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第25章 幼馴染みとの仲がどうにも進展しない件。

『たっぷりあずきミルク増量550ml』は実在しません。…多分。

わたしが上京して以来、ここまでの吉村との関係は決して悪くはない。

前にも言ったけど高校時代のまるで他人同士って感じの距離感と較べたらそりゃ、雲泥の差ではある。

だけど。かと言って、大学入学した一年目にわたしがうっすら期待してたような関係の変化、つまり会えない時間と遠く離ればなれの距離が愛を育てる的な。そういう進展が僅かにでもあったかと言えば。…うーん、ばかりが遠慮がちな勢いでぼつぼつ五月雨的に増えていきそうな。そんな未だにはっきりしないわたしたちの間柄ではあるのだった。

こんな状態はぶっちゃけ予想してはいなかったんだけどなぁ。と久々に自分の部屋に帰って独りの時間をしみじみ味わいながら、ベッドに仰向けになって天井を眺めつつ考える。

だって、わたしが東京に行くのを迷ってるときに励まして背中を押してくれたときや。上京するのを見送りに来てくれて、ちゃんと双方から連絡を取り合おうねと約束を交わしたときも。

あれって普通に考えたら、それまで何ということもない関係だった幼馴染みが改めて二人の関係を見つめ直して互いを意識するムーブじゃないの、と。

…思うじゃん?思うよね、普通。でもどういうわけなのか、わたしたちの間ではっきりした形で将来の話はいつまで経ってもかけらも出てこなかった。ここまでの話。

わたしはごろん、と寝返りを打って横向きになり、何の愛想もない素っ気ないデザインの壁をじっと見つめる。

何でもない些細なことでもいいから小まめに報告し合おうよ。とわたしが強く主張したから、今でも吉村は特に何もないときでも律儀にLINEを送ってくる。

二年制の専門学校を出て就職してからは、さすがに忙しさに波があるらしく学生の頃ほど多くはないけど。それでも間隔が空かないよう気をつけて、元気?とかこっちはめちゃくちゃ寒いけど東京は大丈夫?とか、ほんのちょっとでも連絡を取り合おうとしてくれてるのはわかる。それは素直に嬉しいと思ってるし全然何の不満もない。

だけど、そこまできちんと一対一の関係なのに。

地元に帰省するときは必ず事前に約束して出来る範囲で何度も会うし、わたしが個展を開いたときにはわざわざ仕事を休んで上京して観に来てくれて、お互いも周囲もそれが自然だと受け止めてるほど決まった相手同士の距離感なのに。

未だに彼氏彼女じゃない、恋人同士じゃないってむしろどういうこと?好きとか好きじゃないとか、いつか結婚するとかしないとか。そういう話のとば口にまで行けてないって、一体どうしてこうなったんだ?

見通しの立たなさに先が思いやられてつい頭を抱えた瞬間。ふと脳内にこの前の夏、地元に帰ったときの記憶が蘇る。

「…直ちゃんはさ。本当はやっぱ付き合ってるの、うちの大ちゃんとは?」

吉村が仕事から帰るまでの間、俺ん家で待って時間潰してて。帰ったら車出すから外でご飯でも食べようと誘ってくれたので言われるままあいつの自宅に赴き、高校生になった妹の沙里奈ちゃんと他愛もない時間潰しの会話を交わしてたとき。

いきなり思い当たったように唐突にそう尋ねられて、反応に困ってパニックになりかけた。

ずっと小さな子どもだと無意識に考えてた末っ子からどストレートにそんな質問を投げかけられるとは予測してなかった。てか、そんなの当人と毎日家で顔合わせてるんだからそっちに訊きなよ!と思いはしたが。

やや歳の離れた異性のきょうだいにそんな話振りづらいのはまあ、わからないでもない。ちなみに彼女は上に二人いる兄を区別するためかそれとも両親の呼び方をそのまま口真似で覚えたせいか。吉村のことを下の名前の大智からとって大ちゃん(大きい兄ちゃんの略ではない)、真ん中の碧のことをミドちゃんと呼んでいる。

…わたしはげふんげふん、とわざとらしく咳き込んだふりをして動揺をごまかしつつできるだけ不自然さのない、無難な答えを探した。

「うーんと、そういうんじゃないよ。普通に幼馴染みで友達かな。まあ仲はいい方だと思うけどね、割と」

「そうなの?でもいつも他の友達とは別に二人だけで会ってるでしょ。今日だって、このあとデートじゃないの?」

「いや、ごはん食べに行くだけだよ」

なるべく平静に見えるように落ち着き払った態度を維持してきっぱりと答えてみせる。

お嬢さん、デートってのはお互いを異性として意識してる者同士じゃないと成立しないんだよ。わたしの方はまあそれで構わないとしても。向こうがそのつもりがあるかないかは、未だ霧の中。判然としない状況ではあるので。

沙里奈ちゃんはふぅん、とどっちつかずの声を漏らしてテーブルに肘をつき、何とは無しに点けっ放しのTVの方へと目をやった。しばらく黙ってるからそっちの内容に気を取られたのかな。と安心してたら視線はそのままで唐突に、独り言のように呟き始める。

「…前はこういう感じじゃなかったよね。高校生の頃は全然お互いの家を行き来もしてなかったし。でも今は直ちゃんがこっちに帰ってくるたびに、都合合わせて暇さえあればよく二人で出かけてるじゃん?」

「…うん」

それが何か?と無邪気な顔を取り繕って曇りなき眼を彼女の方へと向ける。

沙里奈ちゃんはテーブルの上に出しっ放しの菓子鉢からお煎餅の小袋をとって開けてから、ばりっといい音をさせて中身を噛み砕いた。

「ふつーに順当に、あー二人は段階が進んで正式に付き合い始めたんだなぁと思って見てたの。でも彼氏彼女にしては変だなって気がして。大ちゃんにこないださり気なく訊いてみたら、いや普通に幼馴染みで友達だよって」

既に訊いてたのかよ!てか、知ってるんならわざわざこっちにも訊くんじゃねぇよ。

妹みたいに大事に思ってる幼馴染みの子にとても口にはできないぶち切れ具合を内心でとはいえ、一発かましてしまったが。こんな状況での思いもかけない方向からの不意打ちの爆撃と思えば、わたしのそのときの衝撃と落胆にはいくばくかの同情が見込まれるかと…。そうでもない?自業自得?

TVの方からわっと大きな笑い声が響いてきた。何事かで一斉に盛り上がった空気だが、沙里奈はまるでそれに気を惹かれた様子もなくこっちに振り向いてずい、と身を乗り出してきた。どうやら外見の振りだけで、番組の中身を真剣に観てたわけじゃなかったらしい。

「…直ちゃんはさ。本当は今好きな人とかいるの、大ちゃんとは別に?」

「え。…いないよ、そんなの」

そっか、と肩をすくめて呟く。

「東京はかっこいい男の子いっぱいいるんだろうから、そっちに本命いてもおかしくないなと。上京するときはうちの大ちゃんといい感じだったけど結婚を約束したわけじゃないから、その後新しく好きな相手ができてもしょうがないもんね。でも今んとこ、そういうのはない?」

「ないよ。全然ない。てか、東京だから男の子がお洒落とか気が利いてるみたいなことないよ。みんなあんまり変わんないよ、地元と」

自分で言いながら、そうかな。やっぱりどこがとはっきり言い切れないが中高のときの同級生たちと今大学で顔を見て合わせる子たちは何かが違ってる気はする。

でもこれは東京と地方の差というより、大学と高校の差かな。男の子たちもその分大人になってるわけで、だから較べてより地元の子が子どもっぽいとかは結論づけられない。それに何より、吉村はもともと全然ガキっぽくないし。ずっと前から何となく余裕があって包容力あって大人だ。

