分も変わるかもしれない」
アズハルの管理する南側と王妃殿下の管理する南東の土地の境界にあり、本来は王妃殿下の管理下にある小屋だが、今回の件への補償として利用を許されたという。
大きさは以前使っていた小屋と同じくらいで、扉から入ってすぐの広めの空間と寝台の置かれた個室がふたつあるばかりだが、周辺の景観はとても良いという。
「朝日が美しく見える」と言われ、イリリアは無意識に小さく頷き返していた。
アズハルはイリリアの身体を布団ごと持ち上げると、このまま運ぼうかと言ってくれる。
ぼさぼさの身なりで、寝衣に布団を巻きつけただけの惨めな格好で移動するのは嫌だと思って首を横に振れば、ではゆっくりでいいから支度をしようと隣室へ運ばれる。
アズハルはあの一件に関わった者たちをすべて拠点から離脱させた。
女官ふたりの企みであったものの、本来であれば警備役のサイルが雷鳥の立ち入りを阻むべきであったし、侍女のハイファは女官と言い争ってでも面会を許すべきではなかった。
花嫁の近くに置く人材としては不適切であると判断したアズハルは彼らを天上へ戻し、今後の花嫁との接触に制限をかけた。
ハイファは侍女の任を解かれ、サイル共々、花嫁の居住区となる離れに近づくことが固く禁じられた。
王宮へ戻された女官たちは、王太子を飛び越えその母親である王妃殿下の怒りに触れたらしい。
そこには政治的な意図もありイリリアには十分には読み解けなかったけれど、正妃の息子が側妃の息子の花嫁に害を為した…という構図が出来上がってしまったため、思いがけず大きな話となったのだろう。
王太子の母である正妃は当然ながら竜帝の花嫁だ。
彼女の怒りを買うことは、竜帝の怒りを買うに等しい。
医者のナルジスは、部屋を片付けたアズハルの部下によって例の小瓶の中身があまり良くないものであることが露呈して、そんなものを花嫁に渡すなと叱られ、任を解かれた。
どうやら毒ではないものの、毒蛇の生き血を度数の高い酒に溶かしたものだったらしい。
酒と血には体を温め活性化する効果が云々…と言っていたようだが、イリリアとしてはあまり好んで飲みたいものではない。度数も信じられないほどに高く、一気に飲み干していれば間違く昏倒していたことだろう。
警備隊が使用する一階部分も一時的に封鎖され、大きな拠点は伽藍堂と化している。
今はハイファではない侍女がひとりと、アズハルが最も信頼を置いている近衛をひとり配置しているそうだ。
イリリアの心境を慮って、ふたりには極力姿を見せないようにと命じてくれているらしい。
挨拶も出来ていないことは心苦しかったけれど、この惨めな姿を積極的に晒したいとは思えず、アズハルからの思いやりに身を委ねるように甘えさせてもらっている。
もともと侍女が付くような生活をしていないイリリアは一人で身支度は整えられる。
天上の女性たちが着ていたひらひらしていた服は流石に難しいけれど、カモシカ族の集落でリームたちが用意してくれたような、移動と防寒を主体とした服であれば問題ない。
お湯をもらって、身綺麗にして、新しい衣服に着替える。
応接間で待ってくれていたアズハルは、イリリアが布団を被らずに出てきたことにホッとしたようだ。
イリリアとしてはまだ、うまく顔があげられないでいるのだが、これから狭い小屋で共に過ごすとなれば、そうも言っていられないだろう。
あの日、氷片が刺さった腕にそっと手を添える。
衣服越しではよくわからないけれど、傷ひとつ残っていないそうだ。
それでも硬い鱗を持つ竜人の肌を貫通したのだから、あの氷片の鋭さと勢いは相当なものだったに違いない。
