第29章 吉村の胸のうち
好きな人の顔が視界に入った途端、どんな局面でも理屈抜きに自然と顔が綻んでしまうのいいですよね。
ぎりぎり、何とか今日の地元行き新幹線の最終に間に合った。ちょっと出がけにもたついたから。もしかしたら無理かも、って途中で覚悟しかけたけど。…まあ、よかった。
「…ふぅ」
最終便の自由席の車両は思ってたよりも人でいっぱいだ。それでもさすがに満席ってことはない。わたしは上手いこと見つけた窓際の席に深々と腰掛け、東京までの乗り換えの途中駅ホームの自販機で買った缶コーヒーを手持ち無沙汰にぷしゅ、と微かな音を立てて開けた。
さっき発車する前にまずは名越に無事新幹線に間に合ったよ、とLINEを送り、次にちょっとどきどきしながら吉村へのメッセージを打ち込んだ。いきなりそっち行く、とかこの時間に知らされて。まあ迷惑だろうなぁ、と気が引けながら。
思ったよりすぐに返信がぴろん、と送られてきた。
『東京からの最終だと○時〇〇分着だね 了解 ホームに迎えに行く』
すごく話が早い。これだからつい甘えちゃうよな、と思わず苦笑いしながらスマホをポケットに放り込んだ。
吉村は仕事忙しいだろうに、大丈夫だったかな。と一瞬心配になったが。よく考えたらこの新幹線が地元のターミナル駅に到着する頃にはさすがに本日の業務は全て終了してるんじゃないかな。あいつの職は顧客の家や会社を訪問して家電の修理する仕事だし、そんな時間に訪問お願いする家庭もまあないだろう。
コーヒーの缶に口をつけながら習慣でつい窓の外を見やる。
さっきまで都会の不夜城みたいな眩い光に溢れてた車窓の眺めが、既に真っ暗な中にぽつぽつ散らばる僅かな光に変換されてる。ちょっと走っただけで思ったよりあっという間に郊外の風景になるんだよな、東京って。これも実際に地元との間を何度も行き来するようになるまでは実感としてわからなかったことだ。
あと、新幹線に乗ってるのに隣に名越がいないのも思ったより違和感がある。
わたしは飲みさしの缶を手にして、ふとその表面に目を止めしみじみと思いを致した。
これってわたしがブラックを好むからって、いつも名越が新幹線に乗り込むときに用意して持ってきてくれるブランドのやつだ。無意識につい、いつもと同じのを選んでしまった。…と気づいてまた、何とも言えない感情を覚える。
考えてみればずっと、わたしが地元に帰るときは必ずあいつが同行してたからな。学生のときは休みのタイミングがほぼ同じだから何とも思わなかったが、考えてみればこっちが社会人になって仕事の都合に合わせたスケジュールで動いてるときでも。名越はまるでそれが当然みたいにわたしと同じ日程で帰省してた。
まあ、もちろんあいつがまだ大学院生で時間に余裕があったからそれが可能だったのは間違いないけど。
それにしても実際、陰になり日向になりわたしのために本当に何でもしてくれてたんだよな。と思い返すと…。結局あいつのしてくれたことに見合うようなものはろくに返せてないな、と忸怩たる思いになる。
ついさっき、あの部屋で霹靂としか言いようのない申し出を受けるまでは。名越の目的はわたしの絵だけなんだし、少しでも多くの作品を仕上げてあげたらそれであいつは満足するとしか考えてなかった。
こんな形で、やつの望むものを全部返せそうにないと今さら思い知ることになるとはな。と、再び重い重いため息がどうしようもなく喉から漏れてくる。
本当に絵だけが目的だったんなら全然よかった。そしたらこれからもずっと、ビジネスライクなパートナーとして末長くそばにいられたんだろうなと思うと…。まあ、しょうがない。
わたしはことん、と小さな後を立てて簡易テーブルの上に仲間半分ほどになった缶を置き、真っ暗な外に目をやった。
あいつだって、わたしにとって都合のいいムーブばっかりしてられないだろう。一人の独立した生身の人間なんだから、そうそう何もかもがこっちの思うようにならないのは当たり前の話だ。
わたしはそこで思考の流れにけりをつけて、それ以上名越について考えるのはやめた。
今後のあいつとの接し方については、また改めて一から丁寧に構築し直さなきゃならないと思う。けど、それは今じゃない。
こうして名越に対して背中を向けて別の方向へと移動しつつある今このとき、あいつのことでくよくよと後悔して思い悩んでても得るものはない。それはまた後日、心に余裕のあるときにしっかり腹を据えて真っ向から向き合うべきだ。
今のわたしには吉村だけ。それ以外は何一つ頭にない。
隣の席にやって来る者もなく、夜の深い時間帯に故郷に向けてひた走る列車の中。わたしはうら寂しいような開き直った清々しいような気分で、窓の外を眺めながらこのあとのことに思いを馳せた。
…ヒントをくれたのは名越だった。と思い返すと、なかなかあいつのことから完全に思考が離れるというわけにはいかないが。
あのそつのない、他人にそもそも関心のない男が頑ななまでに吉村について話題に出すのも避けるのを、ずっと何だか腑に落ちない思いで見てた。
あいつの話は聞きたくないから。という無言の圧すら感じていて、地元に戻ればほぼ毎日のように会ってることも、LINEで頻繁に連絡を取り合ってる(少なくとも、わたしが学生だった間は)ことも。薄々知ってるだろうに、絶対に頑としてそこには触れようとしないのはまた何でなんだろう…とやや不気味に感じながらも。漠然と空気を読んでしまいそこはなかなか突っ込めずにいた。
でも、思えばそれは吉村の方でもぴったり、同じような反応だったんだよね。
あの人懐っこい、明るく天真爛漫で裏心のないやつが。それとなく距離を置かれてもあれ、俺って名越になんかしたのかな?とか不審に思う様子もない。
気になるなら自分から機会を捉えて、名越さあ…と自然な感じに何気なく近寄っていって、何でもない会話で仲悪くない雰囲気に持ってくのだってお手のもの。コミュ強同士ではあるが、名越みたいに周りの人間に対する根本的な興味がないやつとは違う。もっと繊細に気を遣って他人を見てるタイプだから。
一人で寂しくぽつりとしてる子がいればナチュラルに声をかけに行くし、怒ったり機嫌が悪そうな人を見るとお、どうしたの?何かあったん?と明るく話を振っていく。そんなやつが名越の不自然な態度に気がつかないわけがないんだ。
だけど、吉村はそれを疑問に思うどころか。どう見ても自分の方からも名越を避けてるのが歴然だった。
修学旅行のときだけじゃない、わたしと名越の地元での二人展のときだって。
名越と共同の開催だってどう見てもわかってるはずなのに、あいつは?とか話題に持ち出しもしなかった。それでいて途中で名越がバックヤードから出て来ると、離れたとこで宮路さんと話し込んで最後までこっちに近寄ってこなかったし。
そう、どう考えても吉村の方も積極的に自分の意思で名越を避けてたんだ。後から思い起こせば、東京でわたしがあいつと交流があることもおそらく薄々知ってたんだと思う。帰省してきたときに駅のホームでうっかり鉢合わせても特に驚いた様子もなかった。
その展開で、向こうであいつと仲いいの?とか今日は一緒に帰ってきたんだ。それとも偶然?とか訊かれもせず、そのまま何事もなかったように流された。今考えてもどうにも不自然だしおかしい。
なのにどうしてそこをこっちから突っ込まなかったんだろう。そこにおそらく大きなヒント、吉村の本心に迫るための鍵が存在してたはずなのに。
すっかり冷めて冷たくなった好きなブランドのコーヒーの缶を、両手で包んで無意識にあっためる。
…多分、わたしの方も名越との間柄についてあまり吉村の注意を引きたくなかったんだろうな。え、あいつって直織の寮の向かいに住んでるの?お互いの大学に出入りして両方のサークルを二人で掛け持ちしてる?何でまたそこまでするの?って真正面から問いただされたら。吉村を納得させる理由を呈示できる自信がなかった。
だからうっかりほっとしてしまったんだ。ああ、吉村はそこを追及する気はないんだな。だったら名越との付き合いについては別に説明する必要ないや、って…。
そのものぐさが結局、わたしたちの間に長きに渡ってもやもやを漂わせたままな原因になったのかもしれず。…いや何とも言えないな。名越とわたしのこと気にならないの?とあのとき問い詰めたとしても。適当に無難な答えでさらっとかわされてたような気もする。
でも、わたしの胸にはもしかして…という疑念が生じるきっかけになったかも。そしたらここまで吉村のわたしへの気持ちに自信を失くすことにもならなかったのかな。
大学の頃にはわたしたち、卒業したらきっと何かしら将来に向けた話が出るんだろうなとか。幾分楽観的になれる余裕がわたしにもあった。
はっきり好きだとか結婚しようとは言い合ってなかったけど、何となく二人付き合ってる雰囲気はあったし。お互いが特別な相手だって共通認識は漠然と感じてた。
だけどわたしが卒業する頃には何故か連絡も間遠になって、帰省も学生の頃ほど長い期間は取れないし。会えない話せない時間が忙しさに紛れて長く続くと、わたしは寂しいけど向こうは平気なのかな。でも何も言ってくれないってことはつまり…と、どんどん自信がなくなっていった。
だけど今日。名越が吉村によそよそしかったのは単にシンプルに、そこまでむきになるくらいわたし絡みの対抗意識があるせいだった。って事実を改めて知ったんだ。
…だとしたら。もしかして、吉村についても同じことが言えるんじゃないか?