だから何が言いたいかと言えば、うん。吉村が東京の男の子たちに比して物足りないとかそういうのはないよ。全然遜色なくその、いいと思う。わたしにはね。

沙里奈ちゃんはうーんと大きく伸びをして、拍子抜けたような声で独りごちた。

「そうなの?なーんだ、残念。東京行けばもっと芸能人みたいなかっこいい素敵な男の子、その辺にいっぱいいるのかなと思ってたのに」

「そんなわけないよ。そういう人は芸能人に既になってるんじゃないの、知らんけど。男も女も別に、普通だよ。めちゃくちゃお洒落な人ももちろんいるけど、一方でユニクロどころかコンビニで服買って済ませちゃってる人もいるし」

「それって普通かなぁ。コンビニで売ってる服、案外高いんだよね」

そうなのか。買おうと思ったことないから値段確かめたことないや。

沙里奈ちゃんはま、飲んで飲んで。と呟いてわたしのグラスにピッチャーから冷たい麦茶を注いでくれた。こういうとき、この子も大きくなったなぁと感慨深くなる。昔はいつもわたしや吉村が甲斐甲斐しく世話を焼く側だったから。あのちびちゃんが気を遣ってお茶を注いでくれるようになるなんて…とじんと来るな、やっぱり。

「…じゃあ、大ちゃんが駄目とか絶対無理ってことはない?うんでも、そっかぁ。あの天下の〇〇大の学生さんと張り合うんじゃね。うちのお兄ちゃん、ふつーの電機メーカーの修理屋さんだし…」

「何言ってんの、知識の要る専門職だし立派な仕事でしょ。いなかったら困るじゃん修理の人。みんな誰でもめちゃくちゃお世話になる存在だよ」

吉村は専門学校を卒業したあと、某有名電機メーカーの下請けの会社に就職した。しばらくの間はまだお父さんが元気で店をやってられるから、今のうちにと外での修行に出たのだ。

将来町の電器屋さんになれば、家電を売るよりまず一番声がかかりやすいのは故障したとき。今の家電に詳しくなって経験を積んでいれば、ちょいちょいとすぐ直せるのか部品の交換が必要なのか、もうどうにもならなくて買い替え時期なのかも判断がつくようになる。よくすればそこから新しい製品を売る、って流れにこぎ着けるかもだし。

他人の家や会社を回るからいろいろあるよね、慣れるまで大変かも。と言ってはいたが持ち前の人当たりの良さと温厚な性格のおかげで何とかやっていけてるようだ。

その辺はやはり客商売の家の子ならではだなと思う。わたしならストレスで倒れるか一ヶ月も続かず早々に脱走してる。

「わたしらよりも二年も早く社会人になって立派にお金を稼いでるんだからね。学生の立場からしたらむしろこっちの頭が上がらないよ。偉いなあと思いこそすれ、うちの大学の学生の方が上とか微塵も思わないな」

そこは吉村の名誉のためにときっぱりと言い切る。沙里奈ちゃんはまじまじとわたしの顔を見直し、やがてやや呆れたようにため息をついた。

「学歴とか職業とかが壁になってるんじゃないならさ。二人さっさと付き合っちゃえばいいのにと思うけど、どうしてそういう方向にならないの?逆に付き合う気がないんなら、帰省するたびにこんなに頻繁に会ってたらお互い別に彼氏彼女もできないでしょ。それでいいの、二人とも?」

「…吉村は。なんか言ってた?その辺」

ここまで人の心に踏み込んでくるんなら、兄貴に対しても案外遠慮なくずけずけと質問してるんじゃないか。とうっすら期待をかけて尋ねてみる。沙里奈ちゃんはいかにもつまらなそうに小さく肩をすぼめて答えた。

「いや。…直織は自由だから、好きな人が出来たらそれはちゃんと祝福するよって。じゃあ自分はどうなの?直ちゃんの他にもしかして好きな人いるのって訊いたら、なにも言わずに黙り込んじゃって。それっきり…」

う。

何なのそれ。一番気になるやつ…!

いないならいないって言えよ、はっきり!いやもしかして。

逆にそう答えられなかったってことは、本当はあいつ。他に好きな子とかいるのか?

わたしの知る限り、吉村は嘘のつけないやつだ。断言を避けたいことや知られたくない件については、適当な嘘をつくよりもぼやかしたり話を上手く逸らしてごまかす。

そういう意味ではその反応はかなり怪しいが…。どうなんだろうなぁ。どっちとも取れる気がする、判断がつかない。

高校生のときには誰とも付き合ってなかったし、多分他に好きな子もいなかったと思うけど。あれからもう二年半近く経ってるわけだし。向こうは社会人で大人で交友関係も世界もぐっと広がってるんだし、絶対にあり得ないかと言うと。…うーん、わからん!

「…お。待たせてごめん。何観てたの、二人で?」

「わ」

「びっくりした。…もっと大きな音立てて入って来なよ、大ちゃん」

ほとんど音もなくぬっ、とリビングに顔を出した吉村に沙里奈ちゃんとわたしは声なき悲鳴のような微妙な音を出して跳ね上がる。いや、あんたに聞かせたくない話とかしてることもあるんだからさ。もうちょっと気配出して、頼むから。

吉村はわたしたちの慌てぶりを見て、さすがにちょっと不審げな表情を浮かべた。

「そんな変なものでも観てたの?…あ。何だこの番組かぁ。まだ続いてるんだ、懐かしいな。昔はよく観てたよね。思えばTVって本当に観る機会減ってるよな。えーと、直織大丈夫?出かけられそう?続き観たいならもう少し待とうか」

「いや、いいよいいよ。別にそんな真剣に観てない」

てか、何の番組だったか正直認識してないよ。わたしはあたふたと空になったグラスを手にして立ち上がった。

自分の使ったものを洗って片付けて、沙里奈ちゃんにじゃあねと言って手を振って玄関から出る。それから表の店に顔出して店番中のお父さんとお母さんに挨拶し、吉村と一緒に車に乗り込んだ。

結論の出なかったさっきの会話のせいで、胸の内がなんとももやもやする。

せっかく吉村の身近なポジションである妹の沙里奈ちゃんが核心的な話を振ってくれたのに。…でも結局は、こいつの本心に関わるヒントは今ひとつ得られないままだったな。

公団の駐車場に停めてあった車に乗り込み、ゆっくりと安全運転で敷地内から出て行きながらふと吉村が不思議そうにわたしに問いただす。

「そういえば、TV番組は別に普通のというか。おかしくも何ともなかったけど、二人は何であんなに驚いたの?もしかして怪談でもしてた?」

「会談?…ああ。怪談ね」

唐突に出て来たワードに当惑。けど、確かにあの驚愕振りはそれで上手いこと説明がつくなと思い当たった。

とりあえずその線で話を合わせることにする。

「うん、そうなんだよね。夏だしちょうどいいなと思って、向こうで仕入れてきたのをちょこっと沙里奈ちゃんに披露しててね…。幸い結構怖がってくれたみたいで、まあ聞かせた甲斐があったな。と」

「えーそうなの?てか俺もそれ聞きたいけど。せっかくだから教えてよ、ここで。それとも二回連続同じ話すんのたるい?」

ぶ。…しまった、墓穴掘った。

ごまかすのが上手すぎて完全に信じさせてしまったじゃないか。けど、楽しみが溢れてわくわくしてる横顔がいつになく子どもっぽくてちょっと可愛い。これは、なけなしの知識を総動員していい感じの怖い話をこの場ででっち上げるより他選択肢はない。

「えーとね…、サークルの先輩に聞いた話なんだけど。その先輩の友達が住んでた下宿の部屋がね…」

うんうん、と笑顔で頷く吉村。こんなに期待させちゃったんだから、下手な作り話でがっかりさせちゃ申し訳ないな。

わたしはこれまで小耳に挟んだことのあるオカルト話を脳内に集結させ、頭脳フル回転で大受け間違いなしの傑作怪談を即席で作り上げるのにすっかり気を取られ。その日はとりあえず吉村の本心を探るという気重な課題に取り組むのは後回しになってしまった…。


とまあそんな感じ、一事が万事その調子。三年の冬になった今でも、状況は夏とほぼ変わっていない。

一応、ちょこっとだけど努力はしたんだよ?わたしの個展を開くと決まったとき。まずは吉村にその件を報告したあときっちり勇気を振り絞り、よかったらいい機会だから一回上京して観に来ない?とこっちから持ちかけて誘ったし。

