図書館の幽霊は王子様に恋をした
幽霊と人間の恋愛物を書いてみたいと思っていました。
短編なので駆け足ですがお楽しみください。
「――せっかく本の楽園に来たのに、この手じゃ一冊も持てないなんて……ひどすぎるわ!」
意識が浮上した瞬間、最初に口をついて出たのは、そんな悲痛な叫びだった。
いや、正確には「口をついた」わけではないのかもしれない。だって、今の私には物理的な肉体がないのだから。
私はシオリ。少し前まで、日本のどこにでもいるような、本だけが取り柄の女子高生だった。それがどうしてこうなったのか。……そう、トラックだった。いつものように本屋に心を奪われ、信号無視のトラックに気づくのが遅れたのだ。呆気ない、私の人生の終幕。
そして、次に気が付いた時、私はこの場所にいた。
荘厳、という言葉がぴたりと当てはまる場所。天井まで届く巨大な本棚が壁という壁を埋め尽くし、革と古い紙、そして微かなインクの匂いが満ちている。窓から差し込む柔らかな光が、空気中を舞う埃をキラキラと照らし出す。間違いなく、図書館だ。それも、私が生前知っていたどんな図書館よりも、遥かに壮麗で、歴史を感じさせる場所。
(異世界転生……ってこと? でも、身体がないってどういうことよ!)
自分の手を見ようとしても、そこには透き通った輪郭があるだけ。足もない。ふわりと宙に浮いている感覚。試しに目の前の豪華な装丁の本に手を伸ばしても、するりと通り抜けてしまうだけだった。
(幽霊……? 私、幽霊になっちゃったの?)
絶望的な事実に打ちのめされる。本に囲まれているのに、一冊も手に取ることができないなんて! これ以上の拷問があるだろうか。神様がいるなら、性格が悪すぎる。
どれくらいの時間が経ったのか。私の存在に、最初に気づいたのは、どうやらこの図書館を掃除する若い侍女の一人だったらしい。少し霊感があるという彼女は、時折、誰もいないはずの空間に視線を向けたり、本がわずかに動いた気がすると同僚に囁いたりしていた。いつしか使用人たちの間で、「図書館には美しい幽霊がいる」という噂が広まり、私は「図書館の幽霊」と呼ばれるようになった。そして、例の侍女が「とても儚げで、清らかな気配がするから」と、誰に言うでもなく私を「エリアーデ」と呼び始めたのが、どうやら私の新しい名前になったようだった。もちろん、直接誰かに認識されている実感はないのだけれど。
孤独だった。誰とも話せず、何にも触れられない。ただ、ひたすらに時間は過ぎていく。唯一の慰めは、この図書館の静寂と、本の匂いだけ。
そんなある日、「彼」が現れた。
艶やかな黒髪に、深い夜空の色を湛えた瞳。すっと通った鼻筋に、引き結ばれた薄い唇。年は私と同じくらい…いや、少し上だろうか。上質な、しかし華美ではない衣服を身に纏い、彼は静かに図書館へと入ってきた。
(綺麗な人……)
思わず見惚れていると、彼は慣れた様子で特定の棚へと向かい、一冊の本を手に取って、窓際の大きな椅子に腰を下ろした。ページをめくる指先まで、洗練された美しさがあった。
それから、彼は頻繁にこの図書館を訪れるようになった。後に知ったことだが、彼はこの国の第二王子、アレクシス殿下だった。政争を嫌い、複雑な王宮の人間関係から逃れるように、この静かな場所で読書に没頭する時間を求めているらしい。
彼の周りには、どこか張り詰めた空気と、深い孤独の影が漂っていた。私と同じだ、と思った。もちろん、高貴な王子様と図書館憑きの幽霊では、何もかもが違うけれど。
彼が読書に集中している横顔を眺めるのが、私の新しい日課になった。時折、難しい箇所にぶつかるのか、眉間に皺を寄せる仕草。ふと窓の外に目をやり、物憂げに息をつく姿。その一つ一つが、私の色のない世界に、淡い光を灯していくようだった。
(ああ、今日もいらした。……少し、お疲れのよう)
いつしか、私の心は彼――アレクシス王子で占められるようになっていた。叶うはずのない、透明な恋心。
ある雨の日、彼は少し高い場所にある古い文献を探していた。手を伸ばすが、あと少しが届かない。諦めて別の本を探そうとした彼の背中に、私はそっと念を送った。
(あの本、きっとあなたが必要としているものでしょう? どうか、気づいて……!)