あの穏やかで誰にでもフレンドリーな男が。唯一塩対応で視界にも入れたくない様子の相手に、ただライバル意識を抱いて張り合ってるだけだった。…としたら?
わたしは自分の手のひらの温度でやや温まってきた缶を、思わず知らずさらに力を込めてぎゅっと握りしめた。
もちろん、吉村がそんな風に名越に対抗意識を持ってたのは既に遠い昔の話かもしれない。
数年前までは直織にそんな思いもなくはなかったけど、さすがに今はもうね。こんなに長い間遠くに離れてればそりゃ、気持ちも離れるし他に好きな人もできちゃうよ。と、…笑って?あるいは済まなさそうに?弁解されて終わるだけかも。
でも、それならそれで仕方ない。実態をここではっきりさせることにちゃんと意味はある。
ああ、いつの間にか向こうにとってはひと足先に終わってたんだな。わたしが卒業後に地元に帰って就職してたらこんなすれ違いもなかったのか、いやそれともそもそも東京に行かなければ…と苦しい思いをするのかも。でも、だとしてもこのまま曖昧にしておくよりは全然いい。
もうこの話は終わったんだ。ときっちり確認できなきゃこの先には進めない。わたしの未来のためにもちゃんとこの目で確かめておかないと。
…それに。電話越しじゃ駄目、直接顔を合わせて声を聞かないと。わからない部分がきっとある。
逆に言えば、顔を見て話せば言葉で何と言われたって、吉村の本当の気持ちは自分にはわかる。そういう確信がわたしにはあった。
すっかり夜も更けた頃。ややぐったりとした空気が充満してる新幹線の車両は、わたしの生まれた街に近い某ターミナル駅のホームへ滑らかにすべり込んだあと、まだかよ。と思うくらい長々と走り抜けてからようやくすうっと停車した。
いくつになってもこの瞬間がわくわくして好きだ。でも、今日はさすがにそれどころじゃない。
胸の内側で心臓が阿呆みたいにどっどっ、と大きな音を立てて鳴ってるのがわかる。もう来てるかな、あいつ。一体どんな顔してそこに立ってるんだろう?
新幹線を降りる人の数はそれなりに多いが、最終だからそこで滞留してる乗客はもうほとんどいない。一刻も早く家路に着きたくて速足に改札へと急ぐ人波があっという間にはけて消えたあとに、ぽつんと立ち尽くしている見慣れた背格好の人影。
「…吉村」
きょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせてる様子の後ろ姿に近寄って声をかけると、思ったより大きくびくん。と跳ねるように反応して振り向いた。
その瞳や表情はひと言ではとても言い表せない、いろんな感情が入り混じってるように見える。けどその中に、わたしが知りたい事実はしっかり見てとれた気がしてどっと安堵の気持ちが溢れて肩の力が抜けた。
「直織。…どうしたの急に?どこか悪いとか。何か向こうであった?」
開口一番、心配でたまらなかったのが隠せずそのまま剥き出しな声。そりゃそうか、何でいきなり帰って来るかも説明してなかったもんな。
普通に考えて何かイレギュラーなことが起きたんじゃ…と心配になるのは目に見えてる。不安をかき立てるようなことして悪かったな、とさすがに反省してわたしはまずは素直に謝った。
「ごめん、理由も言わないで。…何かあったとかじゃないの。ただ吉村と、会って話がしたかったから」
「…俺と?」
何だろう。と怯む気持ちと当惑だけじゃなく、その顔に浮かんだ表情の中にはっきりと、会いに来てくれて嬉しい。という沸き立つような喜びの色が入り混じっているのをわたしははっきりと見てとった。
…そう、そうだよね。何とも言えない温かな思いに満たされて、頬がどうしようもなく緩んでいくのを止められない。
取るもとりあえず駆けつけて、でも全然ノープランではあった。ただ吉村の顔を見れば何かがわかる。他には何の計画もない。
でも、実際にそれで充分だった。この反応を見ただけでもう瞬時に理解した。吉村は今でもわたしのことが大好きなんだって事実。
「…ふ。まあ、そうだよね」
「え、何?」
納得した様子で独りごちるわたしが不気味だったのか。相変わらず当惑を隠せないままの吉村がわけがわからない。と言わんばかりの顔つきで思わず訊き返してきた。
「何でもない。とりあえず、ここから移動しよう。ごめんね、夜遅くにいきなり。ここまでは電車で来たの?」
わたしはやつの背中に軽く手を添えて改札の方へと促した。吉村は落ち着かなげにそわそわと、その手の方を気にしてるみたい。
「うん、あ、いや。…車だよ。この時間だと道も空いてるし。その方が早いと思って…」
直織遠くからで疲れてるだろうから。移動は少しでも楽な方がいいんじゃないかなと。とやや上の空ながら付け加えた。
本当に、いつもいつもわたしのことばっかり優先なんだよな。これでどうしてもう何とも思ってないのかな。好きじゃなくなったのかな、なんて不安に思ったんだろう。
こうしてそばにいればこいつの気持ちは一目瞭然だ。腹を決めて冷静に、落ち着いてみれば迷う必要なんてなかったんだ。とすぐにわかるのに。
「直織、今夜泊まるのは自分ちでいいの?お母さんにもう連絡した?」
歩きながら問いかけられて我に返った。
「あ、そうか。吉村に連絡したらなんかもうそれで思考停止しちゃって。今夜の宿のことまで考えてなかった…」
そしたら実家に泊まるしかないよな、こんな時間にホテルも取れないし。とぶつぶつ言いながらスマホを取り出して母に連絡を取ろうとする。わたしの傍らで吉村が一瞬ぴく、となったのが伝わってきた。
LINEのメッセージじゃいつ見るかわかんないもんね、と独りごちて通話をタップしつつ。今の反応はもしかしてホテルって単語に対してなのかな、いや大丈夫だってば。そんないきなり獲って食いはしないよ。
だいいちわたしたちはまだそれ以前の段階なんだから。きちんと確かめ合わなきゃいけないことが山積みだ。お互いの気持ちを確認して、とっ散らかってる情報を整理して。身体で結ばれるのなんて、そういうのが全部片付いてから改めて考えることでしょ。
「…どうだった、結構怒ってた?お母さん。さっきの電話の感じだと」
駅の地下駐車場に降りていき、見慣れた懐かしの車と再会。もっともこれは吉村家の自家用車であってこいつ個人の所有物ではない。デザインも色も尖ったところがなく、ただただ無難な見た目の平凡な白のワンボックスカーだ。
自分で選んだわけじゃないしただの実用品だから、そこに吉村の好みは何も反映されてない。けどそんなところもこいつらしいな、と何故かちょっぴり安心したりして。
吉村が先回りして開けてくれたドアから助手席に、ありがと。とお礼を言って疲れた身体を滑り込ませる。
「うーん、まあ。やっぱりめちゃくちゃ不機嫌だったよ…。鍵ちゃんと持ってきたからドアチェーン外しといてくれるだけでいいから。寝てていいし明日の朝も適当に起きて勝手に帰るからさって言ったんだけど…」
そんなわけにいかないでしょう。もうお風呂のお湯流しちゃったのにぃと電話の向こうでかりかりしてるので、いや風呂は向こうで済ませてきたから大丈夫。とうっかり言いそうになり思い止まる。
お風呂も入り終わってからわざわざこっちに出てきたの?何でまたそんな急に、一体何があったの!と騒がれそう。シャワー浴びて寝るからそこまでしなくていいよ、と断って這々の体で通話を切った。
運転席に乗り込んだ吉村は、以前と全く変わらない穏やかな様子で笑って受け応えつつ車を発進させた。
「はは、そりゃまあびっくりするよ。しかもしばらくこっちでゆっくりして行くとかじゃなくてすぐに明日帰るんだろ?何があった、って心配するの当たり前だと思う。…えーと、話があるんだっけ?一体何の話?」