こういう名目なら断れまい。ようやく二人で東京の街を一緒に歩くっていう夢が叶った、と万感の思いだったけど。問題はわたしの住処が超狭々の女子寮の一室だってことなんだよね。

…いや別に、ホテル代勿体ないよね。わたしの部屋に泊まればいいんじゃない?とか何食わぬ顔で提案して、あわよくば既成事実を成立させようと目論んだだろう。とか言いたいわけではない。けど。

もしも普通のアパートに住んでたら、実際に持ちかけたかどうかはともかく頭には浮かんだだろうな。少なくともそこでその申し出を受けるか断るか、でも向こうのスタンスが判明するんじゃないかとは思うし。

うーん、でも。…ちょっと仮にとそんな状況を思い描いてはみたが、それでほいほいと誘われるままわたしの部屋に泊まって成り行きと勢いでうっかり関係を持っちゃう吉村は想像できないな。

てか、いや一人暮らしの女の子の部屋にはさすがに泊まれないよ。とはっきり断ってくれるならともかく。

平然と部屋に泊まったのに、朝まで何事もなく清らかなまま、じゃあねー泊めてくれてどうもありがとう!と当たり前のようにお礼を述べて元気に帰って行った、とかなりそうで…。それも考えるだにつらいな。

幼馴染みで友達過ぎてその気が全くないから普通に泊まれる、っていうのが確定しちゃってもきつい。そう考えるとわたしが女子寮暮らしだったせいで少しだけ、向こうの本心判明イベントは先延ばしになったのか…。

現実には当然、吉村は都内のホテルの部屋を確保。うっすらほんのちょっと、そこにわたしを流れで呼んでくれないかな?(ホテルのルール的に駄目なのは知ってる。けど、好きな相手がおいでよって誘ってきたら。やっぱりもしかして、行っちゃうかも。よくわからん)とか考えないでもなかったけど。

一泊目も二泊目も、わたしをホテルの部屋に立ち入らせるどころか。一緒に楽しく過ごしたあと、当然で疑う余地もないといった顔つきでわたしを紳士的に寮の前まで送り届けたのちに自分一人で宿泊してる部屋へとすぱっと帰って行った。

だからやつが泊まったホテルをわたしは目にする機会すらなかった。こんなんじゃ、何とか危うい雰囲気に持ち込むことすらままならないよな…。

というわけで。ここまでぐずぐずと勇気がなくて二人の間の関係をはっきりさせられずにいたわたしが悪いのは重々承知なのだけど。

この状況で、ついにいよいよ。わたしは四年で大学卒業してもしばらく地元には戻れない。こっちでまだやることがあって、もう少しの間夢を実現するために頑張らなきゃいけない。と、訊かれもしないことをこっちから藪から棒に吉村に告げなきゃならない。とは…。

年末年始、毎年のことなので今年も粛々と帰省する。ちなみにすっかり手慣れたもので、わたし隣り合った座席を確保してずっと地元の駅まで一緒に帰って来た名越は、新幹線がホームにすうっと入って停車したのち降りる乗客でごった返すどさくさに紛れてさっさと一人消えていった。

そのことをもう何とも思わないわたしも、いつの間にかこの奇妙な習慣に完全に馴染んでしまったな。と考えながらこれもいつもの習慣で、ホームに迎えに来てくれてるはずの吉村を探す。

ついに名越に対しても吉村に対しても、二人が頑なに顔を合わせようとしないの何で?とか、たまに鉢合わせても素っ気なく短い挨拶をするだけでほとんど会話らしい会話もしないのはどうして?とか、もうわざわざ掘り起こして尋ねるのも面倒くさくなってしまった。

今さらそんなこと知りたくないし。絶対、ろくな理由じゃない気がする。

それにしても。片方だけじゃなく、双方がまるで申し合わせたかのようにお互いに似た反応を見せてるのはちょっと面白いな。しかもそれぞれが全然違う理由でそうしてるんだったら笑う…とかやくたいもないこと考えてるうちに無事吉村と遭遇。

そんなに久しぶりじゃないの珍しいね、と言い合いながら店を見繕って夕食を共にする。もちろん、まだ就職の話は出さない。何もこんな、再会を喜び合ってそうそうに世知辛い現実の話しなくてもいいでしょう。…と、自分に言い訳。

お互い学校と仕事の、他愛もないことを報告したりちょっとした愚痴をこぼしたり。そういういつも通りの雑談に終始する。普段はそれでいいんだけどね。これまでは…。

結局そうやってもだもだ後回しにしてるうちにあっという間に数日経ってしまった。いよいよ年末も押し迫って、今日は大晦日。

せっかくなんだから二人で二年参り行って来なよ!と沙里奈ちゃんに背中を押され(全然さり気なくないけど。気持ちは嬉しい。ありがとう…)、近所の神社に連れ立ってお参りに行くことに。

丘の上にあるその神社はそれほど規模は大きくないけど、ちょうど木々の間から海を望める絶好のロケーションのせいでこういうときにはどこからこれだけの人が集まってくるの?と驚愕するほど大勢の参拝客で毎年ごった返す。

だから高校までは面倒過ぎてまず二年参りなんてしなかったんだけど。吉村と一緒なら絶対に守ってくれるし離ればなれにならないようしっかり手を繋いで導いてくれる。だから初詣にかこつけて深夜のデート、というには周囲が賑わい過ぎてどきどきの種類が違ってきちゃうけど。

上京してからは、毎年帰省するたびにこのイベントをこなすのは吝かじゃなかった。けど、今回に限っては。

こんなざわめきと人いきれの中、実は進路のことで…とか打ち明けるタイミングじゃないな。と早々に見切りをつけ、この話はまた今度。と割り切ったつもりでいたのだが…。

「…熱心にお願いしてたね。そうだよな、いよいよ就職活動だもんな」

今って大学三年のうちに決まっちゃうところも多いんだろ?落ち着いて勉強にも打ち込めなくて大変だよな。と、同世代というより今どきの若者の話をする歳上のおじさんみたいになってる吉村。

まあ、こいつはもう既に社会人だし。いつか店を継ぐまでの腰掛けとはいえ某大手メーカーの系列下請け企業だから、そうそう潰れる心配もなく身分は安泰だもんね。もうとっくにそのステップは過ぎ去った立場からして今の若い子は大変だな、みたいな口調になるのはわからなくもない。

「まあね。四年になったら卒論もあるから。そういう意味では大変かも…」

就職はほぼ決まってる、って事実を曖昧にぼかしてさり気なく卒論の方へと話題をずらそうとする。

吉村はわたしのせこい誘導に気づいた風もなく、真剣な口振りでわたしをいたわり励ましてくれた。

「そうか、大学って卒論もあるもんな。就職活動と並行して進めなきゃならないのつらいね。だったら尚更なるべく早く仕事決まるといいのにな。やっぱり、安定しててそれなりに絵を描くくらいの余裕がある、忙し過ぎない会社がいいんだよね?」

そういうの、あったら評判聞いといてあげるよ。一応いろんな会社に出入りしてるから、そこの社員さんに職場の率直な評価聞くこととか意外とあるしね。と親身に言ってくれる吉村。…ああ、やっぱよくない。

このままいつまでも知らない顔してうんうん、って聞き流してはいられない。どのみちわかることなんだし、きちんと言葉に出して。面と向かって報告しなきゃ。

向こうに帰ってからLINEで実は…とかいうこともできたけど。吉村は知らなくても、わたしは結局対面で伝えるのを避けたって事実から逃れられないもん。

境内から出て階段を降りようとする吉村のコートの裾をしっかりと掴み、引き留めるように軽く引っ張った。

「あの。…まだ、正式じゃないんだけど。実は就職先、そろそろ決まりそう。…で」

「え?」

耳を寄せてそう訊き返したのは台詞の内容どうこうじゃなく、単に雑踏の中でいきなり話し出したわたしの声が小さ過ぎたからみたいだ。

そのことに気づき、遅まきながらしっかりと顔を上げて目を見て話した。階段の手前で立ち止まったわたしたちにばんばん他人の身体が当たりだし、吉村は慌ててわたしを抱えるようにして人の列から位置をずらした。

