怒りの影2
「次からは、スキル発動の意図がある場合、必ず事前に宣言してください」
斑影獣を退け、周囲の安全を確認した後。
セレナが無機質な声で告げた。
その言葉に、リシェルの眉がピクリと動いた。
「今のは発動してないわよ? それに、事前に宣言できるような場面じゃなかった」
「“結果的に”未発動であっても、兆候があった時点で事前報告は義務です。
それが、観測対象者に課されるルール」
「ルール、ね。そんなもの、誰が決めたの?」
「神殿です。
感情スキル保持者における発動予測率と抑制傾向に基づいた、実地管理の規定」
「……あなた、あの場で止めようとしてたでしょ」
リシェルの声に棘が含まれる。
タクマは、ふたりの間に流れる温度差をはっきりと感じ取っていた。
セレナは動いていた――確かに、わずかに前へ出ていた。
もし彼が、もう少し拳を握っていたら。
彼女は、“止めに入っていた”のだろう。
タクマが口を開いた。
「……あんた、本気で“止める”つもりだったのか?」
「当然です。怒炎変換の発動は、戦闘規模と関係なく、周囲の魔力波を不安定化させる。
環境破壊、誤爆、対象誤認……リスクが高すぎる」
「……それでも、力を使わなきゃ守れないこともある」
タクマの言葉に、セレナはわずかに視線を揺らした。
しかし、答えは機械的だった。
「そのためにこそ、感情は制御されるべきです。
怒りは動機にはなれても、根拠にはなれません」
「でも私は、あの時の彼の判断を“正しかった”と思ってる」
リシェルが静かに割って入った。
「あなたの言う“リスク”も分かる。
けど、それを“見る前から封じる”やり方じゃ、誰も救えない」
セレナは一歩、前に出る。
その銀の瞳が、まっすぐリシェルを見た。
「私は、“救う”ためにここにいるわけではありません。
私は、“観測する”ためにいるのです」
その言葉に、リシェルは言い返さなかった。
けれど、ほんの一瞬――
タカクラ タクマの背中に、そっと手を添えた。
その手の温度が、すべてを語っていた。
焚き火の音だけが、夜の静寂に微かに響いていた。
三人は旧山道の分岐に小さな野営を張り、輪を囲んでいた。
依頼は無事達成、明朝には村へ戻る予定だ。
リシェルは既に寝袋に入っている。
彼女は「先に休むね」とだけ言って、何も詮索しなかった。
タクマとセレナだけが、火を見つめている。
しばらくは、どちらも一言も発さなかった。
だが、火がぱちりと弾けたその瞬間――
「……あんたさ」
タカクラ タクマが口を開いた。
「さっきの戦闘で、もし俺が本当にスキルを使ってたら……止めてた?」
セレナは少しだけ視線を上げた。
「はい。可能な限りの方法で制止したと思います」
「力づくでも?」
「場合によっては」
「……そっか」
タクマは苦笑した。
けれど、その顔に怒りはなかった。
「でもあんた、結局止めなかったな。俺が止まるって、信じたのか?」
セレナは答えなかった。
代わりに、火をじっと見つめたまま言った。
「……私の中で、“迷い”は許されない。
でも、今日、ほんの少しだけ……“確信”できなかった」
それは、初めて聞いた――彼女の“自己開示”だった。
「俺は、怒るよ。これからも、何度も」
「……」
「でも、怒りで何かを壊したくはない。
それだけは、絶対に忘れないようにする」
「――記録します」
セレナが、ポケットから小さな記録帳を取り出した。
そしてページを開き、何かを記す。
「怒りは、破壊の衝動ではない。
怒りは、“守りたい”という感情の延長に存在しうる」
それを書いたあと、セレナはページを閉じた。
「これは、私個人の“解釈”として記すもの。神殿への正式報告には含めません」
タクマは笑った。
「……あんた、意外と優しいのか?」
「……判断しかしていないだけです」
焚き火がぱちりと音を立てる。
そして、風が吹いた。
その風の中――
誰も気づかない“微かな匂い”が、木々の間をすり抜けていった。
焦げた草のにおい。
焼け焦げた魔石の粉のような、ざらついた感触。
それは、“感情に引かれる魔物”ではなかった。
もっと深く、もっと異質で――
まるで、人の負の感情が“魔”を孕んだような気配。
遠く離れた森の奥で、何かが“目覚めかけて”いた。