第2章 日常ブレイカーの来訪
主人公、笹谷直織の通う高校は公立。イメージ的にその地域で一番偏差値の高いとこです。もっとガチ高偏差値の私立はそこそこ近隣にありますが、地元の公立じゃ一番みたいな感じですね。一応制服がありますが、多少着崩したりアレンジしてもまあまあうるさいことは言われない、みたいなイメージです。化粧はする子はしてるけど、割と目立たないようほどほどに抑えてる人が多い印象。
その男の子は遠目に見てたときにわたしが感じたいかにもいいお家のお坊ちゃんぽいゆったり超然とした印象よりも、だいぶ砕けててフレンドリーというか。距離の詰め方が軽かった。
わけもわからず剥がしたばかりのポスターを奪い取られ、それをやけに真剣な顔つきでしげしげと眺めてる彼を前に呆然となって生返事を返すのが精一杯。
「これってやっぱアクリル絵の具使ってる?すごい、塗りが丁寧できれいだよね。それともよほど印刷がいいのかな…。元の絵、機会があったら一度見せてもらいたいな。まだとってある?」
「え。…それは、まあ」
印刷が済んだ時点で元原稿は戻ってきた。そりゃわざわざ処分する理由もないから一応保管してはあるけど、だから何なんだ。
てか、今からうちまでついてきて見せろとかいう気じゃないだろうな。と、目の前の相手がどう感じてるかまるで気にする様子もなく楽しげに喋り散らすマイペースぶりに、思わず警戒心を募らせてしまい反射的に肩を強張らせるわたし。
初対面の相手にこの距離感で切り込んでも懐に入れる、許されると頭から思い込んでる様子なのがすごい。根っからの真の陽キャか、それとも顔面とお育ちが良すぎて正面きって他人から拒絶された経験がないのか。
内心では若干引くけど、話題の内容としてはあくまでもこの場にある現物のポスターについてだけだし。すごく個人的なことを尋ねられたり精神的な距離を詰められたわけでもないから、めちゃくちゃ嫌な顔を見せて塩対応で突っ放しておかなきゃ。ってほどの事態でもない。
それでもとても向こうと同じノリで話す気にはなれないから、努めて冷静に必要最小限の返答だけを慎重に考えて絞り出した。
「原稿は保管してますけど。印刷したときとそれほど色味は変わらなかったかと…筆のタッチも実物と見較べても違いってほどの違いはないですね。これもよく見れば、ちょっと色ムラが残ってますし。この辺とか」
「あーそうだね。こういうのはいちいち修正しないんだ」
本当だ、よく見ると結構手書き感あるな。色彩バランスが派手でわっと目を惹くからそっちに意識が向くのかとポスターを手に試しすがめつしながらしきりに感心してる。いや、別に最初から塗りムラごまかそうって意図で配色決めたりはしてないけど。
また電車が到着したのか、人の行き来が再び目に見えて増えた。そんな中で佇んでいるわたしたちは周りの邪魔になってるような…。避けて通る人の波に気が引けて、わたしはなるべく壁際に寄ろうと努力しながら早く話を終わらせたい一心で、さらに重ねて付け加えた。
「だから、わざわざ元原を見ても特に得るところはないと思うので…。較べても大体そのまんまです。ただの町内会のお祭りのポスターに、あえて細かい部分ちまちま修正するほど手間かけてないし。基本、地域の人が見て日時と場所読み取れればそれで必要充分なものですから」
観賞用ってわけじゃなくてただの通知、メディアなんだよ。と言外に匂わせて話を終えようとする。
そしたらほら、それこっちに返して。と言葉にはしないが相手に伝わるように片手を伸ばしてポスターを寄こすように仕草で伝えると、先方は何故かそれをスルーしてむしろ自分の胸元へと広げた紙を引き寄せた。
「あーそうか。だったらさ、この一枚。よかったら、俺がもらってもいい?」