「え、就職決まりそうなの、もう?すごいね、めちゃ早いじゃん。てかどういう会社なの、そこは?」

やっぱり概ね聴こえてはいたか。こうなるともう引っ込みがつかない。わたしは観念して、顔を上げてしっかりした声で話し始めた。

「ちょっと業界では知られた大手のデザイン事務所なの。わたしのこないだの個展も観に来てくれたみたいで。二年の時にとった**展の審査員賞も評価してくれて。そのあと本や雑誌の表紙とかイラストの仕事してるのも、即戦力でいいって言ってくれて…」

半分スカウトみたいな形で声かけてくれて。この前面接に行ったばかりで、まだ正式に内定ってわけではないんだけど。とつっかえつっかえになりながら懸命に説明した。

「絵を仕事にすることは正直そんなに本気で考えてなかったんだ、わたし美大じゃないし。フリーでやってけるとは思ってないから会社に就職しなきゃいけないけど、美大卒じゃなければそういうとこは門前払いだろうなと…。だけど、これまでのわたしの活動をちゃんと見てくれて。うちに来ないかって言ってくれる事務所があったから…」

それと、その事務所は。とわたしは吉村に言葉を挟む隙も与えないくらいめちゃくちゃな早口で台詞を継いだ。

「みんな自分の活動をしてる人たちの集まりだから。個人の創作活動は自由でそっちから収入得てもOKなの。普通の会社だと副業禁止とかも結構あるし、そこはありがたいかなって。SNSとか個展やるとかは、社会人になってもできたら続けたい。って思ってたから…」

「そうなんだ」

雑踏の中でもぽつり、とはっきり響く吉村の重い声。

え、これどういう気持ちの呟き?と一瞬判別できなくて焦ってやつの表情を見てとろうと目を凝らす。

新年の未明、普段なら真っ暗なはずの境内に溢れる照明の光。だけど何もかもを隈なく明るく照らすには足りず、見上げた吉村の顔はところどころ影が差してぱっと見で感情が読み取れない。

けど次の瞬間、やつの口から飛び出した言葉は。明らかに万感の思いを込めたしみじみとした祝福の響きを帯びていた。

「…良かったぁ。本当によかったな、直織」

そこに懸念とか疑い、それどころか一抹の寂しささえ微塵も感じない。そうだよな、こいつはそういうやつだもん。

わたしが夢に一歩近づいた、って事実の前にまずえ、東京で就職するの?俺はどうなんの?なんてちらっとでも考えるような性格じゃない。なのにうっすらと伝えるのをためらったことを、わたしはむしろ恥じた。

吉村は周りの雑踏からわたしを守るように両腕でガードするのを忘れない。その姿勢のまま、感慨深そうに小声で独りごちる。

「大学卒業したあとも絵を続けるの、長いこと直織の憧れで目標だったもんな。ついにそれが実現するわけだ。ここまで東京で三年間、頑張った甲斐あったね。おめでとう」

やったな、よかったね本当に。と心の底から込み上げてくるような嬉しそうな声。やっぱりそこは手放しで喜んでくれるんだ、とありがたいようなちょっとだけ拍子抜けたような。

と、その次の瞬間。いけないまだ伝えてない、と慌てて遅ればせながら付け加える。

「あの、でもそうすると。その事務所は東京だから、もうしばらくこっちに帰って住むのは先になっちゃうんだけど…。絵の仕事って、本当に売れて向こうからばんばん仕事の依頼が来るようになればどこに住んでてもちゃんとやってける可能性はあるんだけど。わたしはまだこれからだから、もう少し向こうで。実績を積まないと…」

「ああ、うん、それはそうだよね。わかるよ、大変だと思うけど。でもすごいことだよね。美大卒でもないのに、絵の実力でプロの人たちが直織を認めてくれたってことなんだろ?」

危惧してた懸案はあっさり受け入れられた。反応としては、デザイン事務所に就職ってことは当然東京での話だろ?それはわかってるよ、くらいの感覚。

まあそれはそうか。出版社に伝手もできていくらか絵の仕事がもらえるようになってきて。ギャラリーで個展も開催してちょっと向こうで知られるようになったのに、ここで地元に帰るって選択は。

職業画家になるのは諦めて趣味で絵を続けるならそれでも問題ないけど。これからってときにチャンスを棒に振るようなものだもんな…。

そういう意味では、わたしが大学卒業して四年間でこっちに戻ってくるとはそもそもそんなに期待されてなかったのか。そう考えるとちょっと強張ってた肩の力が抜けた。

「そうかぁ、いやぁ良かったなぁ。直織が好きな絵をずっと頑張ってきて、それで認められて。…これってすごいことなんだよね?だって、〇〇大は普通にすごいけど。美術をやる人たちからしたら素人扱いでしょ?そういう中でやってきたことがちゃんと評価されたってことだよね、つまり?」

「うんまぁ。これまでの受賞歴もちょこちょこ受けてきた細かい仕事も。ちゃんと見て、大学名よりそっちで認めてくれて…」

わたしがぼそぼそと受け応えると、吉村はますますテンションが上がって。そう、あの本の表紙とかね!と思い出したように声を弾ませた。

「直織から小説の単行本の表紙の仕事が決まったって聞いたときはびっくりしたなぁ。思わず予約して買っちゃったよ。こんな大手の出版社の本?と思って、本当信じられなかったな。あの人の本、あれ以来ずっと直織が描いてるよね?」

そうすると俺もついつい全部買っちゃう。今じゃすっかりあの作家さんのファンになっちゃったよ、と人の良さそうな顔で晴れ晴れと笑う吉村。

やつに促され、人の波に戻って並んで石段を降り始める。わたしは足許に注意を払う体で下に目線を落とし、言葉を選びつつ相槌を打った。

「うん…。あの人、会ったことはないんだけどうちの大学のOBで。在学中に、SNSで作品を上げてる同じ大学の学生がいるってたまたま知ったらしい。それ以後ずっとフォローし続けてくれてたみたいで、その縁で依頼してくれて。おかげで他の仕事にも繋がったから。本当に感謝してるよ」

「そうかぁ、作者さんには会ったことないんだ。編集者越しにやり取りするってわけ?直織の表紙のために毎回買って読んでたら結構好きになっちゃったからさ。これからも応援してますって伝えて欲しかったんだけど」

あのシリーズ面白いよね、と楽しげに話す吉村の口調はあくまでも明るくて。無理をしてる印象はこれっぽっちも感じられない。

まあ、こっちが思ってたより四年で帰ってくるとは本気で期待はしてなかったんだろうな。って悟った一方で、もう少し残念がったりちょっとは気落ちしてくれても…って感情は拭えない。

こいつをがっかりさせたり悲しませたりしたくない。ってついさっきまで本心からそう思ってはいたのに。

いざ明るい顔であっさり受け入れられたらそれはそれで、やけに拍子抜けしてもの寂しい気持ちになるのがつくづく我ながら勝手な心の動きだなあ。と頭の端っこの冷静な部分で苦笑しながら、今度編集者さんに会ったらサインもらえるよう頼んでみるね。となるべく声を弾ませて何とかその場を取り繕うわたしなのだった。


とまあ、そんな風にしてわたしと吉村の間の決着はなし崩しに数年先まで持ち越される次第になったのだった。無論やつの方にわたしと対戦中であるって認識があるかは疑わしいが。てかないと思う、どう見ても。

ちょっと肩透かしくらったような気分になりつつも、そういえばまだ両親に話してなかった。と慌ててその帰省中に打ち明けて了承を得ておく。思えば吉村がどう受け止めるかばっかり気に病んでて、親に反対されるかも。とかまで全然気が回ってなかった…。

