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第23章 人の心のない男

今回、最初から最後まで恋愛のもつれ。しかし名越の人の心のなさが沁みますね。引くわ…。

入れてくれ、と頼まれたからって。はいそうですか、と何も考えず鵜呑みにして見知らぬ人を勝手に他人の家に上がらせるわけにはいかない。

ぱっと見がいかにも清楚で大人しそうだからまともな人間とは全然限らないし。むしろ、この見た目で他人んちのマンションのオートロックを当たり前のように無断で突破して、直に部屋の前までやってきて延々とピンポンこんこんしてる事実の方がいかにも怖い。ガワも輩かヤンキーみたいな非常識っぽいタイプだった方がまだすんなり飲み込める。

『すみません。…本当に変なことする気はないんです。部屋に上がっても何かに勝手に触ったりとかしないし』

生真面目な顔つきで切々とそう訴えかけながら、片手は絶えずこんこんこんこんと小さくノックを繰り返してるのが…。何というか、ホラーだ。

『あの。もしもわたしの言ってること、信じられないから部屋に入れられないっていう話でしたら。名越くんに連絡して確かめてみてください。わたし、ホシナメグっていいます。星の名前にひらがなのめぐ、で。星名めぐ』

表記までここで声に出して教えてくれなくてもいい。

とにかく、わたしはまだ一回も返事してないし声も出してない。気配を察知したと言い張られても別に何の証拠もないから、ただの想像力過多な思い込みです。という方向で押し切って、このまま最後まで居留守を決め込むっていうのが一番楽っちゃ楽なんだけど。

しかしドアの外の中廊下で、ずーっとこんこんこんこんと定間隔でノックを続けながら小声で話しかけ続けるの、聞いてるとだんだん精神が削られてくる。もしも隣や向かいの部屋の住人にもこれが聞こえてたら、と思うと。…いくら何でも近所迷惑が過ぎる。本当にこのままでいいんだろうか。

どのみちそこに居座られたら、こっそりと隙を見てこの部屋から脱出して自分の家に逃げ戻ることもできない。わたしはほとほと困り果て、そうっと物音を立てないよう細心の注意を払いドアの前から遠ざかった。

LINEの通話をタップしようとしたが、あの耳聡さを考えると。下手に声を出すとさらに気配を察知されてまずいことになりそうだ。

そう考えて念のため、メッセージで連絡を取ることにした。キッチンの奥まで引っ込んだのでそこまで警戒する必要はないかもしれないが、用心するに越したことはない。

『あんたの彼女だと主張する人物が部屋の前に来てる。星名めぐと名乗って中に入れろと。わたしがここにいるのを察知してる様子。何とかしてどけてくれ。出られん』

もし万が一あれがただの一方的なストーカーだとしたらごめんやで。

でも、そこはかとなく確信がある。多分あの子、本当に名越の彼女だと思う。付き合いの深さまではわからないし知る気もないが、名越に何の責任もなくただ付き纏われてるだけって感じはしない。

おそらくあそこまで執着されても仕方のないことのひとつやふたつ、してそうな気がするんだよなぁ…。これまでの実績を考えると。

だからつい、お前が責任を取れ。的な文章になってしまった。LINEだから気づくの遅れるかなと危ぶんだけど、心配無用。即スマホが振動し始めた。…てか、え?通話じゃん。

声出すの怖いなぁ、と思いながら渋々スクリーンをタップする。ちなみにこうしてる間にも、玄関の方から一定のペースでのこんこんは続いてる。大きな音ではないけど。

『…あ、笹谷?大丈夫?今からそっち向かうけど』

そうか、じゃあ何とかしてもらえるな。とほっと安心したら俄然文句のひとつも言いたくなってきた。

「ちょっと。あんた、付き合ってる女の子いるんならちゃんとしなよね。家で女友達と鉢合わせとか、そりゃトラブるよ。てか言ってくれれば。わたしもあんたの留守中に勝手に上がり込んだりしないよう気をつけたのにさ…」

『え。そんなわけにはいかないよ、そこは半分あんたのスペースでもあるんだから』

あくまでも絵が優先。って考えは覆らないらしい。名越はまるで反省した風もなく平然と言ってのけた。

『その子には自宅は教えてなかったんだ。だってそこは俺と笹谷のための場所だからさ。会うときは向こうの家で、って言い聞かせてたし納得してるように見えたんだけどなぁ…。まあ、あんただけに対応任せても申し訳ないから一応急いで帰るよ。てかあの子、まだそこにいるの?』

「いるよ。めっちゃこんこんしつこくドア外から叩いてる…」

思いきり閉口した声でそう教えて、ついでにスマホを玄関の方へと差し出して微かなその音を聴かせてやる。やあ本当だ、悪いねやな思いさせて。とほとんど真剣に受け取ってるとは思えない軽い調子でやつが一応謝るのが、耳から離したスマホから聞こえてきた。

『…あれじゃさすがに近所迷惑だね。そしたら、申し訳ないけどさ。ドア開けて一旦中に入れてやってその子。可能な限り高速で家に向かってるからさ、今。それで済まないけど、俺が着くまで相手してやってよ』

え?

「どうしたんだろ。スマホって混線とかするのかな。なんか今、名越が口にするとは思えないレベルの非常識な台詞が…」

『またそんな言い方して。…ごめんてば。埋め合わせに何でも言うこと聞くからさ』

ぬけぬけとまたそういうことを…。けど考えてみればありがたみのない申し出だ。何故なら名越は普段から、わたしの言うことなら大抵何でも聞いてくれるってわかってる。あえていちいちこっちから何かと頼まないだけだ。

『本当に悪いなぁとは思ってるんだよ、笹谷に余計な気を遣わせて』

わたしの白々しく意地悪な突っ込みにも、やつはまるで気に病んだ風にも思えない声で明るく弁明した。

『でもその子は別に言うほど変な子じゃないから。暴れたり危害を加えたりはないと思うよ。普段はすごく真面目で、あんまり目立つ行動も取らないタイプなんだけどね。今回はまたどうしちゃったのかな…』

いやお前のせいだよ。その自覚がないのか、あんぽんたんめ。

「よほどおざなりに粗末に扱ってるんでしょ。わたしが中にいるの察してるみたいで、ずーっとああやって呼びかけてるんだよ。正直刺されるんじゃないかとめちゃめちゃ怖いわ。…ほんとに中に入れなきゃ駄目?」

何でも言うこと聞いてくれるんなら、ここは譲歩してくれないかなぁ。と期待して探りを入れたけど。やつは珍しく鈍感力を発揮して、きっぱりとわたしに言い渡した。

『うん、悪いけど。だってそのまま放っといたら近所迷惑じゃないかな。それに俺もその部屋に出入りしてるあんたも、あまりそんな状態が続けば。しばらく周りから変な目で見られるかもしれないし…』