あっさりとそう言うと、もう話がついたみたいな顔して端からくるくると丸め始めた。えー…。
完全に当惑して返答に詰まってるわたしを、彼は手を止めずに紙を丸めきってから心底不思議そうに上から見下ろしてる。
「え、その反応。もしかして嫌?でもこれ、印刷ってことは結構枚数あるんでしょ。しかも期日は過ぎてて用済みだし。剥がしたあとはどっちにしろまとめて処分するつもりだったんじゃないのどうせ?」
「あーまぁ…。それはそうだけど」
先方のあまりの遠慮のなさに、何とか距離感とよそよそしさを出そうと極力丁寧語で対応してたのも忘れ、毒気を抜かれて素で呟いてしまった。
彼はそもそもこっちが敬語だったかタメ口だったかなどまるで気にも留めてなかったようで、何の引っかかりもなく平然と話を続ける。
「あ、そうか。もしかしてこれ描いたの俺ですとか嘘ついて勝手にネットにアップすんじゃないかと疑ってんの?さすがにそこまでこすいことしないよ。てかそういうの本気で心配するんだったらさ、今度から自分の描いた絵には簡単でもいいから決まったサインぱぱっと入れといた方がいいよ。まあ本気でやろうと思えばデータの上では画像処理して消せるけどね、そんなの。それでもなんかあったとき、現物にサインしてあればこっちが本物ですって主張できるでしょ」
「サイン…」
そんなこと。…これまで考えもしなかった。
呆然と鸚鵡返ししただけで続ける言葉もなく考え込む。
単に個人で趣味で描いてるだけで、どこに出すつもりもない絵だし。たまたま伝手があって頼まれたポスターも、単に近所の人の目に留まればいいって範囲でだけ、それ以上広く知られたいと思ったこともない。
これって誰の絵?と個人的な知り合い以外に思われることすら、まるで想定してない。この絵は自分のですって他人が詐称しようと企むほどの代物でもない、ただの無名の高校生の作品でしかないのに。
自分だけの凝ったサインなんかつけたらむしろどれだけ自意識過剰なんだ、と思われるだけじゃないのかな。みんな絵を描くときってそんなことしてんの?
中学の美術の授業以来人前で公式に絵を描いたことないから。高校生くらいの絵描きの常識がわからん…。
そこまで考えて、もしかしたらこの人も絵を描く人なのか。高校の美術部とかに所属してるってことかな?とようやく思い当たった。
「…まあ、いいでしょ。原画くれと言ったわけじゃないし。むしろ勝手に掲示板から剥がして持って行かなかったのを褒めて欲しいくらいだけど」
やけに器用な手つきで上手にポスターを丸め終えてから、彼は脇にそれを挟み込んでぽん。と筒の端を叩いて無駄にいい音を立ててみせた。
「あ、もしかしてただで持ってくのかよ、代償はなし?とか思ってない?それで渋い顔してたのか。だったらこれは今回借りにしといて。そのうちいつか返すから、ちゃんと何かで。じゃ、またね」
矢継ぎ早に畳みかけ、ふと我に返ったように言葉を切るとそれっきり。振り向きもせずに休日の人の流れの合間を縫ってすたすたと去っていった。
いや。その…、借りを返すと言っても。いつ、何処でだよ?
わたしは当惑しきって、さっきまで手にしていた用済みのポスターもなくなって空になった両手を持て余しつつぼんやりとただ遠ざかる背中を眺めた。
てか、向こうの名前すら知らんし。こっちの名前も訊かれなかった。別に知りたくもないし全然尋ねられたくはないから、それはそれでいいんだけど。
つまりお互いの身許というか、何者かはわからないまま話は終わった。これじゃ連絡を取り合おうとしてもどっちからも相手にはアクセス不可能だ。
そう考えると。…いつかお礼をするよっていう台詞自体もう口からでまかせ。ただのその場限りのサービストークみたいなもの、って考えればいいんだよね?
