12. 姦計に沈む
天気も行程も至って『いつも通り』だった。
ただ……不運なことにその日に限って、逆巻いた風のなかに鋭い氷片が忍び込んでいた。
雲のような濃霧と吹き荒ぶ雪で視界の悪いなか、勢いを付けて飛んできたそれをアズハルが咄嗟に腕で受け……深々と突き刺さってしまったのだ。
「アズハル様が怪我をなさっただと…!?」
拠点の警備を任されているサイルという男は、出迎えるなり怒号のような声を響かせた。
慌てて階下に降りてきた侍女が、腕に氷片の刺さったアズハルを見るなりイリリアをきつく睨みつけた。
「なんてことを……!」
「やめないか」
制止する声を受け、侍女は言葉を飲んで背筋を伸ばした。
奥歯を噛み締めるハイファの姿は無念さに満ちているが、イリリアにとってはそれどころではなかった。
サイルがひったくるようにイリリアからアズハルを引き離す。
よろめいたイリリアの身体を支えてくれる腕はない。
頭痛と共に揺れる視界にどうにか耐えて足を踏ん張る。ここで転んでは、怪我をしたアズハルに余計心配をかけてしまうだろう。
大丈夫か、と咄嗟に手を差し伸べようとしてくれるアズハルに「大丈夫ですから、早く治療を…」と告げる。
鋭い氷片が刺さった腕は見ているだけで痛い。
自分の背中に刺されば良かったのに…と思っても、それを口にしては、庇ってくれたアズハルに合わせる顔がなくなる。
怪我を負っているにも関わらず、行きと同じ時間をかけて慎重に戻ろうとしたアズハルを急かして、少しでも早くと拠点に帰ってきたのだ。
十分な休息もなく下りて来たせいで耳鳴りと頭痛はひどく、正直立っているだけでもつらいが、自分だけが部屋に引っ込んで休むわけにはいかない。
そんな心境に気づいたのか、アズハルは苦笑しながら手を伸ばし、ベール越しにイリリアの頬へ触れた。
「皆大袈裟に騒いでいるが大したことはないから気にしなくていい。イリリアはナルジスからの診察を受けたあと部屋でゆっくり休んでいてくれ。調子が悪い時は、絶対に我慢しないように」
「はい、…アズハル様は……」
「大丈夫だ。すぐに治る」
だが、治癒のために少し天上へ戻ることになるからその間はイリリアも休養を取るようにと微笑む顔は、いつもより白い。
こんな事になるのなら、早く上に向かいたいなどと我儘を言わなければ良かった。
そんな後悔はもう、遅すぎるのだけれど。
冷えてはいけないから中へと促され、サイルやハイファと話をしているアズハルを横目に、後ろ髪引かれる思いで屋内へ戻る。
今のイリリアにとっては二階へ上がるための十数段の階段さえ命懸けの試練のようだが、当然ながら手助けする者はいない。
けれど……余計な心配をかけないために、ここで倒れるわけにも床に縋るわけにもいかないと、一歩踏み出したイリリアの腰を掴んで支えたのは、蛇人族のナルジスだった。
「………呼吸が乱れていますねぇ」
支えるというよりも、半ば引き摺っているだろうか。
それでも、自力で上がるのが難しいイリリアにとっては救いに等しい。
「王子様の怪我よりも貴女のほうが余程重症だというのに…」と嘲笑するように告げられた言葉に、イリリアは心の中で、身分が違うものと嘲り返した。
身分も、種族も、何もかもが違う。
アズハルによる庇護の手が離れたイリリアは、ここではただ憎まれるばかりの存在だ。
律儀に寝室まで引き摺ってくれたナルジスに御礼を言う。
「貴女が死んだら私が王子様から責められますのでねぇ」という言葉に嘘はない。
ナルジスは医者として呼ばれているのだから、預かった命は最低限失わないよう努める必要がある。
「おやおや、体温が驚くほどに低い。頭痛や眩暈は……聞くまでもなさそうだ」
「……っ、」
心臓を押さえて蹲らなければならないほどに、胸が苦しく息をするのが難しい。
「酸欠ですよ」とわかりきった事をいうナルジスは近くの椅子に腰を下ろした。
部屋に居残るなんて珍しい…と思えば、思考を読んだかのように、今の貴女はいつ死ぬかもわかりませんからねぇと告げられる。
耳の奥で轟々と音がする。血圧が高くなりすぎて今にも心臓が破裂しそうだ。
「これはとても珍しいものですよぉ」と枯葉のようなものが入った小瓶に水を注いだナルジスは、溶けて薄茶色になった液体を手渡してきた。