「う」

そう言われると弱い。

この部屋の住人、半同棲状態の大学生らしき男女だけどどうやら三角関係で揉めてるんだね。男の方の浮気した相手が本命のところに押しかけてきちゃったのかな?なんかずーっとドアの前で訴えかけてたけど無視されて閉め出されてて可哀想だったよ。まぁ若いといろいろあるよねぇ、彼氏があんなイケメンじゃ地味目の彼女はやっぱ苦労するよな。

…とか。ご近所とすれ違うたびにわたしのことも内心でこんな風に思われるのかぁ…と想像するとやっぱり嫌。

名越に彼女ができたとわかったから、さすがにこれまでと同じようにこの部屋に通う気にはなれないけど。問題はわたしの住んでるところがこのマンションの真向かいで、今後も生活圏がほぼ同じってとこなんだよな…。

いろいろ考え合わせるに、ご近所の人からこれ以上好奇の目で見られる事態は避けた方がいいっていうのは理解できる。けど、暴れたり危害を加えたりはしないだろうと言われても。

そもそも正式に付き合ってる彼女が、彼氏の部屋に入り浸ってる自称・友達な女と直に話し合いたいと言い出すなんて。想像するだにろくでもない内容であることは疑うべくもないじゃん…。

こっちの立場としては全然、そんな会話を初対面の本性の知れない相手と交わしたいとは思えないんだよなぁ…。まあ、当たり前の話だけど。

「仕方ないから今からあの人を中に入れるけど。わたしに何かあったら骨は拾ってやってよ。ていうか、万が一刺されてどっかに後遺症でも残ったらまじであんたのこと恨むから。一生根に持つからな、わたし」

恐るおそるの足取りで玄関の方へと向かいながら、口では往生際悪くそう言い立ててやつの寝覚めを悪くしようと試みる。ところが名越はそれで怯んで思い直すどころか、むしろどこか嬉々とした様子でスマホの向こうで急に声を弾ませた。

『え、全然大丈夫。なんかあったらフォローは万全だから安心して!てかそれって一生面倒見させてくれるってことだよね、俺に?喜んでお任せだよ。何でもしてあげる、笹谷のためなら』

「いや。…結構です」

かえってどん引かされて終わってしまった。

こいつ、もしかしてわたしの身体の自由が効かなくなれば一生手許で囲い込んで延々と際限なく絵を描かせられる絶好のチャンス!としか考えてないな。絶対やだ、そんなの。

そう都合よくあんたにとってちょうどいい感じに歩けないとか移動が難しくなるとかいうレベルじゃなくて。絵が二度と描けなくなるって不具合が起こる可能性もあるのに。

そしたら甲斐甲斐しく世話しても何の益もないから、見放して放り出して終わりとかじゃないだろうな。そんな血も涙もないことある?

と、そこまで考えたけど口にすることはなかった。

何となく、名越が得るものがないからってわたしを無情に捨てるとこが想像できない。もしかしたら絵が描けないわたしを当然一生介護するよ!とか言いかねないなと思ったら。

それはそれで迂闊なことは言えないなと感じたのと、あとはただ単にそのタイミングでちょうど玄関前に到達したせいもある。

やばい、まだこんこんしてる。しかもやや小声ながら相変わらずお経唱えるみたいに延々と、切々訴えるのをやめないでいるし。

『すみません。…制作の邪魔をしようっていうんじゃないんです。けど話を聞いてほしくて。名越くんにもあなたにも迷惑はかけないから、とにかく一回このドアを開けて会ってもらえたら』

うーん。聞くだに何とも言えないやばさが拭えない。

名越がさっきの時点で大学にいたとしたら帰宅するまで三十分足らずか。その間に惨劇が起きたり取り返しのつかないことになったりしたらまじで恨むよ。絵なんか一生描いてやらない、のは難しいからあんたには金輪際見せてやらない。…で脅しとしては結構な効果あるかな。

あとでどんな代償を払わせてやろうか。といい機会だからあれこれ思い巡らせながら、わたしはそうっと玄関に降り立ち、ため息を封印してドアの内鍵に向けて手を伸ばした。


渋々とドアを開けて招き入れたわたしに丁寧にお礼を言って、中に入ってきた彼女の態度は思ってたより普通だった。わたしに対して過度な敵意を見せるわけでも、異様に卑下してしくしく泣き言を言い募るでもない。

けど、モノトーンの大人しい清楚な服装。と思ってたのはドアスコープの視界のせいで、直に見るとこれっていわゆるゴスロリ調だ。っていうことが改めてわかった。

フリルやレースは控えめだから街で着ててもめっちゃ目立つわけじゃないけど。それでも白黒統一の色味だから地味。とはならない、と彼女の全体像を眺めてつくづく実感した。わたしみたいながちの地味目じゃなく、かなり凝った服装のお洒落さんだ、これ。

何となくアート系だなぁ。とうっすら踏んだわたしの予感は当たりで、靴を脱いで部屋に上がった彼女はわたしに頭を下げたのち、T美大で名越くんと同じ油画専攻の同期の星名めぐと言います。と自己紹介した。

名前はさっき聞いたよと思ったが新しい情報もあったので、ああなるほど…と頷いて細かいことは指摘しなかった。それから気がついて、わたしは名越の高校のときの同級生で…と自分も名乗ろうとしかけてから一瞬思いとどまった。

正直、この出会い方でこの関係性で。こちらの身許を明らかにして大丈夫なことある?普通に考えて名乗らない方がよくない?

まず間違いなくわたしのことを、彼氏との間を邪魔する障壁と考えてるはず。恨みを買ってると想定した方がいいわけで、下手すると変に誤解した上で思い詰めてわたしに対するストーカーになることだってあり得る。名越との関係で思うところあるなら、そのもやもやは他人を巻き込まずに当人に思う存分ぶつけて欲しいと思うし。またその方が合理的だとも思うけど…。

他人の心の動きや感情はどうしようもないし、わたしは関係ないんで。と理性的に説明しても腑に落ちてもらえるかどうかはわからない。とにかく巻き添えを食わないよう、ここは細心の注意を払った方がいい。

玄関に突っ立たせたまま名越の帰りを待つ。というわけにもいかないから、仕方なく彼女を案内して奥へと通す。

間取りの構造上、リビングへと向かうときにどうしてもアトリエを通過することになる。片隅のイーゼルの上に描きかけのわたしの絵が置いてあるけど、なるべくそちらに意識が向かないよう室内の真ん中へと誘導し、足早に通過した。

けど、さすがに美大生。そこに制作中の絵があれば自然と目がいくのは本能みたいなものなんだろう。さっとそちらを気にしたけど、一瞬目を止めただけでそれについては何もコメントしなかった。

大した絵じゃないと判断してスルーを決め込んだのか、あるいはそれが名越の作品かどうか確かめただけだったのかも。

同じ科の同期ならあいつの作風は承知なはずなので、どうやら他人のだ。とわかったら興味を失ったのかも。制作途中の作品にあれこれ他人の意見が浴びせられることほど嫌なものはないから、彼女がそこに関心を向けなかったのには正直かなりほっとした。

「…どうぞ。かけてお待ち下さい」

「あ。…はい」

リビングのソファセットに座るよう促し、一拍おいてはたと考えた。

え、と。お客様に椅子を勧めるのは良いとして。そのあと自分はどうするのか。まさかその向かいの席に所在なく腰掛ける?

