最終章 笹谷の胸のうち
恋愛にはならなかったけど、友達としてはかなり気の合う組み合わせだったと思うので。お別れの場面は何というか、寂しいものがありますね…。
高い高い天井に、あちこちから放たれるアナウンスが反響して交錯する空間。それぞれの声が微妙に打ち消し合うので細心の注意を払ってないと、自分の乗る便についての連絡を聞き落としそうだ。
もっともわたし自身が飛行機に乗るわけじゃないから、他人事といえば他人事だけどね。と内心で呟きつつ、カフェテラスの広々とした窓から外を眺める。
季節はこの数日でいきなりすとんと秋めいてきた印象だけど。今、この窓の外の景色にはなんの季節感も反映されてない。ただひたすら、見渡す限りコンクリート打ちっ放しのだだっ広い敷地に大小取り混ぜた各国多様なデザインの航空機がぱらぱらと、思い思いの位置にばらついて並んでるだけ。
飛行機に季節感もなんもないもんね。それともどっかの季節の季語になってたっけ、飛行機とか空港とか?
そんなのあるわけないだろってこっちが考えるようなものこそ、意外と季語になってるから歳時期って油断ならない。ネットでぱっと調べればわかるけどそこまで興味はないし。
目の前にいるこいつなら無駄に博識だから、案外尋ねたらあっさり答えてきたりして。と思ってテーブルの向かいに座る人物を見やると、名越は即わたしの視線を感じたみたいで敏感に顔を上げ、何?と目だけで問いかけてきた。
「いや何でもない。…どうする、そろそろチェックインしとく?ちょっと早めだけど」
あんまりぎりぎりでも落ち着かないでしょ。と水を向けると、名越は肩をすくめてまだもう少し大丈夫だよ。といつものへらへらした態度じゃなく生真面目な顔つきで返してきた。
「今日出発したら、また数ヶ月は笹谷に会えないもんね。そう考えたらさ…。あと数十分くらい付き合ってよ、悪いけど」
「いや何も。悪いことはないよ…」
調子狂うなぁ。
あれ以来、名越との間の雰囲気が急激に変わったというわけではない。少なくともわたしが心配のあまり神経をすり減らしたほどには二人の仲は大して気まずくはならなかった。
だけどそう思って油断してると、ときどきこうやってふと真顔になってガチ目にわたしへの思いがまだ残ってる。みたいに匂わせてくるのがちょっと参る。いやもういいじゃん…。その辺については充分話し合ったでしょ。本当にごめん、申し訳ないって。
こっちが反射的に怯んで弱気になったのを見て、やや満足げににっと笑う。まじで性格悪いぞ、お前。
「大丈夫だよ、今生の別れでもあるまいし。あんたの顔見たくなったら速攻帰ってくるから。留学とは言っても、行きっ放しにはならないつもり。日本と向こうの間をちょくちょく行き来するからさ」
「そうなの?」
それは大変だろ…。イギリス、まじ遠いぞ。飛行機乗ってる時間も半端ないのに。
もっとも飛行機代が高いとかはこいつはあんまり気にしなくていいんだろうな。わたしなんかだと往復でひと財産吹っ飛ぶくらいの重みがあるけど。何たって一大グループ企業の御曹司だから、留学費用だって必要経費のうちだ。
名越がわたしの手許のカップの中身に目をとめ、注意を促した。
「大体まだコーヒーそんなに残ってるじゃん。飲み切るまでも少しここにいようよ。そのくらいの時間はまだ平気だと思うよ」
「あ」
そうか、何となく飲むのを失念してた。
いつの間にか陶器のカップもすっかり冷えてぬるくなっている。慌てて中身を飲み干そうとするわたしを見て、名越はそうかそうか。と何故か急に嬉しそうな顔つきになって頷く。
「やっぱり、俺が向こうに行っちゃうとなると寂しくて気もそぞろなんだなぁ、本音の部分では。大好きなコーヒーも喉を通らないんでしょ。だから言ったのに、一緒に行こうって。今からでも遅くないからついてくればいいのに」
「いや遅いだろどう考えても。…それに別に上の空だったわけじゃないから。単に熱いのを冷ましてただけだから、これは」
わたしはむきになって反論し、ほらすっごい冷めてる。余裕余裕、とひけらかすように残りのコーヒーを一気飲みしてみせた。我ながら子どもっぽいというか、何やってるんだか。
うっかり手許の飲み物を飲み干してしまい、あと数十分が余計に手持ち無沙汰になった。名越はそれを指摘するでもなく、落ち着き払って立ち上がりコーヒーもう一杯飲むでしょ?今度はアイスにしとこうか。と言い置いて、わたしが何かリアクションする前にさっさとカウンターの方へと移動していった。
畜生、またうっかり油断しててお世話されてしまった。あいつがイギリスに行ったらしばらくの間はもう、東京で一人でやってかなきゃならないんだから。
何もかも先回りして痒いとこまで手が届くような面倒を見てもらうのはこれで終わり、と決めてるのに。こんなぎりぎりまで息をするように自然に手厚く世話されてる場合じゃない。もう立派な大人でいい歳なんだしちゃんと自立しないと、と胸の内で固く心に誓う。
こんなの当たり前で何でもない、とばかりににこやかにスマートにわたしの分のアイスコーヒーのグラスを持ってこちらに戻ってくる名越を見てると。今でも以前と何も変わらないわたしたちなんじゃないか、っていう錯覚に駆られそうになる。
だけどもちろんそんなわけない。ここまでの間の数ヶ月に起きたことをわたしは改めてしみじみと思い返していた。
正式に吉村と付き合うことになったので、さすがにわたしは以後名越の部屋に泊まるのはやめた。
これまでもそういう関係ではなかったのだが、何となくけじめとして。彼氏がいるのに他の男の部屋に泊まるのは…っていうのもあるけど、名越の気持ちを知った以上そこはきちんと距離を置くべきだと考えたから。
