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第24章 或る夜の出来事

ちょっと時空スキップして、彼らは進級して二年生に。

名越プロデュースのおかげで笹谷の実績は少しずつ、着々と積み上げられていきます。が、そんな日々の中であるときとんでもない出来事が。…お酒は怖いですね。皆さんもどうかお気をつけください。

そんな風に、大学入学して一年目は慣れない環境や遭遇したことのない出来事に四苦八苦、一喜一憂しては振り回されて上手くいかないことも多かったが。

二年目以降はそれなりに東京にも大学にも慣れ、我ながら要領もよくなっていき。手を抜いても大丈夫なところとここぞとばかりに本気出すべきところの区別もつくようになり、ぐっと勉強も制作も効率が上がってきた。そうなると普段の生活も楽になり、我ながら楽しむ余裕が出てきたように思えた。

大学一年の終わりに小さなコンクールでわたしの作品は入選を果たし、そしてついに二年生のときの念願の例の**展。さすがに大賞は逃したけれども、幸い審査員賞を頂くことができた。

国立美術館で展示される入賞作品を観に行ったとき、もちろんわたしもすごくしみじみと感慨深かったけど。本人よりも誰よりも、友達であり美術仲間でありわたしの推しでありスポンサーでもある名越が傍目も構わず感動に浸りきっていたので、反動でこっちはちょっと冷静になって引いてしまったのも事実だ。

「いやぁ、さすがだよなぁ**展の審査員さんて。二年目にしてついに笹谷の凄さを見抜くことができるなんてさ。いや本当なら大賞が相応しいと判断するのが普通だよ?でもまあ、いろんな価値観や考え方があるからさ。複数の審査員の中には笹谷の真価が理解できない人もいるんだろうし、なかなか満場一致とはいかないのがやっぱり現実なのかな…」

そんな中、きっちり最後まで笹谷の作品を推してくださった○○○さんはさすが、見る目があるね!とか言いながら会場で感慨深そうにいつまでもわたしの絵の前から動こうとしない。

そんな相方の奇態を他人のふりして見放すこともできず、何とか周りから浮いたやつと思われないよう適当に相槌を打って名越の気が済むまでその場に付き合ったわたしも思えば辛抱強くなったもんだ。

「まあ。…この結果もあんたの後押しのおかげだよ。名越に何かといろいろ助けてもらったからこそ、ここまで来られたと思うから。本当にありがとうね」

いつになくしんみりした気持ちでそうお礼を言うと、ちょっとは感激してみせるかと思いきや。何故かとんでもないことを言われた。とばかりに目を三角に吊り上げてこちらに檄を飛ばしてきた。

「え、何言ってんの。こんなの笹谷のこれからの本格的な活躍を考えたら、いわばただの序章だよ。全人生のキャリアのほんのとば口に過ぎないわけでさ。そりゃちょっとは箔がついたけど、あんたはもっともっと。有名になって世間に知られて、いつかは世界に向けてより大きく羽ばたかなくちゃ」

えー…。たった今、ようやく上京二年目にしてひとつ形になる結果を出したばっかりだっていうのに。ほっと喜ぶ暇もなく、もう即その先の話?

「あんた、意外と厳しいってか容赦ないね。ここまでよく頑張ったね、えらい!とかちょっとは労って甘やかしてくれるかと思ったら。ここで満足して立ち止まってる暇あったら一刻も早くもっと先へ行けってか。まあ言いたいことはわかるけど。何も今日それ言うことなくね?」

少しの間くらい達成感に浸らせてよ。と文句を言うと、ああそれはもちろんだよ。と表情を緩めて、名越は取ってつけたように笑った。

「今この瞬間、嬉しいのは当たり前だし。あんたの念願だったこのコンクールで賞が取れて本当に良かった、一緒にこの喜びをいくら分かち合ってもまだ飽き足りないって思いは俺にだってあるよ。でもそれはそれとしてさ。これが笹谷の全てじゃない、あんたはもっとすごいんだぞってのも同時にある。だから今、あんたを思いきり労って何でも言うこと聞いてあげる気はあるけど。それとは別に俺の方はもう次の手を打つことを考えなくちゃ、気を抜いてる暇はないぞって自分を戒めただけで…」

そうだよな、まずは祝勝会だ。どこかいいレストラン予約してコース料理でも食べに行こうか。それとも思いきってどっかいい目の温泉旅館でも取って、一週間くらいゆっくり逗留する?とか超ブルジョアなこと言い出した。全く!金持ちのボンボンが。

「そういうのはお互い、自分でそれだけのお金稼げるようになってからね。まあ名越のお父さんお母さんの資金のおかげでわたしもアトリエを使わせてもらえてるし、画材やら車の送り迎えやら。結局お世話になってしまってるのは心苦しいとこだけど…」

その分のお礼をするっていっても、完成した絵を真っ先に名越に見せて喜んでもらう。っていうのが精一杯のお返しになっちゃってるもんなという反省はある。

肩身狭くごにょごにょと語尾を濁すわたしに、名越は疚しさ0パーセントの曇りなき眼を爽やかに向けた。

「いいんだそれは。笹谷は気にすることない。見どころあるアーティストの卵の将来に賭けるのは大切なことだし。うちの父親もあんたの素質はちゃんと知った上で認めてるわけだから、あんたの絵にかかる費用はうちの家業からしたらいわば投資の一環だよ。俺の一存で笹谷に勝手に元手をベットしてるわけじゃない。てか、本当はあんたの制作活動が何不自由なく進められるようにもっと潤沢に注ぎ込みたいところなんだけど。それは嫌だって笹谷が遠慮するからさ…」

「いや制作に関することはありがたいし本当に助かってるけど。あんたの申し出、全然美術とは関係ないことも多いし」

絵の題材になるかもしれないから取材兼ねて海外旅行に行こうとか。近藤先生んとこのお絵描き教室以外のバイト分は全部援助するから塾講師やめろとか、果ては洋服買ってあげるとか食材全部用意するからご飯は毎食うちで食べようとか…。過保護を超えた過保護では。

「そんなことないよ、どれもあんたの制作活動のサポートになると思って提案してる。美術と関係ないことなんて何もないじゃん」

じゃあ、旅行はあとで相談ということで。まずは祝勝会ね、とこっちが反論する間もなくさっさとフレンチのレストランを予約されてしまった。

そんなとこでのディナーに着ていく服なんてない!と切れて文句を言うと、即そのままやつの行きつけの百貨店に車で連れて行かれて担当の外商の人にぽんと預けられ、上から下まで一瞬でコーディネイトされてしまい…畜生、抜かった。

また美術と全然無関係な多大な貸しをこいつに作ってしまったではないか。しかしカーゴパンツとざっくりTシャツのまま堂々とファインダイニングレストランのディナーに乗り込むほどの度胸は、ついこないだまで地方の高校生だったわたしなぞには到底…。ああ、無念だ。

「やぁ、やっぱり綺麗だ。似合うよ笹谷。もちろんいつものラフで適当なかっこでも、あんたの良さはちょっとも損なわれないけども。むしろあれはあれがいいまであるけど」

いやでも本当にいいなこれ。まじでこのまま社交界に連れてっても全然通用するよ!とやたらと感心してみせる名越。てか、何なんだ社交界って。そんなの現代の日本に存在してるのか。

普段なら絶対自分で選ばない、薄ぅい青をほんのり感じさせる白系のワンピース姿。好きな色だけどどう考えても料理をこぼして汚したり裾をどっかに引っ掛けてかぎ裂きを作る未来しか見えない。

身なりの立派なウェイターに物腰もうやうやしく分不相応にワインを注がれながら、わたしはぶすっとして見よう見まねでナイフとフォークを両端から手にした。

「わたしは一生ファミレスとファストフードでも満足だから心配ご無用。作法ミスっても見逃してよ、別に今後の参考にとこんなの学習し直す必要もないし」

連れてきてもらってこの態度、って思いつつもでもわたしが頼んだわけでもないし…ともやもや感が拭えずやや突慳貪な物言いに。名越はそんなわたしの言動にはすっかり慣れきっていて動じず、悠然とカトラリーを手にして優雅な仕草で料理を口許に運んだ。

「そんなことないよ。笹谷が国民的アーティストになった暁には公的な場に出る機会もどうしたって増えるだろ。まあ、そのときには俺が横でサポートするから。特に今から何か覚えとく必要もないっちゃないけどな」

「どういう未来が見えてるんだあんた。わたしには見えない遠い地平にでも目線を据えてんの?」

相変わらずいちいち話が大きい。と軽く揶揄する気持ちでそう突っ込んだけど、名越の方は大真面目だったらしい。小さく首を横に振って、物事のわからない子どもを宥めるような口調で優しく言い聞かせてくる。

「そんな先のことじゃない。まずは来年のことだな…。ここで審査員賞も取れたし、次はいよいよ三年生だし。それを考慮して今後の計画を改めて立て直そうと思ってる」

「え、大賞じゃなかったから?卒業までに何とかして一番上の賞を取らないとって?来年もまた同じコンクールに挑戦しろってか、この程度で満足してないで。ってこと?」

こいつならそのくらいのこと今から言って尻叩いてきそうだな。と半分冗談半分真面目に応じると、やつは意外にもきっぱりと首を横に振ってその問いに否定形で返してきた。

「そうじゃないよ。どちらかというとその反対だな。**展は制覇した、このさらに上の大賞までは必要ない。審査員賞で充分でしょ。今後受賞歴に書き込めるし、美大生と互角に戦えるくらい本格的に取り組んでる。と世間にアピールするに足りる肩書きはゲットできた」