私の必死の想いが通じたのか、その本が棚から滑り落ち、彼の足元にことりと音を立てた。
「……?」
アレクシス王子は驚いたように本を拾い上げ、不思議そうに棚を見上げた。もちろん、そこには誰もいない。彼は小さく首を傾げたが、すぐに本の埃を払い、読み耽り始めた。
彼の役に立てたかもしれない。その小さな事実が、私の心に温かな波紋を広げた。
届かない、触れられない。それでも、私はここにいる。この図書館で、静かに彼を見守っている。
***
アレクシス殿下の役に立てたかもしれない。あの一件以来、私の心はほんの少し軽くなり、そして、もっと彼と繋がりたいという想いが募っていった。その想いに呼応するかのように、私の力もわずかに変化し始めていた。
(もう少し……もう少しだけ、はっきりと……!)
念じると、指先に淡い光が集まるような感覚がする。そして、古い本の埃が積もったページに、ゆっくりとその光の指先を滑らせると――かろうじて、線が描けた!
まだ、文字と呼べるほどのものではない。けれど、これは大きな進歩だ。私は夢中で練習した。どうすればインクの染みを動かせるか、どうすれば本のページをめくれるか。幽霊だって努力すれば成長するのだ。
そんなある日の午後、図書館の掃除にやってきた侍女たちが、書架の陰でこっそりと噂話をしているのが聞こえてきた。もちろん、彼女たちに私の姿は見えていない。
「ねえ、聞いた? 第二王子殿下の婚約者候補に、セレスティーナ公爵令嬢の名前が挙がっているんですって」
「まあ! あの美しくて才媛と評判の?」
「ええ。でも、あの方はかなり野心家だとも聞くわ。それに、アレクシス殿下ご自身にも、それはもう熱心にご執心らしいわよ」
「まあ……。第二王子殿下は政争をお嫌いなのに……周りが放っておかないのね」
(セレスティーナ公爵令嬢……アレクシス殿下のお妃候補……そして、殿下に熱心に……)
侍女たちの囁き声を聞きながら、私の胸にズキリと痛みが走る。高嶺の花である王子様に、私のような幽霊が何かを望むこと自体おこがましい。それでも、彼の隣に立つ女性がいるかもしれないと想像するだけで、心が曇っていくのを感じた。
その数日後、噂の人物が実際に図書館へとやって来た。ふいに扉が開き、華やかなドレスを纏った女性が入ってきたのだ。
「アレクシス殿下、こちらにいらっしゃいましたのね」
(……この方が、セレスティーナ公爵令嬢!)
絹のような金髪を揺らし、勝ち気そうな翠の瞳を細めて微笑む彼女は、侍女たちが話していた通りの美しさだった。けれど、どこか計算高い雰囲気も感じ取れてしまう。
「セレスティーナ嬢。何か用かな」
アレクシス殿下は本から顔を上げたものの、その声には歓迎の色は薄い。
「まあ、つれないお言葉。せっかく殿下にお会いしたくて参りましたのに。最近、殿下はこちらに籠りきりだと伺いましたわ。たまにはわたくしとお茶でもいかがです?」
「今は読書の途中だ。邪魔をしないでくれるか」
「あらあら。相変わらず本がお好きなのですね。ですが、次期国王陛下を支えるお立場として、社交も大切ですわよ?」
セレスティーナ嬢は優雅に微笑みながらも、その言葉には棘がある。彼女はアレクシス殿下に近づき、その肩にそっと手を触れようとした。
(……!)
