怒りが燃えた、その夜に2
タクマは倒木に背を預け、深く息をついた。
熱は収まらない。拳の痛みも、鼓動も、まだ続いている。
だがその奥にあるのは、ただの恐怖でも興奮でもない。
――これは、「怒り」の名をした“願い”だった。
もう誰も、目の前で死んでほしくない。
そんな単純な、けれど深い感情が、タクマの胸を焼いていた。
◇ ◇ ◇
「水、いる?」
差し出された水筒に、タクマはうなずいた。
その手は、あの時の少女――リシェル。
冒険者風の装備に、銀の髪を高く束ねた鋭い眼差し。
けれどその瞳の奥には、戦士ではなく、人としての“温度”があった。
「ありがとう」
「こっちの台詞よ。助けられたのは私だし。……それにしても、あなた、スキル持ちだったの?」
「……わからない。たぶん、こっちに来たばかりだから。
何が起きたのかも、正直……」
「転移者?」
「……うん、たぶん」
◇ ◇ ◇
リシェルはその言葉に、わずかに目を細めた。
「転移者のスキルは、特殊な系統に分類される場合があるって聞いたことがあるけど……
でも、あんな形で魔力が噴き出すのは、ちょっと異常ね」
「異常って、やっぱり危ないのか……?」
「ううん。違うわ」
リシェルは、木に腰掛けながら言った。
「私は、あんたの“怒り”に救われた。それがすべて。
危ないとか、危なくないとか、そんな評価は……後からでいい」
タクマは思わず、その横顔を見つめた。
彼女の瞳には、恐れも、疑いもなかった。
あるのは――“信頼”とも呼べる静かな受容。
◇ ◇ ◇
「私、リシェル。正式には、リシェル・フォルナレッジ。
冒険者ランクはA。見ての通り、もう何年も一人でやってる」
「一人で?」
「元は貴族だったけど、家はもうないのよ。
今はただの“戦術屋”。それだけ」
その口調に、少しだけ影が差した。
タクマは、それ以上深くは聞かなかった。
彼女もまた、何かを“怒り”の向こうに置いてきた人間なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「……あんたの名前は?」
「タクマ。高倉タクマ」
「タクマ、か」
リシェルはその名を一度だけ繰り返すと、ふっと笑った。
「じゃあ、次の村まで一緒に行きましょうか。
あんた一人だと、たぶんこの森でまた襲われるわ」
「……俺、戦力になるかな」
「なったじゃない。あれだけの魔物を一撃で吹き飛ばす人、初めて見た」
「……俺、自分の力が、ちょっと怖い」
その言葉に、リシェルは肩をすくめた。
「誰でも最初は怖いのよ、自分の中にあるものは。
でも、“誰かを守るため”にそれを使えた時――怖さより、誇りになる」
その言葉が、なぜか胸に深く刺さった。
森を抜けるまでの道のりは、決して短くなかった。
日が落ちかけた頃、木々の合間にやっと土の道が現れた。
「ここから西に進めば、リグランの村があるわ。そこで一泊できると思う」
リシェルの足取りは迷いがない。
戦闘の後にもかかわらず、姿勢ひとつ崩れていない。
一方で、タクマは無言で彼女の背中を見ていた。
彼女の歩き方、視線の配り方、身体の重心移動。
すべてが理に適っていて、無駄がなかった。
その理由は、すぐにわかった。
「スキルのこと、聞いてもいいか?」
「私の?」
「ああ。A級って、そう簡単になれるもんじゃないだろ」
「まあ、そうね。私のスキルは《戦術解析》よ」
「戦術解析……?」
「周囲の地形、敵味方の配置、魔力の流れ、風の方向、気温、視界。
そういう要素を“瞬時に整理して戦術として組み上げる”スキル。
いわば、戦闘における“思考補助装置”みたいなものね」
「すげぇな……」
「派手さはないけどね。私の攻撃力は高くないし、前線で無双するタイプじゃない。
でも、パーティがいれば一番死なせない。だからA級にはなれたのよ」
