第28章 名越の胸のうち
名越と主人公のやり取り、書いてて楽しいです。ずーっと書いてられる。
「…えーと、とにかく。まずは落ち着こうか。お互いに」
ほとんど意味のないことを口にしてる。という自覚はあった。
だけど、ここでじっと難しい顔して黙り込んでても事態が好転するって展望もないし。実はあまりのことに脳が上手く機能してなくて、状況を充分理解できてない。なんて、今ここで表に出すわけにはいかない。
落ち着け、向こうのペースに巻き込まれるな。冷静に対処すればきっとこの場を切り抜けられるはずだ。これまでだって、いろいろと予想外のことはあったけど。どんなことでも大体そうやって何とかなってきた。
すっかり冷めてしまった残りの紅茶を飲み干そうとして、口許まで運んでからとっくにカップが空だったことに気づく。名越がキッチンに立ってポットにお湯を補充しに行ってくれた。
その背中を見送り、ふぅ。とこっそりため息をついて肩の力を抜く。やれやれ、本当に何て日だ。
ついさっきまで個展が無事に終わってお疲れさまでした!って美味しいご飯食べて浮かれてたのになぁ。
こんなわけのわからない、面倒くさい話になるとは思わなかった。どうして名越は急にここまでとち狂ったこと言い出したんだろうか?
…あ。いや待てよ、そうか。とわたしの頭の中にそのとき閃いた光。ああ、ようやく理解。なるほどね。
やはりちゃんと理由はあった。腑に落ちた気がしてわたしは一旦気を取り直し、キッチンから熱々のポットを携えて戻ってくる名越とのやり取りに備えて腹を据える。
「…わかったよ。つまりあんたは、わたしの描く絵が好きだから。その作者であるわたしを丸ごと自分の所有物にして一生そばに置きたい。絵さえ描いててくれれば他は何も要らない、そういうことなんでしょ?」
つまり、金の卵を産む鵞鳥を死ぬまで飼い殺しにして生まれた卵を独占したい。そう言われればわかりやすいし、まあ名越ならそう考えるよね。と納得もいく。
わたし本体がどうでも、そこから産み出されるものの価値には大いに関心がある。だから母体である鵞鳥そのものも大事だって気持ちになるし大切に生涯かけて慈しんでいきたい。ってなるわけだ、それが恋かどうかはかなり怪しいが。
そのためだけに戸籍を弄っても構わないってのは普通に考えたらいかれてるけど、こいつならそんなの犠牲とも思わないだろうな。どうせ紙の上のことだし、と割り切ってそう。
名越のお家の皆さんがそれで承知するかはまた別の話だけどね。ただでさえ資産のある家庭だから、長男にたかる気満々の(わたしはそんなこと考えてないけど…。現象だけ見れば、絵描きとして活動するために貢がせる目的で結婚するわけだから。ご両親からは財産目当てとしか思われないだろう)形ばかりの名義の上での嫁なんて、まあ受け入れられないと思うが。
そういうことなら論破できる。と自信を取り戻し、わたしは活き活きとなって喋り出した。
「わたしの描く絵が好きだからわたしを好き、と言われてもね。…名越は人の心があんまりないから知らないだろうけど。誰かを好きになるってそういうもんじゃないわけだよ、一般に。牛乳めちゃめちゃ好きだから牛と結婚しようとは思わないじゃん。バナナ好きだからバナナの木と結婚するやついる?」
「…笹谷が今出した事例は間違ってる。牛乳やバナナはここで持ち出すのに適切な例じゃないよ」
真顔でそう言ってポットをことりと置く。ふん、また何か詭弁を並べ立てて煙に巻く気だな。ごまかされないぞ。
香り高い紅茶が惜しみなくわたしの前のカップに注がれる。この香り、単にお湯を注ぎ足しただけじゃなくしっかり葉っぱを新しく替えたな。
「例えば。米津○師がさ…」
「また○津?」
本当に米○好きだなお前!まあ、わたしも。そりゃ好きだけど。
紅茶のお代わりを注ぎ終えた名越はわたしの向かいの席に座り直し、改まった顔つきでテーブルの上に載せた両手を軽く組んだ。
「仮の話として、笹谷が米津玄○と出会って本人をめちゃめちゃ好きになったとする。その場合、彼の作った曲やあの声と歌唱力を彼本人の人格と分けて考えられる?あの歌は全て○津自身の一部というか。骨肉というかむしろ本質じゃない?」
うーん。
「わたしが米○と出会って恋に落ちる、って設定がそもそもね…」
もぞもぞと突っ込みを入れるが先方はそんなのまるで頓着していない。その方が説得力が増すとでも思ったのか、さらに上乗せでどんどん畳みかけてくる。
「例えば、大○翔平を好きになったら野球の才能と彼自身を分けて考えられる?村上○樹がデビューする前の若いときじゃなく、小説を書くようになってから知り合って好きになったら作品と本人とを厳密には分けられないだろ。『○。』の作者ともし仮に…」
『○。』はさすがに伏せるとこなさ過ぎじゃね?
「…わかった、もう例えはいいから。その人の才能と人格は分かちがたく結びついてて別には考えられないっていうんでしょ。言いたいことはわかる気がするけど、そう言われてもだったら純粋にわたしのことを好きになってくれたってことだね!とは思わないですけど」
名越は名越なりに誠実なんだろうが、絵が好きだからこそわたし本人も好き。って部分は別にごまかしたり隠したりしないし。
こうなったらこっちも、前々からうっすら疑問に思ってたことをいい機会だからとずばり呈してみる。
「けどさ。もしもわたしが将来なんかの事故とか病気とかで、絵を描けなくなったらどうすんの?手に障害が出たり、何なら脳の機能とかで思うように描けなくなる可能性、この先いくらでもいっぱいありそうじゃん」
これは結婚なんか関係なく、前からちょっと気にはなってた。
「万が一、わたしの身にそういう事態が起きたとして。そしたら名越の好きになったわたしはもう存在しなくなるから気持ちも冷めるわけ?いやそれが悪いって言ってんじゃないよ。『大好き』な理由が抜けてなくなったら、それこそ後に残るのはただの抜け殻だもんね」
絵を描けなくなったわたし。物理的な原因でも精神的な理由からでもそんなの絶対起こらないっていう保証はない。そうなったら興味を失って、わたしをあっさり見捨てる?