思わず、私は近くにあった羽根ペンを、念じる力で床に落としてしまった。
カタン、と小さな音が響く。
「あら?」
セレスティーナ嬢の手が止まる。アレクシス殿下も怪訝そうに床を見た。
「……風でも吹いたかな」
殿下はそう言って羽根ペンを拾い上げ、何事もなかったかのように読書に戻る。セレスティーナ嬢は釈然としない顔でアレクシス殿下と周囲を見回していたが、やがて諦めたようにため息をつき、退室していった。
(……ふぅ。危なかった)
思わぬ形で力を使ってしまったけれど、彼に他の女性が触れるのが、どうしても嫌だったのだ。我ながら、独占欲が強い幽霊だと思う。
だが、本当に恐ろしい出来事は、その後に訪れた。
その日、図書館にはアレクシス殿下を訪ねて数人の貴族が来ていた。彼らは殿下と何やら事務的な話をしているようだったが、その口調や態度には、丁寧さの仮面の下に隠しきれない傲慢さが滲んでいた。アレクシス殿下に対する視線にも、どこか侮蔑の色が混じっている気がする。
(なんだか、感じの悪い人たち……)
彼らが図書館を辞去していく際、そのうちの一人が、アレクシス殿下の背中に向けて、嘲るような笑みを浮かべたのを、私は見逃さなかった。言いようのない胸騒ぎがする。彼らは何かを企んでいるのではないだろうか?
(確かめないと……!)
普段の私なら、安全な図書館から一歩も出ようとは思わなかっただろう。幽霊の身で、王宮のどこに危険が潜んでいるか分からない。けれど、アレクシス殿下に危機が迫っているかもしれないと思ったら、じっとしてはいられなかった。
私は意を決して、図書館の扉をすり抜け、貴族たちの後を追った。慣れない廊下は、図書館とは全く違うざわめきと人々の気配に満ちている。壁をすり抜ける感覚にもまだ慣れない。少し気分が悪くなるのをこらえながら、必死に彼らの気配を追う。
彼らが向かったのは、王宮の中でも特に警備が厳重で、華やかな装飾が施された一角だった。重厚な扉の前で、彼らは衛兵に恭しく迎え入れられ、中へと入っていく。
(すごい扉……。かなり身分の高い人の部屋、みたい)
扉の上部には、王家のものとは少し違う、けれど力強い紋章が刻まれている。もしかして、ここが……?
私はごくりと息を飲み――幽霊なので実際には飲めないが――意を決して、そっと扉をすり抜けた。
部屋の中は、豪奢ながらも威圧的な空気が漂っていた。上座には、金の刺繍が施された豪華な椅子に、ふんぞり返るように座る男性がいる。年の頃はアレクシス殿下より少し上だろうか、整ってはいるが酷薄そうな顔立ちをしている。そして、先ほどの貴族たちが、彼に報告をしていた。
貴族の一人が、へりくだった口調で上座の男性に話しかける。
「レオニール殿下、例の件、抜かりなく。アレクシスが管理する古い鉱山の権利書には、指示通り細工を施しました」
(レオニール殿下……! じゃあ、この人がアレクシス殿下のお兄様の、第一王子……!)
侍女たちの噂話や、アレクシス殿下の苦悩の理由が、一気に繋がった気がした。そして、彼らが話している内容は、私の予想を遥かに超えて邪悪なものだった。
「うむ、ご苦労。あの堅物めが横領などという卑しい罪を犯したとなれば、父上もさすがに庇いきれまい。これでようやく目障りな弟を排除できる」
レオニール王子が満足げに頷く。
「関連書類も全て『調整』済みです。これで奴の失脚は間違いありませんな!」
貴族たちが、下卑た笑い声を上げる。
(横領の捏造……!? なんて卑劣な……!)
全身が怒りと恐怖で震える。アレクシス殿下をそんな汚い手で陥れようとしているなんて、許せない。一刻も早く、このことを殿下に知らせなければ!
私はすぐさま踵を返し、壁を抜け、廊下を駆け抜け――るように意識を飛ばし、全速力で図書館へと戻った。
慣れ親しんだ本の匂いに包まれた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、その場にへたり込みそうになる。怖い。けれど、今は恐怖に震えている場合じゃない。
一人残っていたアレクシス殿下は、窓の外を眺め、疲れたように額を押さえていた。文字を書く力はまだない。でも、この図書館にある本なら……! 私は必死に書架の間を飛び回り、関連しそうな本を探した。
(鉱山……権利書……罠……そして、お兄様……!)