特殊な製法で乾燥させた霊薬を、緊急時用にとアズハルから預かっていたという。
その言葉とこの液体を信じて口にして良いものかと悩むイリリアに、ナルジスは薄く笑ったまま自らの右手の肘部分をトントンと指で叩いた。そこは、氷片の刺さった場所だ。
「あの怪我は、貴女のせいで?」
「………私を抱えていたからこそ避けられなかったのなら…私のせいなのでしょうね」
言葉を紡ぐごとに胸が痛む。
眩暈が酷すぎて、立っているのか倒れているのかもわからなくなってきた。
効果が落ちるので早く薬を飲むようにと言われても、口元まで瓶を持ち上げることさえ困難だ。
「……吐きそうだから、離れたほうが、いいんじゃない?」
「吐瀉袋はこちら、水はここ。」
「ご親切にどうも……」
瓶の中身を溢さないよう握りしめたまま、げほごほと咽込みながら嘔気を逃す。
吐き出した胃の内容物に混ざって、血が溶けたような薄桃色の泡みたいなものが出る。
これは宜しくなさそうだわ…と思っていると、気づいたらしいナルジスから「肺がやられていますねぇ」と言われた。
「一刻も早く霊薬を飲んで安静になさった方がいいかと。今は誰も彼も、王子様の負傷に意識が向いていて、貴女のことなど気にもかけないでしょう」
もとより竜人共は、大嫌いな貴女がどうなろうと歯牙にもかけぬでしょうけれどねぇ…と、粘りつくような発言が、耳にべっとり纏わりつく。
嘘は言っていないけれど、こんな時に追い討ちを掛けられるように聞きたい言葉じゃない。
小瓶の口を咥え込んで、どうにか喉に流し込む。
また吐きそうになったけれど、それよりも呼吸するごとに喉から聞こえる喘鳴がうるさい。
「肺からの絶叫が聞こえますねぇ」と耳を澄ませたナルジスは、「おやおや」と口角をあげた。
「どうやら護衛と侍女の付き添いは断り、花嫁を優先するようにと言い付けたようだ。状況が全く見えていないわけではないけれど、ご自身の部下が貴女に意地悪をするとは微塵も考えていない。
王子様は貴女宛ての伝言を侍女に預けたようですが……あの様子では恐らく伝えには来ないでしょうねぇ」
愉快そうに紡がれる言葉に返事を返す気力もない。
薬の入っていた瓶が手を滑って床に落ちる。拾うために屈めばそのまま倒れるに違いないからと、それを放置したまま寝台にどうにか這い上がった。
寝てしまおう…と目を閉じても、心臓の動きは乱暴で、耳の奥を血潮の豪流が駆け回る。
轟々とうるさい流れの向こうで、ナルジスが常にない鋭い目をしていた。
「酸素は血液を介して巡る。だから、高い山の上で血を失うことは失血と酸欠、二重の意味で危険だ」
それは……アズハルの負傷を言っているのだろうか、それとも先ほどイリリアが血混じりの気泡を吐いたことを言っているのだろうか。
「出血量でいえばあちらですが、あの方は竜人族の王子様ですからねぇ…あの程度であれば、霊薬を飲んで天上で一晩も休めば元に戻る。どう見ても、まともに呼吸が出来ていない貴女の方が重症ですよ」
立ち上がったナルジスがイリリアに手を伸ばし、身体の角度を変えた。
喉に迫り上がったものが詰まらぬように、下向き加減でいたほうがよろしいと背中に丸めた布団を宛てがわれる。
医者みたいね…とうわごとを言えば、医者ですよと皮肉めいた笑みが向けられた。
「ご自分の身をよくよく案じられた方が良いでしょうねぇ。どうやら女官共が先日の仕返しとばかりに悪しきことを企んでおり……当然ながらあの侍女も、それを咎めるつもりはなさそうですので」
その耳で何を聞き取ったものか、ナルジスは「あの女官共は花嫁を屠るつもりでしょうかねぇ…怖や怖や」と肩を竦めている。
「ああ、なんて酷い計画でしょう……王子様の居ぬ間に、これ幸いと虐められてしまうようですよ?」
「………。」
イリリアの反応を見定めるようなナルジスの目に、返すべき感情はない。
悲嘆に暮れようとも、絶望に染まろうとも、誰も助けてくれないときはある。
そもそも、今目を閉じたとして、明日再び開けられるとは限らない。
薬が効いてきたのか血の流れは少しばかり落ち着いた。とはいえ、不足した酸素が全身に満ちるまでには時間がかかる。
眠っているあいだに肺の症状が悪化すれば、それこそ命取りだろう。
イリリアの表情から静謐を読み取ったナルジスは、細い目を更に細めて微笑むと椅子に腰掛け直した。