イリリアは自分が噛み付いた場所がどこかはっきりとは覚えていないけれど、腕だった気がする。
怪我を負わせた腕にさらに攻撃を重ねるなど、自分はなんて愚かなことをしたんだろう。
布越しだったから痛みすらなかったと何度も何度も言われたし、むしろ噛み付いた側のイリリアの方が、岩を噛んだかのように歯と顎が痛んだように思う。
けれど、そういうことじゃない。
もしも自分の人間としての本能が竜人を『食材』として見做してしまっているのなら、この発作的な衝動が完全に抑えられるまでは、絶対に近づいてはいけないと思ったのだ。
「……ごめんなさい」
「もうずっと許している……どうしたら信じてくれるだろう」
「私が私を許すまで……」
「それは困ったな……」
イリリアは頑固に自分を許さなさそうだと言われ、その通りだと小さく頷く。
苦笑したアズハルは、まるで不貞腐れた子どもを宥めるかのように、こつん…と額と額を合わせてきた。
久しぶりに至近距離で見つめる夜色の瞳に、泣きそうなくらいに胸が和らぐ。
「拠点を移動しても、また布団を被ってしまうのだろうか」
「………。」
「ひとりで寝たい?」
「………蹴っ飛ばしてしまうもの」
「大して痛くないし……最近のイリリアはさほど動かない」
心配なくらいに、と付け加えられて、じゃあ一生布団ダンゴムシで居ようかしらと思ってしまう。ゴロゴロと転げ回るよりもずっと同衾者に優しい仕様だ。
「……一緒に居たい。狭い寝台で並んで寝るのに、隣が布団の塊ではあまりにも寂しい」
「アズハル様も塊になって、自衛してください…」
塊にはなりたくないと苦笑を深めたアズハルから、じゃあ…と代替案をもらう。
その表情が困ったように気恥ずかしげであるのは見間違いではないだろう。
「私が以前、寝惚けてイリリアの背中を食んだのと、お相子でどうだろう」
「………もう一回食べて」
「ん?」
「もう一回…がぶっと…」
そしたら相子だと言えば、悩ましげな顔をしたアズハルは生真面目に考え込んだあと、今夜少しだけ背中の花印に触れる時間が欲しいと告げた。
「噛むのはさすがに…大怪我をすると思うから、少し触れるだけで」
「いっぱい…」
「イリリアが風邪を引かない程度で」
頑なに短時間を強調してくるため、じゃあ胸の花印にも触れたり食んだりしていいと言えば、それはやめておこうと真顔で断られてしまった。
しつこく押し付けるようなものではないから、儀式が終わったらいっぱい触れて欲しいと言うに留めておく。
移動中寒くないよう簀巻きのように布団を巻きつけてもらって、ベールを付けて抱き上げられる。
こうして移動するのも七日ぶりだ……ずっと拠点に篭っていたから(たまに食べ物欲しさに暴れ狂ったけど)足腰は随分弱っていると思うし、順化もやり直しに違いない。
それも申し訳なくなって「ごめんなさい」と言えば、ふたりで居られる時間が増えたとフォローしてくれた。花嫁の順化が最優先だから、天上の余計な仕事も回されずに済むと言った顔は少し悪戯っぽくて、その優しさに身を浸す。
寝ていれば着くと言われたから本当に寝ていた。
リヤーフだったら「イリリアさぁ…」と呆れ返っていただろうけど、アズハルは文句のひとつもなく、簀巻きのままの身体を慎重にベッドに下ろしてくれる。
「………外に警備の者をひとり配置するが、それ以外は置かない予定だ。私が離れなければいけない時だけ侍女を置くけれど、隣室で待機させるに留める。だが、用があるときは遠慮なく彼女を頼って欲しい……ひとりで苦しむことだけはいけない」
苦悩に満ちた表情で告げられた言葉を受け止め、ちゃんと頷く。
ひと同士の関係に、合う合わないはつきもので、それでも上手くやっていかなければならない事はある。