だからそれを使ってもっと先に行くんだよ。とやつはやけに自信ありげに付け加え、肉料理を持ってきたウェイターにありがとう。と軽く手を挙げてさり気なく礼を言った。

「…あんたにはもともとそんなに時間の余裕がない。大学を卒業したあとの潰しが効かないかもって理由で美大進学を回避したくらいだからね。まあでも、そう考える親御さんの気持ちも理解はできるから…。笹谷自身もご両親も納得して安心できる進路を考えなきゃならない。そのためには大学に在学中に何としても、一生美術を続けられる目処をつけておかないと」

そう考えると俺みたいに、ゆったり構えてられる暇はないんだよ。と噛んで含めるように説明する。

「まあ。確かに、あんたはいいでしょうね。卒業後だってあくせく働かないと生きていけないわけじゃないし、就職だってご実家を頼れるし。家業の中から何か負担の少ない仕事を任せてもらってその傍ら絵を描き続けてもいいし、大学に残るって手もあるもんね。でもわたしだって。仕事しながらでも絵は続けられると思うし、そう焦らなくても」

そんなに早々と将来の目処が立つようなものでもないでしょ、絵を描いて生活していくことって。何なら何年も何十年もかけて少しずつでもそっちの収入が得られるようになれば、もうそれで万々歳じゃない?と兼ねてから思ってたことを口にする。

名越はお皿を綺麗に空にして、ことりと微かな音を立ててナイフとフォークを置いてから澄んだ眼差しをこちらに向けた。

「あんたはそう言うけど。美術活動と兼業するのに向いてる職業って、いうほど何でもいいわけじゃないんだよ。まず忙しすぎるのと不規則で予定が立たない、時間のコントロールが利かない仕事は駄目。一見良さそうだけど例えばマスコミなんかは向いてないんだ。あんたの学部の学生からしたら憧れの花形職業かもしれないけど」

「いや…、大丈夫。わたしは今んとこ全然マスコミ志望じゃない」

確かに。うちの大学の文学部はマスコミ志望者が多いことで有名だったような。

わたしも本は好きだし漫画も死ぬほど読む。だから考えてみれば出版社を志望してもおかしくなさそうなもんだけど。

やっぱり、時間が不規則で休みも少なくて過労死しそうなくらい多忙ってイメージ強いから。余暇に絵を描いたりはできそうにないなと無意識のうちに選択肢から除外してたのかもな。しかし制作活動と両立できるほど余裕のある仕事って。…派遣とか非正規、フリーター?

それしか思いつかず浮かない顔つきになるわたし。

名越はその呟きを聞いて、否定せずにまあ。そういう考え方もなくはないね。と軽く受け流して話を継いだ。

「それだと収入が不安だっていうんなら、もう開き直って俺の家から資金援助を受ければいいし。てか一番合理的なのは俺と籍を入れることじゃないかな。そうすれば俺んちの金はあんたの金。自由にいくらでも使えるから、ゆったり余裕を持って制作に取り組めるだろ?就職も別に考えなくていいし」 

何なら俺は全然それでもいいよ。とこともなげに言われて毒気を抜かれる。

聞きようによってはプロポーズだったんじゃないかって気がしないでもないが。こんな事務的な淡々とした調子で言われた台詞がどれだけ本気なのかも疑わしいし。なんか、大真面目に反発するのも馬鹿馬鹿しいや。

俯いて自分の皿に視線を落とし、ナイフとフォークを持ち直しつつぼそぼそと名越を諫める。

「合理的かどうかだけでそういうのを決めるのはちょっと…。てか、あんたもあんたの人生をもうちょっと大事にした方がいいよ。そんなことに結婚を使うのは駄目でしょ。わざわざ言うまでもないけど当然却下ね、その解決法は」

「まあ。そう言うとは思ったよ、笹谷ならね」

全く動じる風もなく悠然と流されたので。本当にただ言ってみただけで本人も実際にその手段を取る気なんかなかったんだろうな。と思うと、ほんの少しだけ動揺しなくもなかった自分が馬鹿みたいだ。

最後にうやうやしく運ばれてきたデザートに手をつけるよう促してから、名越はわたしを安心させようとしてか至極穏やかな声で話を元に戻す。

「そうなると基本的に普通に就職を決めてその傍ら兼業で絵を描き続けるのを目指す、ってことになるわけで。なるべく安定した状態で恙なく制作できる環境を整えるためには、今からあるべき未来の姿をイメージして。ゴールまでのルートを逆算してしっかり計画を立てないと…。ここからは急ぐよ。まずは、来年いよいよ満を持して笹谷の個展を東京で開催するから。その準備からね」

「あー…。それ、前にも確か言ってたよね」

地元で高校卒業前に、名越んちの持ち物のギャラリーでやった二人展を思い出すなぁ。とちょっと懐かしんでるわたしを、やつはきっぱり厳しく両断した。

「今度のはガチだから。大学生活のいい思い出になるだとか卒業記念に夢を実現とかじゃなくて。本気で人を呼べる、業界でも注目を集められるイベントにする。その成否があんたのその後の進路を決めるからね。だからまあ、笹谷はこっからそのつもりで粛々と作品を描きためていって欲しいんだ」

「ふぅん?」

わたしはラズベリーソースを添えたピスタチオムースを美味しく味わいながら、ぼんやりと名越が力説するそんな言葉を聞き流していた。

今度のだって、大学生活の集大成ってくらいの話じゃないの?どのみち卒業後、絵を売って暮らしを立てられるほどこの世界って甘くはないでしょ。

だったら一回くらい何とか個展にこぎつけたからって、どうせその後の美術人生の決め手にはならないんじゃないかと。思うけど…。

「だから。絶対にそのイベントが東京の情報の大海に紛れて埋もれたりしないよう、周到に準備するんだよ。SNSもフルに活用するし人目につくような小さな仕事も可能な限り受けてもらう。イラストとか表紙とか、挿絵とかね」

それと並行して油画も描きためなきゃならないから、結構大変だと思うけど。と、最後に別室に案内されてゆったり寛ぎつつコーヒーのカップを口許に運ぶ名越。

「そのためには俺も全力でサポートするから。遠慮なくうちのマンションも車も俺も、自由に使ってよ。何しろ三年生のうちにいろいろと実績を形に残しておかなきゃならない。じゃないと、四年になって就職を決めるときに。それを手持ちの武器として活用できないだろ?」

そういうわけで、大学生活最後の年に集大成として。って流れじゃ遅いんだよ。とわたしに言い聞かせる名越。なるほどね、それはまあ腑に落ちた。

「就職も三年生のうちに大体内定は出ちゃうみたいだけどね。そうすると、あんまり学年末あたりとかは望ましくない?就職活動と被らないように、三年になったらなるべく早い時期に企画した方がいいのかな」

「三年の前半とか、早めにに内定の枠が埋まっちゃう会社はだいぶ大手の名の通ったとこだけどね。大規模な社は案外個別の事情に対して融通利かないから、あんたにはもう少し個々の事情を汲んでくれるフレキシブルな体質のところがいいね。まあそれは俺の方で既にいろいろ考えてはいるから、まずは制作活動に専念して」

それはそれとして、今日は思いきり息抜きしよう!普段見る機会のないものを見に行こうよ。と誘われて、あっという間に手際よく高級ホテルの最上階ラウンジに連れて行かれた。

「ほら、ここからの眺めすごいでしょ。笹谷って夜遊びしないからさ。東京の夜景、きちんと見たことないんじゃない?」

確かにすごい。てか凄すぎて、というか光の量が多すぎて宝石の洪水か何かみたいだ。逆にちょっと眩しすぎるくらいかも。

「別に愛郷精神から言うんじゃないけど。地元の山から見た夜景もあれはあれでいいよ。多分光と闇の量の配分がちょうどいいんじゃないかな」

と、今年の夏休みに帰省したときも吉村とデートで訪れた場所からの眺めを思い出しつつカクテルのグラスを口にする。めちゃくちゃ甘くて飲みやすい。こんな感じならお酒、楽勝だな。

せっかく素敵なところに連れてきてもらっといてのわたしの可愛げのない指摘に気を悪くした風もなく、名越はわたしの隣で深々とソファに背中を埋めて余裕な態度でしたり顔に頷いてみせる。

「あーそれはわかるよ。なんか多少は暗さがあった方が、コントラストで光の粒が綺麗に見えるよね。日本三大夜景とか、大体そういう場所だよな。意外と大都会のど真ん中とかは分が悪い」

でもそれはそれとして、この景色撮っといた方が良くない?とばしばしとスマホで撮影する名越。まあね、それはそう。どういう必要が今後出てくるかわからないし。

というわけでわたしも遠慮なく自分のスマホを出して、窓の外に向けてやつと一緒になってシャッターを押す。

振る舞いからするとまるで都会のラウンジを初めて訪れたお上りカップルだが、絵描きにはあるあるだと思う。今描かなくてもいつか素材になるかもと思うと、やっぱり念のため撮っちゃうんだよな。必ずしもいつもその全部が役に立ってるわけじゃなくて、ストックばっかたまっていくのもまたあるある。

