第9章 職業選択の自由
高校二年の夏休み。受験のことを考えたら来年はあれなので、高校最後の夏を満喫できる時間ですよね。
早いもので、この物語が始まってからおよそ一年が経過したところ。そろそろどの大学、どの学部を受けるか。で迷えるぎりぎりの時期でもあるかも。
進路で揺らぎつつ、それぞれが夏を楽しみ制作に励む。うん、完璧ですね!
名越の彼女の友達の宮路さん(連絡先交換した)が何故かわたしの作品のファンになってくれたこと以外、特に波乱も意外な出来事もなく文化祭は平和に終了した。
うちの高校は一応ガチの進学校だからか、受験生である三年が心置きなく最後の文化祭を満喫できるようにって意図なんだと思うけど、毎年七月末の夏休み直前に日程が設定されてる。つまり、最終学年の夏期休暇はもう受験勉強に全てを注ぎ込めというつもりだろう。そこまで学校が気を回して逃げ場ないほど追い込まなくてもいいじゃん、という気もするが。
まあそう考えると、呑気な夏休みをだらだら過ごせるのもわたしたち二年生にとっては今年限りか。と思いつつ、去年一年生だったときと大して変わりなく特に予定もなく、ただひたすら平常運転でのんびりと心身を休めるつもりだったのだが。
「え、笹谷まじで美術予備校の夏期講習行かないの?前にも言ったけど、講習代くらい俺がポケットマネーから出すよ?」
文化祭直後の絵画教室からの帰り道。名越から驚いたような顔つきで改めて念を押された。
お前のポケットマネーって、一体どれだけあるんだ!と思ったけど、もうそこを突っ込む気もしない。いっぺんこいつの実家がどんな豪邸か見てみたいけど、うっかりそんなことぽろりとこぼしたらまじで連れていかれそうだから気をつけよう。と考えつつわたしは用心深く言葉を選んで名越に向かって言い訳した。
「お金も正直、何の見返りもなく好意に甘えるわけにはいかないと思うけど。そもそも美術予備校の夏期講習に行くなんて知ったらうちの親どう言うか…。普通に考えて、そんな時間あったら普通の予備校の講習行けば?って言われると思う。美大に進みたいって考えてるの?とか、不審に思われること間違いなしだし」
「そこは普通に進みたいって言えばいいんじゃないの?てか、選択肢として検討するのも駄目なのか。予備校行ってみて講座受けてみたら、見方や考え方も変わってやっぱり美術の道へ進もう。って気になる可能性だってあるかもよ」
むしろ二年生のときにいろいろ体験しておいた方が。ぎりぎりまで迷わずに考える材料早めに揃えられるから絶対いいと思うけどなぁ。と両手を頭の後ろで組んで歩きながら嘯く名越なのだった。
「三年のコースよりは授業数も少ないし、まだガチ感薄いから体験版って感じでリーズナブルだよ。お試しでどう?俺はどっちみち行くけど」
「うーん…、とりあえず。今回は見送る」
誘ってくれる名越の考えとしてはただ親切で言ってくれてるのはわかるから。わたしは無碍には聞こえないよう慎重な言い回しでその申し出を断った。
「三年よりは少ないって言っても夏休み中ずっとなら、回数もあってそこそこかかりそうだし。さすがにそこまで友達に負担させるわけにはいかないよ…。本気で美大考えてるんなら親に縋って頭下げてでも出世払いで立て替えてもらうよう頼むけど。正直わたし本人にそういうつもりがないわけだから…」
ただの野次馬的な気分で興味本位で覗きに行くだけにしては時間もお金もかかり過ぎる。と考えてそう説明すると、ようやく名越はそうかぁ。とちょっと名残惜しそうながらも引き下がってくれた。
「確かに。金額はともかく、時間はそれなりに取られるからな。その気もないのに無理強いはできないか…。あんたの絵を見て他の受験生がどういう反応みせるか。それを確かめてみたかったんだけどなぁ」
だから、それは一体何のために?
ひとしきり悔しがってみせてから、じゃあ今回は諦めるけど。と改まって迫ってきた。
「そしたらさ。次の冬期講習は行けるよね?年末年始挟むから日数も少ないし、そこから初めて参加する二年生も結構いるみたいだし。まだその時点でもさほど空気は切羽詰まってないらしいから様子見にはいいよ。ご両親には絵画教室で勧められたとでも言えばいいんじゃん?団体申し込みで講習代の割引効いたとかさ」
「団体っていうほど人数いないけど。あんたとわたしだけじゃん」
そう突っ込みはしたけど、まあありかな。どうせ母親は教室に同年代が何人通ってるかも知らないんだし、そこはごまかせるか。とうっかりちょっとだけ説得されてしまった。
わたしが内心で少しぐらついたのを名越は敏感に察知して、途端に嬉しそうに弾んだ声で返してくる。
「そこはまあ、方便なんだから何とでもなるでしょ。だったら決まりだね、今回は俺が一人で現地視察してくるから。あんたが一緒に来る冬に備えていろいろ情報仕入れておくよ。都度報告するから楽しみにしておいて」
「そんなの。別に後回しでいいよ…。それよりあんたは本気で美大受けるつもりなら、せっかくの機会なんだしちゃんと勉強して上達することに集中して。わたしのことなんてそれに較べたら全然どうでもいいでしょ」
呆れてそう言うと、まるでわたしが名越のことを心配してるとか応援してるみたいに受け止めた風でやつは愛想よくにっこりと笑みを返してきた。
「うん、そこは抜かりないって。しっかり本気出して吸収してくるからさ。それに俺、基礎はばっちり身についてるから。テクニック的なことなら多分そんなに苦労しないよ。だからそれ以外の部分だな、幅を広げるとしたら。テーマとか表現とか、普段思いつかない発想みたいなところかなって」
ぬけぬけとテクニックについてはは今さら教えてもらうことない、と平気で言い切るのが名越らしくてまた憎らしい。しかもそれも全然大袈裟でも自惚れでもないんだから…。わたしはため息をついて、おざなりな口調で同意してみせた。
「うん、そうだね。名越よりも画力の高い人なんて講師の先生含めてもそうそういるわけないし。せいぜいいろんな人の絵をたくさん実地で見てイメージ広げておいでよ。美大受けるに当たって、自分と違う世界観を持つ他人の表現を知るのはきっと無駄にはならないんじゃない?」
自身より実力が明らかに上過ぎる相手にわたしから言えるアドバイスなどほとんどない。言わずもがな程度の言葉しか思いつかないが、それでも名越は上機嫌で素直に頷いてくれた。
「そうだな。笹谷みたいに世界観と作風が既にばっちり決まってる描き手には大して必要じゃないものなんだろうけど。俺にとっては多分意味のある経験だろうからな…。あ、あと。八月に入ったら美術部の合宿あるから。それはきっちり予定入れといてよ、もうあんたの分も一緒に申し込んでおいたからな」
またかよ。いつもそれだな、お前。
「別にもう、そのくらいは断りはしないからさ…。一応こっちに話通してよ、自分でちゃんと申し込みするし。それに本当に外せない用事があることだって絶対ないとは言えないでしょ?法事とかお葬式とかさ…」
「…葬式はそんな前から予定入れられないだろ、普通」