先日の女官や侍女の振る舞いを見るに、きっと自分は歓迎されないのだろうけど、改めて付け直してくれたということはちゃんとアズハルの指示を守る人なのだろう。
「ごめんなさい…アズハル様の大事な方々なのに、挨拶もしなくて…」
「構わない。天上で改めて紹介するから、その時に。今はゆっくり身を休めて、環境に慣れることに専念してくれ」
もう一度寝るか食事にするかと聞かれたため、追加の布団を掛けて欲しいとお願いした。
食べないといけないのはわかっているけれど、何かを口に入れる事を考えたくない。
霊草を食べているだけで無意識に涙が落ちてくるのも嫌だった。
天上へ至らなければと心急く反面、あまりに不調が続くせいで、これ以上は無理だと尻込みする気持ちもある。
そんなイリリアの心情を察してか、アズハルは何度も何度も「ゆっくりでいい」と宥めてくれた。
短時間の微睡を終え、どうにか霊草を喉に押し込んだあと、久しぶりに狭い寝台に並んで身を横たえる。
薄暗い室内に差し込む月の光は朧気で、今は雪を落とし終えた雲が多く流れているのだと教えてくれる。
イリリアが頭から布団をかぶっていたのはここ数日のことだったが、やっと顔を見て眠れるとアズハルは至極嬉しそうだった。
背中の花印へ触れるのは布越しでいいと言われたけれど、それは嫌だとイリリアは容赦なく服裾を捲りあげる。上衣を全部脱がなかっただけ手加減したほうだ。
「イリリア…」と悩ましげな声が聞こえたものの、さすがにこのような状況にも慣れてきたのか、早く済ませた方が寒くなかろうと観念したように顔が寄せられる。
肌にかすめる鼻先がくすぐったくて、花を食むようになぞる唇の動きが艶めかしい。
触れられるたびに身体に熱が宿るようで、はしたなくも、もっと…と強請ってしまいそうになる。
お上品に二口三口嗜んだあと、そっと服が戻された。
布団をたっぷりかけて貰って、お腹には安全ベルトな腕が回される。
「寒さに耐えられそうなら、明日は日の出を見ようか…」
山から見る日の出は荘厳だという。
昇りくる朝日はすぐには見えず、下層に満ちた霧雲が先に、じわじわと黄色みがかった淡紅色に染まりゆく。
遥か上空の雲が赤く染まり、霊峰の近くにある雪嶺の峰をオレンジ色に染め上げながら強い光を纏った太陽が厳かに顔を出すと言われ、イリリアはなんて神秘的なのだろうと想像する。
「凍ってもいいので見てみたいです」
「凍らないよう暖かくして行こう。光が強くなると雪が眩しくなるから、出始めまでがいいかもしれないな…」
明日のことを話す…そう在れることを祈り噛み締めるように、ぽつりぽつりと言葉を重ねる。
翌日の朝日は信じられないほどに美しくて、その光を浴びたアズハルの神々しさはえも言われぬほどだった。
(雪よりも貴方の方がずっと眩しい……)
目の前に広がる雄大な世界と、隣に居てくれる唯ひとりの存在。
(この先もそばに居るからには、いい加減に自分の足で立たなきゃ……)
そんな思いで雪の上に下ろしてもらったイリリアは、足元から込み上げる壮絶な冷気に「寒い…!」と震えながら高速で足踏みをし、たった数秒で体力を使い果たしてしまった。
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それから少しした頃、イリリアが朝の霊草を食べ終えるのを見届けたアズハルは「出来る限り急いで戻る」と言い残すと足早に小屋を出て行った。
扉越しに「隣に待機しておりますのでご用事がありましたらお声掛けください」と柔らかな女性の声がして「はい」と反射的に返事をする。
直接声を掛けられたのは初めてだったため、暫くのあいだドキドキしてしまった。