まず、鉱山に関する古い地質調査記録の本を見つけ、アレクシス殿下の近くの棚から、念じて床に落とす!
ドン、と鈍い音。
「む……?」
アレクシス殿下が怪訝そうに本を拾う。「旧北部鉱山の記録……? なぜこれが……」
間髪入れず、次は法律書の棚へ飛ぶ。財産管理や権利書に関する分厚い本……これだ! 力を込めて、本棚を揺らすように念じ、落とす!
バサッ!
「今度は王室財産管理規定……?」
アレクシス殿下の眉間の皺が深くなる。彼は明らかに、ただの偶然ではないと感じ始めている。
次は……罠、陰謀……歴史書のコーナーにあったはず! 『王国史にみる宮廷陰謀』……これしかない! 渾身の力で押し出すように念じ、彼の足元へ!
ドサリ!
「……宮廷陰謀史。鉱山、権利書、そして陰謀……」
アレクシス殿下が、落ちた三冊の本のタイトルを呟き、何かに気づいたように目を見開く。あと一つ、伝えなければ!
王位継承に関する棚へ……あった! 『王位継承の血脈と法則』。兄と弟、王位を巡る歴史も書かれていたはず。最後の力を振り絞り、その本を彼の座る椅子のすぐそばに落とす!
ゴトン!
「……王位継承……兄上……」
アレクシス殿下は、床に落ちた四冊目の本を拾い上げ、低い声で呟いた。彼は感情を表情に出すことなく、次々と落ちてきた四冊の本――鉱山記録、財産管理規定、宮廷陰謀史、そして王位継承の法則――を順に見比べる。その瞳には驚きではなく、むしろ腑に落ちたかのような、冷徹な光が宿っていた。
先ほど訪ねてきた貴族たちの、隠しきれない悪意。そして、彼らの背後にいるであろう人物。全てのピースが繋がったのだろう。彼は顔色一つ変えず、むしろ唇の端に自嘲のような微かな笑みを浮かべたようにさえ見えた。
「……なるほど。実に兄上らしい、迂遠で悪質なやり方だ」
彼は静かにそう言うと、落ちてきた本を丁寧に机の上に重ね、すっと立ち上がった。その動きに焦りはなく、ただ確固たる意志が感じられる。彼は迷うことなく、関連書類が保管されているであろう書庫のある区画へと、速足で向かっていった。私の必死の警告は、彼に冷静な確信を与えたのだ。
安堵と同時に、私は力を使い果たし、その場に意識が薄れていくのを感じた。彼を守りたい。その一心だったけれど、幽霊の身はあまりにも非力だ……。
…そして、先ほど貴族たちが辞去した後、アレクシス殿下の様子を窺うために戻ってきていたセレスティーナ令嬢が、まるで意志を持っているかのように次々と本が落下する異様な光景と、氷のように冷静さを保ちながらも、ただならぬ決意を瞳に宿して書庫へ向かう殿下の姿を、書架の陰から息を殺して目撃していたことには、まだ気づいていなかった――。
***
アレクシス殿下が書庫へ駆け込んでから数日後、王宮内は不穏な空気に包まれていた。殿下は兄王子レオニールの仕掛けた罠の証拠――改竄された権利書を発見し、密かに対策を練っていたようだが、相手の方が一枚上手だった。
レオニール王子は、アレクシス殿下が証拠隠滅を図る前に、国王陛下の御前で糾弾するという強硬手段に打って出たのだ。
玉座の間には、国王陛下と重臣たち、そしてレオニール王子とその派閥の貴族たちが集まっていた。もちろん、アレクシス殿下も、そして婚約者候補としてセレスティーナ令嬢も陪席を命じられている。私はアレクシス殿下のすぐそばに寄り添い、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。幽霊の身では、この場にいることすら本来許されないのだろうけれど。
「陛下、ご報告申し上げます。第二王子アレクシスが管理を任されておりました旧北部鉱山におきまして、不当な利益を得ていた証拠が挙がりました!」
レオニール王子派閥の貴族が、改竄された帳簿や権利書を高らかに掲げる。レオニール王子は、悲劇の兄を演じるかのように、痛ましげな表情で弟を見つめている。
「アレクシス……まさかお前が、国の財産を私するような真似を……」
「兄上、お待ちください。これは何かの間違いです。この書類は――」
「言い訳は聞き苦しいぞ、アレクシス! この証拠が目に入らぬか!」
貴族たちがアレクシス殿下を厳しく追及する。殿下は冷静に反論しようとするが、巧みに仕組まれた偽りの証拠はあまりにも完璧で、次第に劣勢に追い込まれていく。国王陛下も難しい顔で眉間に皺を寄せている。
(駄目……このままじゃ、アレクシス殿下が……!)
