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第4章 藝大?わたしが?いや無理むり無理!

ちょい嫌味というか当たりのきつめな先生登場しました。

イメージだけど、中学高校の美術の先生ってほんと人それぞれですよね。

わたくしも日本で一般的な教育を受けた身として普通に数人知ってますが、まじで傾向とかなくて全員見事にタイプがばらばら。芸術系の科目の先生って普通科目担当に較べて素の性格が出やすいのか?と思うくらい。

というわけで、ここに出てくる先生には特にモデルとかいないです。ちょっと難しそうな人だなあって感じで登場しますが、多分全然悪い人ではないし次に出てくるときには割と優しくなってます。おそらく主人公は部員でもないのに美術室を使って…と肩身が狭い気持ちだったので、先生の言動を厳しく感じたのでは?と思います。先入観の賜物ですね。

その人は案の定、選択美術の担当教師で美術部の顧問だった。確か名越くんによるとフルタイムではなく週に二回の通いの講師だったはず。

これまでひと月あまり勝手に美術部の空間と器材を拝借しておきながら、一度も顧問と顔を合わせずに済んでたのはこれまで彼が出勤してる曜日を意識的に避けてたせいではある。

何だかんだ言っても、部員がいいと考えてても先生に部外者は駄目!ときっぱり言われたらそれっきりアウトだし。

名越くんは大丈夫だよ、堂々としてれば。と無責任に言ってたけどそうはいくかい。咎められて追い出されるのはこっちだよと考えて、わざわざ不在の日を選んで通っていたのだ。

しかしついに最終盤のこの局面で、名越くんもいない状況で二人きりで鉢合わせることになってしまった。悪いことはできないものだ。

…と、思ってたけど。先生の口から今、マシンガンの弾丸のように発射されてる弾幕の台詞の中にん?と引っかかる単語がいくつか。あったような…。

「わたし。…美術部員なんですか?」

誰かと間違えてるってことはないだろう。はっきりと今、『笹谷さん』と口にした。

わたしの苗字は稀少な珍名でもないが、同学年に何人もいるというほどありふれてもいない。知ってる限りではうちの高校の1年生の中に同じ苗字の子はいなかったと思う。

軽くウェーブのかかった長めの髪によく見るとちょっと小洒落た眼鏡。いかにも若手の美術教師、といった無頼さとハイセンスさを備えた彼は無愛想な無表情のまま肩をすぼめた。

「だって、この前入部届提出したでしょ?本人が急な用事で任されたとか言って名越が代わりに持ってきたけど。まあ届出は本人に限るとかいう規定はなかった気がするし、いいかと思って受け取っておいたよ。それともあれ、なんか問題あったの?まさか君自身は知らない間にとか」

「いえ。…いいです、別に。大丈夫」

名越め。

あとでこってり絞り上げてやる、と内心で毒づきながらもこの先生に本当のところを訴え出るのはとりあえずやめておいた。

実際、こうやって美術室を誰もいない間に図々しく勝手に一人で使ってるのは事実なんだし。

ここまでやっといて、わたしは美術部に入る気なんて全然ないのに!とか言い張って暴れるのも何というか、空気読めないにも程があるだろう。

もうとりあえずそういうことにしておいて、この絵が完成したら静かに音もなく幽霊部員に成り果てる。っていうのが無難で正しい対処法だと思う。

と、脳内で始末を済ませたわたしの耳に、彼が独りごちる声が不意に飛び込んできた。

「それにしても。…これまで直に顔合わせなかったから講評する機会がなかったけど。この絵はもう、概ね完成。ってことでいいんだよね?」

未だその名を知れない初対面の美術講師は、わたしの傍らに立って腕組みしたかと思うと、眉根に皺を寄せて真剣な顔つきで描きかけの絵を吟味し出した。

「…あと、こことここ。仕上げ残ってる?」

「あ、はい」

腕を解いて片手を伸ばし、触れずに二箇所を示す。確かにそのつもりだから素直に頷いて肯定すると、彼はふぅむ。と独り合点した様子で腕を組み直してしばし考え込んだ。

「…とにかく、どういう絵を描くかって意図がはっきりしててイメージがある。タッチや色遣いに独特の個性と世界観がある。…それは誇っていいことだよ。誰にでも備わってることじゃない。欲しくても叶わない者もいる、ある程度は生まれつきのセンスと言えなくもないから」

「…はい」

褒められてんのか。褒められてるんだろううな。

手放しで賞賛って態度でも顔つきでもないけど、言葉の意味するところを解すればめちゃくちゃ貶されてるってわけでもないようだ。

先生(今さらこっちから『何てお名前ですか?』とは訊けそうもない…あとで名越に教えてもらうしかない)は気難しげに顔をしかめ、こちらに一瞥もくれずまっすぐに絵だけを見つめて厳しい声で続けた。

「だけど、本当にセンスだけだね。何の工夫もなく頭の中に浮かんだものをそのまま描いてるだけ。…君さ、きちんと系統立った絵画の勉強したことないでしょ?デッサンとか遠近法とか真剣に集中して取り組んだこと…ないよな、もちろん。この感じじゃ」

「はい。まあ…」

説教始まった。

半ば覚悟はしていたが。せめて防御力を少しでも高めようと虚しく首を縮める。

「地方じゃ画塾とか通う機会なかなかないか、まあ。中学では美術部には入ってなかったの?」

「いえ、美術部ではあったんですけど…。そのときの顧問の先生は特に何かを教えてくれるとかじゃなくて。のびのび好きな絵を描ければいいよって感じで、基本不干渉だったので…」

それで、いいねと思う絵が完成したら適当な公募とかに出してくれるっていうやり方だった。そのおかげで県のコンクールだけど、一応中学生の部で賞を取ったことはある。

ぼそぼそと弁解気味にそんなことを述べると、彼はふん。とつまらなそうに軽く息をついた。

「確かに、中学生だったらそれでもよかろうだけど。君はもう高校生なんだから、いつまでも子どものお絵描きのつもりじゃ駄目だろ。そろそろ表現したいもの、自分のキャパシティに合った技法を身につけないと…。この先、本格的に美術をやっていきたいって気はあるんだよね?」

「いえ。そんなことは…」

わたしは面食らい、思わず彼の問いかけを遮った。何を根拠にしたらそんな発想になるんだ。

おおかた、名越のやつが入部届を出すときに何か余計なことを付け加えたに違いない。この子は最近になって初心に返って一から本格的に絵画に取り組みたいって気持ちになったので、年度の中途ですけど急遽特別に入部させてくださいって言ってるとか何とか。

そもそも、この先生や名越が考えてる本格的ってどういう意味でなんだ?って考えると。

美術部で卒業までの三年間心置きなく自由に絵を描いていたいですとか、一生ものの趣味として長く続けたいってニュアンスじゃないことは容易に想像がつく。…おそらくは美術系大学に進学するとか、それを本業として食っていける職業に就きたいとか。そういう想定だろう。

もちろんこっちにそんな気は天からない。わたしのこの絵で何とか一生ご飯食べてけるだろうとか、さすがにそこまで頭お花畑なわけないだろ。

そう考えて、当惑しながらも何とかその辺の誤解を解かないと。と強めに声を挟んだつもりだったけど、どういうわけか先方は全くこっちの弁解に耳を傾ける気がないようだ。

さっきよりじり、とイーゼルに立てかけた絵の方へと近づき、じっと見入りながらぶつぶつとつぶやいてる。わたしに言って聞かせるというよりもまるで独り言みたいな調子だ。

「…子どもの頃から使い慣れた手癖だけで広い世の中に打って出ようとしてる。それで充分戦えるつもりなのが甘いな。生まれ持ってのセンスとぱっと見の雰囲気で何となく人目を惹きつける絵作りだけで、誰もを納得させるものを描き続けられるとでも?…いや、今のままじゃちょっと個性的な尖った絵柄を好きな、純朴なネット民くらいしか騙せない。それもせいぜいごく限られた数でしかないだろうから、これで生活していくのは無理だよ。広く世間から認められるきちんとしたまともな作家になりたいなら。…安易な近道を行こうとせずに真っ当にこつこつ、地道な努力を厭わず積み重ねていかないと」

「いえ、あの。わたしは」

世間で通用する本職の作家になんて。なろうと考えたことなんて、まじで一度もない…。

もしも実際にそういうつもりで描いてるとしたら、こんな風に頭から決めつけられた指摘内容もごもっともなのかも。研鑽もしないで知見も広めず基礎の技術の習得すらしようとしない、自己内完結も甚だしい閉じた作風。…そう言われても仕方ない、わたしの作品たち。

だけど、これはあくまでも趣味だ。

誰に見せるつもりもなくわたし一人のために描きたいように描いてるだけなんだから。それで誰にも迷惑かけてない。自己満足だけの絵で何が悪いの?

