第26章 同棲ではない、断じて
書いてて名越との生活があまりに楽しそうで、いいなぁ…と羨ましく思ってしまうレベル。ハイスペックイケメンだからとかじゃなく、心と時間に余裕のある気の合う友達との同居って。最高じゃないですか?
事務所を出たところで『蛙』LINEを送る。
すっかり習慣になってるのでもう手つきが機械的。画面を見ないでもぱっぱっ、と三秒で送信できるんじゃないかと思う。さすがにつまらない誤爆したくないのであえてそこまではやらないけど。
『今出た 蛙』
帰る、といちいち打つより『か』と一文字打ち込むだけで蛙が出てくるようになってしまったのでこれでいいや。となってる。別に意図は通じるし、こっちも向こうも用は足りてる。
地下鉄の駅に到着するより早く、すかさずぴこん。と返信がきた。いつもながらいちいち素早い。
『りょ!今日はビーフストロガノフだよ〜』
サラダも山盛りあるよ、と追っかけで送られてきた。いやあんたの作るビーフストロガノフ、そりゃ美味しいけどさ。…お腹空いた。
くぅ〜、と抑えきれず微かに鳴る腹を宥めながら改札を通る。家に帰ると温かいご飯が待ってる暮らし、確かにありがたいけどね。
…正確に言えばわたしはこのあと『自宅に帰る』わけではない。
途中で一回乗り換え。そしてたどり着いたのは学生時代からのお馴染みの最寄り駅。大学入学時からだから、もう六年目になる。
すっかり歩き慣れた道をてくてくとゆく。お、この店ついに潰れちゃったのか。一回行ってみようと思いつつ結局機会を逃しちゃったなあなどと考えながら。
大通りを歩いて6分ちょい、横道に入って少し進むと懐かしの女子学生寮。ほんの一年ちょっと前にはここに寝に帰ってたのに、もうずいぶん前のような気がするな。と考えながら、斜向かいに聳えるぴかぴかの高級マンションの方へと踵を返しロビーに足を踏み入れる。
やけに静かにゆったりと上昇するエレベーターで目的の階に到着。降りて目の前がうち、…じゃなかった。以前と変わらないあの名越の住処だ。
「あ。おかえりー。大丈夫?今日のお昼と被ってなかった、夕食のメニュー?」
廊下を進むと奥のキッチンから、気配を感じたらしき名越がひょいと顔を見せた。
どうでもいいけどしっかりエプロンまで身につけてるのがまた、甲斐甲斐しさに拍車をかける。以前はそんなのしてなかったように思うのに。
もしかしたら主婦のコスプレか。ご飯にする、それともお風呂が先?とかこの分だとそのうち言い出しかねないよな。と考えながらそれは大丈夫。昼はうどんだったからと答えて肩をすぼめ、バッグと上着を壁のハンガーとフックにかけた。
「そこまで毎日のようにきっちり家事してくれなくていいよ。名越だってやることいっぱいあるんでしょ。院生も何かと忙しいんじゃないの?」
わたしは大人だし何とでもなるから。それよりもっと自分を優先しなよ、とこれまで何度も交わした不毛なやり取りをつい蒸し返す。
名越はにこにこと上機嫌でテーブルの上に出来立ての料理を綺麗に並べ、その話は何度もしたでしょ?とうんざりした様子もなく温厚に、これまでも何度も繰り返した返答の新しいバージョン違いを口にした。
「いいんだ、俺は楽しんでるんだから。家事は好きだし笹谷が美味しそうに食べてくれるのを見るのはもっと好きだよ。それになんか、お嬢様のお世話係のコスプレみたいで楽しいよこれ。いわゆる執事な感じ?」
「いや…、ダンガリーシャツとデニムの上にギンガムチェックのエプロンて。執事のコスプレではないでしょ、断じて」
むしろお母さんでは。昔ながらのではなく、現代のリアル等身大カジュアルお母さん。
そうかぁ、じゃあ今度執事服一式誂えてみようかな。どうせコスプレなら中途半端はよくないよね、きちんとやらなきゃ。などと大真面目に自身の服装を見下ろしてあらためてる名越にそれ以上付き合う気にはなれず、手ぇ洗って来るね。と言い置いて、わたしは勝手知ったる自分ちも同然な洗面所の方へと向かった。
まるで専業主婦が待つ家庭に帰ってきたサラリーマンのごとくだが。もちろんわたしは名越と同棲などしていないし、言うまでもなく結婚もしていない。一話分読み飛ばしたか?と不審に思った方、大丈夫です。前回くるせんと事務所で話し合ったあの回の続きですから、これ。
大学を卒業したタイミングでわたしは女子寮を出た。当たり前だが学生対象の寮だから、社会人になったらそのまま住み続けることはできない。
「笹谷。もういっそここに引っ越してきて住まない?ほとんど使ってない余ってる部屋あるから。片付けてちゃんとベッドとか家具揃えておくよ、必要なら」
俺はこのままここに続けて住むつもりだからさ。家電もあえて買う必要なくなるし、合理的でしょ。と互いの進路が確定した時点で改まって提案された。
顔つきは大真面目だったがどの程度本気なのかわからない。こいつは昔から割とそういうところがある。
それでも裏心のない好意からそう言ってくれてるのはわかるから。なるべく、は?んなことできるわけないでしょちゃんと頭使って考えなよ。とかにべもない答え方をしないように。一応言葉を選んで丁寧にお断り申し上げた。
「うーん…。やっぱそれは良くないと思う。こんだけあんたの世話になっといて今さらだけど、これ以上甘えるのはどうかと思うし。ただでさえご飯ここで一緒に食べたり絵を描かせてもらったり、助けてもらいっ放しだもん。…それに。うちの親の手前もあるしね」
何だそんなの、こっちはまるで負担に感じてないから。笹谷は気にする必要ないよ!とか。考えるまでもなく息をするように当然返してきそう。それ以外に何か同居するわけにはいかない根拠を、と焦って考えて絞り出したのがこれ。
「卒業したら引っ越すのはわかってるじゃん、うちは学生寮だし。そしたら当然新しい住所を親に教えなきゃいけないでしょ。そこで家賃が勿体ないからよそ様のお宅に居候します!なんて伝えようもんなら。うちの親、激怒だよ。ちゃんと就職決まったのに自分で家賃も払えないわけないでしょ、甘えてんの?って。めちゃくちゃ怒られそう…」
言いながら、いやこれただの方便じゃないよな。実際にうちの母、絶対こういうの許さなそう。
あんたたちちゃんと正式に付き合ってんの?何でもない関係なのに友達だからって馴れ合いでだらだら一緒に住むのは駄目。そこはきっちりけじめつけないとだよ。とがっつり説教されて、お金どうしても足りないならうちで少しでも出すから…とにかくそれはやめて。とか言われる、きっと。
ただでさえ弟よりも親掛かりが多いのに、これ以上実家に負担を強いるのは忍びない。名越は気を配ってくれてのことかもだけど、結果的に両親に心配かけることになるから…と親孝行な娘らしく神妙に告げると、さすがにそれはそうだな。と思い直してくれたらしくその提案は引っ込められた。
だがしかし。
「正式に同居はしないとしても。新しい部屋はやっぱ、この近くに借りなよ。何かと便利でしょお互い近い方が。慣れない社会人としての新生活、助け合って生きていこうよ」
「いやあんたは。…まだ当分学生でしょ。社会人ではないじゃん…」
目をきらきらさせて再び申し出てきたのに対して力なくそう突っ込んではみたけど。考えてみればそれは間違いなくそう。
東京怖いとは思わないけど、それはそれとして一人暮らしはやっぱちょっと不安。女子寮はがっつり常駐の管理人さんもいたし、外部の人間は許可なく立ち入れないシステムが成立してたけど。身寄りもそばにいない都会でその辺のセキュリティ甘いアパートに住むのは、さすがに慣れるまでちょっと。怖いかも…。
その点、名越ならわたし本体に何かあれば絵の新作が見られなくなる!っていう百パーセント信頼できる動機があるし。いざというときにはすわ、と何より最優先でこっちに瞬時に飛んでくるのが当てにできるから、近くに住めたら心強いことこの上ないんだよなぁ。確かに。
「ご飯だって一人で食べるのは味気ないよ。他に部屋を借りてもいいけど、出来るだけこれまで通りにしない?急にあんたがここからいなくなったら俺、家事も日常生活もやる気なくなっちゃう。料理なんてまじ、自分だけのためなら。まずやらなくなって毎日出来合いのものばっかりになっちゃうな…」