「まあ。…それで全然構わないけど、別に」
あとに置いて行かれたわたしは雑踏の中で肩をすくめ、ひとりぽつりと誰に聞かせるでもなく呟いた。
あの人も言ってたけど、どうせ回収したあとはまとめて古紙として出すくらいにしか使い道のない代物だ。一枚ください、と仮に誰かに言われたら普通にはいどうぞと何の違和感もなく渡しただろう。
それがちょっと得体の知れない、どうやらこの辺に住んでるらしいってことしかわからない同年代の馴れ馴れしい男だったからつい反射で引いちゃっただけのこと。
結果としてポスターを口実に個人的なことを尋ねられたり、変な絡まれ方もせずあっさり終わったからこれはこれでよしとしないと。処分するしかなかった用済みの紙一枚で決着したんだからまあ、安いもんだ。
頭の中で自分にそう言い聞かせ、混乱を何とか収めて帰途につく。けど、おそらくあの人うちと家、近そうなんだよなぁ。
犬の散歩と行き合ったり、夜道ですれ違ったってことは確実に近所に住んでいる。何かの機会にまた顔を合わせでもしたら面倒くさすぎるかも…。
とにかくこっちから声をかけなきゃいけない義理はないから、気づいても知らんぷりしてればいいか。先方もこれで用事は済んだことだし、今後たまたまポメ連れの状態で鉢合わせてももうあえて声はかけて来ないかも。そうだといいなと考えつつ、家へと続く坂道をてとてとと登り続けた。
翌日、連休明けの登校時。わたしはちょっとだけ普段より用心深く周囲を伺いながらさっと足早に教室に入る。
思えばあの男の子を見たときぱっと最初に呼び起こされたイメージは、近所でよく犬を散歩させてる人。って印象じゃなかった。
どちらかと言えば特に注意を払ってない集団の中で多分すれ違ったことがある、くらいのインパクト。それっていかにもクラスは別だけど同じ学校へ通ってる人物の記憶。って感じがするよね?
だから、むしろ自宅の近くよりも高校の中での方が彼と出くわす確率が高いように思われる。そう思って念のため、廊下やロビーなどの公共の空間ではあまり長く滞在しないで素早く移動するよう注意を払って一日を過ごした。
「…どしたのササにゃん。なんか今日はやけにちょくちょく周り気にしてないか?誰か特に気になる相手でもいるの?」
同じクラスの友達に不審そうにそう突っ込まれたときは、そこまで態度に出ていたのか。さすがに気にしすぎかなとちょっと冷静になったけど。
「いや別に。そんなんじゃないよ…」
もしかして恋愛絡み?と目をきらきらさせて身を寄せてくる友人。普段今いち恋バナ系の話題に関心を払おうとしないわたしに、もしかして物足りなさを感じていたのか。そう考えると、友の喜ぶような話の種をいつも提供できてなくてごめんね。と不甲斐なく申し訳ない気持ちが湧いてこないこともないが。
それよりまず最初に、誰かとトラブルになってるのかも。とか、面倒なやつに変な風に絡まれた?みたいにマイナス方向の要因が頭に浮かんだりしないのかな。
自分なら確実にそっち方面を想定しそうだから、案外この子楽天的というか。こう見えて意外に恋愛脳だなと新しい一面を見た気がする。
「え、だって。ササにゃんって普段異性は存在自体ほぼ黙殺状態じゃん。高校来てからクラスの中ではもう全然自分から積極的に絡んでいったりしないし。けど今朝から、珍しく男子が向こうから来るときとかすれ違うときにぱっとそっちに目をやったりするから…。誰かを探してるんじゃないかなと思ったんだ。あ、もしかして。実は内心で吉村のこととか考えてんの?」