そのことを何とか伝えようとするけど咄嗟に言葉が出てこない。あまりにもいきなりの展開で、適切な反応ができずにフリーズしていた。

しかも、こっちの反応がどうなのか彼はまるで気にかけてもいない。返答を待つなんて選択肢、最初から頭の中端っこにもなかったかのようだ。

言いたいことを構わず言い散らしたあと、わたしの顔に視線すら向けずにさっさと踵を返してその場を立ち去ろうとする。背中を向けて美術室の扉を目指したまま、足を止めずにひらひらと軽く上げた片手を振って見せつつさらに駄目押しの言葉を上乗せして。

「…まあ、見どころがないわけじゃないから。本気で取り組めばそれだけのことはあると思うよ。だからといって今から努力しても藝大行けるとまではさすがに保証できないけどね…。伸びしろはあるから、そう気を落とすことはない。というわけで、火曜と金曜なら僕はここに来てるから。訊きにくれば何でも教えるよ。もちろん、君自身にきちんと覚悟とやる気があるとするなら。…だけどね」


「うーん、そうか。…ごめんね、折悪しく。よりによって俺がいないときに、あいつと一対一で対峙することになっちゃって」

これ、遅れたお詫び。と言って缶コーヒーを差し出してくる。大して悪びれてもいない様子だけど、それはこの人の、常に素の表情を出さない飄々とした態度のせいでそう見えてるだけなのかも。

顔にはいつもの穏やかな笑みが浮かんでるけど、それなりに恐縮してるように思えなくもない。

珍しくへらへらと笑い飛ばしたりはしないで、自分の分のコーヒー缶をぷしゅ。と開けてから立ってるわたしの横に椅子を引っ張ってきてよっと、と座り、いつになく生真面目な口振りでゆっくりと言葉を選んでる。

「いや、まあ正直なところさ。笹谷さんに美術部に入ってほしい気持ちはやまやまだったんだけど、どうにもあいつがなぁ…って。だって、絶対性格合いそうじゃないじゃん。感じ悪くなかった、あの人?」

美術部顧問のことね。わかるけど、こっちから訊くまで名前も教えないつもりか。

これでいよいよ最後の仕上げだ、さっさと終わらせちゃおうとばかりに目の前の絵に集中してぺたぺたと思いきり絵の具を塗りたくりまくる。…けど、思えばこれも名越くんからの借り物なんだよな。

本当は新しいのを買って返した方がいいんだろうけど。油彩の絵の具って大体お値段どのくらいなんだろう。…水彩よりお高いよね、絶対…。

「うーん…。圧が強いというか、圧迫的だなとは感じたけど。顧問に挨拶もなく入部したきり顔を見せにも来ない無礼な部員に対してだと思えば、まああんなもんでしょと。ていうか、何で勝手に入部届出したの。部員じゃなきゃ美術室使えないとかいうルールなんだったら、先に相談してくれればよかったのに」

せかせかと手早く絵の具をパレットの上で混ぜながら文句を言う。彼は自分のスケッチブックにざっと目を通して全体をチェックするようにぱらぱらとめくりつつ、肩をすくめて悪びれず言い切った。

「いや、そんなの別にないよ。てか美術室は別に美術部員の占有物じゃないし。ここの生徒なら誰でも使う権利がある学校全体の設備だろ?いちいちかりかりする方がおかしいよ。まあでも、牧さんが突慳貪にしてたのは全然そのせいじゃないと思う。あの人、そもそもうちの高校に対して特に何の義務感も思い入れもないだろ。正規の職員ってわけでもないんだから」

「『牧』さんっていうのか。というか、『牧先生』ね。指導受けるのに正規か非正規かなんて関係ないでしょ」

やんわりと生意気な言動を正したけど名越くんにはまるで響いた様子もない。

「もちろん俺には関係ないよ。向こうの意識の問題。非常勤だから、生徒の躾がなってなかろうが勉学に励んでなかろうがどうでもいいと考えてるんだと思う。うちの高校の生徒が何か問題起こしてないかとか、いい大学に何人進めるかどうかなんて多分知ったこっちゃないんだよ。でも藝大は別。ちょっとでも見どころのあるやつがいれば隙あらば指導してやろうと常に手ぐすね引いて待ち構えてるから」

「…ああ。なるほど」

わたしは手を止め、ちょっと上体を引いて距離を置いたところから全体を確認しつつ半分上の空で頷いた。

「それで、デッサンとか遠近法とか構図とか。基本がまるでできてないからやる気があるなら習いに来いって言ってたのか…。だとしたらもし仮に教えを乞いに行けば言葉通り、本当にちゃんと指導してくれるつもりだったんでしょうかね?あんなこと言っても、真に受けて実際に押しかけたらそれはそれで面倒だなぁって。嫌な顔するんじゃないかと思ってた」

彼はぱたんと軽い音を立ててスケッチブックを閉じ、顔を上げてこっちを見た。

「それはまあ大丈夫でしょ。教えること自体は好きだし、がつがつ行く前向きなタイプはもっと大好物な人だから。逆に言うと、積極的じゃない後ろ向きな姿勢の相手には結構厳しいというか、がんがん容赦なく突っ込んでくるよ。そういう意味で癖強い。だから、まあ悪気はないんだとは思うけど。…笹谷さんとは正直、天敵というか。食い合わせ悪い同士だなと」

口調は柔らかいが結構遠慮のないこと言われた。

「わたしは消極的態度だし。何かと後ろ向きなタイプだと?」

「だってそうじゃん。美術部にだって、実は入部したくない深い理由なんてなくて、ただ単に面倒くさかっただけなんでしょ?」

そこまでこの人と気の置けない仲になったつもりもないんだけど。あっさり本質を突いてくる。

「上手いし描くこと自体は好きで今でも描き続けてるみたいなのに、大して時間もお金も取られない部活に籍も置かないのはなんかシビアな事情でもあるのかな、と思ってた。でも何となく本人や周りを見てるうちにもしかして、ちょっとでも他人と関わるのが嫌な極端にマイペースな性格なだけ?って思えてきて。だったら多少強引に誘った方がいいのかなと。放っといたら何事においても絶対に自分から動いたりしない人でしょ、君って」

「それはまあ。…そうですけど…」

言われてること自体はごもっとも。しかしそれ以外の要素がいろいろと引っかかる、この台詞。

「『見てたら』ってどういうこと。たまたまあの日剥がしてるポスター見て、これなら美術部に入れてもやってけそうだな。と踏んだって経緯じゃないの?」

この言い草だと、それよりもっと前からわたしに目をつけて観察してたような…。けど、そんな風に。この人の視界に入るような形で制作をした覚えがない。少なくともこの高校に入学してからは。

わたしは丁寧さを失わないように慎重な手つきで絵の具を塗り重ねながら、前々から気になってたことをここで思いきって尋ねてみることにした。

「…あのさぁ。多分今日、このままだとこの絵完成するから。この機会にちゃんとまともに答えてほしいんだけど…。名越くんってこれまでにわたしの描いたもの、一体どこでどんな風に見たの?あの言い方だと例のポスターだけじゃないよね。でもわたし、この学校に来てからまじでここで制作してないし。家で描いた絵もスケッチブックも、ここには持って来たことないんだけど」