いつも飄々と人を食ったような笑みを浮かべてる名越が急にすんと真顔になってマジレスしてきた。うん、そうだね。わたしも言ってる途中であれ、しまったと思ったよ、内心でな。
まあそれはそれとして、いやぁ楽しみだなぁ。海辺の宿で二泊三日だよ!と再び気分を切り替えていつもの調子で盛り上がってる名越の横で。わたしは聞かされた日程をちまちまとスマホのカレンダーに登録しつつ、そういえば最近あいつと全然連絡とってないな。夏休みに入ることだし、さすがにそろそろこっちからご機嫌伺いでもして構ってやるか、とこっそり心の中で呟いて、あとで一人になったときにLINEしとこう。と頭の隅に留めておいた。
夏休み第一日目。
「…いや、正直今日は直織が観に来てくれると思わなかったよ。直前にいきなり連絡くれるしさ。どうしたの、急に」
今日はフットサルの大会。と言っても地方大会とか全国への予選とかじゃなく、社会人も大学生も高校生も自由に参加できる和気藹々としたプレイを純粋に楽しむための大会らしい。だから何もわざわざ、お弁当を作って応援に駆けつけるような必要性もないもんだけど。
ある意味賑やかなお祭りみたいなもんで、わたし以外にも選手の家族や友達や彼女と思しき観客が結構たくさん来ている。こうしてお昼休みになるとそれぞれが応援してる出場者の周りに集まって一緒にお弁当を広げているので、やっぱり来てよかったな。少なくとも吉村をここで一人にしなくて済んだし、とちょっとほっとする思いで自作の唐揚げを箸で摘み上げつつぼそぼそと答えた。
「久しぶりにお弁当作ってみたくなったから…。学校行く日に自分の作れって話だけど、平日はそこまで早く起きらんないし。学校のお昼は購買で買ったパンでもわたしには充分だから。がっつり作る機会とかなかなかなくて…」
「練習台かい!まあ、それでも嬉しいけど。まじで美味しいよこれ。本当に直織が自分で全部作ったの?」
別にこの弁当の中身のほとんどが直織んちのお母さん作でも全然嬉しいから俺は気にしないけど。と屈託なく笑っておにぎりを手にする吉村。どういう意味か、結構失礼だなこいつ。
「すいませんね、わたしの母親が作った方が味が安定してて。けど食べてみるとわかると思うけど。今日のは全部味がぶれぶれだよ。次作ると全く同じ味にはならないやつだからね、手慣れてないから」
ぶすくれてそう言い返す。吉村はわたしの愛想のなさは大して気にならないみたいで、わかってるよ。と返して鷹揚な顔つきで卵焼きを箸で持ち上げた。
「単に例えで言っただけだよ。仮にお母さんに作ってもらったのを詰めてきただけでも俺はその気持ちが嬉しいってこと。…でも今回のは、お母さんが作ったのとちょっと味違うのなんとなくわかるし。だけど、すごく上手だからさ。前に直織が作った料理食べたことあるけど、こんなに美味かったっけかなぁ…と」
やっぱりそこはかとなく失礼だ。と憮然となりながらも一応褒めてくれてるのは伝わってきたので、やや態度を軟化させて自分も再び箸を動かす。
「高校生になってからは以前より料理するようになってるし。うちの母親、こないだから正規社員になったからね。夕食をわたしが一人で作る日もあるよ。五月まではパートだったから、こっちもせいぜいご飯炊いてお味噌汁かスープ作るまでしか手伝いしてなかったけど」
「まじかよ、すごいな。てか直織、去年より今年の方が自分だって忙しくないか?」
本気でちょっと驚いたみたいで、ぴたりと箸を止めてまっすぐにこちらを見る。
「去年の今頃は部活にも入ってなかったし。絵画教室にも行ってなかったから、大抵家でごろごろしてたじゃん。今年は文化祭に出展もしてたし教室もそのまま続けてるんだろ?よほど去年より大変だろうに…」
心配そうな顔で気遣ってくれる。全く幼馴染みに甘いやつだ、と半分面映く半分ありがたく思いながら慌てて否定した。
「いや、大したもん作ってないから。カレーとかシチューとか揚げ物とかだよ。親もわたしと圭太の学費のために頑張って仕事量増やしてくれてるんだから、出来ることはやらなきゃね。その上美術部の活動はお金かかるし。画材やら何やらで…」
部活だけじゃなく、それとは別にわざわざ大河原先生んとこに通ってるのも余計に負担かけてる。そういう自覚があるからどうしても、言われる前にあれこれと家の手伝いを出来る範囲でだけどするようになった。というのもある、ここでいちいち説明はしないが。
偉いなぁ、と齧りかけのおにぎりを手にしみじみと感心してみせる吉村。
「かかるったって、遠征費用やら用具やら何かとかかる運動部とか楽器が高い音楽系の部活に較べるとそこまででもないだろ。画材くらいなら、そんなに気に病まなくてもお父さんお母さんも普通に出してくれると思うよ。料理のスキルを身につけるのに無駄とかはないからいいけど。何も家の中で肩身の狭い思いして萎縮までする必要はないんじゃないかな」
直織んちの両親なら、高校生の部活で使うお金くらいは親が出すのが当たり前って考えでいると思うよ。と旺盛な食欲を見せて唐揚げを次々と口の中に放り込む吉村。まあ、多分そうなんだとは思うんだけどね。
「美術部で使う画材だけで済んでるならこっちもまだ気が楽だったんだけどね。やっぱり、画塾はなぁ…。大河原先生のおかげですごく上達した気はするし、得たものは大きいからできたら当分やめたくはないけど。将来絵で食ってくわけでもないのに、そこまで必要?って正面切って訊かれたら。…まあ、ただの趣味だとしか。答えようもないもんなぁ…」
肩をすくめてそう述懐すると、何故か吉村は微妙に表情を引き締めて居ずまいを正した。
「そのことだけどさぁ。…直織はやっぱり本気で、将来的に絵を仕事にする気ないの?今も去年の今頃と考えは変わらないのか?」
「へ?」
半ば愚痴か独り言、みたいな感覚で深く考えずに呟いてたわたしはやや真剣に思えるその問いが思いがけなくて、一瞬フリーズした。
「何でまた改まって?その話はすでに前に吉村ともした気がする。美大に行かなくていいのかって訊かれて、絵は趣味でいい。って答えたことあるような」
「でも、それは体育祭と文化祭の前のことだったから。そのあとは改まって将来の話する機会とかもなかったし。今は一年のときとは較べものにならないくらい、直織も真面目に美術に打ち込んでる様子だしね」
まあ、傍からみたら。絵画教室と部活を掛け持ちしてる時点で、よほどこいつは絵が好きなんだな。本心ではこれで食えれば食っていきたいんだろうなぁとか。想像されてもおかしくないのかも…。
吉村は自分のお茶のペットボトルを手に取って、蓋を開けるでもなくただ弄びながら言葉を選ぶように話し出した。
「てか、あの話したときは。最近の直織の絵を見る前だったからさ…。体育祭の立て看も文化祭の美術部の展示も見たよ。結構びっくりした、去年の団地のお祭りのときの看板やポスター、見せてもらったスケッチブックの絵とは全然変わってて。絵画教室に通ってきちんと正規の指導受けるとこんなに違うんだ、本当に巧くなってるんだなぁと」
