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1. 月下の儀



空には月。

薄雲の隙間から差し込む月の光に照らされて、湖の水面が揺れるように煌めく。


その湖の浅瀬に立った少女は、身に纏っていた薄布をはらりと落とした。

水を弾く柔らかな肌が月光に照らされ、幽玄に浮かぶ。

その胸には、青紫色の痣。

五枚の花弁を持つ花のような痣もまた、光を受けて俄かに煌めく。



赤みがかった茶色の瞳で中天の月を見つめた少女は、心のなかで奇跡の来訪を願った。



(……来て。そして私を連れ出して)



ここではないどこかへ。

遥か遠くとも…幸せになれる場所へ。



そんな願いなど、決して叶わないと知りながら。



身を屈めて湖の水を手のひらで掬う。

指先から溢れる澄明な水は、キラキラ、キラキラと煌めいて。

少女はその水を自らの身体に浴びせた。


ひとつ、ふたつと掬っては水をかけ、その身を清めてゆく。

上空に風が出てきたのか、白い大きな雲がまるい月に差し掛かっていた。



(……肌寒くなってきたし、戻ろう)



ここが人里から少し離れた森の中である以上、野生の獣や野党の類がいつ出てもおかしくない。

自然のなかで水場は貴重で、動物も人も集まりやすいものだ。


手早く水浴びを終えて振り向いた少女は、湖畔に見知らぬ男が立っていることに気付いて一瞬だが身を竦ませた。


見慣れぬ高貴な衣装に身を包んだ男が、銀色に輝く真白い髪を靡かせたまま立ち尽くし、こちらを見ている。


少女……イリリアは、昔、絵本で読んだ物語の一場面を思い出していた。


体に花のしるしが浮かんだ少女が、清らかな水の側で月浴びをした。

すると天から使者が現れ、少女のあまりの美しさに恋に落ちるという物語。



イリリアの胸には二日ほど前から痣が浮き始め、今朝見たときにはしっかりと花びらのような形が見てとれた。

もしかして…という期待と、そんなまさか…という疑いを以て、身体を洗うついでに月光を浴びてみたのだが、まさか本当に運命的な出逢いを果たすなんて。



「…………美丈夫が来た」



湖畔に立つ男性は背が高く、身に纏っている衣装の豪奢さからしても高貴な存在であることは間違いない。

顔立ちは驚くほどに美麗で、根本から毛先まで真っ白な髪は風に揺れさらりと靡く。

およそこの世のものとは思えぬ雰囲気を纏った男性は、本当に天から降りてきた使者のように見える。


星の瞬く夜を思わせる紺色の瞳はどこか呆然とイリリアを見つめており、彼は、低く静かな声でイリリアに問いかけた。



「………何故、服を脱いでいるのだ」



「胸に花のアザが浮かびましたので……月光に晒す必要があるんですよね?」



物語にも『痣を月光にあてた』と表記があった。

服を脱ぎ去っているのは水浴びのついでだからでもあるのだが、少しばかりロマンチックな方の理由を口にしてみた。ちなみに下は薄手のズボンを穿いている。さすがに野外で全裸になるつもりはない。



「少し寒くなって来たので上がりますね」


水浴びの前に羽織っていた濡れた薄布で申し訳程度に胸を隠しながら、湖の水をザブザブ掻き分けながら硬直している男性のもとへ向かうと、ハッと意識を取り戻したかのように、身に纏っていた豪奢な上着を慌てて羽織らせてくれた。


厚手の布が水で冷えた身体を温めてくれるが、代わりに上着の内側はびしょ濡れだ。

「良いのですか?」と問いかけると、胸を隠してよいのかと聞かれたのだと勘違いした男性は、頬を赤らめながら視線を斜め上に逸らした。


「私はもうきみの呼びかけに応えてここに至ったのだから、胸は隠しなさい」


「………純情ですか?」


「きみの恥じらいが足りないだけだ…」


呆れて落ち込むような声音に、真面目な人なんだなと判断を下す。

上着は膝下まですっぽり隠してくれる長さで、生地も厚手でしっかりしている。

これならば下を脱いでも透けて見えないだろう。濡れたズボンをいつまでも穿いているのは気持ちが悪いし、そこからまた冷えてしまいそうだ。


目の前に居る男性があまりに人間離れした雰囲気なせいだろうか…恥じらい云々という感情がどうにも湧きにくい。

「濡れたズボンを脱いでもいいですか」と尋ねてみると、余所を向いているから早く服を着直してくれと、耐えるような声で訴えられてしまった。

純情であることは間違いないらしい。



湖畔に着替えの備えはある。

暫し待機時間をいただいて、木陰で用意していた地味な服に着替え直す。

貸してもらった羽織はどうしようと振り返ったところで、天に浮かぶ月を見上げる男性の横顔が目に入った。



(……太陽よりも、月が似合う人だわ)