この友人、峯田由楽は中学から一緒に同じ高校に進学してきた子だ。団地の子ではないがそっちで同じクラスになったこともあり、当然吉村のことも知ってる。
だからといって何故このタイミングで唐突にあいつの名前が出るのかわからん。とわたしは肩をそびやかしてぶっきらぼうに、からかい混じりのそのまぜっ返しを片付けた。
「あいつは四階の教室だし。普段廊下で行き合うようなことは滅多にないよ。てか用事があるときもいちいち学校で声かけたりはしない。LINEで連絡済ませられるし、大体それで用件終わるもん」
「ふぁ〜またそんな…。愛想のないことを」
わたしの返しを受けて、ユラは大袈裟に目を剥いて白黒させた。
「せっかくわざわざ同じ高校に進学したんだからさ。もっと学校でも積極的に絡んでいけばいいのに…。高校生になってから一緒に行動してるとこ、ほとんど見たことないよ?それとも休みの日とかプライベートではそれなりに二人の時間とってんの?」
「何でよ。そんなわけないじゃん」
中学のときはともかく、高校入ってから一学期過ぎたのに未だにこんなこと言われるのか。と半ばうんざりして言い返すわたし。
「中学んときの同級生がみんなわたしに、何で吉村とのことだけをそういう風に言うのか意味がわかんない。別に普通に友達だし。他にも男子の知り合い何人もいるけどな。保育園のときからの幼馴染みで特に付き合いか長いから?…いや、それだけ取り上げても。他に同条件のやつほどほどにいるな…」
わたしたちの卒業した中学は公立。幼少期から同じ生活圏で育ってきた連中と一緒だったので、男も女もなく同年代の知り合いがそれなりにいた。
それはわたしが人懐こいとかコミュ強者だとかいうわけではなくて、ただ単に子ども時代の人間関係の延長でしかなかったのだが。
高校ではこれまでの育ってきた場所に依存した知り合いに囲まれてた環境から外れるけど。じゃあ代わりにと積極的に自分から新しい友人をばんばん増やそう。と奮起するほど、常に周りに大勢の友達がいないとやっていけない性格でもない。
成り行きに任せて、たまたま同じクラスになった同中のユラと何となく行動しているうちにぽつぽつ話しかけてくれる友達も増えて、今ではまあまあそれなりに寂しくない日々を過ごしている。
けど、だからといって男の友達が増えたわけではない。教室の片隅で気心の知れた女の子たちと地味に他愛のない会話を交わしてるだけじゃ、向こうから男子が寄ってくることはないのだ。
特に不便とか不満はないから別にわたしとしては特にそこをどうにかしようと行動を変えるつもりはない。男性恐怖症とかでもないから、必要が生じればちゃんと喋れるし。
でも。とさっきユラが突然持ち出してきた名前を思い出して、思わず苦虫を噛み潰したような顔になってしまった。
高校で男の知り合いが増えなさすぎてるせいで、こうやって根拠ないからかいを受けるときにも未だに吉村の名前が上がることになるとは…。本当に、今の学校ではほとんど顔も合わせないし二人でいるところを見せた記憶もないのに。
確かに地元じゃ今年のお祭りの手伝いも一緒にしたし、親同士が親しくて弟同士の行き来もあるからついでに話をする機会もある。けど、それだって必要にかられて仕方なくだから。全然個人的な感情が絡んでるわけじゃないのになぁ。
「ユラだって知ってるじゃん。別にわたしの中学んときの男の友達、あいつだけじゃないって。武市だって白濱くんだって、今でも会えば普通に話すよ。そりゃ今じゃ滅多に顔合わせる機会はないけど、それは吉村も言うほど違わないのに…。でも、何故かずっとあいつとだけそういう風に言われるんだよね。何でだ?こっちからも向こうからも、お互いそういう感情まるでないのに…」