すっかり気落ちしたように俯いてぼそぼそと呟く名越。演技なのはもちろんわかってはいるけど、実際ここまで丁寧な暮らしをわたし抜きでこいつが続けるかと思えば、まあやらないだろうな。と半分説得されかけた。
ま、ゆくゆくはそれぞれいい加減離れて暮らしたくなる日はやってくるだろうが。今はただでさえ環境や習慣が激変するタイミングだから、あまり何もかもをいっぺんに大きく変えない方が精神衛生にいいかも。と思い直して結局元の女子寮の一軒置いた隣、名越のマンションのほぼ正面に当たる位置にあるオートロック式の激狭ワンルームマンションを自分用に借りることに決めたのだが…。
「…結局さ。名越くんとあんた、どうなってんの?今の時点で」
思い起こされるのは去年の春。
名越が手伝ってくれるから大丈夫だよ、運ぶものもそんなに多くはないし。と断ったのだが母は今回も引越しを手伝うために上京してきた。娘が東京で一人暮らしする新しい部屋、ちゃんとチェックしない親はないでしょ。という理由で。
女子寮の部屋はベッドも机もクローゼットも全部造り付けだから、新居に運び込むものはまじで段ボールにまとめた荷物だけで大物はない。てか仮にでかい家具や家電があったとしたら、いくら近距離でも引越し業者頼まないといけないわけで。どっちにしろ母親の手は特に必要ないと思うんだけど。
やはり独立して社会人になるとはいえ、まだ心配は心配のようだ。何だかんだ言って最初に上京してきたとき以来、こっちに顔出ししたのはわたしが入賞した**展を父親と連れ立って観に来た一回だけだった。おそらくわたしが思いの外頻繁に帰省してたから、わざわざ東京に足を運んでまで会いに来る必要性をあんまり感じなかったんだろう。
そんなわけで、この機会に久々にこっちでのわたしの様子を確認しておきたい。という考えもあったに違いない。
当然のように引越しを手伝う名越と母は互いに挨拶を交わし、皆で協力してやつの車を使い何往復かして段ボールを新居に運び込む。それから冷蔵庫やら洗濯機やら、それまで持ってなかったりもう少し大きなものに買い替えたりする家電を配送で受け取って設置したりした。
荷物は少ないしごく近所だし、大した手間じゃないだろうとたかを括ってた引越しだったが。結局朝から暮れなずむ夕方まで結構な時間を食ってしまった。
「お母さん、遠くからいらして今日一日お疲れ様でした。よかったらこれからみんなでご飯食べませんか?前に行った店も今でも元気に営業してますし。それともせっかくだから、まだ行ったことのない店にチャレンジしましょうか?」
前はイタリアンだったから、今度は和食とか中華もいいですよね!と言いながらスマホの画面を見せて名越は母と相談してる。
二人はわたしそっちのけで真剣に額を付き合わせ、あれこれ検討をしたあとに今日の夕食の場所を決定したらしい。それじゃ店に連絡入れて席を確保してきますね、と言い置いてやつはスマホを耳に当ててその場を離れた。
「…相変わらず感じのいい好青年だね。四月から大学院生なんだって?」
「うんまぁ。お家が余裕あるし、お姉さんが経営面で適正あって後継任されてるから…。好きなことやってても許されてるんじゃないの。ギャラリーとか美術部門の事業もあるしね」
ふぅん、なるほどね。とわたしの説明を聞いて納得した顔つきで頷く。少し離れた場所で店とやり取りしてるらしい名越の様子をさっと確認し、母はふと声を落としてわたしに問いかけた。
「…で。あんたたちどうなの、今の状況は。もしかして結局付き合い始めたとか?」
入学時はお互い何でもないただの友達だって言い張ってたけどね。これだけ長い間ずっと一緒にいたわけで、何か変化あったんじゃない?とさして興味があるというわけでもなく、平静な態度でとりあえず尋ねておく。みたいな口調で話を振ってきた。
「いや、見ての通り全然だよ。相変わらずの友達同士だね。まあ四年間一緒にサークルや美術方面で頑張ってきたから、あの頃よりは距離縮まったというか。さすがに何がしかの信頼めいたものはお互いあるかも。特にわたしは、世話になってる部分しかないし…」
正直なところ恩は受領超過してるね。まあ向こうは、見返りはわたしが絵を描き続けてくれるだけでいい。とか腑抜けたことしか言わないんだけど。と肩をすぼめて説明する。
母はその言を耳にしてやや不審げに軽く片眉を上げた。
「うーん。…彼はいい子だと思うし話せばわかる相手だとは思うけど。客観的に側から見ても、あんたの受けてる何くれとない大小細々としたお世話の方がだいぶ重そうなのがバランスとしては気になるね。ここに住むってことは、これまでみたいな関係を就職してからも続けるってのが二人の間の共通認識だってことでしょ?」
やっぱり、あんまり片側ばかり甘えに偏ってるのはよくないと思うんだよね。と物思わしげに呟いたところで名越がお待たせしましたぁ、と戻ってきて。母の話は一旦そこで中断された。
続きは夜、新居にその晩泊まり込むことになった母とわたしの二人きりの空間で。
そういえば大学入学のときも、こんな風に母と二人でベッドの上と傍に横になりながら。明かりを落とした部屋で久しぶりにあれこれと話し込んだよなぁと懐かしくなる。
あれからもう四年経ったんだよな、などとしみじみ感じ入ってるのは呑気なわたしの方だけで。母はその日ずっと胸の内に溜めてたと思しき懸念をぽつりぽつりと途切れがちに並べ立てていった。
「…直織はそういうんじゃない、偏見だって反発するだろうけど。やっぱり異性同士って難しいと思うんだよね。これが女の子同士ならいいってわけでもないけど…。客観的に公平に見ても、片方は相手の衣食住や仕事のサポートを全面的にする、でもう片方はただ好きな絵を描き続ける。ってバランスがかなり偏ってると思うよ。本人同士が納得してるんだからいいじゃん、って考えてるのはわかるけど…」
やっぱりそこ突いてきたか。
反発はしないし自分でもずっと薄々そう感じてるから、指摘されて腹を立てたりはしない。
けど男と女だからそこが危うい。と見られるのは本意ではない。ので、親の世代にこんな感覚理解できないだろうな。と内心で半ば諦めながらも、駄目元で解説せずにいられない。
「お母さんからするとそういう心配したくなるのは当然なのかもしれないけど。あいつ、まじでわたしに対してそっちの欲望向けてないよ。高校のとき知り合ってから、いや知り合う前からかな。ほぼずっと彼女途切れたことないみたいだし。今も誰かちゃんと他にいるんじゃないかな」
それを知ってどう思うか。とちょっと心配になったけど杞憂だった。母は率直に安堵したようで、あからさまにほっとした声で相槌を打った。
「ああ…、それはよかった。だったらだいぶましかも」
「ね。明らかにわたしに対して異性としての意識ないってことじゃない?だって普段あいつん家でずっと二人きりでいても全然、手も触れてこないから。変な空気になったこともいっぺんもないし」
調子に乗ってそうひけらかすとそれはそれで怒られた。
「だから、そういうところなんだってば。彼女が絶えないってことは名越くんの対象は女性ってことでしょ?だったら今ひとつ自覚がないみたいだけど、直織だって世間から見たら普通に女の子なんだから。絶対間違いがない、百パーセントあり得ないって断言できる根拠なんてないんだよ?ずーっとそばにいるととち狂ってなんかの錯覚であんたがちょっと可愛く見えるかもしれないし、徹夜明けとか。すごく酔っ払ってて誰かと間違えるとか」
酷い言われようだ。仮にも血を分けた親なのに。
ぱさ、と暗闇で母が寝返りを打った音がした。寮に入ったときと違って今度の新居ではベッドがないので、母の声はわたしと同じ高さ、水平に真横から聞こえる。
「…アクシデントのせいじゃなくても、人の心なんて確実にこうだと言えない頼りないものなんだからさ。名越くんに限らず一般的に、他人にこれだけ誠心誠意尽くしたからほんの少しくらいは見返りが欲しい。と無意識にでも考えちゃう可能性は誰にでもあるでしょ、人間だもの。その見返りがあんたが考えてるものと同じとは限らないよ。彼が大好きな絵をたくさん描けばそれで貸し借りなしのイーブンって考えてたら甘いかも」