あんまり剣呑な口調になり過ぎないよう用心深く切り出したけど、こちらの不信感は簡単に伝わっちゃったみたいでその台詞の裏の意図を読み取り、彼はふっと破顔した。

「ああ。なるほど、俺がどうにかして笹谷さん家にあるはずの作品やスケッチブックを見る機会を作ったんじゃないかってこと?それが本当なら確かに犯罪の匂いがするね。もし君が絶対に外に出してない、と主張するのが掛け値なしに真実だったとすればの話だけど」

「えー…。そんな風に言われちゃうと」

もしかしてわたし、うっかり何処かに描きかけの絵とかスケッチブック放置してたりしたのかな?それをたまたまこの人がばらっと目を通しただけとかだったら、そりゃ謂れのない濡れ衣になるかもだけど。

目をぐるぐるさせて過去の行状を思い返して手が止まってるわたしに、名越くんは笑って仕上げの先を続けるよう促した。

「いや例えばの話だって。実際に描いたものが君の不注意で流出した、なんてことはないから安心しなよ。それより、今は集中してその絵をちゃんと完成させちゃわない?俺もずっと我慢してきて早くそれ見たいし。このスケッチブックと交換で見せ合う約束でしょ?」

そういえばそうだった。

こうやって一ヶ月近く、一緒に美術室に通ったけど未だにわたしは名越くんがどういう絵を描く人なのか知らないままだ。

どうしても彼の絵を見たくて夜しか眠れない、ってほどのこともない(その気になれば昼でも全然寝られる)。けど、全然興味がないってほどでもないし。

この調子だと多分、わたしのこの絵が完成した暁には彼がこちらに関心を抱いたきっかけについて教えてくれる気はあるらしい。だったらスケッチブックと種明かしとの引き換えに、今手がけてるこれをさっさと仕上げてしまうに越したことはない。

それでなし崩しに始まったこの付き合いもひと段落するんだろうし。だったらまあ、ここで何もかもをいっぺんにまとめてすっきりさせて終わりにするのもありかな。

そうやって考えがまとまったところで、中途半端に周りに気を散らすのをやめて本格的に目の前の絵の仕上げに全力を傾けることにした。

あとはどうするか、方針はとっくに決まってたからそうなるとゴールまでは近い。全体をしみじみと見返し、納得して筆を置いたのは思ってたよりずっと早い時間だった。

目を上げて確認した窓の外はまだ充分明るい。

それでも秋の夕暮れの気配は既に感じられる。暖色のオレンジ色の混じる光の中に浮かび上がるわたしの小さな作品。

生まれて初めて取り組んだ、キャンバスに描いた油彩の絵だ。

「…完成した?じゃあ、いち、にのさんで位置交換しようか」

ぼぅっとしていつまでもキャンバスを見つめ続けるわたしに注意を促すように、名越くんが声をかけてきた。現実に今ひとつ戻りきれてないぼんやりした目をわけもわからずそっちに向ける。

「…位置交換?」

彼はぱさり、と微かな音を立てて自分のスケッチブックをテーブルの反対側に置いた。やけに洗練された仕草でそれとわたしの方をさっと軽く交互に示す。

「俺がそっちに行って君の絵を見て。君はこっちに来て俺のスケッチブックを見る。まあ、完成した油彩画と走り描きの鉛筆画じゃ引き合わないと思われるかもだけど、そこは質より量ってことで」

わたしが一心不乱にぺたぺたと慣れないキャンパスに描き込んでる間、この人も何を題材にしてるのかずっと何かしら描いてる様子だったから。確かに枚数は結構いってるんだろうな。

まあ、画風とか上手いか下手かは一枚ぱっと見りゃ大体のところはわかるもんだし。別に量が多ければ多いほどいいってことはないような気がするけどね、こういうのは。

だけどもちろん、見せてくれるってもんをわざわざ断るほどのことではない。ここまで頑張って完成したわたしの絵を、せっかくだから誰かに見てほしいって思いもある。

だから特に異議は唱えずに、彼の合図に従って自分の絵の前から向かいに置かれたスケッチブックの方へと移動する。

「そしたら、行くよ。…せーの。っと」

さっきは1、2の3でって言ってたくせに。適当なんだから、と考えつつ机の上に置かれた黒と黄色の対比が鮮やかな表紙のスケッチブックを手に取った。大して身構えもせず、気楽な気分ではらりとページを開いて思わずうっとなった。

「…すご」

上手い。…それも、めちゃくちゃ。

わたしは絶句してしばしそこに現れたものに見惚れた。

鉛筆でさっさっと全体の形を取っただけの簡素なスケッチが何パターンも、ずらりとページいっぱいに所狭しと並んでいる。

微妙に角度を変えたり、横顔のアップだったり全身像だったり。筆を握る手だけのスケッチもあった。

めくってもめくっても全部、わたしだ。

呆然となってその圧倒的な画力の前に、ただひたすら言葉を失っていた。

引いた線の数は少ないし、タッチだって荒々しい。全体の形をぱっと視覚的に捉えて、それを簡潔に紙の上に再現したって感じの絵だ。

だけどどれも自分だってはっきりわかる。美化もカリカチュア化もされてない、素のわたし。

本人が気づかないうちに観察されて描かれてたって不快感はまるで感じなかった。それより何より、そこに表現されてる自分の姿が、もう。…上手すぎて。

何の感情も込められてない、そのままの事象を紙の上に写しただけの絵がどうしてこんなに気持ちを揺さぶるんだろう。と考えながら逸る手でどんどん先をめくっていく。と、ほとんど終わりに近いページで。

見開きいっぱいに詳細に描き込まれたわたし自身の姿形があった。

ぐるりと半回転してスケッチブックを縦の状態にして見る。

…こちら側の正面に描かれてるのは髪の合間から覗いてる耳。俯いてる横顔の面積は僅かで、表情までははっきり読み取れない。

だけどこれを描かれたときの自分の感覚が生々しく脳裏に蘇る。目の前のキャンバスに拙い手つきで何とか頭の中にあるこのイメージを、少しでもよりリアルに写し取りたい。その一心で他のことに全く気が回ってない自分。

「…すごい。やっぱ、いいな。君の絵」

いつもと違う、感に堪えないような深い彼の声が耳に届いてようやくそこで我に返った。

名越くんの目が吸い寄せられてるのは、わたしがさっき完成したばかりのまだ絵の具も乾いてない絵。

こっちからは見えないけど、もちろん作者であるわたしにはそこに何が描かれてるか手に取るようにわかる。

黒々とした大きな木の横に立つひとりの少女。両手で林檎を持って、まっすぐにこちらを見ている。

その表情には何の感情も浮かんでいない。けど、深い陰影がその顔立ちに差していて人によっては何かの思惑をそこに見出せるかもしれない。

どこにあるかはっきりしない光源からの明かりがぼうっと彼女を照らし出している。大木とその子の背後には暗い森が迫っているような、それとももっと他の不穏な何かか。…どうとも取れるような意味ありげな深い陰影を出せるよう、そこは苦労して仕上げた記憶。

言葉少なに呟いたあと、名越くんがしばらくの間無言でじっとその絵に見入ってる様子を見てたらふっとおかしく思えてきた。

今この瞬間のわたしたち、お互いの絵に夢中でそれぞれ無言でじっとキャンパスとスケッチブックに齧り付いてた模様。

心の中だけは多弁でめちゃくちゃにざわめいてたからまるで気がつかなかったけど、仮に傍で見てる人がいたら。二人ともただ凝固したようになって相手の存在を忘れきってて、不審な様子だったんだろうなぁ。今日美術室に他の部員が誰もいなくてよかった。

