第27章 一歩踏み出す勇気について。
主人公、あまりに進展を見せない幼馴染みとの仲にうだうだ悩むの図。ですがそんな風にのんびり悩んでる場合じゃない、かも…。
今になって思うと。結局わたしが大学生だった四年間が一番、吉村との関係が穏やかで充実してた期間だったなって気がする。
東京と地元とで離ればなれだったし。物理的な距離はあったしわたしにはしょっちゅう帰省するほどのお金の余裕もなかったから、直に会うのは夏休みと年末年始くらい。
それでも、ろくに会わない話さない中学や高校のときと違って普通の友達より一段上の関係って感じで。お互いを他の知り合いより優先するのは当たり前って暗黙の了解があった。
多分、最初に東京へ旅立つときの見送りで何となく二人いい雰囲気になったのがいけなかった、いや良かったのか。
あれでわたしは半ば告白を済ませたような気持ちになってたし、実際にあのとき以降は吉村のわたしへの接し方が明確に変わった気がする。
わたしの思い込みや一人合点てわけではなかったと思う。あのとき周りでやり取りを聞いてた友人連中も概ねそんな風に受け止めてたし。
用事はなくても小まめに連絡を取り合う仲って、やっぱりそういうことでしょ?とわたしは思ってたし。吉村もわたしを誰よりも優先してくれるようになったのがわかったから、もうこれで気持ちはほぼ通じ合ったんだ。とどこかですっかり安心していたのかも。
いつも連絡を取り合って、何でもない話を遠距離同士で交わして。お互い再会を心待ちにしていて駅のホームまで出迎えてもらい、帰りはぎりぎりの時間まで一緒にいて最後は見送られるのが習慣になってた。帰省中はほぼ毎日のように会ってるのが普通だったし、これって彼氏彼女の距離じゃね?…と、わたしが自然と思い上がるようになっていったとしても。無理のない状態だったと思うんだけどな。
好きだとか付き合ってくださいとか。いつか一緒になろうとか結婚を約束するだとか、はっきり言葉にした方がいいのかなと薄々感じてないこともなかった。
でも、わたしの方から言うのもなんだし。女から告白するのに抵抗あるとかそういう感覚はないけど、何となく吉村は今のままの方がいいと考えてるんじゃないか…っていう、謎の危惧があって。
彼氏彼女とか恋人って間柄じゃなくて、もう少し幼馴染み、友達でいたい。と吉村が考えてそうな気がして、こちらから何かを切り出したり、匂わせるのは気後れがした。どうしてあいつがそう思うのかは全く理解の外だったが。
ことを急ぎたくない、今この上なく上手くいっててこの状態が居心地いいからしばしの間現状維持でいたい。と願うことについてはちょっとは気持ちがわからないでもないし。
どうせ東京と地元で離れてる間は一緒に暮らせるわけでもない。もう少し決着を先延ばしにしたって、まあ別にいいんじゃない?…と鷹揚に構えるくらいの余裕が当時のわたしにはあった。
吉村が浮気するかも(いや、浮気はおかしいな。正式な彼氏彼女じゃないんだから、他に目が行く。とか別に好きな人ができる、だろう)とは何故だかあんまり思わなかった。他の女の子に夢中になる吉村がわたしには上手く想像ができなくて。
いつでもわたしのことを一番に考えてくれるはずだと無意識に自惚れてたのかも。言葉にするかしないかで何かがめちゃくちゃ変わるわけじゃない。お互いが誰よりも一番なら、どうせいつかは自然とそうなる日が遅かれ早かれやってくるはずなんだから。
焦ったり慌てたりする必要はない。それぞれが自分のことをしっかりやって、そのうち余裕ができたら改めて向き合って将来の話をすればいいんだ。
…そう、学生の頃は本気でそんな風に考えてた。今考えると能天気というか。つくづく楽天的だったなあと不思議な気持ちになる。
自信がなくなってきたのはいつくらいからだろう。
記憶にあるうちではおそらく、東京で就職するつもりなのを初めて打ち明けたときだったかな。
別にショックを受けたりがっかりして欲しかったわけじゃないけど。それでもあまりにも平然と事態を受け入れられたときにはえ、それだけ?と拍子抜けしたのを覚えてる。
さすがに泣いたり縋られたりするとまでは思ってなかったが、少なくとももっと重々しい反応が返ってくるかと考えてた。
だったらまだ店を継ぐまでは間があるから、わたしの仕事が軌道に乗るまでは一緒に向こうで暮らそうかとか(吉村は電気関係の資格を持ってて手に職のある状態だから、本気で東京で仕事を見つけようと思えばできるんじゃ…と勝手ながら当てにしてたとこもあった)。それは無理でもせめて、だったらいつかこっちに直織が戻ってくるまで何年でも待つよ。とかそういう話になるのかな、って。
あれからそろそろ三年近く経つ。けど未だに、わたしたちの間で将来の話が出たことはない。
もちろん好きだとか結婚しようも全く気配もなし。
連絡を取り合っても相変わらず、内容は本当に何でもない日常の他愛ないことばかりだ。大学の頃はそれでもよかったんだけど、さすがに最近になってからはそろそろもうちょっときちんと向き合って真面目な話とかもしない?…とこっちから振った方がいいのか。じわじわと不安になってきた。
いやそう思う気持ちがあるんだったら。うじうじ悩んでないで思いきって自分の方から口火を切って相手の真意を探ってみれば?…と、これを読んでる人に思われるのは大体想像できる。そりゃそう言うよね。逆にわたしが外側の人間で客観的な立場なら。間違いなく素直にそう考えるだろう。
…でも。ここまで来て、わたしは急に怖くなってしまったんだと思う。
卒業して二人とも社会人になり、別々の土地でそれぞれ仕事をして暮らしてる現状。
このまま放置してるとわたしたちの生活が同じ場所でクロスする未来はない。だからもしも将来一緒になりたい希望があるなら、話し合って互いに譲歩してどっちかの土地(あるいは、また別の土地)に揃って住む道筋を作らないと。今はまだ難しくても、いつか何年後かにでもいい。そうなりたいゴールはどこにあるか、そのためにそれぞれ何をすればいいか。
学生のときは茫漠としてた『この先』を、今のわたしたちは話し合って作っていかなきゃならない段階にあるんだ。もうずいぶん前からその階段は目の前に現れてる。
なのに、吉村はそこを目指そうとしない。学生を終えた時点で立ち止まったまま、目前にあるそれを見ないふりをしてるみたいにわたしには思える。
そう考えるとだんだん不自然に感じて、怖気づいてしまったんだと思う。
…あいつはそもそも、次のステップなんか目指す気は最初からなかったのでは?