実際にはこう見えて名越はそれなりに親切なところもあるから、いきなり手のひらを返したように冷たく突っ放したりはしないだろう。
身体を労ってメンタルを気遣って、ちゃんと心配はしてくれるに違いない。けど、描かなくなればそばにいる必要もなくなるのは確かなんだよね。
つきっきりでいても仕方ないから、わたしと名越の関係は遠ざかって離ればなれになるだろう。問題は、友達とかエージェントとの間柄ならそれで構わないが。
「一旦恋愛ってことにして結婚とかまでしちゃうと、こいつ描けなくなったからもう用ないな。とは世間的にもなかなか許されなくなっちゃうんじゃないかと思うけど。…本当にそれでいいの、あんたは?人生いつでも楽しく順調なことばっかじゃないよ」
名越はわたしの追及には動じず、やけに凛々しくきっぱりとした顔つきで真っ向からこちらを見据えて否定した。
「それはない。だって、俺にはわかるんだ。表に出てくる出てこないに関わらず、あんたのこの身体や頭脳の中にあの全ての絵の元になった世界が果てしなく広がってるんだ。言わばあんたの存在そのものが、そこにしかない唯一の世界に通じるどこでもドアなんだよ」
今度はまさかのド○えもんか…。
名越の顔は相変わらず至極真剣だが、その双眸にゆっくりと謎の異様な光が宿りはじめたのをなす術もなく、畏怖を持って見守る。
「手や身体に障害が残ったり精神的に描けなくなるって、つまりはそのドアが壊れたり鍵が回らなくなって二度とそっちの世界に行けなくなるのと同じじゃん。でもそれはただ行き来が閉ざされただけで。あんたの奥には依然としてあの素晴らしい素敵な、二つとない特別な世界が途方もない広がりで、永遠に在るんだってわかってる。だったら笹谷そのものがもうイコール絵画だから。絵も特別だけど、あんたも特別だよ。出力ができなくなったから価値がなくなるなんて俺は全然思わない」
だから、描こうが描くまいが常に丸ごと笹谷は俺にとっての大事な宝物だよ。と続けるやつの眼差しに迷いがなさ過ぎて。何をどう突っ込んでいいかも一瞬わからず、何も言葉が出てこない…。
「笹谷の心と身体、その何もかも全てが俺にとっては尊くて特別なんだ。証拠もあるよ、単に思い込みとかじゃない」
そうですか…。それでは、わたしが納得できるように今から証明していただければ。と。
「…俺があんたの存在を知ったのは。確か中学のとき。これ、前に言ったよね、確か」
「え?…ああ、祭りの立て看か。いやそれはまさに絵であって。わたし本人じゃないでしょ…」
突っ込んだけどやつは意に介さない。まあ、そうか。さっきからそもそもわたしの絵=わたし本人説で展開してるんだから。絵を初めて見たときが馴れ初めって考えか。
「そのあと、塾で別の中学に通ってたあいつ。何だっけ、あんたと同中のやつが体育祭の応援旗の写真を見せてくれて。ああこれ、同じ子が描いてるやつだってすぐにわかった。さり気なくそいつから訊き出して、あんたが受験しそうな高校を推測してさ。まあその男も結果的に同じ高校に来てた気がするけど。本筋には関係ないからそこはどうでもいいか…」
「え、と。確か『秋山』だよね。うちの中学から同じ高校に進んだ…」
名前をすっかり忘れられてる秋山に哀しき過去。そういえば、塾で知り合った子に鴨葱の応援旗の作者の名前を教えてもらったって言ってたな。そこからわたしの進路まで訊き出してたのはちょっと引くけど。
秋山も秋山だ。こいつがたちの悪いストーカーか何かだったら洒落になんないだろ。いやたちは悪くないけどストーカーはストーカーだな、ここまでの話で既にもう。
だけど名前と受験する高校名だけで顔立ちとか姿形までは知らないわけだから。この時点では少なくとも単純に絵だけのファンであって、わたし本人に恋愛的な関心を持つ余地はないよね。美人かぶすかもわからない状態なんだし。
とすると、こいつの中で感覚がバグって絵と作者が混沌として区別がつかないほどおかしくなったのは。一体どの辺の時期なんだ。
…美術室で一緒に絵を描いてたとき?いやそりゃ知り合ってから日が浅すぎる。
さすがにもっと、そばにいる期間が長くなってからだろう。お互いのことを何も知らないのに作品だけで好きも嫌いもないよな。いや名越に限ってそういう普通の常識が通用するかどうか。何なら一目で好きになったのはわたしの絵でした(花火の看板とカモネギ)。そしてあまりに絵が気に入ったからおまけの本体の性能はもう何でも許容できる。とかいうことだって…。
わたしのその想像は当たらずとも遠からずだった。けどもしかしたら想像よりもさらに、蜻蛉返り連発して結果的に明後日の方向へぶっ飛んでいってる。と言えるかも。
名越は何かを思い起こすように上目遣いに中空を見上げ、うっとりと話の先を続ける。
「…それで、待ちに待った高校の入学式。俺はずっとそわそわと周りの新入生を観察してた。この中に『笹谷直織』がいるんだ、どんな子だろうって。…忘れもしない校庭で、クラス分けの掲示の前。まるでそこに名前が大きく書いてでもあるように俺の目は一人の女の子に惹き寄せられたんだよ。…その瞬間理解した」
テーブルの上のやつの両手が、その台詞と同時に血の気が薄れるくらい力を込めてぎゅっと握り合わされる。
「ああ、この子だ。やっと会えた。…俺にこれまで知らなかった特別な世界を見せてくれる人。その横顔が、小柄な頭の天辺が、ちょっと面倒くさそうな眠そうな表情が。…配布された学校名の入った封筒を持つちっちゃな細い手も、柔らかそうな繊細な黒髪もその頬も耳も。全部が頭おかしくなるくらい魅力的だった。わかったんだ、俺はこの女の子と出会うために生まれてきた。初めて顔を合わせるよりずっと前からもう、恋に落ちてたんだって」
「…ふ。ぐぅ」
途中からわたしはやつの浮かされたようなその台詞を論理的に解釈するのを諦めた。正直何一つ突っ込みも入れたくないが、言葉にならない呻き声が思わず反射的に短く漏れるのは止められない。
まじで全然意味ある言葉として頭に入ってこない、謎の外国語で構成された呪文か何かみたいだが。
「…それって。わたしのこと言ってんの?他の誰かと間違えたんじゃない、そのとき?」
きらきらした超美人の子がたまたま横に立ったのを笹谷であってくれよ、と願望で錯覚したんでしょ。そのあとわたし本人を知ってから無理やり頭の中ですり替えて辻褄を合わせた。…てか、うん。きっとそうに違いない。
「クラス分けの掲示板?確かにそんなのあったけど。わたし、ろくにそこで立ち止まってなかったよ。一瞬さっと見てすぐに移動したと思う。そん時あんたが横にいたかどうかなんて。覚えてもいないよ」
「そっちは覚えてなくてもこっちは覚えてるから。笹谷はあの日、紺色のゴムでややポニテ気味に髪を上の方で一本にまとめてた。銀の細いヘアピンで右側だけに二本、前髪を留めてたよね?」
そのあと例の幼馴染みの男に声かけられて、組分けを先回りして教えられて今見ようとしてたのに!とちょっと不機嫌に返してたよ。と事細かに教えられて思わず黙る。
…そうだ、思い出した。掲示板の前に長くいなかったのはそれが理由だ。
自分の名前を見つけるより先に近づいてきた吉村から、直織は2組だったよ!残念、離れちゃったねーとにこにこ教えられて。
子どもの頃と変わらないその距離感に照れと苛つき混じりに、今自分で見ようと思ってたのに!とぶっきらぼうに返してしまった。本人のわたしもすっかり忘れてたのに、そんなこと。
「そのあと式典のときもずっとあんたのこと見てたよ。みんな内心はともあれ一応神妙な態度で校長だの学年主任だの在校生代表の言葉だの聞いてる素振りしてたのに、そこそこ退屈そうで微妙な、早く終わんないかなぁって顔してた。それがまた、外面を上手く作れない気まぐれな野生の仔猫みたいで。なんて可愛らしいんだ、って本当に心の底から。うっとりしちゃってさぁ…」
あ、ちなみに新入生代表は俺だったんだけど。あのときの様子からする時そんなの覚えてないよね、笹谷は。と当然といった顔つきで言われた。うん、それはおっしゃる通り。
「それがあんたと初めて会ったとき、って言えばそうなんだけど。俺からすると初対面からもう、あ、この子知ってる。って感覚だった。あの絵を描いた人物が今、ここにいるって誰にも教えられないでもわかったよ。あんたの同中のやつから外見のヒントももらってなかった。でも、一目でこれが笹谷直織だ、俺の好きな女の子だ。ってもう理解した。これってすごいことじゃない?」
…わたしは何とも言いようがなく、困り果てて首を縮めてぼそぼそと呟いた。
「すごい、っていうか。それが本当ならどっちかって言えば怖いというか。恐れを為す、というか…」
正直びびる。本当にそれが事実なのかな。まじで名越本人の中で無意識に時系列改竄されて、よりドラマチックにアレンジされてるんじゃないの?