私の警告は届いたけれど、それだけでは足りなかった。もっと確実な証拠がなければ、殿下は罪を着せられてしまう。私が第一王子の部屋で聞いた、あの決定的な言葉……レオニール王子自身が指示したという証拠さえあれば!
(でも、私に何ができる? あの部屋の会話を、どうやって証明すれば……)
恐怖と無力感に打ち震える。私がもっと力を持っていれば。せめて、声だけでも届けられれば……!
「――陛下、お待ちください」
その時、凛とした声が響いた。セレスティーナ令嬢だ。彼女はすっと立ち上がり、玉座へ向かって優雅に一礼した。
「セレスティーナ嬢、何か申すことがあるのか」
「僭越ながら申し上げます。わたくし、先日図書館にて奇妙な出来事を目撃いたしました」
彼女は、先日図書館にて、まるで意思があるかのように次々と特定の書物(鉱山記録、財産管理規定、宮廷陰謀史、王位継承の法則)がアレクシス殿下の足元に落下し、それを見た殿下がただならぬ様子で書庫へ向かわれた一部始終を目撃した、と詳細に語り始めた。
「おそらく、殿下は何者かによって、この罠に気づかされたのではないでしょうか? そして、その『何者か』こそが、真実を知る鍵を握っているやもしれません」
セレスティーナ嬢の言葉は、直接的な証拠にはならない。けれど、彼女の真摯な態度は、場の空気をわずかに変えた。レオニール王子の眉が不快げにピクリと動く。
(セレスティーナさん……!)
彼女が、目に見えない『何か』の可能性を認めて、発言してくれるなんて。驚きと同時に、胸が熱くなる。彼女の勇気に、私も応えなければ!
(やるしかない……! アレクシス殿下のために!)
私は全ての意識を集中させた。第一王子の部屋で聞いた、あの言葉、あの光景を、この場に再現する! 力を使い果たして消えてしまうかもしれない。それでも構わない!
「う、うわっ!?」
「な、なんだ!?」
玉座の間の中心、何もない空間の空気が揺らぎ、淡い光が集まり始める。それは徐々に人の形を成し――レオニール王子とその側近たちが、執務室で話していた光景を、まるで幻灯のように映し出した!
