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11. 冷たい場所と熱いうわごと




「雪………」



拠点のある荒涼地帯を抜け、上へ向かい始めてから二十分もせずにちらほらと雪が舞い始めた。

アズハルにお姫様抱っこをされたまま山を登るイリリアは、ベール越しに空を見上げる。


ルトフたちと過ごした風雪地帯の雪は、もっと重く湿り気を帯びていた。肌や服に降り積もればびちゃびちゃと濡れるような水気の多い雪。

それに比べて、今降っているのはさらさらと乾いた雪だ。


周囲は山と呼ぶに相応しい景色。

岩肌はゴツゴツと険しいのに、遠く望む景色はどこまでも美しく雄大に広がる。

空は近く、大地は遥か下方……霧の海に隠れて見えない。


落とさぬよう、急激な変化を与えぬよう、気を遣いながらゆっくりゆっくり歩くアズハルの足取りに不安はない。


イリリアの呟きが聞こえたのか、空から羽根のように落ちてくる雪片を掬い取ったアズハルは、思ったよりも早く降り始めたな…と空を見上げた。

空には薄い雲が折り重なるように広がっていて、隙間を縫うように太陽の光が差し込んでいる。


「寒くないか?」


「………寒いです」


厚手のコートに包まれていても、寒いものは寒い。


イリリアが着ている登山用の衣装は、天上の者たちが纏うものと比べれば随分と野暮ったい。

侍女からは眉を顰められ、女官たちからは陰ながらに嘲笑を受けたけれど、安全であることが最優先だというアズハルからの了承のもと、引き続き露出の少ない完全防備スタイルでの出発となった。


風が穏やかであるためガチガチと震えるほどの寒さではないけれど、一刻も早く建物内へ逃げ込みたいくらいには身体は冷えている。

歩みは止めないまま、寒さをどうしたものか…と生真面目に悩み始めたアズハルに頬を寄せる。


寒さは厳しくなっているが、拠点のある階層を離れるほど頭痛は弱まってきている。

意地悪な女官や全く会話のない侍女、物言いが面倒な医者…と、気の休まらない面々と離れられたことで気持ちも随分と軽い。

もういっそ、ずっとふたりきりで過ごせたらいいのに…と思うけれど、それではアズハルにかかる負担が大き過ぎるだろう。


「小屋についたらぎゅっとしてくれます?」


「それで冷えは治るのか…?」


不思議そうに問いかけられたため「アズハル様が甘やかしてくれたら治ります」と返せば、少し照れたような微笑みを向けられた。

今でも存分に甘やかされているけれど、ここ数日の気苦労を消し飛ばすためにはもう少し……保護者的な甘やかしではなく、恋人的な甘やかしが欲しい気分なのだ。



それから更に三十分ほど歩いたところで、小さな山小屋に辿り着いた。

これまでの小屋よりも小さめで、中は入ってすぐのひと部屋だけ。

隅っこの方にベッドがひとつ置かれているものの、ガランと殺風景だ。

下に警備隊の駐屯所とも呼べる大きな拠点があるため、この小屋は有事の際に短時間使うばかりなのだという。


コートやベールに付いた雪を払い、宣言通りアズハルにぎゅっと抱きつく。

「服が冷えているだろう」と言いながらもそっと抱き返してくれるから、久しぶりの安らかさに心がじわじわと解れていく。


「ここでは宿泊せずに下へ戻るんですよね?」


「ああ。体調が良ければ明日も登って来よう。二回ほど様子を見て、問題がなければもうひとつ上へ向かうことになる」


ここから先は、登っては下り、登っては下りを繰り返しながら身体を慣らすことになる。

移動が多いぶん負担は大きく感じるものの、安全性を考えればこの方法が一番良いのだという。

体調は夜、寝ているときに急変しやすい。

無意識下へと切り替わることで身体機能が一気に下がり、予期せぬ状態に陥ることもあるそうだ。


だから毎日共寝というカタチで側に居てくれるのかな…と思えば、それもあるが夫婦仲を深める為には共寝が必要だろう?と純粋な瞳で告げられてしまった。

その場合の共寝はおそらくもっと不埒な意味合いでの共寝だと思うけれど、指摘するのはやめておいた。


存分に抱擁を堪能したあとは、ベール付きの笠を被り直し、外の散策へ移る。

小屋を出て周囲を見渡したイリリアは、感嘆の息を吐いた。



「……………綺麗」



一面の銀世界。

薄く積もった雪の上を、新雪が風に誘われて舞い踊るように転がっていく。


刺すような冷気のせいで身体の尖ったところ全部が痛いほどに冷たいけれど……ずっと見ていたいと思えるほどに美しい景色だ。


はぁ…と息を吐けば、ベールの中で吐息が湯気のように立ち昇る。


下層の風雪地帯では、水気の多い雪が風と共に激しく吹き付けて来たため、立って歩くだけでも大変だった。誤魔化すように雪玉を作ってみたりはしたが、もう雪は嫌だと内心うんざりしてしまうような日々で。


