悩める怒り1
リグランの村に戻ったとき、空気は思った以上に冷たかった。
気温の話ではない。
空は晴れていて、雲もなく。陽光も降り注いでいた。
なのに、村の中に差し込む光は、どこか色褪せて見えた。
タクマは、村の通りを歩きながら、無言の視線を感じていた。
開かれた窓が、彼の姿を確認した瞬間に閉じられる。
門扉が、軋みを立てて内側からかたく閉ざされる。
話し声は消え、子どもの遊ぶ姿も、なくなる。
(歓迎されてないのは……知ってた)
それでも、これほどまでにあからさまな“壁”を突きつけられると、
胸の奥が、ざらつくように軋んだ。
◇ ◇ ◇
「……ねぇ、ちょっと、あれ見て」
リシェルの視線の先――家の前で箒を持っていた老女が、
タクマの姿に気づいた途端、吐き捨てるように言った。
「また来た……!」
その声に、近くの家々でも“動き”が起きる。
窓が閉まり、ドアが施錠される音が響いた。
リシェルが眉を寄せる。
「何これ……まるで“疫病の運び手”みたいな扱いじゃない」
「……俺が、“怒った”から、だな」
タクマはぽつりと言った。
「スキルで、魔物を倒した。
だけどそれが、ここの人たちには“爆発的な何か”に見えたんだろう」
セレナが、淡々と口を挟んだ。
「視覚的影響と魔力波の急上昇は、一般人に強い恐怖心を与えます。
感情系スキルは“理解できない力”として、恐れられる傾向が高い」
「なるほど、数字で説明されたら納得しかけたわ」
リシェルが皮肉めいた口調で言うが、セレナは応えない。
◇ ◇ ◇
そのとき――
とある家のドアが、半分だけ開いた。
中から顔をのぞかせたのは、初老の男だった。
ギルドの雑用係として見かけたことがある。
「……あの、すまない。あんたたちに悪気はないのは分かってる」
彼は、おそるおそる言った。
「でも、どうしても……“あの時”の光景が頭に焼きついてるんだ。
魔物が吹き飛ばされて、爆発のように煙が上がって……」
「怖かったんですね」
セレナが、静かに言った。
その言葉に、男は目を伏せた。
「怖かった。……自分の隣で、何か得体の知れないことが起きるのが、こんなにも怖いとは思わなかった」
その言葉を、タクマはじっと聞いていた。
怒りは――湧いてこなかった。
責めたいとも、反論したいとも思わなかった。
ただ――
(なんで……こんなに、胸が苦しいんだ)
怒っていないのに、息が詰まる。
怒りを出す余地すらないほどの、“拒絶の空気”。
感情に蓋をされたような、どこにも吐き出せない思いが渦巻いていた。
◇ ◇ ◇
そしてその日の午後。
日が傾き始めた頃、タクマは一人、村の裏手の小道を歩いていた。
人目を避けるようにして歩いていたわけではない。
ただ、ギルドから少し離れた空き地に足が向いていた。
そこには、古びた井戸と、苔むした石垣がある。
村の子どもたちが、時折遊びに来ていた場所だ。
そして――いた。
井戸の縁に腰かけ、膝を抱えていた小さな影。
あの時、ギルドでタクマを見て怯えていた少年だった。
少年も、タクマに気づいた。
だが、逃げなかった。
タクマはゆっくりと距離を詰め、数歩離れた位置にしゃがみ込んだ。
「……よう」
「……」
少年は答えなかった。
ただ、少しだけ、顔を上げた。
その頬には、まだ薄く赤い跡が残っていた。
(……泣いた跡だ)
タクマは、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「おれ……あの時……」
少年がぽつりと口を開いた。
「こわかった……すごく……
でも、おじさんが魔物をやっつけたの、わかってた……
助けてくれたのも、わかってたのに……」
そこまで言って、また黙る。
「……なあ」
タクマが静かに言った。
「俺は、怒ってない。お前が怖がったことに、怒ったりなんかしてないよ」
「……うん。でも……それが、よけいに、こわかった」
その言葉に、タクマは少しだけ、視線を落とした。
怒っていない。
だけど、それでも怖いと感じさせる“何か”が、自分にある。
(……社長だったころも、あったな、こういうの)
部下に怒ってないのに、怒ってると思われて、距離を置かれた日々。
声を荒げなくても、視線を鋭くしなくても、
“存在そのもの”に圧があると言われたことがあった。
(また、同じなのか)
あの時と同じ、“誤解される力”を、また抱えてしまった。
少年が、小さな声で言った。
「ごめんなさい……こわいって思って、ごめんなさい……」
その言葉に、タクマは苦笑した。
「俺の方こそ、ごめんな。……怖がらせたのは、こっちだ」
しばらく、ふたりは沈黙していた。
風が吹き抜け、木々がざわりと鳴る。
と、その背後で。
「……やさしい人ほど、怒りが苦手よね」
ふと、リシェルの声が届いた。
いつの間にか、近くの石段に腰かけていた。
「でもね、タクマ。
本当の“やさしさ”って、時には怒ることなのよ。
相手のために、本気で怒ること」
「……でも、今回ばかりは、怒れなかった」
「知ってる。でも、怒れなかったからこそ、あなたの中に“痛み”が残ってる。
それが、あなたがちゃんと“人”だって証拠よ」
少年が、そっと顔を上げた。
そして――ほんの少しだけ、微笑んだ。