第20章 闘いのリングに上がる
某コンクールの募集要項のコピーに美大生と書いてあったのは本当です。あくまでコピーの文章の中で、応募資格は普通に大学生、専門学校生対象でしたが。
深い意図はなくてエントリーしてくるのがほとんど美大生だからついそう書いちゃった、くらいの感覚かもしれませんが。やっぱり美大生以外の大学生からの応募ってほぼないのかなぁ、**展…。
「…はあ、なるほどね。そういう経緯で美大じゃなくて普通の学部を選んだんだ」
確かに、完全給付型の奨学金は美術系の大学では珍しいし取りにくそうだね。申請しようと思ったことがないからよく知らないけど。とわたしの差し出したキャンバスを受け取り、しげしげと眺めながら相槌を打つ近藤先生。やっぱこの人、それなりに余裕あるお家の娘さんだな多分。
「まあ親御さんからしたら。美大なんて潰しが効くかどうかわからないとこ行かれるよりも、そりゃ〇〇大レベルの大学行けるなら行ってほしいと願うだろうね。…そうすると、そっちへの進学は諦めたけど。普通の大学の勉強と並行して、これからも出来るだけ絵を描き続けたい。という考えでいいんだよね。大体合ってる?」
「はい。その通りです」
神妙な顔で受け応えるわたしの方に顔を向けず、耳だけ傾けた状態で彼女はふむふむ。と納得したように頷いた。
「名越くんにこれまでのあなたの作品は事前に見せてもらってたし。大河原さんの推薦もあったからとりあえずバイトとして来てもらうことにしたけど、正直なところ笹谷さん本人のスタンスが今ひとつよくわからなかったんだよね」
若々しく年齢不詳なすっきりした面持ち、黒髪のショート短髪に眼鏡をかけて汚れても構わないジャージ姿。
一見身なりに構わない人みたいな構成だけど、清潔感あって引き締まったすらりと細身で長身の外見だから、どっちかというと文化系というより体育会系の若いコーチみたいに見える。これで経産婦とか嘘だろ。と無造作に椅子に腰掛けていても全くたぷついていない薄いお腹に目をやって、なんとも場違いなことをこっそり考えてた。
どんな反応がここで出てくるのかわからない、どきどきの緊張が頂点に達してちょっとおかしくなってたとしか思えない。ぼやっと彼女の姿に見とれてたわたしは、慌てて話の内容に頭の照準を合わせた。
「美術の道に進むことは諦めたけど、昔取った杵柄で普通以上の技量はあるから。せっかくだからそれを活かしたバイトができないかな、くらいの感覚でここに来た可能性もあるし。カテキョのバイトを選ぶのと同じような発想ってこともあり得るよね?実際、普段接してても今でも個人的に自分の絵を描いてるかどうかはわからなかった。そういう話はおくびにも出さないし」
「あ。…はい」
素直に返事をしてから、今ひとつやる気が見られなかった。ってことを指摘されてるのかと気づいて急いで弁解にもならない弁解を並べ立てた。
「そういう、こっちだけの事情をわざわざお聞かせしていいかどうかわからなくて。ただのバイトの身で絵を見て頂きたいとか。アドバイスをお願いしたいとか、図々しいかなと」
「うん、それは。仕事中でなければ問題ないよ。ということはお互い相手の出方待ちになっちゃってたってことだね」
それはわたしの方も済まなかったと思うよ。とこっちが予想してたよりあっさりとした反応。
もっと上下関係とか、話の順序とか筋道とかに厳しい人かと思い込んでた。けどこの合理的なさっぱり感、やはり大河原先生の後輩なだけある。あの大雑把で豪快な方と気が合うわけだ。
口振りがきつくて無表情で物言いがどストレートなだけで、案外こだわりのないさばさばした性格なのかもしれないな。とそれまでちょっとだけ怖気付いて構えてたこっちの心持ちが解けて、心なしか楽になったように思えた。
「…そうすると、今後週一くらいの頻度でバイトの前後に時間を割いてあなたの絵を見る。って感じでいいかな?バイトとは別の日の大人コースのレッスンをわざわざ受けに来るのも大変でしょ。その代わり不定期の個人レッスンだから、一回当たりの時間は短くなっちゃうけどね」
「あ、はい。それは、すごくありがたいです」
ちゃんとレッスン料は用意しますので。と付け足すと、彼女は表情を変えずに鷹揚な態度で片手を振った。
「大して時間は取れないから、正規料金より少なくていいよ。あ、でもバイト代からさっ引くことはしない。受け取った中から自分で出して払って。それが筋でしょ、仕事の報酬はきちんと受けて。払う分は一旦自分の懐に入った中から出す。どうせ同じことでしょみたいに、なあなあは良くないよね」
「はい。わかります」
その理屈は理解するが、それはそれとしてやっぱり筋の違ったことは嫌いなんだな。とちょっと面白く思う。
そこで近藤先生はふと、あっそうか。と思いついたように顔を上げてこちらを見た。
「でも、そうだね。笹谷さんって描く場所あるの?大学では描けないし、下宿してる部屋も狭いんじゃないの。ここに空き時間通ってアトリエ使う?そういう風にしてる人いるよ、自分の家に道具揃ってなかったり充分なスペースなかったりすると。まあ住んでるとこも学校もあんまり近くないとそれも大変だろうけど、背に腹は代えられないからね」
てか、そうするとこれ、いつどこで描いたの?もしかしたら以前に描いてあったのを実家から持ってきたとか?と尋ねられ、一瞬どうしようかなと躊躇したけど結局正直に事実を打ち明けることにした。
「それは、あの。…名越のアトリエを使わせてもらいました。向こうは美大生なので絵を描く専用の部屋があるんです。こう言ったら何ですが、比較的経済的なゆとりのあるお家の子なので…」
「ああ、なるほど。了解了解」
ふんふん、と納得した様子で頷く。その間も彼女の目は、ずっとわたしの新作の上に据えられたままだ。
名越くんも一人暮らしでしょ?彼の部屋を自由に使わせてもらってるなんて、あなたたち付き合ってるの?とか余計なことはさっぱり尋ねてこない。そっち方面への関心がそもそもないか、そんなの個人のプライベートの範疇だから訊いたってしょうがないと考えてるんだろう。
この人、これまで接点が少なすぎて今いちどういう性格かはっきりしなかったが。どうやら想像してた以上に合理的で率直で裏表ない。そうとわかれば思ってたよりも話しやすい人かも。
「…だとしたら、描く環境は整ってるわけだ。まあ今後もし、他人んちが使いづらいとか関係が上手くいかなくて足が遠のいたとかいうことになったら、遠慮なく相談して。さっき言ったようにここに通って自分の絵を描いてる人たちもいるから。大きいキャンバスを扱うときとかは、個人の家じゃ難しいだろうしね」
「はい。ありがとうございます」
神妙に頭を下げつつ、ここの教室と名越んとこのアトリエ、広さはどっちがどっちとも言えないなとこっそり内心で思う。
もちろんここの方が面積はあるけど。向こうはわたしと名越の二人だけで自由にスペースを使えるので。その気になれば多分、かなり大きいキャンバスも置ける。
けどその配慮がありがたい。いざとなれば名越と喧嘩別れしても、こっちで絵を描き続ける算段は何とかついたわけだ。あいつに限ってわたしに機嫌を損ねたり腹を立てることなどないだろと思いつつ、そこは人間のことだから。絶対などない、というのはどこかでうっすら覚悟している。
「…まあ、そんな昔に描いた絵を引っ張り出してきたんじゃないだろうなとは。一目見て何となく見当つくけどね。過去のストックあるにしても、一般受験だったんなら描いたのずいぶん前ってことになるはずだけど。これはあなたが高校のときの作風とだいぶ違うもんな」
わたしの絵を両手で持ち上げて、さまざまな角度から試しすがめつしている。こちらに聞かせるともなくまるで独り言のように呟かれたその台詞に、わたしは意外さを感じて思わず口を挟んだ。
「そうですか?自分では…。あんまり変わらないかと、思ってました」
彼女の手で支えられてるキャンバスの上に張られたその絵。
変に明るい夜空の下にざわざわと天に向かって這うように生い茂る不穏な感じの密林を描いた。なるべく植物を生々しく、生き物のように表現したくてそこに細かく手をかけ、神経を使って。