特別扱いされてこれはもうすぐ恋仲になれそうな雰囲気じゃない?って勘違いしたのはわたしだけ。向こうはただ、一番仲のいい幼馴染みが慣れない土地で一人きりで頑張ってるのが可哀想だから、何くれとなく気を配って寂しい思いをしないようにずっと見守っててくれた。っていうつもりなだけだったんじゃないかな…。
そう気がついて改めて遡って答え合わせすると、あれもこれも何だかそんな風に思えてくるから不思議だ。これまで多少なりともわたしのことが好きだからでは?って思えてた言葉や行動や声色も仕草も、ただの博愛というか。誰にでも優しいあいつの一面が恋愛脳なわたしの目に特別に見えてただけ。というように思えてしまう…。
ていうか、気のせいじゃなくてそれが真実なんじゃないかな。と最近はかなり本気で考えてる。
東京で一人で健気に頑張る(ていうか、うーん。吉村はそう思ってるかもしれないが。実際にはかなり名越の存在におんぶと抱っこ…)わたしが気の毒で親身に寄り添ってあれこれと気遣っていたら。やがて大学卒業間近になったこっちが、わたしたち付き合ってるんだよね?就職で離れることになっちゃったけどこのあとどうする?みたいな重い女の空気をそれとなく醸し出してきた。
え、別にそういうつもりじゃなかった…と気づいたあいつが急に焦り出してもおかしくない。
いつまでもこのままじゃね、そろそろ籍入れる?とかわたしがいきなり切り出しかねない。気まずい状況になる前に、それとなく距離をとって連絡も間遠にして。自分たちはそういう仲じゃないんだよ、とわたしにもきちんとわかるように悟らせよう。
幸い、東京での仕事もそれなりに上手くいってるようだし。向こうでの知り合いも増えてそれほど寂しい思いをすることもなくなっただろう。自分が少しずつ手を放して離れていっても、もういい加減一人でやっていけるはず。
…ここ最近のあいつの距離の置き方がそんな風に思えてしょうがないんだよね。被害妄想とか疑心暗鬼とかじゃなく、大体そんな感じなんじゃないかなと受け取れる。極力冷静に客観的な目で見ても。
仕事の忙しさだけでは説明できないくらい、以前とは連絡の頻度が減ってる気がするし。少なくとも向こうからLINEが来る回数は全然少なくなったし、わたしから遠慮がちに送ったメッセージにも返信は来たり来なかったりだ。
でも。
だったらしょうがない、こっちも腹を括ってやつとは縁がなかった。お互い別々の道を自由に進みましょうとすぱっと割り切るには。吉村からのメッセージ、ほんとに以前と全く変わりない親身さと優しさに満ちてるんだよなぁ…。
今回もこれ。やっぱりわたしのつまらない近況なんて(本当に掛け値なしにつまらない!お昼に何食べたとか好きな漫画の新刊出たよとか、そんなんばっか)正直どうでもいいと思ってるんだろうな。いちいち返信するのも面倒だし気が重いなと思わせるのも悪いから、そろそろこっちからも連絡は控えた方が…と考え始めるくらいのタイミングでふと、この上なく優しい気遣いに溢れたメッセージが送られてくるんだよね。
そのせいで、本当にただ忙しかっただけなのかな。わたしからの連絡なんて欲しくないとまでは思ってないのかも…と再び確信がぐらついてしまい、結局何となく決意も有耶無耶になって元の木阿弥になる。…これを何度繰り返してきたことか。
社会人になって二年目、もうここまで来たら決定的に吉村を諦めて距離を置くべきか。それとも一度ははっきりと気持ちを告げて無理なら無理と結論を出して、玉砕して次へ行くべきか。わたしはここ何ヶ月も、もうずっとだらだらと迷い続けているのだった。
「…ふぅ」
今日も久しぶりながら、いつもわたしを大切に思ってるとしか思えない温かな言葉を降るように山ほどかけられて。やっぱり吉村のことをわざわざ諦めるのも変だよな、そもそも振られてないんだもん。と折れかけた気持ちが再びゆらりと頭をもたげてしまった。これでもう何回目だろう。
まだ付き合ってもいないんだし、二人とも忙しくなれば学生のときみたいに小まめにLINEできなくなるのは当たり前のことじゃんね?と自分を納得させて明かりを消し、ぬくぬくと布団にくるまってやや浮上した気分で目を閉じる。
わたしについては一昨年まで学生だったのは確かだが、吉村はその二年前にはとっくに社会人になってた。その頃はまだLINEも頻繁に送られてきてたし、暇さえあればお互い電話をかけ合ってたけど。
と考えるとわたしの方はともかく、向こうについては連絡が間遠になったのは社会人になったのが原因ってわけじゃないんじゃないかな…って微かな疑念については知らないふりをする。もう疑い始めたらきりがない。確証のないことに関してはこれ以上深く考えない方がいい。
それに、とやや落ち着いたせいで一気に猛然と襲ってきた眠気で意識朦朧になりかけながらさらに自分に言い聞かせる。
思えば別に、今の時点で無理に決着をつける必要なんてなくないか?…だってどうせ、ここで吉村への気持ちにけりをつけたとしても。
どうせわたしには、気を取り直して向かうべき『次』なんてそもそも全然当てがない。
…そうなんだよね。さっさと気持ちを切り替えて、せっかくの若い時期の年月を無駄にしないように先に進まなきゃとか言われても。吉村が駄目ならじゃあこの人と…っていう現実的な相手が、正直まるで思い当たらないのだ。悲しいことに。
一瞬ちょっと冷静になって目が覚めてしまい、うーん。と身体を丸めて考え込んだ。
しかし変な話だよね。これまで小中高大と、わたしが通ったのは全て共学。積極的に異性と関わってきたわけじゃないから今でも連絡のつく男の子の知り合いは多くはないが、ゼロじゃない。中でも大学ではサークルの友達も先輩後輩も、まあまあ男女半々くらいの比率だったし。クラスの男子とも接点はあった。
なのにこうして思い返しても、ちょっとでもわたしと恋愛の芽があった人物が一人も思い浮かばないとは。…さすがに虚しい。一応こう見えても、それなりにもう大人と言っていい年代の女ではあるし。
この歳になって彼氏いた歴もなく、思えばきちんと告白とかされたこともないかも。ちょっと天然記念物レベルでは…。
ごろりと仰向けになってはたりと手脚を両側に開き、大の字になった。うーん、でも。それは仕方ないというか、自分でもまあそりゃそうだよな。と納得しかないし。大体、本人が必要を感じてなかったからこそここまで来ちゃった…という感じもあるしな。
誰か男の子と付き合いたい、恋人が欲しい。と思ったことがなかった。生来そっちの欲求がかなり薄い方なのかもしれないが。
思い起こせば高校時代(というか、正確には美術予備校のとき)や大学のとき、ちょこっとだけ彼氏いないの?とか今んとこ作る気はない?と男の子から意味ありげに匂わされたこと自体はなくはなかった。あのときもしかして乗り気な空気を出してたら何かしら進展はあったのかも…と今になって思う。けど思い返してもそうなってれば良かった、とは別に感じないし。
もうあの頃には多分、意識してるかしてないかは別にしても。どのみち吉村しか可能性はなかったんだと思う。他の男の子が仮に匂わせじゃなくどストレートに告白してきてたとしても普通に断っただろうな。
だからこの話はここでお終いってことになる。
わたしは一旦天井に視線をやり、再び目を閉じた。
どうせ自分には吉村しかいない。好むと好まざるに関わらず、やつ以外の男の人と付き合うっていうルートは今は存在してないんだ。
だったら別にここで無理やり終わらせる意味もない。吉村がわたしのことを何と思ってたって、これまでと同じ生活を続けるだけだ。
…そのうち、青天の霹靂であいつが誰かと結婚することになった。とかいう知らせを受けることになるかもしれないな。でも仕方ない、それは向こうの自由だし。
自然な成り行きでわたし以外の女の子を好きになったり、その人と一生を共にしたいと考えることはそりゃ、あるだろう。その覚悟だけ持っとけば内心がどうあったってわたしの自由じゃないか?