「…名越が。わたしに返しきれないほどの恩を売って、その弱みにつけ込むような人間だと思ってるわけ?」
そう呟いた自分の声色の中に、意外にも苛立ちや僅かな怒りみたいな感情が滲んでるのに気づいて我ながらびっくりした。
どうやらわたしには無意識下で、名越をみくびられたり実態以上に下げられたりするとむっとなる。という機能が搭載されてるらしい。何年も一緒に過ごすうちにいつの間にか、あいつを自分の身内寄りの存在だって認識するようになってたってことか。よく知らんけど。
母はそんなわたしの心の動きは百も承知、とばかりに落ち着き払って受け応えた。
「そうは思わないよ、もちろん。純粋にあんたのことを思ってここまでやってくれてるのは間違いないだろうし、作品が好きでそのために推してるんだってのも嘘じゃないんだろうなと」
まあ、そうね。引越し作業中も食事中も、わたしの絵がどんなにすごいかとか。いろんなところから引きが来てまた新しい仕事が増えそうだとかフォロワーがこっちの計算以上にめちゃくちゃ増えてるとか。ずっと目を輝かせてそんな話ばっかりしてたもんね、あいつ。
あれが演技ならその方が逆に怖い、かも。
黙って音もなく頷いてると、ふと微かに母の声のトーンが変わった。
「…でもさ、別に名越くんと直織に限った話じゃなくて。あげる側と受け取る側のパーセンテージがどっちかに大きく偏ってると、そんなつもりなくても人って何となくバランスを取りにいっちゃうものだと思うんだよね。こんだけしてあげてるからこれくらいは許されるとか。ほんのちょっとは自分だって報われていいよねとか…。それがいけないっていうんじゃなくて、そういう空気が入り込む隙を作らないように。常にバランスを意識しておきなさいってこと」
わたしの絵が好きで自主的にやってるんだからこれくらいしてもらって当然。とか胡座かいてないで、こんだけしてもらったからこのくらいは返しておこうかなとか。たまにはこっちから何かしてあげるとか、とにかくギブとテイクが目に見えてどっちかに偏らないようにちゃんと普段から気を配って。とやや強めの声で要請された。
「てか、名越くん以外の友達とか知り合いにだったらおそらくあんたも普段から自然にやってることだよ。友達からお土産連続でもらっちゃったら何か大きめのプレゼントでまとめて返すかちょっといいとこでご飯奢るとかしようかな、と思うでしょ。職場の人に仕事で助けてもらったらお菓子贈ろうとか、こっちばっかり得してる状態が続かないように受け取った分は隙見て返してなるべくバランス取ろうとするでしょ?それを名越くん相手でもちゃんとやって、ってだけ。彼は友達だし身内みたいなもんだから、とか言い訳して油断してサボるんじゃないよってこと」
う。…それは。ちょっとだけ耳が、痛いです。
「わかった。…ちゃんとするよ」
確かに。名越に対してだって、思えば最初の頃はこんなに何もかもしてもらうわけにいかない。だとかここまでしてもらうのはさすがに気が引けるとか、結構考えてたはずなのに。
長年の積み重ねで慣れてだんだん感覚がおかしくなってたかも。その傾いたバランスを恋愛で取り戻そうとあいつがかけらでも考えるとは思わないが、その部分を除けば母の言い分もまあ、わからなくもない。
わたしが大人しく苦言を受け止めたと感じて、母は少しだけ安堵したのか。布団の中で小さくため息をついたのが伝わってきた。
「まあ、恋愛感情がお互い片鱗もないってあんたが言うんならそうなんでしょう。そこはわたしが違うだろとか言える立場じゃないから。…けど本当、直織にそのつもりがないなら尚さら。向こうにちょっとでもその気がないかどうか、センサー張るのは怠らないでね。違和感が少しでもあったら早め早めに防御しとくんだよ。そんなの面倒だとか何とか文句言わないで、男女間のことは本来面倒なものなんだから。自分たちは例外だと根拠なく考えないこと」
「は。…了解しました」
だんだん閉口してきてとにかく下手に出て話を済まそうとする。やっぱり最後は説教になるんじゃん、結局のところ。
母も自分でそう思ったのか、ようやくそこでふと声色が和らいだ。やや苦笑混じりにあー、口うるさくて嫌だよねぇこういうの。と自嘲気味に呟いたから、若いときには自分も親にこういう話されてうんざりした経験でもあったのかな。
「まあでも、わたしは入学したときの引越し以来ずっと名越くんと顔合わせる機会なかったから。直に確認することもできずに二人は本当に何でもないのかな?直織はそういうの親に言いたがらない性格だから、実はもう付き合ってるのに照れて言わないだけじゃないかなとか。遠くから正直考えないこともなかったんだよね」
「ああ。…それはまあ」
確かに。とこっちも布団を被ったまま小さく頷く。
名越に限らず仮に誰かと付き合ってたとしても、いちいち親に報告はしないかな。例えば結婚することになったとか、自分たちだけの関係に収まらない事態になるまでは黙ってると思う。だって、要らない情報じゃない?どうせそのうち別れるかもしれないし。
余計なこと言って無駄に心配かけて、かえって藪蛇になるかもと思うから。基本そんな話、親とはわざわざしないよなぁと…。もしかしたら世間的にはそういう考えの人間は少数派なのか?
まあどのみち親に紹介しなきゃいけない相手なんか、これまで一度たりともいたことないんで。何の問題もないな!と自分で納得して頷いてたら、思いがけない方向からちくりとぶっ刺された。
「もし名越くんとちょっとでもそういう気があったら、それはそれで早めにはっきりした方がいいんじゃないかって思ってもいたんだよね。だって大智くんのこともあるしさ。…どっちを選ぶにしてもあんまり長いこと宙ぶらりんはよくないなって。向こうもまだちゃんと決まった仲ではないんでしょ?それとも、結婚とかは先だからあんまり大っぴらにはしてないだけ?」
「え。…と。何でもないです。…吉村とは」
前触れもなくいきなりそっちの話になるとは。というか、母がずばりその間について直接わたしに切り出すとは何となく思ってもみなかった。
うすうす吉村とわたしの間に何かあるんだろうな、と察してるらしき気配に気づいてはいたけど。一度も坂に尋ねてはこなかったから、もうそこは本人同士に任せてそっとしておいてやろう。ってつもりなんだとばっかり…。油断した。
けど、冷や汗をかきながらも何とか表面の冷静さを保ちつつ内心で改めて考えるに。
母としてはなかなかチャンスがなくて、心配は心配だったけどこれまで確かめられなかったことをここで持ち出すいい機会!と感じたんだろうな、今。
放っておくと自分から実は誰々と付き合うことにしました、とか絶対に言い出さない性格の娘から思いきって訊きにくいことを訊き出せた。
せっかく頑張って気まずい思いをしたんだし、もうここまで来たら毒喰らわば皿まで。前々から気になってた娘の恋愛状況を一気に尋ねちゃおうかな、ってテンションになっててもおかしくない。
一難去ってまた一難。名越については流れ的に仕方ないけど、まさかここで吉村の名前が出るとは。思ってもみなかったなぁ…。
母はわたしのしどろもどろな返答から何かを察したらしく、うーんそうかぁ。とやや思案した様子で呟いて天井を仰いだ気配がした。
「鷹揚な大智くんとなら偏屈なあんたでもまあ何とか上手くいくんじゃないか、と親の身ながら思ってたけどね。そうかぁやっぱりなかなか難しいんだね、幼馴染みってかえって。…距離が近くなり過ぎなのかな?きょうだいみたいに育つから恋愛対象から外れがちなのかもね。そう簡単にはいかないよね…」
「うん。…まあ、そうですね」
ぐさぐさぐさ。
さっきから痛いとこしか突いてこないじゃないですか…、そう察してるならせめて口に出さずに自分の胸の奥にしまっといてくれないかな。全く、親なんて遠慮も忖度もなく思ったこと全部そのまま口にするんだから。…やだねー。