「笹谷、割とアルコール耐性ありそうだな。さっきの店でもワイン飲んでたけど。あんまり顔とか態度に出ない体質?」

高級フレンチの緊張感から解放されたのと、今の夜景のやり取りですっかり気分が軽くなりいつもの調子を取り戻したわたし。

二杯目は何にしようかな。とメニューを見ながらうきうきとカクテルを選んでると、名越がその様子を見てふと探りを入れるように尋ねてきた。

「いや実はまだよくわかんなくて。誕生日過ぎて二十歳になってから、ずっと飲む機会なくってさ。猫又もミス研も言うほどコンパないじゃん。今の大学生って案外飲まないよね。とかわたしくらいの年代のやつが言うのも変だけど」

昔の小説とか漫画読むと、大学生って酒ばっか飲んで遊び回ってるもんだとばっかり。まあ、昔の日本人と今どきの人間はアルコールとの距離感まじで違うもんな。過去は未成年飲酒は犯罪に入らないとまで思われてた節あるし。

「ああそっか、…だったらいい機会だから一度自分の限界を確認しといた方がいいかもね。見た感じ、アルコールに強いようにも思えるけど。酔いにくいのと耐性あるのはまた別の話だからね。下手に社会人になってから初めて潰れるよりも、信用できる人間がそばにいるときに天井知っといた方がいいと思うよ」

わたしはウェイターにメニューを見せてこの、ソルティドッグっていうのお願いします。とオーダーしてから笑って名越に突っ込んだ。

「その『信用できる人間』ってのがあんたってことね。まあ言いたいことはわかるし否定はしないけど。それをしれっと真顔で口にするとこがまじ、名越って感じ」

…記憶がそこでぶつっと途切れている。

ふと目を開けたら真っ白な明るい天井が高く遠くに見えた。知らない場所、…ではない。何となく安心感がある空気だけど、違和感はある。どこだっけ、ここ。

白い天井なんて、まあまあどこでもそうだしな。けどこの広々しさ、なんか覚えがある。寮の個室じゃない。面積もだけど高さが違うし…。

「…あ。やっと起きた?笹谷」

聞き慣れた安心感のある声の方を向こうと起き上がりかけて、強張ってた首筋が一瞬ぐきっとなった。何と言うか、健康的で健やかな目覚めではない。

「名越。…どうしたんだっけ。昨日、わたし」

上半身を何とか起こしてこきこき、と首を回しながら何気なくこぼれた質問。だけどやつから返事が返ってくる前にすでに、いや。これってもしかして、由々しき事態では?と嫌ぁな予感がじわじわと意識を蝕み始めた。

この部屋、というか見慣れたアトリエを満たしてる光の状態はどう見ても朝か昼近く。ということは今最新の記憶にあるラウンジでの夜から、少なくとも一晩は経ってるはずだ。

わたしは名越の部屋に泊まったのか?そうなった途中経過を全く覚えてないんだけど。記憶がないってことは、めちゃくちゃ酔っ払って相当な醜態を晒したんじゃ…。

「調子はどう?頭が痛いとか気分悪いとかないか。食べられそうなら何か適当に作るけど」

とりあえずは風呂にお湯入れてくるよ。と言い置いてさっとアトリエの外へと頭を引っ込める名越。しばらくして浴室の方からごぼごぼ、と派手な水音が響いてきた。

何なのこれ。まるで映画とかドラマでよくある、何かあったあとの翌朝の情景じゃん。

名越の平静極まりないあのテンションからして一夜の過ちがあったとは到底思えないが。あいつが成り行きで女の子とそうなった場合、いつもどういう反応してるかなんてわたしには知る由もない。あまりにも日常よくあることだからほとんど何も感じてないのがデフォルトなのかもしれないし。

落ち着け。パニックになるな、わたし。まだ何か取り返しのつかないことがあったと判明したわけじゃない。

極力冷静さを保ち、まずは自分の状態を確かめる。わたしのことはわたしが一番よく知ってる。普段と違うこと、違和感があればそこから目を逸らさずきちんと分析しないと。

上半身を起こして見下ろすと、寝具は初めて見る真っ新品の敷布団と上掛け。

どうやらこれがかねてからやつが言及してた『いつでも笹谷が泊まる気になれば泊まれるよう常備しておいてる布団』なんだな。ここで初めて出番が生じたわけだ。

ふわふわで真新しくて気持ちがいいが、フローリングの床に直敷きだから天井が遠く感じたんだと思う。実家でも寮でもベッドで寝るからここまで上の空間ががら空きなのは初めてで、違和感があったのか。

それにしても真っ白でふわふわと軽いこの上掛け、わたしが普段使ってるやつより絶対高いなこれ。柄も何もなくて、ほんのり胸元が薄青いのも上品な色合いだ。…けど、ん?あれ、この色。

すごい見覚えあるぞ。とまじまじと自分の胸元あたりを改めて見下ろす。つやつやの生地に繊細なフリルの飾りがついてる。布団にしてはずいぶん、凝ったデザインでは。てかこれ、何?布団カバー?

「…あ、笹谷。着替えは俺のTシャツとハーフパンツ、とりあえず用意しといたから」

「ゔ。…わあ、新品のドレス!皺になるぅっ!」

わたしは神速のスピードで布団から脱出し、ぴょんと跳ねるように立ち上がってばしばしとスカート部分の皺を直した。

やばい。ぴっかぴかの新品のワンピースで、そのまま雑に布団に入って寝ちゃったんだ…。

目を皿のようにして、どっかにワインとかこぼして染みつくってないか?ほつれたり直に地面に座り込んだ跡はないか確かめる。いやまずそれより。吐いたりして汚してたら…。最悪だ!

パニックすれすれで必死に服の状態を確認してるわたしに、さっきアトリエに戻ってきてた名越はまるで動じた風もなくのんびりと、フォローの声かけをする。

「あ、多分そんな汚れてないと思うよ。酔い潰れたりとはなくて、普通に歩いて帰ってきたから。皺はまあ、仕方ないんじゃん?どうせクリーニングに出すから気にしなくていいよ。風呂に入るとき、普通に脱いで置いといて」

しょうがないんだよねぇ、だって意識のない間に俺が着替えさせてたらあんた絶対嫌でしょ?だからその服のまま寝かせといた方がましかと思ったんだ。違う服着せられて朝目が覚めたら、昨夜なんかあったのかと思うだろうからさ。と微塵も動じず抜け抜けと言い放つ名越。…まあ、そりゃそうかもだけどさ。

「…何があったの?昨夜」

わたしはすっかり服の状態は諦め、すとんと布団の上に座り直してじっと名越の顔を見上げた。

名越はそんなわたしを上から見下ろし、口を開けて何か言いかけてから黙り込んだ。一瞬こちらをまじまじと見てからふと微笑みを浮かべ、再び口を開く。何だ、今の間は。何が言いたかったんだ。

「何もなかったよ。あんたが心配するようなことは何もない。まあ、とにかくお風呂入って人心地ついておいで。食欲はどう?トーストとフルーツ、ヨーグルトくらいは食べられそう?お粥がよければ今から作るけど」

「いや大丈夫。普通に何でも食べられるよ…」

脱衣所に連れて行かれ、清潔なふわふわのタオルをぽんと渡されてドアを閉められた。

あいつを疑うわけではないが(てか、この状況で昨夜何もされなかったんなら。今ここからあえて襲ってくる意味とかなくないか?)、きちんと内側から鍵をかける。単純にそれが異性の部屋の浴室を使わせてもらうにあたっての最低限のエチケットかな、ってくらいの感覚で。

…本当に、何があったんだろ。

繊細な布地をなるべく傷めないよう(だけど既に寝皺でぐっしゃぐしゃのしわしわになってる)ワンピースを慎重に脱いでから、丁寧に畳んで籠の中に入れた。

気分は悪くない。本当にこれが二日酔いか?って思うくらい。

もっともこれまで二日酔いになるほど飲んだ経験がないから、もしかしたら世間で苦しいものみたいに言われてるのが実は嘘ほら吹き過剰に大袈裟な表現なんだよといわれればそれまで。でも、頭が割れるように痛いとか揺らすと吐くとか、よくフィクションの中で描写されてる一般的な症状は今のところ全然感じない。

さっき起きたときに感じた首の強張りと痛みは、同じ姿勢で長い時間深く眠ってたせいって気がするし。けど、お酒以外の理由で。あんなにいきなりぱったり記憶がなくなって朝まで寝覚めない、なんてことがあるのかな。

とにかく服を全て脱いで浴室に。シャワーを浴びる前につくづくと慎重に身体の状態を確かめたけど、見える範囲には全然何の痕跡もない。ありがたいことに。

経験がないから自信はないけど、外見だけじゃなく身体の内部にも特に違和感は感じない。本気で名越を疑ったりはしてないが、それでもやっぱりおそらく間違い的なことは起きてなさそう。と考えると改めてほっとする。

…だけど。だとしたら何で、こういうことになったんだ?

