その先にある怒り2
村の西側、柵沿いに広がる畑のわき道。
昨日、タクマが少年と出会った場所だ。
今日もまた、少年の姿はそこにあった。
タクマがゆっくりと歩み寄ると、少年ははっと身を引いた。
だが、前回のようなあからさまな恐怖ではなく、どこか“葛藤”のにじむ顔をしていた。
「……よ」
タクマが声をかける。
少年は黙って、ぎゅっと何かを握った手を見せた。
折りたたまれた紙――いや、手紙だった。
「それ……俺に?」
少年はこくんとうなずいた。
視線は地面に落ちたまま、口は開かない。
それでも、手はしっかりと伸びていた。
タクマは、丁寧にその紙を受け取った。
それは、まだ書き慣れていない筆跡で、ゆっくりとこう綴られていた。
「おじさんは、こわいと思ってた。
でも、こわいままでも、助けてくれた。
ありがとう。ぼくは、こわいけど、すごいとおもう。」
タクマは、紙をしばらく見つめてから、静かに笑った。
「……ありがとな」
その言葉に、少年は小さく顔を上げ――けれど、すぐにまた俯いた。
その視線の先には、少年の母親が立っていた。
少し離れた畑の入口。
母は何も言わなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。
タクマは、それ以上近づかなかった。
手を軽く挙げるだけで、静かにその場を離れた。
背を向けて歩き出したタクマの耳に、少年の小さな声がかすかに届いた。
「……また、来ていい?」
それは、たった一言だった。
だが、その声には――
恐れと、希望と、戸惑いと、ほんのわずかな勇気が混じっていた。
タクマは、振り返らずに手を挙げた。
「……俺は、いつでもいるさ」
その答えに、少年がどんな表情をしたかはわからなかった。
けれど、その母親が、息子の肩に手を置いたとき――
その手が、わずかに震えているのが遠目にも見えた。
◇ ◇ ◇
リシェルは、道具屋で補給を済ませていた。
そこへ、タクマが静かに戻ってくる。
「見てきた?」
「ああ。……手紙もらったよ。
怖がってたけど、それでも来てくれた」
「……その子、強いのね」
「うん。でも、その母親の手が、最後……少し震えてた」
リシェルは、それを聞いて目を伏せた。
「この村の人たち……何もしてこないくせに、ずっと“怖がる”のよね」
「“恐れる”ことと、“拒絶する”ことって、違うよな。
でも、同じ顔してるから、こっちはわかんなくなる」
タクマは、受け取った手紙を丁寧に折り直し、服の内側にしまった。
「この手紙だけで、十分救われた気がするよ。……少しだけどな」
リシェルは何も言わなかった。
けれど、その背中はどこか静かに寄り添っていた。
ギルド支部は、村の一角――石造りの酒場兼集会所の裏手にあった。
小さな掲示板、粗末な受付。
だが、冒険者たちにとっては“社会と繋がる唯一の窓”でもある。
タクマ、リシェル、セレナの三人が足を踏み入れると、
受付の男が顔をしかめた。
「あんたら……昨日、依頼受けた連中だな。帰ったのかと思った」
「一応、報告はしに来たの」
リシェルが言葉を選びながら答える。
「例の魔石汚染の原因、断定まではいかないけど、“感情魔術の使用痕”は確認した」
「……なんだそりゃ」
男の顔に明らかな不快感が浮かぶ。
「またそういう、“訳のわからん異能”か。最近多いんだよ、そういうの。
こっちは依頼に“危険な異端”は求めてないんだよな」
タクマが、無言で拳を握る。
だが、その表情は怒りではなく、むしろ淡々としていた。
冷たい視線が、男の目を真っすぐに射抜く。
「魔物が消えた事実は、認めてくれるんだろ?」
「……ま、依頼としては完了扱いにする」
「じゃあ、それでいい」
男は何かを言いかけて――言わなかった。
その代わり、リシェルの方を向く。
「お前、よくあんなの連れて歩けるな。
黒髪で、妙な力。どう見ても厄介事だろ」
「そうね。確かに、タクマは“厄介”よ」
リシェルは、にっこりと笑った。
「でも、それを“怖い”ってだけで切り捨てたら、
誰があんたの村を守ったんだっけ?」
男は、言葉に詰まった。
セレナが、記録帳を閉じて一歩前に出る。
「この報告は、神殿経由で王都にも共有されます。
ギルドの“判断”は、それぞれの責任で残しておくといいでしょう」
「お、おう……」
男は後ろに少し引き、舌打ち混じりに記録台帳をめくった。
◇ ◇ ◇
建物を出たあと、三人はしばらく無言だった。
だが、リシェルが静かに言う。
「ごめん。ちょっとカッとなった」
「いや、助かった。言えなかったからな、俺」