「今日は『滝壺』まで上られたのでしょう?あの雲をご覧になりましたかねぇ」
アズハルに抱えられて至った九千メートルを超える場所は、予め聞いていた通り、濃霧と吹雪に閉ざされていた。
身体中が凍りつくような寒さのなか、遠くに見えたのは真白い壁……
「あれが大滝雲だ」と囁いたアズハルの言葉がまだ耳に残っている。
もうもうと落ちる滝水のように、遥か高くから雲がどろりと流れ、滝壺に溜まっては辺りを白霧で満たしていた。
「天から滝のように流れ落ちる雲……鯉が滝を遡り竜となるように、あの滝雲を登れぬものは天上へ至ることは叶わない」
ナルジスの言葉が、アズハルの説明に重なる。
あの雲を初めて突き抜けた白き竜が、天上を統べる竜帝として君臨した。
そして竜人は、遥か高い天の上から霊峰のすべてを睥睨する権利を得た。
「滝の裏には、おびただしい量の死体が転がっているという話ですよ。氷結に閉ざされた世界で、息絶えた時の姿のまま、永遠にこの世に取り残される……」
ナルジスの言葉はおどかすような響きを孕んでいたけれど、イリリアには少しだけ救いに思えた。
あの滝の下で息絶えれば、そのままの姿で残れる。
であれば、花嫁を失ったアズハルも寂しくならずに済むかもしれない。
「遡上の途中でわざと滝から落とされるような事はないでしょう……お花様は大切な大切な供物ですからねぇ」
「天に至り長命になった竜人たちは代わりに種の保存に対してひどく怠慢になった……そんな彼らが絶滅せぬよう、彼らを贔屓する神様が、繁殖能力の高い他種族を『花』として竜人たちに宛がっている」
「されど、神の定めた運命は、花の意思などお構いなし」
「霊峰の悲劇をご存知でしょうか?かつて普遍的な幸せを得ていた獣人が、花印が浮かんだという理由だけで理不尽にも家族から引き離され王子の花嫁となった。彼女は霊峰から身を投げ、最期は愛しい夫と子の名を呼びながら死を迎えたという。
花を失った王子は大層怒り……彼女の夫と子どもを嬲り殺し、その種族が二度と霊峰に立ち入らぬようにと徹底的に追い出した」
「彼らは常に傲慢…天上をひとり占めした挙句、誰も彼も天上に召し上げてやれば幸福になると思い込んでいる」
ナルジスの口はするすると滑るように動く。
イリリアの相槌や意見などは求めず、ただ喋りたいことを喋りたいまま口にしているのだろう。
ひとりで部屋に残されたところで、アズハルに怪我を負わせてしまった悔恨で頭がいっぱいになってしまうから、誰かの声がある方が気は紛れるかもしれないが……せめてもう少し、明るい話を聞かせて欲しい。
「蛇人族のあいだでも不遇の第二王子の話は有名でしてねぇ。いやはや、真綿に包まれて育ったせいか、随分と甘ったれで……不手際も多い。
同族の女共の悪辣さにも、執拗な粘り気を孕んだ悪意にも疎くていらっしゃるようだ。
このような場所に大事な大事な花嫁をひとり残して行くなんて、殺してくれと言っているようなもの……」
「おそらく王子様はこう考えていらっしゃるでしょうねぇ。天上へ戻ったついでに、先日の女官たちの件を兄殿下へ報告しよう、と……その間にどんな事件が起きるかも知らず、呑気なものだ」
「戻った王子様は愚鈍な己を責め悲嘆に暮れることでしょう……だが、傲慢で身勝手な竜人はそれでも貴女を天上へ連れて行く事をやめはしない。
いつだって苦しむのは貴女ばかり。いつだって命を削るのは貴女ばかり」
鈍い光を宿す瞳が、王子の居ない今ならばここから逃げ出す好機ですよ…と告げてくるが、一体どこにどう逃げるというのか。
たとえ逃げ出したところで逃げ切れるわけもない。
歩行どころか呼吸すらままならない人間と、霊峰を自由自在に移動できる竜人とで、追いかけっこが成立する筈がないのだから。
ナルジスとふたりきりで話すのはこれが初めてだ。
診察ついでの軽口で竜人族を悪し様に言おうものなら、壁際に立つ侍女のハイファから即座に反論され厳しい目を向けられていた。
きっとそんな状況にも辟易としていたのだろうし、言いたい事が積もりに積もっていたのだろう。
一応今のイリリアはアズハルの花嫁であり竜人族の王子妃という肩書きを持つのだが、このような軽口を告げ口しないだろうと信じてくれているのか…あるいは、竜人たちから散々虐められている現状であれば同調してくれるだろうと思っているのか。
