過去との葛藤1
タクマが路地に目を向けたその瞬間、少年は石垣から軽やかに身を起こした。
汚れた布の上着。細い足首。骨ばった腕。
顔立ちはまだ幼さを残しているのに、目だけが大人びていた。
「へぇー。ほんとに来たんだ、“黒い拳のお兄さん”。
てっきり、神殿かギルドがまた変な使い送ったのかと思ったけど――
あんた、ちょっと“本気”っぽい匂いするじゃん?」
少年の声は明るかった。
けれどその響きには、乾いた毒が混じっていた。
「……お前、名前は?」
「名前? ははっ、いきなり個人情報聞いてくるんだ? 怖いなー」
「……脅してねぇよ」
「冗談。まあ、言ってもいいか。
ティノ。ティノ・ベリル。
この灰の区じゃ“空席者ナンバーなし”ってやつさ」
タクマは、その言葉に眉を寄せた。
「“空席者”……スキルを持たない人間のことか?」
「ビンゴ。さすが“お勉強してから来ました!”って感じの優等生だね。
でも、それを“知ってる”ってことは、“知らない”ってことでもあるんだよ?」
ティノは路地の縁に腰かけ、足をぶらつかせながら言った。
「“空席者”ってのは、“スキルを持たない人間”って意味だけど――
実際には、“社会に居場所を与えられなかった者”って意味さ」
「どういうことだ?」
「この国じゃ、五歳になると“神殿でスキル鑑定”を受ける。
属性・適性・才能……あらゆる可能性を“神の意志”として数値化される」
「それは、俺も聞いたことがある」
「でもね、スキルが“何も出ない”子はどうなると思う?」
ティノの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「神殿は“沈黙”する。ギルドは“棄却”する。貴族も“支援対象外”にする。
学校は“魔力の初期適応に失敗した子”として分類して、特別な授業を受けさせる」
「特別って……」
「“足手まといにならないように最低限だけ教える”って意味さ。
“力を持たない人間が、他人に迷惑をかけないための勉強”。
それが、“空席者”に残された教育」
セレナが、顔を強張らせたまま記録帳を握りしめていた。
タクマも、拳を固めた。
「そんな扱い、まともな社会じゃ――」
「――ここはまともじゃないから、灰の区なのさ」
ティノは笑った。
痛々しいほど自然に、乾いた笑みで。
その顔を見たタクマは――
ほんの一瞬、前世で見た“ある新卒社員の顔”を思い出した。
“誰にも期待されないように、最初から諦めておく”
それを処世術として身につけた、無表情な若者の横顔。
「ティノ」
「ん?」
「お前は……それで、本当にいいのかよ?」
その言葉に、ティノはふっと笑みを崩した。
「お兄さん。
“いい”とか“よくない”とか言えるのは、“選べる奴”だけだよ?」
ティノの言葉に、空気が凍った。
“選べる奴だけが、考えればいい”。
その冷たい真理に、タクマは一瞬だけ言葉を失った。
「……俺は、お前に何かを押しつけたいんじゃない。
ただ、“ここで何かを変えたい”って思った。それだけだ」
「ふぅん。じゃあ聞くけど――“変える”って、なにを?」
「……この区の空気。誰もが“諦める”前提で生きてる空気を――」
「それは“上から”見てるから言えるんだよ」
ティノの声が、鋭く切り裂いた。
「この街で、“希望を持った奴”がどうなるか知ってる?
笑われる。邪魔にされる。殺されることだってある。
“がんばる”って言葉は、この街じゃ“暴力”なんだよ」
その言葉に、リシェルがわずかに眉を寄せた。
「……ティノ」
「なに?」
「それでも、生きてるんだよな? あんたは」
ティノの表情がぴたりと止まった。
リシェルは一歩、彼に近づいた。
「諦めてる人間は、そこまで上手に皮肉を使えない。
“自分の生き方を守るために笑う”って、それはもう“闘い”だよ」
「…………」
「タクマとあんたは、似てる」
「やめてよ。最悪の侮辱だ」
ティノは笑いながら、ひらりと身を翻す。
「まあ、いいさ。あんたたち、“数日で出ていく”んだろ?
だったら、俺は“この街の現実”をたっぷり見せてやるよ」
「……それでも構わない。
俺は“現実を見たい”と思って、ここに来たんだ」
「へぇ。偉いね。
でも、現実って、“見たら壊れる”こともあるから、気をつけなよ――“拳の人”」
そのまま、ティノは路地裏へと消えていった。
その背中は、まるで“ここで生き残る方法”そのものだった。
タクマは、深く息を吐いた。
「……正論だったな。全部」
「でも、あんたは折れなかった」
「いや、折れかけた。
ああいう目をしてる奴を、何人も見てきたから――“諦め”の演技に慣れた目を」
「それでも信じたのね」
「……ああ。たぶん俺、
“諦めた奴が、もう一度希望を持ち直す瞬間”が、見たいんだと思う」
これが自分の本心。いや、転生前の後悔からくる思いなのかもしれないなと虚空を仰いだ。