「それは。…どうも」
真っ正面から褒められてむず痒い。てか、そうか。意外と長いこと、吉村は絵を勉強し始めたあとのわたしの絵を見てなかったんだな。
こっちとしては去年のお祭りの看板のあとも、美術部で描いた少女と林檎の絵から始まって大河原先生のとこでもずっと何かしら描き続けていたから。人前に出したのが体育祭の看板でだいぶ久しぶりだったのを忘れていた。文化祭展示とでたまたま、立て続けだったことになる。
「一年近くかけて少しずつながら進歩してるかなってつもりだったんだけど。見てる人から見れば間をすっ飛ばしていきなり画風変わった?って印象になるね、確かに。ごめんね全然描いたもの見せてなくて。これ見てって堂々胸張れるほど納得いく出来ってわけでもなかったからさ、絵画教室で描いてたやつも」
「いや巧さはともかく、画風っていうかテイストはそんなに変化してないと思う。今のも間違いなく直織の絵だってすぐにわかるし…。でも、以前は確かに描くのが好きだから個人的に趣味で描いてますっていわれてもちょっとわからなくもなかったんだ。専門的にやってなくても別に充分巧いじゃんと思って見てはいたけど」
うん。スケッチブックとか見せるといつもそう言って褒めてくれてた。わたしもときどき知り合いからそういう評価だけをもらえるだけでもう満足してたし。
「けど実際に、今の直織が描いた作品をこの目で見てみたらさ…。すごくデッサン力も上がってて色遣いも綺麗になったし。これって絵を本業にするのも別に無謀な夢でもないんじゃないか?充分都会に出て戦って、アートで大成できる可能性あるんじゃないの?って思えてきて。正直これをちょっと絵の巧い子の個人的な趣味として埋もれさせるのは勿体ないよなぁ、と…」
遠慮がちに言葉を選びながら、でも熱を込めてそう力説されてまあ確かに。吉村ならそう言うよな。と納得はする。
「今よりずっとわたしが下手くそな頃から本格的にやればいいのに、って言ってたもんね。せっかく人より得意なものがあるんだからそれを活かせばいいのにって考えてくれてるのはわかる。けど、そう簡単なことじゃないよ。わたしより全然巧い人、身近にもまだたくさんいるし」
「名越とかだろ。それは知ってる、あいつの絵俺もあれから見たし。めちゃくちゃ巧いけどでも、直織の方が下手とか惹きつける力がないとは思わないし。どっちが上とか下とかより見る人の好みの問題じゃない?」
ずいぶん前に大河原先生に言われたようなこと言われた。てかこれ、確か名越当人からも同じような台詞聞いたような。
「名越のみたいなまるで本物かと思うくらい現実感のある、写実的な絵柄が好きな人もいるだろうし。直織のみたいにリアルとはちょっとずれた不思議な異空間に迷い込んだような独特の空気感が好きでたまらないって人もいるだろ。てか両方ともそれぞれいいなと思ったって全然いいわけで。どっちか絶対選ばなきゃいけないってこと、そもそも前提としてないんじゃない?」
「みんな違ってみんないい。ってわけね」
そうは言ってもなぁ。わたしは何度か漠然と考えてみたことを改めて言葉にしようとためらいつつ口を開く。
「でもそれは逆に、趣味で楽しく描いててこそだと思うな。向こうもこっちも好きでいいよね、ってフラットに評価して優劣つける必要ないっていうのは…。美術予備校行って受験してってなると当然どっちが上とか誰がトップとかって話になるし。あの人は受かってこっちは落ちたとか、そういう風に否応なく結果が出て殺伐とした空気になるでしょ。せっかく楽しく絵に取り組んでるのに、台無しだと思わない?」
「うーん…。そうか」
表面的に謙遜してみせたんじゃない本心からの台詞だと伝わったのか。吉村はなるほどなぁ、とやや考え込んでからやがて天を軽く仰いだ。
「確かに。受験とか大学での評価の良し悪しとかはどうしても順列に繋がるからなぁ…。ただ楽しく描いて、それを見てくれた人が喜んで。っていうシンプルな構図からはどうしても外れるよね。少なくとも大学卒業しちゃえば評価とか成績みたいなところからは遠ざかれると思うけど」
「いや逆に卒業したらさらに荒野だよ。自分の描いた絵が売れるかどうかっていうあからさまにシビアな評価に直面する羽目になる、世間からの」
「なるほどな。…そういうのが嫌なのか、直織は。ちょっとだけど気持ちとしては理解できるな」
やつはため息をつき、ふと自分の手許にあるペットボトルに改めて気づいたように目を向けてからおもむろに蓋を外してひと口中身を飲んだ。
「受験のための絵、成績を評価されるための絵。売れるための絵を描くのが嫌ってのは想像できなくもないかな。それがきれいごとというか、子どもじみた潔癖なものの見方だって言う人の意見もわかるけど。…俺なんか、直織に較べたらそもそも才能ないから同列に語るのもどうかと思うけどさ。サッカーだってそうだもんな」
きゅ、とペットボトルに蓋をして遠い目を宙に彷徨わせる。
「ガキの頃はただボールを蹴って走り回ってるのが楽しくって。あれ、俺他のやつよりちょっと上手くない?とか頑張ればどんどん上達していく段階とかはただひたすらめちゃくちゃ楽しかった。けど成長して、チーム戦とかレギュラー争いとか。トーナメントを勝ち抜くとかいう話になってくるとさ。子どものときみたいな純粋な楽しさはどんどんなくなっちゃう気がしてきて…」
「…うん」
実際に小さな頃、いつまでもボール蹴って走り回ってて男子はよく飽きないよなぁ。と呆れて見ていたあの満面の笑顔を思い出して何とも言えない気持ちになる。きゅっと胸の奥が微かに鳴った。
中学でもサッカー部に入って頑張ってたけど、レギュラー争いとかそれなりに大変で思うところがあったのかな。高校でサッカーの強豪校とかをあえて選ばなかったのも、本人としては考えて納得した上での選択だったんだろう。周りからはもっとやれるんじゃない?と結構言われてた覚えがあるけど。
もっとも吉村本人は勿体ないと思う気持ちはないみたいで、再び箸を手に取りながらきっぱりと言った。
「そりゃ、全国大会とかプロとか目指すレベルの選手ならさらにその上の喜びがあるのは想像つくけど。自分はそこにはいけないと察しちゃったらやっぱり折れるよな。もう無理のないペースでみんなと仲良く楽しめるやり方がいい。多分、草野球のチームとかで余暇にプレイを楽しんでる人たちもそんな感じだと思うよ。てわけで、俺としてはフットサル、あってよかったなって感じだけど」
「うん。…わかる」
頑張ればもっと上でやれた、とか他人は簡単に言うけど無責任な言い草に過ぎないもんな。吉村がそれで腑に落ちてるならそれでいい、と共感してしみじみ呟いてたら。思いがけなく矛先がこっちに回ってきた。
「でも、直織については俺と同じレベルで考えていいかどうか迷う。美大に絶対行くべきとか将来画家として絵一本で食っていけとかは言わないけど。何かの形で作品が広く人の目に触れる仕事ができればいいのにとは思うよ。サッカーでプロ目指すのと同列に考えるのは違うような…」