『――アレクシスが管理する古い鉱山の権利書には、指示通り細工を施しました』
『うむ、ご苦労。これでようやく目障りな弟を排除できる』
レオニール王子自身の声が、幻影と共に玉座の間に響き渡る。その場にいた誰もが息を飲んだ。レオニール王子の顔が怒りと焦りで赤く染まる。
「ま、幻術か!? でたらめだ! このようなもの、証拠になるはずが――」
幻影は、私の力の限界を超えた再現だった。レオニール王子の声が響き終わると同時に、光は急速に薄れ、私の意識も遠のいていく。体が、輪郭が、霧のように掻き消えていく感覚。
(アレクシス……さま……)
最後に彼の名前を呼ぼうとしたが、声にならない。
「……君は……『図書館の幽霊』……なのか? 確かエリアーデと…」
その時、彼の静かな、けれど切実な問いかけが聞こえた。アレクシス殿下が、私――おそらくは、かろうじて残る光の残滓――に向かって手を伸ばしている。使用人たちの間で囁かれていた名前を、彼は覚えていたのだろうか。その瞳には困惑と、しかし同時に、私という存在への強い関心と、失いたくないという想いが宿っていた。
「……殿下、これを」
セレスティーナ令嬢が、素早くアレクシス殿下の隣に進み出て、胸元から小さなロケットペンダントを外した。
「これは我が家に伝わる、不安定な魂を鎮める力があるという古いお守りです。気休めかもしれませんが……!」
彼女は、アレクシス殿下が手を伸ばす空間――私が消えかかっている場所――に、そのペンダントをそっと差し出した。
ペンダントから放たれる、温かく清浄な光が、薄れゆく私の意識を優しく包み込む。消えかけていた輪郭が、ほんの少しだけ、確かなものに戻った気がした。
アレクシス殿下は、ペンダントを差し出すセレスティーナ嬢に一度頷き、そして再び、私だけを見つめて、静かに、しかしはっきりと告げた。
「……君が誰であろうと、どこにいようと、必ず私が見つけ出す。そして、守り抜くと誓おう」
彼の言葉が、温かな光と共に、私の魂に深く、深く刻まれた。
***
玉座の間に、重い沈黙が落ちていた。先ほどまで響いていた怒号や幻影の音声が嘘のように、静まり返っている。皆の視線は、怒りと屈辱に顔を歪める第一王子レオニールと、彼の前に突きつけられた動かぬ証拠――エリアーデが命がけで再現した幻影――に注がれていた。
やがて、玉座の国王陛下が、深く長い息を吐き、厳かに口を開いた。その声は、失望と、為政者としての厳格さを湛えている。
「……レオニール。言い訳はあるか」
「ち、父上! これは罠です! あの幻は、アレクシスか、あるいはあの小娘が仕掛けた妖術に違いありませぬ!」
「往生際が悪いぞ、兄上」
アレクシス殿下が、静かに言い放つ。彼の隣では、セレスティーナ令嬢が毅然とした表情で立っていた。
「あの幻影が真実であることは、そこにいる貴殿の側近たちの狼狽ぶりを見れば明らか。そして、鉱山の権利書や関連書類の不自然な改竄は、専門家が鑑定すればすぐに判明することです」
国王陛下は、レオニール王子とその派閥の貴族たちを厳しい目で見据え、裁きを告げた。
「第一王子レオニール、お前には王位継承権の剥奪、並びに生涯にわたる辺境領地への幽閉を命ずる。また、この陰謀に関わった貴族たちは、その位階に応じ厳罰に処す!」
レオニール王子は顔面蒼白となり、何事か叫ぼうとしたが、衛兵に取り押さえられ、無様に玉座の間から引きずられていった。他の貴族たちも次々と連行されていく。まさに、自業自得の末路――「ざまぁ」と言うべき結末だった。
嵐のような糾弾が終わった後、アレクシス殿下は、国王陛下とセレスティーナ令嬢に礼を述べると、一刻も早く私の元へ戻りたいというように、足早に玉座の間を後にした。セレスティーナ令嬢は、そんな彼の背中を、少し寂しげに、けれど優しい微笑みで見送っていた。
***
図書館に戻ったアレクシス殿下は、セレスティーナ令嬢から一時的に預かったペンダントを手に、私の気配を探した。ペンダントの力のおかげか、私の意識はかろうじて保たれ、以前より少しだけ輪郭がはっきりしている気がする。
「エリアーデ……聞こえるか?」
彼の優しい声がすぐそばでする。私は、まだ声は出せないけれど、彼の手にそっと自分の(透けた)手を重ねるように念じた。
