聖女と火の男2
その少女は、音もなく立っていた。
ギルドの受付前――
まるで、空気そのものが彼女を避けて流れているかのように、
誰一人として半径数歩以内に近づこうとはしていなかった。
リシェルが、足を止める。
「……神殿の服?」
白のローブ。その肩に織り込まれた金糸の紋章は、王都神殿の高位識別印。
その情報が頭に入ってくるよりも早く、タクマは少女の視線を“感じて”いた。
冷たい。
けれど、感情的な冷たさではない。
それはまるで、無機質な“観測装置”に自分をスキャンされているような錯覚だった。
少女は、口を開いた。
「――タカクラタクマ。昨日、リグラン北部森林地帯において、感情スキル《怒炎変換》を発動したと確認されました」
その声は、硬質で、均一な抑揚。
人と話すのではなく、書かれた文章を読み上げるかのようだった。
「本件をもって、あなたは神殿指定“感情系スキル観測対象”に登録されます。以後、当機関より派遣された観測者が同行し、記録を行います」
「……は?」
タクマの脳が、ようやく反応した。
遅れてリシェルが一歩前に出る。
「ちょっと待って。あんた、神殿の者なのは分かるけど――“同行”? 監視ってこと?」
「はい。正確には“観測”です。命令ではありません。ただし、対象者が感情スキルを使用した場合、観測者が記録・介入・制止を行う権限を持ちます」
「記録と……制止?」
タクマの眉がわずかに動く。
その言葉は、まるで。
(俺が、何か“危険なもの”として扱われてる……)
少女はその反応に頷くでもなく、否定するでもなく、ただ淡々と名乗った。
「セレナ・エルフォルト。王都神殿所属、感情監察官階位《静眼》。
……以後、観測を継続します」
『セレナってあの…聖女のか…?』
その場の空気が、完全に凍りついた。
ギルドの受付嬢が何か言いかけたが、喉元で言葉が詰まり、ただ一礼してその場を離れていった。
周囲の冒険者たちは、声を潜めながら徐々に遠巻きに離れていく。
タクマは、静かに息を吸い込んだ。
怒りはなかった。
だが、疑問が、胸の奥でぐらぐらと煮え立っていた。
「……なあ。俺は、お前にとって“何”なんだ?」
セレナは、まっすぐに言った。
「危険性のある“感情”の器です」
セレナの言葉は、まるで刃のようだった。
刃なのに、切れ味がない。
鋭いのに、血が出ない。
ただ淡々と“対象”を切り分ける、論理と命令の刃。
リシェルは、はっきりと眉をひそめた。
「……ねぇ、それ、あなたの本心?」
「私の個人的感情は、観測業務に影響を及ぼしません」
「そう。じゃあ、“人”じゃなくて“装置”として私たちを見てるってことね」
セレナは、反論しなかった。
その態度が、リシェルの中の何かを強く揺らした。
「怒りはね、確かに危うい。
でもそれは、人が誰かを想って動く“はじまり”でもあるのよ。
それを、最初から“制御されるもの”って決めつけるの?」
「感情は暴走する可能性があります。特に、スキルと結びついた感情は」
「……あなた自身も、そうなの?」
静かな一言だった。
リシェルの目が、セレナの目を捉える。
そして一瞬――その瞳の奥に、ほんのかすかに揺れる“戸惑い”の色が見えた気がした。
「……感情遮断」
「え?」
セレナは告げた。
「私のスキル。正確には、《感情遮断》。
自身の感情を一定の閾値で切り離し、安定した判断を維持するための補助技能です」
タクマが、息をのんだ。
「感情を、……切ってるのか?」
「はい。そうすることで私は“歪まずに見られる”。
怒りや悲しみ、恐れに引きずられず、感情の本質を……ただ、記録できる」
◇ ◇ ◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
風が吹き抜ける。
ギルドの木戸がきぃ、と軋む音が、やけに大きく響いた。
「……あなたも、感情に怯えてるのね」
リシェルの声が、ふわりと落ちた。
「でも、それを拒絶するだけじゃ、人と向き合えないわ。
タクマは怒りを抱えてる。
けれどそれは“誰かのために怒れる”ってことよ。
私には、それが“怖いもの”には見えなかった
セレナは微動だにしない。
ただ、わずかにまつげが揺れた。
「私の役目は、感情に意味を与えることではありません。
“記録”し、“報告”するだけです」
「それで……“彼”を救えるの?」
その問いに、セレナは答えなかった。
リシェルの言葉が静かに落ちたあと、
場にしばしの沈黙が流れた。
タクマは視線を落としたまま、自分の手を見つめていた。
拳ではない。指の節々。手のひらの皺。
昨日の戦いで出来た、細かな傷の痕。
(この手が……誰かに“怖い”って思われた)
その事実は、確かに苦しかった。
けれど。
(でも……それでも、あの時、俺は……)
“怒った”。
理由はただ一つ。
誰かを、守りたかったからだ。
ゆっくりと顔を上げる。
そして――タクマは、セレナをまっすぐに見た。
「俺は、あんたのやり方を否定しない。
誰かが“記録”して、誰かが“見張る”ってのは、たぶん必要なんだろうしな」
セレナは瞬きひとつせず、黙って聞いていた。
「でも、俺は俺で……自分の力が“間違ってない”って、ちゃんと証明していきたい」
その目には、静かな光が宿っていた。
「だから……一緒に来るなら来いよ。“観測”でも何でもいい。
でも、その目で、俺の怒りが何のためにあるのか……見届けろ」
その一言に、場の空気が、ほんのわずかだけ変わった。
リシェルは隣で小さく笑った。
「やれやれ……ほんと、火種みたいな男ね。
いいわ、私もついていく。
怒って、ぶつかって、それでも前に進む人間を見るの、嫌いじゃないし」
セレナは少しだけ俯き、口を閉じたまま頷いた。
その仕草に、ほんのわずかな“人間らしさ”が宿っていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
村の外れ、枯れ井戸の近くに、セレナは一人座っていた。
手には、神殿から支給された記録帳。
そのページに、“対象:タカクラタクマ”の文字が記される。
その筆が止まる。
(怒りで動いた拳。怒りで誰かを守った背中。
けれどそれは、本当に“理から逸れたもの”だっただろうか)
ページの余白に、セレナは初めて“観測とは関係のない”一文を記した。
「タカクラタクマ――怒りの中に、理由があった」
風が吹いた。
その記録帳の端がめくれた瞬間、
彼女の表情が、ほんのわずかだけ“寂しげ”に揺れた。