「まあ、作品の公開の仕方もいろいろあるからね」
漠然と話の筋をずらそうとはぐらかす。
「美大なんか行かなくても、普通の暮らしの傍らのんびりペースでときどきSNSでイラスト上げるとか。それで少しは見てもらえて、多少でもいいねがつけば充分満たされるでしょ。趣味とは言っても今どき他人の視界に入る術はいろいろあるし、完全に埋もれたりはしないよ」
「うーん…。それで何かの仕事に繋がればもちろん、いいけどね。大学で学ぶだけが作家になる唯一の道じゃないのかもだけど…」
その煮え切らない口調、やっぱり本心ではまだ美大に進んだ方がいいんじゃないか。ってちょっとは思ってる気がする。あんなに描けるのになぁ、とため息混じりに二つ目のおにぎりに手を伸ばした。
「あの絵、本当に良かったから…。文化祭のやつ特に好きだよ。なんかきらきらしたメタリックな魚の表現がよくて。独特な色の感じとか窓から差してる光の反射とか、どうしてか思わず見入っちゃうんだよな。写真に撮っていいかどうかわかんなくて撮ってはいないけど」
「何だ、そんなの。その場でLINEで訊いてくれたらよかったのに。そしたらわたしが撮ったの送っとくよ」
スマホを取り出してぱっぱっ、と操作して自分のフォルダにあったその作品の写真を吉村にLINEで送信した。彼のスマホがぴこん。と鳴ったのをいそいそと確認し、笑顔になる。
「これこれ。…小さくなってもめっちゃ、いいなぁ。本当好き。待ち受けにしてもいい?勝手にどっかにアップしたりしないからさ」
「おんなじこと言われたな、そういえば。あのとき別の人に」
ふと宮路さんのことを思い出してそう呟く。まあ、確認は大事だよね。普通は他人の作品を勝手にアップしないだろとこっちが思ってても向こうにそういう常識がない場合もあるかもだし。
ふと口をついて出た何気ない独り言だったけど、吉村は素早くそれに食いついてきた。
「何それ。もしかして、やっぱり俺の他にもこの絵を気に入った人がいたってこと?ほらな、見る人はちゃんと見てるんだよ。公開さえすれば絶対人気出ると思ったんだ、直織の絵なら」
俺の見る目は間違ってなかったな!とか言って悦に入ってる。何故か得意げな顔つきでアスパラのベーコン巻きを齧ってる吉村に、わたしは肩をすぼめて正直に言った。
「そう言うけど。あの絵を気に入って褒めてくれたの、吉村の他に一人だけだよ。あんたはいつも人前に出しさえすればめちゃくちゃ人気出るみたいに言うけど、あれで人がわたしんとこに押し寄せてくるようなこと、全然なかったから。文化祭や体育祭で作品披露したからって何も変わらなかったよ」
絵を公開さえすればみんなに大人気でわたしの毎日が変わるみたいな事態にはならなかった。そりゃそうだよな、吉村がそもそも大袈裟なんだよと思いつつもちょっと拍子抜けというか。やっぱりね、と現実を見た気分にもなる。
だけど吉村はそのくらいじゃ全然へこたれない。
「わざわざ直織んとこに直に感動を伝えに来たやつが一人だったってことだろ?内心でいいなと思ったのはもっと全然たくさんいるってば。普通展示を見て気に入ったりすごいなぁと思っても、作者のとこに行ってそれを表明しようとはなかなか思いつかないよ。だから、行動に移さないだけで感銘を受けた人たちは直織が思うより絶対に多いはずだって」
「よくそこまで楽観的になれるなぁ…。ひとつ見つかれば裏には百はいるはずって、なんか聞いたことある言葉だな。あ、ゴキの話か…」
思わず頭に浮かんだことをそのまま口にしたわたしを吉村はすっかり呆れた顔つきでたしなめた。
「Gの話やめろ。てか、思いつく例えが酷いぞ。自分のファンのこと、もうちょっとましな表現で飾れないもんかね」
「別にその人のことをなぞらえたわけじゃないから。吉村の言い方のせいでゴキを思い出したってだけだから」
「…よ、相変わらず仲良しだよね。お二人さん」
おっさんみたいな冷やかし方でひょいと顔を突っ込んできたその人のいきなりの登場に毒気を抜かれるわたし。
一方で吉村はと言えば、まるで意表を突かれた風もなくおっとりと彼の振りに応じる。
「お、長谷川。飯食い終わったの?もしよかったら、これ少しつまむ?直織が作って来てくれたんだけど。二人には充分なくらいたくさんあるから」
と言って、目の前のお弁当を指し示す。長谷川くんはおお、すごい。と目を輝かせ、満更お世辞とも言い切れない顔つきでわたしの覚束ない料理を褒め称えてくれた。
「めっちゃ豪華じゃん。これ、笹谷さんが一人で作ったの?まじ有能。絵が上手いだけじゃなくて何でも出来んだね。…あー、裏山。俺もこんなおべんと作って来てくれる彼女が欲し…」
大袈裟ない口調でそこまで口走ったところで、しまった。とでもいうようにわたしたちを見やって口を噤んだ。
「…そういえば、二人は彼氏彼女じゃなかったんだっけ。ごめんな、つい。あんまり一緒にいるのが馴染んで自然に見えるから…」
「まあ。付き合い長いしね、ほとんど物心つく前からだから」
恐縮する長谷川くんに、のほほんとこだわりない態度で吉村はフォローする言葉をかける。
「親同士が知り合いで子ども同士がほぼ同年代だから、ひとまとめで育ったようなとこもあるし。傍からいろいろ言われることもあるけど、俺たちにとってはこれが当たり前の状態だからね」
「うーん、でも考えてみたらそれも羨ましいよなぁ。家族ぐるみで幼馴染みのタメの女の子と高校までずっと同じ、なんてさ。まるで漫画のラブコメじゃん?」
あ、あんたたちの関係がラブコメだって言ってるんじゃないよ?あくまで一般的に、設定がね。と再び言葉の選択を誤ったとばかりにわたわたと訂正する長谷川くん。なかなか細かく気を遣ってんなぁ。
そうやってしばし、小型の重箱に詰めたわたし作のお弁当を三人で囲んでつまみながら他愛のない雑談を交わす。うちのクラスの雰囲気がどうだとか、あの教科のあの先生の授業まじわかりにくいよねーなんて話。
そろそろ昼休憩も終わりに近づいたとき、吉村が俺、一応トイレ済ませてくるわと立ち上がって手を振って立ち去った。長谷川くんはそれと同時に自分もじゃあと席を立つのかなと思ってたわたしの予想を覆し、あーあと思いきり伸びをしてからお弁当に目を落としてこの残ってる唐揚げ、最後もらってもいい?あいつ戻って来てから食うつもりあるかなと心配げにわたしに問いかけた。
「全然いいと思う。もしも万が一、まだ食べるつもりだったって言うならまた別の機会に作ってやるからってわたしからフォローするし。それより長谷川くんが食べてくれる気になってくれる方がこっちとしても嬉しいよ。残るより一個でも減ってくれたら…。大丈夫?それ、味付けとか。正直そんなに自信ないけど」
吉村は褒めてくれるけどあいつはわたしに関しては何でも絶対に褒めるからな。というか吉村が他人の悪口言ってるの、わたしほとんど記憶にないかも。あの懐の広さと気心の大らかさはまじで異常生物レベルだと思う。