名越はわたしの引き引きの反応に気を悪くした風もなく、夢見るような口ぶりで当時をさらに懐古する。
「…それからの毎日はもう、世界がぐるりと上下逆さまにひっくり返ったような気分だったね。これが恋か!ってずっと胸の内も頭の中も沸騰してたよ。けどこのままじゃあんたに認識してもらえそうもない、何とかして笹谷の視界に入らなきゃって真剣にあれこれ策を練ってさ。まずは姉をあの駅前のタワマンに住まわせて、俺もそれに乗じた形で同居してそこから通学して…」
「え。まる子の散歩係を言いつけられたんじゃなかったの?」
「まるみだってば。別に嘘じゃないよ、一緒に住みたいなら散歩くらい担当してよって言われたんだから。でもそれも楽しかった。ここがあの子の住んでる街か、何もかもが彼女に相応しく輝いて見えるなぁ。って思いながらまるみとあちこち歩き回って。あの海辺の街を」
ふわ、とわたしの脳裏にもありありと記憶が蘇った。
海浜公園で吉村にスケッチブックを見せてるとき、こいつがポメと一緒に遠巻きにこっちを見てたなぁ。
あのあと知り合ってからも、同じ高校だから何となく見覚えがあってこちらを気にしてたんだな。と解釈して済ませてたけど、実はあのとき既にもう謎に重い感情を抱いてわたしを見てたってことか。…いや怖。
「たまたま散歩中に笹谷に出会えたら最高にラッキー、校内の廊下ですれ違えば天にも昇る心地だったよ。でもやっぱりそれだけじゃ足りない、絶対にあんたのオンリーワンになりたかった。どうやって懐に入り込んで俺なしじゃいられない状態にしようかって、あれこれいろいろ考えたよ。結局夏休み明けになっちゃったよね、実際に行動を起こすのは」
駅の掲示板でポスターを剥がしてるあんたに出会したのは待ち伏せってわけじゃなくて偶然だよ、でもあれがきっかけで美術部に勧誘できたから。やっぱり運命ってあるんだと思ったよね、としみじみされても…。
お互い住んでるとこの最寄駅が共通なんだからそこまで運命的でもないだろ。しかも名越はわたしがそのポスターの作者だと最初から知ってて、そこを通るたびに必ず目をやってたんだろうから。偶然ちゃ偶然だけど、さすがに運命は言い過ぎなんじゃないかなぁ。
「そしたら、美術部に誘ったのはほとんどその場の思いつきってことか。けどまあ、結果的に今のこの状況に繋がったわけだから。それ自体はわたしにとってもありがたかったかも。その場では正直この人何がしたいんだ、わけわからんと思ってたけど」
そこでふと思い出した光景に思わず口を噤む。
あのとき、自分が描いた絵は覚えてる。今でも名越んちの地元の画廊に他の絵とまとめて預かってもらってるはずだ。
暗い画面の中、大樹の横で林檎を手にして立つ女の子の絵。名越がこれは売らない!と頑として二人展のときも非売品の但し書きを付けて展示してたっけ。
一方であのとき、慣れない油絵を手がけるわたしの横でサポートしながら手慰みにこいつが描いてた。あのスケッチブックの中身は…。
「ん?どしたの、笹谷?紅茶もっと飲む?」
それともクッキー食べる?と、ちょっと黙り込んだわたしを心配してか声をかけてくる名越。いやあんた、わたしに真剣な恋の告白してるんじゃないのかよ。目の前でクッキーぼりぼり食べてていいのか。
「さすがにそんな水分少ないもの、この状況で喉通らないよ…。ていうか、あのとき。…いや、いい」
確認するまでもない。あのとき交換に見せてもらったスケッチブック。
一冊丸ごと、最初から最後までびっちりと全てわたしがそこに描かれていた。初めて見るあの超絶技巧のデッサン力で、表情も仕草も体格も輪郭も。ほぼそのままだ、と本人も即座に確信するくらいあれは『わたし』だった。
こっちが描いてる間付き合いでこの場にいるけどよほど退屈だったんだな。目の前にそれしかないからひたすら同じものを描いて時間潰すしかなかったんだねぇ。とただ同情しか覚えなかったけど。…そうか。あれは、そういうことだったのか…。
なんだか話してるうちに時間差でじわじわと、こいつのとち狂った告白の内容が現実味を帯びて感じられてきた。あれもこれも、今思えば。そうだよね、好きだから。…ここまでしてくれてたんだよなとしか。あ、だけど。
「えーと…。あんまり確かめたくはないけど、だとしたらあんたがよく言ってた『本命がいる』って。もしかしてわたし?」
すごい自惚れ者の台詞みたいでうんざりする。自分の人生の中でこんなフレーズを口にする日が来るとは思わなかった。
名越は涼やかな目をこちらに向け、力強くきっぱりと頷く。
「もちろん。最初からそうだよ、高校に入ったときからね」
「そうですか…」
だったら前に、ここに押しかけてきた当時の名越の彼女に自信満々に開陳したわたしの説はやっぱり間違ってたってことか。
高校一年生の一学期にはまだわたしたちは知り合ってないんだから。少なくとも当時付き合ってた子に告げた、他にいるっていう本命その人がわたしであることはまずあり得ない。ってやつね。
こっちは未だ認識してなかった相手から、知り合う前に既に本命扱いされてたとかさすがに思うわけない。初対面以前にこいつが付き合ってた女の子たちに関しては知らんというか。それはわたしの責任じゃないよという気はするけど、でも。