娘の不甲斐なさを叱咤するでも揶揄うでもなく、あくまでもちょっと共感しつつ理解を示すという優しさを滲ませてるのがかえってつらい。言ってる内容もさっきから刺さりまくりだし…。
何一つ知らせてないのにどうしてこう本質を突いてくるのかな。親子ってこういうとこきもい、ほんまに。
母はかねて懸案してた件についてようやっとわたしに直に説く機会が得られて、よほどほっとしたんだろう。さっきまでと打って変わって口調が軽くなり言葉が次から次へと弾むようにぽんぽん出てくる。心なしか声色も明るくなったような。
「まあ、直織のことだから今は仕事でいっぱいいっぱい、男の人と付き合うなんて考えらんないし余裕もない。とか言いそうだけど。何かに打ち込んでると時間の流れって結構あっという間だから、ときどきは立ち止まって周りの人たちとの関係をきちんと見直せるといいね。…名越くんについては彼女さんがいるならまあ、心配する必要もないのかもだけど。大智くんの方の気持ちはある程度確認しといた方がいいんじゃない?彼も変わらず独身だし、まだ誰かと結婚する様子もない。って向こうのお母さんから聞いてるし…」
もしかしたらあんたのことを待ってる可能性もあるよ。だとしたら一回落ち着いてお互いの将来の話もしといた方がいいでしょ。とけろりとわたしに説く母。簡単に言ってくれるなぁ。
わたしはごそごそ、と寝返りを打って母の方に背を向けた。暗闇の中で表情を見て取られるとは思わないが、無意識に顔を隠したのかもしれない。
そろそろいい加減に眠くなった。と相手に伝わるように、ややだるそうな声を出す。もうこの話はおしまいだと言外に匂わせようとして。
「うん、でも。…吉村もいい大人だし、わたしより先に社会人になって何年も経つし。本当に彼女いないかどうかなんて誰にもわかんないじゃん?お母さんやお父さんにいちいち誰かと付き合ってます、なんて教えなくてもいいんだし。あれでいい人いるかもしれないよ、とっくに。わざわざ触れ回らないだけで」
そんなことないでしょ、多分あの子はあんたのこと好きなんだと思う。ずっと地元に帰って来るのを待ってくれてるんだよ。
母がそう言って否定してくれるとどっかでうっすら期待してたんだろうか。自分で言い出した話なのに思ったよりあっさり受け入れられて、何だか肩の力が抜けた。
「まあ。そういうこともあるかもしれないね、大智くんはそういうの自慢して回るような子じゃないし、性格も見た目もいいし仕事も真面目にやってるからおっとりして見えるけどあれで結構もてそう。…ま、当人同士のことだからわたしが口出すもんじゃないね。幼馴染み同士お互い自由ってことで」
おやすみー、と会話にけりをつけてさっさと寝入ってしまった。てか話を終えてから寝息を立てるまでが。いくら何でも早過ぎだろ、お母さんさぁ…。
というわけで。余計なことを寝る間際にふっかけられて、向こうは疑問を解消して言いたいこと言ってすっきりしたかしれないけど。こっちは無駄に悶々と思い悩んでしまいだいぶ長いこと布団の中で煩悶する羽目になってしまった…。まあ、寝たけど。最終的にはちゃんと。
「…どうした、笹谷?なんかやなことでもあったの、職場で?」
食卓の向こうから心配そうな声をかけられて我に返った。
そうだった、今のはずいぶん前にあったこと。現在のわたしはデザイン事務所に就職して二年目で、仕事にもだいぶ慣れた。まあ…、それ以外、プライベートな事柄については。学生の頃と言うほど変化ないのは正直なところ事実かも。あれだけ母に念押しで注意されたのに、片腹痛いところだ。
「いや、…なんか、思い出しちゃって。去年の春の引越しのときのこと。母親にいろいろ注意されたなぁって。あのとき、あんたと別れて部屋に戻ってからね」
実際、あの日に忠告されたこと。どれもごもっともだなぁと渋々ながら認めざるを得なかったのに、あれから何一つ改善も前進もしてないなと改めて今考えると。不甲斐ないことこの上ない…。
名越は器用な手つきで要領よく取り分けたサラダの小皿をわたしの方へと寄越しながら、ちょっと意外そうに軽く片眉を上げてみせた。
「え、何でまた。結構前の話じゃん。今になって急に思い出したの?なんて言われたの、あの日?」
お母さんのことだからきっと、俺に世話になってばっかりは駄目だよ。自分のことは自分でしなさいって注意されたんでしょ。と笑ってずばり言い当てる。ほんと、見抜かれてる。母娘ともども、性格を既に。
「うんまぁ…、それは割と強めに念押しされた。名越くんがあんたのために何でもやってくれるのが当たり前だと考えるようになったら駄目、ちゃんと受け取った分はお返しするように常に気をつけて。ってはっきり言われたなぁと思い出してさ。改めてそう考えると。…出来てはいないよねって。ちょっと、忸怩たるものが…」
「ええ、そんなの。別に気にすることないじゃん?俺本人がこれでいいって言ってるんだからさ。充分返してもらってるよ、やった分は?」
むしろもっとしてあげないと足りないくらいだよ。俺の方こそ、さらに頑張ってあんたのしてくれてることに報いないと。とふざけてるようでもなく大真面目に言い張る名越。いやそんなはずないと思うけど…、価値観の相違というか。話噛み合わないよなぁ、こいつとそういうとこ。
…母にもっともな忠告をあのとき受けたにも関わらず。
ご覧の通り、名越のこの調子と独特なペースの牙城を崩すことができず。結局押し負けてなあなあになり、今でもこのように何くれとなく痒いところにまで行き届くお世話を受けて暮らしてしまってる自分がいる。
現在のわたしの名越に対する依存度ときたら。学生の頃の比じゃない、と自信を持って断言できる。そんなことに堂々と自信持たれても…と我ながら内心突っ込まざるを得ないが。
わたしは美味しいビーフストロガノフをありがたくしみじみと味わいつつ今現在の自分の暮らしぶりを改めて振り返る。
まず、社会人になってからの一番の変化は。基本平日は名越んちに帰ってきて泊まり、翌朝そのまま仕事に行くってこと。
…いやそれはもう、同棲じゃん。と聞いてる人の90パーセント以上が考えるかも(もしかしたらほぼ100パー?)。でもちょっと待ってほしい、お互いそういうの全然ないから。だけど…うん、正直にならざるを得ない。
忙しいんだ、学生時代と比べたら断トツに。側から見てる関係ない他人から見てどう思われるかなんてどうでもいい。
てか慣れない環境、初めての人たちに囲まれて勝手のわからない仕事。納期はきついし手際もまだ悪いから時間はいくらあっても足りない。
そんなとき、夕飯?あんたの分も作ってあるからうちに寄ってって食べていけば?俺は院生だし自分のペースで研究進めればいいから暇だよ!と誘われたら。…そりゃまあ夕飯くらいなら。と心が動くのは仕方なくないか?どうせ食事はしなきゃならないんだし。
帰りに立ち寄ったら出来たての美味しいご飯が既に用意されてる。だったら申し訳ないからせめて洗い物を…とキッチンに立てばその隙にお風呂がためられて、タオルや寝巻きもいつの間にかしっかり準備されてる。
「布団も敷いておいたよ。アトリエじゃ落ち着かないだろうから、物置きになりかけてた部屋を片付けておいたからね。そっちを使って、これからは」
そうなの?とそちらに赴くと、完璧に綺麗に片付いた一室にこれまで使わせてもらってた客用布団が敷かれてて。新品の小さなチェストの中にユニクロらしきシンプルな飾り気のない着替えが何日分か揃えられてた。
これだと明日このまま、自分の部屋に寄らなくても出勤できるなぁ…と考えながら気持ちよくぐっすり朝まで寝て。結局ぎりぎりまで寝過ごして焦って事務所へ飛んで行く羽目に。
そして翌日も結局その繰り返し。そんなことが続くうちに次第に、『わたしの個室』の設備もどんどん充実してきてしまった。
今じゃばっちり、わたしの不在中に運び込まれた新品のベッドとクローゼットも置かれてる。洗面台は自由に使ってほしいけど、男がいる部屋で化粧とかやりづらいなら…と言って勝手にドレッサーを買い入れてきたときにはさすがに苦言した。
