聖女と火の男1
朝の空気は、静かで、そして少し冷たかった。
木製の窓を開けると、朝靄に濡れた屋根瓦と、鳥のさえずりが風に混じって流れてくる。
リグランの村――昨日、怒りで拳を燃やした日から、一夜明けた世界。
タクマは窓辺に肘をつき、村の通りを眺めていた。
行き交う村人たちの姿は、どこか慎重で、互いに距離を測るような歩き方をしていた。
(……昨日のこと、まだ残ってるな)
ギルドでのざわめき、
子どもから向けられた怯えの目、
老婆の無言の拒絶。
ひと晩経っても、タクマの胸には妙な鈍痛として残っていた。
だが、同時に思い出すのは――
リシェルの言葉。
「私は、あなたを“見たい”と思ったの。
怒りが、どこまで届くのか。それを、あなたがどう使っていくのか」
その声だけは、不思議と明るく、柔らかく残っていた。
◇ ◇ ◇
「おはよう。よく眠れた?」
背後から声がした。
振り向くと、リシェルが湯気の立つマグカップを両手で持ち、微笑んでいた。
「まあ、ぼちぼち。なんか……いろいろ考えてた」
「当然よ。昨日あんな風に注目されて、怖くないわけないでしょ」
「……正直、怖いよりも、モヤモヤの方がでかいかも」
タクマはそう言いながら、マグを受け取る。
温かさが掌に染み込む。
「でも“誰かのために怒れた”ってこと。あれだけは、間違いじゃなかったと思う」
「なら、それを今日も証明すればいいのよ」
「証明?」
「力をどう使うかは、結局“行動”で見せるしかない。
あんたが何も壊さず、誰かを助けるなら、それだけで十分じゃない」
◇ ◇ ◇
朝食を済ませたあと、二人はギルド支部へ向かう。
今日は“村の雑務依頼”がいくつか出ているはずだとリシェルが言った。
「……あんたの力、昨日みたいに燃やす必要はない。
“何も起こさない一日”ってのも、価値ある仕事よ」
「なるほど。“怒らない勇気”ってやつか」
「うん、まさにアンガーマネジメントってやつ」
冗談めかして言ったリシェルに、タクマは笑う。
「……そんな単語、この世界にないだろ」
「ないけど、あんたの世界にはあるんでしょ?」
「……ああ、あるよ。めちゃくちゃ勉強したし、仕事にも使ってた」
「へえ、あんたの元の職業、気になるな。あとで聞かせて」
そう言って先を歩くリシェルの背中を見ながら、
タクマはほんの少しだけ、笑った。
タクマとリシェルが受けたのは、ごく簡単な依頼だった。
村の北にある農家から、ギルドの倉庫へ作物を運ぶ荷車の護衛。
荷車といっても、ロバが引く小さな木製の台車で、内容物はじゃがいもと乾燥穀物が中心。
護衛といっても魔物が出るような危険なルートではない。
ただ、荷車の軋みやロバの足取りを見ながら、村道を歩くだけだった。
「……これ、俺いなくてもよくね?」
タクマが苦笑する。
「まあね。でも、それでも“仕事をする”ってことが大事なのよ。
ギルドの登録者が何もしないでぶらぶらしてると、それだけで目をつけられるから」
「信用ってのは、働いて初めて得られるもんだってか」
「そ。これは“実績作り”ってやつね」
その言葉に、タクマは少しだけ口元を緩めた。
「……前の世界でも同じだったな。
人に信じてもらいたいなら、黙って働くのが一番早かった」
「へえ、やっぱり社長とか?」
「……なんで分かった」
「勘。あと喋り方がちょっと“管理職”っぽい」
リシェルが笑う。
タクマは肩をすくめた。
「元社長、だった。でも、まあこっちじゃただの新人冒険者だよ」
「じゃあ、その経験、少しはこっちでも使ってもらわないと」
◇ ◇ ◇
村道を歩く中、ちらほらと村人たちの視線があった。
昨日までと違い、すぐに目を逸らす者ばかりではなかった。
それはリシェルの保証があるからなのか、
それとも“何もしていない”ことが信用のひとつになったのか。
だが、ふとタクマは気づいた。
子どもたちの目線だけは――昨日よりも少しだけ近かった。
遠巻きに見るだけだった視線が、今日は数メートルの距離まで来ていた。
誰も話しかけない。
誰も笑わない。
でも、逃げもしない。
(……悪くない)
そんな静かな一歩が、心に染みた。
ギルドへの納品を終えたあと、リシェルがぽつりと呟いた。
「なにげない日でも、前に進めるのよ。ちゃんとね」
タクマは頷いた。
「……ああ。今日だけで、少し変わった気がする」
だがその帰路。
ギルドの扉を開けたその瞬間――空気が変わった。
受付前に、見慣れない姿が立っていた。
白の神官衣。銀の髪。表情のない少女。
そして、その瞳は――タクマだけを、見ていた。