「だとしたらさ。…何で本命が他にいるけどそれでもよければとか言って。取っ替え引っ替え自分は特に好きでもない女の子たちと付き合ってたの?いや別にわたしがそれを気にするとか嫌だって言ってるんじゃないよ、でも一般論としてさ」
正直、こっちはノーダメというか。名越が誰とどうしてようとどうでもいいんだけどね。でも、その女の子たちにとってはどうだったんだろうと思ってしまう。
「だってさ。当の本命の前で、自分の方は恋愛感情抱いてない女の子たちに遊びだけどそれでもいい?とか言って付き合ってるとこ見せて、それで好感度とか上がるわけないじゃん。てかわたしについてはそれで名越のことを軽蔑するとか嫌いになるとかいう関係性じゃなかったから、別に影響はなかったかもだけど。でも恋愛的にはこいつはないなとは正直思ったよ。だって普通に酷くないか、その女の子たちに対して?」
高校のときも大学のときも、ちょくちょく恨みがましい顔つきでわたしのとこに直談判にやってきた子たちがいたのを思い出す。あの様子だと、どう考えてもそこそこ恨み買ってるだろ。刺されなかったのが不思議なくらいだ。
その度にいつもわたしは全然関係ないのに巻き添え食らってばっかだなあと。…いや今思い起こすと、彼女らの嗅覚は間違ってなかったのか。正しく彼氏の本命を探り当ててたんだな。恋する女の直感てすごい。
とか、そんな場合じゃないのに改めて感心してるわたしの前で。名越はあーそれについてはね。と思い当たることが山ほどある、といった顔つきになり深いため息をついたかと思うと、急にがらりと口調が変わった。
「申し訳ないけどここでちょっと弁解させて。普通に考えると側から見たら鬼畜に思えるかも知らないけど。これには深ーいわけがあるんだ、それと。そうしなきゃいけないぎりぎりの切羽詰まった理由があったんだよ実は」
「…ふぅん?」
へえ、申し開きできる余地があるんですね?だったらとりあえずお聞きしましょう。まあ、無駄な足掻きだとは思うけど。
そのときの名越の顔はなかなか見ものではあった。打ち明け話の中身はというと。…まあ、とりあえず聞くしかない。
「最初の頃、高校ではそんなに深い意図はなかったんだ。ただあんたは俺にそういう気があると知ったらいきなり表情を強張らせて、問題無用でさあっと引いてどこかへ逃げてしまって二度と戻って来なさそうだったから」
「それは。…まあそうでしょうね」
駅のポスターの前で声かけられたときや、美術室で二人きりで何日も黙々と絵を描いてたときを思い出す。…あのときこいつがここまでわたしに重い執着を抱いてたと仮に知ったら。まあ、怖いわな。めちゃくちゃダッシュで逃げ出すとは思う。
「カモフラの彼女がいてもまあいいかな、くらいの感じだった。向こうから付き合ってくださいって言われたときにね。まさかそのまま、本命が別にいるんだけどそれでもよかったら…と正直に話したのにそれが通るとまでは。思ってなかったけど」
それで以後味を占めたというわけか。最初にそれでもいい、とあの彼女がすんなり受け入れたのが後々悪い影響与えたってことだな。とあのとき絡まれた相手の記憶を漠然と思い起こす。
まあ、こいつのことだから。ここであの子をスルーしてもそのうちどっかの時点で同じことに思い当たって、結果的にカモフラ彼女ルートに収束しそうな気もするが…。
「実際、他に彼女がいるおかげであんたは俺のことを警戒せずにそばにいるのを受け入れてくれた気がする。向こうから来ては気が済むと去っていく女の子たちを適当に流していくうちに気がついたんだ。…あの子たちのおかげであんたに余計な下心や邪な気持ちを向けなくて済む。いろいろとすっきりさせてもらえるからね、その辺の欲を」
うわぁ。
「言いたいことはまあ、理解した。…けどまじで。想像以上に最低…」
わたしは隠す気にもなれないほど堂々と、あからさまに露骨に引き引きにどん引きした。…えーと、つまり。
その彼女たちで定期的に欲情を『すっきり』させてたから、わたしといるときにむらむらせずに済んでた。…って話でしょ?うわぁ、自分は好きでもない女の子たちをそんな風に利用するなんて。
いやまじで女の敵過ぎる。
こっちが本気で引いてるのが伝わったらしく、さすがにさっきまでの平然とマイペースだった名越の語りが乱れた。必死に弁解しようと身を乗り出してる焦り顔がちょっと新鮮だな、とどうでもいい感慨がふと脳裏をよぎる。
「だって…、しょうがないだろ、女の子にはわかんないよこの気持ち。せっかく東京に出てきて寮のすぐ隣に大きめの部屋を確保して、ここで絵を描けばいいよ。何なら寝泊まりもできるよ、ずっとここにいてよって言いたいのに。…無理だよこんなに大好きな特別な女の子と、二人っきりで同じ空間にずっといて。どっかである程度適当に発散しないと、絶対頭おかしくなって何するか自分でもわかんない。無理むり無理、絶対」
「えー怖…。嘘でしょ?」
今日いちどん引きした。てか、ここまでは割と自分に関係ない話勝手にされてるくらいのテンションで客観的に聞き流せてたけど。リアルにホラーな話されてないか?