何度も使った駅の駐車場。ぐるぐる巡る地上へのルートを懐かしいな、と眺めながらわたしはやや上の空な口振りで答えた。
「うーん、どっか適当に停められるところがあったら停めて。運転しながらも何だから…。車の中でいいよ。そんなに長い話にはならないと思う」
明日も仕事早いでしょ?と一応気遣うと、うんまぁ、明日はそんなに遠いお宅じゃないから。割と余裕ある方だけどね…と濁してたが、時間については言及しなかったから。きっと朝一で予定が入ってるんだろうな。
そのまま何となくお互い黙り込み、走り慣れた道をしばらくそのまま行く。
でもさすがにここまで遅い時間にこっちに着いたのは初めてだ。今まで見たこのルートの景色の中で一番車の数が少ない。普段は詰まるようなポイントも難なくすいすいとスムーズに進む。
これだとあっという間に実家の近くまで行っちゃいそうだな。適当なこと言っちゃったけど、車停めて話せそうな場所ってどこだろ?とのほほんと考えてたら、吉村の方は心当たりがあるらしく迷いなくすっとハンドルを切って大きな通りから脇道へと逸れた。
到着したのは大きな海浜公園の駐車場。うちの近くのよりも広く、駐車場からは海が見える。もっともこの時間帯だから暗すぎて海面の様子はほとんど見えないが。
それでも吉村は手早くハンドルを操って、がらがらのスペースの中で一番眺めの良さそうな海際の一角に車を停めた。もちろん夜の海が席に座ったまま望める前向き駐車。
「ここでいいかな。…残念ながら何も見えないけど。昼間なら景色いいんだけどね、この場所」
「あ、うん」
呟きながらエンジンを止める吉村に頷いては見せたけど。あまりにも速攻で最適な場所を見出すその要領の良さに、もしかして普段はここによく他の女の子とドライブに来てるんじゃ…と疑念が兆してしまったではないか。
再びどよん、とネガティブな空気に包まれそうになってるわたし。吉村はそんな内心の状況に気づく風もなく、やや身構えてるのがわかる硬い顔つきでそれでも極力さり気ない声を出そうと努めてる。
「えー、と。…そしたら何だろう、直織の話って。何か俺に訊きたいこととか。言いたいことがあるとか?」
「あ、うん」
ちょっと疑い深くなりかけてたわたしははっとなった。…そう、しっかりしないと。わざわざ夜中に遠くからここまで何しに来たんだって。
やっぱりもう他に誰かいるのかなぁ…とか怖気づいてる場合じゃない。ううん、やっぱ何でもないよ!と笑顔を作ってごまかして核心に触れずに終わりじゃ今までと同じだ。
気合いを入れ直さねば、と深呼吸して隣を見ると、やつがハンドルに置いた手が思いの外ぎゅっと強く握りしめられてる。力を込めすぎてちょっと白くなってるし、微かに震えてるし。
吉村もわたしが何切り出すかと思うと怖いんだな。と考えたらすうっと頭が醒めて冷静になってきた。
びびってる場合じゃない。わたしの方からはっきりさせるつもりで思いきってここまで来たんだ。
ここで引き下がってたら多分あと十年はこのままだ。百歩譲ってわたしと吉村はそれでもまあいいかもしれないが、その間名越が宙ぶらりんで放置されるのかと思うと。それも気の毒だし、何よりやばい。
あいつが何か手を打ち出すより前に事態を明確にしないと。そのために間を置かず速攻で動いたんだから。
真っ暗な中、微かにゆらゆらと闇の表面が揺れているような深夜の海に視線を固定して思いきって口を切る。
「あー…。あの、えーとさ。吉村ってわたしのことどう思ってる?好き?嫌い…ってほどのことはないか、さすがに」
友達とかきょうだいみたいなもの?それとも、多少は特別な気持ちとかある?と一気にまくし立てて言葉をそこで切った。隣で吉村がますますぐっとハンドルを握る手に力を込め、身を固くしたのが伝わってきた。
こうやって黙ってると意外と外の波の音が聴こえるもんだな、と考えつつ吉村からの答えを待っていると。やがてふぅ、とため息が漏れて諦めたように小さな声で、だけどきっぱりとやつの返事が聞こえてきた。
「…好きだよ、もちろん。ずっと好き、前から」
「いつくらいから?」
「覚えてない…」
これって恋の告白でいいのかな。それにしてはなんか根負けしたというか、押し負けて音を上げたみたいな雰囲気が気になるが。
もっと幸せそうな感じ出せよ、と思って試しにストレートをぶち込んでみた。
「わたしも好きだよ。恋愛の好きだけど、こっちのつもりとしては」
「…え?」
反応的にわたしが次々と畳みかけて本音を聞き出そうとするだけで、こっちから告白するとは思ってなかったんだろう。ちょっと待って待って、と呟いてハンドルの上に突っ伏してしまった。
両腕で覆った上に伏せたその耳が赤いような…。光源が少な過ぎてわかりにくい。けど。
…待ってと言われたから仕方なく待つ。それでもさすがに待たせ過ぎだろう、と文句を言おうと口を開きかけたところでいきなりがばっと上体を起こした。でもまだ手のひらで顔の下半分を覆っている。
「何で急に言うのそういうこと。…あー、びっくりした。変な汗かいた」
「びっくりするかな。そんなに意外なことでもないと思うけど…」
口だけじゃなく、実際首筋の辺りに汗が滲んでるし。本当にこんなに漫画みたいな反応するんだな、と何処かゆとりのある気分で考えた。
おそらく向こうがあまりにもパニクってるから、反動でこっちはやや冷静になってるんだろう。それにわたしの方は最初からこの話題を出す!と覚悟して来ているから。まじの前触れなしの晴天霹靂を食らった吉村に較べたら一日の長がある。
吉村はフロントグラスの方に頑なに顔を向けたまま、あんまり聞いたことのない不自然にうわずった声で応じた。相変わらず口の周りを手で覆ったままだから、その声もくぐもって聴こえる。
「それは。…俺もそう。うん、同じだよ。直織と一緒」
ちゃんと恋愛の好きだから。と付け足したぼそぼそ声がなんか独特。震えてるような、うわずって掠れてるような。
もしかしてこれって笑みをかみ殺してるのではないか。そう気づくと顔の下半分を頑なに片手で隠してる理由がようやく判然とした。
思わず嬉しさでにやけそうになるのを必死に隠してるんじゃないかな。何だ、そんなの。よかったあ両思いだね、嬉しい!と満面の笑みを晴れ晴れと浮かべてくれてもいいのに。
と呆れたけど、どうやらまだ手放しで喜べない何かがありそうだ。だからでれでれしてる場合じゃない、と何とか気を引き締めようとしてるのに。抑えられず素直な喜びが溢れて止められない状態とみた。
どうやらじっくり腰を据えてこっちから本心を訊き出さないといけない展開だな。とため息をつき、助手席の上で居住まいを正した。それにしても、相手が狼狽えれば狼狽えるほどますますこちらは冷静になって落ち着いてくる、ってのは本当だな。唐突に深夜に思い立って大移動してきたばかりとは思えないほど頭の中がクールに冴え渡ってる。
「そしたら訊きたいんだけど。…吉村って、わたしとこのあとどうなるつもりだったの?好きならちゃんと付き合いたいとか。結婚しようとは思わなかった?」
「それは」
何か言いかけてぐ、と詰まった。同時ににやけも消えてやや難しい表情になったので、どうやらこの辺に何か核心めいたものがあるな、と推察できる。
「もしかして。…好きは好きだけどそれとして、やっぱり結婚はできないなと思った?すっかり東京に染まっちゃって、向こうで仕事も決めちゃっていつになっても帰って来ようともしないし。自分の生まれた地元を大切にできないような女とはとてもじゃないけど家庭は持てないよな、とか」