長谷川くんは人の良さそうな顔を綻ばせて、唐揚げを刺したピック(一応用意してあった。割り箸は二膳しが持参してなかったから)を手に明るく請け合ってくれた。
「いや、ちゃんとめちゃくちゃ美味しいよ。普段から料理とかするんだな、味が決まってるなって思った。付け焼き刃な出来栄えじゃないもんな。…それにしてもごめんね、俺もつい軽いノリでさ。本当にただ羨ましいなって深く考えもせず…。笹谷さんって、こういう風に揶揄われたりすんのすごい嫌なんでしょ?」
「ああ…」
声を落として気掛かりそうに尋ねられ、どうして彼がそこまでうっかり発言を気に病むのか、その原因がようやくぼんやりとわかってきた気がした。
「もしかして、あいつに何か言われた?付き合ってるんじゃないのとか付き合っちゃえばいいのにとかはあんまりわたしの前で言ってくれるな、みたいに」
「ああ、そう。ずいぶん前にね。あの子彼女なんでしょ、そうじゃないんなら早めにもう決めちゃいなよみたいなことを軽い気持ちで揶揄う感じであいつに言ったらさ。…あ、これ笹谷さんがいないときにだよ?油断していつまでも放っといたら向こうに取られちゃうよとか、…ああ。これもまた余計なこと言っちゃったな…」
大体誰のこと言ってるかわかる。苦悩してる長谷川くんにはそれ以上突っ込まず、わたしは小さく肩をすくめた。
「大丈夫。そこまで今は気にしてないから。だけどね、小中学校の頃は…。もう本当に嫌だったの、めちゃくちゃ揶揄われて。吉村の奥さんじゃんとか二人はもう出来てんの、どこまでいった?とか。ほら、がきんちょって。そういうとこあるじゃん?大して意味もわかってないのにさ」
「ああ、なるほどわかる。小学生とかむしろひどいよな。ガキすぎて全然デリカシーないもんな」
長谷川くんは即わたしの言いたいことを理解して、不快そうに顔をしかめてくれた。
「男子と女子が一緒にいるだけでもう餌食だからね。幼馴染みってなまじそういう年代を経てきてるから、かえって男女関係に見られることにアレルギー強くなるような気がする。まあ、中学生くらいになると周りの親しい友達はさすがに落ち着いてきて、あいつらは本当にただの幼馴染みでしかないってすっかり納得してくれたみたいだけど。よく知らない人たちからは、それでもまだいろいろと言われたな」
特に中学時代はよりによって吉村がサッカー部でそこそこ目立っていたから、おかげでわたしはほぼ見知らぬ相手からの意図しないとばっちりを受ける事態に悩まされないこともなかった。
何故か下級生の集団に呼び出され、笹谷先輩って吉村先輩の何なんですか?とか問い詰められたこともある。顔を真っ赤にして思い詰めた様子の可愛い子を取り囲んだ女子たちに、恋愛ものの仇キャラを見るような顔つきで睨まれたこともあったなぁ。ほんと、まじで意味わからん。その行動で君の恋は成就する見込みが増えるとでも?
…と、そこまで久々に思い出したところでこの記憶はなんか既視感があるな。そうかこの前の名越の彼女と似たパターンか、とはたと思い当たった。
思い起こせば中学、高校とろくでもない理由で同じような目に遭ってるな。どっちとの間にも何の実態もフラグもなかったのは共通してるし、わたしの自業自得というには巻き添え過ぎる。
「そういうことがあったから、以後は学校ではあいつとは親しく見られないようについ距離を取っちゃう癖がついちゃったかな…。吉村には用事がないときは学校では話しかけるな、って高校に入ったときに口が酸っぱくなるほど言い聞かせたし。そのせいでか、わたしたちが幼馴染みだって知ってる人、今の学校じゃあんまりいないかも。まあそもそも同じクラスにいっぺんもならなかったから、共通の知り合いがほとんどいないからね。中学のときほど気を遣わなくてもよくなった。それでもあいつは、ちゃんとわたしの言いつけ律儀に守ってくれてるみたいだけど」
吉村については過去に痛い思いしたからそこまで気をつけてたのに、名越に対してはまさかわたしたちの間に何かあるかも、なんて馬鹿な想像するやついるわけない。とたかを括ってたのが裏目に出た。カーストが高いか低いかなんて案外周りは気にかけないのかもしれない。いや、勉強になった。
長谷川くんはわたしの話を聞いて、うーんと感じ入ったように唸って腕組みして考え込む。
「なるほどねぇ。いや、二人仲悪そうでもないのに学校ではあえて他人同士みたいにしてるのは何なのかなぁとか、ちょっと疑問に思ってたんだ。実は笹谷さん、意外と本気であいつのこと嫌い?とかね。でも全然そんな風には見えないし…」
「嫌いとかないよ。だったらこうやってわざわざ応援とかにも来ないし」
だよねぇ。と心なしか満足げに深く頷く長谷川くん。
「だったらいいんだけど。うん、周りの関係ない他人が余計な口挟むのは違うよなってのはもちろん、理解できるんだよね。でもさ、やっぱりダチには幸せになってほしいじゃん。…だから、今すぐとは言わないけどさ。いつかはあいつとの未来も真剣に考えられるようになるといいなって。まあ、まだお互い高校生だし。この先何があるかはわからないから絶対はないけどね?大学とか就職先でそれぞれ新しい人間関係もできるわけだし」
「それは。そうだね」
うちの母親も、中学とか高校で知り合った相手と結婚する人は自分の知ってる限りかなりの少数派だよって言ってた。かく言ううちの両親は大学の同級生であるし。
台詞の付け足し部分に素直に納得して頷くわたしをどう解釈したか、彼は力を得た様子で勢いづいて話の先を続ける。
「それでも、可能性としては頭の片隅に置いといてやれたらな、と。吉村のこと。あいつはいいやつだし、一緒になったら相手の女の子も絶対幸せだと思うしね。少なくとも名越なんか選ぶくらいならさ…。いや友達としてはもちろんいいやつなんだけど、あいつも」
「名越?」
やっぱりそいつを引き合いに出すのか。と半ばうんざりした気持ちで、それでも口調はやんわりと否定しておく。
「わたしとあいつはまじで何でもないよ。だからこの文脈で名前が挙がるのも正直あんま、相応しくないと思うけど」
わたしの抗弁に気を悪くするどころかすっかりご満悦で、にっこり笑って残ってた最後の卵焼きをひょいと手早く自分の口に放り込む長谷川くん。
「うん、それは知ってる。噂にはなってるけど、身近にいる人間はみんなそれは事実じゃないしただの野次馬的な憶測でしかないってわかってると思うよ。けど、学校内で一緒にいるとこ見るのは圧倒的に名越の方だからさ。何だかんだ言って、そのうち結局付き合うことになるんじゃないのと考えて見てるやつも多いんじゃないかな。今はまだ何ともなくても、最後は二人収まるとこに収まるんじゃないのとかさ」
「えー、それはないよ。何でそうなるの?」
女子の間だけじゃなく男子も同じような話してるとは。知らなくていいことを知ってしまった。
何を言われててもまあその人たちの勝手ではあるが、本当にどうでもいい話してるんだな。わたしが誰と付き合おうが付き合わまいが他人にとってはあんまり何の関係もなくない?