それで毎日、これまでほとんど物置と化していた名越のマンションの斜向かいの自分のアパートへ寝に帰るように。まあ、それまでが感覚おかしかっただけでこれが正常なんだけど。こんなにこの部屋狭苦しかったのか!と、慣れるまでしばらく時間を要した。
でも、『寝に帰る』って表現でお察しのとおり。わたしは結局、名越と完全にかかわりを断つことはできなかった。
「何で?そんな必要ないでしょ。アトリエが使えないと笹谷だって不便だろ。それにもともと俺たちは友達であって彼氏でも彼女でもないわけだから。そういう意味ではこれまでと関係性変わらなくない?」
わたしが吉村を選んだ、と知らされたあとでも名越はめげずに強くそう主張し続けた。
まあ、やつがそう言い出すのは何となく想像がついてた。恋愛的な関係にはなれなくても、こいつにとってわたしにはまだ好きな絵の作者という存在意義があるし。
自分ちのアトリエで今までと同じに制作を続けてほしいと願うのはそんなにおかしなことじゃない。ちょっと失恋したくらいじゃ、顔も見たくないとまで激しい拒絶には至らないんだろう。それより自宅のアトリエでわたしが絵を描いてるところが見られなくなる方がつらいってことか。
その気持ちはわかるような気がしたし、そもそもこっちとしては吉村と結ばれたからって名越への感情が特に変化したわけじゃない。
わたしにとっては相変わらず美術面での同志で理解者でパートナーだ。だから向こうが構わないよ、と言ってくれるなら節度を守りつつアトリエを使わせてもらうくらいの関係は維持しようと思った。
まあ、どのみち名越はイギリス留学が決まってたし。それまでの間の話でしかない。あと半年余りをこれまでとあまり変わらない感じで過ごそう、ということでお互い落ち着いた。
そうは言っても今までが甘え過ぎだったので。お風呂を借りるとか毎日ご飯食べに帰ってくるとか、そういうのはやめないと…と少しずつ距離を置こうとするわたしと、そんな遠慮なんかする必要ないよ!別に何も変わらないんだからこれまでと同じでいいじゃん、とぶうぶう文句言う名越とのせめぎ合いが結局やつの出発直前までずっと続いてしまった。…というわけで、わたしたちの仲は覚悟してたほど遠ざかったり亀裂が入ったりとかは、実は全然なかったのだった。
こいつの懐の深さ、わたしが思ってた以上だったな。とスマートに自然にお代わりを用意してくれたあとは何事もなかったように再びさらっと席に着いて自分の分の紅茶を頂いてるやつの方をこっこりと伺いながら考える。
まあそれで、結果なし崩しにときどき一緒にご飯を食べるくらいまでにはほぼ元の状態に戻ってしまったのだが。それでも実際に名越の出発が迫っているのだから、この状況が永遠に続くわけではない。
わたしはこいつがいなくなったあとにどこで制作するか、早めに考えておかないといけないな。…ってのは一方でずっと頭にあった。
あの広さのアトリエを自力で借りられる財力は当然わたしにはないが。それでもせめてあの狭々の寝部屋よりはましな部屋に引っ越して、そこでキャンバス置いて制作できるくらいの環境を整えないと。
今の収入ならちょっとかつかつだが、何とか二部屋ある物件くらい借りられないことはない。ワンルームだとしても広さがそれなりにあれば片隅で制作できないことはないでしょ。と考えてはいたのだが…。
「…そしたら笹谷、頼むねあの家。そんなぴかぴかに磨いたりとかしなくていいから、ただ普通に今まで通り住んでてくれるだけでいいんで」
俺が帰省したときにちゃんとクリーニングするからさ。と思い出したように紅茶のカップを口許に運ぶ手を止めて念押ししてくる名越。
「何なら毎月一回くらい定期クリーニングの契約しとくし。担当者と予定すり合わせなきゃいけないからそれは手間だけど、どうする?何なら週一で清掃サービス頼んどくって手もあるよ?」
「いや、いい大丈夫。普通に掃除くらいなら。さすがにわたしでも自分でできるよ…」
こいつなら本気でそのくらい頼みそう。と危惧したわたしは慌ててそう主張した。
「それに、部屋を借りるのはあんたが不在の間住み続けて劣化させないためだから。せめてそのくらいしないと。あの程度の家賃で借りられる部屋じゃ全然ないのわかってるし…」
そう、お察しの通り。結局わたしは名越と過ごしたあのアトリエのある部屋で、やつが帰ってくるまでの間一人暮らしすることになった。
結局甘えてんじゃん!と言われればそれまでだが。
それまで深く考えたことがなく知らずにいたんだけど、名越のあの部屋は賃貸ではなく分譲だった。長男が東京の大学に入学した際に一括でぽんと購入したらしい。
「他に小さい物件もいくつか東京に持ってるんだけどね。こっちに用事があって滞在するときに使うから。だからその他にこのくらいの広さがあるマンション一部屋くらいあってもいいかって考えだったみたい」
別に他に使うあてもないらしいし、今はまだ売り時じゃないからどのみち空き部屋になるみたいだよ。と名越はあっけらかんと説明した。
「だから、俺が帰ってくるまでの間ここに住んで部屋を維持してもらえたら助かるんだけど。人の住まない家って荒れるし、ただ空き部屋にしとくのも勿体ないし。あんたなら有効にここを活用してくれると思う。別に家賃とかは要らないから、かえってお得じゃない?」
「いやさすがに。…無償で住まわせてもらうわけにはいかないよ。けじめとしてさ…」
その後押し問答した挙句。結局わたしは今住んでるあのワンルームの部屋を引き払って、その分の家賃を名越の口座に毎月振り込むことになった。
案の定そんなの要らないのに、とめちゃくちゃ固辞された。まあ実際名越にとってはその程度端金なのはわかってるが、友達同士の間での貸し借りがなあなあなのはよくない。それに正直都内のあの場所であの広さの物件、ワンルームの家賃と同額で借りられたらどう考えてもこっちが丸得なのは間違いないし。