「いやそんなことないよ。そんな風に思ったことない」
勢い込んで前のめりに否定する。その拍子にようやく顔を上げてこっちを向いた。まだ紅潮の名残りがある眼差しをわたしの上にひたと見据える。
「じゃあ何よ。なんで?」
やっぱりそこは納得いかない。お互いの気持ちがこれではっきりしたのはよかったと思うけど。
「だって…、そりゃ大学卒業したのに東京で就職して向こうで定住しちゃったわたしが悪かったなとは思うよ。もしかしたら吉村はこっちでわたしが帰るのを待っててくれたのかもしれないとは思ってたから…。でも、本当に好きならいろいろやりようがあるじゃない。どっちかの拠点にいつか将来的に二人で住めるように今から計画を考えたりとか」
そう簡単な話じゃないのはわかってる。でも、お互いがいつか一緒に暮らしたいと考えてるってわかってるか知らないままかはメンタル的に雲泥の差だと思うんだよね。
「吉村が東京に、お父さんが元気なうちだけでも出てきてくれるつもりがあるならわたしも就職先見つけるのに協力しようと思うし。も少し時間かかっちゃうけど、わたしが充分に実績積んで地方に住んでてもリモートで仕事の依頼受けられるようになれば問題なく地元に戻って来られるはずだし…。頑張ればお互い今の仕事続けながらでも何とか道はあると思う。けど全然、将来の話とかしないから吉村って。もしかしたらもうとっくに他に好きな子とかいるのかな、って」
「そんなことあり得ないよ。俺の好きな子はこれまでもこれからもずっと、直織だけだから」
こっちを真っ直ぐ見据えたままきっぱりと、真剣な顔で断言してくれたところまではよかったが。
目と目がかち合った途端、照れが勝ったのかへにゃへにゃと崩れてまた片手で顔を覆って横を向いてしまう。知らなかった、吉村って。恋愛に関しては初心すぎてほぼヘタレなのでは…。
これまで包容力あって落ち着いてて大人なとこしか見てないから。全然気づかなかった、新鮮。
「じゃあそう言ってくれればよかった、もっと早く。吉村にそういう気持ちがあるって知らないから、もうわたしのこと何とも思ってないんだろうなぁと。ちょっと最近諦めかけてたよ?」
本当に危なかったんだからな、と口にはしないけど。一瞬猛然と腹立たしい感情が湧き起こる。
その瞬間まで自分が思ってたより名越の口説きに揺らいでたのを自覚してなかった。…そう、まじでかなり本気でもう吉村とは無理なのかなぁと成り行きを受け入れかけてたから。
あのまま東京にいて、何日も何ヶ月もかけて名越からの怒涛の攻勢を受け続けてたら多分、ちょっとずつそれもありかもなぁ…と説得され始めて最終的には流されることになってたかも。やばいやばい、そんな展開にならなくて本当よかった。
けど。安堵しつつぷりぷりしてるわたしとは違い、浮かれてるはずの吉村の顔色はどうも今ひとつ晴れない。
「うん…、そうだよね。それは、そうなんだけど…」
「え、何なの。もしかしてずっとそのまま放っといて、わたしが向こうで誰かとくっついちゃったら。それはそれで仕方ないかって割り切るつもりだったの?」
それで平気なの?と思わず語気荒く詰め寄ったけど。即きっぱり否定してくるとばかり思ってたのに吉村の方は何故か今ひとつ歯切れが悪い。
「いや。それでいいとは思ってない。思ってはいないけど…、でも、絶対俺とじゃなきゃ駄目だろ!って強引に行けるほど。…自信ってのは正直、なくて…」
えー…。そうなの?
そんな弱気な感じだと、まじでわたしいつかはいなくなっちゃうよ?とちょっと強めにここで脅しとこうかと考えかけたが。深刻に思い詰めてる様子の吉村は今、そんな冗談が通じそうな雰囲気ではなさそう。
結構真面目に受け取られてずーん、となりそうだから。あんまりここで重ねて追い詰めるのも気の毒になり、まだ何か言いたげなやつの次の言葉を辛抱強く待つことにする。
それにしても、あんまり放っとくと別の男のとこに行っちゃうかもよ?なんて、つい昨日までは(というか正直、ついさっきまでは)余裕かまして言えなかった。というか思いつきもしなかった。吉村以外にわたしを好きそうな人なんてまじでこの世にいないと本気で思ってたから。
それをちょっと別の男の人に口説かれたからってこの発想。調子に乗るのが早過ぎる。神速のスピードだな、我ながら。
どうやらその辺で考えがある程度まとまったのか。ハンドルに無造作にもたれた姿勢をとり、フロントグラスの方へと視線を固定した吉村はぽつりぽつりと思いつくまま、五月雨式に自分の思いを語り出した。
「…俺は覚えてる限り本当に小さい頃から。ずっと直織のことが一番、大好きで」
言葉だけ受け取るとすごい甘々の告白みたいなの始まった。
けど、吉村の表情も口振りも甘さや多幸感は全然感じられなくて。まるで重い暗い過去の話をするときみたいに、テンション低く無表情でぼそぼそと打ち明けるのはどうなのかと思う。
「物心ついた最初の頃の思い出は、『けっこん』ってずっと一緒にいられることで。男と女とじゃないとできないんだよって知ったから、じゃあなおちゃんは女の子で僕は男だからよかったな。大人になったら結婚できるんだ。…っていうのが。インパクトある最初の記憶ってくらい…」
へぇ。
「そうなんだ。…そういえば超小っちゃいがきんちょの頃、大ちゃ。…吉村に大きくなったら結婚しようねって言われた覚えあるな。そんな子どものときの約束どうせ無効だよねって大きくなったときには思ったけどね、はは」
「うんまぁ。…直織はそのくらいの感覚でいるのは正直、わかってたけどね」
冗談に紛らわすのはよくなかったみたい。吉村は何だか元気がなくなってしょぼんとなってしまった。も少し空気読めよ、自分。
「小中高と成長するうちに、直織の方は俺のことを普通に幼馴染み、友達と思うようになってるなと感じてたけど。俺はやっぱりずっと直織が大事で一番好きだった。でも友達としてでも、直織も俺といるときが一番気楽でリラックスしてるように思えてたから。もしも直織に他に好きなやつが出来なければいつか将来は俺と一緒になってくれるかも。そうなったらいいなと願いながら…。まあ、現実問題いつまでそばにいられるかわからないから。受験も死に物狂いで頑張って、少しでも長く近くにいようと」
「そうなんだ。…ごめんね」
やっぱり、あの頑張りはそういうことだったのか。そこまでしてもらったのに思いが至らず、三年間を無駄にしたような気がして。つい気が引けて謝ってしまう。
「謝ることないよ。ちゃんと楽しかった、あの高校での三年間。友達もいっぱい出来たし、直織と行き帰りで一緒になったり校内で顔を合わせる機会もあったしね。中学の頃よりは優しくなって当たりが弱くなった気もしたし。…そう、何となくね。もしかしたら幼馴染みとしてでも、可能性なくもないのかな。と思い始めてた、特に高校の終わり頃には」
「それはそうだよ。こっちもその頃にはさすがにいろいろ考えてたからね」
大学は東京行くんだってずっと決めてたけど、果たしてこいつをこっちに一人で置いてくのは本当にそれで正解なのかとかさ。どうしても〇〇大じゃなきゃいけないのか?地元の通える大学を選ばないのはただの我儘じゃないのか?…とか。
それも吉村を特別な相手だと考え始めたからこその話だ。まあ迷いに迷って結局、そのまま上京しちゃったんだけどね…。で、現在に至ると。
話してるうちに頭の中の整理がついてやや落ち着いたのか。吉村はふと目許を緩め、何か遠い記憶に思いを馳せるように遠い眼差しをこちらに向けた。