確かに今まで過去に描いたことのない題材と構図ではあるけれど、雰囲気や見た人が受ける印象はこれまでとあまり変わらないんじゃないかと。
案の定名越は、いつもと全く変わらずな反応でいいね!やっぱ今回のもすごくいい。あー俺まじでこの絵の中に入りたいなぁ、写真撮っていい?っていう至極見慣れたやつ、通常運転だったし。
「受験期に全然描けてなくて、進歩してないから。一年くらいブランクあったからむしろ後退しちゃったなと…、あ、もしかしてそっちの意味ですか?デッサンなってないなとかずいぶん衰えたなぁとか」
「いやそんな急に腕って落ちないよ。気になるなら日頃からこまめにスケッチとデッサンし続けて手を動かしてさえいればすぐに元に戻るんじゃない?そういう技術とか、表層の話じゃなくてさ。…うん。成熟してるなとか。深まってるものを感じるよ。小手先じゃないリアリティがあるよね、この絵の中のイメージ」
世界のどこかに本当にここが存在してるんじゃないか?っていうリアル感が、見たとこ前の作品より増してる気がする。なんか絵がずっしり重くなってるよね、巧い下手というよりはね。と最後にずばりと付け加えたところを見ると。技術的に上達してるっていうことではないんだろうな、やっぱり。
「もっと巧くなりたいという気持ちはあるんですが。なかなか思うようにいかなくて、慣れない生活でまだ落ち着かないし。要領悪いので描く時間も足りなくて…」
言い訳してもしょうがないのに、つい肩をすぼめてぼそぼそと呟いてしまう。先生はわたしの弁解に取り合わずにあっさりと受け流した。
「大学で専門でやってる学生に較べたらそれは不利だよね。まあ全ての時間を美術に打ち込むためにそっちを選択した人たちだからね、張り合ってもしょうがない。あなたはあなた、向こうは向こうと割り切るしかないね」
「すみません…」
言われてみりゃそりゃそうだな、となって思わず首をすくめる。
将来潰しが効かないんじゃとか、就職も難しいかも…なんて保険をかけた考え方なんてうっちゃってやりたいこと全振りした人たちだ。そもそも日和った思考で美術への進路からスピンアウトしたわたしなんかが彼らに叶うわけないんだよな。
先生はわたしの縮こまり具合に気づいて、そこまで気に病むことないのに。と感じたらしくそこで微妙にフォローする口振りに変化した。
「いやまあ、あなたはあなたなりのペースでこつこつと時間と手をかけていけばいいんじゃない、上達したいって気持ちが今でもあるなら。もちろん全然改善の余地はあるよ。努力すればするだけもっと向上できると思うし。視野を広げたり、いろいろな経験を積んでそれを今後も絵にフィードバックしていくことも大切だと思う。けどね、見るべきところは備わってる。それって得がたいものだよ。あるところにはある、ないところにはない」
まあ、生かすも殺すも本人次第だけどね。と言って傍らのイーゼルにキャンバスを立てかけ、しみじみとそれを検めてる。
「…将来的に笹谷さんがどういう地点を目指すのかは知らないけど。客観的に言うと、描き続ける意義のある絵だと思う。だからまあ、大学の勉強は大変だろうしサークルやらバイトやら忙しくてなかなか時間を割けない、というのは理解するけど。あなたに前向きな気持ちが少しでもあるならこのままもっと頑張ってみてもいいんじゃないかな。変化していくところを見たいし、多くの人に見てもらって広く世に問うだけのものはあるよね」
「それで。…コンクール、ですか?」
わたしの脳裏にうっすらとしか知らない、有名な大きな美術コンクールのタイトルがいくつか浮かぶ。存在を知ってはいるけど、さすがに今後の自分の人生に関わってくる代物だと思ったことはない。だから名称も応募資格も全てが茫漠としていて曖昧だ。
…いや、そんなわたしでも知ってるような大きな賞を想定してるんじゃないのかも。きっと小さなコンクールも国内にはいっぱいあるだろうし、と考えて気を落ち着けてるわたしの前で先生は平然とビッグタイトルの名を口にした。
「え。…そんな有名なコンクール。いやいや無理です、わたしなんかにはさすがに」
「あ。知ってるんだ、それは。もしかして応募しようと考えたことあるとか?」
いえそんなまさか。畏れ多いです、と尻込みするわたしの動揺になどお構いもせず、タブレットを取り出してささっと検索し、サイトを表示して見せる先生。つい差し出されるままにつられてそれを手にしてしまう。…いや、応募するかどうかはともかく。内容に一応興味くらいはあるので。
「へぇ、名前からして学生向けのコンクールだと思ってました。一般の部もちゃんとあるんですね。…わ、小学生の部の下に幼少部もある」
「小さい子の部門もあるからお絵描きコンクールなのか?とか思うと本格的で痛い目見るよ。大体小学生とかもすごいからね、そういうのに入賞するような子は」
「それは。…そうでしょうねぇ。…あれ?」
何となく下までスクロールしていって、ふとその中の一文に目が留まる。
「う。…『幼児から美大生、大人までの幅広い年代層に』って書いてありますよ。この表記だとつまり、大学生は美大生以外応募不可なんじゃ…」
「え?そんな応募条件なかったと思うけど。どこに書いてあった?」
先生も怪訝な顔でどれ、と手を出してタブレットを寄越すように促す。わたしが指した箇所を目を細めて確かめ、ふぅんと小さく唸った。
「本当だ、こんなの気づかなかった。まあでも応募資格とか特に記述ないし。大学、専門学校生でさえあれば問題ないはずだよ。こう書かれるってことはシンプルにレアなんだろうけどね、美大以外の大学生が応募してくるの」
「はあ。…まあ、そりゃそうですよね」
自分が美術系の正規ルートから外れてるのは当然認識してるつもりだったけど、改めて凹む。ちゃんと覚悟して進学先を選んだはずなのに、今さら疎外感を感じるとはね。
先生はにこりともしなかったけど、肩をすくめてわたしにかけた言葉は思いの外親身なものだった。
「美大じゃない大学生の応募がレアだったからって笹谷さんの作品の評価には関係ないよ。よければ審査員の目に留まるし、平凡ならスルーされる。どの絵の作者がどこの大学の学生か、なんて審査する人は全然見てないと思う。まずは先入観なしに絵だけ見るでしょ」
「そう、ですかね…」
自信持ってきっぱり言われたけど、わたしは先生よりはちょっと懐疑的。作品の横にT藝大とかO芸大とか記されてたら、おっ、こいつうちの後輩?とかならないのかな、プロの美術家だって。
と思ったけど口には出さない。近藤先生の素っ気ない口調からはわかりにくいけど、真面目にわたしを安心させようと語りかけてくれてるのがわかるから。
「結果的にこれまで入賞したのが美大生ばかりだったとしたら、単純にそれ以外の大学生の応募が相対的に少なかったからでしょ。割合が全然違うからで、審査の対象外だったわけじゃないと思うよ」
仮に過去に一般大学の学生の入賞がなかったとしても、それは今現在の笹谷さんの絵の評価には関係しないんだし。と付け足してから、でも。と彼女はふと顔を上げてわたしを見返し、表情を改める。
「そもそも、入賞するかしないかとかいう話じゃないんだよね。これって応募総数も毎年すごく多くて大規模な賞だから、ほとんど可能性はないくらいと思って。大賞受賞するとパリの会場で展示されるらしいけど、意気込みはともかくそこまで本当に狙えるかというとまあ難しい。ワンチャン賞獲れるかも、と期待してるとがっかりする結果になるかもしれないよ」
「それは。そうだと思います」
先生が言うまでもなく、さすがにわたしもそこまで簡単じゃないとわかってる。名越ならどう言うか想像つくけど、あいつも大概主観が酷いからな…。
大体美術予備校の講習のときのランキングでだって、わたしがトップ取るとやけに自信(他信?)満々だったけど。
結果は真ん中より上なくらいだった。あまりにわたしに対する評価が高すぎて実情と合ってないんだよな、あそこまで行くと。
近藤先生はイーゼルにかけたわたしの絵をしげしげと検めながら、独りごちるような静かな口調でわたしに言い聞かせた。