その様子をどう想像で補っても絶対に気まずい。

二人で黙って顔を見合わせてても場が持たないのは目に見えてる。かといってこれ幸いと、この人がわたしに言いたくて溜めてたことを前のめりにべらべらと喋り出すのを一方的に聞かされるのかと思うと気が滅入る。しかも彼女がわたしにロックオンした理由、どう考えても何らかの誤解に基づいてるとしか。思えないので…。

とにかく名越が戻ってくるまで時間を稼げばいいんだから。部屋に入れろとは言われたけど、一対一でじっくり話をして理解を深め合えとは言われてないし。

とにかくこの場を取り繕う。という考えしかなく、まずは何の展望もなくただキッチンの方へと足を向ける。そうだ、こういうときはお客様にお茶を出すものだよね?この押しかけっぷりは客と呼ぶには程遠い、って事実にはまあ目を瞑るとして。

「…紅茶でいいですか」

「あ、はい。…すみません」

嫌です。他のものにしてください、と言われたら詰むところだった。

わたしは実は、この部屋でお茶やコーヒーを自分で淹れたことがない。

俺がいないときでも何でも好きなもの自由に飲んだり食べたりしていいのに!と何度も言われてはいるんだけど。やっぱり他人の家の冷蔵庫や棚を、住人がいないところで漁るのがなんか抵抗があって。

結局一人でアトリエを利用するときは、コンビニで買ったペットボトルや軽食を持ち込んで済ませてる。だから名越が好んでいつも用意してくれる紅茶ならまあ、見よう見まねでわたしも支度できると思うが。

コーヒーとか緑茶なんて、キッチンのどこに何がしまってあるかもよくわかんないんだよな。頼めばときどき出てくるから、どっかにはちゃんとあるはずなんだけど…と脳内でぶつぶつ言いながら、まあこの辺かな。と適当に当たりをつけた紅茶の葉っぱ(めっちゃ種類ある!)をポットに入れて、お湯を沸かし始めた。

さあこれでしばらくの間作業に没頭してれば間がもつぞ。と一安心してるわたしの背中に、リビングの方から声がかかった。

「…確か、地元から一緒に上京してきたんですよね。幼馴染みとかですか?」

「いいえぇ。ただの高校んときの同級生ですよ」

似たようなものじゃないですか、と小声で突っ込んだのがしっかり聞こえた。まあね、一人暮らしのマンションとしちゃ広いけど。キッチンとリビングで大声張らなきゃ会話もできないほど離れてるわけじゃないからな。

わたし的には単に高校三年間一緒だったのと、物心ついたときからずっとそばにいたのとではまるで天と地ほども違う感覚。何故ならそっちはそっちで具体的存在が名越とは別にリアルでいるからだ。

「…こうやって、名越くんが在宅じゃないときも自由に部屋に出入りしてるんですね。合鍵とか持ってる、ってことですよね?」

あー…。まあ、それはそう。なんですが。

「いやでも。アトリエで絵を描く以外に使うことはないですし。あいつとの個人的な交流のために部屋に来ることはないです、断じて」

疾しいことはないのでためらいなくきっぱりと、間髪入れず答える。彼女はそれでも疑い深く(まあ。…客観的に考えてそう見られるのは仕方ない。かも)、さらに重ねて追及してくる。

「本当に?…ここで一緒にお茶して寛いだり。ご飯食べたり、泊まったりもしてないってことですよね?」

「いやお茶くらいは飲むよ。向こうも一緒にアトリエで制作してることあるんで、休憩しようか。みたいになることはありますね」

でも、泊まったりはしないですよ。と反論のついでみたいに付け加える。巧妙に真ん中の質問、2人でここでご飯食べたりしないのか?については華麗にスルーすることに成功した。てかご飯作ってここで食べるのもダウトなのか…。まあ、付き合ってる彼女からしたらそうでしょうな。

そこで彼女の声のトーンがやや低くなった。キッチンからは見えないけど、いかにもジト目をこちらに向けてそうな声色。

「…本当ですか?前にあなたが部屋に泊まったことある、って言ってましたよ、あの人」

自分の彼女に何言うんだよあいつ!普通言う?

何もかもあけすけに絶対に嘘はなし、とかいう誓いでも立て合ってんのか。ピュアな中学生同士のカプなのかあんたらは?

そんなの馬鹿正直に答えずに適当にごまかしとけよ。とうんざりしつつ、でもそれも全く疚しくはないので。ありのままを口にして伝えた。

「ずいぶん前、生まれたての仔猫を皆で交替で世話したときですね。夜中も授乳しなきゃならないから集団で泊まらせてもらったんですよ。あ、うちの大学で地域猫のお世話するサークルに所属してるんで。そこのメンバーと一緒だったから、二人きりでもなんでもないし…」

「それもなんですけど。…確かそのサークル、名越くんも部員なんですよね?」

嬉々として身の潔白を証明するべくまくし立てたら、いきなり予測してない方角から攻撃を受けた。

「何で〇〇大のサークルに彼、所属してるんですか。あなたが一緒にやろうって誘ったから?」

絶対にそうではない。嘘もごまかしも必要ないくらい、その件についてわたしは潔白なんですが。

「何でしょうね。成り行きというか…。多分、よほど猫が好きなんじゃないですか。よく知らないけど」

ごぽごぽ、とお湯の沸く音が大きくなってきた。向こうに戻りたくないけど、紅茶は沸騰したお湯を使わないといけないんだよね…。仕上げを先延ばしには出来ず、仕方なくしゅんしゅん鳴るのをポットへと注いで蒸らす。

彼女は急に毅然とした口調になり、キッチンに満ちる沸騰音に負けじと声を張った。まるでわたしがのらりくらりと言い逃れる台詞の中に粗を見出し、さあここから論破するぞ。と意を決したように思える。

「そんな話。付き合っててわたし、聞いたことないんですけど。特に猫が好きとか、保護猫に関心があるとか。…だいいち地域猫の世話がしたいんなら、こっちの大学の周辺の猫の面倒を見ればいいじゃないですか。なんで生活圏から離れたよその大学の地域の子をお世話しなきゃならないんですか?」

知らないよ…。てか、訊く相手を間違えてる。それは名越本人にしか答えられない質問なのでは?