というわけで、名越が戻ってくる二年後までの間、暫定的にわたしはあの部屋の正式な住人となることに。
やつの帰国後どうするかはまだ特に決めていない。その頃にはわたしももう少し生活に余裕が出て、ワンルームよりも広い部屋を借りられるかもしれないし。何ならそれをきっかけに地元に戻るって手も、成り行き次第ではあり得ないことじゃないし…。
「…笹谷、結局まだ結婚は決めてないんだね?それとも、話くらいは出てるの?」
ぼんやり考え込んでたらいきなり核心をずばり突かれた質問をされて、心底びびった。
わたしは動揺を悟られないようしっかりと冷たいグラスを両手で持ち、慎重に言葉を選んで答える。
「日程とかまで決めてはいないけど。いずれするよ…。もう双方の親に話もしたし。今はその、お互いの仕事とかのタイミングを測ってる段階で」
当然ちゃ当然だけど。わたしの両親も吉村んちのお父さんお母さんも話を聞いて即、それはよかった!と諸手を挙げての祝福一辺倒だった。
『いやぁそうなるといいね、と親同士はずっと話してたんだけどさ。まさかこっちから誘導するわけにもいかないし。子どもの頃仲良しだったからそのまま結婚してくれるかもとか、さすがに期待はできないかなと半ば諦めてたから。いやぁよかった、これは派手にお祝いしなきゃね!』
わたしはこっちに住んでるから母から電話越しに弾んだ声でそう言われたくらいで済んだが。向こうじゃ両家の両親揃って三日連続でお祝いの大騒ぎだったという。自分のこととはいえまじで閉口したよ、とやや疲れた様子の吉村から報告があった。…気の毒すぎる。
まあでも取り急ぎ婚約したってだけで、具体的な時期とかまでは決めていない。
どちらかと言えば婚約して二人の間の関係を公的なものとすることで、お互いの行き来とかお泊まりや旅行なんかをこそこそ隠さず堂々とできるようになる、ってのがまずは大事だったし。
わたしたちは年齢もまだそんなにいってないし、お互い仕事が落ち着いてどこでどういう生活をするかがはっきりしてからでも遅くないねと話し合ってる。
まあいつまで経ってもわたしが地方移住してリモートで仕事するのは難しそうとなったら、ある程度のところで手を打ってとりあえず別居のまま籍を入れてもいいし。…ってとこまでかな、今話が進んでるのは。
名越にはどこまで話していいのかな、と躊躇する部分もあったから。これまでほとんど細かい状況は説明してなかったのでこの機会にとぼそぼそテンション低くそんなことを伝える。何故か名越は満足げな顔をしてその説明にうんうんと頷き、得々として相槌を打った。
「そうそう。まだみんな全然若いもんな俺たち。急ぐことないよ、結婚なんて。まだまだ自由でいた方がいいじゃん?この先人生何があるかわかんないし。もう少し時間経って落ち着けば、気持ちだって変わるかもしれないし…」
「いやそれはないよ…。普通にするからそのうち。破談するかもとかはあんまり期待しないで」
まじでそんなの待たれてても責任持てない。わたしは急いで、至極嬉しそうににこにこしてる名越に釘を刺した。
てか、隙あらばこういうこと考えそうなやつが海の向こうに存在するってのを忘れず頭に入れとかないと。こいつに予断を抱かせないようにと考えると、やっぱり少しでも早めに籍入れた方がよさそうだ。
そんなわたしの内心の考えを読んだかのように。名越はふと視線を上げ、狭いテーブル越しに両手を差し出してまるでわたしの手を取るような仕草を見せて懇願した。
「…俺が向こうにいる間に結婚するなとは言わない。けど、絶対にちゃんと事前に知らせて。面倒だから俺の留学中に黙って入籍しちゃおうとかはやめてよ」
別に邪魔したり妨害したりはしない、ちゃんと祝福するからさ。と生真面目な顔つきで訴えられるとこっちも妙に絆される。
「うんまぁ…、どのみちもうちょっとはかかりそうだから。籍だけぽんと入れてはいそれで終わり、っていかないからねうちの場合。わたしは全然それで充分なんだけど」
何せ、両家の親同士の方が盛り上がってるからね。
吉村んちはおばあちゃんもいるし、近隣の人たちもそこそこ年配者が多くてやっぱり結婚式と披露宴はたくさんお客さん招んで盛大にやらなきゃ!っていうちょっと昔の感覚なんで。
最低限の身内だけ招いた質素で簡素な式なんて夢のまた夢ってとこ。それだけはまじで、今から面倒で気が重い…。
名越はそこまで聞いたとこで、そうかそうか。と何故か満足げに腕組みして何度も頷いていた。
「そうだよな、結婚なんて面倒くさいばっかりだと思うよ。いよいよ気が重くなったらぱあっと解放されて逃げちゃえばいいんだし、気楽に考えれば?それに一年二年と先延ばしにしてれば自然とお互い気持ちも変化していくかもしれないしね。いや、まだ何が起こるかなんてわからないからこの先」
破談破談、とうきうきして連呼するな。どういう期待なんだそれ。
わたしは深々とため息をつき、名越のそのノリに水を差すべく再び言葉を選んだ。
「それはまあないと思うし。てか名越もさ、日本を離れて向こうで新しい環境や人間関係に出会えばすぐに。こっちでの記憶なんて色褪せてどうでもよくなるんじゃないかな」
こいつのことだから英語でのコミュニケーションが妨げになることもないだろうし。現地の人相手でも留学生同士でも、いくらでも上手くやれるだろうからな。
「新しい知り合い増えたら直にわたしのことなんか忘れちゃうと思うよ。でもそれでいいんじゃない。きっと新しい出会いがあるよ、あんたくらいの男ならいくらでも」
「…そんなのいないよ」
名越はさっきまでのふざけた態度からすっと真顔になり、やがて微かな微笑みを浮かべてわたしを正面から見つめた。
「俺には笹谷だけだよ。今までも、これからも。ずっと」
またそんなこと言って…。
