表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/31

10. 二進も、三進も





(やってしまったわ……)



思い返してみれば、アズハルの花嫁に対する思いを知った翌日から、イリリアは不思議と元気だった。

むしろ元気すぎた。

つまり、気付かぬうちに高山病に侵され、命を繋がねばという本能的な防衛機能により色々とハイになっていたのだ。


これまでは急激に症状が出て卒倒していたため、じわじわと侵食するように徐々に悪化するケースもあるとは知らなかった。


慢性的な酸素欠乏に起因する貧血症状。

内耳障害による平衡感覚の欠如。

加えて、移動による気圧の変化が決定打となり、イリリアは拠点到着前に意識を失った。


霊薬を飲ませたにも関わらず丸一日目覚めなかったのだと、ベッド脇で看病してくれていたアズハルは深い安堵の息を吐き、イリリアはくらくら揺れる視界に耐えながらアズハルの頭をよしよしと撫でた。


容体を診てもらおうと部屋に呼ばれたのは蛇人(じゃじん)族の医師で、診察の邪魔にならぬようにとアズハルが部屋を離れる代わりに背の高い女性がひとり入室し、扉横に待機した。


彼女は誰だろう…と思っていると、糸目かつ不敵な笑みを描く顔立ちの医師が、遠慮容赦なくイリリアの服を剥いた。

驚く間もなくサクサクと診察が進み、全く興味なさげに「服を戻していいですよ」と言われる。


「ご存知かもしれませんがねぇ…私は医者のナルジスという者です。霊峰の南側の支配者たる王子様に花嫁を診ろと言われたもので、苦労して人間のデータを集めたわけですよ。

我々は目が良くない代わりに体温の変化には敏感でしてねぇ、加えて耳もいい…心音を聞き取ることに長けているのです。

貴女は今、発熱しているのに末端はとぉっても冷たい。哀れな心臓は、しきりに悲鳴を上げている」


ねっとりと纏わりつくような口調で告げられる診断内容は決して良好な状態とは言い難い。

そして目の前の医者がアズハルの事を敬っているのかそうでないのかわからない発言をした瞬間、イリリアが服を剥かれた時には一切反応しなかった扉横の女性が思いっきり眉を寄せたように見えた。


(あの様子からしておそらく…アズハル様の部下かしら)


この拠点には、アズハルの部下である侍女と護衛がひとりずつ、蛇人族の医者がひとり、そして王太子殿下からの心遣いで王宮から派遣された女官がふたり居るという。


この拠点は霊峰高域を見回る警備隊の駐留地であるため、一階部分には時折隊員たちの出入りもあるが、イリリアの順化の為に揃えられたのは侍女と護衛と医者と女官ふたりの計五人だけ。

であれば、扉横に待機しているのはおそらく、侍女か護衛として派遣された人物なのだろう。


糸目の医師は侍女からの鋭い視線を気にした様子もなく(目が良くないと言っていたからよく見えていないのかもしれない)、ねっとりと絡みつくような言葉を続ける。


「とはいえ人体の治療についてはからっきしなのですがねぇ、そこは王子様がお持ちの霊薬を惜しみなくお使いになるそうで。

霊薬は大層貴重なお薬なので我々のような末端の者には殆ど与えられないのですが、流石は王子妃といったところでしょうかねぇ。いやはや、お羨ましい」


診るには診たが、処置することなど何もないとばかりに腰を上げた医者に「どのくらいで動けるようになりますか」と尋ねかける。

医者のナルジスは芝居掛かった仕草で肩を竦めると、「それは貴女の回復力次第では?おつらいなら追加で霊薬を貰うといいでしょう」とまるで役に立たない言葉だけを残して退出していった。


室内にはイリリアと扉横に立つ部下な女性が残され、沈黙が満ちる。


(挨拶とかは……した方がいいのかな)