「…あなたの絵は完璧じゃない。けど力というか人を惹きつけるものはあると思うし、そこを大事にしたまま表現力をどう磨けるか今後に期待ってところだよね。なのにわたしがコンクールへの参加を勧めたのは、これなら受賞間違いなしと考えたからじゃない。ていうかむしろ、笹谷さんが美大生だったら提案しなかったかも」
「あ。…そうなんですか?」
わたしも受賞するとは考えてないです。と同意しようとしたところで意外なことを言われて首を傾げてしまった。
「美大生って、コンクールあんまり出さないものなんですか。でもさっきのサイトの文面からしたら、ほとんどの応募者は美大の人だって…」
「そういう意味じゃなくて。あなたの場合はまた別の理由で勧めたってこと」
美大の子は教師に言われなくても参加する子はばんばん参加するし、学校の課題にじっくり取り組みたければそっちに力を入れるし。でもあなたの場合はまず選択の余地なく後者のやり方が取れないでしょ。と淡々と説明を加える先生。それはそうだ。
「普通どこの美術系の学校でもテーマを与えられて年にいくつかの作品を完成させる。締切は絶対だし教授や講師陣からの胃が痛くなりそうな厳しい講評があって、否が応にも鍛えられるよね。でも普通の大学に通ってるあなたには、そういう形で作品を他者に見てもらえる機会がない」
ああ。…はい。
「つまり、きっちりした期限を定めて他者の視点を意識しつつ、独りよがりじゃない課題を最後まで完成させる。それが一番の目的であって、賞を獲れるかどうかは二の次。…ってことですね?」
「そうね。それと今回で、コンクールに参加するときに必要な流れをひと通り体験しておくっていうのもある。美大の教授や講師ってそれぞれが制作者でもあるし、そこに通う学生と違ってそういう人たちに広く見てもらうっていう機会があなたにはないからね。その点、コンクールの審査員はみんな実績のあるばりばりのアーティスト揃いだから」
なるほど。
「つまり、美大の先生クラスの芸術家に見てもらえるチャンスがわたしにはないから。コンクールをそういう場として代替にする、って話?」
「そう。美大の子と同じようなサイクルで課題を完成させつつ、レベルの高い人に見てもらうことを意識する。だから一回限りで終わりじゃなくてこれからも出来るだけ、目標を定めて定期的に何かに応募するって習慣をつけるのはどう?賞は取れても取れなくても、それを続けられたら結果として心も腕も鍛えられるよ」
コンクールの主催者は全然そういう意図で作品を募ってるわけじゃないだろうけど。まあ、先生の言ってることはわからなくはない。この人らしい合理的な発想だ。
わたしを縛るものは何もないから、本当に趣味の感覚で好きなものを好きなペースでのんびりと描くってことはもちろんできる。正直大学に入る前に漠然と考えてたのはそういう生活だった。
けど、やってみてわかるけど。これってどうしても自分を甘やかすというか。自然と腰が重くなる。
いつまでにこういうテーマで描こう。って決めても、それは自分の中だけのことだからね。名越以外の誰に見てもらうってわけでもないし(と、思ったけど。一応地元の大学に通ってる宮路さんにも見せた方がいいのかな。先生に見せたこの絵も写真撮ってあるからあとでLINEで送るか)、ずるずると完成を先延ばしにしても誰も困らない。勉強もサークルも忙しいし…って内心で言い訳してるうちに、なかなか取り掛れなくなる。ってのはつくづく今回実感した。
「とりあえず、エントリーはしてみます。ていうかこれ、締切七月ですね。これをこのまま出すか別のを今から仕上げるか。微妙なタイミングだなぁ…」
「それはどっちでもいいよ。これがいい絵だなと思ったから出してみようと言ったけど、これなら絶対勝てると考えたわけじゃない。笹谷さんが納得いくように、自分で考えて決めて」
近藤先生の物言いはやはりあっさりしてる。口先だけではなくて本当にどっちでもいいんだろうな。わかりやすい人だ。
「あ、あと言い忘れてたけど。さっきの募集要項にも記載されてるけど、エントリー料かかるから。一作品だといくら、二作品だとちょっと割引になるかな。自分で見て確認しておいてね。六千円だったか八千円だったか、大体そのくらい」
ひぇ。
「そうですか。…審査してもらうのも無償じゃないんですね。勉強になります」
バイト増やそうかなぁ。と口にしかけて、いやここがわたしのバイト先だった。と思い直す。子ども向けのお絵描き教室は週二回だし、これ以上シフトを増やす余地はない。あーしょうがないなぁ、やっぱ掛け持ちで塾講のバイトでも始めるか…。
「あ、あと会場が都内の◇◇美術館なんだけど。そこまで自力で運べないと搬入と搬出代行にもそれぞれ料金がかかるよ。でもまあ、誰か1人くらいは免許と車持ってる友達いるでしょ?代わりにご飯でも奢ってあげて拝み倒して頼みなよ。代行頼むと結局倍くらいかかっちゃうからね」
「あーはいそれは。多分大丈夫です…」
喜び勇んで運転してくれそうなやつが今まさにそこ、ドアの向こうにいますから。と口にする気にもならず、わたしは適当に言葉を濁した。
ああそうだ、名越か。このあと**展に作品を出すことになった、なんてあいつに言うの憂鬱だな。どれだけテンション上がって大騒ぎすることか。
どうせ最後まで伏せて隠しきることは不可能。アトリエを使わせてもらうから、この前一枚描き終えたばかりなのにやけに急いで次の作品に取りかかるなぁと不審感を抱かれるのは免れないし。そもそも美術館に搬入の手伝いをお願いする時点でもう完全アウトだ。
笹谷ならもう絶対グランプリ間違いなしだね!今のうちにパリのホテル取っておこうとか。入賞逃したら今度は審査員のレベルが低い、あんたの作品の良さが理解できないなんてそれでもプロなのかとか騒ぎ出しそう。
今からそれをどういなすか頭を悩ませなきゃならないなんて、真面目な話狂犬な忠犬を飼ってる気分だ。とやや罰当たりなことを考えてわたしはこっそりとため息をついた。
「あ、笹谷どっち行ってんの。こっちこっち、ほら。作品搬入受付って出てるよ」
うっかり正面玄関の方へと向かいかけるわたしの背後から、名越が声をかけて引き留めた。やつの指差す方を見やると、本当だ。
臨時に張り出されたと思しき表示と、そちらに梱包された作品を抱えて向かう人たちがちらほら。わたしも慌てて名越に促されるまま、人の流れについて裏口の方へと急いだ。
「この美術館、上京してから一回だけ来たことあるけど。そもそもここに限らず作品搬入口から入るなんて初めて。なんか、得しちゃったな、普段見れないとこ見れて」
受付に並んできょろきょろと周囲を見回すわたしを咎めもせず、一緒になって興味津々に辺りを観察してる名越。
「本当それ。俺もめっちゃ得した、今回笹谷のおかげで」
受付で、この人の手伝いです。と梱包したキャンバスを見せつけるように掲げて堂々と言い張り無事に関門を突破した名越。わたしは肩をすぼめて通路を移動しながらやつにぼそぼそと苦言を呈す。
「車でここまで運ぶの手伝ってもらっといてなんだけど。さすがにこのサイズのキャンバス、一人でも別に運べるし。あんたが抱えてて応募した本人のわたしが手ぶらなのはちょっと…。受付の人にもどう思われたかと」
お嬢さまと付き人かよ。と内心で笑われたんじゃ…。しかしやつはまるで人目なんか気にならない、といった態度で(まあ、そうだろうな。普段の言動からして)さも意外なことを言われた。とでもいった顔つきでわたしの方を振り向いた。
「え、付き添いがいるなんて別に全然普通だろ。前を歩いてるあの二人も、受付で後ろにいた親子連れも。結構たくさんいるじゃん」
「いやあれ、多分中学生とかだよ。後ろにいた人たちに至ってはどう見ても小学生だったし…」
ただでさえ目立つのが嫌なので、わたしは極限まで声を抑えてごそごそとやつに文句を言う。
他に周りにいる人たちはおそらく大学生か一般部門の大人って感じで、それぞれ慣れた様子でためらいなくさっさと一人で作品を抱えて会場へと向かってる。付き添いがいるのは小さな子だけ、とは限らないけど。見た感じ親と一緒の中学生か。いってせいぜい高校生じゃないかなぁ…。
名越はわたしの肩身の狭さなどに構う風もなく、あっけらかんとその引け目を笑い飛ばした。