だいいちわたしはどうして自分ちに帰らなかったんだろ。いやもちろん、仮に意識がないほどぐだぐだに酔っ払ってたとしたら。

名越は女子寮の中に入ってわたしの自室まで運ぶことはできなかっただろう(本人がいれば客を招き入れることは可能だが、当のわたしが暗証番号を入力できる状態じゃなかったんだろうし。そもそも親族以外の男性は夕方18時以降立ち入り禁止だ)し。そしたらこっちの考えがどうでもやつの部屋に連れて行って寝かしとくしかないよな。

シャンプーして身体をボディーソープで洗って。だんだん頭がはっきりしてくるとともに、わたしだいぶあいつに迷惑かけたんじゃ…とじわじわと反省の思いが湧いてきた。

どう考えても意識のないとこを男の部屋に連れ込まれたというより、その辺に放っておくわけにもいかないからやむなく連れ帰るしかなかったとしか…。ああ、不覚だ。名越にめちゃくちゃみっともないとこ見られた。いつも斜に構えてクールっぽく見せかけてたのが、まじで台無しだよ。

これからは散々昨夜の醜態をネタに弄られるんだろうなぁ、と覚悟しつつ浴槽でしっかり浸かって身体を芯まで温めてから風呂から上がる。名越の服を借りて着たが下着はさすがに替えがない。ああ、早く家に帰って自分の服に着替えたいよ…。

「お。…すごいな、やっぱりちっちゃいんだ。そのTシャツ、割と小さめのを選んだつもりだったのに」

膝近くまで丈のあるチュニック状態のシャツを着てダイニングキッチンに出て行くと、キウイフルーツをカットしていた名越がこっちに顔を向けてちょっと目を見張った。

わたしはずるずると落ちかかるハーフパンツを片手で押さえて、名越に頼み込む。

「ベルトかなんかない?これ、ボタン留めても。どうしても落ちてきちゃう…」

「オッケー。ちょっと待ってて、なんか適当に見つけてくる。…いや、本当ほっそいんだなぁ。俺もそんな身体でかい方じゃないんだけど。体格の違いがえぐいよね」

なんかいいよね、女の子だよな。とちょっと珍しく感慨深げな声色で感嘆しつつ奥の自室へと引っ込む名越。

それじゃまるでこれまでわたしが女だと認識してなかったかのような。まあ実際そんなもんなんだろうな。この距離感でいて全く本能がアラーム出さないもん。意識のない間にこいつになんかされたかも、なんて一瞬でもびびって損した。

「…で。忖度なく正直に教えてほしいんだけど。わたし、よほどみっともない振る舞いだったんじゃないの、昨夜は?」

焼きたてのトーストとキウイ、オレンジとヨーグルト。コーヒーも淹れるね、と珍しくマシンを起動する名越。朝食には紅茶よりコーヒー派なのかな。それともわたしがコーヒー好きだから気を遣ってくれてるのか。

いつも自分で買ってるスーパーの食パンとレベルの違うバゲットスライスを噛みしめ味わいつつ恐るおそる切り出すと、名越は小さく首を傾げて笑いもせずに至極真面目に答えた。

「いや、それがさ。全然なんだよ、ごく普通だったんだ。顔色も変わってなかったし態度もいつもとほとんど同じ、テンションも上がってなかった。てかこっちも訊きたいんだけど。昨日って笹谷、どの辺まで記憶あるの?」

「え、と。…夜景の綺麗なラウンジ。確かソルティドッグ頼んだとこまで…」

おずおずと返すと、やつの目が驚愕したように軽く見開かれた。

「え、思ってたよりずっと早いな。そしたらじゃあ、そのあとモスコミュール二杯続けてお代わりしたのも。ウェイターと楽しそうに会話弾んでたのも覚えてないんだ。まあさすがに、スクリュードライバー頼もうとしてもう少しアルコール度数少ないのをお作りしますよ。ってやんわり注意されてたときはもしかして酔ってるのかな?ってうっすら思ったけど…」

何だそれ!全然知らねぇ。

「それで泥酔したってわけ?いや他人のせいにしたくはないけどさ。それはどっかでストップかけてよ、同席者として。ほぼ生まれて初めてまともに酒飲むのに、それは調子乗りすぎだろ。もう絶対酔っ払ってるじゃん。判断力おかしいし」

どうせべろんべろんになってくわたしを見て面白がって楽しんでたんだろ。と恨みがましく呟くと、やつは滅相もないとばかりに真剣な顔つきで首をぶんぶんと横に振った。

「いやそれがさ。あんた全然酔っ払ってる風には見えなかったんだよ。顔色変わんないし話し方や態度もいつも通りだったし。だからまじで強いんだな、これなら案外大丈夫なのかもと思いかけてたとこだった。だけどこのあとどうする?うちに泊まる?って、どうせ断られるだろと思いつつ一応尋ねたら。あーじゃあそうするかな、とか平然と答えられてさ…」

さすがにこれ、いつもと違うかも。ってそのときようやく感じたんだよね。とさらりと説明する名越。いや待て。何なの、案外大丈夫そうとかって?

「いや何冷静に他人事って感じで外から観察してる体なの。信頼できる人間とか自分で言っといて、飲み過ぎじゃないかなと感じたら早めに止めてよ。…てか、その様子だと。もしかして止める気なんて最初からなかったんじゃないの?」

じと、と疑り深い眼差しを向ける。名越は疾しさ0パーセントの清々しい顔つきで堂々とこちらを見つめて答えた。

「だって昨日も言っただろ、いい機会だから限界確認しといた方がいいよって。あんたがどの程度まで飲めるかどうか、一応知っといた方がいいと思ったんだ。これからいろんな場面で酒飲む機会も増えるだろうし。俺の目の届かないところで危ないことがあるといけないと思ったからね」

しれっと悪びれず名越が供述するところによると。

最初のフレンチレストランでわたしがワイン飲む場面を初めて見たけど、意外にも顔色も態度も全く変化がなかった。

この様子だとかなり体質的にアルコールには強そうだな、だけどそれはそれで危ない目に今後遭わないとも限らない。自分は強いから大丈夫!と思い込んだわたしがいつか名越の目の届かないとこで油断して、急に限界が来て意識を失くすとか酔い潰れるとか。

そういうこともあり得る、とわたしに身に沁みて納得させる必要がある。だから現実を知らしめるために一度とことんまで飲ませてみよう、と決めたあとはなるべく干渉せずに観察者になりきって好きなようにオーダーさせた。

そうやって二軒目のラウンジでカクテルを平然と次々頼むわたしの横で、にこにことソフトドリンクを嗜みつつずっと見守り続けていたんだが…。

「…え、あんたはもしかして飲んでなかったってこと?いい気分で調子乗ってお酒飲みまくってたのはわたしだけ?」

何なのそれ。一人で酔っ払って記憶失くして、阿呆みたいじゃん!と初めて事実を知って憤慨するわたし。

名越はまるで表情も変えず、けろっとして言い返した。

「だって、俺はまだ二十歳の誕生日来てないもん。十月生まれだからソフトドリンクで、って店予約するときに念押ししといたから。こっちが何も言わなくても前もって打ち合わせてた通りノンアルのドリンクしか出てこなかったよ。子どもの頃からうちの親父によく連れてきてもらってた行きつけの店だからね、フレンチの店もラウンジも」

連れの女の子の方は二十歳超えてるから、俺に気兼ねせずにお酒を楽しませてあげたい。だからこっちが飲んでないのは気づかれないよう配慮して、って事前にお願いしてあったんだよ。とここで初めて聞かされたわたしとしてはやはり憤懣やる方ない。

「いやそれさぁ。…考えようによっちゃ、悪巧みの片棒担がされてると思われないか店の方からしたら。自分だけ素面で連れの女の子だけ酔わそうとしてるじゃん。いやわたしはあんたのこと疑ったりはしないけどさ、現にきちんと紳士的に世話してもらったし。けどそんな依頼を裏で受ける店の方もどうなの。下手したら犯罪に繋がりかねなくね?」

てか、あまりにも手慣れ過ぎてて普段他の女の子にも同じことしてそう。紳士的なのはわたしに対してだけ(そういう欲がからきしないから)って可能性もあるし、こいつもしかしてそっち側は人非人のクズなのか?