「覚えてるのは。…直織は絵を描くのが好きで中学あたりから見る見るうちに巧くなって、でも頑なに自己流で。ちゃんと習って本格的にやれば?と言ってもわたしはこれでいいんだ。他人に見てもらうつもりはなくて趣味だから、って言い張ってたよね。すごく勿体ないとは思ったけど、まあ本人が決めることだから。それもいいかな、ってくらいの考えで。今みたいな状況になるなんて、あの頃は想像もつかなかったなぁ」
「うん。…ごめん」
また謝る言葉が口をついて出てしまう。
今考えると本当にその頃とは真逆の状態になってるよな。わたしがガキで世間を知らなくて考えなしだった。その気になれば自分の力でずっと遠くまで行ける、っていう事実に向き合いもせずに。わたしはこれでいい、と頑なに決めつけてた。
小さくなってるわたしを宥めるように、だから、謝らなくていいって。とフォローの言葉をかけて吉村は話の先を続ける。
「そういう意味じゃなくて。…その心境から一念発起努力して、数年で絵を仕事にするまでに至ったのは本当に頑張ったんだなって。でも、だからこそ。…俺が直織のパートナーでいいのか?実際、こうなった以上俺が直織のそばにいるのは。何だか結果的に束縛して足を引っ張ることになるんじゃ、って思いが。だんだん拭えなくなってきて…」
「ええぇ、何それ。何でそうなるの?」
絶対論理が飛躍してる。わたしは唖然となり早速突っ込んだ。
「だってあんたは一度もわたしがしたいことを止めたりしなかったじゃん。東京の大学に進むときも向こうでデザイン事務所にスカウトされたときも、後悔しないようにやりたいことやっておいで、って快く送り出してくれた。正直ちょっとわたしたちいい感じかなと思い始めてたタイミングだったから。吉村の性格的に引き止めはしないんだろうけど、寂しい思いをさせるかなって心苦しい気持ちはあって。でもあんたは、全然やな顔もせずにわたしに自由にさせてくれて。いつも背中を押してくれて…」
「でも、そうやって。俺に申し訳ないとか、地元に放っておいて寂しがらせてるとかいう考えがどうにも消えないでしょ?そういうところだと思う」
やけにきっぱりとそこで、わたしの台詞を遮るように強く断言する吉村。
「高校に入って間もない頃はまだあんまり危機感なかったんだ。直織は絵を描くの好きで巧いけど、それを表に出す気はなさそうだった。勿体ないと思いつつも、このまま趣味の範疇でのんびり続けるんだろうなと。だったらここでこのまま大人になって、二人いつか自然と一緒になって支え合う未来もあるのかなとか。漠然とイメージしてた」
うん。高校入った最初の頃なら、何となくそれはわからなくもない。
夏の終わり、ここじゃない近所の小さな海浜公園で並んで海を見ながら他愛もない会話して。絵を描くわたしの隣でのんびりと寛いでた吉村の声や顔を思い出す。
ずっとそのまま、そんな日が続くんだろうなと。漠然とだけどわたしも思ってた。あの頃はまだ自分が特にこいつに恋愛感情を抱いてる、という自覚もろくになかったはずだけど。
何だかんだでこのまま二人、ここで一緒に大人になるのかもしれないって感覚はあった。高校に入った頃にはもう漠然と大学は東京に行きたいなと考えてはいたけど。
四年間だけ向こうで暮らす自由を得るというか。行きっ放しでそのまま現地で就職までするとはあんまりイメージしてなかったかも。
「でも、直織は高校で変わった。もちろんいい方向にだけど。才能が見事に開花して、もっといい絵を描くために研鑽を重ねて努力することと。頑張れば頑張っただけたくさんの人に作品を見てもらえるんだってことを知って。…すごく嬉しかったし本当によかったなぁとも思ったけど。同時に思い知ったんだ、この子はこんな田舎にずっと収まってたらいけない。ちゃんと背中を押してもっと広い世界に送り出してやらないといけない特別な存在なんだって」
「…そんな。大袈裟なもんじゃないよ」
当惑して弱々しく反論するわたし。いやでも、特別な存在とかいう表現はともかく、東京に快く送り出してくれた吉村や両親のおかげで今のわたしがあるのは否めないし。すごく間違ったことを言われたわけじゃないのかも…。
「…それが最初に疑念が生まれたきっかけだったかも。年月が経つにつれてだんだん思うようになったんだ、俺と直織とではもしかしたら住む世界が違うんじゃないのかなって」
「それは。…違うよ」
ここ否定するとこ。と赤でラインを引かれてた部分に到達したみたいに、わたしは素早くその台詞に反応した。
「そんな言い方絶対おかしいでしょ。単に仕事してる場所が離れてるってだけで、こうして行き来すればいつでも会えるじゃん。だいいち、世界が違うって何?吉村のいるこことわたしのいる向こうと、どっちが上も下もないんですけど、全然」
「うん。上とか下とか区別してるわけじゃないけど…。俺の言いたいこと、どう表現すればいいかな。ジャンルというか、ステージが違うっていうか…」
ほとんど同じだろ、世界が違うってのと。それじゃ。
吉村は悲しそうでも苦しそうでもなく、ただ諦めの混じった淡々とした口振りで自分の考えを供述し始めた。
「…俺はさ。前にも言ったと思うけど、ここ以外の土地、もっと都会の東京とかに憧れるとか住んでみたいって願望がもともとほとんどないんだよ。負け惜しみとかじゃなく…。子どもの頃から、このままここで大人になって。ぼろっちくて近所のおじちゃんおばちゃんしかお客さんいないけど、親父のあと継いであの店をやるんだなと普通に思ってて。それは別に嫌じゃなかった。長男だからって言えばそれまでだけど、当たり前にそんな感じで」
まあ、大人になって現実を見たら。あのまま引き継いでもこの店経営やばいだろ、なんか梃入れしないと続かないなって気づいて気楽さは消えたけどね。と苦笑いして付け加える。
「だから何となく、友達や周りの連中もそのままずっと一緒にここで大人になるイメージしかなくて。大人になった直織も何だかんだここで仕事とかして、そばで暮らしてる未来しか想像してなかった。…いつくらいからかなぁ、漠然と。もしかして直織はずっとこの街にいる子じゃなくて、いつかは遠くに羽ばたいていくべき存在なんじゃないかなって。…俺たちとは違う」
「そんな。…何も違わないよ」
そんな風に思われてたのか。と当惑しつつ、確かにわたし大学は出来たら東京に行きたいんだよねと早い段階で吉村には打ち明けてたから。それが理由で精神的に距離を置かれちゃったのかなと悲しく思う。
わたしがぼそぼそとそう呟くと、吉村は生真面目な顔つきできっぱりと首を横に振った。
「そういうわけじゃないよ。直織が東京の大学に行きたがってたこととまたそれは別の話だから。俺も最初は大学の間だけ外の世界を見てきて、一時期離ればなれでも最終的にはまた一緒に暮らせる日が来るんだろうなって軽く考えてた。けど、大学に進んでみるみるうちに絵で世の中に認知されてく直織を見てるうちに。もしかして俺がここで待ってることが直織の足を止めてるんじゃないか、本当は日本だけに収まらず世界のどこへでも行けるすごい才能を持ってるのに。これ以上遠くに行ったら俺を置いて行くことになる、だからもっと先へって野心を持っちゃいけない。って、無意識に枷を嵌めさせる原因になってるんじゃないかと。…俺の存在自体が」
「そんな…」
絶対そんなわけない。と自分では思うけど。
確かに今現在のわたしは別に世界に羽ばたきたいなんて考えてない。東京で泥臭くこつこつと少しでも認知してもらうための小さな仕事を日々こなすのに精一杯で、そこからひと足飛びに世界だなんて。非現実的にも程がある。
でも、そう考えてる理由が地元で待ってる吉村とは全然関係がないなんて。一体どうやって本人に心の底から納得できるよう、説明する術がある?