それきり大きな出来事もなく、昼過ぎに「お食事はどうなさいますか」と再び掛けられたため、今は大丈夫ですと返事をする。
アズハルがいない間に何かあってはいけないから、極力静かに息を殺して過ごす。
ナマケモノ宜しくベッドで寝たり起きたりを繰り返しながら過ごしていると、夕陽を背負うようにアズハルが戻ってきた。
寝転んだまま「おかえりなさい」と声を掛ければ少し疲れた顔で「ただいま」と返された。
「イリリア、少し…いいだろうか」
食事用にと置かれた茶卓のそばに手招きされたため、上着を羽織ってベッドから降りる。
一瞬くらりと目眩がしたけれど、倒れるほどではなかった。
すっかり重くなった身体を引き摺るように移動して、床に座る。敷かれた厚手の織物のおかげでおしりはそんなに寒くない。
テーブルには霊草の載ったお皿が置かれていて、そういえばお昼ご飯を一度お断りしてから何も食べてないなと思い出す。水は飲んでいたけれど、ちゃんと食べろという無言のお叱りだろうか。
「これを食べたらいいんですか?」
「それよりも、こちらを…」
手に渡されたのは地味な色味の焼き菓子で、薬草っぽいものが練り込まれているようだ。
どこかで見覚えが……と記憶を探り、思い至ったひとつに勢いよく顔を上げる。
視界が揺れてこめかみにずきりと痛みが走ったが、そんなことよりも手の中にあるクッキーへの衝撃の方が大きい。
「これ…!」
「カモシカ族の集落へ行き、リームの作った焼き菓子をもらって来た」
労わるように目元を緩めたアズハルの顔と手の中のお菓子とを何度も見比べて、おそるおそる、ひと口齧る。
堅い歯ごたえと、粗い舌触り。質素な味の中に葉っぱの青味が広がる。
懐かしい味に、思わず目から大粒の涙がぼとりと溢れた。
噛めば噛むほど、涙がぼたぼたと落ちる。
「イリリア…」
「おいしい……おいしくないけど、おいしい……っ」
霊峰に辿りついた時、イリリアには、この焼き菓子がとても贅沢なものに思えた。
携帯食糧もなく空腹で森を彷徨い歩いていた自分にとっては、リームの作ってくれるお菓子やお粥はこの上ないご馳走だった。
「少量だが粥もある」と、どうやって運んで来たのか、深い椀にちょこんとだけ盛られたお粥を差し出され、震える手でそれを受け取る。
すっかり冷たくなっていても、リームのお粥は変わらず優しい味がした。
「おいしぃ…、ぅうっ、」
胸が詰まって、言葉もうまく出ない。
背中をさすってくれるアズハルが、ゆっくりでいいと優しく宥めてくれる。
泣きながらお粥とクッキー二枚を食べて、テーブルに置かれていた霊草も食べた。
頭の中のイマジナリー・リヤーフが、せっかくの食事を残すなよ勿体無いと苦言を呈して来たからだ。
ごくごくと水を飲み干して、ひと心地付く。
安堵の表情を浮かべたアズハルが「美味しかったか?」と聞くから、また泣きながら美味しかったと頷き返す。
「ああほら、そんなに泣いたら目が……」
「カモシカ族の集落へ行っていたんですね………ずるい」
ちょっとした非難が語尾についてしまい、困ったように「さすがに三千メートル以上の垂直移動には連れて行けないな」と苦笑されてしまった。
わざわざ行ってくれたアズハルを責めるつもりはないが、倒れてもいいから一緒に行きたかったのは本音だ。
「先日の一件以降イリリアの食事量が減っているからと相談して、リームにお菓子を焼いてもらい、粥のお裾分けを貰って来た。それとリヤーフから、やばい時はこれを見て気を紛らわせるようにと預かって来たのだが……」
困惑顔で差し出された箱を開けて中を見るなり、イリリアはそっと元通り蓋を閉めた。