まあ吉村がどうあれ、こちらがあと十年くらいずっと独身のままなのは確定な気がするし。仕事もまあまあ順調な上に忙しいし、余計なこと考えてる暇あったら一枚でも多く絵を完成させた方がいいんじゃないかな。
どうせわたしにはそれしかない。恋愛や結婚なんて、機会が巡ってきたら考えればいい程度のことで、わたしの人生にとってはただのおまけじゃん。
…と、自分で自分を諄々と論理立てて説き伏せたら何だか落ち着いてきた。
焦ったからって別に事態はなんも変わらないんだ、と考えたらようやく気持ちが本格的に軽くなり。わたしは広々としたベッドに接してる背中側からすうっと床下へと吸い込まれていくみたいに、ゆっくりと眠りに落ちていった。
結局、年明けに開催されたわたしの個展には吉村は顔を出さなかった。
仕事でどうしても都合がつかなくって。本当にごめんね、と平謝りされればもちろんううん、気にしないで。大丈夫だよと答えるしかない。
ていうか、絵を観るためだけにわざわざ休暇を使って東京へ来てほしいなんてただのこっちの我儘だし。
吉村がいないと差し支えが出るわけでもないから、全然大丈夫だというのは嘘じゃない。けどやっぱりな、という諦めのような寂しさはあった。
口では今でも頑張ってね、応援してるよと言ってはくれてるけど。実際のところ吉村は以前のようにはわたしの絵に関心を抱いてはいないんじゃないかな。
…高校一年の夏、海浜公園で描いてたら吉村がやってきて。頼まれてスケッチブックを見せたときの情景が脳裏に蘇る。
あのときの吉村は本当に心から、わたしの絵を好きだと言ってくれてた気がする。興味が薄れたのはわたしたちの関係が変化したせいか。それとも最近のわたしの絵、あの頃とは変わり過ぎなのかな…。
「ん?…どしたの、笹谷?なんか、元気なくないか。疲れた、さすがに?」
「え。…ううん、そんなことないよ」
今日は個展の最終日。観に来てくれたお客さんに挨拶して、絵を買ってくれた人にお礼を言って。
画廊のスタッフさんにも丁寧にお礼を済ませて今日のところはとりあえず引き上げた。明日は朝から撤収の予定だ。
出版社や一緒に仕事をしたことのある作者さんや、お得意先や事務所の所長から頂いた蘭の鉢植えなどをとりあえず乗るだけ車の後部に乗せて運ぶ。これやっぱり置き場はアトリエだよね。あそこなら陽当たりはいいし、と運転しながら機嫌よく喋ってた名越がふと考え込んでるわたしに気づいたようで、心配そうに声をかけてきた。
慌てて笑顔を作って応じる。てか、そんなに落ち込んでるつもりはなかったんだけどな。吉村来られないかもとは正直うっすら覚悟してたし。
ただ、そう。疲れた…うーん、それもそこまででもないかな。考えてみれば。
「わたしは言うほどなんもしてないし。充分な点数の絵を揃えたらあとは、全部名越と画廊の方たちにお任せだもん。展示のレイアウトもお客様対応も。みんなスタッフの人たちや名越が請け負ってくれてたし…」
あんなに何もかもやってもらってて疲れたとかばち当たるでしょ。と笑いに紛らわせてごまかす。
名越はわたしのその言葉を謙遜と受け取った風でもなく、まあ言われてみりゃそれはそう。と馬鹿正直に納得した顔を見せた。
「笹谷に前面に出てお客さんを捌けとか。ホスト役になって展示のコンセプトをみんなにわかりやすく説明して回れとか、そんなのこっちも期待してないもんな。そういうのは俺やスタッフに任せとけばいいんだから、特に表に出て顔を売る必要はないよね。逆に俺なら人前に出るのは得意だし、まあ表に出るのが裏方って。ちょっと逆転してるけど、言葉の概念が」
「ごめんね、対人能力ゴミのコミュ障で。愛想も可愛げもないし」
人前に出しても客もつかないもんね。外見でファンも釣れないし、奥に引っ込めてベールに包まれてる方がまだ人寄せになりそうなまである。
それはわかってるから、本人が一番。それにしても容赦なく現実を突きつけてくるよなと助手席で憮然となって腕組みしてると、違う違う。と前方から視線を外さず正面を向いたまま笑って否定する名越。
「そういう意味じゃないよ、あんたは自分で思ってるほどコミュ障でも何でもないし。ただ知らない人とやり取りするのが面倒なだけだろ。やろうと思えばやれるけど出来る限りやりたくない。ってだけじゃんか」
「いやそれじゃもっと悪くないか。さぼってるだけじゃない?」
やろうと思えば出来る、ってやっぱりばれてるのか…。そりゃそうだよな。大学でだって今の事務所でだって、名越のいないところでもまあ普通にやっていけてるわけだし。
名越はブレーキを踏んできゅ、と軽くタイヤを鳴らして信号で停車した。気軽な口調で適当に受け応える。
「でも得意で好きなわけじゃないんでしょ?だったらそんなの、息をするように何でもなくこなせる相方に任せりゃいいじゃん。人には向き不向きがあるんだから。逆に苦手なのに今日はよくやってくれてたよ、きちんと礼儀正しく挨拶もして回って好感度は稼げてたと思うし」
揶揄うような口振りだと思ったけどこれで労ってたのか。わたしは肩をすぼめてぼそぼそと呟く。
「一応、ありがとうと。言っとくけど…」
名越はこういう素直じゃないわたしの態度には慣れてるから。可愛げのない反応をまるで気にした様子もなく、平然と一人でさらに喋り続けてる。
「慣れてないことさせて悪かったと思うよ、そりゃ疲れるよね。でも最終日、ちゃんと作家自ら挨拶に出てきてくれてやっぱり助かった。謎の覆面作家のままだったら出てこないでもよかったけどね。もうそろそろ、あんたの本名も顔も場所によっては割れちゃってるから」
「まあ。…さほど本気で隠してもいないからね、最近は」
別の仕事してれば身元を完全に隠したままで活動してたかもだけど。デザイン事務所に所属してるし出版社や一般企業の依頼も受けてるし、広く顔を知られてるわけじゃなくても仕事で顔を見知ってる人も増えたからまあ、もはや隠しても無駄というか。