とうっすら疑いが生じたわたしに、やつは動じず無表情に肩をすくめて述懐してみせる。

「まあ、そう思われても仕方ない所業かもしれないけど。どっちの店にも女の子連れて行ったのはあんたが初めてだし、両親も行きつけの店だからなんかあったら向こうもやんわり注意してくるしねそこは。レストランにもラウンジにも最初から、彼女のアルコール耐性を一度正解に確認しておきたいから。ちょっとでも様子がおかしくなったらすぐ止めてくれ、ってはっきり頼んであったんだよ」

俺の目の届かないとこで酒の事故に遭ったりしたらと思うと。心配で夜も眠れない、とか面と向かって真剣に訴えられると。それが本心からだとこっちにはわかってるだけにそれ以上何も言えない…。

そういうわけで一軒目のフレンチから、特に何も言わなくてもわたしはスパークリングワインで名越はジンジャーエール。というようにナチュラルに年齢に配慮して飲み物は分けられていたのだった。まあ、まるで気づかないわたしもどうなのか。って話ではあるが。

「でもどっちの店でも笹谷は全く顔色変えずにすいすい飲んで、態度も言動も乱れなかったから。この様子ならほどほどの飲酒量なら体質的には大丈夫そうですね、ってラウンジの支配人も太鼓判押してくれてたんだよ。スクリュードライバー断られたのは一応万が一のことを心配してくれたんじゃないかな。あれはさすがに、飲み慣れてる人でも急にがくっと来ることあるみたいだから」

それで無事に実験は終了。常識的な範囲で飲むなら危ないこともないだろうと結論して、名越はわたしを乗せて車で帰宅したのだが…。

「あ。そうか、そういえば車。あんた、自分の車運転してフレンチのお店行ったんだもんね。ラウンジまでは徒歩だったから忘れてたけど。帰りも自分で運転してたんなら、思えばずっと素面だったのか…。まあそれも記憶にないんだけど、どのみち」

何しろせっかく頼んだソルティドッグの、味すら覚えてないからね!と付け加えると、名越はすっかり呆れた顔つきで静かに首を横に振った。

「あのときは味の感想もすらすら澱みなく口にしてたから、そこまで意識飛んでるとはこっちも思わないよ。けどまあ、今思い返せば俺が車出してきてもさっきまでお酒飲んでたのに大丈夫なの?とか全く突っ込まないで平然と助手席におさまってたし。ところどころ笹谷らしくないなって違和感はあった。で、試し行為ってわけでもないけど。このままうち泊まってけば?って絶対普段なら断るってわかってることを、駄目元で持ちかけてみたんだけど…」

何言ってんのあんた。絶対やだ、自分ちで寝たいとかも言わずにじゃあ、そうしようかな。と悠然と答えたところで、もしかしてこいつ、めちゃくちゃ酔ってるんじゃ?と初めて真剣に疑いが生じたのだという。

だとしたら尚さらここで一人にするのは心配だ。となり、そのまま自分の部屋まで連れてきたが。

いつもならぐじぐじ言って寮に帰りたそうにするのにそんな様子は全然なく、素直に部屋に入るなり名越が布団を用意するのを待ちかねたようにさっさと服も着替えず潜り込んで、三秒も経たないうちに健やかな寝息を立て始めた。

あまりの警戒心のなさに、見た目に全く出てないけどやっぱり相当酔ってたんだな。普段の笹谷だったらこんなドレスのまま布団に入るなんて!って絶対抵抗するに決まってるもんな…と納得しつつそのまま明かりを消してアトリエを出たが。それでもまさか既にあの早い段階で記憶が飛んでしまってたとは、そのときはまるで想像もつかなかった。

とすっかり呆れた口調で言われ、思わず肩を窄めて小さくなった。そんなこと言われてもさ。

わざとじゃないし。自分じゃどうしようもないもん…。

「完全自動運転でも判断力や危機管理意識が普段と同じように機能してるなら、それはまだましかもしれないけど。どうやらあの感じだと、アルコール入ると完全にガードが外れて誰彼構わず平然とついて行きかねない。そう考えると怖すぎるし、ちょっと今後は誰と何処ででも自由にお酒飲んでいい。とはさすがに。言いかねるかな…と」

「返す言葉もありません」

名越のやつの台詞だから反撥したくなるけど、冷静に考えるとその通り過ぎて言い訳もできない。わたしは神妙に頭を下げてただ受け入れるしかない。

努めて冷静に説明しようと頑張ってただけで、本心ではかなり腹に据えかねる部分はあったと見える。わたしが事実を受け入れて素直に謝ったので、これ以上自制して穏やかに言葉を選んで説く必要はないんだ。となったのか、やつはそこで急に気が抜けてがらっと態度を崩しやけに愚痴っぽく言い募り始めた。

「…いやまあ、ほぼ初めて酒飲むってのに次々とカクテルのお代わり頼むの、確かにあんたらしくないなとは思ったよ?でも顔色も態度も言葉遣いもいつも通りで。多少は酔ってるのかもと思いはしたけど、まさか記憶が飛ぶほど自動運転で動いてるとは思わないじゃん?止めようがないよ、ラウンジの支配人もこの様子なら大丈夫そうですね。とか言ってたし。あんなありとあらゆるパターンの酔っ払いを長年の見慣れた人がさぁ…」

「まあ。…悪かったよ、あんたを責めたりして」

謝って欲しそうなので意を汲んでとりあえずぼそぼそと謝る。

しかしそれがいかにも不本意丸出しな謝り方だったからか、そのくらいじゃ名越の不服の爆発的勢いは収まりそうもない。

「本当だよ。あんなサイレントな酔い方、絶対周りは気づかないって。それでいて完全にいつもの慎重過ぎるほどの自制心失くしてるじゃん、おっかないったらありゃしないよ。まじで背筋が寒くなったよ?あんな調子で、一緒にいたのが俺じゃなかったらどうなってたと思うのさ。いわゆる貞操の危機だよ、真面目な話?」

「うんまぁ。…でも名越だったから。別に何の問題もないとは。思うけど…」

あんたのことは信用してるわけだからさ。と匂わせれば機嫌が直るかと思ったが、そんな程度の胡麻すりじゃ今回の失態を挽回するほどには通用しないらしい。おかしいな、普段のこいつなら。うっすらとでも持ち上げてやればころっと機嫌をよくしてくれるのに。

「でも笹谷が俺とだから気を許してて、それが理由でああいう状態になったのかどうかは証明できないだろ?もしかしたら一緒にいるのが誰でも同じように、少しのアルコールで意識が飛んで自動運転になるのかもしれないし。だとしたら、社会人になったあとに仕事で飲んだ相手と気がついたら朝を迎えてたとかさ。あるいは美術の関係で飲んだお偉いさんと…とかいう事故が発生でもしたら。まじで取り返しがつかないよ?」

だから、あんたはもう今後絶対に俺が同席してない場でのアルコール摂取は全面的に禁止ね!と有無を言わさない口調できっぱり言い渡されてしまった。

まあ…、別に。特に仲良くもないいろんな人たちと飲み回りたいってわけでもないから。わたし個人としてはそれでも、めちゃくちゃ不満とか不便だとは特に思わないが。

「でも。サークルとかクラスの飲み会とかはソフトドリンクで押し通しても角は立たないと思うけど。大人になると断りきれない場面も出てこない?それこそ会社で新入社員として上司のお酒を断れないとか。取引先の偉い人の接待とか…」

現実には断りにくいシチュエーションもあるよね?と遠慮がちに疑問を呈したところ、目を三角に尖らせた名越にかえってがちで怒られてしまった。

「そんなの友達同士より尚更駄目でしょ。てか今どき、断りにくい相手が立場を利用して目下の者にアルコール強要とか世間の常識的に言って事案だから。それは断って何の問題もないよ。何なら俺の名前を出していい、エージェントからアルコール禁止の指示が出てますって」

「エージェント?何の代理人だよって言われるよ」

てかわたしも訊きたいよ。一応普通に就職するつもりなんだけど。個人エージェントがついてる新入社員なんて聞いたことがない。

言いたいことを言って少し溜飲が下がったらしい。やや機嫌を直して軽くなった口調で答えながら、名越はわたしのカップが完全に空になる前にさっとコーヒーを注ぎ足してくれた。

「いや、売れてるにせよそうでないにせよ笹谷は既に一人前のアーティストだから。エージェントは必要だし、現に俺はそのつもりで常にそばにいるよ。仕事の調整もSNSの管理も対外的な折衝も既にやってるだろ。当然人間関係にもある程度は口を出させてもらう」

ひえ。

「アイドルじゃないんだから、プライベートの交友関係はどうでもいいでしょ。てかお酒だって、完全に信用できる相手とならあんた抜きでも問題ないよね?例えば中学高校の、長年の付き合いの友達とかさ」

クラ子やユラ、たまちゃんとか。中学のときの同級生たち、それから当然吉村も。

具体的な名前は出さずに脳内でその辺の面子を思い浮かべる。だが名越は無条件でそれを認めるのを渋った。

「うーん、長年の付き合いでも男は駄目。中高のときの知り合いなんて、気心知れてるつもりでも本性はわかんないよ?子どもの頃は無邪気な間柄でも大人になった途端にいきなり邪な目を向けてくるとか、あるあるでしょ」

「そんなことないよ」

むしろ全然だよ。正直に言うと、それがわたしの現在の隠れた憂鬱の理由ですらあるんだから…。

と思ったけどここで口に出すことではない。それに、どうしても吉村と飲むときノンアルは嫌だと言うほどこだわりもないし。向こうもそんなの、どっちでも気にしないと思う。

わたしがソフトドリンクを頼めばそれはそれ、逆にアルコールを選べばそれも自然に受け入れてくれるだろう。

それに万が一将来あいつと正式な仲になれたら。もちろん私的なパートナーとの飲酒にストップかけるなんて、仮に名越が正式なわたしのエージェントだとしてもそこまでの権限はないに決まってるわけだし。

つまり、今のところ名越の無体な要求を受け入れて困るほどのことは大してない。わたしはじっと考えて、しばらくのちにこいつとの不毛なやり取りをそれ以上続けるのをすっかり諦めて投げ出した。