ようやく穏やかな気持ちで雪景色を見ることが出来たのだと思えば、イリリアの胸には別の感動が込み上げてくる。



「少し歩けそうか?」


転ばないようにと背中を手のひらで支えてくれるアズハルに、頷き返す。

手を握って欲しいと差し出せば、大きな手が優しく包んでくれる。


(そういえば竜って、爪とか鋭いイメージだけど……)


指先で確認した限りでは、アズハルの爪は綺麗に整えられているようだ。

何をしているのだろうかと不思議そうに見下ろしてくるアズハルに、ベール越しに微笑みかけてから手を恋人繋ぎに切り替える。


息切れを起こさないようゆっくりゆっくり歩いて行けば、不意に視界の端が煌めいた。


アズハルに導かれるままに歩を進めると、そこには青く済んだ大きな水溜まりがあった。池と呼ぶには大きく、湖と呼ぶには少し小さめだ。


雪雲の隙間から差す日差しを受けては水面がキラリと光り、ゆらゆらと水の上へ落ちてきた雪は一瞬揺蕩ったあとじわりと解ける。


こんなにも冷たいのに水面が凍っていないのね…と近づいて覗き込もうとすれば、「あまり近付くと落ちるぞ」と引き留められた。

地面だと思っていた足先の雪塊がはらりと崩れて、水の中に滑り落ちていく。


「周辺の縁だけ薄く凍っていて、その上に雪が積もっているだけの事がある」


「とても綺麗で、不思議ですね……」


「不凍湖だ。小さく見えるが、深さはとても深い。下の階層では思うように景色を見せてやれなかったからな……ここで見れて良かった」


声には幾らかの安堵が混じる。

ふたつ下の拠点では凍土の上に出来たという湖へ向かう途中で足が動かなくなってしまったし、今滞在している拠点周辺も、近くを歩くだけで精一杯で、砂漠にまで足を運ぶことが出来ないでいる。

楽しみにしていた景色を見れずに落ち込んでいたイリリアのことを心配してくれていたのだろう。


嬉しくなって、繋いでいた手をぎゅーっと握る。


目元を緩めたアズハルは、湖を回り込むように歩くと、更に美しいものを見せてくれた。


「風で飛ばされた湖水が植物に付着して凍ったものだ……まるで氷の花が咲いているように見えるだろう?」


「すごい……綺麗で、何だか神秘的……」


草の葉先や茎に氷が付いて花弁のように広がるさまは、温暖な地上では決して見ることの出来ないものだ。


心からこぼれた「ここに来れて良かった」という呟きに、アズハルがそっと息をつくのがわかった。

もしかするとイリリアが、つらいばかりだしもう山登りは嫌だ!と言い出すのではと心配していたのかもしれない。


手を繋いで寄り添って、青々と澄みきった湖を見つめる。


「夜に見たら、アズハル様と出会った湖を思い出すかもしれませんね」


「ああ………あの湖は確かに、美しかった」


森の中で、すべてを許容するかの如く静かに佇んでいた湖。

あそこで水浴びをしたおかげでアズハルと出逢えたのだと思えば、空腹のまま森を彷徨った時間も報われるというもの。


「気に入ったのなら明日も来よう。随分と冷えてきているから、一度小屋で休んだあと拠点(した)へ戻るが……体調はどうだ?」


「平気です。寒いけど、ここは思ったより過ごしやすいかもしれません」


「そうか……天候が変わりやすいのが難点だがな…」


アズハルが空を見上げたタイミングで、遠くでゴロゴロと雷の音が轟いた。


「天気が崩れそうですか?」


「いや…この辺りは大丈夫だろう。もう少し下層に雷雲があるようだ」


中腹あたりに雷雨が来るかもしれない…と言われ、カモシカ族の集落は大丈夫だろうかと心配になる。

アズハルはそんなイリリアを気遣って、ある程度は自然の流れを尊重するものの、天候の荒れ方が激しすぎるときはルトフや警備隊が雲を動かして対処するから大丈夫だと慰めてくれた。