ナルジスの言葉をいちいち告げ口するつもりはないが、アズハルのことを悪く言われるのは気分のいいものではない。
イリリアがそばに居て欲しい…と願ったのは、悪意に疎くとも誠実で実直に育ったアズハルであるし、どのような薄暗い背景や真意があろうと、あの腕に囚われていることに憂慮はない。
ふと…空気が変わったことに気づいて視線を巡らせれば、いつのまに来たのか、再びベッド脇にナルジスが立っていた。
細い糸目の奥に宿る色は狡猾残忍でありながら、その意図を簡単には読ませない厄介さがある。
「私が渡した小瓶はまだお持ちですか…?」
静かな問いかけに、イリリアは微笑んでみせた。
やはりあれは『そういう代物』だったのねと、迂闊に口に入れなかった自分を褒めた。
とはいえ、アズハルは瓶から直接ニオイを嗅いでいたのだから、ともすれば危なかったのかもしれない。
「…使うも使わぬも自由ですがねぇ、あれは貴女をここから『逃す』ための秘薬だ」
「………飲ませたいのなら先ほどの霊薬に混ぜるべきでしたね」
その指摘に愉快さを見出したのか、ニィ…と口角をあげたナルジスは「貴女が飲まずともあの王子様に飲ませればよろしい」と意地悪く微笑んだ。
「竜が死ねば花の呪縛は解かれる」
毒のように滴る言葉を溢しながらも、ナルジスからは、あの女官たちのような纏わりつくような悪意は感じられない。
あくまでこうすればこうなるという事実を口にしているだけであり、あわよくば弱ったイリリアの心に付け込んで唆そうとしているだけ。
遊興の一環……あるいはただの、軽微な嫌がらせ。
遊戯盤の上の出来事を愉快そうに眺める傍観者が、気紛れに差し手をツンツンと指先でつついて遊んでいるに過ぎない。
おそらく、本気でイリリアやアズハルをどうこうしようというつもりはないのだろう。
(飲ませるつもりならばもっと…無味無臭で疑いなく飲んでしまうような物を用意するはずだもの…)
とはいえ、何かが起きれば面白いなぁと思っているのは確かであろうし、
本当にイリリアが『今から逃れたい』と思い飲用すれば、それなりの効果を得られる代物であるに違いない。
言いたいことを言い終えたのか、ナルジスはあっさり話を切り上げて、真意の読み取りにくい糸目を扉へと向けた。
「朝までは隣室に居て差し上げますが、夜明け頃には退散しますよ……面倒事には巻き込まれたくありませんからねぇ」
ただでさえここは寒い…と文句を呟きながら寝所を出て行く。
「追加の霊薬は戸棚の中にあるようですよ」と言い置いたということは、薬を飲むか飲まないか…いつ、どれだけの量を飲むかはイリリアに任せるという事だろう。そのせいで身体がより不調に傾いても、自己責任というわけだ。
イリリアはふぅ…とため息を吐き、続いて大きく咽せ込んだ。
背中をさすってくれる手がないことが、寂しくてたまらない。
(あの怪我のまま、大きな滝雲を何事もなく登れるものかしら……)
アズハルの怪我が悪化していないか、ちゃんと無事に治るのか…それだけが心配だ。
深々と突き刺さった氷片とその隙間から滲む血を思い出すと胸が締め付けられる。
きっととっても痛かったはず……それなのに、腕を負傷しながらもイリリアの事をずっと気遣ってくれていたアズハルの優しさに切なくなる。
(女官たちには一体何をされてしまうのだろう……)
ナルジスからは散々脅されたけれど、不思議とイリリアは平静だった。
彼女たちはおそらく、自らの手を汚すような真似はしない。
誰かの持つ悪意を利用するか、あるいは誰かが抱く不満をイリリアにぶつけさせ……それを遠巻きに眺めて愉快愉快と笑うのだろう。
そのくらいであれば……と思う。
いつ獣に襲われるか
いつ野党に見つかるか
いつ家に連れ戻されるか……
怯えて震えながら草木の隙間に身を隠していた日々に比べれば、ここはあまりに静穏だ。
ナルジスの言った通り、その日のうちにはアズハルは戻らず、イリリアは順化を始めて以来初めてひとりの夜を過ごした。
侍女のハイファはアズハルからの伝言を伝えるどころか食事の支度も湯の支度も何もかもを放棄し、イリリアは湯浴みもせず外出着のまま眠ることになったが、まあいいか…と大して気に留めなかった。