ややあって、ようやっと名越くんが熱の気配の残る眼差しを上げてこっちを見た。

「やっぱり笹谷さんの描く絵ってすごくいいよ。これ、自分と周りの狭い人間関係の中でだけに収めておくのは勿体ないと思う。この絵を見たい人、俺以外にももっと世の中にたくさんいるはず…。俺はさ、あいつと違って美大に絶対行くべきとまでは言わないよ。藝大かせめてO芸大、それ以外は存在意義なしなんて人生観にはまるで賛同しかねるけどさ」

まじか。あの先生、そういう価値観の持ち主なんだ。見た目よりかなりやばそう。

無表情に怯んでるわたしの内心にはまるで頓着しない様子で、彼は木机越しに前のめりな姿勢でさらに畳みかけてきた。

「でも、ただ自分一人だけの趣味だなんて決めつけて。最初から小さくまとまって自分の幅を全く広げようとしないのは正直勿体ないと思うよ。今以上にさらに、イメージの世界を具現化するためにできることはいっぱいあるんじゃないかな。…今の時点で絵を生涯の仕事にしようとか、そこまで意気込まなくてもいい。けど、せっかく持ち合わせて生まれた才能なんだから。いろんな方法でリファインさせて、武器を増やすこと考えてみてもいいんじゃないか?」

「…あの先生の言うとおりに。ここに通って、基礎を学ぶ方がいいってこと?」

ちょっと爬虫類っぽい雰囲気のある、煩そうな前髪の隙間から覗く鋭い眼差しを脳裏に思い浮かべた。

びびるわけじゃないけど、よほど本気で取り組まないとそれを見透かされてびしびし突っ込まれそう。中途半端なのに厳しそうだからなぁ…。藝大受ける覚悟もないのに僕に教わりに来たの?そんなの時間の無駄なんだけどこっちにしたら。とか、冷たくあしらわれたりとかしそう。

どう考えても一緒にいて気づまりで楽しくなさそう(失礼)な人に頭を下げて、言いたい放題を我慢して。…そこまでしなきゃならないのか、と考えるとさすがに気は進まない。本気で絵を仕事にしたいなんてこれまでも、今でももちろん思ってないし。…だけど。

わたしの前に開かれたまま置かれてる、名越くんのスケッチブックの存在感が痛いほど胸を刺した。

一目で敵わないとわかった。…きちんと真っ当な手法で研鑽を積んでデッサンを習得した、本当に上手い描き手には。いろんな意味でそもそも敵わない。

自分の絵が狭い世界の中でしか通用しない独りよがりな産物だってことをまざまざと思い知らされる。

もちろん、それでいいと納得して誰とも関わらず一人で描いてきたんだ。自分のためだけの絵だし、上手いか下手かは気にしない。描いててわたしが楽しければそれでいいって。

…でも。きちんとしたデッサンの技能や遠近法、構図なんかを勉強すれば。もっと自分でもわくわくするような今よりずっとすごい絵が描ける可能性が。なくもないのか…。

わたしが黙って真剣に考え込んでる様子を見てどう解釈したのか。おそらくはあの先生につくのは正直気が進まないなぁとでも考えて悩んでる、とでも想像したのに違いない(まあ、概ね間違ってはいないけど)。

テーブル越しに手を伸ばし、開いてた自分のスケッチブックをさり気なく閉じて抱える。それから珍しくすかしたところのない、無邪気な表情でにかっと笑いかけたかと思うと悪戯っぽい顔つきになって改めて提案してきた。

「想像してみたら。やっぱり嫌だろ、あんな気難しい面倒くさいやつに習うの?あのさ、もしよかったら。君に合いそうないい先生いるんだ。学校の外の人だけど構わなければ紹介するよ。…試しに会ってみるだけでもどう?明日とか、放課後。予定空いてる?」


翌日の放課後。名越くんと待ち合わせて連れ立って校舎を出、正門に向かう。

教室の皆はもうすっかり見慣れたのか今さら何も突っ込んでは来ないけど、昇降口や門の辺りですれ違う生徒が未だにちらちらと振り向くことがあるのは本当に閉口する。何も尋ねられないから(当たり前だ。そういう人たちはほぼ百パーセント、わたしの知り合いじゃない。彼の方については知らない。無駄に顔が広いからもしかしたら言葉を交わしてて覚えてない知り合いが結構いるのかもしれないし)、いちいちこの人とは何でもないんです。と弁解するわけにもいかない。

まるで何の会話もないのも微妙に気まずい。ので、最寄駅の方へと足を運ぶ彼にこっちから特に意味もない話を振った。

「学校の近くじゃないんだ。電車に乗っていくの?」

彼は何とも楽しげな表情で隣のわたしの方へと顔を向け、にこにこしたまま答えた。その様子を見るに名越くんにとっては会話が途切れて沈黙が走ってるこの状況なんか、特段ストレスでもないし気になってもいないらしい。

まあ、わたしにどう思われてるかなんて気にする理由こいつには全然ないもんな。と考える一方で、いやそれは理由にはならないか。わたしだって名越くんにどう思われるかなんて全然どうでもいいのにやっぱり無言で歩くのは気づまりだし、つまりはそういう性格ってだけかも。などと脳内でつらつらと余計なこと考えてたから、彼の台詞に反応するのがちょっとだけ遅れた。

「あれ、言ってなかったっけ?俺がずっと通ってた近所の画塾の先生なんだ。当たりが柔らかくておっとりしてて、教え方が丁寧だからきっと笹谷さんと合うと思ってさ。結婚して子育てで辞めた元美術の教師なんだけど、牧さんとは全然違うタイプだしお勧め。多分進路について余計なことやいのやいの言って来ないと思うし」

逆に言うと牧先生だと美大行くの?行かないんなら教えても無駄だし、何のためにわざわざ時間を割いてまでして君に教えなきゃいけないの。とか言い出しかねないってことだよね。まあ、悪いけどちょっとそんな気はする。

結婚して育児で辞めたというし、おっとり柔らかく教えてくれるって表現からもおそらくその人は女性かなという感じ。もちろん今どきの話だから男性が結婚出産をきっかけに家庭に入ってもわたしは何とも思わないが。現実の世の中の話として考えれば確率的にはその方があり得るだろう。

「子どものときから通ってたからうちの近所にあるわけで、だから笹谷さんちとは反対方向になるね。いきなりで申し訳ないけど電車代ある?何なら俺がまとめて出すけど」

最寄駅に到着すると、そう言いつつ切符売り場の方へと向かう名越くん。ああそうか、定期券の範囲外になっちゃうから。でも。

「さすがにそのくらいの小銭は普段から持ち合わせてるよ。小学生じゃないんだし」

「そっか、でも俺が誘ったんだから。とりあえず今回の交通費は持つ。帰りは責任持って送るし、心配しなくていいよ」

よく知らない場所でぽいっと放り出したりしないからさ。と笑って有無を言わさず券売機にカードを差し込む。…あれ。

「何で二枚買うの?自分ちの近くなんでしょ」

わたしにそのうち一枚を渡して、さっさと先に立って自動改札へと向かう名越くん。その背中を追って小走りに追いつき、自分も改札に切符を通してから軽く息を切らして尋ねると、彼はすたすたと先を行きつつ悪びれず答えた。

「自宅はね。子どもの頃から通ってたから、当然実家の近所ってわけ。今はほとんど姉の住んでる部屋から通学してる。そっちの方が少し便利なんだ、何てったってマジ駅近だし」

「あ。…なるほど」

そこでようやく、これまで頭の隅っこで意識されずに漠然ともやもやしてた疑問点がぴたりと嵌った気がした。

「それでうちの近所でよくうろうろしてたのか。あの辺りで生まれ育ったにしては見慣れない顔だなぁと思ってたんだ。まあ、最近この辺に越してきたのかなとか。小中と私立だったのかなとか考えたら別におかしくはないから、あんまり深くは気にしなかったけど…」

たまたま近隣に用事があったのかもしれないし。それにしても偶然鉢合わせるにしてはやけに出くわす回数が多いなくらいで済ませてた。でも、何だかやっぱりなんか引っかかるなと無意識に胡散くさく感じてた理由にやっとそこで思い当たる。