身に纏う色彩や雰囲気のせいか、彼には月こそが似合うのだと思った。

月と雲、そして星。

その言葉から連想される幻の種族のことを思い出して、イリリアはもう一度男性の横顔をじっと見つめた。


ツノや鱗といった目立った特徴は見られないものの、彼は地上に居るはずのない竜人族で間違いないだろう。遥か高い雲の上に住むという、誰も見たことのない幻の種族。



(私の呼びかけに応えて来たって言ってた…)



あの絵本の物語は本当だったのだろうか。

イリリアは『天から使者が現れて』に続く一節を思い出し、ふと自分を見下ろした。


諸事情により、イリリアの身なりは随分と薄汚れている。

今は、市井にある井戸水ではなく、天然の湖で水浴びしなければならない程に困窮した生活なのだ。

美しさからはほど遠く、残念ながら、天から降りてきた竜人が恋に落ちる要素はひとつもない。


(物語のようにはいかないか…)



落胆というよりも、納得に近い気がする。

現実を目の当たりにしてイリリアが苦笑を溢したタイミングで、湖畔に佇んだまま月を眺めていた男性がこちらを向いた。

イリリアがじっと男性のほうを見ていたことに気づいたようで、目が合ったことで少しばかり狼狽えている。



「着替えを覗こうとしたのではなく、時間がかかっているなと心配になって…」


「お待たせしました。それに、羽織をありがとうございました。内側が濡れてしまったんですけど…」


「すぐに乾く。重いだろうからこちらで貰おう」



差し出された男性の手に羽織を渡す。

確かに水気を含んだ豪奢な上着はずっしりと重く、両腕で抱えているのが精一杯だったのだ。

男性はイリリアの質素な姿に文句を言うこともなく、夜は冷えるのだからもう少し着ていなさいと濡れていない薄手の羽織を掛けようとしてくれる。

ありがたいけれど、衣装を次々と失って寒くはないのだろうか。



「貴方が風邪を引いてしまっては困ります」


「天上はここよりもずっと寒い。むしろ着込みすぎて暑いくらいだから貰ってくれると助かる」


目元を和らげた男性は「遠慮せず」とイリリアの肩に柔らかな薄い羽織を掛けてくれた。

ありがとうございますと礼を告げ、やっぱり普段は天上に住んでいるんだわと頷く。


無言で見つめられたためジッと見つめ返せば、わずかに目元を染めた男性は、躊躇いがちに「頼みがあるのだが…」と口を開いた。



「すまないが、花印(かいん)を見せてもらえるだろうか」


「かいん……花のアザのことですね?どうぞ…!」


胸元をガバッと勢いよく開いたイリリアに、男性は「待て!」と慌てて制止する。


「全部剥かなくていいから、しるしのところだけで頼む!」


胸を直視しないようにしているのか、目は固く閉じられ、顔は完全に背けられている。

目の前の美丈夫が純情であることをすっかり失念していたイリリアは、勢いのままブリンッと飛び出した胸をそっと服の内側へ収納する。

そして必要以上に肌を晒さないよう気をつけながら、控えめに服の合わせを開いた。


花の痣は左胸の柔らかな部分に一輪咲き開いている。

おそるおそる目を開いて痣を視認した男性は、喜びを滲ませながら夜空を思わせる濃紺の瞳をキラキラと煌めかせた。



「間違いなく本物だ……貴女の名前を教えてもらえるだろうか」


「イリリアと言います」


「イリリア…良き名だ。私はアズハル、天上に棲む竜人族である。その花印は、貴女が私の花嫁であることを示している」



アズハルと名乗った美丈夫からの申し出に、なんということ…!とイリリアは吃驚した。

天から美丈夫が降臨したものの、さすがに物語のようにはいかず見た目で篩い落とされると思っていたのに……花の痣こそが花嫁の証だったとは。


(恋とか少女の美しさとか、全く関係なかったのね…)