◇ ◇ ◇
静かな自負だった。
“自分の強さ”を、彼女は数字や破壊力では測っていない。
それが、タクマには眩しかった。
「お前のそういう力って……怒りとか関係あるのか?」
「……ないわ。むしろ逆。私は冷静でいないと力が出せない。
だからこそ、さっきのあんたの戦い方には……ちょっと驚いたのよ」
「……悪かったな。暴走してたかもしれない」
「いいえ」
リシェルは、きっぱりと言った。
「怖かったけど、同時に綺麗だった。
誰かのために怒って、力にした。
そんな風にスキルを使える人って、そんなにいない」
その言葉が、胸にじんわりと広がる。
怒っていいのかもしれない。
怒ることが、誰かの役に立つかもしれない。
そんな風に思えたのは――人生で初めてだった。
リグランの村は、思ったよりもずっと小さかった。
周囲を柵で囲っただけの集落に、宿屋と酒場と道具屋がひとつずつ。
人々の表情は、どこか慎重で、外から来る者には少し距離を置く雰囲気がある。
タクマとリシェルが宿に入ったとき、
数人の村人がちらりと視線を向け、すぐに目を逸らした。
「なんか俺目立ってる?」
「ここの人たちが特に警戒心強いのよ。田舎なんてどこもそんなものよ…
特にあなた黒髪でしょ。この世界には黒髪を不幸の象徴とする慣習があってね
私はそんなこと気にしないけど…」
「そうか…」
タクマは苦笑した。
だが、心の奥にあるものは、少し違った。
彼は、自分の存在が歓迎されないことには慣れている。
前世でも、社長という肩書きのせいで、よくも悪くも“敵”を作った。
だからこそ――
(だったら、何かを“証明”するしかない)
この世界でも、また。
怒りという異質な力を持ってしまった自分でも。
誰かを守れるということを。
◇ ◇ ◇
部屋に入ると、リシェルが静かに言った。
「しばらくは、ここに滞在するつもり?」
「わからない。何ができるのか、自分でもまだ……。
でも、一つだけ決めたことがある」
「なに?」
「誰かが襲われてるのを、見て見ぬふりはしない。
怒りが俺の武器なら、それを“誰かのため”に使うよ」
その言葉に、リシェルはふっと笑った。
「ふーん。なら、私ももう少し付き合ってみようかな。
“怒りで拳を燃やす転移者”なんて、面白そうじゃない?」
「……監視するのか?」
「違うわ。私は、あなたを“見たい”と思ったの。
怒りが、どこまで届くのか。
それを、あなたがどう使っていくのか」
リシェルは少しだけ目を細めた。
そして、窓の外――村の子どもたちが遊ぶ広場に視線を移す。
「“怒り”って、力にもなるけど、刃にもなる。
あんたのはまだ、剥き出しすぎて危うい。でも――」
「でも?」
「……どこか、私に似てる気がしたの」
タクマは驚いた顔でリシェルを見る。
「似てるって……俺とお前が?」
「昔の話。今度、時間があったら話す」
その言い方に、タクマはそれ以上は聞かなかった。
けれどその瞳に“見捨てたくなかった何か”が宿っていたのを、彼は確かに見ていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
タクマは初めて、自分の拳を正面から見つめた。
痛々しく裂けた皮膚、まだ残る熱。
でもその奥には、“誰かを救った”という事実がある。
(この手で……守れるのかもしれない)
そう思った瞬間、
彼の中で何かが音を立てて動き始めた。
怒りは、災厄かもしれない。
けれど、それが“誰かのために使われる”なら。
それは、武器にもなる。
そして今、隣にはリシェルがいる。
まだぎこちないが、戦える仲間が。
拳を握る。
ゆっくりと、噛み締めるように。
――怒りが燃えた、その夜に。
タクマは“この世界で生きる”ことを、ようやく選んだのだった。