けど案の定、何となく漠然と想像してた通り。うちの両親は平然としてその展開を受け入れた。

「…まあ。多分そうなるだろうとは思ってたから。てか今さらじゃない?東京の大学行く時点でその可能性考えないわけないでしょ、親として」

家族全員揃って新年一発目、やや遅めの朝食は具がごんごんぶち込まれた豪華めのお雑煮。美味しいけど、母が張り切って用意したおせち(彼女は何故かおせち料理好き)もばばんと食卓に並んでるから。さすがに普段はそれほど量食べることないこの時間帯に、ここまで詰め込むのは至難の業だなあ…。まあ、頑張って食べるけど。せっかくだし。

母が呆れたような口調でまるで動じずあっけらかんとそう返してくる。うう、まぁ全力で反対されるよりかだいぶいいし。

物分かりのいい人ばっかでありがたいなぁと思う反面、わたしが地元に戻ってくるのを待ってるやつは誰もいないのか!とちょこっとだけ寂しい気持ちもないではない。贅沢っちゃ贅沢な話だが。

と、そこでそれまで黙ってた父がぽつりと小さな声で呟いた。

「…そうだなぁ。一旦家から出したらそのまま独立して二度と帰って来ないのは仕方ないというか。よくある普通のことなんだろうけど、寂しくないこともないよね…。こうやって、四人で朝晩とずっと毎日食卓を囲んでた日常はもう戻って来ないんだもんなぁ」

「お父さん。そんな、この子が出ていきづらくなるようなことを」

母が素早く聞き咎めて釘を刺した。こっちが不意を突かれてうっとなってる間、代わりにぽんぽんと父を牽制する言葉を先回りして投げかけてくれる。

「親として寂しいのはしょうがないけど。子どもはどのみちいつか旅立つもんよ、遅かれ早かれ。直織はたまたま大学進学がきっかけだったってだけじゃん。てか、いつまで経っても自立できない子もやばいでしょ。ある意味そっちの方が怖いから」

「まあ。…そうだなぁ。ちゃんと自分に合った仕事を自力で見つけてるんだし、むしろ偉いって褒めてやらないとな」

しみじみと即納得する父。気分的にちょっと寂しいなあと瞬間風速で感じただけで、特にごねたりもせずに終わった。

こうなるとあとは弟か。いやこいつが、姉ちゃんいなくて寂しいよとか考えてるとはこれっぽっちも思わないが。

それでも勝手にさっさと出て行った我儘自由過ぎる姉に何かしら思うところはあるだろう。と食卓の隣の席に顔を向ける。

「圭太としてはどうなの?あの、結局わたしだけ東京の大学に行ったじゃん。あんたはこっちの大学に通ってるけど本当は自分も外に出たかったとか?実は我慢して地元に残ったんじゃないの。お父さんとお母さんが寂しがるだろうとか。この家を放っとけないと考えて上京を諦めたとか…」

本当はわたしが卒業してこっちに戻ってくるのを待って、自分も入れ替わりで東京で就職しようと当てにしてたとかじゃないの?と疑心暗鬼で探りを入れる。

弟はすっかり呆れた目つきでちらとこっちに視線をやってから、ふぅーとわざとらしくため息をついた。それからおせち料理に箸を伸ばして肉っけのある品目だけをひょいひょいと小皿に載せつつちょっと小馬鹿にした口調で言い返す。

「別にねーちゃんが東京に行ったから遠慮して地元に残ったんじゃねーよ。俺の成績に見合う大学選んで、オーキャン行って結構いいじゃんってなったからそのまま進学しただけ。同じ大学来てるやつ何人もいるし、友達も多いし何の不満もないよ。てか若いやつの誰でもみんなが皆上京したいってわけじゃないんだよ、ねーちゃんってなんかその辺誤解してるよな。前から思ってたけど」

地元に残るやつはみんな痩せ我慢してるとかうっすら思ってない?とずけずけした口調で指摘された。…まあ。言われてみればそういうきらいはある、かも。

圭太はローストビーフばっかり五枚も皿の上に重ねて、むっつり不機嫌そうな表情のままばくばくと平らげながら(怒ってるわけではない。近年これが普通)突っ放した口振りで先を続ける。

「単純に地元は嫌いじゃないし、知り合いも多いし。ここ、言うほど田舎じゃなくて普通の地方都市だから別にひと通り何でもあるし。ここでやりたいことできるから出て行く必要性を感じないってやつもふつーにたくさんいるよ。だからねーちゃんばっかずるいなとかは一ミリも考えてないから。それに、まあ。…そのためにめちゃくちゃ頑張ってるのも知ってるから」

ひと息ついて、さっきよりさらにぶっきらぼうな口調でこっちを見ずに付け加えた。

「完全給付型の奨学金なんて、俺なんか絶対無理だもん。ましてや〇〇大だし…。そこまでオヤに負担かけないよう頑張ってまでも東京行きたかったんだなってのはわかるからさ。別にいいんじゃないの、誰にも迷惑かかってないし。気の済むまで向こうでやってみれば」

大体、大学三年の身で全国の本屋に置いてる本の表紙描くようにまでなるなんてさ。生半可じゃ無理なんじゃないの?と言う台詞の声色はともかく内容から、もしかしてこれで圭太なりにわたしの努力と成果を労って褒めてるつもりなのかな、とようやく察した。

父もおっとりしみじみ、話の流れに乗ってその言葉に同意してみせる。

「ほんとになぁ。書店で並んでる表紙見て、これが直織の描いた絵かぁ。って思わず感動しちゃったよ。本が出るって教えてもらったときは嬉しかったなぁ。会社の知り合いにもちょっと自慢しちゃったけど、ていうか俺が自慢するのも変なんだけどな」

「それはそうだね、描いたのは直織で父さんじゃないから。自慢ていうか、触れ回って娘を褒めてもらいたがる気持ちはまあ。わからなくもないけど」

でも、あんまり周りから親馬鹿だって呆れられないようにね。と母が苦笑気味に父を窘める。食卓の上で飛び交う会話をさっきから黙って聞いていた母はそれをきっかけに口を切り、改めて場を取りまとめるように話し出した。

「…ま、幸いわたしも父さんもまだ現役で健康だし。いつかはあんたたちに迷惑かける日が来るだろうけど、今はまだ大丈夫だから。自由が利くうちに気が済むまで好きなようにやってみれば?けど、出て行ったからって家のこと何もかも圭太に全部任せっきりは駄目だよ。もちろんわたしと父さんも、極力あんたたちに負担かけないよう備えはしとくつもりだけどさ。こればっかりはね…」

「まあ、そこは大丈夫じゃねーの?ねーちゃん向こうに行きっきりはないでしょ。これからもちょくちょく地元に顔出さなきゃなんないしね、何かと理由つけてさぁ」

圭太が小憎らしい知ったかぶりな顔つきで余計なことをのたまう。…てか、何なのこの意味ありげな言い回し。もしかして、わたしと吉村のこと当てこすってる?