寝間着よりも外出着のほうが暖かいし、ずっと抱えて貰っていたから汚れも少ない。もしかすると彼の流した血が付いているかもしれないけれど、そこまで確認する余力はない。
いつもと同じ部屋で同じ寝具だというのにひどく寒々しく感じられて、浅い微睡みと覚醒を繰り返すばかりの夜となる。
こんなにも眠れない夜を懐かしく思う。
イリリアを包む王子様の腕はどこまでも優しく甘やかで、落ちないように…逃げないようにと囲われることには、この上ない安寧を感じるばかり。
(もうどこにも行かなくていい……もう、誰からも逃げなくていい…)
それは喜び以外の何ものでもない。
じわじわと忍び寄る悪意の足音を聞きながら、イリリアは心のなかで唯ひとりだけを思い、その身の無事を祈った。
▼
翌日はよく晴れた日だった。
夜が明けてもアズハルは戻らず、イリリアはひとり。
花嫁にと付けられた護衛も侍女も無関心……それどころかアズハルに怪我を負わせたことで腹を立てているとなれば、女官たちにとっては屈辱を晴らす絶好の機会だったに違いない。
朝、微睡の淵にいたイリリアは声掛けもなく訪れたハイファに無理やり起こされ、雑に身支度を整えられた。
イリリアの体調などお構いなしに自分勝手に手際よく支度を進めたハイファは、ひと言も発さぬままイリリアを寝室の隣にある応接間の椅子に座らせると、脱がせた衣服を持って扉から出て行った。
何が何だかわからないまま、ぐわんぐわんと揺れる視界を持て余していると、今度は一応のノックと共に女官ふたりが入室した。
入って良いと許可を出した覚えはないけれど、当然の澄まし顔でイリリアの前に立つ。
「お客様のご訪問がありました。ちょうど良い機会ですので、本日は他種族の貴人を接遇する練習をしていただきます」
「アズハル様より直々にご指導いただいたのですから、問題ありませんでしょう…?」
嘲笑するような顔を向ける女官の、どちらがどの名前だったかイリリアはよく覚えていない。
イリリアが「良いよ」とも言っていないのに、女官は応接間に客人を呼び込んだ。
入ってきたのは……白い、羽毛。
もこもこの羽毛の塊はすぐに女性の姿に変じた。
白いふわふわの着物を着て、まだらの髪に綺麗な簪をつけている。
唇は紅を差したように鮮やかで、くるりと丸い目がイリリアを見るなり勝ち誇ったような色を帯びた。
「わたくしは雷鳥族の姫、シーリンと申しますわ。花嫁様を得たと聞きアズハル様にご拝謁に参りましたが、お留守とは残念でなりません……それに昨日、お怪我をなさったとか……おいたわしい……どうしてそのような事になったのでしょう……あの御方の滑らかな肌に傷がつくなど……」
よよよ…と着物の裾で顔を覆った女性は、イリリアが挨拶をするどころか身動ぎひとつしない事に小さく眉を顰めたものの、その後も鳥らしく懸命に嘴を動かして囀った。
アズハルは雷鳥族の集落に寄ると必ずシーリンを側に付けてくれることや、甘く優しい言葉を掛けてくれることなどを艶っぽく話し、
花嫁を得て子が出来れば王子は正式に側女を置くことが出来るのだと言い、王子からの寵は天上に限らず霊峰に住むすべての種族の女にも分け隔てなく与えられる恩恵なのだと誇らしげに胸を張った。
睦まじい夜を示唆するような表現と、自分こそが最も寵愛と恩恵を得ているのだと自信たっぷりに囀る様子に、自らが仕掛けたことだというのに扉前の女官たちの視線は徐々に鋭く冷えていく。
それでも鳥の嘴は止まらない。
白いふわふわの着物は羽毛のようで、淡く桃色に色づく頬は、痩せ気味のイリリアに比べると程良くふくよかで血色が良い。
(………おいしそう)
部屋に入ってきた彼女が、まるい鳥であったことに、イリリアは衝撃を受けていた。
そして不思議なことに、目の前に居るのは確かに色白美人な女性だというのに、イリリアには何故か彼女が『鳥』であるとしか認識できなくなっていた。
(鳥……お肉を最後に食べたのはいつだったかしら……)
ふつふつと、奇妙な空腹感が湧き上がってくる。
彼女が何を喋ろうとも、碌に耳に入らず滑り落ちるばかり。
(羽を毟って、余分な部分を削いで…)
熱に浮かされているのか、頭の中はまるでグラグラと沸騰するかのよう。
グラグラぐつぐつと高温に熱された湯や油を想像し……ああ、そこに食材を入れればいいのねと閃いた。