「え、だってあんたわたしに対してそういう目ぇ向けたこと一度もないじゃん。好きとは言ってるけど、異性同士としての好きは超越してるからそっちはぴくりとも反応しない。ってやつじゃないの?本気でどきどきするのは作品に対してだけで、わたしに感じてるのは仔猫可愛いみたいなほっこりした感情だけ。とかさぁ…」
「そんなわけないだろ。言ったじゃんさっき、俺の笹谷に対する気持ちはプラトニックとかじゃ全然ないんだよ。普通に…っていうか、普通以上に全部欲しいから。何もかもだよ、心も身体も才能も、過去も未来も。感情も関心も、あんたに関するものなら全て」
気後れして口ごもってたのが嘘のように、再びやつの双眸に異様な光が灯る。
「仔猫を可愛がるようになんて無理むり。そういうほんわりしたファンタジーな思いじゃないわけ、ちゃんと笹谷と何でもいろいろしたいから俺は。恋人同士になって結婚して、子どもだって作りたい。あ、あんたは身体を大事にして産んでくれるだけでいいよ。育てるのも世話するのも全部俺がやるから。あー可愛いだろうなぁ笹谷と俺の間に生まれた子ども。女の子がいいけど男の子でもきっと可愛いよね、あんたそっくりで口が悪くて言うこと絶対聞かなくて頑固でくそ生意気なんだろうなぁ」
…本当に好きなんか?お前わたしのこと。
しかし恋人同士になって、のところで事細かに要望を描写されずに一気に結婚して子ども生まれるとこまで飛んでまだよかった。あんまりリアルに〇〇したい、みたいなこと言葉にされたらテーブル越しに顔面に一発入れるとこだった。
てか、さあ。
「こっちは正直、名越のことをそういう目で見たことないし。そっちも完全にその気ないと確信してたからこうして二人で半同居みたいに暮らせてたけど。…さすがに無理だよ、もし今のがたちの悪い冗談じゃないなら。ここに泊まらせてもらうのも今日限りだな…」
ちょっと寂しい。いやそもそも、異性の同級生の部屋に勧められたからって泊まり込むなって。やっぱり油断し過ぎだったんだな、わたし。世の中に裏のない都合のいい話なんてそうそうないってことか。
しおしおと反省するわたしを、半身を乗り出したまま名越は両手を前に出して慌てて引き止める。
「いやだから…、それは大丈夫だから。ここまでの年月でがっちり理性鍛えてあるからさ。告白したからっていきなりやってOK!なんてけだものにならないよ。そこは安心して、俺を信じて。笹谷を傷つけることなんて絶対にしない、あんたの気持ちが俺を受け入れられるようになるまで頑張って待つから」
ここまで時間かけて信頼関係打ち立てたのに、一瞬の理性の暴走で台無しにするようなことできないよ!と力強く保証する。…うん、まあ。そう言われてもなぁ…。
「それでもこれまで通りとはもういかないでしょ。わたしの方だって、あんたがそういう意識があった上でセーブしてるんだって。知っちゃったらさ…」
なんかいろいろ申し訳ないよ。気楽なルームウェアでアトリエうろうろしたり、何も考えずにのんびりお風呂の浴槽で手脚伸ばしたりはもう出来ないもん。そこまで他人んちでリラックスしてたのがどうかしてるって言われればまあ。それはそうなんだけど。
その台詞で名越はまた我が意を得たり。とばかりにむんとなって勢いよくかき口説き始める。
「だからさ。笹谷ももう諦めて、ここら辺で手を打って俺と一緒になろうよ。冷静になって理性的に検討してみればわかるから。俺があんたの伴侶としては一番の最適解だってこと」
テーブル越しに伸ばして来た手が中空で中途半端に浮いてもだもだしてる。
多分、もしわたしがうんわかった。じゃあ、今からそういうことで。とでも言って受け入れでもしたら速攻こちらの手を取ろうと待ち構えてるのかな。と思ったら複雑な何とも言えない気持ちになってしまった。
その前のめり過ぎる勢いつきすぎな挙動はなんか最高に名越。解釈一致だなと納得がいくけど。それがわたしからの交際受け入れ待ちだっていうのが…。やっぱり未だに腑に落ちない。あまりに急転直下、いきなりの転換過ぎて。
「…だって考えてもみなよ。まず気が合う、お互いのことよく分かってて生活のペースが合うだろ」
少し冷静さを取り戻したのか、肩を引いて片肘をつきその手で指折り数え始めた。一緒になる利点を並べ立ててわたしを説得する作戦か。
「こんなに笹谷のこと理解してフォローできる人間男女問わず他にはいないよ。あんたの仕事も人生も何もかも支えられる。目指す職業のルートも分岐したから、これまでよりさらにもっと専業の作家になるあんたの助けになれるし」
おまけにこのタイミングで一緒にイギリス行くチャンスだよ?一人じゃなかなか思い切れないけど、俺がついててサポートしてあげれば何かと心強いだろ?いい機会だから世界見て回って制作の幅広げようよと、がんがん前向きにアピールしてくる勢いがすごい。
「う…、でも。まじで名越のことは、本気で気心の知れた男女関係ない友人だとばっかり。思ってたから…」
そっちは知らないけどわたしの方は、今んとこあんたを男として見られるイメージが全然違う湧かないんですが。…というか、恋愛の可能性ゼロな友達として考えないとそばにいられない。というおそらくは無意識の枷ががっちりと嵌りすぎてて。そう簡単には外せそうな気がしないんだよね。
「変な話だけど。そっちが仮に、わたしのことを異性のパートナーとして所望してるんだとしたらこっちはそういうわけでもないから。釣り合いが取れなくて申し訳ないよ。ちゃんとあんたのことを男の人として見てくれる女の子を伴侶として選んだ方が」
「いや、そういう子はもうたくさん見たから。俺はあんたじゃなきゃ嫌なの」
気が引けながらもぼそぼそと正直に打ち明けたけど、歯牙にもかけずきっぱりと断言された。
「俺は俺のことが好きな子より、自分がこの人!って決めた心の底から大好きなたった一人の女の子とだけ一緒にいたい。そのためなら何でもするし、笹谷が同じだけのものを返してくれなくても気にしないよ。あんたが俺のことをそういう意識で見てないのは知ってるし、だからこそここまで親しくなれたのもわかってるから。いきなり男として好きになってくれとか無理な我儘は言わないよ」
「え。…じゃあもしかして、結婚して以降も。これまでと同じにそういう欲望は外で解消し続けるっていうのを続けるとか…」
「いやさすがにそんなのないよ!結婚したら笹谷だけだから。全力で君だけだよ、一生一人だけしか愛さない」
『君』とか『愛』とかいう非日常ワードが、ぽんぽん次から次へと飛び出してきた。
「それに勘違いしてるみたいだけど。これまで身体の関係だけのために付き合ってきた子たちはほとんどまじで割り切った相手だけだからね?初期はそりゃ、女の子の台詞を信じて本命じゃなくても平気と言われればそうか、って受け入れてたけど。意外とそれが本音じゃない子もいるんだってだんだんわかってきてさ。おかげで何人か、あんたの方へ凸らせることになっちゃって。そこはまじで反省してるけど」
あ、また『あんた』に戻った。どうやら柄にもない愛の言葉を囁くときだけ『君』呼ばわりになるらしい。