チラリと視線を向けても視線が絡むことはない。

彼女はイリリアが座っているベッドとは全く違う方向を向いており、まるで軍人のように背中で手を組んで待機するばかり。


自身の調子が悪いときに他人に気を配らなければならない事ほど、気鬱なことはない。


どこを見られても構わないから診察中もアズハル様が部屋に居てくれたら良かったのにと考えていると、ノックと共にアズハルが入室してきた。


どうやら糸目な医者はちゃんとアズハルにも診察結果を伝えたらしく、血脈が滞り末端に酸素が行き渡っていない状態であると説明されたアズハルは、心配そうにイリリアと向かい合わせになるように膝をついた。

扉横に居た女性は、アズハルが入室する時だけ深々と頭を下げたものの、再び直立不動の姿勢に戻っている。


「熱による発汗を促し、末端の冷えを解消するためにも温かくしておくと良いと言われた。心拍に大きな乱れがあると聞いたが……苦しくはないか?」


「………。」


そんなこと一切聞いていない。霊薬を飲めば良いと突き放されただけだ。

あの蛇医者の態度について何か援護射撃でもくれないかな…と扉横に立っている侍女に視線を向けたが、相変わらずそっぽを向いていて全く口を開く様子はない。


イリリアの視線に気づいたのか、アズハルが「彼女は私の部下で、今後はイリリアの侍女として務めるよう伝えてある」と言えば、まるで人が変わったように凛とした表情で恭しく腰を折ってみせた。


「ハイファと申します。アズハル様より花嫁様を気にかけるよう仰せつかっております」


「彼女の他にも二名、侍女として任じているが、今は天上の離れを整えさせている。上で改めて紹介しよう」


「ありがとうございます。ハイファさん、どうぞよろしくお願いします」


イリリアが丁寧な挨拶をした事に対してハイファは小さく片眉を動かすと、無言で腰を折った。

よろしくと返さないところに含むものを感じたものの、今は身体の不調で心が狭くなっているから余計気になるのかな…と自分自身をたしなめる。



(でもきっと、気のせいじゃないこともたくさんあるわ……)



蛇医者の物言いも、侍女の態度も、決して友好的とは思えない。

それはイリリアが人間という種族であるからなのか、或いは王子(アズハル)の花嫁という立場に収まっていることが気に入らないのか、そのどちらもか。



(ここから先は、『拒まれる』と思っておいた方が良さそう…)



土地からも、周囲の人からも。


これ以上踏み込むなとばかりに、ある程度の距離感を求められるのだろう。



「もう少し休むといい」とアズハルに促されて目を閉じると、瞼の裏にリヤーフ達の姿が描かれる。

あそこがどれだけ優しい世界だったかは……これから嫌というほど、思い知ることになる。










拠点の二階、東側にある貴賓室はアズハルとイリリアに宛てがわれ、廊下に面した使用人部屋が侍女たちに一室ずつ与えられている。

そして西側にある大広間にはポツンとテーブルと一脚の椅子が置かれ、イリリアは朝からそこに座っていた。


大広間と廊下を繋ぐ扉は開かれており、その扉の陰で、王宮から派遣されたという女官ふたりが休むことなく口を動かしている。



「所詮、異種族の花嫁なんて子を産むための腹でしかないのよ。三代前の陛下の弟君も、獣人の花嫁を娶ったからこそ御子が三人もお生まれになったじゃない」


「でも、そのうちのひとりは高貴な色を宿していない出来損ないだったのでしょう?」


「獣人には発情期なんて下品な周期があるのよ?案外余所で種をいただいて来たとか…」


「ちょっとぉ、それはあまりに不敬よ。獣人なんかに気を遣う必要はないけど、万が一にも竜帝陛下のお耳に入ったら大変だわ」


「だとしても……竜人族(わたしたち)を迫害した種族に、果たして高貴な色を宿した子が生めるものかしら」


「まぁねぇ……脆弱なくせに胸ばかりが豊満で……聞いた話だと人間は年中発情しているんですって。下品極まりないことだわ。いくら花印があるからって、相手をしなければならないアズハル様が本当にお可哀想」