「意外と日常生活で困ることもないし、別にいいかなって。積極的に人前に顔を晒していくのはごめんだけど」
「そうだね、ほどほどでいいと思うよ。むしろがちがちに隠すとかえって世間の好奇心を煽るからね。今くらいがちょうどいいのかな…」
とりあえず、ほんとにお疲れ様。今日はとにかくゆっくり休もうか、とわたしの方を向いて柔らかな笑顔を見せる名越。
「もう時間も遅いから、家に帰って何か作るよ。外で打ち上げは撤収も終わらせてまた改めて落ち着いてからでいいよね」
冷蔵庫何があったかな、と弾む声で独りごちる。信号が青に変わり、静かな発進でゆっくりと走り出す車の動きを感じながらわたしはちょっと居住まいを正し、慌てて取り繕った。
「う…、ん。適当でいいよ。てかわたしよりあんたの方が疲れてるんじゃん?帰ってから作るの、大変じゃない?」
どこかで食べてくか、何か適当に買って帰ろうよ。と提案する声がいつも通りかどうか気になってしまう。
…びっくりした。どうしてか今、車を発進させる前に。こいつが手を上げてわたしの頭をぽんぽんするんじゃないかと思った。
どうしてそう感じたのかわからない。名越はわたしにそんなことしたことこれまで一回もないし。
むしろ手を触れたりは絶対にしないよう気を遣ってくれてるのを感じてる。成り行きの共同生活を続けるにあたって、わたしに警戒心を抱かせたり怖い思いをさせないよう気を配ってるんだ。だから変な目で見られたり不審な態度を取られたりしたことも全然ない。
もちろん、こっちもどうせ女として見られてはいないから…と油断せずにだらしない格好をしたり隙のある行動をしないよう気をつけてはいる。
だから、いくら優しく和らいだ眼差しをこちらに向けたからって。ここで不意にこいつが片手を上げてわたしの頭をぽんぽん。としてくるだなんて、そもそも思いつく方がおかしいんだが。
どうしてか反射的に、あっ頭撫でられる、と感じて身体が強張っちゃったんだよな。…でも、勘違いした方が恥ずかしい、こういうのは。絶対にこいつに察知されないようひたすらごまかして黙っていよう。
…でも。何でそんな風にイメージしちゃったんだろうか、今わたしは?
「自分で思ってるより。疲れてんのかなぁ…」
意識せずぽつりと独りごちると、名越は鬼の首でも取ったみたいに俄然同意してきた。
「そりゃそうだよ、当たり前だと思う。だって個展当日の対応なんかよりも一番大変なのは展示作品の制作に決まってるじゃん?ここ何ヶ月もずっと、仕事しながら合間に時間作ってこつこつと作品を仕上げてきたんだからさ…。何よりそれが一番大変だったと思うよ。しばらくは何もしなくていいから、家では。好きなだけ休んでいいよ、何でも俺がやるからさ」
思いきり甘やかしてあげるから。手始めに今日は家に帰ってディナーだな!と機嫌よくうきうきと言い放つ名越。いや、何言ってんの。またさっきより晩飯のレベルのハードル上げてるじゃん。
「普通に残り物でいいよ…。あとは乾麺があればうどんとか蕎麦とか。てか、ディナーなんて大袈裟ないもん作るなら手伝うからな?一人で作るとか言うなよ」
脅かすと、えーそんな大変なもの作らないよ。だから笹谷はまじで休んでてってば!と目を剥かれた。いやそこまでむきになって手伝いを拒む?わたし、そんなに邪魔に思われるほど料理下手か?
家に着いたらずんずんと名越はバスルームに入っていってお風呂の準備をし、わたしを問答無用で洗面所へと突っ込んだ。
「さ、まずは化粧落として汗を流してゆっくりして。その間に俺は食材チェックして、何が出来そうか考えとくから」
そう言われると確かにメイクは一刻も早く落としたくなる。どのみち交替で風呂には入るんだし、譲り合ってる暇があったらさっさと済ませて名越と代わった方が早い。
そう考えてありがたく先に入浴させてもらった。事実、自分で思ってたより気疲れして身体に力が入ってたのか。熱いお湯が沁み渡るほど気持ちよく、うっかりうとうとしそうなくらいリラックスできて助かった。
風呂から上がると、もう脱衣室に微かに料理のいい匂いが漂ってきてる。いや食材の在庫チェックするだけって言ってたじゃん!どうしてわたしが上がるまで待てないのか。そんなに長風呂してたはずもないのに。
しかも、この芳しい香りは。
「…あっ、やっぱり!ステーキじゃないかぁ。結局そんなちゃんとしたご飯…」
塩胡椒を効かせたいい牛肉のこんがり焼ける匂い。急ぎ足でキッチンに向かうと、もう既にダイニングテーブルの上には山盛りのカラフルなサラダと香ばしい香りのバゲットが盛られた籠が。
「…全然あり合わせでも何でもないよね。いいステーキ肉と新鮮な野菜、スープにぱりぱりのバゲット。こんな食材、たまたま冷蔵庫に揃ってるなんてことある?」
絶対最初から、帰って家で祝杯上げるつもりで用意してたでしょ。それをしれっと、冷蔵庫にあるもので何とかしようだなんて…。言うにこと欠いて格好つけが過ぎる。
さっぱり湯上がりのリラックスウェア姿で両手を腰に当てて立ちはだかるわたしを、名越はまあまあ。と気楽に笑って軽くいなした。
「本当に冷凍庫に放り込まれてたやつだから。手早く解凍してさっと焼いただけだよ、シンプルに。サラダは野菜を切って盛っただけだし、バゲットもスライスしただけ。…ね?何にも料理ってほどの料理はしてないでしょ?」
その説明の中に、肉と野菜とパンはいつ買い揃えたかは全然含まれてないよね?しれっと語るに落ちたな。
まあでも、その行動は善意からってのは疑う余地もない。疲れて帰ってくるであろうわたしを労うために事前に計画して準備してあったメニュー、っていうだけのことなんだ。別に不本意な仕打ちを騙し討ちで食らったわけではない。
そう気を取り直して、せめてもとカトラリーや食器を並べるのを手伝う。わたしが納得して現状を受け入れたと見て取り、名越はにっこりと笑ってキッチンの奥からワインの瓶を取り出してきた。もう絶対最初から、慰労会を家でやるためのパーフェクトな準備済ませてあったじゃん!