「そういえば……竜人族は皆、雷を操れるんです?」


「雷そのものを操っているのではなく、風の流れに干渉して雷雲を動かしている。竜人族は生来、雲を読み、風の流れを調整するのに長けているんだ」


飛翔するにも風の力が必要だからなと言われ、ふむふむと頷く。

風に乗るイメージで泳ぐように飛ぶらしく、気流に逆らうような飛び方も無理ではないものの、体力が大きく削られるから長時間は難しいと言われ、確かに川の流れに逆らって泳ぐのは大変だし危険だものね…となんとなく納得する。



不凍湖を離れ、小屋までの道のりをゆっくり話しながら歩く。

リヤーフとお茶を飲みながら交わした気易いお喋りとは少し違うけれど、畏まって言葉を選んで…という肩肘張った会話でもない。

アズハルの語りはゆったりと穏やかで、イリリアもそれに合わせて相槌を打つ。

霊峰や竜人族のことを伝えられるのが嬉しいのだろう。少し前の晩に、天上の事を語ってくれた時のように、その表情は晴れやかで喜びに満ちている。



「霊峰は特に階層ごとに異なる雲や気流が発生していることが多い……今、この上にあるのは雪雲。北側で水分を降ろしたあと、しっかり冷やされながらこちらへ流れてくるせいで、降る雪は乾いていて肌触りが軽い」


「岩肌を雪がコロコロ転がって流れていくのも何だか可愛いですね」


「パウダースノーと呼ばれる軽い雪なのだが、ひとつ上に行くと先日の風雪地帯よりも更に深く降り積もっている……ここより上では、外歩きは控えて小屋で過ごすことになるだろうな。深い雪のなかに埋もれてしまっては見つけるのが大変だし、更に上は吹雪と濃霧で視界が効かないから」


「視界が……」


思わず絶句するイリリアに、アズハルは「何があっても決して離さない」と男前なことを言ってくれる。

お礼の代わりに手をきゅっと握り返せば、気恥ずかしそうに少しだけ握り返してくれた。

頼もしいのに時々可愛らしいという変化球に胸は弾みっぱなしだ。


「柔らかい雪がいっぱい積もってるのなら、雪崩とか起きないんですか?」


「もし起きても飛べば逃げ切れるが……急激な動きになるから、イリリアには負担だろう。緩そうなところは下見の際に敢えて崩しておくのだが、そうすると地形が少し変わるからな…」