ここまで何度も繰り返したやり取りに、わたしは何と反論していいかわからなくなり当惑するしかない。
結構はっきり吉村が好きになったから名越とは一緒になれない、と伝えたつもりだったんだけどなぁ…。何がこいつにそこまで諦め悪く執着させる要因になってるんだろ。
そうこうするうちに時間が迫ってきた。わたしたちは飛行場が望めるカフェを出て、チェックインカウンターの方へと並んで向かう。
「てか、今日は他の見送りの人来ないの?このあと集まるとか?」
こいつの顔の広さからして、二年間の留学への出立を前に誰も見送りに来ないとかなさそう。わたしの知らない人とかも来るのかな、そしたらそっと後退して場を外さないと。と思ってたらころころとスーツケースを押しながら名越はきっぱりと言い切った。
「誰も呼んでない。出発日も時間も笹谷にしか知らせてないから。だから、あんた以外誰も来ないよ」
ええぇ。
「それでいいの?お別れ言いたい相手とか。ご両親やお姉さんとか…」
「そこまで大袈裟なもんじゃないよ、どうせちょくちょく帰ってくるし。出張みたいなもんだから。わざわざ大挙して見送りしてもらうほどのことじゃない」
それに、笹谷と二人きりで見送ってほしかったから。と照れも気後れもなくはっきり告げる名越。わたしは相変わらずの押せ押せのノリについていけず、思わず口ごもりながらも言い返す。
「だったらそれ、わたしにも言える話じゃ…。いや別に見送り来たくなかったとは全然思ってないよ?でもわざわざわたしを例外にするほどじゃなくないか。みんなと同じ扱いでいいよそこは。普通にただの友達なんだし…」
少なくとも今は。形の上では。
名越がまだわたしのことを特別枠に入れたままなのは知ってる。でも、それがいつまでも当たり前と思われてるとやっぱり…。そこは一度ちゃんと釘を刺しておくべきなのかずっと迷ってたけど。やっぱりこの機会にはっきり念を押しておかなきゃ。
わたしは俯き気味に、でもきっぱりと。ここぞとばかりに思いきって切り出した。
「あのさ。…名越がわたしのことを大事に特別に考えてくれてるのはわかってるし、それが嫌だとか困るってわけじゃない。少なくともわたしの方ではね。恋愛的にもう脈がないって理解した上でそれでもこれまでの関係を変わらず続けていこうと考えてくれてるのは、ありがたくなくもない。…けど」
嬉しい、とかありがとうって言っちゃうと言い過ぎ。正直な感想は多分、『当惑』だ。
恋愛方面で可能性が潰えてるのに、どうしてこいつはわたしを特別に構うんだろう。もうあとは、作品のファンってことでそれ以上の関わりは必要ない。って考えてもよくないか?
まだも少し時間あるな、と念のため確認してからわたしはきっと顔を上げ、正面から名越の顔を見据えて口を開いた。
「そもそも名越が思うほどわたし、大したもんじゃないよ。絵を好きだと言ってくれてるのは嬉しいし個人の感想だから、それはありがたく受け取って否定はしないけど。でもわたし本人は実際どこにでもいる普通のつまらないやつだと思うよ。少なくとも代わりがいないなんてことない。…あんたほどの人物なら。いくらでも、もっとスペック高いパートナーが。これから全然見つかると思うし…」
だから、何が言いたいのかというと。と残り時間を気にして異様に早口になってしまうわたし。
「だから、その。…ずっとわたしのことだけ想っててほしいなんて考えてない。それより、あんたにはちゃんと自分だけのための人を新たに見つけてもらいたいんだ。わたしなんかに固執して目の前の幸せのきっかけをスルーしたりしないで。そんなことより、…もっと、自分中心に。我儘になってよ。わたしのために名越の人生を無駄に擦り潰したりしてほしくない」
エゴみたいに見せかけてるけどちゃんとわたしにはわかってる。名越が奇天烈な非常識な言動をするときは大体、自分が得するためなんかじゃなくもれなくわたしのためだってこと。
「大丈夫、名越のサポートがなくなってもわたしはちゃんとこれからも絵は描いてくからさ。それを心配してるのなら…。だから、そこは信頼して遠くからときどきお、頑張ってるな。って確認するだけでいいじゃん。絵以外の要素についてはわたしの替えがいないなんてことあるわけないから。あんたに相応しいゴージャスな美人で頭が良くて気立てもいい女の子を見つけて、幸せになってよ。でないとわたし…」
懸命に言葉を探してぺらぺらと喋りながら、どうして喉の奥に込み上げてくるものがあるのかわからない。
名越がこれまでにわたしにしてくれたことの思い出が次から次へと脳裏に際限なく、溢れて止まらなくなったからか。
高校一年で初めて会ったあのときから、今日までずっと。どんなに唐突で無理やりで有無を言わせない強引なやり方でも、思えば全てがわたしの絵のため、引いては将来わたし自身が好きな仕事をして幸せになることに結びついてた。
出来上がった絵を見る以外に名越にとって得るものなんて一つもなかったのに。ほぼ全部のリソースをわたしに注ぎ込んで惜しまなかった。しかもそれを、どうやらこれからも影になり日向になって何とか続けていこうとしてるらしい。普段とほぼ変わらない今日のこの言動を見てると。
だけど。…いつまでもこの好意に甘えてたら駄目だ。わたしにはとてもじゃないけど、こいつがこれまでしてくれたことに見合う返せるものなど何もない。
もしも仮に。と、いけないことかもしれないが、脳内にふと名越の思いにわたしが応えることができていたら。っていうifの場面が浮かび上がる。
それで何もかもがチャラになるとは到底思えないが。それでも吉村を選んで名越を突っぱねる結末よりは、だいぶやつにとってはましだったんだろうか。
…名越と一緒に連れ立って、今日ここからロンドンへと旅立つわたし。慣れない土地で四苦八苦しながら文句言ったり新しいものに驚いたり。二人で愚痴をこぼしたり笑い合ったり、目新しいものに目を輝かせて走り回ったりして。
