怒りが燃えた、その夜に1
意識が戻ったとき、世界は土の匂いに満ちていた。
湿った草の感触。頬を打つ柔らかな風。
そして――遠くで、獣のような唸り声。
「……っ、ここは……どこだ?」
男はゆっくりと身を起こす。
鋭く乾いた痛みが、後頭部から背中にかけて走った。
周囲は、木々に囲まれた鬱蒼とした森だった。
どこまでも深く、どこか異様に静かだ。
高倉タクマ――三十代半ば、元経営者。
数時間前まで彼は、確かに日本にいた。
(……死んだ、のか?)
記憶は断片的だ。
会社のオフィス。天井のライト。
次の瞬間の記憶は何もない。
だが、今こうして目覚めた身体は、見慣れない服に包まれ、
筋肉の密度も明らかに“前の自分”とは違っている。
「まさか、本当に……転生?」
そう呟いた声が、自分でも信じられなかった。
◇ ◇ ◇
数分後、森の中を慎重に歩いていたタクマは、
自分の胸が異様に高鳴っていることに気づいていた。
草を踏みしめる音。
木の葉が揺れるざわめき。
何かが……いる。
緊張の糸が張り詰める。
――そのときだった。
森の奥から、叫び声が聞こえた。
「……っきゃあああああっ!!」
若い女の声。
何かに襲われている。苦鳴というより、絶叫に近い。
タクマの足が、反射的に走り出していた。
(やめろ……行くな……これはお前の世界じゃない……!)
心が警鐘を鳴らしていた。
だが、それ以上に何か熱いものが、内側から突き上げてくる。
走りながら、ふと頭の片隅に浮かんだのは――
(なんで……“怒ってる”んだ、俺……?)
そう思った瞬間、自分の拳が無意識に強く握られていることに気づいた。
そして次の瞬間、タクマは“それ”を見た。
◇ ◇ ◇
倒木の前、少女が魔物に追い詰められていた。
灰色の体毛、鋭い牙、禍々しい目つき。
四足歩行の魔獣――おそらくこの世界の“狼型魔物”だ。
3体。そのうち1体が少女の腕をかすめていた。
「くっ……!」
少女は銀の髪を振り払って構える。
その姿は明らかに只者ではない。
装備は冒険者風、だが服に血が滲んでいる。
その少女が、タクマの視線に気づいた。
「――そこのあなた! 動けるなら援護を!」
「は、はあ!?」
「早く!」
問答無用だった。
だがタクマは、叫ばれたその瞬間、全身に何か“熱”が走るのを感じた。
(ちがう……これは……)
怒り、だ。
理不尽な状況。
戦える者がたったひとりで戦っている。
自分には何もない。武器も、知識も、力もない。
けれど――
(この手が、ある)
握った拳から、微かに熱が立ちのぼるような感覚。
心臓が脈打つたびに、身体の奥がうずいた。
――怒っていた。
“なぜこんな状況にいるのか”ではない。
“なぜ目の前の誰かが、苦しんでいるのか”に対して。
「こっちに引きつけます! その隙にっ――!」
少女が地を蹴った。
その瞬間、二体の魔物が一斉に彼女へ向かって飛びかかる。
だが、彼女の手にはすでに短剣と光の紋章。
詠唱と共に、剣が淡く輝く。
「《バーストエッジ》――っ!」
跳躍の勢いそのままに、斬撃が魔物の喉をかすめた。
一体目が呻き声とともに地に転がる。
だが、もう一体が背後から牙を剥く。
「しまっ……!」
咄嗟に振り返る。だが間に合わない。
タクマの脚が、勝手に動いた。
頭が真っ白になる。
怒りというより、“熱”が全身を駆け巡っていた。
(……どけ)
(どけよ、この化け物があああッ!!)
その瞬間だった。
拳に、火が灯った。
いや――火ではない。
だが、それは確かに“燃えていた”。
《スキル発動:怒炎変換》
空気が爆ぜた。
拳が放たれた。
その拳は、魔物の顔面を正面から叩きつけ、
“バキィッ!”という生々しい音と共に、獣の頭部を砕いた。
魔物の身体が、吹き飛ぶ。
その質量は、明らかに人間の一撃で成せるものではなかった。
◇ ◇ ◇
「…………」
しんと、森が静まった。
残った魔物一体が、怯えたようにタクマを見て、唸る。
「ぐ……ぁ……」
だが、その目が、“狩る者”ではなく“獲物を見る目”に変わった。
「逃げた……?」
少女――リシェルは驚きに声を漏らす。
そして、呆然と立ち尽くすタクマを見た。
「あなた……さっきの、その力……」
タクマの拳は、わずかに焦げたように黒ずみ、皮膚の一部が裂けていた。
熱も、痛みも、今さらになって押し寄せる。
「が、あっ……!」
「座って、無理はしないで。応急処置できるわ」
リシェルが近づき、傷を見て目を見張る。
「この火傷……ただの打撃じゃない。
あなたの体から、魔力が逆流してるような痕跡……これ、まさか……」
その声に、タクマが小さく答える。
「……怒って、たんだ。誰かが、目の前でやられそうになって……。
止めたくて……」
「怒り、で……?」
リシェルが目を細め、そして口にした。
「まるで……“怒りが力に変わる”ようなスキル。そんなの、存在するの……?」
その言葉に、タクマは言葉を返せなかった。
だが、彼の胸の中では、ひとつだけはっきりしていた。
――確かに、怒っていた。
誰かのために、何かが爆発した。
そしてそれが、拳になった。