悩ましげに考えていたアズハルは、小屋の一歩手前で、山際に立って下を覗き込んだ。

イリリアも恐々と顔を覗かせる。


「ああ…丁度、下に雷雲がある」


それはとても不思議な光景だった。

霧で満ちた景色のなかに薄い雲の層が幾重にも見え、下層…山の中腹あたりにだけドス黒い雲の塊が掛かっている。暗雲の中では時折弾けるように短い電気の筋が走る。


「すごい……あの中に落ちたらひとたまりもなさそう」


「怖いことを言わないでくれ」


身投げするとでも思ったのか慌ててイリリアの身体を山際から離したアズハルに、冗談ですよと微笑みかけておく。

万が一にもここから落ちたとすれば、雷雲に突っ込む前に岩だらけの山肌に身体を打ちつけて御陀仏だろう。



小屋に入り、ベールを脱ぐとひと心地つく。

イリリアの為に水や軟膏を用意してくれる甲斐甲斐しい背中を見ながら、先ほどまでの幸せな時間を噛み締め、これからあの拠点に戻らなければならない気鬱さを飲み込んだ。



「アズハル様、顔に軟膏を塗ってくれませんか?」


「構わないが……どうした?」


「甘えたい気分なので甘やかしてください」


「そうか……」


噛み締めるような呟きのあと、軟膏の付いた指が優しくイリリアの皮膚を辿る。

目を閉じたまま少し擽ったいその感触を堪能していると、鼻筋、頬、目元を辿った指先が唇の縁を丁寧になぞった。


「足りないところはないか?」と問われ、目を開く。

近くにあるアズハルの表情は真剣なもので、今のイリリアにとってはその生真面目さが悩ましくも微笑ましい。


「ありがとうございます。お礼に頬に口付けて良いですか?」


「ん?」


「ようやく素敵なデートが出来たから、嬉しくて」


薬のついた唇は嫌かな?と思ったけれど、頬に唇を寄せれば身を固くしながらも嫌がらずに受け入れてくれた。

目元とおでこにも掠めるように唇を触れさせて、むぎゅっと抱きつく。

アズハルは一瞬何か言いかけたように見えたが、言葉を飲み、観念したように緩く抱き返してくれる。



「湖が好きならば、天上にも綺麗な場所がある。望むならいつでも連れていこう」


「アズハル様が一緒なら、きっとどこでも嬉しくて楽しいでしょうね」


「そうか……私もそうだと思う…」



柔らかな時間は長くは続かない。


それでも、噛み締めるだけの猶予は与えられるから、また前を向けるのだ。










「霊薬の飲み過ぎで気分が悪くなるなど、贅沢ですねぇ」



椅子に座ったイリリアを診察する蛇人族の医者ナルジスの物言いは相変わらずねっとりと嫌味ったらしい。


順調に順化の行程を進めているようでいて、実は毎日、霊薬を服用して身体の不調を誤魔化していたのだ。

霊薬の使用にはアズハルの許可が要る。

頭痛とか眩暈とか、軽めの症状を言いつつ霊薬を融通してもらっていたが、とうとう今日になって、さすがに連日飲むのはおかしいのでは?と疑念を持たれてしまった。


ナルジスは自ら細かく報告することはないが、アズハルに聞かれれば嘘はつかないようで、拠点に滞在し始めてからずっとイリリアの体調は悪くなる一方だと正直に伝えた。


そしてそういう時に限って、体調を大きく崩すから厄介なのだ。



どうして隠していたんだ…?と悲しげに問われても、早くこの拠点から立ち退きたいからだと言えるはずもない。


他の小屋に比べて設備が充実しているのは確かだし、広い寝台でゆっくり休めるだろうと気遣ってくれるのは有難い。実際に、湯浴みができるのも椅子とテーブルで食事ができるのも嬉しいばかりだ。


ただ、徐々に慣れるだろうと言われている頭痛や耳鳴りも一向に良くならないし、心の安寧からは程遠い。


これならば狭かろうが不便だろうがアズハルとふたりで小屋で過ごすほうがずっといいと思うものの、王族であるアズハルに、小間使いのようにこまごまと動いてもらうのも、狭いベッドでぎゅうぎゅうになって寝続けてもらうのも、申し訳なさすぎて言い出せる筈もない。


それに、ひとつ上の小屋はとても小さいうえに天候が変わりやすくて危険だと言われているし、下の風雪地帯まで戻ると、今度は上に行こうとするたびに今の階層を通りすぎる必要があり……この階層と絶望的に相性の悪いイリリアは移動中に倒れることは必至。

つまり滞在中にどれだけ不調を来そうとも、この拠点に留まって上にアタックする方法が最も現実的なのだ。


それを理解したうえで、滞在期間が長引くほどに身体が保たなくなりそうだと判断したイリリアは、不調を隠して高度順化を優先させた。


九千メートル地点までは行けたのだ。

あと二回か三回で、天上へ挑める高さへ至れたのに。



ひと通りの診察を受け終わり、ふぅ…と息を吐いたイリリアに、ナルジスはにんまり口角を上げた。

糸目のせいで考えが読みにくいし好意的ではないものの、嘘をついたり理不尽にこちらを傷つけようとはしてこない。

むしろ直接言ってくるだけ、遠回しに悪意をぶつけられるよりマシに思える。

自分たちが咎められないよう狡猾に立ち回る女官たちよりも、ナルジスのやり口の方がいくらかイリリアには合っているのだろう。


正直、一番苦手なのは侍女のハイファだ。

嫌われているのはわかるけれど、直接文句や嫌味を言うこともなければ、悪意をぶつけることもない。アズハルが居るときだけイリリアの存在は視認され、居なくなると彼女の意識からはすっかり拭い去られてしまう。

アズハルが居るときは従順で有能なのだから文句の言いようもない。



ナルジスはテーブルにコトリと小瓶を置いた。

中にはどろりとした暗褐色の液体が入っている。


「食も細くなっているとか。まあ、このような生活では食事に不満も生まれるでしょう。人間とは本来、様々なものを節度なく食らう生き物ですからねぇ。

ですが、天上へ行けば嫌でも霊草しか食べなくなりますよ。竜人族が霊草しか食べないのはなにも高潔な行為ではなく、天上には竜人族以外の生き物が住めず、霊草以外の食べ物が殆どないからなのです」


「無礼な!今の発言を撤回なさい…!」


「おお怖い…女官たちが花嫁様のことを悪し様に言っても表情ひとつ変えないのに、竜人族の陰口を囁いただけで激昂するとはねぇ。いやはや、花嫁付きの侍女としては如何なものでしょうか」


噛み付くように声を荒げた侍女が、厳しい眼差しで飄々としたナルジスを睨みつける。

別に仲良くしろと言うつもりはないけれど、ここで喧嘩するのはやめて欲しい。


「誰の慈悲で霊峰に住まわせてもらっていると思っているの!」


「それはもちろん竜帝陛下様ですねぇ……天上に住む竜人こそがと誇りに思うのは構いませんが、貴女もあの女官らも、あまり調子に乗っているとしっぺ返しを喰らいますよ?