そう思ったけどそのまま口にはできない。鵜呑みにされてこのあと帰ってくる名越に直接疑問をぶちまけられたら、と思うと。

あいつは人の心がないから、彼女が心の底でどんな答えを求めてそれを尋ねたかなんて絶対に考慮しないはず。平然とした態度で、え?そりゃ〇〇大には笹谷がいるからね。笹谷がやりたいことをサポートするのが俺の使命だからさ、とか忖度なしにそのまま答えてしまうに違いない。

わたしはなるべく無難な返事を模索し、慎重に言葉を選んだ。

「…多分単純にうちの大学の近所に地域猫が多いからだと。保護猫サークルもそれなりに歴史があるし。てか、T美の周辺て猫多いんですか。わたしは一回も見たことないんですけど…」

彼女は大変に悔しそうに答えた。

「…わたしも見たことないです。あの辺は割と住宅街だから。猫はみんな、室内飼いなんじゃないでしょうか。今どきは」

うーん。そしたらまあ、地域猫サークル存在意義ないよね。

わたしは話の成り行きにちょっと安堵して、熱々のポットとカップをお盆に載せてリビングへと運びながら議論をそこで締めた。

「シンプルに、T美にないサークルだからじゃないですかね。あんまりどこの大学でも普通にあるサークルじゃないから。物珍しくて好奇心で参加してるんですよ、きっと」

そしてわたしを含む〇〇大の部員たちがやつを積極的に歓迎するのは資金面の理由が大きい。名越は完全な部外者だけど、お互いウィンウィンの関係だからこの状況が成立してるわけだ。

「向こうでも他大学の学生だからと敬遠されずに受け入れられてるみたいなんで。まあ、いいんじゃないですかね。誰にも迷惑かけてないし。週に一度顔出すか出さないかくらいだし」

「…じゃあ、笹谷さんは。〇〇大にも存在してるミス研なのに、自分の大学じゃなくわざわざうちの大学まで来て参加してる理由は何なんです?」

彼女の前に置きかけてたカップを危うく取り落とすところだった。

ていうか、この子。わたしの名前知ってるのか!どこでどうやって漏れたんだ。いやまさか、名越本人の口からじゃないだろうな?

絶対あり得ないと言い切れないのが情けない。あいつそういうとこ、今ひとつ危機感ないからな…。わたしに近づいてくる(と想定されてる)あいつの頭の中にしかいない男の虫たちに対しては心配し過ぎじゃないの?とこっちが阿呆くさくなるくらい真面目に対策するのに。

けど、彼女の今の問いについてはちゃんと答えられる。別に大きな顔して得意げに言い放つことではないが。

わたしは慎重にテーブルの上にカップを置き直し、俯いてこぽこぽと紅茶を注ぎながら正直にそのままの答えを口にした。

「あーそれは…。えーと、はっきり言うとですね。〇〇大のミス研、ガチ過ぎて怖いんですよ…」

プロのミステリ作家何人も輩出してるガチ度だし。わたしみたいなちょろい素人のミステリ読みがうっかりなんか言っても、それは読み込みが甘いな。とか、あの名作を未履修なの?それじゃ**の凄さは理解できてないでしょ、とかめちゃめちゃ弱点突かれそう。…いや見学にも行ってないから、まじでただの偏見かもしれんけど。

「プロ並みの読み込みとか求めてなくて普通に一般読者として、あのミステリ面白いよねとかあの作家が好き!とかわいわいしたいだけなので。T美大の人たちとちょうどテンションというか話が合うって感じなんですよ。行ってみたら居心地よかったので、そのままずるずると」

「ていうことは。最初に見学に行ったきっかけは、やっぱり名越くんですよね?」

世間話の気分で気軽に話し始めるとあっという間に足許を掬われる。

考えてみればそりゃそうで、どうやら名越くんの友達の笹谷さんって人と自分は仲良くなれそう。とかいう動機でここまでわざわざ来てるわけじゃないもんな、この人。

友達って言い張ってるけどどうにも二人の間の距離感がおかしい(それはそう)、絶対に尻尾を出させてやる!と心に決めて虎視眈々こちらの隙を探ってるんだから。

何でもかんでも名越と結びつけるなんて!とか憤慨してもしょうがない。向こうはそこにしかもともと関心ないんだもんな…。

「それはまあ。…いろいろ理由あって結局美大に進めなかったので。名越が気を遣ってわたしを美大の人たちに紹介してくれようとしたんです。何か刺激を受けられたらいいんじゃないかと思ったみたいで」

実際にはほんのごく最近までまったりとミステリの話をするだけだった。

学祭のときのイラストの件がなければ、あえて美大のサークルを選んだ意味が全くなくなるところだ。まじで危なかった。

彼女と自分のカップに紅茶を注ぎ終わった。そうなるともうすることもなく、ただ突っ立っていてもしょうがないので仕方なく彼女の向かいの席に座る。

ここまでの間に名越が帰ってきてくれればと期待していたが、思いの外に早く終わった。これ以上この人と話したいことなんかこっちはないが、成り行き上仕方ない。

彼女はわたしがソファの上に腰を下ろし終えるまでの間、カップに両手を添えて黙ってじっと眺めていた。

「…それも結局。あなたのことを考えた上でのことなんですよね、全て」

うーん。まあ、そうなんですけどね。

わたしは肩をすくめ、自分のカップを片手で持ち上げて香り高い湯気をふうと軽く息で飛ばしてから答えた。

「わたしのため、というように側からは見えるのかもしれないけど。正確に言えばわたしの描く絵のためなんですよ。どういうわけかあいつ、高校のときからわたしの絵をすごくいいと言ってくれて。制作をサポートして、作品を世に広めるためなら骨身を惜しまず何でもしてくれるけど。わたしが大事というより、作者に何かあるともうこの先新作が描かれなくなるっていうのが一番の理由じゃないですかね?」

うん、完璧。そして事実だ。

この人は多分、公的な彼女は自分なのに。どうやら名越がそれ以外に異常に大事にしてる女の子がいるらしいのが気に入らないわけだが。

あいつが本当に大切なのは、わたし本体じゃなくてそこから出力される作品なんだ。って納得できればちゃんと落ち着けるんじゃないだろうか。そんなわけない、と意固地に反論してくるかもしれないけどしょうがない。だってそれが掛け値のない真実なんだから。

と、自分は言うべきことは全部言い切った。あとはこの人がそれをどう受け止めるかだな、と考えて悠然とカップの紅茶を口にする。その途端彼女がずばりと忖度なしに切り出した言葉に、わたしは危うく口に含んだばかりの熱い紅茶を噴き出すところだった。

