確実な歩み1
その日は曇っていた。
空は鈍色、風は冷たく、街の喧騒はどこか遠くに聞こえた。
灰の区にとっては、いつもと変わらぬ朝――のはずだった。
けれど、支部の扉を叩く音は明らかに“違っていた”。
重すぎず、軽すぎず。礼儀と意志が均整を保ったノック。
それは、ただの旅人には決して出せない“音”だった。
リシェルが扉を開けた瞬間、息をのんだ。
「……その顔、まさか……」
そこに立っていたのは、一人の青年。
身なりは旅装。だが隠しきれない“位のある者”の気配が全身に漂っていた。
タクマはその顔を見た瞬間、目を細めた。
「……第二王子が、またずいぶんカジュアルな格好で来たな」
青年――ライクス・グラディウスは微笑んだ。
「気取った服装では、灰の区の人々は心を開いてくれないと聞きまして」
リシェルが一歩踏み出し、警戒の声を落とす。
「王子……なぜ、ここに?」
セレナはすっと記録帳を抱え直し、静かに頭を下げた。
支部内に、沈黙が降りた。
その空気を断ち切ったのは、タクマの問いだった。
「で、今日は“王子”として来たのか?
それとも、“俺個人に会いに来た”のか?」
ライクスはゆっくりと頷いた。
「後者です。……あなたの“在り方”に興味がある。それだけです」
数秒の沈黙のあと、タクマは椅子を引いて座り直した。
「なら、座って話せ。……ただし、“建前”だけなら、今すぐ帰ってくれ」
「心得ています」
ライクスはゆっくりと腰を下ろした。
旅人の服を着ていても、その仕草には一分の隙もなかった。
「この街で、“誰にも拾われなかった声に応えた者たち”がいると聞きました。
あなたが、その中心にいるとも」
タクマはその言葉を遮るように、ぼそりと返した。
「それを調べに来たなら、あんたの足は早すぎる。
噂だけで動く王子なんて、信用できるかよ」
ライクスは肩をすくめた。
「だからこうして、信用できるかどうかを“確かめに来た”んです」
その目は、冗談ではなかった。
どこまでも静かに、真っ直ぐに――“こちらを見ていた”。
リシェルはまだ座ろうとしないまま、じっとライクスを睨んでいた。
「どうせ、力を持ってるあんたにはわからないでしょ。
この街の人間が、どれだけ“スキルの有無”で振り分けられてるか。
空席者がどれだけ踏みにじられてるか」
ライクスは、その言葉を否定しなかった。
ただ、真正面から受け止めたうえで、ゆっくりと口を開いた。
「ええ。分かっていないかもしれません。
私は王族で、学びも訓練も与えられ、常に“居場所のある側”にいた。
でも、だからこそ、あなた方に会いに来たのです」
その言葉に、リシェルの警戒はまだ解けない。
タクマが、沈黙を破った。
「……ライクス。お前、最初に会ったときもそうだったな。
“お前自身が何を信じてるか”を言わなかった。
だから、聞く。いまここで、“あんたが見たいもの”って何だ?」
ライクスは、視線をタクマに戻した。
「“力を持つ者が、持たない者にどう向き合うか”――
それを、自分の目で見たいんです。
この国で、それを本気でやろうとする者は……本当に、少ないから」
そこにあったのは、建前でも理想論でもなかった。
誠実な“問い”だった。
そして、続けた。
「この国で、“力を持つ者”が“持たない者”に向き合う姿勢は極めて希少です。
私は、それに――価値を見出した。
あなたのような存在が、“居場所を持たない声”を拾おうとすることに」
タクマは何も言わなかった。
けれど、その目には、静かな火が宿っていた。
「力があるなら、それを振るえばいい――
この国には、そういう風に“学ばされた”人が多い。
でも、あなたは違った。あなたは、まず声を聞いた」
ティノがぽつりと呟いた。
「……あんた、ほんとに王子かよ。
この街の奴ら、誰もそんな風に俺らのこと見ちゃいねえよ
ライクスは笑わなかった。ただ、まっすぐ言った。
「王子である前に、“この国の未来に責任を持つ者”でありたい。
その未来に、あなたたちがいないと思ったことは、一度もありません」
支部の空気が、すこし変わった。
それでも、タクマはまだ座ったまま、低く尋ねた。
「……お前のその言葉に、どこまで“本気”があるかは、これから見させてもらう。
だけど、俺は別に、“助けてやってる”つもりはねぇよ」
「ええ。だからこそ、あなたに興味がある」
言葉と、言葉が。
思想と、思想が。
この街の片隅で――王子と拳が、同じ火を見つめ始めた。
対話が一段落した空気のなかで、セレナが記録帳を静かに開いた。
「今日のこのやり取りは……非公式記録に分類されますか?」
ライクスは目を細めて、優しく答えた。
「どう記しても構いません。
ただ、できれば――“一人の人間として来た”という前提は残してください」
セレナは頷き、柔らかく筆を走らせる。
その横で、リシェルはようやく警戒をほどき、壁際に背を預けた。
「本当に、命令でも策略でもなく、“あんた自身の意思”なのね」
「はい。私は、あなたたちを“利用する”ためではなく、
“知る”ためにここに来ました」
タクマは少しだけ笑った。
「……知った上で、どうすんだ。
俺たちのやってることなんて、王都じゃ“正義”とも呼ばれねぇぞ」
ライクスは真顔のまま、答える。
「では、これから“正義と呼べるようにする”のが、私の役目です」
ティノが思わず吹き出した。
「まじかよ……王子ってのは、そんなセリフもサラッと言えんのか」
「時には、言葉が剣より強いと信じることも必要ですから」
言葉遊びではなかった。
ライクスは真剣に、それを“武器”として振るっていた。
しばらくの沈黙のあと、タクマが口を開いた。
「……ひとつ、頼んでいいか?」
ライクスは驚かず、頷いた。
「あなたのような人に頼まれたことなら、私は聞く価値があると信じます」
「この先、もし俺の力が“危うい”と思ったら――
遠慮なく止めてくれ。
怒りは、時に誰かを守るけど、時に誰かを壊す。
俺自身が、それを一番よく知ってる」
ライクスは静かに立ち上がり、タクマの前に一歩進み出た。
「約束しましょう。
あなたが見えなくなったとき、私は“人としてのあなた”を思い出させる側にいます」
タクマはしばらく黙っていたが、やがて手を差し出した。
ライクスも、その手をしっかりと握り返す。
二人の間に、言葉よりも強いものが交わされた。
“立場を超えた信頼”。
それは、この国の歴史では稀な瞬間だった。