「……………これは確かに、食欲なくなる」
食欲がないと言っているのに食欲を減らしてどうするんだという話だが、箱の中に入っていたのは蜥蜴や蜘蛛や蝙蝠といったおおよそ食べ物とは言えないものたちが、黒焼きや乾燥物となって詰められていた。
あの雷鳥に対して感じたような強烈な飢餓感を感じたとしても、これを見れば食欲は失せるし、万が一にも食べろと言われて追い回されたら死ぬ気で逃げる。
つまりこれは、今後の飢餓感対策としてくれたのだろう。
「さすがリヤーフ、良くわかってる…」
イリリアが本当に怖かったのは、食べる事ではなく、いつ何をきっかけに暴力的な飢餓感に苛まされるかわからない事だった。
あの日食べ損ねた鳥肉のことを考えるだけで今でも涙は出るし、地団駄を踏んで暴れたくなる。この衝動が大きく膨らんで、また自我を失って暴れて迷惑をかけたら……誰かに怪我でも負わせてしまったら……そう思うと不安で、食事という行為そのものを嫌忌するようになった。
でも、これがあれば……これの活用方法をアズハルに伝授しておけば、暴れ出したとしても止める為の有用な手段になる。その後訪れる泣くほどの飢餓感も、この恐ろしい黒焼きセットを見たら、たちまち萎むこと間違いなし。
ありがたいわ…と心の中で何度もお礼を言いながら、恐ろしい黒焼きセットの箱をアズハルに手渡す。
蜥蜴の黒焼きはまだマシだったが、リアルな形状のままカサカサに乾燥した大蜘蛛は本気で無理だった。出来れば遠ざけておきたい。
「もしまたカモシカ族の集落へ行くことがあれば、リームさんたちにお礼を伝えておいてください。ありがとう、元気が出ました、って……」
黒焼きの箱を持ったアズハルが表情なく静止しているため、アズハルも爬虫類や虫系の乾燥物は苦手だったかな…と思っていると、ややあって拗ねたような小さな声が聞こえた。
「………アズハル様?」
「いや……リヤーフはイリリアのことを良く理解しているものだと思ってな…」
「そうですね、一ヶ月間付きっきりで色々と教えてくれましたし、何でも気安く話せるよう場を整えてくれたので…」
おや、これは……嫉妬しているのかなと思い、その顔を覗き込む。
ふぃ…と顔を逸らされた隙に、伸び上がってその頬っぺたに唇を押し付けた。
驚いたアズハルが頬を押さえて目を見開いている。
何だか世界に、急速に色と熱が戻ってきたような心地だった。
「でも私は、アズハル様の花嫁ですよ?裏切らないって花印に誓ってますし」
「……浮気を疑うつもりはないが、リヤーフとの方が楽しく過ごせるのではないかと」
「アズハル様の側にいるのは落ち着きます。それに、キスしたいとか抱きつきたいとか、そういう衝動はアズハル様にしか抱かないので」
「イリリア……」
「これまで散々心配かけてしまったお詫びに、顔にいっぱいキスしてもいいですか?」
「いっぱいは………困る」
じゃあちょっとだけ、と抱っこをねだるように両腕を伸ばせば、どこか嬉しそうに正面から抱き上げてくれる。
膝の上に座らせてもらい、伸び上がりながらお礼の言葉と共に頬や目元に唇をあてる。
悪戯心から耳たぶを食むと、背筋を震わせたアズハルが絶望的な声を上げた。
どうやら許容量を超えてしまったらしい……片手で覆われた顔は紅潮し、耳先どころか首筋も赤くなっている。
「イリリア……心臓がもたないからやめてくれ……儀式の前に川底に沈むことになりそうだ」
「川底に沈む?」
「竜人族は命が終わると心臓部である玉を取り出し、天上を流れる川に流すことになっている。玉は川を流れゆき、それぞれの行き着く先で川底に沈む」
「婚姻の儀ではその川を渡り、始まりの湖で誓いを交わす」と言われ、ロマンチックというよりも何だか難しそうという感想が先に立つ。