女官ふたりが立っているのは二階に上がる階段が見渡せる場所で、諸用により一時的に拠点を離れているアズハルが戻ればすぐに見える立ち位置だ。



(天上での礼儀作法を学ぶ補助として…と、王太子殿下からのご厚意というかたちで派遣されたと聞いていたけど、違ったみたい)


それとも、こうした陰口を聞かせることが王太子殿下の狙いなのだろうか。


(竜人族の王室としては人間の花嫁を歓迎しないという遠回しな意思表示とか…?)



イリリアの手元にあるのは竜人族の歴史書の写しで、随分と古い表現で書かれているものの見知らぬ文字ではないため、ある程度は自力で読むことが出来る。


体調がある程度回復し、一度上に向かってみようという話になった為、アズハルは今、次の山小屋へ向かうルートに危険がないか確認に出ている。

せっかくだから待っている間に宮廷作法を学んでいてはどうかと女官ふたりを紹介され、ディアマとフィッダと名乗った女性ふたりは、アズハルが出立すると、あからさまにイリリアを軽視するような態度を取り始めた。


「御挨拶も頂けない程に酷く伏せっていらっしゃったようですし、どうぞご無理なさいませんよう…」


「お言葉は通じるようですけれど、文字はお読みになれるのでしょうか……こちら、竜人族の由緒正しい歴史書になっております。ご学習の一環としてどうぞご拝読くださいませ」


慇懃無礼な物言いと毒花が薫るような微笑みの中に潜まされた、悪意。


物凄く苦手だわ…と思いながらも、暇つぶしも兼ねて渡された歴史書を読む。

そこには、かつての竜人族がどのような苦難を得たのか……人間がおこなった蛮行の数々と、それによって地上の山を追われ霊峰に逃れたこと、遙か高みにある天上へ至るまでにどのような苦しみを味わったのかが怨み深く記されていた。


言い回しが古臭くて理解できないところもあるが、周囲の文脈から察するにこうだろうな…と予測しながら読み進めていく。


女官たちはもしかするとこれを読んだイリリアが「無礼者!」と激昂するか、「こんな歴史は信じない!」と喚くのを期待していたのかもしれない。

けれどここに記されているのは二千年以上前の出来事だ。

真偽の程は定かではないし、たとえここに書かれている多くが真実だとしても、残念ながらイリリアには壮大な物語のようにしか思えない。


(人間が竜人族を迫害して追い出したのが事実だとして…その責を私ひとりで負えなんて言うつもりかしら。だとしたらお門違いも甚だしいわ…)


歴史書を読むイリリアの表情が変わらないことに業を煮やしたのか、女官たちは扉の向こうに身を隠し、敢えてイリリアに聞こえる声量でお喋りを始めたというわけだ。


相変わらず侍女は、壁際に立って置物のように沈黙している。

イリリアへの悪口など知ったことではないと澄まし顔をしているが、たまにアズハルの悪口が聞こえた時だけ扉奥を睨んでいるから、忠誠心はあるらしい。



これみよがしに聞かされる耳触りの悪いお喋りからも得られる知識というのもあるもので、断片的な情報を繋ぎ合わせながら心のメモに書き残しておく。


今は次代を担える王族の数が少ないということは聞いていたし、リームから、竜人族の女性は生涯に生む子どもの数がとても少ないという事は教えてもらった。

リヤーフも雑談ながらに、王族のもとに定期的に異種族の花嫁が迎えられるのはその血筋を絶やさないためなのかもなぁと言っていた。


だから、王族には王族特有の悩みや問題があり、それはイリリアが出しゃばったところでどうにもならない事なのだろう。


女官たちの会話のなかで一番気になったのは『ナスリーン』という女性だろうか。

女官たちはしきりにその女性のことを気遣っていて、「アズハル様の正当な花嫁があのような人間だなんて、さぞ口惜しく思っておいででしょうね」と憐れむように話していた。


(聞いている限りじゃ、ナスリーンという人がアズハル様の側妃的な立ち位置で、でも正妃になれるのは花嫁だけだから嘆き悲しんでいる感じ……?)