他の男の子たちと何がどう違うっていうんだ。と心底不思議で思わず首を捻る。
机にものぐさな姿勢で肘をついてため息をつくわたしに、由楽はさっきまでの半笑いがすんと消えた真顔を見せて呆れたように突っ込んできた。
「えー…。本気で、他の男の子たちと吉村との違いはないと思ってんの?いやぁそれは…。ササにゃん何もわかってなさ過ぎ。だってさ、ふつー付き合ってるだろと思うでしょ二人。むしろさ。何でさっさと正式に付き合わないの?」
「それは簡単でしょ。恋愛感情ないからだよ…」
そこは間違いなく、本人だからこそ自信を持って断言できる部分だな。と考えつつぼそぼそとテンション低くわかりきったことをまた改めて、これまでで通算何度目かになる釈明をした。
一方でユラにとってはこれもある意味楽しい恋バナの一種なのか。だらんと机に覆い被さるわたしの正面に椅子を引きずってきて、背もたれに両腕を載せて正面から寄りかかり、さらに前のめりで話を続けようとする。
「本人には自明って言ったってさ。それは、ササにゃんの方だけの話でしょ。吉村がどう思ってるかはササにゃんにはわかんないんじゃん。向こうにも恋愛感情ないなんて。どうして他人の気持ちについてそこまではっきり断言できるの?」
「それはさ。…まあ、何だかんだ言っても。付き合い長いし。気心だけはまあまあ知れてるからさ…」
この議論そのものがどうしようもなく面倒になってしまい、いい加減なことを言って濁す。
てか、単にこの子、もしも吉村がわたしのことを好きなら話が面白くなるのになぁと思ってるってだけじゃないのか?それってただの願望っていうんじゃ…。
そんなユラはわたしの不用意な言い逃れを聞き逃さない。
「あ、ねぇ?自分でも結局ゆってんじゃん。誰よりも付き合い長くて気心知れてる関係だって…。傍から見ててもそうだよ。二人このまま一緒になれば自然なのに、お似合いじゃんって。だから学校でもこそこそ他人のふりなんかしないでさあ、大っぴらに彼氏彼女として振る舞えばいいと思うんだよね。そしたら毎日待ち合わせて帰ったりとか。二人で朝から一緒に登校したり、休み時間に堂々とお互いの教室を行き来もできんじゃん?」
「いやぁ隣とかならともかく四階と三階で。授業の合間にわざわざ行き来なんかしてたら、それで休み時間ほとんど潰れちゃうよ…」
力なく抗弁したけど、すっかりその気になったユラはまるで意に介さない。
「5分休みならそりゃそうだけど。昼休みとか、まとまった時間取れるチャンスもあるじゃん。ラブコメとかでよくあるやつ、あれ見たいんだよなわたし。休み時間に別クラの男の子がおーいとか言ってずかずか入ってきて、教科書忘れたから貸してよ、とか女の子に絡んで来るの。あんたたちほんとに仲いいねぇとか言ってからかったりもしたい…」
そしたらわたしもラブコメ漫画の登場人物な気分を味わえるのに!とかわけのわからないことを言って悔しがるユラ。いやそんなの。楽しいか?実際のとこ。
「そのくらいのこと自分でやりなよ。てか、その方が全然いいじゃん?脇役なんかやりたがってどうする。主人公目指せよ、そこは。夢は大きく行こうぜ」
「やだよ、自分で恋愛なんかしたくない。面倒くさいしそんな気になれる相手も現時点でいないし…。無責任に他人のあれこれを眺めて楽しんでいたいの。単に娯楽、暇つぶしで充分なんだからさ」
「なんだそれ…」
そういうこと言うんならこっちも同じなんだけど。恋愛なんて、したい人がしたい相手とだけすればよくないか?