「え、だけど。…彼の『本命』って、やっぱり笹谷さんなんじゃないんですか?」

「ゔ」

喉の奥の変なところに紅茶が入ってわたしはむせた。

思いきり噴水のように吐き出すよりはいいけど。…しばらくは口が利けそうにない。一刻も早く反論したいのに。

彼女はわたしがげほげほ、と苦しげに咳き込んでることなどお構いなく、思うさまに自分の言いたいことだけを一方的にまくし立てている。

「ずっと観察してたんです、彼と付き合うようになってから周りの女の子たちを。だけど同じ専攻の子たちや講義で一緒になる人たちの中にあの人の本命なんじゃ…と感じる人はいなかった」

彼女はしっかりと両手でカップをホールドしたまま、思い詰めた様子でさらに独白を続けた。

「誰に対しても愛想はいいけど通り一遍だし。特定の人物に執着を見せるってこともない。本命って言えるほど特別に思ってる相手なんて本当はいないんじゃないかなってうっすら思ってた。わたしが彼のことをあまり好きになり過ぎないよう牽制してるだけなのかなって気もしたけど」

目に涙を滲ませつつ、何とか喋れるようになろうと努力する。わたしがそうしている間にも彼女の自己完結的な語りは突っ込みなしにどんどん先へと進んでいってしまう。

「もしかしてと思って彼の所属してるサークルの人を調べて探りを入れたんです、その人は同期とは限らないし先輩とかかもしれないなって。そしたら彼の一番親しい相手って言ったら、大学違うけど間違いなく笹谷さんでしょって。何人かに訊いたけどみんな口を揃えて教えてくれて…」

ミス研のやつら!余計なことを。

まあそうだよな、あそこの連中を除けばT美の彼女にわたしの存在や名前まで教えられる人たちはいない。

いや正確には名越本人がいるからここまでどっちが本ボシかは何とも言えなかったが。今の独白を聞いて、無責任にもわたしの存在をゲロったやつはどうやらミス研のうちの誰かである事実がはっきりした。かと言って今からそれが誰かを突き止めて、責任を取らせようにももうどうしようもないが。

それにしても。

「…あの男。まだそんなことやってたのか…。阿呆だなぁ、いい歳して」

「…え?」

思わず知らず、すっかり呆れ果てた本心がようやく言葉になってぼろっと口から溢れた。そこを聞き漏らさなかったらしい彼女の不審げな反応が耳に届く。

「いえあの。…その様子だと、もしかしてごめんね違ったら。あいつ、他に本命がいるけどそれでもよかったら。って言いませんでした?そういう条件ってあった、付き合い始めたとき?」

「あ、はい。そうです」

やや面食らいつつもこっちを正面から見つめてきっぱりと答える彼女。こっちがようやく落ち着いたせいか、真正面から正対したせいか。

シンプルなセミロングの黒髪ボブと思ってた髪型の襟足の辺りが見えて、インナーカラーのメッシュで金色が入ってることがわかる。さすが美大生、ぱっと見控えめながらもなかなかに凝ってるしお洒落だ。

そんなことに一瞬気を取られつつも、軽く頭を振り余計な思考を追い出して話の先を続けた。

「名越ってそれで有名だったんだよ、高校のとき。女の子から付き合ってくださいって申し込まれると必ず、本命は別にいるけどそれでもよければねって条件をつけてくるって。でもわたしが最初にそれ聞いたのは高一のときだったし。そのあと一年後くらいにもそれ言われたあいつの彼女と話したことあったけど」

言いながらありありと当時のことを思い出す。

名前はとっくに忘れちゃったけど、確か最初は宮路さんの友達(というか逆で、あのときは彼女の友達が宮路さんだった。ってのが知り合ったきっかけだったはず)。次に会ったのは美術予備校の、派手個性的ファッションのいかにも美大志望って感じの女の子だったなぁ。

正直それがわたしと知り合ってから名越が付き合った相手の全部という気はしない。たまたま向こうから接触してきたのがその二人だっただけで、きっとこちらが知らない間に次々と彼女が入れ替わってたことは想像に難くない。が、それにしても。

「高校生くらいだったらまあイキリというかちょい厨二というか。俺本当は好きな子他にいるんだよねーみたいなのもまあ、そういうやつもいるのかなで片付けられなくもないけど。大学生にもなってそんなガキっぽいノリはどうなのって…。てか、本当にそんなに真剣に思ってる相手いるんならふらふらしてないできちんとその人に当たって砕けて、気持ち整理して次行けって思うんですけどね。なんか痛くないですか?俺本命他にいるんだけど、だって。けっ」

「…でもそれは。笹谷さんが彼に振り向いてあげないからなんじゃないですか?」

つい感情的になって忌々しげな口調になってしまった。それが名越の側に肩入れしている彼女からしたら、さすがにちょっとかちんと来たらしい。

「高校のときからずっと片想いで、あなたが心置きなく制作できるように自分の家も提供して合鍵まで渡して。そこまで尽くしてるのに報われないとしたら、やっぱり自分のことを思ってくれる相手にそりゃ、多少はふらっとなることもあるんじゃ…。そんな風に言うくらいなら、あなたが名越くんの気持ちに応えてあげれば済むことなんじゃないですか?利用できるだけ利用しといて、そんな言い方酷いと思う」

怒った口振りで言い募る。いやその、そもそも。だいぶ誤解があるような…。

大体わたしが、この人に説得されてそうか…となって、実際にあいつの思い(仮)に応えてしまったら。あなたは居場所を失って用無しになってしまうがそれでもいいのか?と頭の隅っこに浮かんだが。

そんな事態には絶対にならないので口にするだけ無駄だろう。名越の本命がわたしである、という論理の前提自体がまず根本的に間違ってるんだし。

ため息をつき、自分の目の前のカップを持ち上げてずず。と残りの紅茶を飲み干し、喉を充分に潤してからおもむろに話し出す。

「あいつの本命ってやつが誰だかは知らないけど。少なくともわたしではないです。高校に入学してしばらくしてから名越とわたしは知り合ったんですけど、そのときにはもう付き合ってる彼女がいた模様で。当時既に有名だったらしいです、本命がいるのにそれでもいい。と答える女の子としか付き合わないって」

どういうことなんだろう。と戸惑い気味にわたしの台詞の内容をあれこれ考えてる様子の彼女に、噛んで含めるようにゆっくりと説明を続ける。

「ですから、時系列が合いません。入学して間もなくの時点でそれだったみたいですから、おそらく相手はあいつの中学時代以前の知り合いかと。名越は中高一貫私立からのドロップアウト組ですから、やつと同じ中学出身者もわたしには伝手がないので。相手が誰だかは本当に見当もつかないんですよね、別に尋ねたこともないし」

興味がないからね。どうしても話したきゃ、あいつの方から話振ってくるだろうけど別にそんな気配もないし。

この説明はちょっと説得力があったのか、彼女はじっとテーブルの上に視線を落としてしばらく話の内容を噛み砕くように考え込んでいた。

「…て、ことは。本命の人は、中学の同級生とか先輩か後輩…?」

「かもしれないし、そうとも限らないかも。こんなに長いことずっと片想いってのが本当なら、もっとよほど可能性のない相手ってこともあり得るかもですよね。まあ無責任なことは言えないから、特に推察はしないですけど」

すごい大人で相手にされる芽がないとか。最悪既婚者だとかね、と口にはせねど思う。

そうなると学校の先生とか、塾講師とか元家庭教師だとか…。いや待て、さすがに大河原先生ではないよね?