「……! 感じる……君の気配を、確かに感じるぞ」
彼は驚き、そして愛おしむように、何もない空間をそっと撫でた。
それから、アレクシス殿下は、王宮の学者やセレスティーナ令嬢の協力を得て、幽霊である私をこの世界に繋ぎ止め、より確かな存在にする方法を探し始めた。古文書を読み解き、時には危険を冒して古い遺跡へ赴くこともあった。
そして数月後、彼はついに、図書館の奥深く、隠された書架から一つの答えを見つけ出した。それは、図書館の精霊(あるいは、本を愛し図書館に強く縛られた魂)が、特定の条件下で、主と定めた人物の魔力供給を受けることで、限定的ながら実体を得るという古代魔法だった。
儀式は、満月の夜、図書館の最も古い一室で、アレクシス殿下と私、二人だけで行われた。彼が古代語の呪文を唱え、自身の魔力を注ぎ込むと、ペンダントが眩い光を放ち、その光が私を包み込む。
体が、熱い。形作られていく感覚。失われていたはずの五感が、ゆっくりと戻ってくる。
光が収まった時、私は、自分の手で、床にしっかりと立っていた。まだ少し透けているような、おぼろげな実体。けれど、確かに私はここに「存在」している。
「……アレクシス、さま……」
掠れたけれど、初めて、自分の声が出た。
「エリアーデ……!」
彼は感極まったように私の名を呼び、そっと、けれど力強く、私を抱きしめた。温かい。彼の腕の感触、彼の鼓動。涙が、頬を伝う感覚。私は生きて(?)彼に触れている。
【エピローグ】
あれから一年。私はエリアーデとして、王宮図書館に「住む」ことになった。普段は半透明の姿だが、アレクシス殿下がそばにいてくれる時や、図書館の中では、かなりはっきりとした姿を保てるようになった。まだ自由に外を出歩くことはできないけれど、大好きな本に触れられるだけで、そして何より、愛しい人のそばにいられるだけで、私はこの上なく幸せだった。
今日の午後も、いつものように、窓際の席でアレクシス殿下と二人、静かな読書の時間を過ごしていると、控えめなノックの音と共に、セレスティーナ令嬢が姿を現した。事件の後、彼女は良き協力者として、時折こうして私たちの様子を見に来てくれる。
「ごきげんよう、アレクシス殿下、エリアーデ様。…あらあら、今日も仲睦まじいことですわね」
セレスティーナ令嬢は優雅に微笑むが、その瞳の奥には、ほんの少しだけ複雑な色がよぎったのを、私は見逃さなかった。
「セレスティーナ様。先日は貴重な資料をありがとう。おかげでエリアーデも、随分と安定してきた」
アレクシス殿下が礼を言うと、彼女は扇で口元を隠す。
「お役に立てて光栄ですわ。それにしても殿下、まさかこれほどまでに『図書館の幽霊』に夢中になられるとは、恐れ入りました」
その言葉には、親愛と共に、諦めきれない何かが滲んでいる気がした。
「私にとっては、かけがえのない存在だ。それだけだ」
アレクシス殿下は、私の手を取り、きっぱりと言い切る。その強い眼差しに、セレスティーナ嬢は一瞬息をのみ、そして、ふっと肩の力を抜いたように微笑んだ。
「……そうですわね。殿下らしいお答えですこと。…エリアーデ様、あなたも大変でしょうけれど、この朴念仁な殿下のこと、よろしく頼みますわね?」
「は、はい! 未熟者ですが……」
突然話を振られ、私は少しどもってしまう。
「ふふ、謙遜なさらないで。あなたがいなければ、今頃どうなっていたことか」
セレスティーナ嬢はそう言うと、「長居は無粋ですわね」と軽く会釈し、静かに部屋を後にした。
残された私たちは顔を見合わせる。
「……セレスティーナ様、少しだけ、寂しそうでしたね」
「……そうだな。だが、彼女も前を向くだろう。それよりエリアーデ、さっきの本の続きだが……」
彼は少しだけ遠い目をして、けれどすぐに私に向き直り、いつもの優しい笑顔で本の続きを読む。
図書館の窓から差し込む柔らかな日差しが、私たち二人を優しく照らしている。本の匂いと、彼の温もり。ここが、私の、私たちの、永遠の場所。
図書館の幽霊は、今日も大好きな王子様の隣で、幸せに微笑んでいる。
いかがでしょうか?
小説を書き始めて初めて作家様の苦悩を知りました。
皆様からの応援が励みになります。
よろしくお願いいたします。