とわたしが一瞬言葉に詰まってるのに拘泥せず、吉村はこれまで胸の奥に留めてたものを一気に吐き出すように訥々と自身の心情を吐露し続ける。
「東京とか大阪とか、もっと都会で全然違う仕事をして自由に生きたいと考える方が今の若い人間としては多分普通なんだろうな。直織だけじゃなく、うちの沙里奈も出来たら大学は東京か大阪がいいって思ってるみたいだし。碧も今すぐじゃなくても、大学卒業したら家を出て一人暮らしして自由になりたい気持ちがあるらしい。けど俺は、兄貴だからって特に我慢してるわけじゃなくて。実家や店やばあちゃんや両親を、最後まであの土地で面倒見るのは当たり前だし別に苦でもないって感覚だから」
「…うん」
わたしはしみじみと納得して、素直に頷くしかない。
そうだよな、こいつはそういうやつだもん。みんなが都会に憧れるとかこんな地方都市から出ていきたいと願ってても理解はするがそれはそれ。他人は他人、自分は自分と割り切って考えられて、決して芯がぶれない。
「…うちの両親はまだそんな歳じゃないし。さっき直織が言ったみたいに例えばあと十年とか親が元気なうちだけ、追いかけて上京して直織のそばで暮らすとかちょっとは考えたよ。でも俺がそれやっちゃうと、もしかして下の二人はタイミング的に実家から出にくくなる可能性があるな。碧と沙里奈に較べたら俺は本気で地元を出ていきたいわけでもないのに、それは申し訳ないなと考えたら。やっぱり思いきれなくて…」
「そう。…なんだ」
ようやく腑に落ちる説明を受けた気がして、わたしは短く相槌を打って頷くしかない。
それにしても、自分がここで待ってると知ったらわたしに枷を嵌めちゃうだろうとか。自分が先に出て行ったら弟と妹が自由に動けなくなるかもとか、本当にいつも大切な相手の気持ちばっかり慮ってるやつだ。
自身はわたしや弟妹たちほど外に出たい願望がないから、っていうのは嘘じゃない本心だとは思うが。なかなかそこまで、いつでも他人のことを先回りして配慮ってできないよな。たまにはもっと自分勝手に好きなように動いてもいいのに、と言っても。おそらく当人はそもそも現状に不満とかないから。と穏やかな顔で当たり前のように答えそう。
「…だから、直織には本当に申し訳ないとは思いつつも。俺は多分、この先もこの街から出ることはできないよ。俺よりももっと外に出たい、切実にそう願ってる人たちが後のことを心配しないで済むように。安心して動けるよう送り出すのが自分の役目だと思ってるから…。でもそれを伝えたら、直織は優しいし案外気遣い性だから。夢半ばでもじゃあ自分もそっちに帰るよ。って言い出しそうだと思ったら。なかなか決定的な話を切り出すタイミングがなくて、ついここまで先延ばしに…」
「そんな」
ことはしないよ。…と口にしかけて思いとどまった。いや、どうなんだろ。
弟妹や両親のこともあるし俺やっぱり地元出られないし出たい気持ちもないよ。だから直織は俺のことは気にしないで東京で自由で幸せになって、って仮に言われたら。
やっぱり、そっちに動けない理由があるならじゃあわたしが地元に戻るよ。と向こうでの活動を早々にクローズして、さっさと帰って来ちゃう可能性はゼロじゃない。…かも。
結果夢半ばに終わったとしても、吉村だけ地元に取り残されて一人寂しい思いをしてると考えるより。わたしとあいつが幸せならそれでいいんだ、絵より大事なもの、後悔したくないことがきっとある。
そう腹を決めてすっぱり帰ってきて、以後はもう美術は趣味だけでいい。とこっちで普通の仕事をしながら吉村と普通に穏やかな生涯を送ってた可能性は全然ある。
それが絶対に嫌だってわけじゃない。でも、絵で夢を叶えるより好きな幼馴染みとの平凡な生涯を選ぶに当たって、それしかないと納得すればわたしは何とか諦めを断ち切れそうだけど。
ハンドルを何か縋るためのもののようにしっかりと握ったまま、頑なに前を向いてる強張ったその横顔から伺うに。自分のせいでわたしが絵を描くのをセーブするようになるのを目の当たりにするのが、吉村にとっては本当に耐え難いことだったんだろうなってのは。すごく、よくわかる。
「…吉村の言いたいこと。まあ大体理解はしたよ」
怒るに怒れず、でもわたしに何も言わず打ち明けずに自分だけの判断でナチュラルにフェイドアウトしようとしかけてた。って考えるとやっぱり納得いかないし腹立たしい。
だって、説明を聞けばそうかそれで最近不自然に連絡が間遠になってたんだなとわかるけど。
そうやって素っ気なくしてこっちを不安にさせとけば自然と、どうやら吉村はもうわたしのことがそれほど好きじゃなくなっちゃったんだな。離れてる時間が長いとこうなるのはしょうがないか…って悲しく諦めて、そのうち別の人とくっついて東京で幸せになるだろう。と考えられてたんだなと改めて実感すると。…舐められたもんだなと思うわ。
「…まず。わたしの気持ちはそんな簡単なもんじゃないから」
わたしが話の流れにけりをつけるようにきっぱりと宣言したので。その勢いに一体何を言い出すんだろうとやや不安に感じたみたいで、吉村は恐るおそる顔を上げてこっちを見た。
「理由も言わずLINEの返信を控えれば、わたしが弱気になって自信をなくしてもう吉村とは無理なのかなぁ…とか言って(ついさっきまで本気でそう考えかけてたのは内緒だ)手近な東京の男に逃げるだろうと期待してたんなら甘いよ。ちゃんと顔を合わせて話し合った内容しか信用しないから。わたしの目を見てお前なんかもう好きじゃない、待ってても一緒になる気は百パーセントないから。向こうで適当な男を見つけて幸せに暮らせ、ってめっちゃ冷たい目をして本音で言わないと。絶対信じないから、吉村がわたしを嫌いになったかもなんて」
そしてこいつに演技は無理。それがわかってるからわざわざこうして、蜻蛉返りでもいいから直に目を見て話すためだけにやって来たんだもん。
大体、本気でわたしを騙して自分を諦めさせるつもりなら後先考える必要もなく、もっといくらでも冷たく突き放せるだろうに。
たまに返してくるLINEの文面は以前と寸分も変わらない、いつもの優しさや気遣いに溢れてた。あれじゃどうやったってこっちも思い切れないよ。と思い返して苦笑しつつ考える。
本人もきっと、そういう自覚があって返信の間隔を控えるくらいが限界の精一杯だったんだろうな。文章だけとはいえわたしを傷つけるような突き放す嘘は書けない。ましてや通話で話すとか直に会って会話するとかだと。
ああやっぱり吉村は変わらずにわたしが好きなんだ。って一気に安心させちゃう。今現在のこの状況と同じに。
そのことは指摘するでもなく吉村にも自覚があるらしい。すっかり論破され、でもまだ吹っ切れもせずうだうだとごく小声で言い返してきた。
「でも、…やっぱり俺と一緒になるのが直織にとって最適ルートだとは思えないよ。例えばあいつ、名越とかと較べたら…」
ここで出たか、その名前。
やはりばりばり意識してたんだな、この二人お互いに。何年も素知らぬふりしてここに来て突然、それぞれの口から相手への思うところを知る羽目になるとは。
吉村は再び目線をわたしから背けて俯き、独り言のように訥々と思うところを打ち明けた。
「本当はずっと思ってたんだ、あいつなら。直織の絵のことも俺より深く理解できるだろうし、美術界に伝手もありそうだから活動を広げる手伝いもできる。嫌な言い方かもだけど実家があれだから財力だって当然敵わないし…。正直俺なんかより、向こうを選んだ方が。直織は普通に幸せになれるんだろうなぁと」
「うん。…でも、吉村はそれでいいの?」
あんたがそう言うだろうな、っていうのはわかる。だからそんな台詞でいちいち動揺したりしない。
わたしは淡々とそのうじうじした物言いを軽く蹴散らして突っ込みを入れてやった。
「口で言うだけじゃなく、ちゃんとリアルに想像してみてよ。わたしが名越と結婚しました、だから東京が本拠地だし海外も飛び回るから何年もこっちに帰ってくる暇ないよ。その間に子どもも、そうだな例えば三人くらい産んで。仕事も順調で忙しいけどみんな仲良くてラブラブで幸せだよーとかなっても、ああよかった。直織が幸せならそれでいいやって。本当に心の底から嬉しいって思えるの?」
「う」
やっぱり、具体的に名越の顔を思い浮かべると駄目なのかな。一瞬正直な思いが顔に出て無難な答えが出てこない吉村。
わたしは相手が怯んでる隙に素早く次の一手を駄目押しに放つ。
「じゃあ、今度は別のパターン想像してみて。わたしはあと数年は向こうで頑張りたいけど吉村とは正式なパートナーになりたいから、折りをみて然るべきタイミングでとりあえず入籍するの。ちゃんと結婚してるからなるべくちょくちょく帰ってきて顔を見せるし、吉村の住んでるところがわたしの家でもあるから同じ家に帰って来て泊まる。そのうち赤ちゃんができればしばらく仕事をセーブしてこっちに滞在する必要があるかもね。でも、数年くらい描くのをスローペースにしても別に言うほどどうってことなくない?」