まさかこんなボロい格好の自分に花嫁の称号が与えられるとは思わなかった。

しかも嫌々といった様子でもなく、目の前の男性はとても柔らかな表情を浮かべている。

まるで、イリリアと出逢えたことを心底喜んでいるかのようだ。



「私は…貴方と結婚するのですか?」


「ああ。共に生きよう」



はにかむように告げられた言葉に、イリリアは思わず頷いていた。

それを肯定と見做したのか、アズハルと名乗った男性は破顔し一層に瞳を煌めかせる。



(えっと……こんなに喜んでくれるんだ…)



正直まだ戸惑う気持ちはあるものの、こんなにも喜ばれて嫌な気持ちはしない。

だが、竜人族と人間との婚姻は果たして本当にうまくいくのだろうか。

「共に」と言われたところで、一体どこで、どうやって生きていくと言うのか。


イリリアがぐるぐると考えを巡らせていると、純情な男性は再び気恥ずかしそうに口を開いた。


「その……場所が場所なだけに頼みづらいのだが……花印に口付けてもいいだろうか」


それはつまり、胸元にキスしても良いか聞かれたということで。

純情そうに見えて意外と手が早いのかな?と思いながら、まあ既に一度、上半身丸裸な姿も見られているし、いいかと潔く頷く。

服に手をかけて「もう少し剥きます?」というジェスチャーをすれば、「剥かなくていい」と首を横に振られる。

どうやら下心から口付けたいと言っているわけではないらしい。

口付けやすいように「どうぞ」と胸を張れば、少し困ったように微笑まれてしまった。


男性が身を屈めると、白銀の髪がさらりと揺れて流れる。

月の光が腰までの長い髪を透かすように照らし、その神々しさに、神聖なるものに我が身を差し出しているような心地になる。


冷たくも柔らかな唇が花に触れる。

祈るようなわずかな時間のあと唇を離して身を起こした男性は、透明な笑顔で微笑んだ。

長らくの望みが叶えられたかのような、欠けていたものをようやく埋めたかのような、心からの安堵に満ちた表情。

夜色の澄明な瞳を向けられてイリリアの心臓はどきりと跳ねた。



「何か……肉体的な変化は感じられるだろうか」


「変化………なんだか、背中が痒いです」


「痒い?」


思ったような変化でなかったのか首を傾げられてしまったが、先ほどから背中にヒリリとした痛痒さがあるのだ。胸の痣の周囲も熱をもったような感覚がある。


ひとこと断りを入れてイリリアの背中を覗き見た男性は、ハッとしたように息を呑んだ。


「これは……」



そのまま言葉なく見入っているようだが、イリリアからすれば、何がどうなっているのか説明して欲しいところだ。

「あのぉ」と声を掛けると、言葉なく魅入ってしまったことを恥じるように、慌てて背中側の服を戻された。



「花印が…背中いっぱいに広がっている」


「それは凄そうですね」


「ああ……凄く、美しい」



肩甲骨の下から腰の上部にかけて、花畑のように紫色の花が咲き開いているという。

自分の背中に花畑がある様子を想像してみる。花の密度にもよるが、なかなか凄い光景なのではないだろうか。

「気味が悪い」ではなく「美しい」と評価されたことに胸を撫で下ろしつつ、花の痣は胸元に一輪咲いているだけだったよね……と左胸を覗き込んで、ちょっとばかり驚いた。


「胸の痣も増えてます…」


「なに!?…あ、いや、見せてくれというつもりでは…」


「どうぞ」とペロンと胸元を捲って見せると、男性はウロウロと視線を彷徨わせたあと観念したようにイリリアの胸の痣に注視した。


一輪だけだった紫の花の左右に、小ぶりだが同じ形の花が一輪ずつ増え、三連花の痣になっている。


しばらく言葉を失ってその花に見入っていた男性だったが、見つめているのが女の胸だと思い出したのか軽く咳払いをしながら視線を逸らした。



「口付けのせいでしょうか」


「そうかもしれない…先ほどの口付けは儀式のようなもの。花印の変化は、私とイリリアが深いところで結ばれ繋がったという証…」


「増えたのは喜ばしいことですけど、全身花まみれにならなくて良かったです」


「花まみれ……まあ、そうだな。だが、体が重くなったとか花印が暫くのあいだ熱を帯びたという変化は記録に残っているものの、このように増えたというのは初めての事だ」



珍しいことなのね…と思って頷くと、労わるような視線が向けられ「痒い以外に苦痛などは無いか?」と確認してくれる。

増殖が終わったのか背中の痒みも落ち着いたし、胸元はちょっとじんわり温かさが残っているものの、不快感はない。

痛みはないと首を横に振ると、男性はホッと息をついた。



「さて……これからきみを花嫁として我が故郷に迎え入れるための支度を始めなければならない。急なことだが、親や友人らと別れの挨拶をしてもらいたい。事情を説明する為に私も同行しよう」