とりあえず、ダイニングテーブルに向かい合って乾杯。お疲れさまでしたぁと口々に言い合いつつ注ぎ交わしたワインをちびりと一口飲む。
「すごくわたしを気遣って用意してくれたディナーなのわかるし、気持ちはもちろんありがたいよ。でもさぁ、わたしも一緒に準備したかった。大体お疲れなのはわたしだけじゃなくない、そもそも?」
グラスを置くなり言いたいことが遠慮なく滔々と口から溢れ出す。我ながら可愛げないとは思う(素直にただ感謝すりゃいいのに…)。でもわたしのこういうとこに慣れ切ってる名越は、またか。という表情も見せず、機嫌よくにこにこと話に聞き入ってるだけだ。
「大体わたしの個展って言ってるけどさ。名越の絵だってちゃんと展示されてたじゃん?研究の合間に時間作って仕上げて間に合わせてたでしょ。なのにどうして二人展って標榜させてくれなかったのか…」
名越が乾杯したグラスの中身を飲み干してる隙にすわ、チャンス。とばかりにサラダを銘々皿に取り分けてどや!とやつの前に置く。全然さり気なくなくて笑っちゃうが、これくらいしないと名越の先回り世話焼きから仕事を横取りすることなどできない。
名越としては別にわたしに先回りされても特にこだわりとかはないらしく、やぁありがと。とあっさり礼を言って小皿を受け取り、愛想よく会話を受け流した。
「二人展っていうには展示作品の数が違いすぎるから。俺の絵、たったの三枚だよ。それもうち二枚は以前に大学で描いたやつだし。完全新作は一点だけだもん」
むぅ、そうなんだよ。
わたしに付き合ってアトリエで一緒に絵を描いてはくれたけど、すごく時間をかけて丁寧に一枚だけ。それでも久しぶりに名越が描いてるところを見られて、頼んだわたしとしてはそれなりに嬉しかったけどさ。
「だからもっとたくさん描いてくれればって…。まあ、でも仕方ないのか。院の論文仕上げなきゃいけなかったんだもんね。そんなときに絵を描いてくれとか頼む方も頼む方だよなぁ…。あ、でも。あの絵今日、売れそうだったよね。あれは結局決まったの?」
一転先ほどの出来事を思い出して機嫌がよくなるわたし。展示終了間近になって、じっと名越の新作の前に立って眺めてるお客さんを見つけて思わず近寄り
「この絵いいですよね。技術もすごいんですけど独特の透明な世界観で、いつまでも観てられるんですよ。飽きのこないさらっとした味があって、どこに飾っても不思議と馴染むので。本当お勧めですよ」
とか、まるで画廊のスタッフみたいに訳知り顔で売り込んでしまった。
その年配の男性はちょっとびっくりしたみたいだけど、あなたはsasarleyさんだよね?メインの自分の絵じゃなくてこちらの作者さんの作品を勧めてくるの面白いね。と笑顔で受け応えてくれた。
はい、この人わたしの長年の友人なんで。とこちらも笑って答えておいたけど、余計なことしちゃったかな。あのあと正規のスタッフを呼び寄せて絵の前で何か話し込んでたから、もしかして本当に買ってくれるのかな?と期待しちゃったんだよね。
名越は優雅な手つきでフォークを操り、器用にサラダを口許に運びながら何でもないことのようにさらっと流す。
「うん、とりあえず仮押さえしといてくれって言われたみたい。正式な売約は明日以降になるってさ。まあまだ決定じゃないからね。明日になったらまた気が変わるかもしれないし」
「えー、でも。…うん。売れるといいね」
あのお客さんずっと名越の絵観てたし絶対気に入ってたと思うよ。と言おうと思ったけど思いとどまった。祝福するのは正式に売約成立してからでいい。
でも、よかったなぁ。わたしの知ってる限りでは名越の絵が売れるのはこれが初だ。よかった、わたしだけの個展じゃなくて名越の作品も出したいって主張しておいて。こうやって結果がついてくることもあるんだな。
にこにこしながらレタスをぱりぱりと食んでいると、目を細めた名越に穏やかに突っ込まれた。
「上機嫌だな。笹谷って変だよね、自分の絵が売れたときより嬉しそうなの何で?」
「だって。名越の絵の良さがついに理解されたなと思ってさ。前から言ってたじゃんわたし。あんたの作品はもっと評価されなきゃおかしいって」
少なくとも、わたしの絵が売れるんならせめて同じくらいには人気出るべきだと思う。てか巧さレベルでは相変わらずぼろ負けだから。味で勝負だから、こっちは。
「あの人、すごい目立つとこにあの絵飾ってくれたらいいな。不特定多数の視界に入りやすいオフィスの壁とか店の中とかさ。あ、ビルの受付の背後の壁とかいいかもね。でそれがきっかけで、もっとあんたの絵が売れてさ。ゆくゆくは名越も作家になる道に繋がるといいよね」
わたしの能天気な見立てに浮かれる様子もなく、やつは素っ気なく首をすぼめてワイングラスを手に取った。
「いやぁそれは…。一枚売れたからってそう簡単にはね。ま、冷めないうちに食べて食べて。あ、どう脂身多い?取り除けた方がいいか?」
わたしが肉の脂身苦手なことを知ってるから、身を乗り出して尋ねてくる。もっとも話の流れ的にそれ以上自分の絵の話をするのを避けたようにも思えたが。
「大丈夫だよこのくらいの脂なら。端っこの方にほんのちょっとじゃん。他人に気ぃ遣うより自分も美味しく味わいなよ。あんたのお祝いでもあるんだよ、このディナーは」
もっともわたしは何にもしてないから、せめてあとでお皿を全部洗うからね!と意固地な顔つきできっぱり宣言する。名越はさすがに拒むに拒めない。と言いたげな表情で苦笑してみせた。
「そんな、あんたこそ気を遣う必要ないのに。今日くらいは主役でお姫様でいなよ」
いやいつもだよ。言葉遣いや言い方はぞんざいだけど、扱いは姫プだろ!自覚ないのか。
名越は名越で今回の個展の成果にご満悦らしく、目線を中空に彷徨わせてワイングラスを手にしみじみと呟く。
「今回はまたこれまでより一段と売約成立数も増えたし、いよいよもう一人前の作家って言っていいんじゃない?イラストの方のファンも結構観に来てくれて、そっちの仕事も順調だしね」
「うん。…まあ、ここまで来れたのも。どう考えてもわたし一人の力じゃないけどね…」
名越が自分のことのように喜んでくれるのはいつものことだけど。褒められるとなるとわたしが何もかも始めたことじゃないしな…といつもながらちょっと気が引けてしまう。
「自分一人だったら、東京行っても絵を描き続けようとか。SNSで作品をアップしたり二人展や個展をやるとかデザイン事務所に就職するとか、多分一つも思いついてないよ。仮に思ったとしてもできないし…。まあ、ほぼほぼあんたのおかげでしょ。わたしが誇ることじゃない」
ナイフで切った一切れをフォークで口に運ぶ。噛みしめるほどに肉の味がじゅわ、と口内に広がって美味しい。
わたしが謙遜するといつも、そんなことないよあんたの絵があってこそだから、実力でしょ。とフォローしてくれる名越だが、今日の反応は何故か少し違うようだ。
「そうか。…うん、そうだよな。俺のここまでのサポートもちゃんと意味があるというか。無駄じゃなかったと思ってはいるんだよね?笹谷も」
「何言ってんの。名越の存在が意味ないと思ったことなんて全然ないって」
どうかな。すごく正直なこと言えば、最初期の美術部に強制的に入れられた頃とか、何でこんな目に…と考えてたのは事実かも。
けどもう高校在学中には、こいつのやってること何のためにもなってないのにとはさすがに思ってはいなかったよ。何でここまでする?とはさすがに疑問に思ったけど。
名越はわたしの返答がお世辞じゃないと感じたらしく、深々と満足げに頷いた。
「そしたらこれからもさらに支えていくつもりだけど。ちょうどきりのいいところでそろそろ、俺たちどういうゴールを目指すのかとか。そのために今後何をするべきかとか、このあとちゃんと腹を割って話し合ってすり合わせをしよう。大丈夫、笹谷?疲れてない?」
「え、話するだけでしょ。別にいつでも全然いいよ」
ちぎったバゲットを手にしてきょとんとなる。
そうか、以前同じように『この先の話』をしたときに設定した目標が社会人になって初の個展開催だったもんね。
それが達成された今、また目的地とルートを設定し直さなきゃならない。それはわかるけど、まあ今後できることなんて。今と似たようなもんじゃない?