「…まあ、それでいいよ。そこまでして絶対あんた抜きで自由に飲みたい相手なんか。特にいるわけでもないし」

名越は自分の言い分が通ったと見て実に満足そうだ。頷きながらトーストをばり、と噛みしめてコーヒーを喉に流し込み、意気揚々と宣言した。

「じゃあそういうことで決まりね。大丈夫、どうしても飲みたくなったら俺がいつでも付き合うよ。万全の状態でガードして、途中で意識が飛んでも間違いがないようずっとそばにいて見守ってあげるから」

「いや…、そこまでは。してもらう必要ないよ…」

お酒の味自体嫌いではないけど、無しでいられない。ってほどでもないしね。

状況があらかたわかってようやくわたしも食欲が湧いてきた。目の前の皿に手を伸ばし、こんがり焼けたバゲットスライスの二枚目をとってかぶりつく。

小麦の味が強くてしみじみと美味しい。しっかりと味を感じるから、やっぱりどう考えても二日酔いとは言えないな、今のわたしの体調。

記憶さえ失くさなきゃただの酒に強い人なのに。残念っちゃ確かに残念だ。

「…でもさ、エージェントがどうのこうの言ってたけど。思えば報酬とか払えるほどの実入りはわたしにはないよ?社会人になったら些少な給料くらいはもらえるようになるけど。まさかそのうちの何%か出せとか言われてもさ…」

何となくさっきのエージェント宣言を自分が受け入れかけてるじゃん、とそこで気がついて慌てて念を押す。

それを卒業後の本業とする気じゃないだろうなこいつ。二人分の食い扶持なんか、新卒のわたしには絶対に稼げないからね?

名越はわたしにパンのお代わりは?フルーツもまだあるよ、と愛想よく勧めながらもこっちがまるで馬鹿げたことを口にしたみたいにおかしそうに笑った。

「いや俺もそこまで金銭的に困ってはいないから。てか今現在もそれなりにあんたの美術活動のサポートに尽力してるつもりだけど、別に報酬は求めてないじゃん。社会人になっても同じだよ、ボランティアで構わない。こっちがしたくてしてることだし」

それはそうだ。どっちかというと放っとけば名越の方がわたしにお金を出しかねないくらい懐具合に差があるのに。確かに馬鹿みたいなことを口にした。

「…けど、母親が昔から。タダより高価いもんはないって…。家訓だから、うちの」

わたしが実入りのない貧乏学生である今はともかく。大学を卒業してからもボランティアで只働きさせるのは…。いくら名越んちが桁違いの金持ちで生活に困ってなくてもそりゃ気が引ける。

それに、今くらいのサポート量ならまだしも。大学卒業後いよいよわたしを美術界で何とか本格的に活動させようとなったら、こいつがそのために何の見返りもなくてもどれほどの手間と金を注ぎ込み始めるかと思うと。…やっぱり、そこまでさせといて結果が伴わなかった場合に責任なんか取れない。と怖気づく気持ちもあるし。

あまり本気でのめり込んでもらっても困る、とこっちが言外に牽制してるのをただの遠慮と受け取ったのか。名越は大したことだとも思わない様子で気軽にわたしの台詞を受け流した。

「ああ…、笹谷のお母さんならそういうこと言いそう。きちんとしてて他人に借りを作るの良しとしないとこありそうだもんな。よし、じゃあこうしよう。エージェント業の報酬は出世払いで頼むよ。絵が実際に売れるようになったら、代金の何%って契約を作っとこう。そしたら俺が頑張ってたくさん絵を売れば売るほど報酬が上がるわけで、一石二鳥だろ」

「何%って、一桁?それじゃあ下手したら数百円とかじゃないの。さすがにもうちょい取り分確保しなよ。普通二割とか三割じゃないの?」

半分持ってかれたらさすがにきついか。でもまあ、どのみち絵を売った代金で生活を賄えるわけじゃないだろうし。臨時収入とか本業にプラスアルファだと考えたら、まあそんなものかも。

フィフティフィフティはさすがにやり過ぎなのか?でももしこの先万が一にもコンスタントに絵が売れるようにでもなったら、それは半分以上くらいこいつのおかげで。わたし自身は売り込むために何のムーブもしてないもんなぁ…と呑気に呟いてたらとんでもない。とばかりにむきになった名越に憤然と否定された。

「何言ってんの、手数料五割取るなんてどんな悪辣なエージェントかって。そんな笹谷の足許につけ込むようなやつは俺が成敗してやるよ。大体、あんたの描いた絵の代金はあんたが百パーセント取るのが本来なら筋だろ。けどまあ、優しい笹谷はそれじゃ気が済まないのも理解できるからな…」

「別に優しいからじゃないし」

さっきも言った通り、家訓が『タダより高価いもんはなし』だからな。今でも過剰に受け取るばかりで充分に返せてないのに、これ以上下手に名越に借りを作ることを恐れて戦々恐々としてるのがたまたま控えめな性格っぽく見えてるだけだ。

名越だってそんなの重々承知なのにわざとそういう風に受け取ったふりしてんのかな。これだけ長く一緒にいてこちらの性格とか性根に気づかないわけないしと思ったけど。やつはまるでふざけた様子もなく、こちらに正面から顔を向けて大真面目に言い切った。

「あんたはそうやって自分のことを悪辣なもんみたいに言うけど。本人が思ってるよりずっと優しいしいつも気を遣ってくれてるよ。ときどきはまあ、想定を超えてクールで容赦なくてつれないこともあるけど。大体は俺がうざ絡みしていくときだけで基本はちゃんと思いやりがあって親切だってこと、こっちにもちゃんと伝わってるから」

「そんなこと。…ないけど、まあ。そうですか」

ちょっとは思うところあるのか、台詞のあちこちにちくちく棘が全く含まれてないわけじゃないが。

これでもわたしのこれまでのこいつへの態度や接し方思い起こせば、甘々過ぎるほど評価が甘いな。これで精一杯いいように解釈してくれてるんだろうと判断し、かつ言い争うのが面倒くさくなりわたしはそれ以上やいのやいのと謙遜絡みで反論するのを諦めた。

「名越がそう思っててくれるんならそういうことでいいよ。心根はともかく、形だけでも親切でありたい気持ちはあるから。だからもし、卒業後にも今みたいにサポートを続けてくれるつもりなら絵から得た収入のうちいくらかはちゃんと報酬として受け取ってもらう。あんたの方がお金に困ってなくてわたしの生活がかつかつだったとしてもね」

もちろん、今後大学で学んでくうちにやっぱり自分の制作を一番にして集中したい、本格的に作家を目指したい!って考えが変わってきたら遠慮なく言って。そうなるのは当然なことだと思ってるから、と付け加える。名越は嬉しそうに笑みを浮かべ、こくこくと深く頷いた。

「そんなことにはまあならないけど。そう言ってくれるのは笹谷の優しさだと思うから、気持ちだけ受け取っとくよ。それじゃあ、今回の**展審査員賞受賞を皮切りにここから一段一段、ステップアップしていこう。大丈夫、策は任せて。俺にはこのあとの見取り図がちゃんと俯瞰できてるからさ」

ま、景気付けに食べて食べて。キウイもう一個剥いてくる?バナナもあるし、二日酔い気味なら食後にアイスとかどう?と椅子から腰を浮かせていそいそと前のめりに勧めてくる名越。

いやお気持ちはありがたいけど、朝からそんなには…と答えかけたところで思いがけずお腹が小さくくぅーと鳴る。全く、なんて健康なんだわたしの身体。昨日の今日でまるでアルコールの影響もなく、食欲旺盛で全身ぴんぴんしてるだなんて。

若くて元気な女子の回復力なんてこんなもんでしょ、わたしだけが並外れて体力あり過ぎるわけじゃない。と内心で自分に言い訳をして遠慮なくカットしたオレンジに手を伸ばす。

自分はろくに食べずに頬杖をついてにこにことこっちを見守ってばかりの名越の視線に閉口しながらも、まあ見たければ見てるがいいさ。と割り切ってオレンジの房に思いきり歯を立てると。瑞々しい果汁が勢いよくしゅっと弾け飛ぶのを感じ、慌てて瞼をぎゅっと閉じて雫が目に入るのを防いだ。


そこからの名越のサポートというかむしろマネージメント活動はまさに八面六臂。よくもまあ、そこまで目端が利くもんだと感心するしかない活躍ぶりだった。

まず、**展でわたしに箔がつく肩書きは一応ついた。と判断したことでそれ以上コンクールに応募するのはやめさせた。

もしかしたらそれ以上続けさせても、あれより上の賞が取れる可能性は薄いと考えたからかもしれないが。てかそれはそうだろうなと思う。言うほど自分の作風がコンクール向きだとは思わない、やっぱり美大で専門に学んでる人たちとは何かが違うんだろうし。

アカデミックな目で観るといかにも在野の素人っぽい画風なんだろうなってのは我ながら見当がつく。あの審査員の人がたまたま推してくれたから受賞できたんであって。満場一致で大賞に決まるようなことは、頑張ってこの先もエントリーし続けてもおそらく芽がないような気がする。

名越も同じ考えなのか、それまで大小構わず絶えず続けてたコンクールへの応募をすっぱりとわたしにやめさせた。

その代わり、やつが新しく力を入れ始めたのはイラストの仕事をいろんなところから取ってくること。

学祭のときの部誌の表紙やポスター、フライヤーでもあれだけ反応があったんだから。たくさんの人の目に留まるにはやはり露出だと考えた名越は、伝手をフル活用して大学の枠を超え絵の仕事を取ってくるようになった。