なにせこちらにいらっしゃるのは、天上の支配者たる竜人族の第二王子妃であり、広大な地上の覇者であられる人間様なんですから…」


侍女の視線が私に向く。敵意を隠しもしない眼差しにうんざりして、糸目の医者を追い払うように手を振った。


「無駄口はもういいので、診察が終わったなら出て行ってください。彼女と話があるのなら連れて出て構いませんから部屋の外でどうぞ」


「おやおや。ですが確かに、安静を要するの病人の前で喧喧諤諤と話を続けるのも宜しくないでしょうからねぇ、仰せのままに」


これは餞別ですよと謎の液体の入った小瓶を指で突いて、退室していく。

ナルジスは素直に出ていくが、ハイファはアズハルの指示がない限りは動かない。


余計に気が滅入るわ…とこめかみを押さえていると、室内にアズハルが戻ってきた。ハイファはそれを待っていたように、深々と頭を下げて部屋を辞す。


「………これは?」


「さあ…餞別らしいです」


首を傾げながら、ナルジスの置いて行った小瓶の蓋を開けてにおいを嗅いだアズハルが、物凄く嫌そうに顔を顰めている。

もしかしたら蛇人族特製の滋養に効く何かかもしれないけれど、体調が悪い時に謎の液体を嗅ぐ気にはなれず、ひとまず仕舞っておいてもらうことにした。





あまり日を置いてはこれまでの順化が無駄になるからと、次に上へ向けて挑戦するのは二日後となった。

アズハルはもう一度慎重に…と言っていたが、一秒でも早くここを抜け出したいイリリアが頼み込んだ結果だ。



頭痛と嘔気で気分が優れず休んでいるなか、上への行程が一時停止になったと聞きつけた女官たちはイリリアの礼儀作法の指導が全く進んでいないことをわざわざアズハルに告げに来た挙句、椅子に座るイリリアを見るなり表情の読めない笑みで「激しく動くものでもありませんし、起き上がれるのでしたら指導をお受けくださいませ」と有無を言わさず広間へと連れ出した。


目の奥深くがズキズキと痛む状態で礼儀作法の指導を受ける羽目になり、立ったまま偉そうに口先で指示する女官にぼんやりと従う。


陛下への挨拶の際には膝をついて床に額付くほど深く頭を下げるようにと指示された時は、さすがに何か違う気がするな…と思ったけれど、反発するのも面倒くさくて膝を折る。

女官たちの口元が醜く歪んで見えるのは気のせいではないだろう。



(思い出すわ……)


ここは、かつて逃げ出したはずの実家によく似ている。

唯一異なるのは、大丈夫かと声を掛けてくれて、寝る時に優しく抱きしめてくれる人がいるということ。

イリリアのことを必要としてくれる誰かが居るということ。



床に膝をついて、もうこのままダンゴムシみたいに丸まって眠りたい…と思っていると、下品な笑みでこちらを見下ろしていた女官たちの焦ったような声が聞こえた。

顔を上げると、扉のところに珍しく護衛を伴ったアズハルが立っている。



「アズハル様!?何故こちらに……」


「我が花嫁の様子を見に来るのに許可が必要なのか?」


「いえ……ですが今は、謁見時の礼儀作法をお教えしているところですので……」


「尚更問題なかろう。私は王族であり宮中では最大級の敬意を払うべき存在だ…時間もあるし練習に付き合おう。父上の真似も得意だから安心するといい」



大股で広間に入ってきたアズハルが、イリリアの前に置かれた椅子に腰を下ろす。

仮想玉座に腰を下ろした姿は着飾らない普段着ながら威厳に満ちており、アズハルが顎を引いて表情を整えた途端、部屋にはピリリとした緊張感が満ちた。



その高貴なる姿に、床に座り込んだ自分との差異を思う。



(………夢みたい)



誰が見ても麗しいと評するであろう目の前の美丈夫が、自分のことを花嫁と呼び慈しんでくれる。

これが夢でないのなら、一体何だというのだろう。



教えられたことを反芻しながら、口上を述べる。


陛下役のアズハルの口から「許す」と端的な返事が与えられる。

その言葉に余計な温度や情は宿らず、これこそが彼本来の…王子としての声なのかしらと朦朧とし始めた頭で思う。



(遠い……遠い存在……)