というより絶対……寒いと思う。川を渡るなんて、足が凍って捥げるかもしれない。
アズハルはその可能性に気付いていないのか、過去の儀式を思い出しながら穏やかに語る。
「幼い頃に見た兄上の儀式は神々しいものだった。二十年ほど前に叔母上の儀式も見たから一連の流れは把握している。ゆっくりやれば問題なく終えられるだろう」
「……川を渡っている途中で流れに足を取られて転ぶ可能性が高いので、溺れる前に助けてくださいね」
「そんなに激しい流れではないから大丈夫だ」
実は花嫁は人間ではなくナマケモノ族でした…という事にして、儀式の最初から最後まで抱っこで移動してもらえたら楽だな…と思っていると、アズハルは茶卓の横に置いていた籠から青緑色の何かを取り出した。
「……これは?」
「父上の故郷で取れる薬草だ。霊草に比べると大した薬効はないのだが、甘くて喉に優しい味がする。子どもの頃によくおやつ代わりに食べていたのを思い出して貰って来た」
「天上にまで行ってたんですか…?」
カモシカ族の集落へ行くだけでも大変なのに、天上にまで行っていたなんて。
どおりで顔が疲れているはずだと、アズハルの体調に問題がないか心配になったけれど、今はわざわざ取ってきてくれた思いやりを受け取るのが先だろう。
どうやって食べるのかを聞いて、「いただきます」と青々とした細長い葉に噛み付く。
「……どうだろうか」
「確かに、ほんのり甘くて美味しいですね……それに、優しい味がします」
口に合って良かったと安堵したアズハルは、何かを思い出したのか嬉しそうに目元を緩めた。
「そうだ…儀式が済んだら、月夜花の蜜も共に貰いに行こう。あの花蜜は量こそ少ないがとても甘い」
「アズハル様の好物なら、ひとり占めしていいんですよ?」
「いや……誰かと分け合うと幸福が深まるといわれている。それに以前兄上が、花嫁と分け合うと格別だと言っていたから……少し、羨ましくもあったんだ」
幼い頃の憧れのように話すアズハルが可愛くて、ついつい頭に手が伸びてしまう。
わしゃりと頭を撫でれば、照れくさそうにこちらを見る。
「じゃあ、仲良く分けっこしましょう。きっととても美味しいです」
「ああ……楽しみだ」
もう少し触れ合いたくて、首筋に腕を絡めて抱きついた。
食材が豊富でない霊峰で、イリリアが好むであろうものを探し回ってくれた。
そうして持って来てくれたのは、イリリアにとっての思い出の味と、アズハルにとっての思い出の味。どちらも優しく、お腹と同時に心を満たしてくれるもので。
こんなにも気遣ってくれる人がいる幸福を、心でぎゅっと噛み締める。
「もうちょっとだけ我儘を言ってもいいですか…?」
「ん?」
「不凍湖のほとりを、またデートしたいなって……」
一瞬虚を突かれたあと、至極嬉しそうに破顔される。
あまり歩けなくなっているから抱えて欲しいと重ねてお願いをすれば、また歩けるように練習も兼ねて、何度もデートへ行こうと言ってくれる。
この近くには樹氷が並ぶ地帯もあり、低樹の隙間に雪が吹きつけ白い彫刻のような雪像が居並ぶ様は壮観だと教えてくれる。
「……天上にも、行けたらいいな」
「ああ……必ず連れて行く。まずは身体を整えよう」
嫌がられないのを確認しながら甘えるように額と額をくっつける。
好き?と小さな声で聞けば、好きだと囁くように返してくれる。
それだけで十分だ……不釣り合いな私がここにいる理由は、それだけでいい。
簡単に寝支度を済ませて、珍しく疲れたと口にするアズハルを胸に抱え込む。
そして胸元から聞こえてくる穏やかな寝息に、暫くのあいだ耳を澄ませた。