言いながらわたし自身も説得されていく。そう、子どもを産んで育てるほんの数年間多少描くのを控えたからって全てを失う、なんてびびり過ぎ。きっと想像して恐れてるほどのダメージはないような気がする。
「吉村が心配してるほどわたし、めちゃくちゃ駆け出しでも固定客がいないわけでもないんだよ?大学在学中から多少実績あるし、何かあったときのセーフティネット求めてフリーじゃなくわざわざ事務所に所属したってとこもあるし。仮に子育てでちょっと描くペース遅くなりますって言っても全く仕事なくなるってことはないと思うし、そんな状態にはならないように今から頑張って業界にフックというか、爪痕残しとくよう努力する。待ってもらえるわたしにこれからなればいいんでしょう」
普段のわたしならとてもこんな啖呵切れない。でも、吉村を安心させて納得してもらうためなら。…どんな大口だってここぞとばかりに叩いてやろうじゃないか。
「産休育休中も絵は自分のペースでこつこつ少しずつなら描けるし、デジタル作画できるからリモートでできる仕事もあると思う。…何よりあんたとわたしの子ども産んで育てること考えたら。その方が数年間のどんなキャリアなんかより、全然わたしたちの幸せな人生にとって大事なことじゃない?」
「…」
吉村からの返事はない。こっちに顔を向けられず、俯いたまま顔を手で覆ってる。その耳が上気したように真っ赤に染まってるのが仄暗い車内の僅かな光の下でもはっきりとわかる。
もう一息で吉村を落とせそう。と確信を持ってわたしはそっと運転席の方へと身を寄せて、悪魔か天使の囁きをその耳に吹き込んだ。
「ね?…わたしも吉村も、自分のしたいことを何も諦めないでも。一緒に幸せになれる未来はきっとあるよ。すごく簡単なことでもないかもだけど、何を目指すにしてもどのみち余裕で楽なことなんてそんなにないじゃん。でも、二人でこうなればいいねって希望の共通認識があれば。それに向かって一緒に努力するのはそんなに苦でもなくなるんじゃないかな…」
「…直織は」
吉村が手で覆った口許から絞り出すような声が漏れる。
「本当にそれでいいの?…俺といると絶対苦労させるよ。その点あいつとなら。余計なことに気を回さずに絵に集中して打ち込めるし。俺にはできないようなフォローも後押しも、惜しげなく受けられるって。はっきりわかってるのに…」
「…吉村がわたしについて、どうやら今ひとつわかってないことがあるとしたら」
ゆっくりと、その頭に沁み込むようにと。噛み砕いて丁寧に言い聞かせる。
「わたしは絵を描くのが好きで、どんな形でもずっと描き続けたいと思ってはいるけど。売れるとか有名になるとかは別にどっちでもいいの。その方が仕事として堂々と続けられるから必要に駆られてるだけ。…絵も大事だけど、多分もっと大事なことがある。わたしがわたしとして生きること。そのために、大好きな人とずっと一緒にいること」
どうやら、吉村は正攻法の攻めに弱いようだ。わたしの言葉が誤解の余地もないほどストレートになればなるほど。俯きの角度は深くなり、耳はますます赤く染まってゆく。
「名越はわたしの絵のファンだし、確かにあいつなら可能な限り手取り足取り、痒いところに手が届くほど先回りして世話をしてくれるかもね。でも、わたしは苦労したくないわけでも面倒ごとを他の人に代わりに引き受けてほしいわけでもないの。そういうのはちゃんと自分でする」
それから吉村に小声でこっちを見て、と要求してからおまけに付け加えた。
「…そういう面倒ごとや思っても見なかった苦労に襲われてばたばたしてるときに。生まれて初めて唯一恋愛感情を感じた相手がいつも隣にいて、わたしと一緒に頑張って乗り越えようとしてくれてたら。どんな条件のいい相手といるよりもきっともっと全然いいと思うよ」
吉村はわたしにとってそういう存在なの。と駄目押ししても全然顔を上げようとしない。いやいい加減こっち見ろや。
本当に肝心なときほど目を合わせられないやつだな。と内心でちょっと呆れてると、吉村はすぅ、と肩を浮かせてからふぅーと深く長いため息をついた。
それからようやく、渋々と顔から手のひらをずらして指の隙間からちらとこっちを見上げる。…まるで泣いてでもいたのか?と錯覚するほどに目の周りを赤く充血させて、見たこともないほど潤んだ瞳をわたしに向けて。
「…あーあ、駄目だ。俺さえ我慢して黙ってやり過ごせばそのうち直織は自然と幸せを掴むから。それまでの辛抱だ、と思ってたのに。…こんなんじゃとても自分をごまかせないよ。もう、ここまで来たら直織には平凡などこにでもある人生を選んで、俺と一緒に死ぬまで苦労してもらうしか。選択肢がなくなっちゃったかもしれないよ?」
何の変哲もない地味な印象の白い車は、なるべく音を立てないようそっと狭い坂を登っていった。
うんざりするほど見飽きた通学路は懐かしいような、目に入った瞬間また見慣れた状態に戻ったような。だけどそこはかとなくどこか歪んで傾いだようにも見える。世界がほんの少しずれたような違和感が拭えない、そんな実家に続く道。
話し込んでしまった分時間帯は深夜に片足突っ込んでる。周囲の家の迷惑にならないよう、吉村は慎重に車を進ませて行きわたしの家の前の脇道に侵入して停まった。
「…まだ明かりついてるね。お母さんとお父さん、起きて待ってそう」
だいぶいつもの調子が戻った吉村が、フロントグラス越しにうちの様子を伺って小声でわたしに囁く。
「げ。…先に寝てていいって言ったのになぁ。待たれてる方が気を遣うってば」
「無理ないよそりゃ。こんな時間にいきなり東京から帰ってくるって知らされたら。顔見るまで心配だって…」
ともあれこれじゃあんまりのんびりもしてらんない。わたしは肩をすくめてバッグを引っ掴み、とりあえず御礼を言って車から降りようとドアに手をかけた。
「それじゃ。本当にいきなり遅い時間に呼び出してごめんね。会えてすごく嬉しかった、今日は」
「本当に大丈夫?俺も一緒に降りて顔出そうか」
「いや、また話長くなるから絶対。吉村は明日も朝早いだろうし、そこまで付き合わせるわけにはいかないよ」
一緒にいたのは知ってるから、もうわたしから言って帰ってもらったよ。と伝えればうちの親も納得するでしょ。と説明して、ドアを開けて振り向いた。
「そしたら、また。早めに連絡する、遠慮なくこっちから。がんがんと」
返信あってもなくてももう気にしないからね!と笑って付け加えると、吉村はうちの窓の明かりが目に入ったのか。やけに眩しそうに目を細めて、少し寂しげな声で尋ねてきた。
「…明日は。もう午前中に帰っちゃうんだよね、向こうに」
「うーん。スケジュールに余裕あるときだったらよかったんだけど。よりによって午後、ちょっと大事な打ち合わせが入ってる日だから…」
何も考えなしに飛び出してきたからなぁ。と呟きつつ、そのきっかけになった不意の出来事については知らないふりをする。
そういえば、帰ったらまた名越ともきっちり話をしなきゃならないんだよね。そこまで今は思考が回らないけど考えるだに気が重い。どうやってこの顛末を伝えて納得してもらうかと言っても…、まあしょうがない。
どうしようもないことだって世の中にはあるんだ。どっちかを選ぶしかなくて、両方の意にはどうやっても添えないから。
「…そっか」
まあ仕方ないよね、連休でもないんだし。と自分に言い聞かせてる吉村の独り言が耳に入る。
なんか意外と素直にしょんぼりしてるじゃん、と思うとやっぱりちょっと嬉しいし。ふと愛しさが込み上げた。
「うん。…ごめんね、自分の勝手でこんな風にいきなりやって来て。次はちゃんと、ゆっくり話して一緒に過ごせるよう時間をとって。会いに来るからさ…」
思えば初めてお互いの気持ちを打ち明けあって、ようやく両思いになれたばかりだってのに。落ち着かないし情緒ないよな、と反省せざるを得ない。
切羽詰まってたのは確かだがもう少しタイミングを考えろよな、自分。
名残惜しい気持ちがなくもなくて、助手席から降りかけてたのを止めて振り向き、じりとにじり寄って顔を寄せる。
そういえばせっかく思いが通じ合ったのに、言葉だけでなにも触れ合わずにさっさと帰るのも何だな。こういうときどうするのが適切なんだ?と曖昧に思いつつ何かの衝動に駆られてふと吉村の方に向けて手を伸ばした。
どこかに触れたい、と感じたけど何の考えもない。
だからとにかくやつの頬に手のひらをそっと添えただけだったんだが、吉村はそれで思わずといった様子でぎゅっと両目を伏せた。
その顔を見て初めて、ああ、そうか。と改めて気づいた。
わたしたちはお互いの思いを確かめ合ったんだ。もしかして、何か形に残る『初めて』を。ここでしといてもいいんじゃないか?