サーリヤという女性の名も聞こえてくるが、そちらは身内のようにも聞こえる。



アズハルが順化のあいだイリリアに触れない理由はただひとつ、天上での儀式が終わっていないからだ。

順化を経て天上へ至ったのち、竜帝陛下との謁見で居住の許可を得て、婚礼の儀式のなかで永遠を誓う口付けをおこない、初夜(はつよ)におこなわれる授与の儀式で交合を果たす……というのが異種族の花を迎える際のお作法らしい。

そこまで厳密に定められているのであれば、もうイリリアが簡単に干渉していい領域ではない。



(私が見つかるまでに五十年以上かかったというし…そういうお相手が居てもおかしくはないけど……)


アズハルの生きて来た年数を思えば当然なのかもしれないが、これまでの彼の態度からは他に愛人や側妃的なものを抱え込んでいるようには見えなかったため、少しばかり驚きだ。


先ほど女官たちが「人間の花嫁なんて子どもさえ産んでいればいい」と言っていたことからも、王族に嫁ぐからには子孫を残すよう求められているのだろうし、北や南という単語が行き交うことからも、天上にも派閥的な何かがあるのかもしれない。


(そう考えると、侍女な女性の態度も納得いくかも…)


本当は別の女性に仕えたかったか、或いは仕えていたものの、アズハルからイリリア付きに命じられて渋々従わざるを得なかった可能性もある。

勿論イリリアが人間であることも今の態度の一因であるのは間違いなさそうだけれど、こちらを知ろうともしない頑なな態度に、何か別の理由があるのではと勘繰ってしまう。



(あるいは、彼女自身がアズハル様のことを狙っているとか…?)


大衆小説のなかでも現実の噂話でも、屋敷の主人が侍女や使用人に手出しするという展開はよくあるものだ。

主人からの寵を狙っているときに、正式な花嫁として憎き種族の女が迎え入れられれば腹立たしいばかりだろう。



目の前に開かれた歴史書よりも、現実の方がずっと物語的に感じられる。


完全な第三者であればこの先の展開を想像してハラハラしたりワクワクしたり出来るのだろうが、自分がしっかり巻き込まれてしまっている以上、全く心躍らない。


(そもそも竜人族の夫婦制度がよくわからないわ。王族にとって花嫁は唯一無二の大事な存在だと言っている割には、異種族に対する偏見は多く残っているようだし、アズハル様は竜帝陛下の側女の子……ということは竜人族は一夫多妻制なのかしら……それとも正妃が異種族の場合に限り、政治的な理由で竜人族の側妃が宛てがわれるのかしら……)


侍女でも女官でも誰でもいいから、過ぎ去った古い時代の事よりも、そういう大事な事こそを教えて欲しい。

これならリームと話した内容のほうがよほどタメになったな……と思っていると、まだ読んでいる途中だというのに、歴史書がさっと手から奪われた。

顔を上げると、歴史書を抱えた女官はひと言もなくそそくさと退室し、代わりに誰かが階下から上がってくる気配がする。


なるほど…とイリリアが納得すると同時に、石像のように動かなかった侍女が滑らかな動きで腰を折って一礼し、扉の向こうからアズハルが現れた。


先ほどまでカラスの鳴き声の方がまだマシと思える姦しさで喋りまくっていた女官のひとりが、すまし顔でアズハルを出迎える。歴史書を奪い取って行ったもう一人の女官も、何事もなかったかのように廊下から室内へと戻ってきた。


