影の名を呼ぶ者2
翌朝、灰の区の空は、ほんの少しだけ晴れていた。
けれど地面の石畳には、夜の湿り気がまだ残っている。
人々の顔にも、不安の残滓が滲んでいた。
数日前の“感情喰い”事件があった場所――
タクマは、あの少年のもとを訪れていた。
彼はまだ、言葉を取り戻してはいなかった。
けれど、タクマの顔を見ると、わずかに唇が震えた。
「……悪い、急に来て」
タクマは、彼の横に腰を下ろした。
静かな街路の片隅。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
「お前が怒ってたの、俺は“正しい”と思ってる」
少年の肩が、ぴくりと動いた。
「言葉じゃなかったけど、伝わったよ。
あの夜、“助けて”って、確かに叫んでた」
タクマの声は低く、だが確信をもっていた。
「俺……前の世界では、怒ることで人を動かしてた。
でも、怒った先に誰もいなくなって……気づいたんだ。
“怒りは、届かなきゃ意味がない”って」
少年の瞳が揺れた。
「でも、ここに来て――やっと、少しだけわかってきた。
怒りは、力になる。だけどそれ以上に、“言葉”なんだって」
そう語るタクマの拳には、炎は灯っていなかった。
けれど、彼の言葉こそが“燃えて”いた。
「だから、俺は怒るよ。
誰かの痛みに、誰かの願いに。
だけど、ぶつけるだけじゃなく――“伝える怒り”でいたい」
少年は――震えながら、小さくうなずいた。
それは、言葉ではなかった。
けれど、確かに“感情”だった。
そこに、セレナがそっと歩み寄ってきた。
「……ありがとう。彼に、それを言ってくれて」
タクマは、ゆっくりと立ち上がる。
「これでいいかは、わかんねぇけど……
俺は、これが俺のやり方だって、信じたい」
セレナは、微かに微笑んだ。
「なら、その怒りは“希望”になるわ。必ず」
風が吹いた。
今度の風は――夜のような気配ではなかった。
暖かく、前を向ける風だった。
そして遠く、石畳の陰。
その様子を“誰か”が、黙って見つめていた。
灰色のローブ、仮面に似た布で口元を隠した影。
彼女は、唇をかすかに動かした。
『……怒ることを、赦す世界。
それは、また破滅の予兆』
その声は風に紛れ、誰にも届かない。
だが、彼女――“黒巫女”と呼ばれる者の輪郭が、
ついに、世界の表舞台へと輪郭を帯び始めていた。




