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叫ばれなかった名前1

 その夜、少女は夢を見ていた。


 とても、あたたかい夢だった。


 草原の上で、母の歌声が風に乗っていた。

 兄が「こんな技覚えたんだ」と剣を振り、

 父は笑って、それを見守っていた。

 焚き火のそば、何もないけど――“全部ある”ような気がした。


「お前の名前は、きっと誰かを救うよ」


 兄が言った。


 そう、名前を呼んでくれた。

 何度も。何度でも。


 けれどその夜の終わり、

 夢の中で――全てが霧に飲まれた。


「ごめん。置いていくしかないんだ」

「黙ってろ」

「声を出すな」

「……お前にできることなんて、何もないんだから」


 その言葉だけが残り、名前は――呼ばれなかった。

 思い出せない。

 あのあたたかさも、火のぬくもりも、兄の声も。

 全部、失くした。


 少女は、目を覚ました。


 灰の区の隅。

 屋根も床も壊れかけた廃屋の中。

 誰も来ない場所。


 膝を抱え、震えながら、声もなく泣いていた。


「……いなくなっちゃった……」


 かすれた声は、誰にも届かない。


 どこにもいない。

 帰る場所も、待つ人も、言葉をかけてくれる人も。


 ただ、名もない“空席者の少女”がひとり。


 その涙が、ひとしずく――

 床に、落ちた。


 ぽつん。


 その瞬間、空気が変わった。

 重く、澱んだ霧が、どこからともなく這い寄ってくる。


 そして。


 少女の目の前に――“仮面”が、現れた。

 黒く、のっぺりとしたそれは、目も口もない。

 だが、確かに**“こちらを見ている”**。


 少女の中にある“何か”が、引かれるように反応する。


 名を呼ばれなかった悲しみ。

 名前のない声。

 言葉にならなかった願い。


 そのすべてが、“仮面の魔性”を形づくっていく。

 それは、怒りではなかった。

 誰かを恨むでもなく、破壊を求めるでもなく。

 ただ、そこに在るだけだった。

 誰にも気づかれずに、消えてしまう“感情の亡骸”。


 でも、その影が膨れた時――

 遠くで、誰かが動いた。





「セレナ、来てくれ。何か、起きてる」

 タクマの声。

 怒りの気配ではない。

 けれど、彼の胸の中に、確かに火種が灯る音がした。


 “誰にも知られず消えていく感情”が、

 また一つ、世界をゆがめようとしていた。


 影は、確かに“少女の涙”から生まれた。

 それは、叫びにも似た――沈黙のかたち。


 タクマたちが現場に駆けつけた時、廃屋のまわりはすでに霧に包まれていた。

 普通の霧ではない。

 肌にまとわりつくような、重い“感情の残り香”。


 セレナが手を伸ばすと、霧の粒子が光を反射して弾かれた。


「……これは、哀しみを喰う気配」


 リシェルが即座に周囲を警戒し、魔力の流れを読み取る。


「前よりも濃い。しかも……“意志が弱い”ようでいて、拒絶が強い。

 これは――怒りじゃない。もっと……“閉じた感情”よ」


 そして。


 そこに立っていた、仮面の影。

 黒く、のっぺりとしていて、ただ沈黙を放っているだけなのに、

 視線が、突き刺さるような存在感を持っていた。


 タクマは、いつものように拳を握り――

 けれど、そこに炎は生まれなかった。


(……こない?)


 いつもなら、誰かを守ろうとする怒りが力になる。

 けれどこの瞬間、彼の中には“怒り”がなかった。

 あるのは――戸惑い。


「怒るような状況じゃない……でも、助けなきゃ……!」


 拳を固める。

 しかし、魔力が集まらない。

 スキルが、応えない。


 その時、リシェルが静かに言った。

「タクマ、無理に怒らないで」


「……え?」


「怒りでしか、助けられないと思ってるでしょ?

 でも、感情はもっと“広い”のよ」


 タクマは言葉を失った。

 確かに彼は、“怒ること”でしかこの世界と向き合ってこなかった。

 その怒りは、人を救い、戦い、道を切り開いてきた。


 でも――


「……それ以外でも、届くのか?」


 タクマの問いに、リシェルはまっすぐ答えた。


「今のあなたが感じてる“戸惑い”や“優しさ”。

 それだって、誰かの助けになれるはずよ」


 沈黙。

 だがその瞬間、タクマの中で何かが音を立てて動いた。


 ――怒りじゃない。

 でも、“助けたい”という願い。


 彼は拳を下ろした。

 ただ、少女に近づこうと、一歩を踏み出す。


 だがその時、仮面の影がゆらりと動いた。


 少女に近づこうとするタクマに、

 “存在しない声”で、拒絶を示したのだ。


 霧が逆巻く。


 静かな夜の中で、誰にも叫ばれなかった感情が――

 暴れようとしていた。


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