叫ばれなかった名前2
少女の感情が呼んだ魔性は、もはや“攻撃”という形では動かない。
ただ、そばに寄ろうとする者すべてを――拒絶していた。
その拒絶は強く、激しい。
けれどそれは、“怒り”ではなかった。
まるで、ひたすらに「近づかないで」と泣いているようだった。
霧が濃くなる。
空気が澱み、気配が刺さるようになる。
だが、タクマの拳は上がらなかった。
(怒りじゃない……だから、力にできない)
リシェルは距離を保ち、周囲の魔力の流れを解析していた。
「変化が起きてる……この魔性、中心が“固定されていない”わ。
まるで“少女の感情そのもの”が核になってるみたい」
タクマは、その言葉に息を呑む。
「……じゃあ、あれは“彼女自身”ってことか?」
「少なくとも、彼女の中にある“言えなかった感情”が形になってるのは間違いない」
その時、静かに――セレナが前に出た。
目を閉じ、両手を胸の前に組み、深く息を吐く。
「私が、行きます」
タクマが振り返る。
「待て、セレナ。お前のスキルは……」
彼女は、うっすらと微笑んだ。
「“感情遮断”。だからこそ、近づけるかもしれません」
そう言って歩き出したセレナの足取りは、驚くほど静かだった。
だが、彼女の心は――決して静かではなかった。
(どうして、私は……この子の気持ちがわからないの?)
目の前にいる少女の顔も、声も、想いも。
感じようとしても、“遮断”される。
スキルが、自動的に“共感”を弾く。
でも。
それでも彼女は、手を伸ばす。
感情が“理解できなくても”、
“理解しようとする意志”は、決して奪われないはずだと信じて。
一歩、また一歩と近づく。
魔性の仮面が、ぴくりと動いた。
だが、攻撃はない。
セレナの“静けさ”が、霧のざわめきを鎮めていた。
そして、彼女は少女のそばに膝をついた。
見えない魔性が、すぐそこにいた。
けれど、少女の肩が震えたその瞬間。
セレナは、そっと言った。
「……私は、あなたの気持ちがわからない。
悲しいって、辛いって、叫びたいって……
本当は、全然、わかってあげられないの」
少女の瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
「だけど、わからないからって、離れたくない。
だから今だけ、“わからなくても、そばにいていい?”」
その言葉は、魔性に向けられたものではなかった。
ただ、ひとりの人間として――少女に捧げられた“問い”だった。
そして。
少女は、小さく――ほんのわずかに、うなずいた。
次の瞬間、魔性の仮面にヒビが入った。
崩壊の音はなかった。
爆発もなかった。
ただ、霧がふっと揺れて、
静かに――“悲しみが、形を手放した”。
それは、救いだった。
霧が、静かに晴れていく。
重たく、澱んでいた空気が――ゆるやかに風に溶けていった。
仮面の魔性は、もういない。
けれど、少女はまだ――小さく肩を震わせていた。
セレナはそっと、彼女の背に手を置いていた。
遮断スキルは、まだ働いている。
それでも、“この感覚”は届いていると信じたかった。
タクマが近づいてきた。
拳は下ろされたままだ。
「……怒れなかった」
ぽつりと呟いた声に、セレナが静かに応える。
「怒る必要はなかった。
あなたが踏み出してくれたから、私は行けた」
タクマは少女の顔を見た。
彼女はようやく、ほんのわずかに顔を上げた。
小さな唇が、かすかに動いた。
「……わ、たし……名前……あるの……」
声はまだかすれていた。
けれど、その言葉には――確かに“命”があった。
セレナが膝をつき、そっと尋ねる。
「あなたの名前は?」
少女は、しばらく迷っていた。
でも、時間をかけて、思い出すように呟いた。
「……ミレア……って……お兄ちゃんが、呼んでくれた……」
その名前を、セレナもタクマも、ただ黙って受け止めた。
「ミレア……いい名前だ」
タクマが、そう言った。
その言葉に、少女――ミレアは、小さく泣きながら、うなずいた。
自分の名前を、もう一度呼んでもらえたことが――
彼女を、生きる側へと引き戻していく。
しばらくの静寂のあと。
リシェルが小さく息を吐いて、言った。
「今回は……“言葉”が、あいつを壊したのね」
セレナは、手のひらを見つめながら呟く。
「遮断されていても……思いは届く。
たとえ、触れられなくても」
タクマは空を見上げた。
そこには、月が浮かんでいた。
青白く、けれどあたたかく。
「怒りだけじゃないんだな。
誰かを助ける方法は、もっとある……そう思えたよ」
拳を開く。
何も宿していない手のひらに――けれど確かな、“感情”があった。
それは、優しさかもしれない。
共感かもしれない。
けれど何より、**“この世界に生きようとする意思”**だった。
ミレアが静かに、セレナの手を取った。
そのぬくもりは、スキルでは遮断されなかった。
夜は、ようやく明け始めていた。