思わず横目で圭太の表情を盗み見たけど。中学の同級生たちがこいつら男と女でめっちゃ仲良しじゃん、将来ケッコンしなよ!って囃し立てるレベルのガキっぽいおちょくりなのか。

それとも実は興味ない振りして、わたしと吉村の間の微妙な空気をこれまでの間に薄々察知した上でのこの匂わせなのか。…うーん、大人になってからの圭太ってさすがに表情のバリエーション少な過ぎて。こうやってまじまじと見てもニュアンスとか意図が読み取れないんだよね、今ひとつ。

「まあ。…長期休暇とかにはなるべく小まめに帰省するつもりだけど。こっちに友達とかもいるし…」

真っ向から圭太を相手にせず、そんな台詞で至極無難に流してやり過ごす。すると今ひとつわかってない様子の父が満面の笑みで堂々と地雷を踏み抜いた。

「そうだなぁ。直織が東京行きっ放しだとほら、吉村さんとこの上のお兄ちゃんだって寂しがるだろ。小っちゃい頃はほんと、仲良しだったもんなぁ。直織はよく転ぶからいつも大ちゃん大ちゃんって言って手を繋いでもらってさ。あんなに小さかった子が。もう一人前に就職だなんて、あっという間だよね…」

なんかしみじみしてる。

自分だけの追憶に浸ってるので、どうやら同じ食卓で何とも微妙な表情を浮かべてる妻と息子の変化には気づかないらしい。こっちはおかげで、あー母と弟はわたしと吉村の仲に何がしか思うところあるんだな。ってのがありありとわかってしまったよ。畜生、そんなの知りたくなかったなぁ。

「大智くんだけじゃなく、末っ子の何だっけ沙里奈ちゃん。あのおちびちゃんも直織がいないと寂しがるよ。忙しくなると難しいだろうけど出来るだけ帰ってきて顔見せてやんなさい。東京の話してやれば喜ぶだろうし、女の子は都会に憧れあるだろうからなぁ」

「…うん。そうだね…」

何も気づかず上機嫌にわたしにそう諭す父。何も間違ったことは言ってないので突っ込みようもない。

だからわたしは抗うのをすっかり諦め、この会話全てを大人の対応で軽く受け流すことにした。

ただ肩をすくめて、沙里奈ちゃんも大きくなったからわたしがいなくても全然、やってけると思うけどね。と小声で呟いたあと、ただ手持ち無沙汰をごまかすようにお重に向けて箸を伸ばしてはたと一旦止めてから、とりあえず無難なものを。とそのまま真下にあった蒲鉾を一切れ、深く考えずゆっくりと摘み上げた。


それから一気に時は飛んで、三年後。

デスクに向かってうーん、と悩みつつパソコンの画面を睨んでたわたしの肩を背後からぽん、と叩く人物が。

事務所の先輩たちは概ね親切でとっつきがいいけど、無言で平然と他人の肩に直に触れるようなことはしない。ほどほどに距離感のある、ちゃんとした職場だと思う。

距離感のない、と言えば一人ここに来てもおかしくない部外者が思い浮かぶが。もしそいつなら事務所に入ってくるなりあーお疲れさまでっす、なんかお手伝いすることとかありますか?とサイレン鳴らしながら入ってくる並に常に遠慮なくうるさい。やってきたのに気づかずにいる方が難しいやつだ。

と、考えると。この気軽で無遠慮な触れ方は女性。しかも社会人同士というよりも学生の頃の関係性を思わせる、としたら必然的にこの手の主は推測がつく。

わたしは振り向かず、かちかちとマウスをクリックしながらこちらも学生のノリが残る遠慮のなさで、だけど一応先輩だから…と言う理由で言葉だけは一応丁寧に応えた。

「来栖さん。…こんにちは。所長にご用ですか、今日は?」

うちの事務所は所員全員フルタイムで張り付きっきり、というような勤務形態ではない。今も室内に姿を見せてる所員はちらほら、全体の半数以上は打ち合わせに出たり取材中だったり自分ちでこもって作業してたりする。わたしはちょっと、今かかってるのが他の人から引き継いだばかりの慣れない仕事なので。何かあったら誰かに訊けるようにとここで作業中。

そんなわけで平日の午後の昼下がり、事務所の中は閑散としていてわたしの両隣の席も空いてる。彼女はわたしのそんな態度を無礼だと感じた風もなく、いつもの調子で平然と答えた。

「まあね。近くまで用事で来たから、ついでに打ち合わせしよっかなと。でも、今外してるみたいね穂坂さん。アポなしだからまあしょうがないか。ちょうど時間空いたからふらっと寄ってみただけなんで」

「いやアポイントは取らないと駄目ですよ。あの方本当に飛び回ってばっかで、ろくに席にいないですから」

そこでちょうど作業のきりのいいとこまで来たので、ようやく手をとめて彼女の方を振り仰ぐ。

T美のミス研の二年先輩の来栖さん、略して『くるせん』。わたしより一年早く**展で入賞した押しも押されぬ実力者はすっかり慣れた様子で臆することもなく隣の席の空き椅子に手をかけて引き、こちらが勧めるまでもなく自らどっかりとそこに座り込んだ。

「真面目に頑張っとるね。こぉんながらがらなのに、この事務所いつも。新人さんだからって、やたらと先輩の仕事押し付けられてないか?」

「新人って。言ってもう二年目ですよ、わたし。まあ今年は新規採用なかったから。考えてみれば変わらず一番下っ端か…」

「そうだよね。確かあたしの知ってる限り、笹谷ちゃんより若い子いないって認識、ここ」

ほい、差し入れ。と言ってぽんと寄越した冷たいペットボトルをお、とすかさず手を出して受け取った。

ありがとうございます、と素直にお礼を言いかけて思わずラベルを二度見した。なんか見たこともない商品名が目に飛び込んできたような。…『たっぷりあずきミルク』?そんなコールドドリンクこの世に存在するの?

「これ。…いや頂いといてこんなこと言うのは何ですけど。おしるこドリンクでよくないですか?しかも何で『たっぷり』なんでしょう…」

まさかの『増量550ml』。もらっといて本当に申し訳ないんだけど、そんなには要らんし。

彼女は肩にかけたトートバッグから次いで自分の分と思しきブラックの缶コーヒーを取り出してからぷしゅ。と景気のいい音を立てて蓋を開けた。あ、いいな。自分ばっかりコーヒー。

「先輩は同じのじゃないんですね」

よほど喉が渇いてたのか。まるでポカリスエットを飲み干すみたいに思いきりボトルを持ち上げて一気飲み。

てか冷たいからってコーヒーを水代わりにするな。まあ、気持ちはわからなくもないけど。わたしもたまにやる。

飲み終えた彼女はぐい、とお行儀悪く口許を手の甲で拭い、こちらに向き直ってあっさりと言った。

「甘い飲み物ってあたし苦手なんだよね。だから、笹谷ちゃんに代わりにそれ、試してもらおうと思ってさ。何なんだよあずきミルクって?おしるこドリンクに牛乳ぶっ込んで撹拌したやつ?とか考え出したら気になっちゃって。某あずきバーを大量に溶かしてまとめて飲む感じなのかなとかさ」

「いえ、わたしだってめちゃくちゃ甘いもの好きなわけじゃないんですよ。普通ですから、この量はなぁ…。どうなんだろう」

他人を試飲要員に使うなよ。と思いながらも自分もちょっと興味はあるから、文句言いつつキャップに手をかける。まあ、ちょうど休憩のタイミングだし。

きゅっきゅ、と蓋を外しながら。そういえばこの人ともずいぶん仲良くなったもんだよなぁとふと改めて感慨深い思いに浸る。

思い起こせば在学中、そこまで距離近くはなかったもんな。サークル一緒とはいえ二年違いで、同時に在籍してた期間も短かったし。

わたしより先に社会人になった来栖さんだが。卒業するなり早々にフリーとなってその多才ぶりを発揮している。

彼女の場合、**展だけじゃなくその後一般部門も全て対象に含むオールジャパンのトップコンテストでも入賞を果たしてるしね。まあ、才能からしてわたしの知り合いの中じゃ断然突出してたわけだ。この若さで完全フリーで仕事できてるの純粋にすごい。

ちなみにあの頃いかにも尖った美大生ばりばりの出立ちだった見た目は完全に一新され、シャープなパンツスーツをすっきり着こなし、黒髪を綺麗にまとめたハイセンスな業界の人そのもの。

フリーだとこの方が大人の人たちからの信用が得やすいからね。あと、ちょっとこういうコスプレしてみたかったから。と自身のイメチェンの理由をあけすけに説明してくれた。

まあつまりは、在学中にしてた格好はあくまで美大生っぽいコスプレの一環であって、四年間服装で存分に遊んでそれに飽きた。っていうのが実際のところらしい。

今回の新進気鋭の若手アーティスト風コスプレも見事によく似合ってる。こうして見るとこの人、普通に美形だよな。以前はファッションの奇天烈さばっかに目がいってあまり気づかなかった。