デザイン事務所での仕事の傍ら、個人でも依頼を受けてイラストを描く。プライベートの時間を使って少しずつこつこつと油画を描きため、ある程度たまったところで個展をやる。それを何度も繰り返して積み上げていくってことでよくないか?
他に何があるっていうの、と首を傾げてるわたしに名越は何となく言葉を濁して食事を続けるよう促した。
「うん。…まあ、いろいろ話すことあるから。とりあえず、今は落ち着いてゆっくり食べよう。食後にお茶でも淹れて静かに話そうよ」
紅茶とコーヒー、どっちがいい?と尋ねられる。
そういえばここに来た始めの頃は紅茶ばっかりだったな。わたしがコーヒー好きだと名越が知ってからだんだんコーヒーの割合が増え、今は半々くらいだ。
多分名越の家庭ではもともと紅茶で寛ぐのが自然な習慣だったんだろうなと思うと、久しぶりにポットでじっくり淹れた紅茶が飲みたいな。って気になり、素早く答えてしまった。
「紅茶!」
口にしてからあ、しまった。いつもの癖でまた何でも名越にやってもらう前提の会話になってる。と焦ったけど、向こうは何とも思ってないみたいでバゲットを両手でちぎりつつ悠然と頷いた。
「了解。…紅茶ね」
そんなわけで、名越が食後に慣れた手つきで優雅に紅茶を淹れてる間。わたしはシンクに山と積まれた食器を黙々と洗い続けることになった。いや別に嫌ではないけど。
ふぅ、お腹いっぱい。と独りごちて手を拭きながら香り高い湯気が溢れてるダイニングの方へと戻る。
名越は久しぶりに食器棚の奥の方からちょっと高級なカップとソーサーのセットを出してきて、テーブルの上に並べていた。
「なんか、久々だね。こうやってちゃんと揃いのセットで紅茶いただくの」
もう最近は、お客さんじゃなくて自分ち。って感覚が強すぎて。お茶飲むときもわざわざお洒落なブランドもののカップ&ソーサーなんて出してくる気にならず、使い慣れた銘々のマグカップどん!ってなりがちなんだよね。コーヒーどころか紅茶も緑茶も、下手するとマグで済ませてる。
ロイヤルコペンハーゲンの陶器がやたらとしっくりくる見映えの名越は、指を立てるでも気取った口の付け方をするでもないのにそこはかとなく育ちの良さを感じさせる仕草でカップを口許に運んだ。そして熱い紅茶をほんの少し味わったあと、穏やかな黒い瞳をまっすぐにこちらに向ける。
「…で、本題なんだけど。笹谷はこれからも俺がサポート続けてて構わない、それはそれなりに助かる。と考えてくれてるってことだよね」
俺がそばにこのままいてもいいってことだよね?と珍しく念を押してくる。そう正面から言われちゃうと。…と、こっちも僅かに用心深くなり、慎重に口にする言葉を推敲した。
「うー、ん。…わたしがよくてもあんたはなぁ。いつまでもここまで手取り足取り、痒いところに手が届くほど他人の世話なんかしてる場合じゃないでしょ。自分のキャリアもあるだろうし、院を卒業したあと何をやるかにもよるけど…」
そういえば、T美の大学院って何年制なんだっけ。今二年目だったから、下手するとそろそろ卒業なのでは。と急に話しながら思い当たった。てか少しは気を回せよわたし、相方の進路にも。
「院ってとりあえず二年で終わりなのか。だとしたらそのあとはどうする予定なの、またさらに大学に残る?オーバードクターとか」
「うちは最初の二年は前期博士課程だね。あと二年博士課程やるにはまた受験。けど、俺はそこまででいいかなって」
まるで深刻な気配もなく、自分ごとなのにけろりと名越はそう説明した。
「そうなの?だったら大学にはそれ以上残らないんだ。そしたら卒業後は何やるつもり?その内容によっては、わたしのサポートどころじゃないでしょ」
これまでは学生だから多少は余裕あるのかな…と考えて甘えてるところがあったかも。でも名越も本格的に何か仕事をするってことになったら、とてもじゃないけどこれ以上負担はかけられない。
ちょっと真剣に独り立ちも考えないと…と思わず眉根を寄せるわたしに、やつはいかにも大したことじゃない。と言いたげな様子であっさりと言い放った。
「うん、実は留学しようかなと思ってる。場所はロンドンかな。今んとこそのつもりで調整しててさ。てのは、もうあんたはうすうす感じてるかもだけど。俺はやっぱり、描く側からは一歩引いて別の道を行こうと思うんだ。具体的にいうと画商というか。ギャラリーの経営をやりたいんだよね」
「あ。…そうなんだ」
確かに、何となくここ数年のこいつの挙動を見てると制作に対する熱とか欲みたいなものがだいぶ薄まってるな…と感じなくはなかったかも。
ギャラリーなら、自分ちの企業グループ内に部門があるからそれを任せてもらう。って考えたら確実に就職先あるし。ご両親も力を入れてる分野を長男が継いでくれると知ったら安心だろう。全方向丸くおさまって言うことなし、みたいな話なんだろうけど。でも。
「そうかぁ…。前向きな選択なんだろうけど、やっぱ残念。わたしは名越の絵が本当に、好きだからさ…」
これでもう筆を置いちゃうのかな。と思うと少しがっかり。自分が描く仕事できてることの方がむしろ例外的で、美大出ててもアートと関係のない仕事に就くのは別に珍しくない。
そう考えれば名越の得意分野できちんと能力を活かした織を目指すわけだから、全然悪くない話だと思う。…でも。
「何となく、あんたとわたしはずっと並んで走り続けていくんだと思ってたのかも。本当に絵を描かなくなるなんて、正直あまり真面目に考えたことなかったのかな…。一時的にやる気なくしてるかなとは感じてたけど、何だかんだまた描いてくれるだろうと思ってたよ。今日も新規に買い手がつきそうだったし、本気でやればまだ続けられるんじゃない?」
我ながら未練がましい。と思いつつぐちぐち言わずにはいられない。やつはもうとっくに心の整理はついてる、といったやけに涼やかな目でわたしの方を真顔で見返した。