まるで地上を這う蟻と天上を飛ぶ竜のようだと、あいだに隔てられた距離を思えば自然と口元に皮肉めいた笑みが浮かんだ。



最後に退出の許しを乞うべく深々と頭を下げようとしたところで、胸元で組んでいた腕を掴まれた。

視線を上げると、アズハルが冷たい顔でこちらを見下ろしている。



「言い回しが古くさいな……陛下は長ったらしい口上は好まれない。その名と、私の花嫁として天上へ至ったのだと告げればいい」


「はい」


「それと、王子の花嫁なのだからそんなにも深く頭を下げる必要はない。額付くほどに頭を下げるのは…罪人や、相当に身分の低い者がすることだ。

膝を追って背筋を伸ばし、組んだ手を額に翳す。……そのくらいが美しい」


アズハルが身体の位置を調整して整えてくれる。

頭を下げる角度は顎を引いて黙祷を捧げるくらいで良く、掲げた腕で顔は隠れるから無理に表情を作らなくていいと指導される。


アズハルからの指導に沿ってもう一度やるべきなのかなと思っていると、不意に額に冷たい手のひらが当てられた。

「熱がある」と言われ、まあそうだろうなとぼんやり頷く。


「何も言わずに出て行ったから、指導を受けたいのかと思ってその意思に任せたが……朦朧として判断力が落ちているな?」


ペタペタと顔に触れられて、その手の冷たさに思わず安堵の息が出る。

「吐息も熱い」と眉を顰められ、初めて彼が少し怒っていることに気がついた。



そこに「お言葉ですが」と女官の声が割り込む。

自分たちの指導が間違っているかのように訂正されたことが遺憾だったのだろう。


アズハルが両脇に手を入れて床から立たせてくれたけれど、あまり膝には力が入らない。それを見越したように、寄りかかって良いとばかりに腰を抱き寄せられた。



「ご指導くださるのは大変有り難く思いますが、花嫁様への礼儀作法の指導は我々が主導でおこなうようにと王太子殿下より命じられておりますので……」


「そうだな…其方らは王太子からの命令を受けてここにいるのだと、しかと身に刻むといい」


アズハルの声は決して荒々しいものではないけれど、異を言わせぬ力強さがある。

女官たちもこのような姿を見る機会は少なかったのだろう。気圧され、顔には困惑と動揺を浮かべている。


「歴史書などというふざけた教材を用意し、あのような粗末な指導を熱心におこなっていたことは、私から直接王太子へ伝えておこう。どのような意図で其方らを我が花嫁の指導係として派遣したのかも含めて、兄上とはしっかり話し合う必要がありそうだ」