「自分は気が向かないものを気軽に他人に押し付けるのはフェアじゃないんじゃ…。とにかく、期待してもあんたの欲しいもんはいつまで経っても出てこないからね。わたしと吉村がどうにかなることは金輪際ないわ。だって何歳のときから一緒にいると思ってんのさ。家同士も昔っから付き合いあるし、ここまで来るとね。もう家族みたいなもんなの。今さらそういう目では見れないよ」
「えー何なに?吉村って、10組の吉村くん?笹谷ちゃんの幼馴染みと噂の」
しまった、またうるさいのが来た。
油断しきっただらりとした姿勢で肘をつきながら不貞腐れた態度で喋ってると、わたしたちの会話を聞きつけた別の友達二人がすかさず机のそばにシュバってきた。どうやらたった今まで連れ立ってトイレにでも行ってたらしい。
いつも教室でつるんでる友達の一人、香取珠未がわたしの背後にするりと回って腕を首っ玉に絡めてきた。何かとくっつきたがる、べたべたと触れたがるのが玉に瑕な子だ。まあ、いいんだけど。目くじら立てるほど不快ではないから。
「わたし10組に知り合いいるから知ってるよ。なんか、明るくて元気な子でしょ?わたしの友達のその子も、すごい話しやすくていいやつだよって褒めてたよ。いいじゃん、笹谷ちゃん。クラスでもいつも中心にいて男も女も分け隔てなく接してるから。実はあれで人気ありそうって…」
「あれで、って何よ。見た目の話?特にイケメンってわけではないの?」
あとからゆっくり近づいてきたもう一人は倉橋美夜子。何があっても滅多に慌てた顔を見せない、クールに落ち着き払った長身美人だ。
普段はこの面子で恋バナなんてしないから、彼女が男子の容貌レベルに関心を見せるのは結構意外。実はこう見えて案外面食いというか。異性の外見にこだわりがあるのかも。
その問いかけに答えるたまちゃんの声も心なしか弾んで活き活きとしてるから、何だかんだ言ってみんな実は男の子の話をするのは嫌いじゃないのかもしれない。これまであんまり話題に上せる機会がなかったってだけで。
「イケメンか?って言われると、どうなんだろうなぁ。見たことあるけど…。うん、みんなが皆一目で見惚れるような美形か?って言われちゃえばそれはまあ…。けど、感じはいいしけっこー悪くないよ。わたしは割と好きな顔」
「普通だよ。絵に描いたようなフツメン、つまりは」
同中の元クラスメイトは容赦ない。端的に言い切ったユラの素っ気ない言葉に、たまちゃんはやや不服そうに突っ込んだ。
「えーそこまで完全に並みレベルってわけじゃないと思うけど。平均よりは全然いいと思う。愛嬌あって可愛いじゃん?まあ、渋い整った顔立ちのクールなイケメンがストライクな人からしてみたら。そりゃただのふつーの男の子に見えるかも知らんけど…」
それって褒めてるのか。と思ったけど、彼女は本気で不服な表情で異議を唱えてる様子なので、多分これでもいい風に表現してるつもりなんだろうな。…平均よりだいぶましで、見ようによっちゃ愛嬌あって可愛くなくもない、か。うーん。
しばし考えてから、幼馴染みの贔屓目を足してもまあそのくらいの評価が妥当なとこかも。と黙って納得するわたし。一方クラ子の方はといえば机の横に仁王立ちに立って腕組みし、やや宙に視線を彷徨わせつつ今得た情報を脳内で吟味してるようだ。
「…なるほど。あたしのストライクゾーンではないかな。ま、もちろんその方が断然いいわけだけど。そもそも既に友達の彼氏候補な子なんだし、もし仮にめちゃくちゃ好みなタイプだったら。本気になって闘ってもどうせ敗北は約束されてるって最初からわかってるんだもんなぁ…」
「そうそう。無理むり、とてもじゃないけど到底割って入れるような状況じゃないよ。あいつとササにゃんとの間にはね」
「いや全然そんなこと。…ないから」
ええーやっぱそうなの?二人、実のところは既に両片思いってこと?とちょっと残念そうなたまちゃん。しかし前から思ってるけど一体何なんだ、両片思いって言葉。