「大学に入ってからはがちで遊びと割り切ってる子をちゃんと見極めて選んでたよ。何なら別に本命や彼氏がいる子も結構いたな。大人になると意外といるんだよ、女性でも恋愛とか度外視で割り切った身体の関係だけの相手が欲しいってタイプ」
「へぇ。…わかんね」
わたしの理解を超えてます。と、這々の体で首を縮めた。前から思ってたけど。想像以上に爛れてんなぁ、この男の周りの人間関係。
当惑を隠しもしないわたしにふ、と柔らかな視線を向けて微かに微笑む名越。まああんたはそうだろうね。とばかりに理解ある顔つきなのが何だか憎たらしい。
「うん、でもだからこそ。そういうのが楽しかったかっていうと、側から思うより大してよくないってことが身に沁みてわかったから。後腐れなくやりたい放題の遊びの女の子取っ替え引っ替えなんて、男の夢ってほど楽しくも何ともないよ、やってみればわかると思うけど」
やってみたくないです、絶対に。
何を思い出したのか重々しくれるため息をついたかと思うと、ぱあっと表情を輝かせてわたしを見た。あんなのはもう全部過去の話、それよりもここに輝かしい未来があるんだ。とでも言うように。
「…俺ね。もしもあんたが俺を選んでくれたら絶対に浮気しない自信ある。好きでもない女とのあれなんて虚無だよ、排泄だね。でも、笹谷だったらそれは天と地ほども違うよ」
「いやーそんな…。相手が誰でもすることは大体同じでしょ」
わたしとしてみて、あれ案外大したことないな?手に入ってみれば女なんてどれも違いとかないじゃんとかがっかりされてもな。と警戒して予防線を張る。こいつ、わたしに対して過度に夢見過ぎな気がするんだよね。
「笹谷だって他の女と変わんないなとか思われてもわたし、責任取れないし。あんまり期待されても困るんだけど。かえって怖いわ、そこまで持ち上げられると」
「俺の心配は必要ない。そこは絶対自信あるから。もうね、毎日笹谷の顔を見て一緒にご飯食べて絵を描いて、おやすみって寝るだけで。こんなに幸せなことってあるかなってしみじみ実感してるから。ここまで六年間、全然あんたがいることに飽き足りたりしてないから」
本当は毎晩同じベッドで寝て朝一緒に起きたいけど、それはもう少し我慢するよ。としたり顔で頷いてみせる。
「それより、笹谷はすることなんて誰でも同じって本気で考えてるならさ。むしろ俺でもいいじゃん?一般的に言ってまあまあ不快感の少ない方だと思うよ、俺?」
言葉尻を捉えられた。
「誰でもいいとは思わないけど…」
「まあそれは言い過ぎだけど。でも、誰か特定のめちゃめちゃしたい相手がいないんなら、条件で男を選んでもいいんじゃない?俺ってお買い得だと思うよまじで。なんたってそっちからの恋愛感情は必須じゃないし、まず」
それでいてこっちは百パーセントのべた惚れだよ?とまた指を折って数えてみせる。
「ただ、俺を無二のパートナー、相棒として認めてくれればいい。一緒に世界を股に掛けて美術で好き勝手に無双しよう。俺は君の絵を海外でも皆に見てもらえる出来うる限りの効果的な売り込み方を学んで、笹谷が一生好きな絵を好きなように描いてそれで暮らしていけるように頑張る。そして公私ともにずっと死ぬまでそばにいて、君の全てを満たせるようにベストを尽くすよ。俺に恋はしなくても、友情と家族愛と同志としての感情でやっぱりこいつが一番の相方だったって思ってもらえて。その選択を後悔させないって約束する」
口だけじゃなく、それを実現するだけの力もあると思うしね。と自信たっぷりに言い渡された。
「なんて言ってもコミュ力と財力、頭脳と咄嗟の対応力と美術鑑賞のセンスは並よりある方だと思うし。あんたの足りない部分を補佐して有り余るだろ?こんな条件のいい男絶対に他にはいないよ。あんたの例の幼馴染みにはあげられないものを全部、俺なら差し出せる。それはわかるだろ?」
…いきなりここで吉村の存在を持ち出され、軽くぶん殴られたような気分になった。
そうだ、吉村。…忘れてたわけじゃないし、滔々と流れ出る名越の申し出をさえぎるタイミングが掴めずただ聞いてただけで、別に心が動かされてたわけでもないが。
こいつの示す未来の中に吉村はいない。それは名越としたら当たり前のことかもしれないけど。
「わたしは…」
思わず反論しかけて黙り込んだ。…落ち着け、よく考えなきゃ。相手のペースに巻き込まれる必要はない。
わたしの将来の話だ。情に絆されて根負けして決めるなんて羽目にならないように。しっかりと足場を確保して、自分の立ち位置を定めないと。
「あいつは俺よりも昔からあんたを知ってるかもだけど。多分俺の方が、笹谷のことをより深く理解してると思うよ」
そう自分に言い聞かせてる隙に、名越は大真面目な顔つきでさらに上から畳みかけてくる。
そして不本意ながら、ちょっとだけその台詞が貫通してしまった。それは…。そうかも。
「あいつは親切で思いやりがあって、あんたを自由にさせて好きなことをやりなよって背中を押してくれてるだろ。それは悪くないムーブだと思うけど、多分あんたにしてあげられることはそこまでだ。それ以上笹谷の夢に伴走はできないだろ」
淡々とした物言いが、いかにも事実だ。という説得力をこちらに感じさせる。
「あんたは一人で美術の世界に歩み出て、そこで戦うことになる。あいつは何もわからずただ地元で待ってるだけだ。けど、俺なら一緒に横で並んで戦えるし。あんたの夢も望みも課題も辛さや厳しさや虚しさも、全部共有して理解してあげられる。一人で寂しく戦う羽目にはならないよ」
…ああ。言ってることわかる。
わたしはしみじみと納得した。今日いち、こいつの言ってる内容に説得されそう。そう、間違いない。吉村にわたしの孤独はわからない。
正確には、孤独であることは理解できても一緒に共有はできないんだ。吉村は離れたところではらはらしながらわたしを見守ってくれるだろう。でも、自分は戦いには出られない。美術の世界の住人ではないから。
もちろん吉村は吉村で自分の主戦場があって、逆にわたしはそっちについては何もできない。ただ大変だね、何かできることある?と共感や思いやりを示すことしかできないだろう。それと同じだ。
わたしと吉村とでは戦ってる場所が違う。でもそれは、ほとんどのカップルや夫婦も友人同士もみんなそうなんだと思う。お互いの仕事や宿命については共有できない、立ち入れない領域がある。
それが自分となら違うだろ?何もかもを共有して分け合えるじゃないか、っていうのが名越の言い分なわけだ。まあ、客観的に言ってそれ自体はそうだな。
高校の美術部にほぼ強制的に入部させられて以来、わたしたちはずっと並んで走ってきた。
他人に絵を評価される厳しさや虚しさも、誰かに認められた幸福や充実感も。難しい状況を切り拓いてより多くの人の目に留まる努力も、少しずつ理解者が増えて夢に近づいていく達成感ややり甲斐も。
何もかもをほとんど一緒に味わってきたし、わたしの苦しみや焦りや不安を自分のことのように分け合ってくれていた。それは名越の優しさもあるし、本人に言わせればわたしのことを好きだからでもあるんだろう。
だけど、一番の理由は美術っていう主戦場が共通してたからだ。これは吉村には絶対に理解できない範疇だと思う。
…それは事実なのはすごくよくわかる。一方で、だから何?という納得いかない気持ちも胸の奥で燻り始めた。