「大丈夫、あんたも見た目若いから。周りからしたら高校生か、下手したら中学生に見えなくもないって。お兄ちゃんが付き添ってくれてますみたいな顔して堂々としてりゃ…、あれ。まあ、そうなるか」
会場に入って現場を一見し、けろりと前言撤回。当たり前だけどそれぞれエントリー部門ごとに掲示する場所が指定されてる。わたしは当然大学・専門部なので、阿呆みたいに中高生のふりなどしても完全に無意味だ。
「まあまあ…。子ども扱いされた気がして恥ずかしいのはわかるけど。他の人はみんな自分のことで一杯だし、誰も周りの他人なんか見てやしないってば。それに、ほら。あそこ、友達同士で連れ立って来てるよ」
いかにもどっかの美大生って感じのグループが談笑しながらそれぞれ自分の荷の梱包を解いてる。わたしは指摘されてかえってぶんむくれた。
「あの人たちは各々自分の絵を搬入しに来ただけでしょ。知り合い同士で固まってるけど、他人の付き添いで来たわけじゃないと思う。だから言ったじゃん、名越も一緒にエントリーすればって。てかどうせこうやって手伝いで来るんなら。手間は同じなんだから、自分の絵も応募すればよかったのに。急げばぎりぎり間に合っただろうし…」
実際、名越に頼らないと車で搬入できないのはわかってたし(実は…とコンクールに参加することを打ち明けたとき、当人は予想通りテンションマックスで、任せてよ!こんなこともあろうかと予測して車はワンボックスカーにしといたんだから、とめっちゃ前のめりな反応だった。そうか、車の色こそお洒落だけど。いかにも金持ちの坊々が乗りそうなスポーツカーじゃなかったのはちゃんとそういう意味があったんだ…)。わたしの搬入手伝ってくれるんなら、ついでに名越も応募しようよ。と割と熱心に誘ってはみたんだけど。
「いや俺はいいわ。多分こういうコンクールには向かない作風だしね。あと、夏休み前ぎりぎりの提出の課題が結構やばくて」
締切のタイミングがね、ちょうど間が悪いよな。と言い訳しつつのらりくらりと逃れられてしまった。
ほら、機嫌直して。と名越はわたしの絵を抱えてさっさと指定された展示室を見つけ出し、先に入るよう身振りで示した。
真っ白な天井の高い室内に、いつもと違ってずらりとボードが塀のように並んでいる。
その中の大学・専門部にあてがわれたエリアに自分の絵を紐で吊るす。空いてるスペースの中でサイズの合うところを各自探さなきゃならない。
受付開始と同時に入れてたらどこにでも適当に貼れたのにな。と思いつつ、それはそれで延々と並ばなきゃならない可能性もあり。人が空いてから来たのとどっちが正解かはわからないな、とところどころ穴空き状態に色とりどりのキャンバスや額入りの絵が下げられたボードを見回りつつ考えた。
二人でここは狭いし、あっちはどう?と相談して歩きながら。わたしの頭の中ではまだ消化しきれない納得できない思いがふつふつと微かな音を立てている。
大体、断る理由が課題の締め切りはまあともかくとして。
いつものことながら、作風がコンクールに合わないは一体何なんだ。いや捻りのないストレートな写実性の高い画風だから、新奇さでぱっと人目を惹きつけるのに向いてない。…とやつが常々考えてるのはもちろん知ってる。
今でも芸大もそれで落ちたと思ってる様子だし。正直その思い込みの反証となるためにも、あのとき二次受かってればよかったのになぁと未だにわたしは思ってる。でもあの倍率じゃしょうがないよね、決して名越の画風が地味だからとかそういう理由じゃないはず。
そのことを名越にも納得してもらうためにも、今回コンクールにエントリーして結果を残して欲しかった。そういうちゃんとした理由があっての誘いだったんだけど、無論名越には全然伝わっていない。
「どう、ここは?出来るだけ上の方がいいよね、目に留まりやすいし。大きい絵の下側だとなんか笹谷の絵が圧迫されてるみたいで可哀想」
絵は何とも思わないと思う。それともここじゃわたし目立たなくない?とか不満に思うのかな。絵に訊いてみないとわからない。
「…まあ、そう寂しがらないで。あんたがコンクール出すときはいつでも車出して運んでやるし、どこへでも喜んで付き添うよ。何たっであんたの絵が認められるのは俺にとって最高のご褒美だからさ。こうやって多くの人の目に入る機会が少しづつでも増えていけば、いつかきっと」
「…あ、名越と笹谷ちゃんじゃん。いやぁ二人ほんとに、いつも一緒だねぇー」
まじで仲良し!と素っ頓狂な声で指摘され、慌てて声のした方を振り向く。
遠くから手を振って寄ってきたのは、T美のミス研の三年の女子の先輩。いかにも美大生!って感じの超個性的なファッションの方だ。そして声がでかい。
もっとも服装について、いい機会だからここで一旦説明すると。美大生は全員俗世間では見られない奇抜で斬新な身なりの人ばかりなのか、っていうと必ずしもそうではない。ていうか本当もう、そこは人による。
現にいま、わたしたちの周囲でセッティングをしてる人たちはほとんどが美大か美術系専門学校の学生だと思うけど。彼らは概ねごく普通の大学生、といった風貌だ。
名越もそうだけど、一見ユニクロか無印か?っていう尖ったところのない服装。もちろんやる気充分だなぁ!って見え見えの、それで日常生活送れんの?と訊きたくなるような派手派手だったり非実用的な格好や、見てるこっちの目に沁みるような原色に染めた髪をつんつんぱつぱつあちこちにおっ立ててる人たちも一部ながらいる(その人たちの中にも普段からその姿って一派と、今日は搬入日だから思いきりびびらしとくぜ!っていう威嚇派がいるかも)。
でも、T美のサークルに通う中で気づいたことだけど。
ぱっと見わたしと大して変わらないようなありふれたデザインの服装に見えても、美大の人ってなんか微妙に違うんだよな。大人しく見えても一見地味でも、よく見ると何だかお洒落。形がすっきりしゃきっとしてかっこよかったり、色遣いに微細なこだわりがあったり。シンプルながらどこかフェミニンで甘さを残してたりする。
多分着てる服の値段はわたしのと(そして、うちの大学の学生たちと)大して変わらないんだろうと思うけど。ちょっとしたところに気配りしてたり見せたいワンポイントがそれとなく強調されてたりで、実にセンスがあるなぁ。と見惚れることが多い。
ちなみに名越の場合はその上に、一見シンプルな普通に見える服が全て目の飛び出るブランド物だったりするわけで、こいつにはどっちの面でも太刀打ちできない。てかもうこっちから喧嘩を売る気にもなれない。
けどこの女性はわかりやすく、誰が何と言おうとわたしが着たい服を着る!ってタイプ。今日だけ威嚇用にコーディネートしてきたわけでもない、元からいつもこんな風だ。じゃらじゃらと付けたお手製のアクセサリー群や凝った編み込みの髪型も複数箇所別々のカラーで差し色されたメッシュも、斬新。
「来栖さん。…こんにちは。先輩もエントリー?課題提出もあったのに、すごいですね。バイタリティあるなぁ」
こんにちは。と慎ましく頭を下げるわたしの横で、まるで物おじせず二つ上の先輩ににこにこと気さくに声をかける名越。相変わらずのコミュ強。
「いや自分こそじゃん。一年なのにすごいね、要領よくてさ。さすがなごっち。あたしなんか、これずっとエントリーしたいなぁと思ってたのに。一、二年のときはまだ余裕なくてできなかったよ。三年になってようやくね…。笹谷ちゃんもご苦労だね、友達のお手伝い?あれ、これ」
勢いよく喋ってる途中でふと、やつの手にしたキャンバスの添付票に気がついた様子。
「ん?…なごっちのじゃないんだ。え、笹谷ちゃんの作品なの?え、どこか別の美大の子だっけ?いや確か〇〇大学だって…」
「え、と。そうです。…えーと、いろいろ。家庭の事情があって…」
肩をすぼめてぼそぼそといつもの言い訳を始めるわたし。横から名越がにこやかに口を挟んで助け舟を出してくれた。
「この人、高校で俺と同じ美術部で。画塾も予備校も一緒に通ってたんですよ。予備校の講習のときの評価ランクじゃ俺よりも上だったし、受けたら美大普通に受かってたと思いますけどね。ご家庭の方針とかもあって、結果的に〇〇大に」
「結果で入れる大学じゃねー。…でも、そうかあ。そのレベルの頭脳があったのがかえって仇になったってやつね。そりゃ親御さんからしたらねぇ、〇〇行けるんならどうにかしてそっち行って!ってなるよなぁ…」