「そんなのサイドテーブルにミラー置いて適当に何とかするから。こんなの買っても名越にはしょうがないでしょ。将来結婚したときあんたの奥さんに譲るわけにもいかないじゃん。誰が使ってたやつなのこれ!とか言って喧嘩になる、絶対」
「え?そんな心配全然必要ないよ。俺は他の女と結婚なんかしないし。気に病むだけ無駄無駄」
そもそもこの部屋にあるものは、俺のものじゃなくて全部笹谷のだよ!と満面の笑顔で告げられた。全く、金持ちってやつは…。
そう言いつつ、美味しいご飯と気持ちのいい風呂とふかふかのベッドに負けてつい、仕事終わりに名越の家に寄ってしまうわたし。だって女子寮と大して変わらない激狭な今のワンルームには湯船のないシャワーだけ、ベッドもなくて布団は床に直敷き。キッチンは簡易式だし…。一人で過ごせる、ってこと以外寛げる要素があんまりない。
しかもそれも、きちんと整えられた正式なわたしの個室が用意された以上大したアドバンテージではなくなった。自分の部屋に篭ってる間は名越は無闇にちょっかいを出してきたりはしない。お茶でも飲もうか、というときはわたしのLINEにぴこんとお誘いが入るし。眠いとか今日はもういいや、と返せばオッケー。とあっさり引き下がってだる絡みはしないし。
つまり、この家で過ごすのが当たり前になってくるとそれはそれでお互いの距離感もそれなりに落ち着いて、一種シェアハウスの同居人みたいな形になってきたわけだ。
そうなるとますます居心地がよくなって歯止めが効かなくなってくる。名越もわたしを構い過ぎない方がいいらしいと悟ってからはご飯を一緒に食べたりアトリエで顔を合わせるとき以外は割と放っておいてくれるし、週に一度か二度は外泊してくることもある。
おそらくそのときどきの彼女のところに泊まりに行くんだろう。そういう夜は遠慮なく自分ちみたいにここで羽を伸ばすことにしている。
…え、家主が不在のときくらい自分ちに帰ればって?うーん、それはそう。一般的な常識からすれば間違いなくそれが正しいんだが…。
「…お、まだやってるの?精が出るね」
その日も食事を終えて片付けをして、お風呂をいただいたあと。アトリエでさっさと制作に励むわたしを目に留めて名越がお茶を淹れてきてくれた。
「あ。ありがと」
ことりとテーブルの上に置かれたトレイに載ったポットとカップ。名越が手ずから注ぎ始めると、芳しい紅茶の香りが辺りに立ち昇る。
思えば、この部屋もずいぶんアトリエらしくなってきたなぁ。
湯気の上るカップを手にしてしみじみと室内を見回した。このテーブルセットも以前はここになかったし、学生の頃は片隅にわたし用の布団が置かれてた。今は個室にベッドがあるからそれも必要なくなったし、部屋中所狭しとあちこちに名越とわたしの作品が置かれてる。
広くて大きな窓の外は、今が夜なので遮光カーテンに阻まれて見えないが。昼間は採光たっぷりで明るいし天気のいい日には富士山も望める。そしてアトリエ内のそこここに飾られた観葉植物やモチーフの品々。
アトリエ探訪って特集に選ばれることがあれば即、取材入れられるくらい完璧だ。もちろんここの主の名越の丹精の賜物だが、今ではわたしもすっかりここで制作することに慣れて一番落ち着ける空間になっている。
「それいいね、今の描きかけのやつ。納期がある作品?」
イーゼルに架けられた半分ほど塗られたキャンバスに視線をやり、目を細める名越。わたしはふうふうと紅茶の表面に息を吹きかけ、そっとカップの端に唇をつけて諦めた。…まだかなり熱い。かんかんに沸かしたばっかりだな、これに使ったお湯。
「いや、少しでも余裕のあるときに自由な絵描き溜めておこうかなと。…昼間は仕事の絵ばっかりだからね。帰ってきてからもパソコンとタブレットで仕事できるけど。こういう時間使って描かないと、油までなかなか手が回らないから…」
そう、ここについ入り浸ってしまう第一の理由がこれ。
名越の惜しみない尽力のおかげで、ご存じの通り大学卒業後のわたしは絵に関わる仕事に就くことができた。高校生のとき、〇〇大学を目指してた当時のわたしからすると思いもよらなかった望外の結果だ。
おかげで正々堂々、朝から晩まで一日中大っぴらに絵のことを考えていられるようになった。以前みたいに本分こそは大学での勉学で絵はあくまでも趣味の範疇。って関わり方とは根本的に違う。
絵や美術にまつわること全てがわたしの本業そのものなんだから、後ろめたい思いやこんなことしてる場合じゃないのに。と焦燥する感情を抱かなくていい。思いきり一日中、絵のことばっかり考えてても誰にも何も言われないんだ。
それはもう、ものすごい解放感だった。自分で思ってるよりも絵が自分の本分じゃないって事実にプレッシャーを受けてたんだなと改めて知った気がする。
好きなことを仕事にするってこういうことなんだ。本当によかった、特に興味のない分野の普通の会社に就職する羽目にならなくて。と今は感謝の毎日ではある。
…だけどその一方で。趣味だったことが仕事になる難しさもまた、当然あるわけで。
わたしのその独白を聞いて、名越はまあそうだよなぁ。と納得した様子で深々と頷いた。
「昼間もずっと、仕事で描いてるんだもんな。それとプライベートで描くものとどう差別化するかって話もあるしね…。そこら辺の切り替えは難しそうだな。描きたい絵と求められてる絵が全然別ならそれはやりようがあるけど。あんまり違いがないとそこも悩みどころだし」
「うーん。…プライベートで描くときはせっかくだから、仕事で指定されるタイプの絵とは全然違うものに挑戦したいなとは。思ってはいるんだけどね」
わたしは肩をすぼめてようやく湯気のおさまったカップから紅茶を一口飲んだ。
わたしがつい足繁く名越んちに通っちゃう、もう一つの理由はこれだ。
わたしが在籍してるのはデザイン事務所だし、個人で受ける仕事も今はほとんどデジタルが主体だ。
実際その方が扱いやすいし。デジタルで仕上げられるからこそ受注できた仕事もあると思うから、学生時代にやり方覚えといて結果的によかったなとは思う。
でも、やっぱり本当に自分のために描く絵はキャンバスに絵の具で描きたい。そういう時間を一日のうち少しでも取れると気持ちが落ち着く。
好きな絵が仕事になるのはありがたいし嬉しいけど、仕事と関係ない絵がわたしの精神を安定させてくれる。絵を描く息抜きに絵を描く人みたいになってるけど、それが正直な本心ではある。
で、昼間の仕事のあとにプライベートの絵を描くとなると。
自分ちの狭い部屋でタプレットで描いてるとなんか、仕事の続きみたい…って気分になりがちなんだよな。普段業務でデジタル使ってなければそれほど気にならないんだろうけど。
だからつい、一日の仕事が終わって自分だけの時間になると。せっかくだから少しでも広々と気持ちのいいアトリエに顔出して、自分の好きな絵を思いきり描きたい。ってなっちゃう…。
「やっぱりさ、いろいろあるんだよ仕事で絵ぇ描いてると」
言い訳がましい、というかただの言い訳だが。わたしは部屋の主に向かってついここに通っちゃう心持ちについてぶっちゃけた。
「もちろん好きなことを仕事にできるありがたさは身に沁みてるし。他の仕事に就きたかったなんて微塵も思わない。けど、納期に追われて思うように仕上がらなくてやっつけでえいやっと見切りつけたり、何度も駄目出しされて描き直し食らったり。自分でいいと思って考えた構図やデザインが次々と没になったりが続くとさ…。誰からも注文つけられない、好きなものをいくらでも好きに描けるプライベートな絵を描くって。本当にいいなぁとしみじみ思う日もあるわけ、まじで」
「あー…。ごめんね、俺とか。いつまでも呑気に学生で」
そうだよなぁ、依頼されて注文通りに仕上げるって大変だよな。大学で作品制作するのと根本的に違うよね。ともの思わしげに共感してくれる名越。わたしは静かに首を横に振った。