「…何もかも。理解し合えて共有できなければ付き合ってもしょうがないの?」
低い声でぼそぼそと反撃を始めるわたし。名越は軽く眉を上げて、また何か言い始めたな。といった顔つきで余裕ありげに受け応えた。
どうせ笹谷が多少じたばたしてもまあまあ理屈で説得できる、とでも考えてるな。ふん、相変わらず舐めくさったやつだ。
「そんなことは言ってないよ。てか現実にそこまでいろんな事柄を共有してる同志みたいな組み合わせの方がレアだとは思うしね。仕事も職場も専門も、全然別の夫婦や恋人なんて普通にいっぱいいるし」
でも、あんたに関しては。せっかくここまで好条件の男がいるんだから手放すのは勿体ないんじゃないの?って言ってるだけだよ、といかにもな親切顔でアドバイスされた。
「あんたのあの幼馴染み。一見何でも受け入れてくれてくれて夢の理解者って感じで、上京に反対もしないし絵で食べてなんかいけるわけないよとかも言わないし。笹谷からすればこんな優しい人はいないって思えてるのかもしれないけどさ。いっつもにこにこしてて嫌なことも言わないし、俺みたいにいけすかない性格でもないしな」
褒めてるようでちゃんと皮肉に聞こえる不思議。口調と表情のせいかな、これって悪口言おうとしてるよね…とじわじわと伝わってくるのは何故だ。
名越はやけに断定的に、きっぱりと吉村についてさらに強い口振りで決めつけた。
「だけど断言するよ、あいつは笹谷について実は何もわかってない。物分かりいい顔して見せてるだけなんだ。それにこんなに長いこと離れてても特に文句も言わないし、自分も上京してこっちに住もうともしないんだろ?俺なら六年も笹谷と離れて暮らすなんて絶対に考えられないから。…いや実はもう既に別の女がいるのかもよ?あるいはあんたは最初から恋愛対象じゃなくてただの幼馴染みでしかなくて。本当に心底から遠くで頑張れー、って応援してくれてるだけなのかもな」
くどくどと続く吉村についての偏見や決めつけを聞き流してるうちに。さっきから感じてた微妙な違和感が胸の内でむくむくと膨れ上がり、やがて形をとって口から言葉になって出てきた。
「…本当に。あいつのことよく見てたんだね、実は」
「え?」
気持ちよく喋ってたところに唐突に変な突っ込みが入って当惑したのか。名越は言葉を切って不審げな顔つきでわたしを見た。
でも、そう。おかげで不意に思い出したんだ、ずっと前から続いてる名越と吉村の間の何とも言えないあの距離感を。
高校二年のとき、こいつと吉村は同じHRのクラスになった。だけど二人が親しげに会話してるところをわたしはほとんど見たことがない。
ぎりぎり、同じクラスになって間もない体育祭の頃くらいかな。すれ違いざまに挨拶を交わしてるのを見た記憶がある。だけどほぼそれっきり、修学旅行のときには同じクラスで固まってる集団の中にいたのに。それぞれ別々の相手と話していて、目線を合わせようともしなかった。
地元の画廊で二人展やったときも、東京での個展でも。地元に帰省するとき駅でかち合いそうなタイミングでも。もう不自然に思えるくらいどちらもするりと場を外して、なるべく顔を合わせないように気を遣って動いてるとしか思えなかった。でも、二人がそこまで仲が悪くなるような理由も思いつかなくて。
ごく稀にふとすれ違うようなときには、ああ。とかおお。くらいの短い声は出し合うので、存在は認識してるわけだしいきなり睨み合うほどいがみあってるわけでもない。一体この気まずい空気感は何なんだろうな、とずっと不思議に感じてた。
今、皮肉たっぷりに吉村を遠回しにディスってる名越を見てようやく理解した。
相手が眼中にないわけでも、自分に関わりないからつい存在を忘れちゃってるってわけでもない。というか、こっちが側から見てて想像してたよりもめちゃくちゃ意識してたんじゃん、こいつ吉村を。
それを改めて確認できて、ようやくその辺のもやもやがすっきりした。名越はわたしが好きだからこそ、吉村といういかにも将来を約束された立ち位置の幼馴染みの存在がずっと気に入らなかったんだな。
それは絶対に後から自分がなれないものだから。物心ついたばかりの頃のお互いにまつわる微かな記憶、言葉を覚えるより先に染みついてた相手に対する絶対的な安心感。
届かないものだからこそ、そんなのはつまらないし大した代物じゃない。それより美術っていう大きなステージで二人一緒に動けることの方が大事だし、あいつには絶対このポジションは無理だろ?とわたしを納得させようとした。
別に詭弁だとは思わない。それはそうだなぁ、と頷ける部分もある。
けどそれはそれとして内心で、無責任に面白いなぁと思ったのは。
名越みたいなそつのない、誰にも対しても余裕の態度しか見せないやつでも。認めたくない、視界に入れて認識するのも嫌。なんて感情あるんだなぁってこと。
それが発動する唯一の相手がよりによって平凡でお人好しでただひたすら穏やかな、あの人畜無害の吉村だってのも何だか意外だ。もっと強者で名越と対張るくらい高スペックな相手ならまだしも。
普通の基準で考えたら吉村が名越の敵になる、なんて全然思いつかない。スペックのバランスが取れないのもあるけど、そもそも吉村は他人に対して敵対的な態度を取ったりしないやつだし。
とにかく温厚で優しくて、誰に対してもにこにこ機嫌良く接する男なんだ。その吉村がよりによって、名越をあんな風に無視するところを見る羽目になるとは。…あれ?
「…どした?さっきから黙り込んで」
「ううん…」
さすがに名越が不審な顔をし始めた。あまりに長く生真面目な顔つきでじっと考えてるからさすがに不安になったらしい。
わたしは首を横に振り、大したことじゃないから気にしないで。と素振りで示してみせたあとさらに深く考え込む。まだもうちょっと、さらに深掘りしないといけないことがあるみたい。
今、脳内で微かにアラームが鳴ったんだ。
…そう。ここにヒントがある、とばかりに名越の過去の言動をまとめて思い返してみた。こいつがたった一人、よりにもよってわたしのただ一人の特別な友人である幼馴染みを避けてるように見えるのは何故だろうって。漠然と違和感を抱いてはいたけど深くは追及しなかった。
全然見当がつかないと思ってたけど、もしかしたらどこかで薄々、その理由に無意識下では勘づいてる部分もあったのかもしれないな。一方でまさか、そんなはずはないでしょ。と打ち消す気持ちの方がより強かったのかも。
「わたしのことが。…好きだったんだよね、つまりは。名越は」
「え?…うん、そう」
当惑しつつ素直に頷いてくれる。一体何考え込んでんの、笹谷?とこわごわと追加で質問することも忘れないが。
「しっ。…黙って」
あともう少しなんだ。大事なことを思い出しそう。
わたしは頭を抱えてじっとテーブルの上に突っ伏した。
そう、違和感があったのは名越にだけじゃない。吉村にもだ。
名越に負けず劣らず、あるいはそれ以上に吉村は他人をそれとなく無視するようなやつじゃない。穏やかで人が良いだけじゃなく、そもそもかなり社会性が高くて対人能力があるんだ。
好き嫌いを表に出して相手によって接し方を変えたりはしない。がきんちょの頃から両親の接客を見て育った、根っからの商売人の息子だよ?