わたしのそんな反応を見て長谷川くんはますます機嫌よく、舌の回りも滑らかになる。
「だよね?よかった、クラスの男連中、笹っちだって今は絶対ないみたいに意地張ってててもどうせ最後にはナゴに落ちるに決まってんじゃん。他のやつが行ってももう無駄。みたいな扱いでさ」
「何それ」
台詞の内容から秋山やその取り巻き連中の顔が脳裏にちらつく。いかにもあいつらが言いそうな物言いだ。それはそれとして。
自分が陰でクラスの男子たちに笹っち、とかいう謎の呼ばれ方をしてるのを思いがけないルートで知った。わたしをそんな風に呼ぶ知り合いはいないから連中のオリジナルだろう。普段面と向かっては笹谷さんとか笹谷ちゃんとか呼んでるくせに、わざわざ裏であだ名付ける必要あるのか?
と、変な部分に意識がいってるわたしをよそに長谷川くんは堰を切ったように調子に乗って、さらに滔々と話し出す。
「あんなハイスペックイケメンにずっとくっつかれてたら、いくらクールな笹っちでもどうせそのうち陥落するっしょみたいに言われててさ。まああいつらは笹谷ちゃんと吉村との関係知らないか、今でも仲良いと思ってないからしょうがないのかもしれないけど…。だけど俺は名越と付き合うくらいなら絶対吉村の方がいいのに、ってずっと内心で思ってたんだよね」
それはどうも。
余計なお世話だ、と普段ならしらっとしたかもしれないが。熱を込めて語る長谷川くんのその台詞の先を聞くとうーんまあ…とその気持ちに共感しないこともない。
「あいつはそりゃ、誰とでもそつなく上手くやれるし話も面白くて一緒につるむには実際楽しいやつなのは否定しないよ。女子にもてるのもまあ、納得せざるを得ないよな、人当たりよくて何でも完璧に出来てその上顔もいいし。でもだからといってナゴと一対一で付き合うのを自分の仲良い女の子に勧める気には全然なれないな。これ、嫉妬とかやっかみとかじゃないよ」
「ああ、まあ。わかるよ」
名越の調子のいいときの人を食った笑みとぬけぬけとした喋りが脳裏に蘇り、思わず心の底から同意せざるを得なかった。
「わたしだって、自分の友達があいつと付き合いたいとか言い出したら出来たらやめといた方がいいよってアドバイスはするもんね、余計なお世話だとは思いつつ。こっちが同性か異性かに関係ないと思うからやっかみだとは思わないよ。単に友人に幸せになってほしいかどうかってだけの話だよね?」
共感してみせたわたしの反応にほっとしたのか、そうそう。と大きく深く頷いてみせる。
「うん、相手に下心あるとかじゃなくてさ。例えば自分の妹とか姉ちゃんいたら、名越はやめとけ!って思うもん。仮にあいつが女子で友達が男だったとしてもうーん、もっと他にいい子いるんじゃん?何もそこにいくことないだろって思うよね。だってさ、やっぱり。…軽いんだよなぁ、彼女たちの扱いが。何となく」
「まあ。…それだよね」
相槌を打ちながら、女の子と付き合うときは必ず向こうから。その上で俺は別に好きな子いるけどそれでもいい?といちいち念を押してるって名越の台詞を思い出してしまった。
そんな経緯でそれでもいい、と答えてしまう女の子の扱いが多少なりとも軽くなるのはまあ想像がつく。雑に扱ってもいいってお墨付きを与えてしまったようなものだ。
と、思ったがここでその話を持ち出すのはとりあえず憚られた。名越が女の子に告白されるたびにそう言って、尚且つ構わないと受け入れられた場合だけ交際が成立してる。って事実をこの長谷川くんが知ってるかどうか、わたしにはわからないからだ。
名越の友達連中の中では既に周知のことで、みんな前提として知ってる有名な話かもしれないし。逆に普通に告白を受けてカップル成立してるだけだと当たり前に考えられてるのかもしれない。てか、まあ普通はそうだよね。
だから名越本人と申し込んだ女の子だけしかそもそも知らない事実な可能性もある。そう考えると、やつの友達に無闇に広まりかねない相手にここで余計な情報を開示するのは避けた方がいい。
名越本人は大したことだとは思ってないんじゃないか(現にわたしには悪びれるでもなくあっさり打ち明けた)って気もするが、彼女たちの方では知られたくないと思ってる子が混ざってるかもしれないし。要らない遺恨を招くのは得策じゃない。
その辺の事情を知ってるのか知らないのか、側から見てもわからない長谷川くんは声を落としながらも滔々と名越に対する疑念をさらにわたしに説き続ける。
「俺は男だから、友達としては全然ナゴのことは嫌いじゃないけどね。女の子はやっぱり、付き合うなら自分のことをすごく好きでめちゃくちゃ大事にしてくれる相手を選んだ方がいいよ。どんなに好きでもあいつは出来たらやめといた方が…。ほんとに、一ヶ月とか二ヶ月くらいしか保たないからね。歴代の彼女たちが皆キレて去っていってもまるで構わずに平然としてるしさ。何なら友達でい続ける方がよほど気を遣ってまともに接してくれるよ。他人にはきちんと気を回せるやつだからね」
「あー…。わかる、それ」
わたしは納得して頷いた。
「大勢の人たちに囲まれてるのも見たことあるけど、男女関係なく誰にも分け隔てなく気さくに声をかけてるんだよねあいつ。隅っこの方で話に参加してないな、みたいな人にもさり気なく気を配るっていうか…。確かにあそこまで他人に行き届く人が、どうして彼女の扱いだけぞんざいなのかなぁと不思議に思ってたけど、そうか。付き合った瞬間から気を回さなくていい相手になってるんだね。他人の範疇から外れるというか」
「多分そう。だから、笹谷ちゃんもあいつとは今の距離を保つ方がいいよ。多分友達でいる方が丁寧に気遣いしてもらえる。美術関係でいろいろと世話焼かれてるんでしょ?」
それは否定しようもない本当のこと。わたしは真顔になり、深々と頷いてみせた。
「過分に何でもしてもらってる。それ自体には感謝の気持ちしかないよ。でも、完全に美術というか絵に関わること限定だからね。美術には美術で返せたらなぁと思ってる。どの程度返しきるかわからないけど…」
「それがいいよ。美術で繋がってるならその範囲にとどめといた方がいい。うっかり好きになっちゃったらね、良くない面を見ることになるかも。せっかくの友情が台無しだからね」
「うーん。友情ってほどの情がお互い、あるのかないのかわからないけど…」
わたしは正直な感想をぽろっとこぼした。
名越に限って言うと、あいつはわたしの新しい絵が見たいだけだからね。せっせと制作してさえいれば向こうはそれで満足してくれてる気がする。そんなんでお返しになってるのか?とそこはかとなく不安に思わなくもないが、わたしが恋愛面で応じることが名越にとってお礼と受け取られるかというと…。うん、それくらいなら。もっと絵を描いてくれ!と率直に求められそう。