シーリンと名乗った雷鳥も、ふたりのやり取りを見るべく扉前に立っている女官らも、イリリアがあまりにも喋らないことに次第に怪訝な表情を浮かべ始める。
「……………………ちょっと、貴女?」
「ーーーーーーー。」
それから先は、記憶が鮮明じゃない。
気付いたら、寝室のベッド寝かされアズハルにぎゅっと手を握られていた。
「………………っ、」
何か言葉を発しようとして、何故だか涙が溢れた。
(お腹がすいた……)
腹部に湧き上がる異常なほどの飢餓感に、自分はどうしてしまったんだろうと不安が募る。
地上で逃亡生活を続けていたときも、似たような空腹感に苛まされたことはある。
あの時はどうしたっけ。
あの時は……
空虚な自分のなかに強欲な獣を飼っているかのように、何かを考えようとしても獰猛な飢餓感が邪魔してうまく頭が働かない。
目からはボロボロと涙ばかりが溢れるし、喋りたいのに嗚咽が漏れ出るばかり。
目覚めたことに気づいたのか、アズハルが上体を起こすのを手伝ってくれて、ついでにそっと抱きしめてくれる。
「イリリア……大丈夫、大丈夫だ…」
背中をゆっくりとさすられ、その温かさに余計に涙が出る。
もう何日も食事をしていないのではと思えるほどに、ひどくお腹がすいていた。
(もしかしたら長いあいだ意識を失っていたのかしら…)
腹の中の空腹な獣が、ぐぅぅ…と咆哮のような音を立てる。
何かをお腹いっぱい食べたくて堪らず、それが何だったろう…と思い返したところで、白い羽毛を纏った大きな鳥が目の前に居たことを思い出す。
(そうだ……鳥を食べようと思っていたんだわ…)
私はあの鳥を仕留めたのかしら。
だとしたら、新鮮なうちに捌いて下拵えしなければ。
アズハルの胸を押し退けて、ベッドを降りようとして身体がぐらりと揺れた。
思うように動けないのが悔しくて唸りながら涙を溢せば、苦しそうな顔をしたアズハルから再び抱きしめられる。
「イリリア……どうか今は無理をしないでくれ。急にたくさん動いたせいで、身体が傷ついてしまっているんだ…」
「急にたくさん動いた…?そんな事より、アズハル様………鳥肉は好きですか?」
アズハルの声は聞こえているけれど、お腹が空きすぎてうまく頭が回らない。
掛けられる言葉たちはきちんと処理される前に脳から滑り落ちていく。
頭の中はもう、白く丸々と太った鳥をどのように調理するかでいっぱいで、じゅわと揚げた鳥肉を頬ばった日の懐かしい記憶が思い起こされたせいで、堪らず口の中に涎が広がった。
「一度だけ、豊富な油で揚げた鳥を食べたことがあるんです。いつもは冷めた食事ばかりなのに、その時は熱々のお肉を食べることができて………びっくりするほど美味しかった。死ぬ前にもう一度それが食べたくて………アズハル様にも、食べさせてあげたくて」
そこまで言って、アズハルの顔が晴れないことに気付き、首を傾げる。
それからすぐに、ここは霊峰で、鳥肉を揚げるほどの豊富な油がないのかもしれないと思い至った。
アズハルに揚げ鳥を食べさせてあげられないのは残念で仕方ないが、食べ方は他にも豊富にある。
「沢山の油が必要になるし、用意が難しいのなら、茹でたお肉でもいいんです。薬草と調味料で味付けをして、時間をかけて煮込めば、とっても柔らかくて美味しい煮物が出来るんですよ。ほぐしたお肉とスープに穀物を入れて、お粥みたいにしても美味しいから、アズハル様もきっと気に入るはず…」
「……ありがとう、イリリア」
お礼を言ってもらえたことで心が軽やかになる。
体調を崩している今ではなく、一緒に仲良く食べられるタイミングを見計らった方がいいだろうか。鳥肉は傷まぬよう、上の階層に持って行って氷漬けにしておけばきっと大丈夫。
(ああでも、アズハル様がまた怪我をしてしまうかもしれないし、新鮮なうちに食べた方がきっと美味しいわ……)
今のイリリアは不思議なくらいに元気だった。気分は高揚していて、頭痛も耳鳴りもしない。
ただ、異常なほどの飢餓感に苛まされているだけ。
「アズハル様、私、大丈夫ですから、今から準備しますね。良ければ火や水を用意してもらえませんか?ここに使っていいお鍋はあるかしら……無いなら行商の人を呼んでもらって……ああもう!丸焼きでもいいから、今すぐに食べたい…!!」