「あ。…うん、意外と甘さ控えめ。これならごくごくいけますよ。ミルク感強めかな、あのね微糖でミルクたっぷりのカフェオレってあるじゃないですか。あれのあずき版」

「なるほどねーと思わせといて最後のひと言でん?となるな。『あずき版』ってパワーワードで一転、意味不明だわ」

けどまあ、丁寧な試飲レポありがたし。次見かけたら自分用に買ってみようかなぁと他人の事務所の椅子に我が物顔でそっくり返る来栖さん。まあね、その席の主の阿部さんという先輩は今日は家で仕事してるはずだから。そうやってるとこに鉢合わせで顔合わせたりはしないと思うけどさ。

…卒業してわたしは、穂坂さんというちょっと業界では名の知れてるデザイナーが代表を務めるこの事務所にお世話になることになった。

そこで向こうの卒業以来、顔を合わせる機会のなかった来栖さんと偶然再会することになったわけだ。

在学中は同席すれば普通に会話する程度で特別親しい間柄でもなかったので、ここでたびたび鉢合わせるようになってからの方がだいぶ気心が知れて気の置けない仲になったと言える。気さくすぎてさばさばを超えるさばさばっていう、まあ何というか他人に対する関心の薄さがいい具合に作用したこだわりのない付き合いやすい人だ。

「…そういえばさぁ。こないだここであいつに会ったよ、何だっけ笹谷ちゃんのストーカーな男」

わたしの机の上に置かれてたチョコの箱(もらい物)を見つけて、一個ちょうだい!と断りがさがさと遠慮なく中から二、三個まとめて掴んで取り出した。小袋のパッケージの端をび、と切りながら、唐突に思い出したように彼女は話し出す。

いや甘いもの苦手設定どこいった?まあわたしも箱ごと全部食べきれなくて持て余してたとこだから。全然いいけど。…と突っ込もうとしたところにぽんと寄越されたトスに気を取られ、そのまま話はそっちに横滑りしていく。

「ストーカー?…ああ、名越ですね。あいつはときどきここに顔出しますよ。別に雇用されてるわけでも仕事があるわけでもないんですけど。わたしの個人エージェントなんで」

これまでいろんな人に百回説明会したことを機械的に復唱しただけだが、最後に付け足したフレーズにくるせんは不意打ちを食らった、といった顔つきになり目を剥いた。

「え、すげー笹谷ちゃんエージェント雇ってんの?個人で契約してるってことだよね。すごいな駆け出しなのに!あたしなんか、まだそこまで切羽詰まってないから自分で何でもやってるけど。そろそろきついなぁと思ってはいるけど、先立つもんがね…。結構持ってかれるでしょ、間に入ってもらうと?」

「いやそれが。…名越ですからね、何といっても。間に入りたくて自主的に入ってるやつなので…」

微妙に言葉尻を濁す。ミス研の頃の記憶を掘り起こすように上目遣いになり、一瞬のちに彼女はああ。と得心した様子で小さく頷いた。

「ま。…考えてみればそっか。名越だもんね」

「はい。そうなんです、あいつのことですから。報酬は二の次なので…。それでもタダは駄目だからっていって。ここのお給料以外のプライベートの仕事の収入の一部のいくばくかを、パーセンテージ決めて振り込んでますけどね。あ、只働きは駄目はこっちの台詞ですよ。向こうは超ブルジョアの坊ですから、ボランティア上等の精神なんですよね」

わたしの淡々とした説明を聞いて、彼女は無表情に肩をすぼめた。

「ふわぁそっかあ。考えてみれば○○地方出身の名越って、あの名越グループの御曹司ってこと?確かに、それなら趣味で好きなことやってても食いっぱぐれる心配はしなくていいのか。…今、院に行ってるんだっけ?あいつ」

「はい。院生です、正式な身分は」

わたしをデザイン事務所に所属させるために、学生時代を通じてほぼ全力で奔走した名越だったが。四年になっても自分の進路についてはまるで動く様子もなく泰然としているのが気になって、焦れ焦れした挙句に思いきって突っ込んでみた。

「あんた、他人のことは過保護なくらい行き届いた手配してたくせに。自分の将来についてはどうなの?その気になれば名越の実力ならデザイン事務所でとってくれるとこあるんじゃないの。ちゃんと真面目に就職活動してる?」

まさか、実家が金持ちだから俺は働かなくていいんだーとか言い出さないよね。ボランティアでわたしの世話してそれ以外は何もなし、みたいな暮らしは良くないよ。と諄々と説こうと構えたらあっさり返された。

「あ、院に進むよ。それが当面のところベストじゃない?勉強も続けられるし、あんたのサポートする時間も確保できる。だからずいぶん前からそのつもりで準備してたから」

なるほど。

「あ。…そうですか」

要らんお節介だったね。と素直に引っ込んだ。

まあな、美大生の一番理想的な進路って結局それかも。大学に残って研究生になって、助手になって将来的に教授になる。

学生に絵を教える傍ら自分の制作もできるし、作品を発表する場もある。特に確定的な進路のない美大生はみんなそうしたいよね、モラトリアムだもん。

けど大抵の人はそんな経済的余裕ないから断念する。

そういう意味では実家が太い美大生って最強か。と内心思ったけど口には出さない。結局名越のモラトリアムの恩恵を最も受ける形になったのは、今でも僅かな報酬で陰になり日向になりつつも支え続けてもらってる側のわたしその人ではあったわけなので。

来栖さんは、いいよなぁ院生。と独りごち、飲み干して空になったコーヒーの缶をわたしのデスクの上に置いてうーんと伸びをした。

「親掛かりの学生なら採算とれなくても普通だし。この仕事取れなかったら次に繋がらないとか考えて描かなくてもいいんだもんなぁ。あたしも院に進めば良かったのかも」

「そんな。来栖さんくらい実力あったら絶対早く世の中に出た方がいいですよ。勿体ない、学校の中に引っ込んでたら。現に名前の出る仕事、もう既にばんばんこなしてるじゃないですか」

この人でもそんな弱気なこと口にするんだな。と思いながらそう励ますと、いやぁそうは言うけどさぁ。側で見るよりいろいろ大変なんよフリーは。とため息混じりに呟いた。

「その点事務所勤めはどっちこっちだね。安心な面もあるしきついところもある、自分だけの責任で済まないとこもあるしね。けど事務所がカバーしてない個人の仕事の範囲については、昔馴染みがエージェント買って出てくれるなら。それはそれでありがたいじゃん。…今でも一瞬に住んでんの?半同棲状態って本当?」

「誰から聞いたんですか、そんなの」

まだ『たっぷり』残ってるあずきミルクをぐいっといってるときだったから、一瞬ちょうどむせそうになった。極力冷静さを装い、さり気なく確かめようとする。

大して本気で興味津々といった風でもないらしい。彼女はわたしの机の上に置いた空き缶を手持ち無沙汰にかんかんと弾いて遊びながら、平然と答えた。

「え、ミス研じゃ有名だったよ。てかそういえばあたしも在学中に本人から聞いたわ。ほらあたしが三年のとき。**展の搬入で偶然鉢合わせたじゃん?あのあと名越と話す機会あってさ。あの子、美大に属してないのに普段どこで絵描いてんの?って訊いたんだよね」

くるせんとしてはわたしが超せませまのワンルームの女子寮に住んでるとまでは知らないから。画塾とかどこかの団体に属してるの?くらいの意図で尋ねたらしい。もちろん完全に個人でこつこつと描いて応募することも出来なくはないが、誰か先生についてるのかな?と作品を目にして何となく思ったってだけで。

そしたら。

「あー、場所は困ってるんですよねぇ。絵画教室でバイトしてるんでそこの先生に見てもらってるんですけど、住んでるとこから遠いので毎日通うわけにもいかなくて。ですから基本俺の部屋のアトリエで描いてもらってます。広さ充分あるし、寝泊まりの準備も完備してますから」

まるで照れも後ろめたさもない表情でけろっと言われた。

「そんなんだから二人付き合ってんのかな?と何となく思ってたけど、会場で出くわしたときも自分は応募もしてないのにわざわざ付き添ってて。側から見てもあの無私の献身ぶりには引いたし。けどしばらくして、学内でよくいろんな女の子取っ替え引っ替え連れてるのを見るようになってさぁ。あれって笹谷ちゃんはいいの?ちゃんと承知の上なのとか。さすがにちょっとだけ気になっちゃってさ」