男性の申し出に、イリリアは再び首を横に振った。

「別れの挨拶は必要ない」と告げると、怪訝そうな顔をされる。



「事情があって家を飛び出している身なんです。もう二度と戻らないというか、戻ったら兄の背負った借金のカタに変なオジさんの元へ売られるというか……そういうわけで、挨拶なしで大丈夫です。どこか遠いところへ連れ出してくれるなら、むしろ有難いばかりです」


ちなみに今は野宿続きの逃亡生活だ。

家を飛び出してまだ数日程度だが、既に携帯食糧は尽きてしまった。


実家は借金を抱えているし、金が足りないせいで追っ手を雇うような事はしていないようだが、近隣の住民たちに「娘が反抗して家出した。見つけたら無理やりにでも連れ戻して欲しい」とは言って回っているようで、一度街道で出会った顔見知りに「早く家に戻りなさい」と声を掛けられてしまった。

おかげでそれ以降街道を使うことが出来ず人里離れた森の中を逃げ歩くはめになっているし、うっかり目撃されないよう必死に隠れながらじりじりと故郷から遠ざかっているところだ。

馬などの移動手段があればまだしも、徒歩では限りがある。

当然、野党などの怖い人たちからも見つからないよう身を隠しながら移動するため、移動速度は亀。

もう少し離れれば乗り合い馬車などに乗って距離を稼げるが、いかにも訳ありですという格好の若い女がひとりで馬車に乗り込めば悪目立ちするばかりだろう。



イリリアの説明をひと通り聞き終えた男性は静かに頷いた。

その顔に侮蔑するような色はないが、凪いだ表情からは感情が読めなくて逆に怖い。



「………イリリアの実家がどの辺りか教えてくれるか?」


「え?今説明した通りの事情なので、行かなくていいんですよ?お金の支援とかもしなくて良いんですからね?」


どれだけ言い募っても頑固にイリリアの実家の場所を聞き出そうとする男性に、ちょっと怖いな…と思いつつ、地面に木の棒でおおまかな地図を描いて説明する。

ここ数日、必死に逃げ隠れしながら歩いたつもりだが、地図として描き出すとまださほど離れていないという現実を知り悲しくなる。


地図を確認した男性は再び静かに頷くと、おもむろに、グッと全身に力を込めた。目がギラリと鈍く光り、眉間に深い皺が刻まれている。

え?なにごと…?と、男性の突然の変容に恐ろしくなって半歩下がったところで、急に辺りが暗くなった。

慌てて空を見上げると、月を覆い隠す分厚い暗雲が天を覆っている。

雲の向こうからゴロゴロと不穏な雷鳴が轟いたかと思うと、ピシャ!と鋭い音と光が走った。

一歩遅れるように、ゴォォンと大地を揺るがす轟音と衝撃が辺りを包む。


(え?え?雷が…落ち…た??)


雷鳴を追うようにどしゃ降りの雨が落ち始め、男性は少し焦ったようにイリリアに分厚いほうの羽織を頭から被せると、大木の陰へと導いてくれる。


すぐに止むという言葉を肯定するように、雨はひとしきり降り注ぐと満足したかのようにぴたりと止んだ。暗雲が裂け、その隙間から月が顔を覗かせる。


月光に照らされた男性の顔は人間離れした美しさで彩られている。


イリリアはふと、いつかどこかで読んだ図鑑の説明文を思い出した。

竜人族とは、天上に住む幻の種族。

雲を掴んで移動し、風と雷を操り、霞を食べて生きるという伝説級の生き物。



(これが…竜人族……)



まるで、神様のよう。


イリリアの視線に気付いたのか、男性はこちらを安心させるように頷いた。


「ちょうど良い雷雲があったから、きみの家の近辺に動かしておいた。直撃したかはわからないが、ある程度の被害は出ているだろう。これで完全に追手を差し向ける余裕などなくなるはず。……イリリア、きみは晴れて自由の身だ」


「わぁ……アリガトウゴザイマス…」


微笑みと共に告げられた言葉に、お礼以外の何が言えようか。


やがて落雷など嘘だったかのように雲が晴れ、素知らぬ顔で月が輝く。



「行こうか」と差し出された手を取る。

どこに連れて行かれるのだとしても、此処よりは救いであるはずだと信じながら、イリリアは胸の中で竜人の花嫁となる決意を固めた。






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