「…そういえば。一回犬の散歩してるときに会ったもんね。ただふらふら歩いてるだけならまあ、この近所に通ってる場所があるのかとか知り合いが住んでるのかも。で済まされるけど、犬の散歩はね。まず歩ける範囲から出て来てるはずってなっちゃうから。免許のある大人なら、車で公園まで来てたって可能性もあるけど…」

「は。…ちゃんと覚えたんだ、あのとき会ってたの」

その声がどことなく嬉しそう。しまった、うっかり自分から話題に出しちゃった。

こうなる前にちょくちょく顔合わせてたことについてはこれまでなかったことにして、知らんぷりして済ませてたのに。

いつも帰宅するときにわたしが乗るのとは反対方向行きのホームに行って電車を待つ。名越くんはちらと目を上げて次の列車の到着を知らせる電光掲示板を確認してから、制服のポケットに手を突っ込んだまま楽しげな眼差しをこちらに向けた。

「こうやって話すようになっても全然触れないから。きっとそっちはあの頃俺のこと個別認識とかしてなくて、たびたび外で顔合わせてても視界にすら入ってなかったんだろうなと思ってたよ。話したことはなくても一応、隣のクラスだからお互い顔くらいは見知ってる方が普通だと思うけど」

そうね。特にあなたみたいなタイプなら尚さら。

きっと女の子に見覚えられてなかったことの方が人生に於いてレアケースなんだろうなと思うとちょっと面白い。

女子の誰もが百パーセント、あんたにお、イケメンじゃん。と心動くってわけじゃないんだよって話だ。まあ、本人は案外どっちでも大して気に留めもしないんだろうが。

ふぁん。と大きな音を立てて滑り込んできた列車がすうっと停まり、彼は開いた扉の方へとわたしを促して先に乗らせてから奥へと誘導する。午後のまだ早い時間でラッシュ時には程遠いから、座席はそれなりに空いていた。

横並びに空いてるシートを見つけて結局二人並んで座る。

「あのとき、まるみを連れて歩いてたら離れたところからぱっとお互いの目が合った気がしたのに。あ、おんなじ高校の人だって反応が全然なかったから、こっちの顔がよく見えなかったのかな?この子視力が弱いのかもと思ってた。俺の方はすぐ笹谷さんのことわかったけど…」

「…『丸み』?」

「散歩させてたポメラニアンの名前だよ。うちの姉がつけたんで、俺のセンスじゃないからね」

予防線張るとこそこかい。

滑らかに揺れるシートの振動に身を委ねつつ、やんわり穏やかな彼の言葉を何とはなしに徒然に聞き流す。

「うちの姉は社会人になって一人暮らしを始めて、念願だった小型の室内犬を飼い始めてさ。でも思ったより忙しくて平日は散歩もままならないみたいだったから、それを請け負うのを条件に一部屋明け渡すよう交渉したんだ。高校との距離は実は言うほど変わらないんだけどね。あっち方面とこっちでちょうど反対に三駅」

やっぱり。わたしの家の最寄駅と同じだ。

「そしたらこれまで一カ月あまり、美術部で絵を描き終わったあとちょっとずれたタイミングでそれぞれ別々に同じ路線で帰ってたってことか。なんか間抜けだったかも、傍から見れば」

同じ方向だって知ってるんなら言ってくれたらよかったのに。という台詞をかろうじて飲み込んだ。…何故なら。

名越くんはそこでやや呆れた顔つきで肩を窄める。

「だって、今日はこれでおしまい。ってなると、いつもめちゃくちゃてきぱきと片付けて全く待つ様子もなくきっぱりとお疲れさまでした。って言うなりずんずん出て行くからさ。よほど俺と一緒に帰りたくないんだな、と判断するしかなかったよ。これで実は俺たち多分最寄駅同じだと思うよ?なんて言った日にゃ。どっかに通報されると思って、絶対」

「いやそんなことは…。大体どこに通報するんですか、それって」

ちょっとしどろもどろになりつつ、それでも一応言い訳だけはしておく。

「別に、名越くんがどうこうってわけじゃなくて。単純にそれほど親しくない人(婉曲表現)と連れ立って駅までとか歩くの、気が重いなぁと。だから急いで一足先に教室を出る癖がついちゃっただけなんで…。それ以上の意味はないです、全然」

「そうなの?じゃあ今のこれはいいんだ」

確かに。わたしはちょっと考えてから、結局正直に答えた。

「最初の頃よりはまあ、一緒にいることにだいぶ慣れたから…。ずっとさっさと切り上げてたのはもうそういう習慣になってたからね。それに」

電車に乗り合わせて、振動や車輪の鳴る音に紛れて会話してると普段より何だか沈黙が気にならない。ので、いつになく軽くなった口で思いきって続けた。

「何となくわたしの方はともかく、名越くんってあんまり会話途切れても気にしない人だろうなと。まあそれだけ他人からどう思われるか、評価が全然気にならないってことなんだろうけど。なんか周りからの思惑なんか、どうでも自分はノーダメ。全然平気って感じ…」

「それは時と場合によるよ、俺だって。さすがに誰からもどう思われてもなんも感じないってことはない」

そりゃまあそうか。

なんかノンデリみたいに言い過ぎたかも。一応人の心があるんだから、他人からの評価が百パーセント刺さらないなんてことはないよね、誰だって。

と少し反省したわたしの思いをよそに、彼はいつもの人を喰ったような笑みを浮かべて平然と付け加えた。

「少なくとも、笹谷さんといるのが気づまりってことは俺はないよ。そっちも気にしなくていいと思う。会話なんて無理して捻り出す必要ないよ。沈黙が続くならそれはそれでいいじゃん、逆に話したいことがあるときは自由に口にすればいいし」

「そりゃ、あなたはね」

思わず肩をすくめてしまった。

わたしみたいな毒にも薬にもならないポジションの女子からの評価なんて気にかけるような玉でもないだろうし。こいつといても面白くないなとか思われたところで、そんなのへでもないだろう。

わたしが言外にそう考えてるのを読んだかのように、彼はふと生真面目な表情になって首を横に振った。

「そういう意味じゃなくて。…楽しく話が弾むかどうかで俺から君への評価には何の影響もないってことだよ。気の利いた会話ができるかどうかなんて、笹谷さんの価値には関係ない。些細なことだよ…。だから、安心してのんびりぼへっと無言でマイペースに過ごしてて構わない。それで君を見損なったりは絶対しないんで」

それに、そもそも。とふっと思い出したように明るく破顔して付け足す。

「笹谷さんって、別に俺によく思われたいとは考えてもいないでしょ?なのに会話が続かなくて気づまりになるのは気にするの不思議だよね。本当は、つまらない人だと相手に失望されるのが嫌なんじゃなくて、もっと別の理由なんじゃないの?一緒にいる相手との間の沈黙を気にするの」

「ああ、まあ…。それは確かにそうかもしれない」

言われてみれば。改めて自分の胸の内に尋ねてみても、この人に好かれたいなんて気持ちこれっぽっちもないのにね。

「…多分だけど。わたしが嫌なのは誰か特定の人からの評価が落ちるとかよりも、単によく知らない人といるときの気まずい空気そのものなのかも。例えば友達とか、家族といるとき長い沈黙がふと続いても特に何も思わない。好きでも何でもない、むしろ自分にとってどうでもいい相手ほど。二人きりになったときの時間が嫌だな。それきり二度と会わない人でも沈黙は苦手だから、どう思われるかとかよりも別の理由なんだろうね。もしかしたら本能的な警戒心というか拒絶というか。…つまりはただの人見知りかも」

車両の心地よい揺れを感じながら自分を納得させるようにそう独りごちる。すると横で聞いてた名越くんがすぐさま嬉しそうに口を挟んできた。

「あ、さっき俺といてももう以前ほどは気づまりじゃないって言ってたよね?じゃあ俺も、君にとって気の置けない仲の友達のうちの一人になってきたってわけ?そう考えていいよね、今の文脈だと」