「恋愛関係になって得する人は誰もいないと思うから、そっちに行くことはない。そもそも今彼氏欲しいとか。誰かと付き合いたいって気持ちが特にないから」
「はは、やっぱね。笹谷ちゃんらしいや」
本当に余計なお節介だったな、と明るく笑い飛ばす長谷川くん。うん、まあ。悪い人ではないんだよな。いろいろと気を回しすぎかなとは思うけど。
気がつくとあんなに山ほどあったお弁当の中身が無事空っぽ。あとから加わってくれた長谷川くんのおかげできれいに片付いた。ありがたい、とばかりにいそいそと片付けに取り掛かるわたしの向かいで彼は遠くの方に目線をやる。つられてそっちを見ると、こちらを目指しててくてくと歩いてくる人影が。
どうやらお手洗いのある場所が思いの外ここから遠かったようだ。わたしもお弁当箱をしまい終えたら、午後の部が始まる前に一回行っておこうかななどと考えていると、自主的に片付けを手伝ってくれてる長谷川くんが近づいてくる吉村の方を少し気にしながら声を抑えて早口に喋り出した。
「…まあ、今はそんな状態だとしても。高校卒業後にでも、一生一人はどうなのかな、誰かと一緒になるのもいいかなって気にもし笹谷ちゃんがなったとしたら。そのときは是非名越より吉村のことを思い出してあげてよ。親切とか優しさに報いるって動機でも全然いいと思う、もしも君に他に好きな人が現れなければだけど」
「いや、そんなの。別にお礼にならなくない?」
吉村もわたしに振り向いて欲しくて優しくしてくれてるわけじゃないだろうし。と思いつつも、彼の言いたいこともぼんやりとながら理解できそうなのが何とも反応に困る。
そんなにわたしと吉村が一緒にいるとこ、何度も見てるわけじゃないだろうに。それとも当人たちが主観的に考えてるよりも、深い関係じゃない他人の目で外側から見る方が意外と本質が見抜けるみたいなこともあるんだろうか?
わたしたちを遠くから見つけてにこっと笑って足を早める吉村。それに応えて軽く片手を挙げてみせながら、長谷川くんはこっちを見ずに最後に小声で付け足した。
「それがあいつにとってどれだけの重みなのか、多分笹谷ちゃんにはわからないと思うよ。だからまあ、考えるよりまずそういうルートもあるって前提だけでも受け入れてみれば?あまり思い悩まずにただ物理的にそばにいるって方が大事ってこともあるんじゃん。それが案外、みんな幸せになるための近道なんじゃないかなぁ」
高校二年のわたしの夏休みは、そんな風にして至極平穏にスタートした。
美術部は八月に合宿こそあるけど、基本的に夏季休業中に登校する必要のある活動日はない。文化祭も終わったから自主的に制作したい部員のために美術室を開ける日は決まってるけど参加はもちろん自由。何なら一度も顔出さなくても問題はない。
わたしの場合は部室を使わなくても、大河原先生のところで制作は出来てるから特に学校にまでも行かなくていいかな、と。別に名越がいないから一人で通うのが億劫ってことはないけど。文化祭の展示のためにさんざん美術室のお世話になったので、まあとりあえずしばらくはいいかな。
だから絵を描くのは教室に通う週二日。家でスケッチやデッサンの練習はするけど、あとはそれほど美術関係の予定でぎちぎちではなく普通に本を読んだりだらだらしたり、たまには友達と外で会ったり。
吉村とも何回か約束して出かけた。あえて予定を入れて会う日を決めないと、自然と顔を合わせる機会って割とないってここまでの高校生活でわかったので。学校のある日はともかく、ひまひまな夏休み中の時間潰しに数回付き合わせるくらいはまあ、ありなんじゃないかな。
と言ってもデートというほど大袈裟なものではない。実際に行ったのは一人で観に行くのは何となく億劫だった映画と、どのみち行くつもりだった美術館の展示だ。あ、これは一応美術関係の活動に入るのか?
何にしろ気楽な友達というか相棒としての付き合いであって、それっぽい甘酸っぱい雰囲気やフラグの立つ流れみたいなのは全然ない。まじでこいつとわたしってただの幼馴染みだよぁ…と改めて実感したくらいのものだ。
その一方で、休み中に名越と顔を合わせることは意外なくらい少なかった。
もともと何かと忙しいやつで、わたし以外の友達との約束も相当入ってたようだし。その上美術予備校の夏期講習があったからそっち優先で、会ったのは多忙の中の隙を見て何度か大河原先生の教室に顔を出したときくらい。
そのあと友達との約束がある、と言ってぱっと来てちょこっとだけ作業してあっという間に帰ったときもある。そこまでしてわざわざ教室に来る必要ある?と思わず突っ込んだら、わたしの後ろに立ってしみじみと描きかけのキャンバスを眺めてうん、いいなぁやっぱり。とご満悦だった名越は、その問いかけを聞くなり大仰に目を剥いて力説してきた。
「え、だってここでしか笹谷の絵を見るチャンスないじゃん、夏休み中は特にさ。おまけに描きかけの絵で新作だし。完成までの途中経過をこうやってチェックできるの、この教室でだけの特権だよ。…あーなるほどね、この人物の服はこの色にしたんだ。バックの壁紙の色とのコントラスト意識したんだな…」
ふむふむ、とわたしの頭越しに顔を寄せて真剣に見入っている。特に邪魔されてるわけではないが鬱陶しいし、気になって仕方ない。
「制作途中の絵を見たいとかマニアック過ぎるでしょ。完成したら写真に撮って送ってやるから、それで充分じゃない?」
「…直織ちゃん、それはさ。やっぱり夏休み中でなかなか顔合わせる機会ないから。せめて教室でくらいあなたに会いたいんだよ、きっと。そこは察してあげな」
その場ではにやにやしてわたしたちのやり取りを黙って聞いてた大河原先生が、風のように名越が帰ったあとにこそっとそう囁いてきた。相変わらず頭がカプ厨というか。わたしたちの仲を誤解してる。
「いやそういうわけじゃ。…ないと思うんですがね…」
何度も否定してるのに、一向にそこら辺の認識を改めようとしない。勢い、いちいち突っ込むのももう面倒くさいな。となり、言葉に力も入らなくなって説得力もない。
それでもやっぱり、謂れのない誤解はできたら解いておきたい。その相反した感情がわたしの毒気の抜かれたぼそぼそ声の、やる気ないながらも言わずにはおれない反論に反映されてると思う。