…駄目だ、よくない。こういうありもしなかった未来をさも可能性あるように想像するのって。わたしは吉村が一番好きなのに。ずっとずっと、あいつと一緒になる将来しかイメージしたことがなくてここまで来たのに。
名越と過ごす一生はそりゃ、賑やかで破茶滅茶で楽しかったんだろうな。とあらぬことをつい考えてしまう。
ここ最近、ほぼ毎日をこいつと一緒に過ごすようになってから改めて認識したことがある。
多分、わたしには吉村よりも名越のことの方がよく『わかる』。実はほぼ物心つく頃から長年そばにいるが、吉村はわたしにとって大いなるブラックボックスだ。いつも優しくて態度に波がなく大らかだけど、実際リアルタイムで頭の中がどうなってるのか。その思考パターンは具体的に想像がつかない。
だけど安心感があって一緒にいるとほっとできてるのは、裏心がなくて常にわたしを大事に考えてくれてそのためにきっと何でもしてくれる、という信頼があるから。にこにこと温厚なあの表情の下で何考えてるのか、いつでも読み取れてるわけじゃない。
何というのか、好きで信頼してるけど。ものすごく気が合うとか考え方が似てるとか趣味が合うとかいうことじゃない。普通に他人同士で、理解できないところがたくさんある。
だから気が置けないとは言っても、若干の不安はないでもないんだ。わたしは吉村が辛いときや我慢してるとき、ちゃんと気づくことができるだろうか。やつが辛い思いや悲しい気持ちを、あのにこにこの裏にわたしに見せないよう気遣って慎重に隠してたりしたらと思うと。…それを見破れるほど吉村のことをいつか、深くまで理解できるようになれるのかな。自信はないけど、そこは何とか頑張らなくちゃ。と思ってはいる。
一方で名越については、すごくわかる、通じ合ってる。って特に理由もなく本能で感じるんだよね。
こいつとわたしは相性がいいんだ。何考えてんだこいつ、と面食らうことはあってもその合理性にあーなるほどね。と結局納得する方が多いし、こだわりを持つ部分や譲れない事柄もよく似てる。美術が好き、って一点もだけど、単純に人間のタイプが何だか同じジャンルなんだな。って感じ。
だから一緒にいてすごく気が楽だ。お互い遠慮せず何を言っても大丈夫って安心感もあるし。
…ここに至ってふと思う。おそらくわたしの人生に吉村っていう問答無用に生え抜きの幼馴染みが存在してなければ。
普通にあのときいきなりわたしの人生に飛び込んできた名越がわたしにとってたった一人の男の子で、他に誰もいなかったとしたら。
特別恋愛感情なんてなくたって、わたしは結局こいつとパートナーになって一緒に人生を過ごすことになったのかもしれないなって。やけに執着が強いなとうんざりしたり、このテンションやスピードにはついていけないぜとぼやきながらも結構上手くやっていけたんじゃないだろうか。絶対表に出す気はないけど心の奥底ではそう思う。
最初からこれがわたしと名越、二人の物語だったとしたら。あの告白のあと多少のすったもんだがあってもきっと、結果は収まるべきところに収まったんだろうな。それで案外それなりに、楽しく幸せに暮らせてたのかも。…わたしに吉村さえいなければ。
逆にどうしてわたしは吉村じゃなきゃいけないんだろう。その本質を理解できてるわけでもなく、自分が絶対的に相手に過不足なく寄り添える。って確たる自信もないのに。
こうやって言葉にすると長々しいが、思考は一瞬。わたしは目の前の名越をひたと見据えながら脳内では結論を探して閃くようにそんなことを考えていた。
はっきりした答えはない。一番わかりやすいのは吉村に対しては恋愛で、名越に感じてるのは仲間意識というか友情だから。…でも。本当にそれが理由か?
おそらくわたしは吉村を一人にするのが嫌なんだ。あいつは絶対に怒らないから。わたしが名越や他の誰かを選んだとしても、うんわかった。直織が幸せなのが何よりだよ、とだけ言ってきっと笑顔で祝福してくれる。
でも、誰にも見せない内心で一人泣くに違いない。表には出さずにじっと黙って悲しみを抱えて、外に吐き出すこともない。そんな吉村を想像するだけでわたしは本当に、耐えられないくらい苦しく思う。
あいつを一人にするわけにいかない。吉村は我慢できる、自分をコントロールできる。だからこそ嫌。そんな思いをさせると思うだけでいても立ってもいられなくなる。
でも。一方で名越なら。
「…あんたなら。わたしひとりくらい人生からいなくなっても、きっと不足なく悠々自適に満たされて生きていけるよ」
わたしは再び俯き、絞り出すような声を出した。
「名越はすごい能力高くて何でもできる器用さもあるし、人が自然に周りに集まるようなまあ、魅力って言えば魅力もあるわけだし。他にいくらでも楽しみや幸せを見つけられると思う。きっと向こうに行っても言うほど寂しさを感じる暇なんてないんじゃないかな」
そう、わたし一人くらいいなくなったって。こいつにとっては些末なことなんだと胸の内で自分に言い聞かせながら、名越からの反論は受け付けない。とばかりに早口で話を継ぎ足した。
「…わたしのことをそのうち忘れても、それは自然なことだから。気に病む必要なんてない、そのままに任せて。新しくあんたの心に入ってくる人たちを大事にして。時間がきっと名越の気持ちを洗い流して、わたしから解放してくれるよ。ただ遠くからときどき作品をチェックしてくれるだけで充分。こっちは全然、気にしないよ」
顔を上げられないわたしの頭上から、聞いたこともないくらいこの上なく優しい名越の声が降ってくる。
「…俺に忘れられても大丈夫って。どうして口ではそう言いながら、泣いてんの?」
「泣いてはいないよ。断じて、泣いてなんかない」