うーん。皆わたしの大学名を聞くとそういう反応になるけど。
正直気分は複雑。何たって隣でにこにこしてる男が、全国模試でトップランキングに入るレベルの頭なわけだから…。美大に進む人の方が勉強苦手みたいなのは絶対嘘だと思う。そこに生きた反証がいるし。
けどまあ、ここで話を複雑にする必要はない。わたしは神妙に目を伏せ、彼女の推測に乗っかることにした。
「ええまあ。…ですけど学業の合間に絵を続けることについては。両親も認めてくれたので…」
「この人、こっちで絵画教室の講師のバイトもしてるんです。地元の絵の先生の紹介でね」
またぞろわたしのファンクラブ第一号が横で余計なことをかまし出す。
「講師って、大袈裟だよ。子ども向けのお絵描き教室でアシスタントやってるだけだし。お子さんの対応だから、ほとんど保育士だよ。そのお手伝い」
やつは全くこちらの話を聞いてない。平然と自分の言いたいことだけを構わず続けた。
「それで、そこの先生がこういうのがあるんだけど出してみない?ってこの人に勧めてくれて。俺たちみたいに学校で課題もらったり講評してもらう機会がないからって、気を回してくれたんですよ」
俺は嬉しいよ、笹谷がやる気をちょっとでも見せてくれて。としんみりした振りをするな。そんなわたしたちを先輩がちょっと怪訝な顔で伺ってるじゃないか。
「ええと、とにかく。…少なくともこの絵は笹谷ちゃんので、なごっちのではないのね?君、自分のはどうしたの?」
「俺はエントリーしてないっす。一年目で慣れてなくて課題を仕上げるんでまじ精一杯だったんで」
元気よく、能天気な明るい後輩振りを発揮する名越。お前そんなキャラじゃないだろ。と心の中で呟くもここで口を挟めるわたしではない。
「へぇ。…すごいね。なんか、思ったよりも本格的」
〇〇大の子の絵じゃねー。と小声で呟いて彼女はそっとわたしの絵の方へと近づき、しばしの間まじまじと観察していた。
「…まじで最初、なごっちの絵だと思ったわ。意外とわかんないもんだね、美大生かどうかなんて作品からは。まあついこないだまで美大受験する子たちに混じって一緒に描いてたんなら。そんなに言うほど差はなくてもおかしくはないのか…」
「いえそんな。全然ですよ」
がちの美大の三年生にあんまり間近で見られるときつい。
この人たちレベルから見たらわたしの絵なんか美術の真似事だし…と焦ってとにかく言い訳を絞り出す。
「わたしの先生も、このコンクールで入賞できるとは思わない方がいいって助言してくれました。ただ美大生みたいにテーマのある課題に取り組んだりプロの芸術家に作品を見てもらう機会があなたにはないから。こういうところでそれを擬似的に体験できるのは意義があると思うって…」
「はあ、なるほど。やっぱ学校の課程じゃないところで美術やるって、いろいろと大変なんだね」
そこにこれかけるの?ちょうどジャストサイズじゃん。と指差されて、確かに。と頷いた名越がキャンバスをわたしに寄越し、ボードにぐりぐりとねじを嵌め込む。
なごっち、まるで姫のお付きの執事だな。とはしゃいだ声でからかわれてもやつは全く動じず平然と返す。まじで心臓に鋼鉄の毛が生えてる、こいつ。
「うん、俺笹谷の永遠のファンですから。ああまじでこれ、入賞するといいなぁ。死ぬまでにパリの美術展で笹谷の絵が展示されてるとこ見たい。…だって、ねえ。いいと思いませんかこれ?すごい独特の空気感があって引き込まれるでしょ。ずーっとこの絵の前に座ってたくなっちゃうんですよね、いつも」
「ちょっと、やめてよ」
頭をはたいて怒涛のように溢れるその台詞を一気に止めたくなって、どうどう。と何とか理性を働かせて自重する。
てか先輩の前で迂闊に他人を(しかも美大生じゃない、ど素人を)褒めそやすな。手に何も持ってないのは既にどこかに掲示を済ませてきからなんだろうし、つまりはこの人も今回のコンクールの応募者の一人なわけだから。
仮にも先輩の面前で、当人そっちのけで一般大学の一年坊主を礼讃されたらそりゃ面白くはないだろうよ。けどこいつ、頭はいいのに人の心がないから。
意外とそういう感情の機微がわからないというか、ときどきぶっ飛んじゃうのはよくない癖だよな。と慌ててわたしはその先輩の方に曖昧な笑顔で向き直ってみせる。
「この人だいぶおかしいんです、あんまり気にしないでください。自分の方がよほど巧いくせに、何故か他人の絵にやたらと執着してて…。わたしはこいつの絵がすごいと思うし好きなんですけど。今回も誘ったのに一緒にエントリーしてくれなくて」
「…いや、でもわかるな。なんかこれ、強いよ。どこがどうとは言いづらいけどさ…。ひょっとしたらひょっとする、かもよ」
再びキャンバスに顔を近づけ、しげしげと検めながら彼女がそう言い出してわたしは仰天した。
「いやそんなことないでしょ。それはないですよ…」
深く考えての言葉ではなかったみたいで、彼女はあっさりとわたしの否定に同意した。
「うんまあ、ないとは思うけど。でもそういう風に熱心に執着する人が出るのはわかるな。なんかあるよね、ここには。ってなるんだろうね。だから審査員の中にたまたまびしっと嵌る人がいれば。可能性はゼロじゃないかもって思わせる。可もなく不可もなく、っていうタイプの絵じゃないことは確かだね」
でもそういうフックがある絵の方が強いじゃない?とわたしの方を振り向いてにっと笑う。
背後で名越がうんうん、と大きく頷いてるのが伝わってくる。てかこれ、こいつは今の台詞は自分へのディスりだと受け止めそうなもんだけど。俺の絵は個性がない、インパクトがなくて記憶に残らないみたいに常々言ってるし。
いや来栖先輩にそんな意図がないのは間違いない、この様子だと名越の描く絵をこれまで見たこともなさそうだ。
でも内容的にはこいつに勝手に刺さりそうな言葉だった。彼女がわたしの絵の対極として持ち出したのが、まさに名越が自分の絵の特徴として自認してる表現だったから。
けど今のやつには、痛いところを突かれたとか図らずもコンプレックスを刺激された。といった反応が全く見当たらない。
「いやぁ来栖さんクラスの実力の人にそう言ってもらえると、心強いですよ。笹谷って今ひとつ自覚がないっていうか。自分の凄さがぴんと来ないまま天然で描いてるって状態なんですよね。いける可能性充分あると思いますよね?ちょっと、自信つけてやってくださいよ、いい機会だから」
調子に乗ってぐいぐい行く名越に、先輩はちょっと引き気味。
「まあもちろん、レベル高い絵だなとは思うけど。入賞するかどうかは何とも言えないよ…。まじでその年の審査員の感覚だからね。傾向と対策みたいなのも特にないんじゃね?てか、そんな情報あったら自分がまず活用してるわ」
「あっそうだ、来栖さんもエントリーしてるってことですよね?どこに出しましたか。俺ね、先輩の作品こないだ見ましたよ。三年生の課題、いい勉強になるから是非観覧しとけってうちの担任がね…」
「うわ、あれ見たのかよ。ちょっとねぇ、最後の方やっつけになってたからさぁ。一年に参考にされるとわかってたら、まずったよなぁ」
仲良さげに話を弾ませながら絵を取り付け終わってその場を片付け、先輩の応募作品を観に行こうよ。勉強になるよとわたしの方を振り向いて促す名越。
それ自体異論はないから、頷いて二人の後ろからついていく。けど、頭の中では。
前々からうっすら思ってたこと。…名越ってもともと自分の作風をあんまり評価してないけど、そこにコンプレックスとか引け目とかはないのかな。
わたしの絵が絡むとテンションおかしくって自分の作品の話をするどころじゃない。ってなるのでこれまではっきりとはわからなかったけど。
絵が弱い、個性が薄い、フックがない、可もなく不可もない。その手のワードがいきなり出てきて不意を突かれても怯んだり動揺する気配は全くない。普段からそういう風に自分の作品を称してるから、関係ないと思ってるわけでもなかろうに。
もしかして、とこっそり思う。やつはもう、わたしのみならず、他の同年代の描き手とどっちが上かとか張り合う気はずいぶん前からなくなってる…?