「うん、でももう決めたから。最後にあんたのおかげで初めて俺の絵が売れそうなのは、本当に嬉しかったしありがたかったよ。これで思い残すこともほとんどないかな。…あ、でも。これからも趣味では描くよもちろん。ていうか、本業にしないって決めたらむしろまた描きたくなってきたかも。なんかね、肩の荷が降りたっていうか。気持ちが軽くなって自由になれたような」
「あー…。なるほど」
わかるようなわかんないような。具体的な条件のある依頼はともかく、個人で描いてる絵は今でもわたしはなんも気にせず自由に気楽に描いてるからな…。
名越はふと口許を微かに緩めたかと思うと、改まった顔つきになりカップを皿の上に戻してこちらをまっすぐに見つめた。
「ここまで絵を描き続けてきていろんな複雑な思いもしたけど。結局あんたに救われたよ。ずっと周りや他人からの評価が気になって、揺らいだり俺が描く意味なんかあんのかなとめげたりしたこともあったけど、笹谷だけはいつも俺のそのままの絵が好きだって言ってくれた。他にそんな人、全然いなかったからさ…」
そうなのか。
「見解の相違だね。わたしが間違ってるとは思わないよ。たまたま名越の周りにわたしと同じ意見の人が少なめだっただけじゃない?」
そのせいでこいつが筆を折る羽目になったと思えば残念極まりないが。
「これからも描く気があるならまあ、いいよ。作家にならなきゃ意味がないなんてこと全然ない。てか、ゆっくりでもいいから描いたら見せてよ。その条件呑むならまあ、許す。職業選択の自由は誰にでも保証されるべきだし…」
それに、先を引き伸ばしてもいずれは大学院も卒業しなきゃならないわけだし。何か仕事をしなくちゃって考えたときに、画商とかギャラリーの経営ってすごく名越には合ってると思う。
こいつって、どこに行っても自然と場の中心になるような主人公資質のくせに。能力がサポート特化過ぎるというか、人の働きや物事が円滑に運ぶように要領よく手を回すのに心底長けてるんだよな。こんな派手な裏方タイプ、他には見たこともないよ。
そう考えると認めるのは悔しいが、本人が納得してる道なら祝福して送り出さなきゃいけないかな。とわたしは渋々ながら両腕を前で組み、ふん反り返るような威張った姿勢で先を続けた。
「そしたらこれからはだいぶ忙しくなるだろうけど、それでも出来るだけ描き続けてよ。誰からの評価も気にしないで思いきり自由に描ければ、それはあんたの心を安定させてくれると思うし。そういう意味では今までよりはいいのかもしれないね。作品もよくなるよ、きっと」
それで名越が覚醒してすごい絵がばんばん描けるようになって、これなら前よりもっと一般にも広く人気出そうなのに!ってなったらどうしよう。いや、人目につく場所に出すチャンスはいくらでもある。そもそも名越んちの家業が画廊なんだから。わたしの個展で一緒に展示してもいいしね。
そしたらまた作家になるルートも開けるかもしれないしなぁ。と夢広がるわたしにちょっと苦笑しつつ、名越はやんわりと釘を刺してきた。
「まあ、そう簡単にはいかないと思うよ。でもずっと教授や講師や他の学生たちの目に晒されて序列をつけられ続けてたのは想像以上にしんどかったな。いろいろ試したけどやっぱり、俺には俺のやり方でしか描けないなって悟ったよ」
「そうか…」
言葉の端々にいつになく重みがあって、わたしは何とも言えない気持ちになった。
わたしのことばっかり気遣ってもらってたけど、名越は名越でいろいろとしんどかったんだな。美大のことはわかんないし、で大して話も聞かず本人に任せっきりだった。
もっと何でも話して気楽になりなよとか促してやればよかったのか。いや、きっとこいつはわたしにその辺のことは話したくなかったんだ。
今ならうっすらとだけど理解できる気がする。こうしてさばさばした顔つきで打ち明けてるのは、本人の中でけりがついてすっきりした段階に入ったからなんだろう。自分で整理がついて一区切りするまでは、他人に触って欲しくはなかったんじゃないかな。
しんみりしたわたしの様子に気づいたのか。ちょっと生意気な顔つきでにっと笑って見せた余裕綽々の表情は、久しぶりに見るあのいけすかない名越の笑みだった。まあ、大して懐かしくはないけど。
「だからもしあんたがそのままの俺の絵が好きなら、これからはそういうのしか描かないから。笹谷が観て幸せになれるような絵を描くよ。それ以上はもう望まない」
けど、台詞の内容はしおらしい。わたしは肩をすくめ、俯いて紅茶の表面に目線を落としてぼそぼそとそれはどうも。と呟いた。
「だったら好きなように自由にしていいよ、楽しみにしてる。…あ、でもロンドンかぁ。イギリス留学ってことだよね、いつ行くの?よくは知らないけどギャラリーとかいっぱいあってオークション盛んな国ってイメージあるな。それで英国か」
まあ、名越にはぴったりって感じ。紅茶好きだし、お育ちのいいエスタブリッシュな良家のお坊ちゃんだし。
名越はその問いかけにやや真面目な顔つきになり、思案するように中空に目をやり首を傾げた。
「うーん、まだ準備始めたばっかりだから。早くても秋くらいかな?だからそれまでに身辺整理しておかないとね。向こうの受け入れ先は当てがあるんだよ、親父の伝手もあるし。せっかくだからスクール通うだけでなく本場のギャラリーで修行もさせてもらいたいからね…」
「そっかぁ。…秋ねぇ…」
まだ先じゃんとも言えるし、意外とすぐじゃないか?とも思える。わたしは何とも言えない気分で紅茶のカップに口をつけた。
いつの間にかこいつとこうして同じ家で過ごすのに完全に慣れてしまってたから。さすがに一人になるのは寂しいというか、ぽかんと穴が空いたような気持ちになるな。
てか、そうなるとこの部屋は使えなくなるのか、わたし。いやいやこいつのことだから、俺が不在の間ここは自由に使っていいよ、アトリエないと笹谷困るでしょ?とか言いそう。…いやでも、家主がいないのにそこまでしてもらうのは。さすがに図々しいというか、望み過ぎでしょ。