強気に声を絞り出すが。瞼をぎゅっとすると何かが無駄に溢れてきたらと思うとやばい。
わたしは目の周りに力を入れないよう視線を適当にぼやかし、なるべく平然としたいつもの喋り方を保とうと努力した。
「むしろ泣く理由がどこにあるの?わたしは好きな人と婚約して、名越は自由になってわたしなんかよりもっと断然ハイスペックな新しい人と幸せになる。一番ベストなみんなハッピーな結末じゃん。悲しい要素なんてどこにもないよ」
「でも、声が震えてる」
「…気のせいでしょ。飛行機の振動がここまで響いてでもきてるんじゃない?」
突っ込まれてごまかそうとすればするほど。こっちの意地っ張りを突破して、かえって嗚咽が込み上げてきそうになるのにすっかり参ってしまった。もう、そこら辺は見て見ぬふりをしてくれるのが人の情けってもんじゃないのか。
こんな別れ際ぎりぎりになって、いきなり一気にどっと悲しみが溢れてきたのが。むしろわたし本人にとって実際に意外だった。
名越に諦められて、わたしを忘れて別の人と幸せになられるのが悲しいわけじゃない。断じてそんな理由じゃない。
…けど、こうしていざお別れとなると。あの家で、お互いの大学で、東京のさまざまな場所で。長い間一緒に過ごした何でもないあの日々が、急に懐かしく貴重なものに思えてきて。今になって手放すのが辛く苦しくなってくる…。
あのアトリエのあるマンションの部屋に今から二人で帰りたい。いつものようにスーパーに寄って買い出しをして、文句を言ったり笑い合ったりしながらキッチンで一緒に夕食を作って。
くだらないどうでもいい話をしながらご飯を向かい合って食べたい。食後のお茶を飲んで、ダイニングでだらだらしたり。思い思いにアトリエで制作をして、お風呂に交替で入ったあとにじゃあ、おやすみ。と声をかけ合ってそれぞれの寝室で眠って。
朝は寝ぼけてるわたしをノックで起こして、手早く朝食を作ってくれる。じゃあ片付けはわたしがやるよと言い張って、押し問答しながら結局二人でシンクに並んでお皿を洗って…。
本当にあんな日々はもう二度と戻らないんだな。自分で引導を渡したとはいえ、なんだかやけに悲しくてしょうがない。
こいつのこと、好きでも何でもないのに。こんなに離れるのが苦しく名残り惜しく感じるとは思わなかった。いつの間にかそばにいるのが当たり前になり過ぎて、ナチュラルに愛着が湧いてたんだと実感する。
「…大丈夫だよ、笹谷」
わたしの視界にはぼやけた名越の爪先だけ。頭上から静かに降ってくるその声は、あくまでも優しい。
「俺の心配をする必要はない。自分のことは自分でちゃんとできるから。…その上で言うけど、俺と笹谷の間をこれで終わりにするつもりなんか。最初からこれっぽっちもないんだけど?」
「また。そんな馬鹿みたいなこと…」
あまりの物分かりの悪さにキレて顔を上げ、猛然と反論しかけるわたしの顔の前にしっ、黙って。とばかりに一本指を立てる。いちいち仕草まで気障な男だ。
「まあ聞きなよ。普通に考えて、正直あんたとあの男の仲がいつまでも平和で睦まじくあるとは期待できない。日本の夫婦の三組に一組は離婚する確率だって言うしね」
「それって統計の嘘らしいよ…。冷静に考えて自分の身の周りの夫婦、そこまで離婚する確率高くないでしょ」
わたしの力ない反論に構う気などこいつにはない。
「あんたとあの男の間なら他にも不安要素がいっぱいあるから。入籍しても遠距離別居の可能性が高いし、地元に拠点を移しても絶対東京にちょくちょく出張することになるだろ。堅実で他に足ついた仕事と浮草稼業、遅かれ早かれ行き違いで別れる羽目になる確率が…」
「いや信じらんない。これから幸せになろうっていうタイミングで友達に聞かせる台詞かそれ?」
いくら振られたばっかとはいえ、普通本人に言わないよ。と憤然となるあまり涙も爆速で乾いた。
「まあまあ。…最後まで聞いてってば。あんたたちが今仲良くて円満でも、世の中に可能性ゼロってことはあり得ない。離婚もだけど万が一にも、不慮の事故ってものもある。事故や事件じゃなくても病気や何かで若くして命を落とすことだって…。そもそも男性と女性じゃ、平均寿命が段違いだし」
どう受け止めても縁起でもないことしか言ってないが。やつは後ろめたさのかけらもない晴れ晴れとした顔つきでわたしの方へ両手を差し伸べてみせた。
「そこで俺の出番だよ!何年後でも何十年後でも、あんたの配偶者になにかあったらいつでもどこでも即、駆けつけられるように常に抜かりなく準備しておくから。離婚したくなったら迷わず遠慮なくどうぞ。受け皿は常時スタンバッてるからね。セーフティネットの心配せずに、いつでも独り身になれるよ!」
それで数日後にはまた既婚者ってか。いや独り身になる意味ないじゃん。
やつは得々として脳内の妄想を嬉しげに語る。
「俺の予想では、あいつは何かと気苦労が多そうだから。平穏に結婚生活を送ったとしてもまあ五十代くらいにはがたが来そうかな…。で、あんたは五十半ばとか六十くらいで寡婦になるわけ。そしたら俺が颯爽と現れて悲しみに暮れる笹谷を優しくフォローして、残りの人生何もかもを全て引き受けるって計画なんだよね。どう、いいでしょ?」
このルートならあんたも初恋の相手と添い遂げられるし、俺も笹谷と二人で人生を最後まで全うできるし。一石二鳥だね!と笑顔で話すテンションがおかしい。こいつ、やっぱ常識人のふりしてても本質はいかれてんな。
すっかり毒気を抜かれてもはや怒る気になれず、妙に冷静な頭になってしまいとりあえず突っ込む。
「あんた忘れてるみたいだけど。自分も一応男なわけだからさ…。平均寿命を根拠にするなら名越も吉村と同じじゃない?どっちが早く亡くなるかは何とも言えないし。二人ともわたしより早く逝くってことになるよ、その理屈だと」