そんな陰でのやり取りはあとでのことで、その場ではちょっとは自分の作品にも手入れて行きなよ、友達との約束なんて多少遅れても大丈夫でしょ。と大河原先生にずけずけとどやされ、名越はしょうがないなぁと肩をすぼめてから自分の描きかけのキャンバスを出してきて準備にかかる。てかまじで、何しに来たんだ。本当にもう。
「名越のは風景画だね。これはスケッチを元にしてるの?」
「うん。それと、スマホで写真撮ってきたから。それを元に下絵描いて、そっちを見ながら描いてる」
名越は絵の具をにゅ、とパレットの上に出しながらわたしの問いに淡々と答えた。
ちらと横目で見た、彼の前にあるまだ半分白いキャンバスの上には暗い夜の街に散りばめたとりどりの灯りらしきもの。どうやら繁華街の夜景らしい。
この素材、普段どれだけ夜遊び回ってるんだと呆れると同時に、この辺りの街並みなんてごたごたと雑然としてて、決して夜景が美しいとかじゃないはずなのに。
大小とり混ぜて真っ暗なビルに散りばめられた人工的なネオンの描写がとても綺麗だ。昼間の街が汚くても夜の帷は七難隠すよなぁ、と感心しつつもこれは描いた人間の腕がいいからなのか。
ほとんどデフォルメもしてないリアルな描写の夜の街がきちんと美しい絵面になってるのはさすがだ。しかし、それにしても。
「…名越ってさ。見た感じ、題材選ぶとき現実のものをほぼそのまま写実的に描くよね。デフォルメとか加工なしで。もしかして、あるものをあるがまま正確に描く方が楽しいって感じ?それはそれでもちろんありだとは思うけど…。想像上の題材、例えば空想画とかは描かないの?」
わたしにこの画力があったら、脳内でイメージしてる幻想的な絵面もどんなにリアルで真に迫ったものにできるだろう。と考えるとめちゃくちゃ羨ましい。
けど、名越自身は残念ながらそういう題材にはほとんど関心がないみたいだ。一方で自分が描くときとは別に、わたしのほぼ現実にはありえない異界を描いた絵は好きみたいで、もっとありのままの現実の場面を描けば?とかは提案されたことがない。
自分で描きたいものと他人が描いたのを見るときの好みは別、ってのはあり得そうで全然おかしくはないから、単に名越がそういう人だってだけの話かも。しかしそれにしてもかなり極端だ。
わたしのその問いかけに彼はぐるっと目を回し、珍しいことだがちょっとだけ返答に困ったような素振りを見せた。
「うーん。別に、現実にはあり得ないような絵面をあえて避けてるってほどのことはないんだけどね。でも、そういうテーマはいいイメージが湧くかどうかが全てだから…。こういうのが描きたい!ってインスピレーションが生まれたら、いつか描くかもしれない。けど、今のところは。笹谷が描く空想上の世界を見てるだけで充分満足だなあ。正直イマジネーションの広がりについては、全然勝てる気がしないし…」
「ふぅん。…そんなもん?」
やつが言葉を選ぶようにぼそぼそと口にしたその言い分は、何故だかわたしには全然ぴんと来ない。
空想画なんて、単に頭の中にぼわぼわと浮かんだ曖昧なイメージのどれかをひっ捕まえて、何とか自分で使える技術を駆使して紙とかキャンバスの上になるべくありのままに再現しようと頑張るだけじゃん。
脳内にだけ存在してる場面を他人の目にもイメージが広がるくらいしっかり具現化するのが難しいだけで、あんたくらいの能力があればそれも楽勝だし。わたしにその才能があったらもっといろいろ出来るのになあと心底羨ましいとしか。
「やるだけでもとりあえずやってみればいいのに。適当に思い浮かべた奇天烈な絵面なんて、誰でも発想するだけなら簡単じゃない?それを描き切れるかってのが不安要素なわけで…。名越の腕ならどんな突飛な画面でもリアルに表現できると思うけどなぁ。…まあ、そもそもそんなの描きたくない。って言われりゃそれはそうだね。と返すしかないけどさ」
てか、多分そういうことなんだろう。自分の想像の中の場面を描き出すよりも目の前の現実を写し取ることの方が興味を惹かれるしわくわくする。だから写実的なテーマをいつも選んでる、っていうそれだけのことでは?
イメージの内容で敵わないから、みたいに言い訳したのは単にわたしに対するサービストークみたいなもの。お前の描いてるジャンルは俺にとって関心の外だから手がけないんだよ、などと素っ気ない返しもなんだかなと思ってちょっと理由を盛っただけだろう。と考えたら自然と語気も弱まって何だかすんとなってしまった。
当の名越はというとそんなわたしの変化に気づいているのかいないのか、しょぼしょぼとなってしまった追及に不審な表情も見せずに自分のキャンバスにどっかりと向かい、こっちには顔も向けずに気楽な口調で問いかけを流した。
「うんまあ、あんたみたいに描けたらそりゃいいなと思うよ?そもそも俺は笹谷の熱狂的ファンだからさ。けどだからこそ、同じことをやっても敵わないって身に沁みて知ってるから…。できたら違うジャンルで勝負したいね」
「…ふぅん」
わたしも肩をすくめて、再び自分のキャンバスへと身体を向けて筆を取り直す。
今、こいつが心から正直に話してはいないんじゃないかって感触は拭えない。けどここであえて適当に口先だけで返答をごまかさなきゃならない理由は全然わからないし。意図が不明なのをわざわざここで突っ込んでも仕方ない気がする。
別に、今手がけてるようなジャンルの絵が好きだから。描いてて楽しいからでいいような気がするけど。ちょっとへらっとした顔を作って何でもないように装い、視線を合わせないで明るく喋る理由は何なんだろう。
彼はぺたぺた、と絵の具を混ぜ合わせながらじっと自分の描きかけの絵に見入りつつ軽い口振りで、おまけみたいに付け足した。
「…それでも、得意分野でだけ勝負しててもそれであんたに勝てるかどうかと言えば正直なところ自信はないな。うん、でも予備校に通って来てる連中の中で戦うって考えたら。…俺の腕ならまあ、多少はね?」
《第10章に続く》
ようやっと幼馴染みの出番です。
男女の友人同士だと、他人からめちゃくちゃしつこく揶揄われて結果そういう風に見られるのが嫌すぎてルートが途絶えちゃう、あるあるじゃないですか?別に何とも思ってなかったのに言われるのがうんざりで、つい一緒に行動するのを避けちゃうとか。
身に覚えがなくもないのでそういうからかいをするやつは他人の恋路を潰してる、っていう自覚は持った方がいいと思う。いやそれがなくても友達は友達だったので。別に恋路は潰されてないんですが…。
周りも大人になって余計なちょっかいを出さなくなるまで関係が続けばワンチャンあるかもしれない。頑張れ幼馴染み。