「ああ…、なるほど」

確かに。そういう風にも取れなくもないな。

わたしは腕を胸の前で組み、しばし考えてから頷いた。

「友達っていうかなんていうか。単に存在に慣れたから、もう警戒心とか人見知りとかはないね。大体よく考えたらこの一ヶ月間、ずっと二人で無言で黙々と美術室で作業してたわけだから。今さらそれより無愛想な対応なんてこの世に存在しない気がする…」

絵を描いてるときは同じ室内にいる相手のことなんか、普通に頭から飛んでるときあるもんな。普段そこまで平然と丸無視してること考えたら、帰り道で多少沈黙が走ることなんて。慌てて取り繕って気遣ってみても今さら感が拭えない。

考え込んでるわたしの気を引き立たせるためにか、名越くんはフォローするように明るい声をかけてきた。

「うん、あんまり難しく考える必要ないよ。社交辞令とか一般的常識みたいなことに俺といるときは気を回さなくていい。俺たちにはそれよりずっと大事なことがあるでしょ、絵を描くっていう」

がっくん、と軽い衝撃とともに車両が停まった。

もう着いたのか、と慌ててシートから腰を浮かせかけるわたしとスマートにすっと立ち上がる名越くん。うぃん、と微かな音を立てて開いた扉の方へ慣れた様子で向かう背中を慌てて追いながら、思わず素直な疑問がぽろっと口から溢れる。

「まあそりゃ、絵を描くこと自体嫌いではないけど…。そこまで大ごと?」

ただの趣味じゃん。別に美大に進めるような上手さでもないし、彼はともかくわたしの方については。

余計な気を遣う必要なし、っていう提案について同意するのは吝かではないけど。それより自分たちにはもっと大事なことがあるでしょって言われるほどの代物でもないんじゃ。…とは正直。思わなくもない…。

今ひとつ釈然としない顔つきで、初めて降りた慣れない駅の構内を彼のあとについてとぼとぼと歩くわたしの方を振り向き、こっちだよ。と手で促してから名越くんはいつになく素直な表情でにこっ、と笑った。

「君の方はそうでも、俺にとっては充分大ごとなんだよ。これから笹谷さんが、前向きになって新しい絵をもっとたくさん生み出してこの世に送り出してくれるためには何をすればいいか。これでも俺なりに真剣にいろいろと考えてるつもりなんだから。…あ、こっちこっち。君ちっちゃいから、気をつけて俺のこと見失わないようにして。…ほら、ちゃんと切符あるか確認して。いつの間にか失くしちゃってない?そしたら、行こう。改札通るよ」


何かと世話を焼かれつつ、わたしの家の最寄駅よりも乗り降り人数の多いかなり栄えた駅の構内を抜けた。

ここの駅、初めて来たけどこんな風になってんだ。今まで特に用事もなかったからなぁ。と思いつつきょときょとしてると先導する名越くんの背中からどうしてもやや遅れがちになる。案の定人混みを抜けて商店街へたどり着いたあと、こってりお灸を据えられた。

「ちゃんと前見てついて来てよ。振り向くたびに人に紛れて見えなくなってるんだから…。そんなきょろきょろするほど珍しいものないでしょ?普通の駅だよ」

それはそうなんだけど。

「うちの地元よりだいぶ駅大きいから…。商店街も広いね。まだずっと続いてるの?」

「もう少しで終わりだよ。その先はずっと普通の住宅街」

目的の絵画教室は駅からさらに12、3分ほど歩いた場所にあった。

駅周辺は店舗がみっちり並んでて死ぬほどがちゃがちゃしてるけど、10分も歩くとそれもはたりと途絶えて落ち着いた住宅地になる。確かに、彼が言ってた通りだ。

ひとつひとつの家にほどほどの庭がついてて充分な広さの敷地がある。点在するマンションも整然として小綺麗で、何だか高級そうだ。

「名越くんの家もこの辺りってことだよね、つまりは」

うちの周辺の住宅の感じとは全然違うな。いやわたしの家がぼろっちいとまでは思わないけど(一応数年前の新築だし)、急な坂道沿いに手狭な狭小住宅が建ち並ぶ界隈であるのは間違いない。

この人が今住んでると思しき海辺の駅周辺には、近年真新しいタワマンがいくつか出来たけど。坂のところどころには昔からある小さなアパートもまだちらほらあるし、丘の上の公団は年季の入った骨董品レベルに片足突っ込んでる。昭和が舞台の人情ものドラマとかのロケが来てもおかしくないくらいの前時代の遺物だ。

それに較べると下町感がなく、町並みがゆったりしてる。たった六駅ほど離れただけでだいぶ空気が違うもんだな。

と思って、やっぱりゆとりあるいいお家のお子なんだろうな。と他意なく尋ねたところ、彼はわたしの少し前をすたすた行きながら平然と答えた。

「うーん。俺んちはこの近所ってわけでもないんだよね、実は。電車の駅に出ようとすればさっきのとこにはなるけど…。もっとだいぶ山側になる、ここからずっと向こうに行った方の」

手で軽く示した方向には緑なす緩やかな丘陵が街を見下ろすように聳えている。

あっちって確か、大きな邸宅が山の中に散らばる高級住宅街では…。つまりは電車で通勤する必要なんてないから駅近かどうか、なんて気にかけず自然に囲まれた環境と広大な敷地を確保するためにあえて山側に居を構える人たちがいる、と耳にしたことはある。

もしかしてこいつ、いいとこのお坊ちゃんか。…と身構えるわたしの内心に気づく風もなく、続けてさらっと言ってのけた。

「だから、教室までは毎回車の送迎がついてたよ。てか中学までは学校もそうだね。小中一貫の私立だったからさ」

やっぱり。

親に送迎してもらってた、じゃなくて送迎がついてたって言い回しがミソである。何となく使用人がいるのが当たり前な雰囲気を感じるし。

「それで、高校は公立なの何で?まあ別に言いたくなければ言わなくてもいいけど」

ついうっかり話の流れで振ってしまってから慌てて付け足す。実は親の事業が破綻して…とか言われても反応に困るよな。

名越くんはそんな余計な心配をよそに、まるでこだわりなくあっさりと受け応えた。

「だって、九年間も同じ場所同じ面子のいるとこに通うんだよ?そりゃもう、うんざりするよ。これまでと全然違うとこに行きたいと思う方が普通じゃない?」

ふぅん。まあ、わたしでもそう考えるなとは思うけど。

「雰囲気悪かったの?それとも自分と合わなかったとか」

「いや、そういうんでもない。ただ本当に、つくづく飽きちゃったっていうだけ。次にまたわざわざ同じくらいのレベルの私立行ってもあんまり校風とか変わんないかなと思ってさ。それよりはまあまあ難関の公立ってどんな感じなのかって、見てみたくて」

下々の世界を知りたくなったってか。この坊め。

「よくご両親に反対されなかったね」

久しぶりだなぁこの辺り、と呟いてきょろきょろしながらわたしの相槌をあっけらかんと受け流す。

「うん、まあお前はそういうこと言い出しそうだと思ったよ。って言われて済んだだけだったな。まあ姉もお嬢さん学校を高校からドロップアウトして、めっちゃ雑なマンモス大学行ったしね。親も慣れてるんじゃない?その代わり偏差値低いとこは駄目だって結構厳しく言われたけど…」

それで消去法でうちの高校か。なるほどね。

あ、見えて来た、あそこの家だよ。なんか本当に久々に来た気がするなぁと楽しげに言いながら行く手を指さす名越くん。正直そう言われても彼の手がどの家を指してるのか判断がつかない。

特に目立つ看板が出てるでもなくごく普通の民家なんだな。と思いつつ、そういえば成り行きで何となくついて来ちゃったけどわたしは本気でその先生について美術の基礎を学ぶつもりなんだろうか?と今さらながら疑念が頭をよぎる。