その内容はさまざま、人懐っこさとマイペースな押しの強さで大学の近隣の商店街や町内会から催事のポスターを請け負ってきたりとか。学校の広報誌にイラストを掲載させてとか、身近な仕事から始まって。

そのうち小さな実績が積み重なったのを見本に営業をかけ、いつしか出版社から雑誌のイラストや書籍の挿画を受けてくるようになった。どうやってか知らないが、どんなに細かい仕事でも出版物の内容や著者の人物にはこだわりがあるようで品位やコンプライアンスに問題あるようなタイプは慎重に避けられているようだった。その代わり報酬の額はやや二の次。

「それはそうだよ、目先のお金が目的じゃないもん。こういう仕事してますって見本持っていって、もっと大きな実績に繋げるための布石だから。けど、ありがたいな笹谷。デジタル使ってのイラストや彩色にすっかり慣れてくれてて」

やっぱり使い勝手いい方が出版社としても採用しやすいからね。何だかんだ、デジタルで入稿してもらった方が修正も加工もしやすいし仕事回ってきやすいんだよね。と吐露する名越。

「そういう意味では猫又とミス研のおかげかな。去年の学祭をきっかけに、四苦八苦してやり方覚えておいてよかった。あのときよりは経験積んだから、だいぶ上達してると思うよ。けど名越はこれでいいの?」

最近任される仕事の内容に、かねてからやや疑問を感じてたわたしはその機会にと正面きってやつに尋ねてみた。

「あんたとしてはわたしの作品、本格的に油絵の具でキャンバスに描いたのが好きなんでしょ?デジタルのイラストとかで世に出て結果そればっかりになってもいいの。わたしは好きなことで多少なりとも収入が得られれば充分満足だから。特に油じゃなきゃとかイラストレーターはやだとか全然、こだわりはないけど…」

「あ、俺ももちろんそういうのはないよ。あんたのイラストも当然好きだし、油よりそっちの作品が下だとかそういう感覚もない」

あっさりそう返してきた。ふぅん、そうなんだ。意外というか、初耳。

釈然としない微妙な思いが伝わったとは思わないが、案の定やつは今さっき口にした自分の台詞を平然と間髪入れずひっくり返してくる。

「笹谷の絵の凄さがみんなに知られる機会があるなら、それは油でもデジタルでも構わないんだ。けど普通に考えて、商業イラストの方が人目につきやすいのは間違いない。だからさ、世間に撒き餌をまいてそれをきっかけに人を呼び寄せるんだよ」

イラストを目にしてファンになった人をたくさん集めれば、ギャラリーでの個展も盛況になるし。その中で絵を買ってくれるお客さんもいるかもしれないだろ?間口を広くしてちょっとでも多くの人を呼び込んで沼らせなきゃ。と心なしか悪い顔になって呟く名越。うーん、そう上手くいくかなぁ。

それに今の計画を聞くと、結局は油絵メインの個展を成功させるのが最終目標ではあるんだ。だとしたら、イラストの仕事を受けるのもそれが油画の作品に注目を集めるための方策なんでは?口ではああ言ったけど、ほんとに本心からどっちでもいいとまでは考えてないんじゃ…。

「そういうわけでもないけど。イラスト一本に絞るより、油絵には油絵の良さがあるからさ、あんたの場合。どっちも両立させられればそれに越したことないってだけ。てわけで、イラストの仕事は仕事として。それと並行して油画もこつこつと制作し続けて書き溜めておいてね。忙しくなるよ、今年はずっと!」

そんな風にして三年生の一年間は、結局ほぼ絵を描くことに費やされた気がする。

美大生でもないのにこんな美術三昧な学生生活を東京で送ることになるとは、正直上京してきたときには考えてもみなかった。学業もある程度やらないと、成績が…と何度も追い詰められそうになったけど。いいからここは俺を信じて、絵に全振りで。と懇願され、葛藤の末なし崩しに折れた。

まあ、絵を描くこと自体はもちろん好きだし。これがちゃんと将来の仕事に繋がるから。ゆくゆくは好きなことを本業にしたいでしょ?と説得されればそれはそう…かも。と何となく流されて自称エージェントの言いなりに。

だけどこつこつと名越の取ってくる仕事を誠心誠意こなした結果。少しずつ大きな媒体での挿画や一枚絵の注文も受けられるようになっていき、ついに小説の単行本の表紙イラストの依頼が来るように。

その著者はデビューして間もないまだ無名の作家さんなのだが、わたしと同じ○○大学を卒業したばかりだった。その縁でたまたま在学中評判を耳にして、sasarleyのアカウントをフォローしていたのだという。

『ずっと油絵がメインの作家さんだと思ってたけど。最近になってイラストの仕事をアップしてることが増えてああ、こういうのも受けてくれるんだ。とわかったから。駄目元でとお願いしてみて…』

と言って指名してきた、と編集者の方から聞いた。何でも○○大の学生ながら本格的なコンクールで受賞歴もあるということで、わたしは現在うちの学校の中でちょっと有名になりつつある描き手なんだという。本人はそんなの誰からも聞かされてないから、そのとき初めて知った。

その新人作家さんの作品を手がけるようになってから、それなりの部数の出る出版物の表紙の仕事がぽつぽつと来るように。

その頃にはアカウントのフォロワーも以前の何倍かに増えてきた。名越は最大限にSNSを駆使して宣伝し、満を持してわたしの個展をちょっと名の通った東京のギャラリーで開催した。大学三年の冬のことだった。

特にめちゃくちゃ盛況だとかそれがきっかけでわたしが世間でブレイクして一転ブームが巻き起こる、というような派手な結果には(名越の願望とは違って)ならなかったけど。

無名の作家の個展にしてはそれなりに一見のお客さんも見に来てくれたし、名越の家のギャラリーの伝手もあって美術評論家や作家さんもちらほら顔を出してくれた。一般の人が読むような媒体ではないが、美術専門誌に講評もちょこっと載ったりして、全体としてはまあまあ成功だったと言えるんでは。東京に来て初めて絵も売れた。全部で三枚だけど、値も高校のときに較べたら全然もっと、そこそこついたし。

「…よし。計画通り。かなり評判もよかったし、手応えもあった。今後の活動の方向性を決めるスタートとしては充分な結果じゃないか?」

本当の笹谷の価値はこんなもんじゃない、あいつら見る目がないんじゃないの?とかもっともっと世間の注目を浴びなきゃ満足できない。笹谷が世界で一番になるまで俺は諦めない!とか言い出すんじゃないか。とほんの少し戦々恐々としてたわたしに、個展閉幕の打ち上げを兼ねたちょっと豪華な食事から帰宅したリビングで、名越は至極落ち着き払ってそう告げた。

思ってたよりだいぶ冷静なそのスタンスに拍子抜けしつつ、やつが甲斐甲斐しく淹れてくれたいつもの紅茶を手にして考え込む。こいつ、実はいつの間にかすっかり目が覚めて。わたしがそこまで人気出るのはさすがに無理、ほどほどを目指して活動するのが身の丈に合ってるんだ。と今さらながら気づいたのかな。

「…まあ。わたしの作風からするとあれだけの人が観に来てくれたのはでき過ぎなくらいだから。自分的には満足かな。これで学生時代の集大成になったし、あとは就職活動と卒論…」

これまでお疲れ様でした。と頭を下げてその場をまとめようとするわたしの目の前にクッキーを山盛りにした皿をずいと差し出し、大袈裟に目を剥いて話に割って入る名越。

「え?いやいや、今言ったでしょ。こっからがスタートラインだってば。今回の個展が成功したその実績を基に、笹谷の世界への快進撃が始動するんだよ。つまりここまでが序章、ただの準備運動に過ぎないんだって」

「またか。あんたっていつもスタートライン先にじりじり動かしてんな、まじで」

わたしは呆れ果てる気にもならず力なく突っ込んだ。もう、このくらいでいちいち驚いてられない。こいつのこのペースにはいつの間にかすっかり慣れてしまった。

「まあまあ。前から説明してあったでしょ。当面の一番の目標は、笹谷がプロの職業画家として一本立ちして、世間に充分認知されることだって」

わたしに勧めといて自分が先にちゃっかりと一枚取って、ぱりぱりと薄い音を立ててクッキーを齧る。名越が気に入っていつも常備してるやつだ。バターたっぷりで薄くて硬くて美味しい。

「去年**展で賞とって、作家の指名でいくつかの書籍の表紙も手がけてる。イベントのポスターやチラシの仕事もいくつもこなした経験があって、出版社との繋がりも出来て挿画の依頼もときどき来るようになった。SNSでの公式フォロワーは入学時と較べて十倍近く増えてる。…この事実をまとめて持ってけばさ。普通の〇〇大卒の一般学生としてじゃなく、そんじょそこらの美大生よりも既に美術で実践的に仕事のできる新卒として。結構名の通ったデザイン事務所の扉を叩けるよ?」