一応、ここのアトリエなしでも制作できるよう場所の当たりをつけといた方がいいな。名越だけじゃなく否応なくわたしの方も生活が変わって、これから忙しくなるぞ。と心構えしながら遠い目になり呟く。
「…てか、結局そうなると。いつまでもずっと一緒とはやっぱりいかないわけだよね、相方とかパートナーとか言っても。進む道はどうしても分かれるもんなぁ…。まあ、お互い描き上げた絵はSNSで見せ合うとして。そういえばsasarleyのアカウントはそろそろ自分でやんなきゃ駄目か。ロンドンにいる人に遠くからわざわざ更新してもらうのもなぁ…」
「え、何言ってんの。あんたも行こうよ、一緒に。ロンドン」
本当に不思議そうに、当たり前みたいにさらっと言われた。いやまたまたそういうこと。
「いや何でわたしが。必要ないし、海外。仕事全部こっちだし、事務所もあるし」
「事務所の所長には言っといたよ、二年間くらい笹谷向こうに連れてってもいいですか?って。リモートで出来る仕事もあるし、ありかなぁって言ってたけど。穂坂さんは」
海外での経験は実になるし、これからの笹谷さんの仕事の幅を広げるいいチャンスかもね。それなりに実績も積んで名前も売れたからこの機会にフリーランス契約になるって手もあるよ、だって。としれっと言い抜ける名越。いやそんな、わたしの頭越しに勝手に。何の話してんだ。
「ついでに旅行とかならまあわかるけど。他人の二年間の留学についていくのは意味不明だろ。あんたはいいけど、わたしの方には何の必然性も…。ていうか、まだそんな貯金もないよ。ここまで名越に手取り足取り世話になっといて、情けない話だけどさ」
正確にいえばもちろん貯金はゼロではない。けど、ほぼ名目上とはいえ東京で一人暮らしの部屋借りてるし。
水道光熱費はそっちじゃほぼかかってないから家賃のみだけど、都内のまあまあいいとこだから狭さの割に安くはない。事務所の基本給はそこそこだし、絵が売れたと言っても数年かけて枚数数えられる程度だし。個人の仕事の単価もまだ言うほど高くない。
何が言いたいかっていうと、つまり生活に困るような状態じゃ全然ないけど。わざわざ事務所の基本給を手放してまでしてフリーになって、他人の留学の付き合いで二年間も海外に遊びに行くほどの余裕はないよってこと。仕事柄、将来の展望も不安だし。貯金を取り崩すような真似はできない。
そのようなことをくどくどと説明して、誘ってくれるのはまあ善意からだろうからお気持ちだけありがたく頂くけど。さすがに現実的ではないよね…とやんわりお断りすると。名越は黒目がちな瞳を見張ってきょとんとした顔で言い返してきた。
「え、お金の話?それは全然問題ないよ。当然笹谷の分はうちで持つから」
「だからさぁ。…そういう施しみたいなことは。友達同士の間でよくないと思うの。いやそうは言っても、現にいろいろ負担してもらっちゃってるのは否定しきらないけどさ…。それにしたって限度ってものがね」
「いや関係ないよ。他人同士じゃなくなればいいだけじゃん」
さっと立ち上がり、ダイニングスペースの傍らにあるチェストの引き出しから出してきた紙ぺら一枚を流れるようにすっとテーブルの上に出してきた。…婚姻届。実物初めて見た。
またこれか。いや以前入籍しようぜ言われたのは結局一回だけだったっけ?あんまり覚えてはいないけど、いつの話で何のときだったかも。
ぱっと見たけどさすがに白紙でほっとした。わたしの署名捺印以外全部埋まってたらガチ度にどん引きだけど、そこまで業が深くはないようだ。
わたしは深々とため息をつき、お話にならない。とばかりに首を横に振ってみせた。
「だからこういうのはさ…。前にも言ったでしょ、あんたは結婚なんか紙の上のことだしその方が便利だし合理的じゃんと思ってるのかもしれないけど。普通の人はね、結婚てやっぱり特別な相手としかしたくないもんなのよ。誰とでもいいわけじゃない」
まあ、こいつはそういうまともな凡人とは感覚違うだろうからな。
わたしと結婚すれば金銭的にも社会的にも、誰憚ることなく全面的に惜しみなく後援できるし。そこまでしてもらうわけにはいかない、とか遠慮して断られることもなくなるだろうと。
戸籍の上で妻がいてもそんなの関係なく遊ぶ相手には困らないだろうし、友情結婚したからって女の子と取っ替え引っ替え付き合うのをやめる必要もない。…でもなぁ、そんな男と結婚したいかって言われれば。いくらお金積まれても嫌だなと思うのもまた人情ってわけだよ。
だからこの話はなかったことに。…とのつもりで用紙の端を押さえて向こうへ押し返すと、向かいの席に戻ってきてすとんと腰かけた名越が心外。と言いたげに素っ頓狂な声を上げた。
「え、何で?俺が普通の人間じゃないと思うの。俺だってあんたやみんなと同じだよ。一番大好きな、特別な相手としか結婚したくないけど?」
またそういう阿呆みたいな…、とすかさず突っ込み返すつもりで目線を上げ、一瞬言葉を失った。
わたしの目をひたと捉えて放そうとしない名越の視線。その中にどういうわけか、ふざけたり衒ったりするような気配もなく。真摯で誠実な色しか見えてないのは、一体どういう種類の冗談なんだろう…。
名越はいつの間にか手にしていた万年筆(お高そう)を婚姻届の白紙に添えて、問答無用。とばかりにテーブルの上でずいとこちらへと滑らせてきた。
「というわけで。俺がこの世で一番好きなのは他でもない、笹谷だけなんで。よかったらこの書類にすぱっと、二人でこの場でサインしとかない?」
《第28章に続く》
名越も人の子というか、やっぱりああ見えて絵を描きながら悩んだり苦しんだりはあったんだなあとしんみりします。そういう誰にも話さないようなことも打ち明けられる間柄になれて、時間をかけて関係を構築してきた甲斐がありましたね…(ラストに唐突に出てきた紙ぺらについては知らないふりをする)。