優しくて当たりの柔らかい、親切な人だってことは聞いてるけど。当人と会って話を聞いて尚且つ、やっぱり今回はいいですやめときます。と怖気づいて帰ろうとしたらどうなるのかな。

わざわざ時間を割かせておいてそれならさすがに穏やかな性格の人でもむっとするんじゃなかろうか。最低週何回顔出せば許されるかなぁと戦々恐々としながら、やけに弾む足取りで並んでる民家のうちの一軒の玄関へと近寄る名越君の後ろをわたしはやや気の進まない足取りでついていった。


「…直織」

ざっざっ、と小走りに背後から近づいてくる足音。小雨が降っているけどまだ水音が立つほど路面に溜まってはいない。

朝から予報が雨だったから念のため用意してあった折り畳み傘を開いたわたしは、慌てて駅まで走って行く人がいるよ。こんな程度の雨なら開き直って堂々と歩いて濡れてった方がましなくらいなのに、ご苦労なことだな。とすっかり他人事として捉えていたので、いきなり背中から自分の名前を呼ばれてさすがにびっくりした。

わたしを下の名で呼ぶ知り合いはこの高校じゃそう多くない。ていうかほぼ一人だけだし、そいつのことは声で判別できる。そういうわけで振り向く前からそこに吉村がいるのはわかった。

「…何なのあんた。朝出る前に天気予報見てこなかったの?」

そうか、この天気だからフットサルの練習は中止なんだな。髪の毛に満遍なく細かい水滴を散りばめたように頭がきらきらしてるやつに向かって、仕方なく傘を半分傾けて中に入るよう促す。

吉村は悪びれず上体を屈めて傘の下に収まり、当たり前のようにわたしから持ち手を受け取って高く掲げて答えた。

「いや、ちゃんと傘は持ってるよ。てかむしろ鞄に折りたたみずっと入れっぱだし。差そうかどうしようか、微妙な雨だなぁ。と思って歩いてたら。先の方に直織が見えたからさ…」

だったら面倒だから差さないで入れてもらう方が楽でいいやと追いかけて来たわけか。気持ちはわかるが、逆ならわたしもそうするかも。だけど。

「今日わたし、寄って行くとこがあるから。まっすぐ家には帰らないよ。だから入れて行けるのは駅までになるけど」

「それで全然いい。…てか、放課後そのまま行くんだね。もしかして例の絵画教室?」

さらっと尋ねられ、思わず肩の斜め上にあるその横顔に目をやった。

「よく知ってるね。誰かから聞いた?」

名越くんから紹介された画塾に通い始めてからまだ二週間。その間吉村とは直に顔を合わせる機会はなかった。

特に用事もなかったからLINEもしてないはず。だから、こいつがその話を知らされたのは多分わたしの口からじゃない。

学校の子で画塾のことを知ってるのはもちろん名越くんと、あとはうちのクラスのいつもの面子。クラ子とたまちゃん、ユラの三人だけだ。

今日も昨日も美術室行かないんだね?もう名越くんと絵を描くのやめたの?と興味津々で尋ねられたので、絵の教室を教えられてそこに通うことになった。と正直に答えた。隠しておくほどのことでもないし、あとでわかるとかえって面倒だから。

だけど週二回通ってるその教室でもしばしば、彼と鉢合わせるとはあえて教えてはいない。

名越くんは初めて連れて行ってくれたときにここには久々の訪問であることをしきりに強調していたので、わたしを紹介したらそれっきりで自分は来ないんだろうなと思ってたのに。自分もここで描くからしばらく通う、と言い張ってキャンバスを用意し始めた。

「小中学生向けのお絵描き教室とは別に、大人向けの個別レッスンもあるんだよ。子どもたちとは曜日が別だから、静かに落ち着いて専門的な内容を学べるし。今の笹谷さんにちょうどいい習熟度から始められる」

そして自身はわたしが基礎から丁寧に教えてもらってる同じ部屋の片隅で、マイペースにのんびりと自分の絵を描いてる。別に付き添いで来てるわけでもないんだろうし横からとくに口を挟んでも来ないからいいけど、何やってるんだか。

まあ、地味に彼の描いた油画は一枚も見たことないから仕上がりが楽しみではある。あの超絶技巧で一体どんな絵を描き上げるのか。

変な話だけど、わたしは高校以降美術方面で誰ともつるんでなかったから。自分より上手い同世代の絵をあまり間近に見た経験がない。

今の高校の美術部にでも入ってたら、絶対にわたしより上手い人が山ほどいてとっくに鼻っ柱を挫かれてただろう。それを避けたわけじゃなくただのものぐさの結果だけど、これまで他人と自分の絵を較べて特段に劣等感を感じた経験がなかった。

そういう意味で名越くんの登場はわたしにとって特別じゃないこともなくて、デッサンやクロッキーじゃない本格的な作品を見たいか見たくないかと言えばやっぱり見たい。

だから、別にわざわざわたしが習いに行ってるときに顔出さなくていいよ。ときっぱり断ることもできず、何となくなあなあで現場で顔合わせる習慣になっていた。今日も多分そうなるかもしれない。

けど、あくまでお互い自分の都合で教室に通っている。たまたま同じ曜日にかち合ってる、って体裁を取ってるので放課後に待ち合わせて一緒に学校を出たりとかはしてない。最初に連れて行かれたあのときだけだ。

だから結果的に今、こうして一人で歩いててよかった。とちょっとだけひやりとする。

別に名越くんと二人連れのところを見ても吉村は何とも言わないし、特に何も思わないだろうけど。それでも深いわけもなくいちいち予断を与えたくない。

絶対こいつ、心配するしな。あんな遊んでそうな人と仲良くなって大丈夫?直織はそういう気がなくても周りからはいろいろ言われるかもよとか。下手に人気のある男と一緒に行動してると要らないところから反感を買うんじゃないかとか。…考えようによっては何でも懸念材料となりそう。

もしも仮に吉村がわたしのクラスの友達の誰かから画塾のこと聞いたとしたら、おまけに名越くんについても余計なこと吹き込まれてそうだな…と首をすくめてたけど。やつはあっさりこだわりない様子でその質問に答えた。

「うちの親から。直織ちゃん、正式に絵を習いに行き始めたんだってねって母さんから訊かれた。そっちのお母さんとLINEしてて知ったんだって。そしたらうちの弟も、圭太が最近姉ちゃん本格的に絵をやり出したから帰りが遅いんだよなって言ってたよって。…何であんたは知らないのって言われたけど、しょうがないよな。同じ学校通っててもそんなにしょっちゅう顔合わせないし」

「うん、まあ。…中学校より全然規模大きいしね」

適当に相槌を打ちながら少しほっとした。

うちの家族からの情報なら名越くんの名前が出るはずない。彼の存在については全く話題にしたことがないからだ。

吉村はわたしの歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、小さな折り畳み傘をさり気なくこっち側に傾けた。わたしに気づかれないようにそっと動いたつもりらしいが、その拍子に反対側の肩の方にほろほろっと水滴が溢れたのですぐばれる。

「美術部にも入部したんだよね、結局。入学したときどうして部活に入らないんだろ。どうせなら文化祭とかで描いたもの発表できる場があった方がいいのにとずっと内心思ってたから…。でもよかったな、こうやって。絵についていろいろと可能性が広がるきっかけができて」

裏心なく本心から喜んでるような声色。

わたしは目線を足許に落とし、まだほとんど水たまりの出来てない路面に何となく見入った。

「…そう思う?一人でただ描いてるより、何か得られるものがありそうだって」

「うん。それはそうだと思うよ。そりゃ俺は今のままの直織の絵は好きだし、何かが足りないなんて全然感じてない。美術のことなんて何もわからないからかもしれないけど」

俯いてる頭の上からほっこりと穏やかな声が訥々と降ってくる。

「でも、本当に好きなら外からいろんなもの吸収して世界を広げるの、絶対に有益だと思うよ。絵を描くの飽きちゃったとかでもないんならせっかくだからいろいろ試してみたら。描きたいものが変わったり、これまでよりもっと納得いくものが描けるようになるかもだしね」

「…それで結構画風が変化しちゃって、吉村の好みから遠くなるかもよ?」

「それはそれでいいよ。ふぅん直織はこういうの描いてみたかったんだな、っていう目で見る楽しみもあるから」

美術部誘ってもらって本当よかったな。としみじみ喜んでるとしか思えない囁きを耳にして、さっき引っかかった違和感の原因にふと思い当たる。

そういえば。わたし、美術部に入部した件については誰にも話してない。

それはあえて隠してたとかじゃなく、成り行き上籍は置くことになったけど実際に部室に通って活動することはそんなになさそうだし。実質幽霊なら大して重要じゃない話かなと判断して、友達にも親にもそのことは持ち出さなかった。

絵画教室については月謝が発生するし、ある程度画材も揃えなきゃいけなくなったので母にきちんと説明して頭を下げたけど。部活については本人であるわたしもすっかり忘れてたくらいなのに。

それに。…誘ってもらえてよかったな、って言い回しについてもちょっと独特。こいつもしかして、意外と既に深く事情を知ってるのでは?