迷うより先に口から言葉が飛び出してきた。
「…キスしていい?」
「うん」
先の問いかけがわたしで応じたのが吉村。普通は逆じゃないか、とかは考えない。男女平等。
上体をぐっと伸ばして背伸びをするように顔を近づけ、目を閉じたままのやつの口許に軽く唇を寄せた。ほんとに軽く表面を触れるだけのキス。
わたしからはこのくらいが精一杯だぜ、と心の中で呟いて唇を離す。そっと目を開いた吉村の顔つきは浮ついたような不服げなような。どこか複雑な反応だ。
それで終わり?といかにも言いたそう。と気づいて、わたしは慌てて言葉を補足した。
「あの。なるべく早くまた会おうよ。まだいろいろと話し合わなきゃならないこともいっぱいあるし。…ていうか次の連休あたり、東京とこことの中間地点とかで落ち合わない?旅行みたいにさ、どこか泊まってゆっくりしようよ。そんなの駄目?」
「…ああ」
わたしの申し出の内容がじわりと頭に入ってきたらしく、吉村の頬がほんのり紅潮し始めた。
「それは。…いいけど、俺はもちろん。直織はいいの。大丈夫?」
泊まるってことは、だよね。と内心で考えてるのがありありだが慎み深く口にはしない。吉村がこの手のことには控えめだからこっちが積極的にならざるを得なさそう。と半ば諦め混じりに覚悟しつつ、わたしは素直に頷いた。
「うん。だってわたしたち、これで正式に付き合うってことでいいんでしょ。だったら週末や連休に時間作って一緒に過ごすのも、二人でどこかに泊まるのも。もう誰に憚ることもない、普通のことじゃない?」
お互い大人なんだし、堂々としてようよ。と提案すると、やつは目を見張ってぶんぶん。と勢いよく何度も頷いてみせた。
「わかった。…そうしよう。だよね、俺たち。もう付き合ってる同士になったってことだもんな」
こそこそする必要ない、堂々としてていいんだ。と自分に言い聞かせるように独りごちてる。表情はどちらかというとぼんやり茫漠としてるのに、目の輝きのせいか何処かいきいきとして見える。
今のわたしもこんな風に湧き立つ感情が外に溢れてるのかな。と思ってつい微笑ましく見惚れてると、不意に意を決したかのように急に顔つきを引き締めた吉村が、運転席からぐっと身を乗り出して長い腕をこちらに伸ばしてきた。
あっという間もなくその手のひらがわたしの頭の後ろに添えられて引き寄せられる。さっきとは較べものにならないくらい、しっかりと唇が重ねられてわたしに開いて受け入れるよう、強く促してきた。
ためらってる時間もない。もうだいぶ遅いし…と諦め混じりに従うと、これまで抑えめで弱気だったのが嘘みたいに激しく求めてくる。
うわぁ本物のキスってこんな感じかぁ。何だか漠然とイメージしてたのと全然違う。と戸惑いながらされるがままに舌を絡め合ってると。
…何だか心と身体が変な感じになってきた。こんなの全く想定外だ。思ってたのと違うじゃないか。
男の人と舌なんか絡めても何がいいんだか、全然そんなのしたいと思わないな。とずっと掛け値なしにそう思ってたのに。
好きな人に深く求められると、身体のあちこち微妙なところに熱い火が灯ったみたいで。普段は意識もしないところが疼いて変に焦れ焦れしちゃう。…ああ、こんなの。身体が保たないよ…。
「…、んっ、はぁ…っ」
何とか唇をもぎ離し、肩で大きく息をつく。吉村はまだ終わりたくない。といった顔つきありありで離れられて辛そうな様子を見せたが、それでも火照ったわたしの表情を見てふと愛おしさが込み上げた。とでもいうように優しい目つきになり、わたしの腕をとってそっと引き寄せた。
「好き。…直織…」
「わ、たしも。…好き」
運転席と助手席で、かなり窮屈な無理な姿勢で身を寄せ合って抱き合った。
しんみりしたいい雰囲気になったが、それでも身体の芯の火照りがどうにも収まらない。やっぱりこのまま家には寄らず、今からでも二人きりになれるところに連れてって。と勢いに任せて思いきって言うべきか、と悩み始めたところで玄関の奥から何だか慌ただしい気配と声が。
あれー直織、もしかしてもう着いてる?大智くんにも上がってもらいなさいよ!とドアの内側から母の声がして、鍵をがちゃりと開ける音がした瞬間。わたしは急いで吉村の腕の中からすり抜け出た。全く、ゆっくりと余韻に浸る隙もありゃしない。
今行くから!と車の中から怒鳴り、再び片手で吉村の熱い頬に軽く触れて早口で囁く。
「そしたら、今度の連休。絶対予定空けてね。旅行行くから、二人で。そこで続き…」
「うん」
もう一度ひしと抱き合いたいのを我慢して、後ろ髪を引かれる思いで車から降りた。
ここで母がしゃしゃり出て来たらこの雰囲気が台無しだ。速足で門をくぐり、玄関から心配そうに顔を覗かせてる母に笑顔を見せる一方で背後の吉村に向けてさっさと遠慮なく車出せ。と手振りで示した。
「あ、大智くん帰らせちゃった。いいの、こんな遅くに迎えに来させといて。何のお構いもしないで…」
「いいんだよ明日早いんだし。お礼はまた、改めてちゃんとしとくから」
そう、今度の連休。連休には二人っきりでゆっくり会える。
彼氏彼女になるとそういうとこがいいなぁ。会うために名目とか要らないもんね、ただ会いたいから会うだけ。何でもっと早く告白して付き合わなかったんだろ、わたしも吉村も。何年間も損した気分だ。
とにかく早くお風呂入んなさい、ご飯は食べたの?と矢継ぎ早に尋ねてくる母に、だからシャワーだけでいいって言ったのに…と返しながら。
次の吉村との逢瀬への期待と仄かな恐れ、新しいことが今日から始まったというわくわく感。そしてぱあっと花が明るく咲き乱れたような脳内の端っこに微かに澱むどよんとした憂鬱を感じてた。
吉村はこれでいいけど、帰ったら今度は名越と話さなきゃならない。
この顛末をどんな風に伝えたらいいんだ。あいつが笑って祝福してくれるとは思わないけど、怒ったり暴れたりするとも思えない。どういう反応が返ってくるか全く読めないのも不安だなぁという思いがありつつも。今夜くらいはこの幸せに浸っていたい、と願ったわたしはそっと名越についての心配を包んでしまい、見えない意識の外へと追いやった。
《最終章に続く》
この話のテーマは二つあって、そのうちの一つは地元に残る者と出て行く者です。
別に地方とか田舎に限らず生まれた土地を離れていく人と残る人がいて、なんかそれは生来ある程度決まってる気がする。
出て行く側はあそこにずっと残って住んでるの、不満はないのかなとか。外に出てみたいと思わないのかなとつい考えちゃうけど、もちろんそれが当たり前で気にならない人も普通にいると思う。
現実ならそういう者同士の間には自然と生じた溝があって、だんだん接点がなくなるけど。その二人が生まれたときからそばにいて成長するに従いお互いに恋愛感情を抱いたらどうなるのかな、というのを書いてみたかったんです。自分はどう考えても出て行く側なので、残る側の気持ちってどうなんだろうとか。
実際ならどっちかが我慢して合わせるしか方法がないだろうけど、それぞれが折り合ってちょうどいい塩梅で調整点を見つけていければいいなと。この二人の未来についてはそんな風に考えています。