「お戻りになられたのですね。ちょうど今、学習が終わったところですわ」


「そうか、ご苦労。…イリリア、ただいま」


「おかえりなさい。経路は決まりましたか?」


「少し足場の悪いところはあったが、抱えて行くなら問題ないだろう。今日は何の礼儀作法を習ったんだ?」


女官の刺さるような視線を受けながら、「歴史書を読みましたよ」と素直に言う。

「歴史書?」と首を傾げたアズハルは、女官の方を向いて「兄上からの指示か?」と問いかけた。女官たちは一瞬頬を引き攣らせたものの、流石の口八丁で危機を回避する。


「言語学習の一貫でございます。わたくし共はお花様がどのくらい竜人族の言葉を読み書きできるのか、存じ上げませんので」


「ああ……」と納得したような声を出したアズハルの視線がこちらを向いた為、書物の六割方は読めたと頷いておく。


「文字や表現が古くて周辺の文脈から推測した所も多かったので、あとで答え合わせしてくれますか?」


「アズハル様のお手を煩わせる必要はございません。それは明日以降の学習のなかで……」


「明日は上に行くし、明後日は休養日だ。指導に充てられる時間はそう多くないのだから、歴史などより、天上での儀式に必要な振る舞いを優先して教えるように」


慌てて口を挟んできた女官をピシャリと言い込めたアズハルに心の中で礼をいう。

陰口を聞かされながら、人間を悪と解く歴史書の勉強を延々と続けさせられるのは流石にしんどい。


ポツンとテーブルが置かれただけの大広間を見渡して、殺風景だな…と呟いたアズハルは、侍女と女官らにもう少し広間を整えておくよう指示すると、こちらへ歩み寄り、エスコートするかのように恭しく指先を掬い上げた。

いつもの温度に触れられたことで心が緩んだのか、お腹が小さくきゅうと鳴る。

アズハルは優しく目を細めるとイリリアを椅子から立ち上がらせた。


「明日の行程も含めて、部屋で軽食を摂りながら話そう。歴史書はどこまで読んだ?」


「初代の竜帝と竜王が出て来たあたりです」


「ああ…それなら女官たちよりも私のほうが詳しい。王族にしか伝わらぬ内容もあるし、間違いのないようゆっくり教えよう」



促されて廊下を渡り、東側にある部屋へと戻る。


扉を開けた先が簡単な応接間としても使える休息用の小部屋で、奥の扉の向こうが寝室。

小さなお風呂なども備えられているため、拠点のなかをウロウロと動き回る必要はない。

あまり好意的でない人が多いようだし、どこで誰に何を言われるかわからない以上、アズハルがいない時に不用意に部屋から出るのは避けた方がいいだろう。


小部屋の椅子に腰を下ろすと、ドッと疲れが降りて来た。

同時に軽い頭痛も併発して、思わずため息を漏らすと、アズハルから気遣わしげな視線を向けられる。


「不愉快な内容だっただろう?」


一瞬、女官たちの会話かな…と思ったけれど、歴史書のことかと思い至り、首を捻るように中途半端に頷く。

確かに愉快ではなかったけれど、人間たちが他種族から土地を奪い取ったという話は史実として残されているし、あのような内容の歴史書が残っていても不思議ではない。

出会ってすぐの頃、アズハルがイリリアにツノを狙われたのでは…と警戒してしまった事があることからも、年月が経った今でも、竜人族のあいだでは人間による悪虐非道なおこないが言い伝えられているのだろう。


「あのような……人間に迫害を受けた人たちは、今も天上で生きているのですか?」


「まさか。今でこそ長寿だが、初めて天上に至った竜人たちはひどく短命であったと記録されている。代を重ねるごとに寿命が伸び、それに反するように繁殖力が落ちていったそうだ」


霊峰に住み始めた竜人族は、先住である他の獣人族と生活圏が被らぬよう…そして人間共から狙われることがないよう、上へ上へと至り……遂に雲を突き抜け、霊峰の頂へと至った。