「…わたしが美術部入ったのは。誰から聞いたの?」

用心深く尋ねたら、吉村は特に隠すことでもない。と言わんばかりの態度であっさり答えた。

「同じ同好会のやつ、長谷川っていうんだけど。あいつ名越とも知り合いでさ。美術室で二人と会ったって教えてくれたよ」

やっぱり。リーク先はそこか…。

あのとき、ふらっと美術室に顔を出した名越くんの友人。吉村とわたしが付き合ってるんじゃないかと思ってた人。

そういう関係じゃないと否定されはしたけどおそらく今ひとつ納得はしていなかったのかも。それで、無駄にイケメンな俺の友達の名越ってやつがあの子を美術部に誘ったらしいんだけどさ…みたいにそれとなく吉村にちくって反応を見たのかもしれない。

だけど、それでこいつが逆上したり不安で居ても立ってもいられなくなるだろうと思ったんなら。そいつはまるで吉村って人物のことがわかっちゃいない。

わたしに傘を差しかけるその男は、まるで心が揺れた風もなく変わらずに人のいい笑みを浮かべてしみじみと呟いた。

「本当に、直織の背中を押してくれるやつが現れてくれてよかったと思うよ。もっと本気で取り組めば今よりずっとすごくなるだろうなと頭では考えてたけど。そのために何をすれば直織をその気に出来るのかってのは、まるで俺には見当もつかなかったもん。やっぱりこういうことはその分野に通じてる者同士じゃないと。どうにもならないよなぁ…」

うん、まあそうなんだけど。

あんたはそれでいいの?

何でそんなことを確かめたくなるのか。自分でもはっきりした理由は言えないのでそのまま口にはできずにごもごもと、ちょっとずれた尋ね方をするより他にはない。

「…別に本格的に美術の道に進みたいとか、将来これで食って行きたいってわけでもないんだよ。ただ、もうちょっとは上手くなれるかもと思うだけで…。それでも、やってみた方がいいと思う?将来何にも使う予定のないスキル磨いても。こんなの結局無駄なんじゃないかなぁと思うところもあって…」

やつは生真面目な顔できっぱりと首を横に振った。

「将来役に立つとか立たないとか関係ないよ。むしろ今、納得ゆくまでしっかり向き合ってみた方がいいことなんじゃないの?絵でご飯食べられる人なんて日本全体で見てもほんの僅かなんだし。そのうちに入れたらもちろんすごいけど、それだけが絵を描く意義ってわけでもないでしょ。それより何より、直織がやりたいことを中途半端じゃなく。一回本気出してやってみたら?いい機会だと思うよ」

「…自分の方は。いいの?」

思わず横から口を挟んでしまった。

中学までの吉村は、がっつり朝から晩まで土日も年末年始も、サッカーばっかりやってた。

もちろんそこまで打ち込んでもプロとか行けるレベルとまではいかなかったけど、それでももっとサッカー部の活動の盛んな高校に進むのかなと思ってた。そしたら意外にもめちゃくちゃ勉強頑張って、この周辺じゃ一番難しい公立のわたしと同じとこに来たのはいいけど。

公立の進学校だしあんまり運動部が活発とはいえなくて、大会でも一回戦勝てればいい方らしい。それでも自分の楽しみのためだけでも、好きなサッカー部に入ればいいのにと思ったし。大学でも続けられる可能性もあったかもしれないのに。

結局フットサルの同好会に入って趣味半分って感じで活動してる。まあ実際、サッカー部の方は選手の頭数が今いち足りなくて試合に出るにも苦労してるって話だし。それなら人数少なくても確実に試合が組めて、メンバーの仲も良くて活動も活発なフットサルの方がいいって判断だったのかもしれないが。

「やっぱり、あんたが中学までどれだけ真面目にサッカーに打ち込んでたかはわたしも知ってるからさ。最低限のレベルでも一応サッカー部続けてもう少し活動が盛んな大学の運動部目指すとか、なんならサッカーが強い高校目指した方がよかったのかなとか。…今が楽しくて満足ならいいよ?でももしかしたら、フットサルにすることで。これからは趣味にしておこうって内心で折り合っちゃったとこもあったのかな、って…」

傘の中で吉村がふ、と小さく笑った音が微かに響いたような気がした。

まっすぐに前を見てるその顔に浮かぶ表情が何なのか。角度的にわたしの目の位置からは読み取れない。

「…それは全然ない。考えすぎだよ、直織の」

少し雨音が強くなってきた。

ばらばら、と傘の表面で弾ける音に混じって、やけに低い吉村の独り言のような呟きが優しく響く。

「サッカー、そりゃやってる時は本気で頑張ったし好きだったよ。けどそれを高校、大学と続けられるかどうかはまた別の話だからさ…。直織も言ってたけどどんなに好きで頑張っててもそれを一生の仕事に出来る人はほんのひと握りだよね?その事実を一歩先に、目の当たりにしたってだけだからさ」

「でも。…職業にこそしなくたって、ほどほどに楽しんで付き合い続けるってやり方も」

自分のことを応援してもらっといて、当人はとっくに見切りをつけてたのかと思うと。ちょっと、いたたまれない。

駅の構内に足を踏み入れて、手を伸ばすわたしに首を振ってさっさと水滴を払って傘を畳む。きっちり止め紐をとめて振り向いてそれを渡してくれながら、正面からわたしを見下ろして吉村は微笑んだ。

「うん。だから、俺なりにいろいろ考えて高校ではフットサルを選んだ。それが一番、サッカーをやりたい気持ちとのいい折り合いの付け方だって考えたから…。今それで、全然楽しいよ。後悔はしてない」

それに。と、にかっと明るく笑ってわたしを改札の方へと促しつつ付け加える。

「そもそもレギュラーで出られる可能性もないのに下手に未練でサッカー強い学校選ぶよりは、直織に勉強叩き込まれてそのおかげで今の高校に進めた方が絶対によかったじゃん。一応名の通った進学校だし、まあ成績はあん中じゃどべだけど。将来性って意味じゃ今の方がいい。…結果オーライだと思うよ。ね?」


《第5章に続く》

どんどん名越くんが図々しく、押し付けがましくなっていきますね。

実際に顔面がいいとか成績がよくて音感があって絵が上手いかはともかく(現実ならさすがに何もかも全ては持っていないと思う…けど、断言はできない)こういう風に人間関係イージーモードな人って稀にいる気がする。またそういう人に限って他人に根本的な関心が薄いというか…。いや関心が薄いからこそプレッシャーがなくて何でも上手くいくのかな?そう考えるとちゃんと因果関係あるのかもしれないですね。

主人公はようやく我流の描き手から脱却してスキルアップを目論むのでしょうか。なんか結局名越くんの思う壺にはまってるような…。受け身主人公の悲しい性ですね。

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