一瞬そう思い浮かんだがさすがにないな…と馬鹿馬鹿しくなってやめた。二人が一緒にいるとこ何度も見てるけど、何も感じたことないし。そういう空気じゃ全然なかったな。

「そうか、…だとすると。望みのない報われない相手、って可能性もありますよね?」

彼女は俯いてごく真面目な表情で考え込んでいる。

「まあ。…普通に受け止めたらそういう可能性が高いかも。わたしの知ってる限りでは、彼女は割とばんばん変わっていくけど。誰か特定の人に積極的に当たっていってる様子がないので」

最初からこれは無理、と見ていてわかる相手なのかなと。

あとは名越が特別変態な男で、本気で好きな子はちょくちょく変わっていっても必ず遠くから見ているだけで本命には絶対に手を出さず、実際に付き合うのは手近な適当な相手で済ませる。っていう特殊プレイが好きなやつだとかね。と考えたけどそれは胸の中にしまっておいた。

その説のやばいところはやつが変態だって部分じゃなくて、名越の好きな相手がときどき移り変わっててずっと同じ人じゃない。ってところにある。

わたしがやつの本命じゃないっていう根拠は最初から好きな人が変わらない、っていう前提の下に立ってる話なので。そんな仮説を出そうもんならこの人が、あれ?だったら今現在の本命は笹谷さんでもいいわけですよね?とか思いついちゃったら元の木阿弥。

せっかくこの場はとりあえず落ち着いてるので余計な波風を立てたくはない。なるべく神妙な表情を取り繕い、彼女がしみじみとその台詞に感じ入ってる様子なのを大人しく見守っておくことに。

それにしても。と今回初めて知った事実を改めて脳内で整理しつつ密かに思う。

あいつが本命以外と来るもの拒まず平気で付き合うって設定、東京に来てからはすっかり忘れてた。だってこれだけ一緒に過ごす時間が長いのに、女の子の影をほとんど感じなかったからさ。

しかし冷静になって考えればさほど不思議じゃない。いつも顔を合わせてる、と感じてるのはあくまで高校時代との比較でしかないし。何より今は大学は別々なんで、行動範囲や交友関係も被ってない部分が多いのだ。

目の前にやつがいないときどうしてるかは関心がないから探らないし、特に考えたことがない。だからその範囲で誰かと付き合ってるならわたしは全然気づかないだろう。

そう考えるとこの子が東京での名越の最初の彼女ですらないかもしれないな。とそこで初めて考える。

迂闊だった、決まった相手のいる異性の部屋にうっかり入り浸りだったとは。と首をすくめて反省しつつ、彼女のカップがまだほとんど手をつけられてないのを確認してから黙ってポットを手にして自分のカップに少し紅茶を注ぎ足した。

これからは不便だけど自分の部屋で小さめの作品を手がけるか、大物はちょっと間隔空いちゃうけど近藤先生のところに置かせてもらってこつこつ通って仕上げるしかないのか。

まあでも、東京で一人暮らししながら制作するなら本来それしか方法がなかったはずなので。これまでが分不相応に便利過ぎただけだもんなぁ…。なんかちょこちょこ、画材も用意してあったのを使わせてもらったりもしてたし。

と、諦め顔で覚悟しつつ残りの紅茶を飲み干してるわたしは自分のことしか考えてなかったが。目の前でじっとカップの紅茶に目線を落として真剣に考え込んでる彼女の方はと言えば、どうやら名越に対しての思いで頭がいっぱいになってるらしい。

「…そんな昔からずっと、好きな人への気持ちが満たされずにつらい思いをし続けてたなんて。中学のときからって、可哀想過ぎる。やっぱりあの人、放っておけないよね。誰かそばにいてあげないと…」

「あー。そうかもしれませんねぇ」

わたしは適当に相槌を打ち、のほほんと紅茶を味わった。

心がこもってなさ過ぎだろと我ながら思いはしたが。彼女はまるで気にとめる風もなかった。自分の感情の中に浸ってるので、他人の声はほとんど聞こえてないのかも。

おそらくわたしが全然関係ない話を振っても特に反応しなかったんじゃないか。俯いて低い声で、誰にともなく言い聞かせるように独りごちてる。

「そんなに長いことひとりでじっと抱えてなきゃならなかったなんて。振り向いてもくれない冷たい相手のことなんて早く忘れさせてあげなきゃ。名越くんなら今からもっと幸せになれるはず、頭もよくて何でも出来て絵も巧いし…」

「ですよねぇ、わかります。あいつの絵本当に巧いですよね」

思わずわたしが嬉しくなって本気で同意してしまったのがそこ。よかった、今の大学でも名越の絵が評価されてるらしいのがわかって。

あいつ自分の絵のこと本当に最近ないがしろだからなぁ。一緒にコンクール応募しようよと強制的に誘ったらまあ…仕方ないか、みたいな感じで渋々受け入れたけど。大学入っちゃったらもう、周りから評価されたり褒められたりしなくてよくなっちゃったの?っていうくらい、制作に対する意欲が薄くなって見えるのが結構本気で心配…。

そんな風に噛み合わない会話をぽつぽつと交わしてると、やっと部屋の主が到着した。

呑気な人を食った顔つきでやあやあ。と笑って入って来るのかと思ってたけど、がちゃりと扉を開けて廊下を進んできた足取りからしてどうやらそれなりに慌てて帰ってきた様子だ。リビングに飛び込んできてわたしと彼女を見較べたときの表情はやや焦ってたし、呼吸も心なしか乱れてる。

名越を見るなり彼女は立ち上がり、何事か言おうといきなり口を開いた。

「…名越くん!わたし、あの」

「ああ、うん。…いいんだよとりあえず。てか、笹谷。大丈夫?」

悪いね、制作の邪魔して。と付け加えてこっちを見る目がまじで心配そうだ。あんな気楽な口振りだったけどやっぱりそれなりに気を揉んでたのか。と思えばまあ、若干の苛立たしさも少しは収まってきた。