そこは雲の上にある楽園で、従来植物の生育が不可能であるはずなのに、不思議なことに豊かな緑の草が青々と生い茂っていた。

食せば命の力が巡り、怪我もたちどころに治った。

寿命は伸び、地上を追われた竜人たちは霊峰の(いただき)にてようやく安寧の地を得た……というのが、歴史書の導入部だ。


天に至った竜人のうち、最初に雲を突き抜け頂へ辿り着いた白き竜が『竜帝』を名乗り天上を統治した。そして能力に秀でた者が竜王となり、竜帝を補佐する任を得た。


イリリアが読んだのは此処までで、随所に人間の非道なおこないへの怨みつらみが記されていたものの、竜人族がどうして天上に至り、どのように国を作ったかを知るには十分役に立った。


「つまりアズハル様は、初代竜帝の血を引いているんですね?」


「そう言われている。竜帝の地位は髪に白を持つ者だけが継ぐ事ができる。一度竜帝の座に就けば、命尽きるまで退位することはない。

だが王位に関しては、望めばいつでも譲位できる。父上もいずれ機を見て、王太子である兄上に王位を譲り、政治の第一線からは退かれることだろう」


複雑な話だが、アズハルの持つ『継承権』は竜帝を継承できる権利であり、初代竜帝の血を引く『白い頭髪を持つ者』であれば自動的に付与されるという。竜帝が崩御した際に最も継承順位の高い者が、次の竜帝となる仕組みだ。


継承権はその時の竜帝の子孫に優先的に与えられることとなるため、王妃の子である第一王子、側女の子である第一王女、そして第二王子であるアズハルと続き、継承権第四位には竜帝の孫にあたる第一王子の嫡子が位置しているという。

第一王子が竜帝を継いだ時点でアズハルの継承権はなくなり、現在四位の子が継承権第一位に繰り上がるそうだ。


昔は象徴として君臨する竜帝と政治的実権を握る竜王を分けていたが、今は基本的に竜帝が竜王としての役目も担う。


アズハルの兄が持つ『王太子』の地位は、竜帝が『いずれこの者に王位を譲渡する意思がある』と示す時に与えられるもので、歴代の竜帝のなかには王太子を定めず死ぬまで政治の主導権を握り続けた者も居るという。



小難しい内容をどうにか処理しようと頭を動かすものの、既に許容量を超えている気がする。

歴史書の更なる続きを解説してくれようとしたアズハルは、不意に言葉を切って扉の方に顔を向けた。

どうしたんだろうと思えば、遅いな…と呟きが落ちる。


「ハイファを呼んで来よう。おそらく食事の支度を忘れている」


そういえば、部屋に戻ってからそれなりの時間が経つものの、誰も訪ねて来ない。


昨日までは目が覚めたらテーブルに食事が置かれているという状況だったし、ルトフたちと別れたあとはアズハルが用意してくれていたから、歴史書の解説がひと通り終わってから準備を始めるのかな…と思っていたけれど、どうやらここでの食事の支度は侍女のお仕事だったようだ。



アズハルに直接指摘された侍女は大急ぎで食事の支度をしてくれた。

これまではあまり気にしてなかったけれど、テーブルに置かれるのは大半がイリリアが食べる用のご飯だ。



「ハイファにしては珍しい失敗だな。花嫁は朝晩の軽食と、昼におやつを摂る。霊草だけで生活できるようになるには十年以上かかるだろう…それまでは、支度を忘れぬよう」


「っ、………申し訳ありませんでした」


深々と頭を下げた侍女が、時間になったら下げに参りますと部屋を出る。

アズハルには見えていないようだったが、イリリアはしっかり気付いてしまった……部屋を出る彼女が、奥歯を噛みしめ憤懣の表情を浮かべていることに。



(これは…相当嫌われた予感がするわ…)



女官に侍女……前門の虎に後門の狼……そして絶え間なく続く耳鳴りと頭痛。



新しい拠点生活があまりにも前途多難すぎて、イリリアは味気ない食事を口にしながら、居心地の良かったカモシカ族の集落へ静かに思いを馳せた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