わたしの首元に回されてる彼女の手の甲を軽く叩いて注意を引き、慌てて今のやり取りに口を挟む。
「あいつもわたしも、紛う方なき完全なるフリーだから。むしろ吉村のこと、ちょっとでもいいと思うんなら是非声かけてやってほしい。中学んときから今までわたしの知ってる限りではまだ一回も彼女がいたことないから。なかなか悪くない物件だと思うんだ、幼馴染みの欲目だけどね。穏やかでにこにこしてて懐も広いし。もしもたまちゃんがああいうのありなら…」
えぇ〜まじで紹介してくれるつもり?本当にいいの、あとでやっぱ返してとか言い出さない?と声を上げてわたしの首っ玉にかじりついてくる珠未の圧が重い。
返答する余裕もなくぴったりまとわりつく腕をずらして、ようやくぷは。と息をつくわたしに向けて教室の後方の出入り口からいきなり呼び出しがかかった。
「あ。…えー、笹谷。…さん。あの、客だけど」
「ほわ。…はい」
振り向くと、当惑顔で扉の前に立ってこちらを見てるのは一度も話した覚えのない同じクラスの男の子。
どうやらたまたま入り口近くにいたばっかりに、ほぼ面識のないわたしを呼び出せ、と頼まれてしまったようだ。それは巻き添えで申し訳なかった。と思いつつも別にわたしのせいじゃないし…ともやもやした気分で席を立ってそちらへと向かう。
「…たま。あの子あんなこと言ってるけどやめときな、現実には無理。紹介とかしてもらわない方がいいよ…。結局は敵わないって。闘う前から勝負決まってるようなもん、八百長同然よ」
遠ざかる背後で声を落としてめちゃくちゃなこと言ってるのが耳に入る。おい、しっかり聴こえてるってば。
「…やっぱそうなの?でも、少なくとも笹谷ちゃんの方はその気ないんだよね。彼の方の片思いでしかないならワンチャン」
こちらも声をひそめるたまちゃんの問いかけをユラがつれなく一蹴するのも、ばっちりこちらの耳まで届くし。
「ない、ない。あんたさ、二人が一緒にいるとこ見たことないんでしょ?見たら一発、絶対間に割り込める気なんかしないってば。だってさ階段とか坂道で当然のように手を取られて引かれてるの、普通じゃないと思わん?お姫様じゃないんだよ。前に指摘したら、それ以来他人の目があるときはやらなくなっちゃったけど…。それまで別に当たり前のことだと思ってたみたいなんだよぉ二人とも」
信じられる?とまるでそれが法外な事実みたいにさらに小声で告げるユラ。いや、そこまで大騒ぎするほどのことか?
足許危なきゃ手くらい差し出すだろ。現にあいつは自分の妹とか、小さい頃は弟にもそうしてたし。…それと同じってだけだよ。
振り向いてそう言い返そうかと思ったけど、えっそうなの?嘘ぉとかひそひそやってる彼女らのいるところまで既にだいぶ距離がある地点まで来てしまった。
ここから話に割って入ろうと思えばそれなりに声を張り上げるより他なく、結果的に周囲の注意をある程度引くのは覚悟せざるを得ない。正直それほどの事態ではないから、できたらそれは避けたい。
結局、ユラのやつめわたしがその場を外したと思って好き放題なことを。あとで見てろよと内心で毒づくにとどめ、相変わらず当惑顔でこちらを見守ってる顔と名前が何とか一致する程度の顔見知りのクラスメイトの方へと急ぐ。
「ごめん。…ありがと、悪いね」
一応彼を労ってその傍をすり抜け、戸口へと身を乗り出す。
けどそういえば、わたしを指名して呼び出すような知り合いって一体誰なんだ。とそのクラスの男の子で塞がれてて見えなかった相手を実際に目にする直前にふと疑念が浮かんだけど、もう遅い。
そんな親しいやつ、この学校にいたっけ?しかも他のクラス。教室の外から呼ばれたところを見ると。
悲しいかな、わたしは高校に進学してからここでの世間がめちゃめちゃ狭い。何と言っても部活に所属してないし何の委員にもならず新学期を切り抜けた。