「心配無用。俺は決めてるんで、今から既に。笹谷より一日でも長く生きるって、絶対に」
堂々と得意げに胸を張った割には何の確証もない台詞だ。
だけど目を輝かせてわたしを見下ろすその瞳には、冗談でもやけくそでもない。紛れもなく純粋な未来への希望の光が満ち溢れていた。
「約束してよ。今回は好きにしていいけど、一回めの結婚がどんな形にしろ終わったら、次は俺と最後まで添い遂げて。絶対に最後まで一人にしないって誓うよ。絵を描いてても描かなくてもいい。しわっしわのよぼよぼのおばあちゃんになってたとしても関係ない。笹谷はいつでも常に可愛くて大事な愛しい俺の笹谷だから…。幸せになろうね、いつか二人で」
「…怖いんだよ、あんた。いつも言うことが」
毒づきながらも再び喉の奥に熱い塊が込み上げかけて慌てて飲み込んだ。人生の終わりにもしもそんな日が来るとしたらそれは最大のボーナスだな、と図らずもうっかり考えちゃったので。
「まじでそんなのいつになるかわかんないじゃん。離婚はあんま期待してほしくないし、まあ吉村が病没する日も来てほしくないけど…。この先何十年も独り身のまま待つつもり?寂しい思いすることになるし。そんなの耐えられないよ」
「ああそれも気にしなくていい。俺ならその手のことは絶対上手くやるってば。ちゃんと俺が本命じゃない、遊びで割り切った女を次々取っ替え引っ替えしてしのいでおくからさ。ここ最近控えてたけど、笹谷が別の男と結婚するならさ、それはお互いさまというか。フィフティフィフティだよね?」
「…多分だけど。あんた、わたしや吉村より先に不慮の出来事でこの世を去りそう、女の人に刺されるとかそういう理由で」
なんて人非人のカス野郎なんだ。と思いつつもあまりの酷さにうっかり笑ってしまった。
理由はどうあれ、わたしに笑顔が戻ったのを見て名越も自然と頬を緩める。と、すぐそこのチェックインカウンターから、名越の乗る便の乗客に手続きを促すアナウンスが響いてきた。
「あ。…そろそろか。そしたら、せいぜい男女トラブルで早めに命落とさないようちゃんと気をつけてよ。もし本気でわたしの最期を看取りたいと思うなら、ね」
「うん。任せて、絶対にあんたよりちょっとでも長く生きるから。健康で、元気な状態でね」
ああもう時間がない。と小声で呟き、その目に切羽詰まった光が宿ったかと思うと。その両手がわたしの頭を両側から挟むようにして自分の方へと引き寄せた。
あ、やば。油断したキスされる、と覚悟して目を瞑ったけど。仰向けにされた額にちょっと冷えた唇の感触を軽く感じただけで済んだ。…助かった。
変なところで良識のあるやつだ。まあ、そういうやつだからここまで長いこと気を許して一緒にいられたんだと思うけど。
そっとわたしの額から唇を離し、両手で挟んだままの顔を覗き込みながら名越は真顔で語りかけた。
「元気で。楽しく、健康でいて。俺はいつどこにいても笹谷のことを考えてるよ。何があってもあんたは一人じゃない。それを忘れないで」
「うん。…名越も」
ときどき気が向いたらあんたのことを考えるよ。といつもの調子に戻ってぶっきらぼうに答えたら、それはそれで嬉しいのか。名越は晴れやかな表情で笑った。
よっこいしょ、とキャリーケースを片手に引いてチェックインカウンターに向かいながら振り向いてわたしにもう一度念を押す。
「それじゃ大変だけど、SNSの管理任せたよ。今までほど小まめに作品アップできなくてもいいから、ほどほどにね。あとどんな小さいものでも描いたものは直接俺に写真送って」
「わかった、LINEで送る」
「うん。それさえちゃんとしてくれればSNSアカウントは気の向いたときでいいや。あ、あとプライベートなことは載せなくていいよ。ガチで絵だけ。あとは告知ね」
ストーカーとか危ないやつの気配があったら早めに知らせなよ!即日本に帰ってくるからね。と強めに注意したあと、じゃあ、あんたの絵を世界中に広めるために必要な知識をばりばり身につけて帰ってくるからね!めっちゃ期待してよ、と高らかに付け加えて手をぶんぶん振りながらやつはゲートの向こうへと消えていった。
今の別れの台詞のせいでめっちゃ周囲の目がこちらに集中してるのを感じる(『え、あの人有名なイラストレーターなの?わたしの知ってる人かなぁ?』的な)。おのれ、と冷や汗をかきながらも何とかにこやかに最後まで手を振り返して穏やかに別れた。…やれやれ、最後まで名越は名越だ。
しんみりと、でも何処かぽかんと空っぽになったようなら虚し唇晴れ晴れとした気持ちで。わたしはしばらくの間当てもなく空港内をうろうろと歩き回った。
すぐに帰宅するのは気が進まない。
がらんとした広いいつもの部屋に一人になれば、相方がいなくなって取り残された実感と寂しさが増すし。少しでも今のこの喪失感を薄めて気持ちを切り替えてから帰途につこう。と虚ろな心でぼんやりと考えた。
虚脱状態でふらふらと当てもなく彷徨ってるうち、飛行場全体を一望できる展望スペースがあるのに気づいた。それならしばらくそこで飛行機でも眺めながら気を落ち着かせよう。と決めて、表示を追って何とかそこまでたどり着く。
展望スペースは想像に反してただのコンクリート打ちっ放しの吹きっ晒しの屋上の空間。風も強いから人影もちらほらだ。
逆にここなら心ゆくまで一人になれる。わたしはベンチに腰を落ち着けて、取り留めもなくただゆっくりと動いたり停まったりしている大小の飛行機たちを眺めていた。
名越が乗る予定の飛行機はどれだろう。
ゲートがどこかもわからないから見当もつかない。ただまあそんな小型機ってことはないだろうから。多分あの辺かな、とか益体もないことを考えつつじっと機体に目をやる。
わたしたちの縁は切れたわけじゃない。美術関係での繋がりは残ってるし、間借り人と大家としての関係もある。