「いや、他人に評価してもらうための作品で自分の個性出したり常に新しいものを創ってくのはまた別の厳しさがあると思うよ。わたしは美大じゃないから本当にその辺わかってるとは思わないけど。コンクールに出したり予備校でちょこっと評価を体験したから、そこから推測するとね…。だから、どっちかじゃなくてどっちも両方あるからバランス取れるようなとこあるなと」
そうなるとね。名越にまた負担かけちゃうってわかってても。ついつい仕事終わり、こっちの家に帰って来ちゃう習慣になってしまって…ってわけなんだよね。
わたしのぼそぼそした弁解を聞かされた名越は、真剣に理解できない。といった顔つきになってしきりに首を捻ってみせる。
「いやいつも思うけどさ。何をそんなに気にしてんの?てかそもそも俺は、あんたにこの部屋に一緒に住んでもらおうと思ってたんだから。迷惑とか負担とか、何で俺がそんな風に感じると考えてるの?」
いっそあの部屋、引き払っちゃえばいいと今でも思ってるくらいなのに。家賃勿体ないしさぁとやや不満げに言い募る。
「うちはスペース充分だし、あんたが越してきてもまだ余裕あるでしょ。それに一人より二人の方が楽しいよ。ご飯も一緒の方がいいし、アトリエでそれぞれ思い思いに描いてるのも好きだな。笹谷がここの正式な住人になってくれればいいと俺は思ってるよ、今でも」
「うん。…お気持ちはありがたいけど」
ややぐらつくわたしの脳内を、去年の母からの強めのアドバイスがすぱっと横切る。勧誘されて、それもいいよなぁ…とか今さら距離とる意味とかないよなぁここまできて。とかふらっと迷いが出るたびにわたしを戒めに戻ってくる金言。…そう、バランス。バランスが大事。
ふと冷静に返るといつも、わたしがもらう方ばかりが大きく重くなって天秤が極端に一方に傾いてるじゃん…となってる。
そのたび慌ててバランスを取ろうとするけど。わたしがこいつに返せるものなんてまじでろくにないんだよなぁ。何かわたしにできることない?と駄目元で尋ねても、好きな絵を思いきり自由に描いてくれればそれで充分以上だよ。とか下手するといてくれるだけでいいよ、とか存在してるだけでOK。とか言われる。
恋人だったら大したスパダリぶりだが。まじでただの友達兼パトロンだから、いつかは何かの形で返さなければ…って思いが消えない。
そりゃ一人がつまらないとか寂しい、と言われればだったらわたしがいた方が気が紛れるのかな、とうっかり納得しそうになるし。いないよりいた方がいいのかとまるで名越の求めに応じてここにいてあげてるみたいな気になりかける。
でも、わたしは騙されないぞ。大体こいつに限って、誰かいないと寂しいとか一人が苦手とか。そんなしおらしい玉じゃないのは先刻承知、一体いつからの付き合いだと思ってるんだ。
基本的に自分以外の人間はほぼ必要としていないのをわたしは知ってる。人当たりよくて誰からも一目置かれてるけど、多分月に島流しになっても一人で死ぬまで楽しく生きられる男だからな。
「…いつもそう言ってくれるのはありがたいけど。正直一人がつまらない、誰かと一緒がいいなら常識で考えて彼女とかでよくない?あんたの付き合ってる人に申し訳ないんだよねいつも。わたしがいなきゃその人、ここに普通に出入りできるんだろうなぁって」
「あ。それは心配無用。どのみち女の子をプライベートな空間に立ち入らせるつもりはない。あんたがいるからってわけじゃないから、気にしないで。この部屋には笹谷だけでいいよ」
当然、とばかりにあっさり片付けられた。…そうですか、それはどうも。
わたしは空になったカップをそっと丁寧に置いて、ウォーミングアップに首をまわしてこきこきと鳴らした。なんか、これ以上考えても無駄そう。
母みたいに常識のある人には理解しがたいだろうが、今のところこいつがわたしに求めてるのはまじで毎日ここに帰ってきて絵を描くこと、だけらしい。
お皿洗ったりたまにはご飯作ったりもするし、自分のものは自分でちゃんと洗濯するし(当たり前)。個室も自分で掃除機かける(これも当たり前!)。そうすると名越はわたしを褒めたり喜んではくれるけど(一生懸命頑張ってる子どもに対する大人の対応か)。
当てにはしてないからしなくても全然構わないといった感じ。だから何というか、…家事で恩を返せるという気がしない。わたしがやったらその分の倍以上返してきたりするし、ケーキ焼いてくれたりとか。
だったらもう普段してくれることは素直にそのまま受け取って、あとは本気で頑張って出来るだけいい絵を描くか。…ってところに一周回って戻ってくる。わたしは大きく伸びをして、ご馳走さま。と言って椅子から立ち上がった。
「そしたら今のところ、わたしはわたしに出来ることを誠心誠意しようかなと。てか、今日とは言わないけどあんたも描かない?最近アトリエで描いてるの、ほとんど見たことないよ。やっぱり大学で描いてると家では描く気になれないもん?」
わたしが仕事の絵をオフで描く気になれないのと同じようなものか。と思って尋ねると、やつはああ…と曖昧な声を出して神妙に頷いた。
「それはそうかも。…あんたの方が大変なのはもちろんわかってるけど、俺は大学で描く公的な絵とプライベートな絵の区別がないからなぁ。自宅でまではまあいっか、となりがちだな。もちろん課題とか、教授に見てもらう機会とかの前には家でもやらないと間に合わないってなることもあるけど」
「やっぱり、絵が仕事になっちゃってるんだね。まあ、好きなものを本業にする人の一般的なあるあるだよな」
厳密に言うと学生だから『仕事』ではないが。本業というか本分が息抜きや趣味と区別がないのはまあ、きついな。これが趣味の分野の絵が全然タイプ違うなら成立したと思うけど。例えば漫画とか萌え絵とか。
「けどまぁ、もしよかったらまたここで描いてるとこ見せてよ。わたしは好きなんだ、名越の絵って。シンプルですっきりしてて胸の風通りがよくなる感じがするよ。最近ほんとにあんたの新作、見る機会ない気がするからさ」
カップをトレイに載せて片付けながらそう告げると、名越は何とも言えない色を目の中に浮かべてつくづくとわたしを見た。
「…本当に、そう言うのあんただけだよ。笹谷って変わってんな、自分の絵は全然俺のと作風違うのに。しかもそれで大勢の人に既に評価されてるのにさ、もう既に」
「そうでもないよ。まだ全然だよ」
もちろん本気でまだまだだと思ってるから謙遜ではないが、言いたいことはわかる。
高校の頃や大学初期の完全無名時代と較べたら確かに、多少人目につく仕事は増えてきたし。個展をやってない時期も名越の家のギャラリーで常に数枚絵を置かせてもらってるので、忘れた頃に不定期でちょぼちょぼ、たまにそれが売れてくれる。
もちろん油絵だけては全く生活できないが、まるで売れないわけではない。そういう意味では大学時代の美大生の知り合いの多くと較べても、わたしは割と恵まれてる方なんだろうな…というのは理解してる。
だけど、せめて同じくらいにはこいつの絵が売れないのは正直腑に落ちない。
名越の作品だって、ちゃんと世界観の確立した深みのある人を惹きつける絵だ。もっと注目されていい作家だと思うのになぁ。
わたしがキャンバスの前に戻りながらそんな意味のことをぶつぶつ言うと、いつものことだけど名越は何とも形容のしがたい得も言われぬ複雑な表情を浮かべた。
「あんたはそう言うけど…。何で俺の絵をそんなに評価するのか、正直わかんないよ。普通の平凡な絵だよ、ただデッサン能力高いだけの。写真でいいじゃんって何度言われたことか」
「だから。それがわからんってばよ、てかさ。写真舐めすぎじゃないか?それ言ってる人」
なんか、年を追うごとに自分の絵に対する自信失っていってないか、この人。
前はもっと、少なくとも自分よりテクニックが上のやつはそうそういるわけない。ってくらいには傲慢なとこもあったのに。ここまで絵に対する熱量が削がれるまでには、きっといろんなこと言われて来たんだろうな。わたしの見てないとこで。
そう思うとここでわたしの言い分を名越にぶつけてもしょうがない、その手の評価の数々をこいつに浴びせてきた連中に聞かせてやりたい話でしかないのだが。
まあいいや、名越を通して想像上のそいつらに訴えかけてるってことで。ひとつよろしく。