…いや、わたしだってこの来栖先輩や。名越や他の美大生、美術予備校で会った人たちに絵で勝てるとか負けたくないとかいう思いはない。けどそれは単純に、わたしが美大に入らなかったせいだと思う。もう彼らとの闘いの場から自分は降りたんだって感覚が強い。
でも、名越は現役ばりばりの美大生なわけだし。まだ入学して間もなくて何もかもこれから、技術は既に極まってるかもだけどそれでもたくさんの出会いや経験をこの先重ねていくところなのに。
早くももう、他人の応援をするだけで満足だと考えちゃってるのかなぁ。そうだとしたらやつの作品を好きなわたしにとっては寂しいというか。実に勿体ないことだなぁ、と複雑な気持ちを抱いて、わたしは談笑する二人の一歩後ろをとぼとぼと歩いていった。
結果、わたしの作品は入賞を逃した。まあそれは全然覚悟してたから、特に悔しいとかはなかったけど。
言うまでもなく名越はめちゃくちゃ悔しがった。もちろん作者たるわたしが不甲斐ない、という理由でなく。審査員には見る目がないんじゃないか?っていう、まるでモンペみたいな言いがかりで。
まあやつが本気で悔しがる原因のひとつは、現地で会ったあの来栖先輩が見事入賞して、八月の一般公開で作品を展示できることになったからだと思う。
近藤先生が言ってたように、すごい数の応募があって層が厚いからまず無理だというんなら納得がいかなくもないが。よりによって知り合いが入賞したため、実はそんなに手の届かない賞じゃないんじゃないか?と思うようになったらしい。そんなこと言われてもねえ。
「まあいいじゃん、割と満足したよわたしは。ちゃんと期限を決めてある程度思ったような形で作品を完成できて。入賞できなかったのはやっぱり、まだまだ力足らずだったことの表れだよね。それは結果として受け止めないと」
すっかり第二の我が家みたいになってきた名越んちのアトリエで、簡単に二人だけの残念会。あー悔しい、あの審査員たちめ。とか来年こそは審査基準から見直してほしいよな!とかぶうぶう文句言いながら、名越はパスタとサラダの夕食をぱぱっと手早く作ってくれた。
最初の頃は他人んちに上がり込むのが嫌でどうしてもここのアトリエを使えないでいたのが、何でかわからなくなるくらいにここでご飯を食べるのも抵抗がなくなった。
まあさすがに、何もかも用意してもらうのは気が引けるからわたしがやるよ。とか手伝うよとは申し出てみたんだけど。名越は首を横に張ってそれをきっぱりと拒絶した。
「いいんだ、あんたは座ってて。俺相手に気を違う必要なんてない。のんびりと寛いでてよ、お客様気分で」
「それは前に言ってたことと矛盾してないかなぁ。確か自分ちと思って気軽に出入りしていいよとか言ってたじゃん」
それを真に受けたってわけじゃないが、合鍵だってまだ返却してない。てか話の流れでふと気づいたけど。コンクールも終わったことだし、あれってやっぱりそろそろ家主に返した方がいいんじゃないか?
思い当たったついでにとそう口にすると、やけに真剣な表情で頑として拒む名越。
「それはずっと取っといて。てか忘れたの?別に俺は、今回のコンクールのためにその鍵渡したわけじゃないよ。エントリーする話が出るよりもずっと前からいつでも自由に絵が描けるようにって言ってる。それに、笹谷が絵を描くのはこれで終わりじゃないだろ。まだこの先も必要だよ、この家があんたには」
今笹谷のことを客だって言ったのは、この部屋についての話じゃないし。と付け足してわたしのグラスに烏龍茶を注ぐ。
「コンクールお疲れさま、残念でした会だからこれは。そしたら労われる立場は完全にそっちでしょ?大人しく慰労されてなよ。それでまた次の機会のために英気を養ってくれればいいから」
またすぐに次のエントリー先を探せってか。いや、しばらくはさすがに。休ませてくれ…。
つい小声でそう呟いて肩を落としてしまったのは、何だかんだ言ってもわたし自身もそれなりに落選してちょっとはがっかりしてたってことかな。
入賞なんてするわけないじゃーんとか口では言って平気な振りしてても、エントリーするってことは可能性ゼロじゃないとほんのちょびっとは期待してたわけだからね…。うん、やっぱ正直言うと。少しは落ち込んでるわ、ほんのちょこっとはね。
名越が作ってくれた美味しいトマトクリームのパスタをフォークで巻き取りながら思わず知らずため息をつくわたし。そんなこちらのテンション低めの心持ちを知ってか知らずか、名越は急にぱっと明るい顔つきになったかと思うとがらりと話題を変えてきた。
「あ、休みといえばさ。これでもう大学も夏休みじゃん。どうする笹谷?せっかくだからいろんなとこ行こうよ。写生旅行かねて、ぱーっと景色のいいところにしばらく滞在してさ。二人でのんびりと好きな絵でも描かない?」
「何言ってんの。そんなお金ないし」
わたしは呆れて思わず言い返し、ぱくっと巻き取ったパスタを口にした。
「結局ぎりぎりまでずっと描いてばっかいたから、結局塾講師のバイトも入れられなかったし。画材やなんかは貯金も使えるし、名越のも使わせてもらえたから助かったけど。さすがにのんびり旅行するほどあり余ってはいないよ。…あ、俺が全部出すよはなしで。友達にそこまでしてもらう謂れはない」
片手を挙げてやつが言いかけた言葉を遮り、あまりに愛想がなかったかなとの反省込みでこれ本当に美味しいよ。とパスタの出来への賞賛を付け加える。
「それに、も少ししたらどうせわたし帰省するから。言うほど旅行してる暇なんてないと思うよ。お盆終わったらお絵描き教室も再開するし、ちょっとでもバイトして稼がなきゃ」
「え、帰省するの?夏休みなんか、せっかく東京でじっくり時間かけていろいろ観て回れる機会なのに」
普段は講義やサークルで忙しいから、こっち来てからあんまりいろんなとこ行けてないじゃん。まだ観に行ってない美術館もいくつか残ってるよ。と口を尖らせて文句を言う名越。わたしはフォークを運ぶ手を止め、思わずやつの顔を見返して尋ねた。
「あんたは今回帰らないつもり?地元。お父さんお母さんも、待ってると思うけど」
押し出しは良くてゆったりと余裕があり地位の高さを感じさせる一方で、意外なほど若々しくて気さくで話しやすかった名越の父上の顔をぼんやりと思い出す。
二人展の際に顔を合わせただけだけど、やっぱり息子のことが大事なんだな、こういう極端なお金持ちの家でも親ってあまり普通の家と変わらないもんなんだな。と考えた記憶がある。
あの様子ならわたしは面識がないお母さんも一緒に、きっと名越の帰りを今か今かと待ち侘びてるんじゃないかな。高校時代二人で暮らしてたお姉さんも含めて。
だけど名越はドライな様子であっさり片付けて、からからと笑って済ませた。
「ええ?こんなでっかくなった可愛げのない息子の顔なんか、わざわざ見てもしょうがないでしょ。向こうも大学生になった子が夏休みいちいち帰って来るかもなんて当てにしてないと思うよ。…でもそうかぁ、笹谷んちはそういうわけにはいかないよね。GWも結局帰らなかったわけだし…」
「まあ。四月に入学して一ヶ月そこそこで交通費つかって帰るほどのものでもないとは。思ったし」
いやわたしだけじゃなくあんたも絶対帰った方がいいよ。ご両親泣くよ、と言おうと思ってたけど。ふと我に返って慎重になり、やや曖昧な口振りで考え考え言葉を選ぶ。
何故ならつい昨日、ちょっと久しぶりにゆっくり時間をかけて吉村と電話で交わした会話をそこで不意に思い出したから。
『…そうか、残念だったね。ずっと頑張って集中して仕上げてたもんね…。本当にお疲れさまでした』
でも写真送ってもらって見たけど、高校のときよりも断然巧くなってるなぁと思ったよ。俺みたいな素人に言われてもと思うだろうけどさ、といつもの温厚な優しい声と落ち着いたテンションの話し振りにほっとする。