「お待ちください!我々の指導は歴代の花嫁に施されたものに準じております。過去の記録が、わたくしたちの正しさを証明しておりますわ!」


「では、ファティナ様も同じ指導を受けたのだな?」


「あ、あの方は元より天上の高貴なる血を継ぐ方…改めての指導など必要ありませんので…」


「異種族たる我が花嫁は、下賤の血というか?」


「そのようなつもりでは……ですが、礼儀を知らぬ者に指導を施すのは先達の役目で…」


「先達か……私は其方らが床に額付いているところを一度も見たことがない。このまま指導を続けたいと言うなら今すぐ手本を見せるがいい」



その言葉に女官らは信じられないと驚愕の表情を浮かべてみせた。

「あの穏やかと名高いアズハル様がどうなさったのです!?」と動揺する女官たちにアズハルは「其方らが私の何を知っているというのだ」と冷たく突き放すばかり。


「我が花嫁を礼儀知らずと言うが、それは其方らの方だろう……私を不愉快にしておきながら、何故詫びもせず平気で立っていられる」


その言葉をきっかけに、アズハルと共に入室してきた護衛の男と壁際に立っていた侍女とが素早く動き、女官らを床に引き倒す。

屈辱的な表情を浮かべた女官ふたりを睥睨しながらアズハルはどこまでも冷たく言い放った。


「ここに居座り続けるつもりであるのなら、これ以上私と兄上の顔に泥を塗ることがないよう誇りを持って務めよ。でなければ、早々に去れ」



最後通告を施し、熱でぼんやりするイリリアを抱えると東側の部屋へと戻る。


力の入らない身体を優しくベッドへ横たえたあと、冷たく強張った顔をしていたアズハルがくしゃりと表情を崩した。



「父上の真似はなかなか上手かっただろう?」と苦笑いされたが、残念ながら竜帝陛下を知らないため、曖昧に頷くことしかできない。

女官を責める姿はなかなかの迫力があったから、竜帝陛下はそれなりに恐ろしい人なのかもしれない。


「意地悪から庇ってくれたのは嬉しかったですし、ちゃんと怖かったです」


「怖かったか…?あのような追求の仕方をするのは兄上なのだが……そうか、生まれた時から次期竜帝の地位を約束されていれば怖くもなるか……」


怖いと言われたことが意外だとばかりに首を捻るアズハルに、「怒る姿はお兄さんの真似っこだったんですか?」と首を傾げ返す。

アズハルは眉尻を下げながら「情けないことにな」と苦々しく微笑んだ。


「私は竜帝の子でありながら、あまり大きな権力は持たない。王宮に参内することも少ないから、あの女官たちにも裏では軽んじられていたんだろう。

宮中のやり方で追及する時は父上や兄上の振舞いを模したほうが効果的だからな……まあ、面倒な者を相手取る時にたまに使う手段でもある」


失望させてしまっただろうと苦々しい表情を続けるアズハルの頭に手を伸ばし、白く指通りの良い髪を混ぜるようによしよしと撫でる。

失望なんてするはずがない。

こうしてそばに居てくれるのがいつものアズハルであることに安堵するばかりだ。



「それより……ごめんなさい、私のせいでアズハル様と王太子殿下の仲が拗れてしまったら…」


「ん?多少抗議したくらいでは、兄上との仲は拗れない。あの人にとって私は足元で跳ねる小竜のようなものだからな……いつまでも子ども扱いだ」


「お兄さんと仲良しなんですか…?」


「特に仲良しではないが……喧嘩もしない。言いたいことは言うし、あちらが聞き入れたくない内容であれば雑にあしらわれる」


何か苦い過去でも思い出したのか眉間に小さな皺を刻んだアズハルを、珍しいものを見る心地で見上げる。家族のことを話しているせいか、いつもよりも表情が豊かだ。


「どうしてもの時は父上に仲介を頼むか、兄上の花嫁であるファティナ様に目通りを依頼する。そうしたら不機嫌そうに応じてくれるが、後日茶席に招かれ小言をもらう羽目になる」


だが、全く応じないし散々文句ばかり言ってくる姉上よりはずっと良いと付け加えられ、アズハルが兄姉たちからどんな扱いを受けているのか想像がついて、ふふ…と笑いが込み上げた。


(末子だと聞いていたけど…可愛がられているのね)


父親である竜帝陛下やお兄さんである王太子殿下は、王宮を生き抜く強かさを持ち合わせた食えない人物のようではあるが、アズハルを無視したり蔑ろにしたりしているわけではなさそうだ。

お姉さんである第一王女殿下はいまいち読めないけれど、アズハルの表情からして嫌悪の対象ではないのだろう。指先でつつく姉とつつかれてむくれる弟の構図なのかもしれない。


あまり大きな権力を持たないと言っていたが、女官による理不尽な嫌がらせから庇ってくれたし、王太子であるお兄さんに正当な抗議を入れようとしてくれる。

イリリアにとっては、それだけで十分だ。



なでなでと撫で続けていたら、そろそろいいだろうか…?と困ったように尋ねられた。

まだだめですよ、ともう少しだけ愛でることにする。


暫く我慢してくれていたが、いい加減焦れたのか、がしりと痛くない程度に右手を掴まれてしまった。

嫌だったかな…と心配になり覗き込んだ顔が思いがけず真剣な表情をしていて、イリリアは密かに吃驚してしまう。


額に触れて熱を測りながら、アズハルはイリリアの瞳をじっと見つめた。



「先ほど…頭を下げる前に、悲しげな表情を浮かべただろう?」


「……そんな顔をしていましたか?」


「ああ………時々、あまりに儚すぎて、そのままどこかに消えてしまうんじゃないかと思う事がある………あのような時、イリリアは何を考えているのだろうか」


何、と言われても、自分がいつそのような表情を浮かべているかわからないため首を捻りそうになる。今日の事であるなら、アズハルと自分の差異を感じて自嘲したに過ぎないが、そのままを伝えるのも宜しくないだろう。