「わたしは平気。そしたら帰るね、もう。あ、ちょっとだけ片付けしなきゃならないから。アトリエの方行くけど、あとはお二人で。ごゆっくり」

お節介なおっさんおばさんのようなことを呟いて頭をへこへこと下げ、リビングから出て行こうとする。それを名越が焦った口調で横から引き止めようとしてきた。

「いやそういうわけにも。てか、制作途中でしょ。俺たちが出て行くから、あんたはここで続き描いてれば?」

「え、何言ってんの。ここはあんたん家でしょうが」

わたしは外側を取り繕うことも忘れ、すっかり素のままに呆れてしまった。

「…他人に気ぃ遣うのも大概にしなよ。ていうか、あんたが今気にしなきゃいけないのはそっちの彼女の方じゃないの?」

身を縮めてわたしとやつの方を交互に見較べてる彼女に視線をやり、目の前でやり合うのは得策じゃないな。と考え直してアトリエの方へと名越を促して急いで片付けを済ませながら簡潔に言い渡す。

「…前にも思ってたんだけどさ。付き合ってる相手がいるならそれは一応言いなよ、わたしだってその気になればちゃんと気を遣えるんだから」

「え、でもそしたら。アトリエに通うの控えちゃうんじゃないの?」

声をひそめる辺りはこれでも一応彼女の耳を憚ってるのか。でも台詞の内容は全然、ノンデリそのものだ。

「控えるに決まってるでしょそりゃ。てかさぁ、あんたどういう理由でか知らないけど。付き合うって決めたんならそれはちゃんとしなよ。本命がよそにいるだかどうだか知らんけど、そんなの相手には関係ないだろうが」

これまで自分は口を出す立場じゃない。と考えてたせいで言うタイミングがなかったことを、ここぞとばかりにこの機会に一気に吐き出す。

「大事に出来なくて不安にさせるんなら最初からやめときゃいいだろ、誰もあんたに強制してくるわけじゃなし。付き合うんならお互い楽しく幸せに、それが無理そうならきっぱり諦めて手を出さない。別に難しくない、シンプルな話じゃないの?」

「ああ。うん、確かに。そこは抜かったなと思う」

なんか言い返して来るかと思ったが、意外にもあっさり自分の落ち度を認めて反省の姿勢を見せる名越。

「付き合うってなったらお互いちゃんと納得してウィンウィンじゃないとな。今までそこをミスったことなかったんだけど、次から気をつけるよ。…あれ、もう帰るの?寮まで送って行こうか?」

何言ってんだか。目の前だよ、しかもまだ時間早いし。

「必要ない。それより、しっかり彼女のフォローしといてよ。ほんでこっちに皺寄せが来ないようにしといて。あんたの人間関係のもつれに巻き込まれるのはごめんだから」

手早く絵の具や道具を片付け、キャンバスを立てかけたイーゼルを隅に寄せる。まだ乾いてないからそのままだけど、名越があとで布をかけといてくれるだろう。

さっさと玄関に向かいながら小声でそう言い置くと、やつはその台詞に萎むよりもむしろ発奮したかのように力を込めて活き活きと請け合った。

「もちろん!あんたに負担をかけるような真似は二度としないよ。そっちには絶対行かせないから安心して。…あ、本当にいいの送らなくて?終わったら連絡するから、こっちで一緒に夕飯食べる?」

靴を履きながら脱力した。こいつ、本当にわたしが言ってる内容わかってんのかな。

「ひとりで適当に食べる。てか、あんたは彼女とご飯食べなよ。これからはちゃんとあの人と時間とって向き合ってあげな。何度も言うようだけどそれができないなら彼女作る資格ないよ。女の子といる楽しさには責任もついてくるんだから」

「うん、よくわかったよ。それはもう大丈夫、笹谷は心配しないで」

あとで連絡するよー、と出て行く背中に向けて玄関先で手を振ってる。いいからそんなの。さっさと彼女んとこへ戻れ。

本当にわかってんのかな、あいつ。

エレベーターでロビーに降りて、建物の外に出たところで改めてため息をつく。

…まさか出会ったときから三年間以上、相変わらず本命がいる状態そのままで彼女を取っ替え引っ替えしてたとは。

関心がないから気づかない、で済まされない可能性もある。今回だって向こうが話がしたいだけだったから無事だったけど。下手すると巻き込まれて刺される展開だってあるかもしれないもんな。

まあでも、運良く危ない局面は免れた。今後はしばらく名越との距離を置いて、彼女との仲をそっと応援して見守ろう。

わたしはマンションの方を振り向く気にもなれず、肩をすぼめてさっさと道を渡って寮の入り口へと向かう。

名越には世話になってはいるが、そんな個人的な不始末を一緒に被らされる謂れはない。自分で何とか制御できると踏んでるから危ない橋渡ってるんだろうし。どのみちわたしにはどうすることもできないよね。

…しかし、それにしても。

寮の入り口でパネルに暗証番号を打ち込みながら思わず知らずため息が口から漏れた。

何だってあいつは、本命がいるのにわざわざそれ以外の子と次々付き合うんだろ。どう考えてもトラブルと面倒の元なのに。

そもそもその本命にきっちり向き合って当たってんのか?てか、そんな本命なんて本当に実在してるんだろうか。好きでもない子と遊びで付き合うときのただの言い逃れなんじゃないのか。

その疑いは免れない。けど、こっちからあえて追及するほどやつのプライベートに突っ込みたいわけじゃないので。

わたしはきっぱりとその件を忘れることにして、あー明日から絵を描く場所に困る、不便だなぁ。コンクールの締切との兼ね合いもあるのに、と考えて首をすくめた。


それ以来、しばらくの間。名越がもう大丈夫だよー、あの子は家に来ないって約束したよ。と何度誘ってきてもわたしはやつの家のアトリエに行くのは遠慮した。

彼女と顔を合わせる合わせないの問題じゃなくて、決まった相手のいる異性のプライベートスペースに出入りすること自体がどうなのって気がしたので。

それに、あの子がT美の学生である事実を考えると。わたしはミス研に所属してるからあそこに通うとき、絶対に鉢合わせないとは限らない。

というより、下手に恨みを買えば何処かで待ち伏せを食らう可能性がある。約束なんかどうでも名越の自宅の場所は既に知られているんだし。あいつ、笹谷のせいでわたしは彼の部屋に出禁を食らった!と不満を募らせてたら。

何かの拍子に一気に自制心の箍が緩んで、サークルや名越の家を襲撃して来てもおかしくない。現に既にそれに近いことをしてるんだし、最後のハードルを越えるまであと一歩だ。

君子危うきに近寄らずだ。そう考えて不便だなぁとぶつぶつ内心で不平をこぼしつつ、地味に寮の自室や近藤先生の教室で制作を続けた。年明けにはコンクールの締切もあるし、少しずつでも作品数を増やしておけと名越にも口を酸っぱくして言われてるし。ちょっとでも描くのをさぼると、それをきっかけにずるずると手をつけなくなりそうだし。