ぐちゃぐちゃになった頭の中で、どうにかしてあの肉を食べなければと凶暴な程の食欲が咆哮をあげる。
髪をぐしゃりと掻き乱し、早く早くとうるさい脳に、堪らず「黙ってよ!」と叫ぶ。
「お肉…ッ、あの鳥はどこ!?」
アズハルは今にも暴れんとするイリリアを抑え込むようにぎゅっと抱き込むと、ひどく苦し気な声で「すまない」と謝った。
何を謝っているのかわからなくて、料理をするから離してくれと、腕から抜け出したくて滅茶苦茶に踠く。
「離して!今すぐに作らないと!あの鳥が逃げてしまうかもしれない!」
「イリリア!いけない、……あの者を、食べてはいけない」
「本当に美味しいの!一度食べたらきっと生涯忘れられない、だから…!」
「霊峰の……低地より上には、肉食の者は居ない。私も肉は食さない」
言われた事が信じられなくて、けれどもイリリアを抑え込むアズハルの表情に嘘はなく。
食べてはいけないと……作ったところでアズハルは食べられないのだと、一緒に食べたいという願いを否定された事にショックを受け、力んでいた身体から力が抜ける。
けれどもどうしてもあの肉が食べたくて堪らなくて、まるでお菓子を禁止された子どものようにイリリアはみっともなく泣きじゃくった。
お腹が痛いくらいにぐぅぐぅ鳴って、けれども望むものは食べさせてもらえなくて。
泣いて泣いて、時々暴れ出すような衝動が来るたびにきつく抱きしめられて、
もう指一本すら動かしたくないほどに疲れて身体に力が入らなくなってようやく、少しだけ今の状況が理解できた。
(………雷鳥族のお姫様と面会させられて…)
目の前に現れたのは真白い羽毛を持った美しい鳥。
彼女はすぐに、真白い衣装を纏い、白と茶色のまだら模様の髪を持つ気高い雰囲気の女性へと変じてみせた。言葉を発し、目の前で艶やかに微笑んでのは女性だったのに、何故かイリリアにとって彼女は『鳥』でしかなかったのだ。
膨れ上がる飢餓感と沸き上がる殺衝動が限界を迎え……意識はそこで途絶えている。
「私は………彼女を殺したんですか?」
「イリリア………大丈夫だ、あの者は生きている」
両手には確かに何かを『絞めた』感触が残っている。
鳥ならば首を絞めるか落として処理する事が多いものね…と、頭の冷静な部分が冷たく状況を分析した。
つまり、イリリアはあの女性に襲い掛かり、首を絞めたのだろう。
(彼女は…アズハル様の恋人のようなものだと言っていなかったかしら…)
身の程を知れと言われた気分だった。
綺麗な服を着た自信に満ちた女性から、自分こそが王子に相応しいのだと現実を突きつけられた心地だった。
それで、嫉妬に駆られて絞殺しようとした…?
だとしても、あの飢餓感は一体何だったのだろう。
今でもふつふつと…お腹の底が叫んでいる。もっと美味しくて、もっと栄養に満ちたものを寄越せと。
きっとそれは霊峰では決して手に入らず……地上に戻ってようやく口にすることの出来る、料理の数々。
身体から力が失せ、茫然自失気味になったイリリアの耳に、アズハルの説明だけが聞こえる。
花嫁や花婿は、順化の過程で強制的に身体を作り変えられる。
生来の食習慣を捨て、霊草で生活できるように、けれども栄養を損なわないように、少しずつ少しずつ食事を組み替える。
その過程で必ず起こるのが、生来の食事への渇望。
肉食の獣人は肉を求めて彷徨い暴れ……他の獣人の集落を襲い壊滅寸前にまで至らしめた事例があるほどに、理性が失われ、本能ばかりが表に出る。
だからこそ竜人族は、最初の一ヵ月の順化に使う場所を厳密に見定める。
獣の本能が強い種族や、食に貪欲な種族であれば、他の種族から引き離し、洞穴のような場所で隠れるように過ごすこともある。
イリリアの場合は、初めから空腹だった。
何を食べてもありがたいと思えるほどに困窮していて、栄養も足りていなかったから、カモシカ族の食事に文句も言わずすぐに慣れることが出来た。
塩っ気が欲しいなぁとか甘い物食べたいなぁという欲求をリヤーフがうまく聞き取り、リームが霊草を使った素朴な物を用意することで、嗜好品への欲求もうまく捌いていた。
カモシカを『肉』として認識しないか…という懸念は残っていたが、カモシカ姿の獣人とは絶対に鉢合わせないようにして一ヵ月を乗り切った。
順化の最中は基本的には竜人以外は近寄るべからずという定めがある。