だけど、一旦これまでの関係は終わりを告げた。わたしにはわたしの、やつにはやつの人生がそれぞれ始まるんだ。
この先二人の道筋が交錯する機会があるかどうかはわからない。あいつがいう通りにもしかしたらわたしが何かの理由で吉村と生き別れる、あるいは死別した場合に実際再びパートナーになる可能性がゼロとも言い切れないし。
今はあんなこと言ってるけど、現実に数十年後わたしが何らかの理由で一人になった頃にはもうとっくに別の人と幸せになっていて。え、あんなの本気にしてたの?あれはあの場限りのサービストークみたいなもんだって、さすがに本気にするとかないでしょ。と笑われて終わりってのもあり得る。それが悪いとは思わないから、まあ普通にしょうがないよな…で終わりそう。
だけど、何でか不思議とこれで完全にあいつと切れたって感触がない。
初秋の冷たくなり始めた頃合いの風を屋外で一身に浴びているうちに。いろんな感情でごっちゃになっていた頭の中がすっきり整理されてきて、次第に自分の意識がはっきりと冴えてきた。
…変な話だけど。わたしは吉村がこの世で一番好きだしずっと一生そばにいて、幸せそうに笑う顔を見ていたいって思う気持ちが何より強い。名越と離れるのは寂しいしつらいし胸が痛むけど、それでも吉村との将来を捨ててまでそっちを選ぼうとまでは考えられない。
だから、ここで選べなかった名越との未来の約束については正直そんなに期待してない。わたしが三人の中で一番先に死ぬとか名越の方が先に逝くとか、あいつが約束をけろっと忘れてなかったことにしててもまあそんなもんかな。としか思わないだろう。
でも、何でかな。名越との間の繋がりは、そのくらいで途絶えるような脆いものじゃないと感じる。ただの直感だけど。
わたしたちは美術で繋がってる、それもあるだろう。そもそもあいつが留学してまでして身につけたい知識やコネクションは、本人の言うところによればわたしの絵を世界に広く売り込むためのものだし。
わたしが吉村と結婚したあとも仕事の面では何かとお世話になることが末長く続くに違いない。けど、それ以上に何故かあいつとの間には強い絆というか。縁みたいなものを感じるんだ。
まあ、どちらかというと縁は縁でも腐れ縁かな。全力で走って離れようとしても自然と引き戻されてまた出会っちゃう、みたいな。
思わず知らず苦笑いが漏れて、どうやら笑みが湧いてくるくらいには元気を取り戻せたかな。と考えつつ眼下に広がる飛行場を眺める。
あそこに着けてるひときわ大きなジェット機。タイミング的にあれが名越の乗ってる便かな、などと徒然に思い浮かべて脳内で独りごちた。
誰にも聞かれない、知られないから呟けるわたしの独り言。…どういうわけか名越については、今生で一緒になれなくてもこれで終わり、二度と出会えないって気がしない。
生まれ変わりってものがもしも現実にあるとしたら、わたしと名越はどうせまた次の世で再び巡り会えるんじゃないかと思ってる。
いや自分でも頭おかしい発想だなってわかってるよ?でも、今回の人生で結ばれないなら次があるんじゃないの、って大らかに構える気持ちがどっかわたしにはあるみたい。
何故かそう感じるのは名越にだけ、吉村にはそういう感覚がない。だからこそ、この一回きりのチャンスを絶対に失えない。この手を放すわけにはいかないって感じる。ここでこのカードを流したらおそらく二度とわたしの前には回ってこないだろうなって。
でも、名越とけじめをつけてこうして涙の別れを経てみても。あいつとこれで何もかも終わりって気分にはならなかった。
わたしと名越とは特別。だからまたいつか巡り会う。今生が駄目なら来世で、来世が無理ならまたその次。
思い詰める必要はない、そう思えば気持ちも軽くなる。わたしはさっき流した涙もすっかり乾いて何だか眩しいような思いで当たりをつけた機体がゆっくりと動き出すのを見ていた。
…ばいばい、名越。またいつか、どこかの時空で。運命の二人みたい日ばったり道端ででも出会えるといいね。と、SFかファンタジーめいた阿呆みたいな呟きを胸に、轟音を立てて飛び立った飛行機が青々と晴れ渡った空の小さな白い点になるのを見届けて。誰にも見られてないと知りつつ虚空に向けて大きく手を振った。
《完》
この話の二つめのテーマは『才能と恋愛』でした。
例えばこの話のように絵とかあるいは音楽とか、何か特別な才能があってその面に惹かれた相手がだから作品を生み出した本人も好き!となったときにそれは受け入れられるのか?…っていう疑問があって。
言うほど珍しいことでもないと思うんですよね。画家とかミュージシャンとかアーティスト本人に惚れ込む場合、やっぱりその気持ちは作品込みなんだろうし。
けど好きになる側からしたら当然の感覚なんだろうけど、好きと言われる側は複雑というか。それは素直に受け入れられないんじゃないか、と想像したところからこの話が出来ました。
書いてるうちにこっちも主人公も当初思ったより名越に絆されてしまい、振られる理由はそこじゃなくなった感が…。作品と同じに笹谷を愛してる、どっちかなんて選べないよ!どっちも完璧に一体じゃん。と言われても。あんたならまあそう言うよねとしか思わなくなってしまいました。
作中で主人公も言ってたように、吉村という幼馴染みがいなければおそらくこの二人が何だかんだ言いつつ凸凹コンビで一緒になっていたんだと思います。
けど、将来を約束された同士の幼馴染みの間にあとから挟まりに行ったのは名越の方なんで…。まさに『順番』で負けた男です。そこは気の毒。
まあでも、それで潰れるような人物ではなくおそらく彼なりに楽しい一生を送ってくれるのではないでしょうか。この三人にそれぞれ幸せな未来が訪れてくれることを祈りつつ筆を置きます。ここまでお付き合いどうもありがとうございました。