わたしのそんな意図を尊重したのか、名越は意外にもそれ以上家に通うよううるさく言い続けることはしなかった。

その代わりに近藤先生に掛け合って、週に一度のレッスン以外のバイトのついでや空いてる時間にもアトリエの一隅を使ってもいい。との言質を取り付けてくれた。そしてしばしば教室まで車で送ってくれたので、さほど支障なく今までのように制作活動を続けることができた。

そんな習慣ができてから一か月ほども経過した頃。

「…お待たせ!今日から元通りまた、心置きなくうちのアトリエを使っても大丈夫だよ。長らくご不便おかけしました」

うちの大学にわざわざ迎えに来た名越に、やけに晴れ晴れとした顔つきでそう宣言された。

「ん?大丈夫、って何。なんで今日からなの?」

なんか嫌な予感しかしない。名越はわたしのためにあの清々しい青紫色の車のドアを開けて助手席に乗るよう促しながら、あっけらかんと悪びれず言い放った。

「あの子とついに正式に別れたから。あ、ちゃんと円満終了だよ。こっちから振ったりはしてないから。むしろ向こうから言い出すよう頑張って努力したんで、その分余計に時間かかっちゃったんだけどね」

いやー長かった。お手数おかけしましたぁと爽やかに笑ってエンジンをかける名越。いや長かったじゃねぇよ。

「あれからたった一か月しか経ってないんだけどね。本当に円満?」

シートベルトをかけて疑り深くそう尋ねると、やつは憑き物が落ちたようなすっきりした声で調子よく答えた。

「もちろんもちろん。てか、結構苦労したよ〜。しこりが残ったり恨みを買うような別れ方したら笹谷が危ない目に遭うしね。なまじサークルや家も知られてるから、心残りがないように愛想を尽かされるしか選択肢がなくて。まじ神経遣ったわー」

名越は鼻歌を歌いかねないほど上機嫌な様子で、いかに大変だったかを得々と打ち明ける、

「こっちが先に別れたくなったのを悟られずに、いかに女の子の方が自分で決断したと思わせられるかが肝なんだよ。だから下手に急がずに、自然にそっちへ持っていかなきゃなんないから。やむを得ず時間がかかったんだよね…。そんなわけで笹谷には不自由な思いさせたけど、これで解決。前と同じように自由にうちに出入りできるよ!」

なんかもうあの子次の相手見つけたっぽいし。俺に執着する気持ちは既に天からないみたいだから、怖がらなくて大丈夫だよ。とか説かれて力が抜けた。こいつももちろん大概だけど向こうも案外軽いんだなぁ…。

「付き合うって、なんか結構適当なんだね。そんな状態なら何もわざわざ、面倒な思いして誰かと彼氏彼女になる必要なんて。必ずしもないのでは?」

どうせ本命じゃないんでしょ。とまでは口にしかねたけど、名越にはそのニュアンスは伝わったようだ。ふと口調を改めてさっきよりはやや真面目な顔つきになって呟く。

「笹谷からしたらそう思えるだろうけど。俺にはそれなりに切実な話なんだよ。必須ではないけど誰かいた方が平穏が保てる。いろいろあるんだよ、側から見たらわかりにくいかもしれないけどさ」

「ふぅん…」

わたしは深々と座り慣れた助手席に背中を埋め、どちらとも言えない曖昧な声で相槌を打った。…まあ。本人がそれで厄介だとかややこしく感じてないなら、別にいいけどさ。

信号が変わり、無理せずすっと停止線で車を停める名越。わたしが反論しなかったので納得したと受け止めたらしく、再び声を弾ませて横を向いてうきうきと話しかけてくる。

「だけど次は間違えないよ。てかいつもちゃんと確認はしてるんだよ、本命じゃないけどそれでもよかったらって。それでいいよってあの子もはっきり答えたんだけどさ、今いちニュアンス取り違えてたみたいだな。本気じゃないからただの遊びだよってはっきり言えばよかったな」

「うわぁ。鬼畜…」

思わず同年代女子としてぽろりと本音が溢れる。名越はそんなわたしにむっとすることもなく、むしろ微笑ましげな眼差しをちらと向けてからゆっくりと車を発進させた。

「笹谷みたいな人からしたらそうとしか思えないだろうな。けど女の子でも本当にそこは人によるんだよ。俺みたいなやつと後腐れなく気楽に遊んで、お互い縛られなくてそれで満足。って子も全然普通にいくらでもいる。てか次は完全にそれだから、安心して。あんたのところにとち狂って突撃していくようなことは絶対にないよ」

得意げに宣言されたけど。それはそれでどん引き。

だって、早くももう次の相手の当たりはついてるってことだもんね。今日あの子と別れたばっかりなのにと思うと。やっぱ引くわぁ…。

「まあ。…あんたの個人的な交友関係なんて。こっちに迷惑さえかからなければ、どうでもいいけどね」

膝に乗せたバッグの上にお行儀悪く頬杖をつき、嘯くわたし。

こっちがおかしいのかな。自分が特別潔癖だとか奥手だとは思わない。

ただ単に言うほど異性との交際に興味がないだけだと思ってる。好きでもない相手とそこまでする必要があるってのがまずわからないし。揉めたり拗れたり、うっかり刺されそうになるくらい他人の恨みを買うほどのことだとは思えない。

誰でもいいけど誰かいないと駄目とか、自分のことを好きじゃない、自分も大して好きじゃない相手と一緒にいて楽しいって感覚は理解できない。大好きな人とじゃないなら、わたしはわたしで一人がいい。

けど、わたしがそんな風に考えてるのは隣に座ってるこいつは百も承知だろう。だからここでこれ以上何か疑問を呈するのはとりあえず止めにしておいた。

名越の方もそれ以上この件について話し合う気は既にないらしい。あんたがうちに来るのまじで久しぶりだね、今日は夕飯食べてくでしょ?途中でスーパーに寄るけどいいよね、何食べたい?いっそ今夜はうちに泊まってかない?といつにもましてうっきうきで喋り散らかしながら。黄信号を目前にして軽くアクセルを踏み、僅かに車のスピードを上げた…。


《第24章に続く》

名越について一応擁護らしきものを述べるとすると。彼的にはちゃんと最初に正直な本音を伝えてるつもりなんで、どうしてそこを違う風に解釈されるのかわからない。と不思議に思ってるわけです。

本命が他にいるから君のことは好きにならないけど。それでも俺と付き合うの?とはっきり言って、それでいいよと答えられてるから。じゃあその本命は誰なのとか、もっとわたしのことを見てほしいとかあとから言い出されるのは話が違う…というのが彼の言い分。

それでいいよ(本当はよくない)というような、裏のある答えをする方がおかしいんじゃないかな、信用できない子だな。としか思ってないかも。まあ、それはそうなんですけどね。

どうしても付き合いたいからって嘘はよくないですね。しかもあんな人の心のない男と…。

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