え、大丈夫です。承知の上ですよ。

「それで同じミス研のやつにそれとなく訊いたら、笹谷ちゃんとあいつはそういう仲じゃないらしいって。ただひたすら名越が笹谷ちゃんの作品を好きすぎて、全力でサポートして推しまくってるんだって。サークルん中じゃ既に有名だったよ」

「ああ。…そうですね」

わたしは納得して相槌を打つ。

わたしの母校の〇〇大の方では、周りから尋ねられても『付き合ってません』と否定するのは名越から固く禁じられてた。自分の目が届かないところでも存在が虫除けになるから、って。

だけどT美の方では、わたしが一人でふらふら自由に活動する機会は言うほどない。

名越が必ずしもつきっきりでなくても、ほぼ活動範囲はミス研内で収まるから。そこで多少不穏な動きがあっても早い段階で察知して押し込めることができる。だから別に嫌なら付き合ってませんと否定してもいいよと許可が下りてた。

まあ、そうじゃないと自分が大学内で自由に恋愛するのに支障があるもんね。そういう理由だとわかってはいたが、こっちも他人の恋路を邪魔する趣味はないから。先輩や同期に名越とは実はどうなの?と訊かれるたびに晴れ晴れとした笑顔で付き合ってませーん、と堂々と答えていた。

あとで冷静に考えると、そのせいで名越の毒牙にかかる女子の数がより増えたのでは…とちょっと気が引けないこともないが。成人した男女のことだからまあ本人同士の問題だと思う。わたしが彼女らに何かしてあげられたかも、などと考えるのも烏滸がましいだろう。

いかにも暇つぶしの雑談、といった調子でその件について話し続ける来栖さん。

「…何でも学生寮住みで制作の自由が利かない笹谷ちゃんのために名越は自分の一人暮らしの部屋を全解放してて、だから歴代の彼女たちも皆、やつの自宅は出禁だったんだってね?一人フライングして押しかけちゃった子がいて、その子はほんの一ヶ月もしないうちにさらっとリストラされちゃったって。本当?」

うわー。

みんな、よく知ってるなぁ…。ずいぶん前のことだからむしろわたしの記憶の方が朧げかも。わたしは引き引きになりつつ、今さら隠すほどのこともないか。と素直に答えた。

「こっちから振るとあと引くから、向こうから別れるって気にさせるのに時間かかっちゃったよとか言ってましたよ、そう言えば。結構怖い男ですよあれで。その気になればある程度は相手を思うように動かせるやつですからね。まあ、敵に回したくはないです」

「そうかな。それは自分が特に重要だと考えてない相手限定じゃないの?だって、例えば笹谷ちゃんとかは別にあいつの言うこと、何でも素直に従ったりとかはしないんでしょ?」

「わたし?」

そういう視点でわたしたちの関係を見たことがなかった。あいつの意図通りにわたしが動かされてる部分があるかというと、うーん。

「どうなんだろう…。思うにやつがわたしに求めてることって、つまりは元気で健康で絵を描き続けていてほしいってだけだろうから。今現在の状況を見るに、まあ大体向こうの思い通りなのでは。わたしがもう絵を描きたくない!とか別の仕事を選びたい!とか言って反抗しなかったわけですし、今ここでこうしてるだけでも。やつはかなり満足なんじゃないですかね…」

それって無意識に気づけば名越の意図した通りに転がされてる、に入るのかなぁ。一応向こうの希望するとこはわかってて、自分も吝かではないからそっちのルートを行ったってだけで。

気づかずいつの間にか操られてるみたいな話とは違うと思ってるけど、うーん。…どうだろう?

呑気に首を傾げてるわたしをどう思ったのか。机の上から空き缶を手に取り、ふと頬を緩めて微笑みに似た表情を浮かべた来栖さんはどきっとするほど大人の女に見えた。

見た目も仕事のできるバリキャリ風だし、意外にそういう顔つきがよく似合う。美大生コスプレで傍若無人に振る舞ってたときはそんな風には見えなかったけど。この人、他人との距離割と取ってるから周りを俯瞰してるというか。案外達観してるんだよな。

「…まあ、本人はわかんないか。けど自分で思ってるより笹谷ちゃんはあいつの思い通りにはなってないと思うよ。あれで結構、苦戦してるんじゃないの。そう簡単に表には出さないだろうけどさ」

ま、いい気味だよね。何でも小手先でコントロールできると思い上がってる男にはいい薬なんじゃないの。となんか一人で楽しそうに納得してる。何なんだ意味ありげに。

「あの。わたしと名越はそういうんじゃないですよ、さっきから何度も言ってるけど」

「へーき、それはわかってる。わかってるからこそ言うんだよ。…あ、何だぁ穂坂さんいるじゃん。隠れてないでさっさと出てきてよ、もう」

「いや隠れてないよ。今来たんだよ、ご存知の通り」

事務所の入り口のドアを開けて入ってきた所長がいきなり声を浴びせかけられて、当惑した様子で目をしょぼしょぼさせた。

来栖さん、今日打ち合わせの約束とかあったっけ?と訝る彼に、いやいやわたしがこの近所に用事あったんすよ。ワンチャン所長いたらいっぺんでまとめて用事済むなぁと思って!と満面の笑みですたすたと近寄っていく。

ひでぇ、自分の都合だけだ。とぼやきながら来栖さんに引っ立てられ、ほぼ寝起きと思しき所長はあえなく打ち合わせスペースへと連れ去られて行った。

…何なんだろあの表情。いかにも意味ありげだったなぁ。

わたしは気を取り直し、首をこきこきと回してから再びパソコンに向かってマウスの上に手を載せる。

まあ、言いたいことはうっすらわかるよ。わたしがいつまで経ってもあいつに惚れない、だから思い通りにコントロールされてることにはならない。って匂わせでしょ?

だけどそれはそもそも、向こうも意図してないし。

来栖さんは名越のことをよく知らないから勘違いしてるのかもだけど、あいつは本来誰にでも好かれたいなどと考えるやつではない。まあその気はなくとも自然と誰からも好かれがちではあると思うが。小憎らしいことに。

大体、わたしにも好意を持たれようと仕向けるつもりがあるなら。あんなに素の自分をあけすけに見せてたら台無しじゃないか?

もうちょっと人でなしな部分を何とか、形だけでもごまかさないと。…あんなんで相手に恋愛感情を持ってもらえるとちょっとでも考えてるんだとしたら。まじでおこがましいもいいとこだぜ。

しかし。来栖さんみたいにして他人に興味なさげな人でも、男女が長いことそばにいれば普通惚れるもんじゃないの?って偏見あるんだなぁ。そこはちょっと意外だった、と相変わらず呑気な感想を抱きながら。

飲んでも飲んでもなかなか終わらない、意外に美味しいけどちょっと微妙にぬるまってきた『たっぷりあずきミルク』。何だかお腹がぽこぽこしてきたなぁと考えつつ、わたしはボトルを思いきってぐいと持ち上げ一気に飲み干して片付けた。


《第26章に続く》

就職とそれにまつわるどたばたの回です。

東京の大学に進んだ女子が地元に戻って就職する率ってどのくらいなんでしょう。やっぱりそのまま東京に残る人も多いでしょうね。

吉村との関係がきちんと進展して正式な彼氏彼女だったら、事前に東京で就職していい?と相談できてたんでしょうが。事後報告で、しかもあっさり受け入れられて曇りなき笑顔で祝福されて微妙な気持ちになるのわからなくもないです。けど反対されてもそれはそれで困るし…。

現実には長い期間の遠距離恋愛はなかなか難しくて、途中で別れるかどっちかが根負けして片方の拠点に移住しちゃうでしょうね。卒業してさらに二年が経過している現在、二人の距離感は一体どうなっているんでしょうか。…次回に続きます。

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