何か良い表現はないかしら……と少し考えて、思い至ったものをぽろりと口にした。


「………夢のようだな、と」


「夢?」


「アズハル様があまりに美しくて神々しくて素敵なので、今がまるで、夢のようだと感じることがあります」


掴まれた右手とは反対の手を伸ばして、もう一度白い頭髪に触れる。

これが現実であると確かめるように、そのしっかりとした髪質の手触りや指通りを堪能していると、無言で何かを考えていたアズハルが小さく苦笑を洩らした。


「夢のよう、か………正直言うと、私から離れたいと思っているのではないかと心配してしまった」


「離れて欲しいんですか?」


「意地悪を言わないでくれ」


左手でなでなでを続けていると、右手に続いてそちらの手まで掴まれてしまった。

悪戯っ子を見咎めるような美麗な王子様と、視線を絡ませる。


「目が潤んでいるし吐息も肌も熱い……無理せず暫く眠るといい」


優しい気遣いではあるけれど、今はもう少し触れて居たい。

そんな気持ちを込めて「ひとりで…?」と首を傾げてみれば、不意を突かれたように一瞬驚いたアズハルが、「一緒に寝ようか」と眉を下げて微笑んだ。



それから飲み水と濡れタオルを持ってきてくれて、イリリアの顔をサッと拭ってくれた。

どうやら知らないあいだにいっぱい汗をかいていたらしい。半分くらいは体調不良による冷や汗かもしれないが、拭ってもらってさっぱりしたし、程良く冷えた飲み水が身体に染み渡る。



一緒に寝台へ寝転んだアズハルに手を繋いでもらう。


隣に視線をやれば、お行儀よく上を向いたアズハルが目を開けたまま天井を見つめている。

熱が上がってきたのか、ふわふわとした意識のままその横顔に問いかけた。



「アズハル様は……王子様でなければと、思ったことがありますか…?」


「………そうだな……これまでは常々、そう思っていた」


「つねづね…?」


「………私は望まれて生まれたわけじゃない……政治の道具として生み落とされた。だが、治世を乱されることを厭う父から、道具になることを禁じられて育った」


天井を見たまま語るアズハルの言葉に、必要以上の悲嘆さはない。

きっとこれまで何度も自問自答しながら、飲み込んできた内容なのだろう。


「父の判断に不満は……ない。今後どうしても政治の面で私が必要とされる場面があるとすれば、兄上やその子どもに『何か』が起きた時だ……そんな事は望まぬし、宮中で腹の探り合いをしながら生きたいとは思わない。

けれども、この『道具』をどうしても使いたがっている者たちが居て……その事をどうしようもなく煩わしく感じることはある」


静かに語られた言葉の最後は、複雑な感情に彩られていた。


道具として生まれたアズハルが、道具にならないことを望まれ、一方では道具であるようにと強いられる。

誰かに人生の在り方を決められる苦痛は、イリリアには嫌というほど理解できた。



(でも、アズハル様の周りにいる人が、酷い人ばかりじゃなくて良かった…)



お父さんも、お兄さんも、お姉さんも、本気で苦しんだ時にはきっと救いの手を差し伸べてくれるだろう。

それに、ルトフやハイファといった、彼のことを心から慕う人たちも居る。



(ああ、でも……私にとって貴方は、)



何も言わないイリリアに、すっかり寝入ったと思ったのだろう。

ふぅと小さなため息をついたアズハルは、不意に指先をきゅっと握られたことに驚いたようだ。

イリリアは、熱に浮かされたまま、ただ心に浮かんだ言葉を並べる。



「アズハル様がいなかったら……私は、今頃どうなっていたかなって……」



きっとこんな風に、安心して眠れることはなかった。

寒くて悲しくて…ひとりぼっちで、大地に横たわっていただろう。



「居てくれて……よかった…」



「………そうか」



噛み締めるような言葉に、嘘じゃないよと呟く。

寒い日は抱きしめてもらえると布団が少なくても温かくいられるし、ひとりで寝る夜はベッドから落ちる恐怖に怯えるばかり。

口にしたつもりはなかったけど、勝手にこぼれ出ていたのか、今度は笑いを噛むように「そうか」と呟かれた。



「イリリアの為ならば、布団代わりの暖房にでも、落下防止の安全ベルトにでも…どんな道具にでもなろう」



「じゃあずっと……そばに居て…」



寒くないように。落ちてしまわないように。



私の意識はそこまでで途切れてしまったけれど、浅い眠りのどこかで、ひと筋の涙を零しながら頷くアズハルの姿が見えた気がした。

夢かもしれないけれど、悲しくないようにと、手を伸ばしてそっと胸に抱き込む。



それから丸一日、泥に沈むかのよう眠り続け、

次に目覚めた時、何が夢で何が現実だったのか…少しばかり悩んでしまった。





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