「そもそも、写真だって歴とした表現者の手にかかれば芸術じゃん。現実をそのまま写しとるから駄目、って論理は成立しないよね?」
それとも写真は一段下のアート?と重ねて尋ねる。名越は肩をすぼめてそんなことないんじゃない、と呟いた。
「俺だって好きな写真家いるし。その人の写真はちゃんと、どの作品観てもその人だなぁってわかるよ。現実にあるものをそのまま写してるっていうより。何をどういうシチュエーションで捉えるかが表現なんじゃない?」
「だよね。わたしもそう思うんだ」
キャンバスの前に筆を持って突っ立ったまま、得々と喋り続けるわたし。
「題材を選択するのも構図を考えるのも、トーンや色彩を決めるのも表現でしょ。だとしたらそこに表されたものが本物と見紛うくらいリアルだから写真と同じじゃん。は成立しないよね?てか、本物くらいリアリティあるタッチで描かれた絵っていったら。ワイエスっているじゃん、アンドリュー・ワイエス」
「…ああ。なるほど」
『クリスチーナの世界』とか。と名越は上目遣いになって思い出したタイトルをひとつ挙げた。
「確かにあんた好きそう、ああいうの。けどあれは割と空想画感強くない?タッチは確かにリアルだけど」
「それが他の作品は全然そうじゃないんだって。あれは確かになんか、想像上の世界の中の出来事みたいな不思議な空気感感じるんだけどね。他の絵はみんな、建物や木や動物や人間をほぼそのまま描いたハイパー写実画そのものだよ。超現実的要素がひとつもないし」
クリスチーナだって、よく考えればシュール要素全然ないんだよね。建物も草原も空も人物も普通に存在するものでしかないし、と付け加える。
「人物はごつさもそのまま、全く美化されてないし物置や農具は古びてぼろぼろで自然もカラフルでも鮮やかでもない。けどどれも完璧にワイエスの世界だし、どれを観ても見飽きない美しさに溢れてるんだよね。飾らないそのままのものも誰かの目のフィルターと絵の具と手を経由すると、それは人を惹きつける芸術になり得るんだってわかった気がしたよ。…で、わたしはそれと同じことを。名越の絵にも感じてるってわけ、大なり小なり」
「嘘だろ、ワイエスと俺を並べるとか。極大と極小にもほどがあるよ。絵のタッチがリアル系って以外になんの共通点もないし。おこがましいし畏れ多い…」
空のカップとポットを載せたトレイを手に、身を縮めてぐちぐちと言い返す名越。わたしは取り合わず平然と自分の絵の方へと向き直る。
「二人が似てるって言ってるわけじゃないよ。写真めいたリアルさで現実のものを描いてても、じゃあ写真にすれば?って誰も思わない画家もちゃんといるでしょって話。ワイエスとかハンマースホイとかさ。…あんたの絵も同じだよ。名越の目と脳とその手を通過したらそこに表現されてるのは紛れもなく名越の世界でしょ?で、わたしはそれが好きなんだ。ってこと」
だから、また描いてよ。誰の評価も気にしない、あんたが描きたいあんただけの絵。と言い置いてさっさと筆を再び動かした。
名越はしばし無表情にそこに佇んでじっとわたしを眺めたのち、根負けしたようにちょっと破顔してため息をついた。
「はあ…。いや笹谷だけだよ、俺にそんなこと言うの。美大に行って四年間と院で一年ちょっと、巧いけど普通だねとか。味の薄い水みたいな作風とかしか言われなかったからなぁ。あんた、変わってると思うよまじで。好みのセンス」
「そう?でも、世界でわたし一人だけってこともないと思う。同じ好みの人、ちゃんと他にもいると思うから。前から思ってたけど名越も自分のアカウント作れば?あとギャラリーにも自分の絵、置いてもらえばいいじゃん。美大の内側の人だけじゃなく、広く多様な人たちの視界に入らないと。自分をの作品を好きな人には出会えないよ」
てか、わたしもそのおかげである程度知られるようになれたし。美術が専門の人に受けないなら全然違う客層にアピールするのも意義があると思うけどなぁ。
「うーん…。うちの画廊も商売だから。笹谷の作品は俺の友達だからじゃなく、売れると考えられてるから置かれてるんだよ。自分ちの息子だからって、俺の絵をわざわざスペース取ってまで出す気になるとは。…あ、じゃあこうしよう」
あからさまに気が進まない様子でぶつくさ言ってた名越は、ふと何かいいこと思いついた。といった顔つきになり、明るく声を弾ませて提案してきた。
「年明けくらいにまた久しぶりに個展やらない?まだ描きためた分じゃ足りないだろうから、今後の笹谷の頑張り次第だけどさ。その代わりと言ったら何だけど俺もここで一緒に描くよ。一人で黙々と描くよりも多少はやる気出るでしょ?」
「あー。…だったらさ、個展じゃなくてまた二人展やらない?」
こっちもいいこと思いついた。高校卒業間際に地元でやった最初の二人展のときの情景が脳裏にありありと蘇る。
楽しかったなぁ、あのときは。個展はやっぱり自分だけだから、何ていうかプレッシャーがあるよね。その点二人展のときは、相方と一緒に作り上げた世界。って感じがしたし。
「自分の絵は散々見てるから、わたしも楽しみ欲しいもん。名越の絵の展示が久々に見られるって思えばそれを楽しみに頑張れるよ。ね、そうしようよ。実は作品結構あるんでしょ?」
「あーうん…、大学で描いたやつも入れれば何とか…」
けどそんなの面白いかな。来るお客さんは笹谷の絵を目当てに来るんだし…としばらく腕を組んで考え込んでいたが。
「…まあ。枚数少なくてもOKならいいよ。あくまでメインはあんたの作品で、ちょこっと片隅におまけで何枚かね。で、笹谷が描いてる横で俺も新作を描く。これでどう?」
わたしはうんうん、と元気よく頷いた。たった数枚?半々にしようよ、と文句を言う言うこともできたけど。
その辺が名越の妥協点なんだろうなと察せられたし。何よりまた久しぶりにやつが描く気になったのが喜ばしい。
「一人で自分だけの個展のために黙々と描くより全然いいや。じゃあ、しばらくの間はここで二人で黙々と描こうよ。名越何描くの?てか、ワンテーマ決めてそれぞれ描くとかは?」
「えー自由じゃないのか。お題決められて描くとか、美術予備校時代思い出すなぁ…」
同じテーマだと笹谷と較べられちゃうよ。と愚痴りながらもトレイを置いてがたがたと道具を持ち出し準備を始めるあたり、名越もほんの少しだけど嬉しそうに見える。
確かに、このところずっとわたしだけが描いて名越はそのサポートに徹してばっかだったから。こうして二人がてんでん勝手に思い思いに一緒の部屋で描くとなると、高校の美術室や予備校の教室を思い出すよなぁ。とこっちまで何だか気持ちがほっこりしてきた。
実際には事務所の仕事や個人で受けた依頼もある中で、年明けに個展とかおふざけでないよ。なんだけど。
何となく楽しい雰囲気に騙されてまあそれもありかなぁ。などと流されてOKしてしまったのをつくづくと後悔する羽目になるとは。もう少し先、何ヶ月かあとの話ではある…。
とまあそんな感じで、社会人二年目のわたしは一応仕事も順調だし。名越との関係も前よりだいぶ程よく落ち着いてきて、何というかお互いを支え合う戦友みたいな仲になりつつある。いやさすがにこっちの方が頼りすぎだろ…という後ろめたさを内心に抱えつつも。
思ったよりずっと、大学卒業後の暮らしは楽しいしまあまあ上手く回ってる。…ただ一つ、吉村に関することを除けば。
名越と久々に絵画談義で盛り上がりつつしばらく制作してから、交代で風呂や身支度を済ませて各々個室に戻る。
あいつといるのに気を遣うとか肩が凝るとかは全くないけど(最早家族というか、きょうだいみたいな距離感と化してる)、さすがに時間を忘れて遅くまで話し込んでたからかどっと身体が重く感じる。…あー、疲れた。
気楽なルームウェアに着替えてふかふかのベッドのど真ん中へとどさっ、と雑に身を投げた。あとは寝るだけ、幸せ。…のはず。
サイドテーブルの上で充電されてるスマホの方は見ない。どうせ、何のメッセージも来てないに決まってるし。
一昨日吉村に送ったLINEに返信がまだない。