「うん、でも搬入のときにざっと見たけど。やっぱりエントリーしてる人たちの作品、みんな結構すごかったよ。東京だなあと思ったもん。美大も美術専門学校もめちゃくちゃあるし、日本中から上手な人が集まって来てるんだろうなって」
だからいきなり今年初めてのエントリーで、入賞できるとはさすがに思えなかったかな…というのがまあ正直なところ。
「搬入のときにサークルの先輩と会場で会ったけど、その人の作品がまたかっこよくてさ。これで入賞できないとかあんのかなと思ってたらしっかり入ってたよ。だから、あのくらい力あればちゃんと可能性はあるんだ。ってのがわかったのはまあ、よかったかな」
『サークルの先輩?…え、例の地域猫のお世話する会のか。てか〇〇大の人で、直織以外にも本格的に絵を描いてる人いるの?』
さも意外そうに声を上げる吉村の反応でようやく、自分が油断してうっかりやらかしたことに気づく。…しまった。
そういえば、何となく吉村には言いそびれてて。名越に連れられて(ほぼ無理やり)T美のサークルに入る羽目になったことは、まだ伝えてないんだった。
一瞬そうだよ、その人猫又の会の先輩でね。と向こうの誤解に便乗してそのままごまかそうかという誘惑に駆られたけど。
本気で調べたら〇〇大所属の入賞者なんていないってわかるのかもしれないなと思うと。この場のノリで迂闊な嘘は言わない方がいい気がする。いや吉村がそこまでわたしの言うことを疑う性格だとは思わないけどね。でも、いつ爆発するかわからない不穏の種は蒔かないでおくに越したことない。
わたしは観念して、ひとつ一つ考えながら言葉を選ぶ。
「…あのね。実はわたし、サークル二つかけ持ちしてて。ひとつはT美大のなんだ、あ全然美術関係のじゃなくてミステリ研究会なんだけど。美術を大学で本格的に続けてる人たちとの接点が少しでもある方がいいのかなと思ってね。まあ現実には、全然美術の話はしてなくて。今年のこのミスは何が来そうかとか、誰々の新刊いつになりそうだろうねとか。そんな会話しかしてないんだけど…」
そこまで打ち明けて自分の状況を客観的に鑑みるに。…確かに、そんな話題でばっかり常日頃盛り上がってることに特に何の疑問も抱いてはいなかったけど。
そういえばもともと名越がわたしを入部させたのは、現役ばりばりの美大生たちとの接点を少しでも増やして絵を描くときの刺激になるように。という理由だったような。
だとしたら今やすっかり周囲に馴染んで溶け込み過ぎて、まじでミステリの話しかしてない状況は本来の目的とはずれてしまっているのでは……。と今さらながら改めて反省するのだった。本末転倒だ、しかもこうやって何でわざわざT美?って吉村に不審に思われるリスクがあるのに。
だけど、吉村はありがたいことに急に思い当たった。とでもいうように、ふと明るい声でその説明に相槌を打ってくれた。
『…ああ、そっか。そういえば直織、一時期美術予備校の講習に通ってたもんね。そのときの知り合いの伝手?やっぱり同じコースの中に合格して上京した友達もいるんだ。すごいね』
その人は直織と同じ現役なの?美大って割と多浪前提って聞いたけど。しかも東京の美大、結構狭き門なんじゃないのと感嘆した様子で続ける。助かった。
「そうなんだよ、あのとき一緒に講習受けてた友達に誘われてさ。もちろん自分の大学でもサークル入んないと、先輩とか縦の伝手できないからそっちメインだよって断ってあるけど。まあ、週に一回くらいちょこちょこ顔出したりとか…。寮からも案外遠くなくてさ。電車で一本だし」
それは本当。実際に電車で行くことはまあないが、その気になれば自力で行き来はできる。わたしがそろそろ顔出そうかなぁと考え始めるより先にあいつが迎えに来ちゃうから、その地の利を活用する隙は今のところほとんどないが。
てかそれ以外にも、今の台詞の中に完全な嘘はほぼないのが咄嗟の返しなのに我ながらすごい。
ただ、講習を一緒に受けたその友達が名越だってことをあえて口に出さずにいるってことだけがちょっと微妙だが。もしも吉村が、それって名越?って訊いてきたらさすがに否定するつもりはない。正直にそうだよと答えようと思う。
けど、吉村は『T美の友達』についてそれ以上詳しく知ろうという気はないようだった。それはそれとして、といきなりそこで話題を変える。
『でも、残念ではあったけど。これでもう大学も終わってそろそろ夏休みだろ?一回こっち帰って来る?』
直織んちのお母さん心配してたよ。お盆までには帰って来るのかと思うけど、まだ予定がわかんないとか言うばかりで。あの子はっきりしないんだよねぇって。
吉村んちのお母さんとうちの母は友達同士だから、雑談の中でそんな愚痴も出たんだろうけど。よその家の人に余計なこと言うなよ、とわたしは慌ててその風説を否定した。
「もちろん帰るよ。ずっとこっちにいても生活費かかるだけだし…。予定が決まんなかったのは一応コンクールの結果待ちだったからね。そんなことないとは思いつつも、万一入賞したら表彰とか。国立美術館で展示とかあったから…」
『へぇ、すごい。来年もし直織がまた応募して今度こそ入賞したら。俺頑張って上京して、展示観に行こうかな』
いやぁ来年もエントリーしても同じことの繰り返しじゃないかな…という思いと、そうかあそれはいいな!吉村がこっちに来てくれる気になるとは、ってぱあっと晴れやかになる感情とで胸の内がせめぎ合う。
「う、…自信はないけど。まあ多分来年も再チャレンジだけはしてみるつもりだから…。そしたら、もし本当に入賞したら考えてみてね。てかあんた、わたしがこっちにいる間にどのみち一回くらいはおいでよ。なかなかチャンスないよ、知り合いが東京にいる間にさぁ」
『うん。そうだな、そのつもりで頑張ってバイトでもして。今からお金貯めとかないと』
そう返してくる吉村の声も何だか優しい。わたしはコンクール落選のがっかり感も少し薄れて、心が自然とぽかぽかしてきた。
そう、絵を描く以外にもちゃんと楽しいことや幸せなことはある。絵は大事だしそれ無しで生きることはまだ考えられないけど。でも美術だけがわたしの人生の全てじゃない。
「無理しないでよ、専門学校の勉強も大変だって言ってたし。でも今から少しずつ貯金すれば来年の夏までには何とかなるかも。じゃあわたしもそれを目標に、来年のコンクールまた頑張るよ。まあ頑張ったからといって、結果に必ずしも繋がるとは。限らないんだけど…」
『コンクールなんてそういうもんでしょ。直織が納得いく絵が描ければそれでいいんだよ。あ、帰って来たら見せてよ、もし他にもそっち行ってから描いた新しい作品があるんならそれも。写真でいいからさ』
LINEで送って。じゃなくて帰ってきたら見せて、だったのもちょっとだけ嬉しい。見たいだけならただぽちっと送信すれば済むことだけど、地元に戻ってくればどうせ会うんだから直接…って考えてくれてるんだろう。ちゃんとわたしのために時間割いてくれそうだな。
と、そこで頬を緩めるわたしをまたさらに喜ばせそうなことを。
『そしたら、帰る日決まったら早めに教えてよ。もし直織が嫌じゃなかったら、新幹線の駅まで迎えに行くよ。…ってつもりなんだけど、困る?要らないかな、出迎えなんか』
何言ってんだこいつ。要らないわけないだろ。
「それは、来てくれるんなら。でもいいの、忙しくない?勉強大変なんでしょう」
うん、じゃあお願いね!と気軽に受けられない。ほんの少し前、地元にいる頃だったらああ吉村迎えに来るの?まあ別にいいけど。くらいのテンションで受け流してたのに、我ながら反応がしおらしくなり過ぎて笑える。