「怒らなかったね」
「怒ることに、意味があるときとないときがあるって、
……やっとわかってきた気がする」
タクマの声は、静かだった。
感情が沈むのではなく、“整っている”。
怒りはまだそこにある。けれど、それに飲まれず、
ただ、正しく扱おうとしていた。
「タクマ」
リシェルが立ち止まり、彼を見た。
「その怒り、あんたが持っててよかった。
暴れたり、壊したりするんじゃなくて、
“抱えてくれる人”でよかった」
「……そうか?」
「うん。
だからさ。
もし、“この力は要らない”って思ったときが来ても――」
彼女は、わずかに照れたように、でも真っ直ぐに言った。
「そのときは、代わりにあたしが持ってあげるよ」
タクマは、目を見開いた。
「……そんな簡単に背負えるもんじゃないぞ」
「わかってる。でも、簡単じゃないからこそ。
“誰かの怒り”を、抱えてあげられる人間が、一人くらいいてもいいじゃない?」
その言葉が、心の奥に静かに染みていく。
誰かを守る力としての“怒り”。
それを、誰かが「重くない」と言ってくれることが、
こんなにも――救われるものだとは。
セレナはそのやり取りを見て、記録帳を開かなかった。
ただ、胸元の白符に小さく指を当て、そっと一文だけ刻んだ。
「怒りが、他者に“預けられるもの”であるならば――
それはもう、呪いではなく“感情の共有”なのかもしれない」
その日の夜。
リグランの村は、昼間のざわめきが嘘のように静まり返っていた。
どこか遠くで虫が鳴いている。
だが、その音すら、森の外れの宿屋には届かない。
タクマは、静かに拳を見つめていた。
傷はほとんど癒えた。けれど、そこに刻まれた“重み”は、まだ残っている。
「怒りが、力になる」
「でも、それは“正しさ”じゃない」
誰かのために怒ること。
自分のために怒ること。
そして、怒りを飲み込むこと。
どれもが、“正しい”とは限らない。
それでも、自分はどうありたいか――その問いだけが残った。
ノックの音。
「入っていい?」
「……ああ」
セレナが部屋に入ってきた。
白の僧衣の上から薄い布を羽織り、記録帳は持っていない。
「今日は……記録しないのか?」
「もう、記し終えました」
彼女は、ゆっくりとタクマの向かいに座る。
「あなたの“怒り”は、私の仮説を少しだけ変えました」
「仮説?」
「“感情は暴走するもの”という前提。
でも今のあなたは、それを“静かに抱え続けている”。
まるで――“祈る”ように」
タクマは、少しだけ目を細めた。
「セレナ。お前……“祈り”って、どう思ってる?」
「……昔は、それが“記録の形式”だと思っていました」
「今は?」
少しの沈黙のあと、セレナは静かに答えた。
「今は――“どうか、誰かに届いてほしい”という願いの形だと思っています」
タクマは、ふっと小さく笑った。
「なら、あんたの祈りは……届いてるよ」
「そう、でしょうか」
「少なくとも、俺にはな」
その言葉に、セレナの瞳が微かに揺れた。
そして、白符を一枚取り出し、そこに何も書かずに折りたたんだ。
「これは、祈りではなく――“灯し火”です」
「灯し火?」
「まだ言葉にならないけれど。
いつか言葉になったときに、ちゃんと記せるように」
その瞬間だった。
外の扉が、トントンと軽く叩かれた。
「すまない。タクマ殿……セレナ殿。ギルドを通して、王都からの伝令が届いた」
宿屋の主がそう告げる声には、どこか緊張があった。
タクマが扉を開けると、そこには“封蝋付きの書簡”があった。
紋章は――王都ライゼンベルク。
そして、王族の象徴である“聖剣と月桂樹”が刻まれていた。
セレナが受け取ると、指先で封を静かに割った。
開かれたその中には、端的な一文。
「感情波動“特異値”確認。
王都にて観測報告および面談を希望す。
第二王子ライクス・アークレイン名代より」
タクマがそれを読み、短く息を吐いた。
「とうとう、“王族”に目をつけられたか」
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ――これは“次に進む”べきタイミングだと、直感していた。
セレナが言った。
「これは、“見られる”ということです。
そして同時に、“選べる”ということでもあります」
タクマは、手の中の封筒を見つめながら、静かに答えた。
「……だったら、選ぶよ。
俺はこの力を、ただ怒るためじゃなく――誰かのために、使いたい」
宿の外には、深い夜が広がっていた。
けれど、その奥には――確かに、“次”の光が灯っていた。