まあ大した内容じゃないんだけど、事務所の近所に新しくできた店で食べたパスタが美味しかったよとか。そんなの知らされてもなぁ、と普通なら思うよね。こっちに住んでる人ならともかく、吉村は地元の町から東京の方に来る機会まずないし。
だったら絶対に返信をせざるを得ない内容の、つまんなくないLINEを送ればいいじゃんと思わなくもない。真剣な相談とか。大事な打ち明け話とか。
けど、やっぱりそんな勇気ない。わたしはごろんと寝返りを打ち、せっかくの広々としたベッドの上で横向きに子どものように丸まった。
…だって。思いきって言えなかったことを切り出したとして、それにもやっぱり返信なかったら。
もうわたしは完全に要らないのかな、としか思えなくなって。ますますさらにこっちから連絡入れづらくなるに決まってるもん…。
別に今、吉村から全然何の連絡も来なくなってるわけではない。
わたしたちは音信不通ではない。けど、大学のときとは違って。こっちが送る何でもないことにすぐ返事が来たりとか。向こうからも何もなくとも元気?とかこの前こんなことがあってね、程度の話を送ってくれたりとかは。めっきり少なくなったよなぁと。
…まあね、学生じゃないからこっちも忙しいし。向こうも慣れるにつれて仕事ますます増えてるみたいだから、こうなるのは自然な成り行きなのかも。しれないけど…。
それにしても。やっぱり、去るもの日々に疎し。なのかなぁ。
わたしは深くため息をつき、開き直ってごろんと仰向けになり手足を思いきり広げて天井を見上げた。
大学を卒業した頃には、いつか独立してもやってけるくらいわたしの仕事が安定するまで待ってもらうとしても。まあまあ何とかなるかなぁ…くらいの考えでいた。
これまでわたしの我儘を辛抱強く受け入れてくれた吉村なら、やりたい仕事に就く大変さにも理解があると思ってたし。実際、今でも応援してくれてるしわたしが活躍すると喜んでくれてるのはわかる。
本の表紙やイラストやキャラデザの仕事をすると、いつも感想を送ってくれるし。そこに置いていかれる恨みつらみや放っておかれて寂しがる気持ちなど微塵も感じられない。
…でも、それはそれとして。離れていれば気持ちも自然と遠くなるってことはもしかしたら、あるのかも。
まあ、仕方ないよなぁ。とぽかんと胸に穴の空いたような気分で自分に言い聞かせる。
日々顔を合わせなくなってもう何年になるだろう。その間も吉村には新しい出会いもあるし、わたしの知らない知り合いだって増えてる。
遠くにいる昔の友達より、日頃対面して言葉を交わす日常生活を共にする相手の方が上書きされて存在感が強くなっていく。誰が悪いわけでもない、当たり前のことなんじゃないだろうか。
こうなるのが嫌なら、誰が何と言おうと東京に後ろ髪引かれようと地元に帰ればよかった。でも今考えてもそれが最適な道だったと思えないなら。
もうこういう運命だったんだ。幼馴染みがそのまま大人になって順調に結ばれるなんて。フィクションの中でしかあり得ない、ただのおとぎ話なんだよって。自分を納得させるしかないのかも…。
…スマホがぴこん。と小さく鳴って、慌ててそっちへころりと転がって手を伸ばす。
いや待て期待するな。どうせ所長から明日の仕事の連絡か、働き過ぎて昼夜の感覚おかしくなった編集者が非常識な時間に依頼の打診してきたかだろ。てかもしかしたらただ単に名越が上手く寝付けなくて明日の夕飯どうする?って相談のLINE送ってきたのかも。普通なら明日の朝するだろその話は、とは思うが。…どんなことでもあり得ないってことはない。
とにかく、吉村からって考えるな。違ってたときのがっかり感がでかい。
でもそんな思考のスピードも、思わず急いでしまう反射的な身体の動きには間に合わない。なんかの宣伝の広告とかだったりして、と一生懸命に自分の頭に冷や水を浴びせつつスマホを手に取ると。…そこに表示されてる見慣れたアイコンに思わず頬が緩む。
『遅くにごめん 大したことじゃないから返信は気にしないで 最近LINEできてないから』
ロック画面に表示されてる文はそこまで。別に急ぎじゃないってことは見て取れる。でも、すぐに既読がついちゃうな、どれだけ待ってるんかと思われる。ときにしつつやっぱり開いちゃう。
『…最近LINEできてないから心配かけるかなと思って ちょっと職場の飲み会が続いてた』
仕事忙しい?疲れてないかな、とこちらを案ずる言葉が続く。いや飲み会続いてるんならそっちの方が疲れてるだろ。本当に他人のことばっかりなんだからなぁ。
『わたしは大丈夫だよ。元気だしご飯も食べてる。吉村こそ、そんなに飲みが続いて平気なの?結構辛いんじゃない?』
明日まで返信寝かせようかな、と思いつつ勝手に手が動く。…やった。まだスマホを手にしてたのか、すぐに返事が返ってくる。
『気心の知れた人たちばっかだから大丈夫 異動が続いたし新しい人も入ったから送別会と歓迎会が重なってるんだよ 直織が元気なら何より』
この前のあの作家さんの表紙も良かったよ。と付け足され、ふと思い出して打ち込む。
『そういえば、また来年あたり個展するかも。吉村は忙しいから来るのは難しいかもだけど、正式に決まったら知らせるね』
『いいね、久しぶりじゃない?観に行けたら行きたいな 決まったら詳しいこと教えて』
やった。なんかラッキー。
寝る前につい吉村のこと思い出して、どよんとした気分のまま寝るところだった。本当に仕事を休んで東京まで来てくれるかどうかは怪しいけど、少なくともこっちで会える可能性はゼロじゃなくなった。
これで個展の準備ますます頑張れる。まあ、現実に直面したときにあまり落胆しないように。期待もほどほどにしておくよう、自分をコントロールしておかなきゃならないけど…。
ちょこっとだけ近況など報告し合い、明日もお互い早いからね。と言い合ってメッセージを終わらせる。さっきまでと打って変わってほっこりした思いで布団にくるまり、枕に頬を寄せて目を閉じた。
以前に較べるとLINEも途切れがちだし、向こうから連絡が来ることもだいぶ減ったけど。こうしてたまにメッセージをくれるときは変わらず優しいし、いつもわたしのことを考えてくれてるんだな。ってのがちゃんと伝わってくるんだよな。
だからあまり心配し過ぎる必要はないのかも。お互い忙しくなっただけで、わたしたちは何も変わらないよ。と自分に言い聞かせる一方で。
本当は気づかないうちに二人の間の距離が少しずつ広がってるのに。こうやって久しぶりに連絡を取り合ったり帰省で地元に帰るときはあまりに変化を感じさせずにやつが優しいままだから。
不穏な気配を感じつつも、何も以前と違わない。わたしたちの間に溝や亀裂なんかない、とつい希望的観測にしがみついてしまい、実際にはもう既に変わりつつある現実を認められなくなってるんじゃないんだろうか。
そうやってたまに降ってくる目の前のいいことに気を取られて、遠くの方に微かに見えてる不吉な終わりの予感から意識を逸らせてる。その間にひたひたとそれは着実に近づいてきて、気づいたときにはもうすぐそこに…なんてことに。
このざわざわする不安な気持ちは杞憂なのか本能的な洞察なのか。せっかくの幸せな気分に水を差されそうで、それ以上深く考えたくはない。
とりあえず今日の安眠のために、嫌な想像は無理にでもどこかへ押しやろう。と軽く頭を振り、わたしは布団にくるまって目を閉じて見たくないものを見ないふりで眠気を強引に自分の方へと引き寄せた。
《第27章に続く》
名越との半同居が快適すぎて流されてますが、吉村との間が不穏なようなそうでもないような。全く進展しないのはともかく、その上生活の忙しさに紛れてお互い連絡が間遠になりかけてる様子。現実でも遠距離恋愛でありがちなやつですね。
ていうか、前提として公式に恋愛でもないのが痛い。このままでいいのか、と普段はじわじわ暗雲が立ち込めてるけど。たまに話すと相変わらず優しくて温かく心配りしてくれるから、その瞬間だけは不安が吹っ飛んじゃう。…というサイクルに入ってます。この分じゃ放っといても進展しそうにないが。どうする、主人公?




