1/42
プロローグ
――人が壊れる音を、耳で聞いた気がした。
誰も叫んでいない。誰も怒鳴っていない。
けれど、確かにそこには「音」があった。
静かな会議室で、社員のひとりがゆっくりと崩れ落ちた瞬間。
それは、目の前で人が“限界”を迎えたという現実の音だった。
男の名前は高倉拓真。
会社の代表取締役。三十代にして、十数人の部下を抱える企業の社長だった。
怒るのは日常だった。
成果が出ない部下に。考えが足りない企画に。逃げようとする責任者に。
でも、この日は違った。
彼は、自分が“怒ってしまったこと”に、初めて震えた。
「……思考、止まるんですよ、社長。
怒られると……なんも、考えられなくなるんです……」
それが、その社員の最後の言葉だった。
視界が滲んでいく。
天井のLEDが、どこか遠くで明滅している。
血の気が引いていく感覚とともに、拓真は崩れ落ちた。
身体が、冷たい。
でも、胸の奥にだけ、まだ“熱”が残っていた。
それは、怒りだった。
他人に向けていたつもりが、本当は――自分自身に、向けられていた。