あ。

「…なるほど」

わたしは無意識に手を伸ばしてクッキーをひとかけ摘み、口に運ばず持ったまま今の台詞を噛みしめるように確かめながら呟いた。

「〇〇大学の普通の学生として一般企業を受けるんじゃなくて。美術と関係ある業務の会社に就職させようと考えてたってわけ?そうすれば日常的に仕事で絵を描けるから?」

でもわたし、デザイン事務所ってったって。大学でもどこでも商業デザイン専門に勉強したことなんて一度もないよ?と自信なく付け足す。名越は紅茶を一口飲み、違う違う。と言わんばかりに得意げに指を立ててから二枚目のクッキーに手を伸ばした。

「デザイン事務所ってひと言で言っても仕事はいろいろだよ。当然イラストの依頼もある。基本的に絵が描ければあとはどうにでもなるから。ていうか、業務内容より大きいのはこっち。あのね、有名な大手のデザイン事務所って。大概個人での創作活動は自由なんだよね。なんと副業オッケー」

ていうか、個人でもやっていけるタイプの選ばれし精鋭を集めて共同で仕事してるって感じかな。と付け加えてにっと笑う。

「普通ならあんたの経歴じゃその手の職場のセレクションだと門前払い、箸にも棒にもかからないけど。これだけの過去の仕事と実績を持っていけばさすがにその辺の平均的な美大生よりは即戦力だと判断してくれるでしょ。そのためのこれまでの活動、長年かけて地道に小さなことからこつこつと積み上げてきた理由だったわけだよ」

現にいくつかの事務所に既に打診してみたけど、かなり手応えあったよ!とうきうきタブレットを操作してみせる。ほら、こことか。この人とか有名なデザイナーでしょ?この事務所のエースだよ、と画面を示しながら教えてくれる。

すっかり毒気を抜かれて渡されたタブレットを眺めつつ、もう片方の手にしたクッキーの存在も忘れてわたしはぼそぼそと独りごちた。

「はぁ…。あんた、相変わらず爆速のスピードで動くね。てかわたしの知らないとこで既に事務所に打診かけてるの、何?」

どうしても別にやりたい仕事があるとか希望してる会社が既にある、とか言って拒まれたらどうするつもりだったんだよ。その呟きを耳にした名越は動じもせず軽く肩をすくめていなした。

「それは、ここまで時間かけてずっとさり気なく確認してきてたから。卒業後とくにやりたいことがあるというより、安定した収入がある状態で好きな絵を続けたいってのが笹谷の夢でしょ?その状態に一歩近づきつつあると。思わない?今のこの状況?」

「むぅ…」

ぐうの音も出ない。言ってること、それはそう。

なんか、何もかも見透かされて先回りして願いを叶えられてるみたい。ありがたいっちゃありがたいんだけどどこか腑に落ちない。

ほんの僅かな心の動きを外からばんばん読まれて、本当はこれが欲しいんでしょ?そうだと思って勝手に用意しといたよ!と欲求を自覚するより前に次々と目の前に差し出される感じ。わたしはため息をつき、音を立てずにそっと椅子から立ち上がった。

「お。…どうした。トイレ?」

「うん。…ちょっと、お借りします」

いやいやここはあんたん家も同然なんだから。いちいち断らなくていいよぉとあっけらかんと笑う声に背中を向けてからちょっと反省する気持ちが胸の中で頭をもたげる。

こいつは自分のことでもないのにここまで本気で奔走してくれたんだ。いくらわたしの絵が好きだからって、普通はここまでできない。

しかも自身も美大に進むくらいには絵が好きなはずなのに。自分のことを脇に置いてもまずはわたしの将来のこと、それ自体は得難いことだしとにかくひとまず感謝の意を表さねば。何もかもこいつの思い通りになるのが感情的に納得いかん、てのはまた別の話なんだから。

戸口で振り向いてありがとう、と言いかけてふと疑問がひとつ脳内に湧き上がってきた。間が悪いなと思いつつもつい確かめずにはいられない。

「…あの、その事務所って。どれもやっぱ基本東京のだよね?向こうの地元じゃなくて」

「え?…ああ、うん。そうだね」

名越はそれを訊かれるとは全く思っていなかった。と顔に書いてあるってくらいわかりやすく当惑した表情を浮かべた。

「単純に伝手って意味では向こうのデザイン事務所の方が紹介も簡単なんだけど。就職後のあんたの制作活動に有利か不利かって考えたら…やっぱ、東京がフィールドかどうかって結構大きいと思うんだよね。よほど大御所になれば住んでる場所なんか関係ないかもだけど。笹谷はこれからいろんな人に会って、ばんばん活動範囲広げないといけないと思うし…」

「うん、そうだよね。大丈夫、わかってるよ」

やつを安心させるように微笑みを浮かべて見せてからリビングを出た。話の流れでうっかりお礼を言うのを忘れた。あとでちゃんと顔を見て謝意を述べよう。

清潔そのもののぴかぴかなトイレに腰をかけ、改めてしみじみと自分の行く末に思いを馳せる。

てか、別に今さらではあるんだよね。どのみち就職はこちらでするものと漠然と考えてた。一般企業に就職活動するにしても基本は首都圏でするイメージ。

このタイミングで地元に帰るとはわたし自身も本気で考えてはいなかったのは確かだと思う。そうすると選択肢もだいぶ狭まるし、何よりせっかく上手く行きかけてる画業がここで頓挫しかねない。

描いた絵をSNSに上げてフォロワーに見てもらうのはどこにいても続けられるけど。ようやく出版社と繋がりが出来て仕事できるようになったのが、地元に戻ったらどうなるか自信がないし。

作家さんとはこれまで正直顔を合わせてないけど(一応まだ覆面画家なので)、何人かの編集者さんとは面識がある。わたしクラスの駆け出しの絵描きは、やっぱそういう個人的な関わりを維持できるかどうかで仕事量が決まるようなとこあるから…。

と、わたしの目から冷静に考えてみても名越の方針は正しい。これから絵描きとして本格的に戦場に出て行って参戦するつもりがあるのなら。

だけど。…そのことを改めて、吉村にはどうやって切り出そう?

わたしは両肘を膝の上に乗せて背中を丸め、深々とため息をついた。

薄々こうなることはずいぶん前からわかってたのに。あいつと会うとき、話すときは何となく四年経ったらまたそばで暮らせる体で話してしまってた気がする。

自分がそうだったらいいな、と考えてたから。けどそう簡単にいかないことは。本当はどっかでずっと漠然と知りつつ、無意識に見ないふりをしてた。

卒業してもまだしばらく地元に帰れそうもない。それでももう少し、わたしのことを待っててくれないか?

次に帰省したとき、顔を見て合わせたら今度こそそうはっきりと言わなきゃいけないとは思うんだけど。…難易度高いなぁ。

わたしはすっかり気が重くなりトイレの中で頭を抱えた。他のことに気を取られ、用を足すことなど完全に忘れてただ座り込んでる。

…何が気が進まないかって。多分おそらく、もしかしたら。

大学卒業してもわたし、しばらくの間そっちに戻ってそばで暮らせそうにないよって吉村に言っても。あいつはそうなんだ、大変だね。でも夢を叶えるためには仕方ないよね。応援するから頑張ってよって。きっと曇りなき笑顔で迷いなくエールを送ってくれるんだろうなと。…まず間違いなくそういう反応しか返ってこないだろうってこと。まじで想像容易すぎ。

直織とこれ以上離れて暮らすのは無理、お願いだからもう帰って来てよとか。どうしても東京を離れられないんなら俺がそっちに住むよとかは、まあ言ってくれないだろうな。いやもともと、あいつは将来家業の跡を継ぐの前提で計画的に進路を選択したんだから。こっちの都合に合わせろとかはさすがに暴論だし、そんなのちょっとでも望む方がおかしいんだけど。…さ。

わたしは意味もなくペーパーホルダーをからから言わせながら、ただぼんやりと目の前の壁を見つめてこれまで向き合う気になれなかった恐れと対峙する。

問題は、吉村が笑顔でわたしの背中を押してくれるとき決して無理して表面を取り繕ってるわけじゃなく。心の底から本心で、いくらでも納得いくまで夢を追いかけてほしい。自分とは関係なく遠い世界に駆け出して行っても全然大丈夫、離れていてもずっと応援してるよ…としか考えてないんじゃないかってこと。

吉村は、わたしと離ればなれでも。実はそんなにつらいとも感じてないんじゃなかろうか?

それを改めて正面きって確かめるのは嫌だなぁ。けどいつまでも直面しないままではいられない現実だ。

そろそろその時が近づいてる。と考えたらこれまでにないくらい憂鬱な気分が頭の上からずん、とのしかかってきて。わたしはその日何度目かもわからない、重い重いため息を大きく吐き出した。


《第25章に続く》

お酒で記憶が飛ぶ体質の人の話を聞いたことがあります。

酒量とかは関係なく、体調によるのか突然起こるらしい。顔色も変わらず普段通りの言動なので周りの人も気づかないそうです。

その人は特にそれで失敗したこともなかったみたいで(ごく普通にいつも通り家に帰って来られるらしい)、笹谷とは違うタイプなんですが。でもあとで記憶なくなってて全然覚えてないの怖!と強烈に印象に残ってます。

笹谷さんは酔ってないと言いつつ飲み方とか名越んちに平気で泊まっちゃうとことか、やっぱり普段と言動が違うのは顔に出ないだけで酔ってるのでは?って疑惑はありますね。…知らない人とは飲まない方がいいです、絶対。


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