だから二人がお互いを避け合ってるなんて、わたしの思い違いかなとずっと考えてた。どっちもそんなことする理由が一個も思い当たらなかったから。
だけど今日。わたしは名越が吉村を遠ざけて絶対に目を合わせない、慣れ合おうとしなかった理由を知った。
それはわたしを好きだったから。…本人の対人性能の問題じゃない。単純に気に食わなかったんだ、相手が。
だとしたら。…逆につまりあの温厚な吉村が唯一、意固地に視界に入れようとしなかった人間が。名越その人だったその意味って。
はっと思い立つと同時にわたしはその場に、椅子を背後に飛ばすようにして立ち上がっていた。
「今。…何時?」
「え?…あ、えーと」
自分のスマホを無意識に探して周りをきょろきょろ見回す名越。他人に問いかけておいて何だが、わたしはリビングの壁掛け時計の時間をこの前合わせたから。この表示がほぼ正しいって知ってる。
時間を確認し、それからテーブルの端にさっきから置きっ放しだった自分のスマホを引き寄せて乗り換え案内アプリを検索した。
「…まだぎり最終便に間に合いそうだね、新幹線の。急げば」
「は?何、この時間に。出かけるつもりなの?何でまたそこまで、急に」
明日にしなよ!もう遅いし、今から支度してたら間に合わないかもよ。とこっちの思考スピードについていけず珍しくおろおろする名越。わたしはさっさと自分の部屋へ戻り、手早く着替えてバッグとコートを引っ掴んでそのまま玄関へと向かう。
「ちょっと行ってくる。大丈夫、明日には帰ってくるから。午後から事務所に顔出さなきゃいけないし」
「いや。…こんな時間に一人で外出とか。どうしてもってんなら送るよ。車出そうか?」
自分も着替えてきた方がいいのか。でも目線を離すとわたしがその隙に出て行っちゃうんじゃ…と判断がつかなくて、わたわたしながら玄関まで追いかけてくる。ちょっと気の毒になり、わたしは靴を履きながら振り向いて説明した。
「今、駅まで急いで行けば東京発の今日の最終に間に合いそうなんだ。車はかえって時間読めないから、気持ちだけでいいよ。ここで待ってて、二度と帰ってこないとかはない。…確かめたいことがあるの」
「え、でも。女の子一人でこんな遅くに出るのは。やっぱ危ないよ」
「前から思ってたけど。すごく過保護だよね、名越って」
そう文句を言いながらも、何だかこれまでのあれこれがふっと脳裏をよぎって意外にも切なくなってしまった。
いつになく狼狽えきってて髪もぼさついた名越を眺め、自然と浮かんできた微笑みをやつに向ける。
「これはわたしの問題なんだ。…だから、これまでみたいに。名越に甘えて頼るわけにはいかないの」
意外な感情が不意に喉の奥から込み上げてきたのを悟られたくなくて、少しだけ横を向いて独りごちる。
「自分の足で。…歩いていかなきゃ。大事なことだから…」
これが最後ってことはない。けど、戻ってきたときにはもう以前のわたしたちには戻れないかもしれないな。
そんな思いが頭から消えない。萎えそうな気持ちを奮い立たせて、名越を安心させようと再び笑顔を作ってみせた。
「…大丈夫、向こうに着く前に新幹線の中から連絡して迎えにきてもらうから。ただ直接会って話するだけ。他は何もないよ、蜻蛉返りで帰ってくるからさ」
「…あいつんとこ行くんだ」
「うん」
心のどこかで時間を気にしつつも、ここで名越を一人にすることに心の痛みを感じなくもなくて。申し訳ない、ごめんね。と心の中で謝り倒しつつ何とかわかってもらおうとできるだけ言葉を尽くす。
「…やっぱり、このまま本人に確かめないでいろんなことを決めるのはよくないと思うんだ。もしかしたらあんたの言うことが正しくて、向こうはわたしのことをとっくに何とも思ってないかも。新しく好きなひとができて、今頃はもうその人との将来を考えてるかもしれないよね」
笑いながら口にした台詞が思いの外刺さって、ちくりと胸が痛んだ。それはそう、だけど。
「それでも自分で直に会って確かめたいの。ここで怖がってなあなあで蓋をしたら、将来どんなに幸せになってても絶対引きずるし、後悔する。わたし自身のこの手できちんと決着をつけて。退路を断たないとね」
「…俺といる方が幸せになれるって。わかってたとしても?」
やっぱりわかってるんだな、この人も。場合によってはこれで、わたしと一緒になる未来はもうやって来なくなるかもしれないってこと。
ごめん、と胸の中で何度も頭を下げながらわたしは極力さり気ない顔で答える。
「うん。…しょうがないよね、最初に選んだルートだから」
「…どのみち振られるかもしれないよ」
というか振られるんじゃないの、まあ間違いなくね。と付け加える負け惜しみの台詞が小憎らしい。でもまあ、許す。わたしがここまでにあんたにかけた迷惑の方が半端なくでかいからね。
「いいよ、それはもう織り込み済み。一回はっきり振られないと次のルートに行けないって決まってるんだから」
「…ここには戻って来るよね?」
「うん。仕事もアトリエも親友も、ぜんぶ変わらずこっちにあるわけだしね」
初めてこいつのことを『親友』って表現した。
名越はそれを耳にしてようやく目許を緩ませた。それからはっと我に返り、わたしの背中を押すように叱咤する。
「あ、ほら。遅れちゃうよ、電車。あんまりもたもたしてると送るよ、車で」
「あ。…ほんとだ、ありがと。名越」
靴をきちんと履いてとんとん、と爪先をつく。まじで時間ないなと思いながら、それでも後ろ髪を引かれて振り向いた。
考えるより先に手が伸びて、名越の頬に軽く触れた。
「そしたら、行ってくる。…勇気をくれてありがとね」
わたしの手が触れた途端、名越の目がきゅっと細まった。見たこともない初々しいやつの反応が新鮮すぎて、思わず破顔してしまいからかいの言葉が飛び出す。
「キスされると思った?…しないよ、ばーか」
「先に馬鹿って言った方が馬鹿だよ!」
半分くらい本気で怒ったその声を背中に浴びて、わたしは素早くドアをすり抜けて寒々しい夜の廊下へと速足で駆け出していった。
《第29章に続く》
名越のテーマソングはEVEの『シークレット彼女』です。実は最初の章からそうでした。
第一章に遡って最初から読み直したときにたまたま『ファイトソング』聴いてたら、結末まで書いたあとに改めて見るとしみじみするな。と感じてそう記しましたが、実際は初めから『シークレット彼女』聴きながら書いてました。
けどネタバレ感あるな…と考えてとりあえず伏せておいたので。もし最初の方を読み返す機会があったら是非。いやぁ、でもバレバレだよね!わからない方が鈍すぎじゃね?…ととりあえず主人公に突っ込まざるを得ない。まじで。