吉村はそんなわたしの急な変化にも突っ込まず、あくまでも親切だ。
『資格試験はまだだいぶ先だから。それまで一年中ずっと机に齧りついて勉強しなきゃいけないわけじゃないよ。それに、俺も夏休みくらい息抜きしないとな。直織も帰って来ることだし』
「本当?じゃ、新幹線の駅で待ち合わせてどっか行こうよ。お茶するとか、それともどこかでご飯でも食べてく?」
思いきって提案してみた。
え、お母さんの夜ご飯食べなきゃでしょ。せっかく帰って来たのに、直織んちの家族皆で家で待ってるよ?とか言われたら、昼前に帰るから…と答えればいい。断られることばっか気にしてたら、せっかく帰省しても高校のとき並みにろくに二人で過ごす時間もなくなりそう。
そういう反省から、以前のわたしなら絶対しなかったこちらからの誘いを珍しくやってみたわけだが。こっちが思うほど向こうは特別に感じたようでもなく、あっさりと受け入れられた。
『ああ、いいね。そしたら何が食べたいか考えといて。店探しとくよ、俺』
「うん。じゃあ早めに予定決めるね」
やった。てかもしかしてデートか、これ。うーん、もしかしてやっぱりちょっとデートっぽいかも。
前は二人で海浜公園でぼーっとしてても、フットサルの試合にお弁当作って応援に行ってもデートだ!とは思わなかったので。自分のことながら短い時間でいろいろと変わるもんだ。やはり離れてることが人の心が変わるきっかけにはなりがちなのかもしれない。
まあとにかく、そんな成り行きで。帰省する日はもうすでにばっちり、吉村との予定が入っているのであった。
そんなときに名越が万一にも居合わせるようなことがあればまじで台無し。うっかりあんたも帰省すればいいのにとか匂わせて、じゃあ俺も帰る。笹谷と日程合わせるから一緒に帰ろうよとか言われたら…いや、言いそう。絶対言いそうだからこいつ。
何故そう思うのかわからない。本来なら名越が執着するのはわたしの作品に対してだから、そこに関わって来ない物事については関心がないはずだ。
サークルだってバイトだって、わたしの東京での身の安全だって全てが絵を産む金の鵞鳥を大切に守るっていうたった一つの目的に繋がってる。だから帰省の予定を合わせるのは必ずしもやつにとって絶対必要、有益な行動。とはならないはずなんだけど。
そういう理性的な判断とは別に、こいつは隙あらば一緒に帰ろう!してくるやつだ。という謎な確信がわたしにはある。
そしてそれは避けなければいけない。レアで、超久しぶりな吉村との平和なデートのために。
「…そうかぁ、名越帰らないんだ。まあわたしも別にすごい帰りたいわけじゃないんだけどね。親がいろいろ言ってくるから仕方ないかな、と」
適当に愛想よく受け流すと、名越はだよね。とため息混じりにこちらに同情してみせた。
「女の子はしょうがないよね。親の心配度が違うもんな。でも、夏休み最初から最後までずっと帰りきりじゃないんだよね?七月中はまだこっちにいる?」
「うん。まだ近藤先生の教室休みじゃないし。猫又も巡回当番あるから、しばらくは帰れないよ」
お盆とか帰省シーズンになったら、自宅が東京の子たちで回してくれるらしいけど、まあそれまではね。
わたしのその返答に、やつはへぇーじゃあさ。とわくわくした顔つきになって急に身を乗り出してきた。
「あんたが帰省するまでの間、こっちでまだ見てないとこいろいろ行っておかない?入学してからこっち、何かとめちゃくちゃ忙しかったからさ。意外と東京、見て回れてないんじゃないの。★★美術館とか☆☆博物館とか。あとは地味にサン◯ャインとか、銀座日比谷あたりとか」
俺は何度か東京来てるから、案内できるけどね。といちいち平然と付け加えるところが憎らしい。
「うーんまあ、用事あって残るんだから。そんな毎日遊んでられる時間もお金もあるわけじゃないけど、多少はね。特に美術館とか博物館はいい機会だし付き合おうかな。一人で暇なときにさっと行けばいいんだけどね、他人と約束でもしないと。意外と腰重くなりがちなんだよな」
「そうそう、旅は道連れ。てか美術関係だけじゃなく普通にお上りさんが行く観光地も行こうよ。上京して日が浅いうちに行かないとタイミング逃すし。…あ、そういえば。お台場行かないとじゃん、笹谷」
「む。…いつまでそれで煽るつもり?てか思い出してみなよ、そもそもあんたのせいで行きそびれたんじゃん。あの修学旅行の自由行動…」
むくれるわたしを笑顔でいなす名越。
「わかってるって。だから埋め合わせしようって言ってるんじゃん。せっかくだからスケッチもしようか。楽しみだなぁ、東京のいろんなとこ行って。そこで笹谷が描く絵も見られて」
…てか、どうせそっちが一番の目的なんじゃん。わかってはいたけどね、こいつが単純にわたしと東京を遊び尽くしたいなんて考えてないってこと。
まあ別に、いろんなところに連れてってもらってスケッチいっぱいするのが嫌なわけじゃない。こいつにとってもわたしにとってもウィンウィンなんだから、ってことで別にいいか。…と小さくため息をついた後、すっかり綺麗に空になったパスタの皿にそっとフォークを置いた。
そしてあっという間に八月の第一週。
近藤にも猫又の先輩にも、帰省する旨を伝えて休みを調整してもらった。
名越にもぎりぎりまでさまざまな場所に付き合ってやったし。それだけじゃなく一緒にスケッチしたりアトリエで新しい油絵に取り掛かったりもしたので、さすがに気が済んで納得してるはず。
「いよいよ明日帰るんだね。出発は午前中?」
「うん。新幹線混むのもやだし、お昼前に向こうに着きたいんだよね」
その頃には名越と一緒に行動することにすっかり慣れて、相手が空気…は言い過ぎか。けどそれこそ幼馴染みか家族並みにそばにいても気にならない存在になりきっていて。そんなことをさり気なく尋ねられてもまるで警戒心もなく普通に答えてた。
だって、あのあとはもう自分が帰省するしないなんて話題おくびにも出さないんだから。わたしが帰るタイミング測ってるかも、なんて。全然疑うわけないじゃん…。
それでも、東京駅を出てしばらくの間。ううんだいぶ長いこと、一時間くらいは何も起きなかった。
天気はいいし景色はいいし、列車の運転も順調。朝早い便だったから、普通に自由席にも座れた。
わたしはのんびりと背もたれに寄りかかり、少しまどろんで東京でのこの数ヶ月の生活の疲れを癒しながら。気楽で快適な新幹線での一人旅を楽しんでいた。
頭上から不意に自分の名を呼ばれるまでは。
「お。…やっぱりここにいた。やっほ、笹谷」
そんな、まさか。という驚きと、やっぱりね。という諦めの気持ちが交錯する。
聞き慣れたその声が頭の上から降ってきて、あーあ。と肩を落としてそちらを振り仰いだ。…まあ、そうなるよなぁ。
座席の背もたれに手をかけて、わたしの好きなブランドの缶コーヒーをもう片方の手でかざしながら。名越がいつもの人を喰ったような笑みを浮かべてこちらを見下ろしてる。
「自由席、やっぱさすがに混んでるな。夏休みだもんな。…あのさ、向こうの指定席あんたの分も取ってあるから。今から移動しない?富士山がよく見えると思うよ。山側の窓際なんだ」
《第21章に続く》
彼氏未満の存在とカモフラ偽彼氏との間のせめぎ合いですね。遠距離対近距離ともいう。結構綱渡りな感じがするが、大丈夫か?主人公。
何かのコンクールに応募した瞬間、受賞の可能性がゼロから有数になった!と意識が変わってちょっとだけそわそわしちゃうのわかる。絶対ないよーと思っていてもゼロじゃない、となるとやっぱりほんのちょびっとだけ期待はしちゃうよね。まあ、現実は厳しい。せいぜい宝くじ買ったくらいの考えで、過度の期待はせずにいるくらいが多分ちょうどいいのかな…と思います。