更にアズハルは律儀に、道行きの途中にある集落に対して花嫁道中が始まるため集落の外へ出ないようにと通告もしていた。
この拠点の先には、竜人族しか居ない。
爬虫類や昆虫などは居ても、イリリアの『食事』となる種族は居ないはずだった。
それが、規定を破り、わざわざ高みにある拠点にまで姿を現した『雷鳥』のせいで、イリリアの中に潜在的にあった渇望が一気に膨れ上がり…暴走した。
雷鳥の姫に掴み掛かり馬乗りになって首を絞めるイリリアを女官たちは制しようとしたが、想像以上の力で抵抗されたうえに、雷鳥の姫が持っていた護身用の短剣を抜き取ったのを見て、刺されては堪らないと這う這う逃げ出したという。
怪我の治癒を終えて天上から戻ったアズハルが見たのは、護衛として付けた筈のサイルにより棒で羽交締めにされながらも、狂ったように暴れ続けるイリリアの姿。
危ないですからと制止するハイファを振り切りイリリアの元へ駆け寄ったアズハルは、万が一にと備えて持っていた薬草をイリリアの口に押し込み、その意識を落とした。
泣いたせいで腫れた目を持て余しながら、それは大変だったろうな…と他人事のように思う。
イリリアは武門の家系の出身だ。
男性優位主義の家で、兄三人は優遇されたが、イリリアは碌な扱いを受けなかった。
父親はイリリアに関心がなく、言葉を交わした記憶はない。
母親はイリリアを産んだ後に子が産めない身体となり……父が他所に愛人を囲い始めたことが許せず、イリリアのことを酷く憎んだ。
引き摺って連れて行かれた道場での時間は訓練なのか折檻なのかよくわからなかったけれど、それでも毎日毎日繰り返されれば嫌でも多少の技術は身につく。
ある日、道場を見学に来た別の流派の師範が、この子は肉付きがよくなり良い指導を受ければもっと伸びると評価してくれたおかげで兄達の恨みを買い、裂いた竹を束ねた練習用の棒で、皮が捲れ上がるほどに背中を滅多打ちにされた。
(その時初めて父が止めてくれたけれど…兄たちに言ったのは『傷が付いたら高値で売れなくなるからやめろ』だったもの……)
兄の借金の件がなくとも、イリリアは金と引き換えに売り渡されることは決まっていたのだ。
(アズハル様よりもよほど私のほうが『道具』らしい存在だわ……)
政治のような高尚な目的のためではなく、もっと下劣で汚らしい一時的な欲望を満たすために生かされた……惨めで、塵のような存在。
(分不相応なのは、自分が一番よくわかってる…)
『花』として捧げられた人間など、ただ子を産むだけの存在だ…などという陰口を聞かされたところで、その棘はイリリアに深く刺さりはしない。
これまではもっと汚れきった泥底に沈んでいた……誰かに望まれるだけでも十分だと思える場所に引き上げられた…それだけのこと。
(美しく優しい存在に慈しんでもらえる……それだけでもう、十分幸せ)
そんなイリリアが武器を持って暴れたのなら、生半可な事では抑えられなかっただろう。
彼の部下に怪我を負わせてしまったのなら謝らないと……そう思うのに、もう口を開きたくない。
「イリリア…?…霊薬は飲ませたが…どこか、痛む箇所はないか?」
あまりに心配そうな顔をするものだから、私にそんな価値はないのにと乾いた笑いが零れそうになる。
億劫なばかりの口を閉ざしたまま、小さく首を横に振る。
はらりと落ちて顔に掛かった髪を避けてくれながら、アズハルはイリリアを労わりながらも、その瞳に静かな怒りを滾らせた。
「規則を破ったのは雷鳥たちだ……彼らからは住処を奪い、もう二度と霊峰に立ち入らせない。女官たちも天上へ送り返した。兄上が然るべき処置をなさる………そうでなければ、私が、決して許さぬ」
私なんかの為に怒らなくていいよと言ってあげたいのに、口は縫い止められたかのように動かない。
今までの疲労がドッと押し寄せて来たように、身体に全く力が入らない。
もう、立ち上がって歩くことすら億劫に思えるほど……イリリアの心から熱が奪われてしまった。
(疲れたわ……)
いくら慣れているとはいえ、悪意に触れ続けるのはさすがに疲れる。
アズハルが、怪我を負ったほうの手でイリリアの手のひらをぎゅっと握ってくれていることに気づいて、無事に治って良かった……と、それだけを思って目を閉じた。