同じ中学から来た子が他のクラスにも何人かいるけど。わざわざ教室に呼びに来るような関係性のやつは思い当たらないなぁ…。逆にそれこそ吉村くらいの間柄だと、まずLINEとかで連絡取り合えるから。何の前触れもなくいきなり直にやって来るイメージないし。
だとしたら。…事前の約束も連絡もなく、わざわざ休み時間に会いに来る個人的な関係者って。一体誰なのか、って考えたら。まじでそんなやつ一人も心当たりが…。
…ふとそこでいきなり、すっかり忘れてた記憶が脳裏に蘇るのと。呼び出しを頼まれてたクラスの男の子がその場を退いて、教室の入り口に佇んでる人物の全容が視界に入るのとがほぼ同時だった。
思わず喉の奥から微かな変な声が漏れる。
「…、む。…う、っ」
その人は無意味なほど爽やかな顔つきでにっこりとこちらに向けて感じよく笑ってみせた。
「何、その顔。そんな驚く?昨日言ったじゃん。ちゃんと近々お礼するって。聞いてなかったの?」
「聞いてました。…けど」
本気だとは思わなかったから。と付け加えていいのかどうか迷いが生じて結局ぱくぱくと口だけが微かに動く羽目になる。
背後からえ、あれって。隣のクラスのやつじゃんとか、笹谷ちゃんあの人と知り合いだったの?とか微妙なざわめきが湧き起こってるのが伝わってくる。その反響はどうやらわたしが普段属してる限られた人数のグループのメンバーだけでなく、教室全体に漣のように伝播していってるようだ。
「3組の名越じゃね?…へぇ。笹谷さん呼び出すなんて。実は二人、親しいのかね?」
はっきりこちらに聞こえよがしに投げかけられた呟きが背中に刺さり、じんわりと変な汗がこめかみに滲む。
教室中の、主に女子から向けられてる視線をひしひしと感じる。あんな目立たない地味な子が彼の関心をどうやって引いたんだって疑念が拭えないんだろう。気持ちはわからなくもない。
こうして正対すると。冗談抜きでこの男の子、全身から醸し出されてるハイスペック感が半端ない。
近くで見ると小柄なわたしが首をもたげて見上げる必要があるくらいすらりと高い身長。なのに上からの圧迫感とかこっちを怯ませる怖さとかは感じられない。
おそらく芸能人かよと思うくらいすんなりした細身の身体と、その顔に浮かんでる寛容で悠然とした笑みのせいだろう。
相手に何言われても堪えないし多少他人から噛みつかれてもそのくらいは別に平気。って余裕がその態度に見るからに満ち溢れてる。
自分自身に対する揺るぎない確信があるから、雑音程度じゃ乱されない鷹揚さがある。そういう意味ではこの人には全然やばさや危うさが感じられない。
そう表現するといい意味みたいだけど、逆に言うとこのタイプを凹ませたり諦めさせたりするのは難しそうだ。わたし程度が何て言い返したってどうせ歯牙にもかけないだろうって、こうして相対してるだけで何となくわかる。
…まあ、それだけならまだちょっと話の通じにくそうな扱いに困る人が来ちゃったな、どうしようかなぁで済むけど。何より今、この状況下ではまず教室中からこの背中に集中してる視線が痛い。
かと言って、わざわざここから場所を移して話が込み入ってくるのも嫌すぎる。だからわたしはこの人とは何でもないんですよ、と周囲にアピールする意味でもさっさと用事を済ませて退出させよう。とばかりに小声で早口に畳みかけた。
「あの、お気持ちはありがたいんですけど。あれはそちらも言ってた通りどのみち回収したあとは処分する予定のものだったので…。つまり、その、お気遣いには及びません。お礼なんてとんでもない、お言葉だけ。頂いておくので…」
「いやそんな、わざわざ遠慮して辞退しなきゃいけないほどのものを出すつもりはないよ。だからそっちこそ気遣いは要らない。えっと、部活とか委員会には入ってないよね?笹谷さん、だっけ」
「え。…はい」
名前知ってんだ。とまずそこでびっくりして思考が止まってしまった。
こっちなんか、この人が同じ学校の生徒かどうかもうろ覚えで確信持てずにいたのに。あのあとわざわざ調べたのか?…いや、でも。考えてみれば昨日の今日だよな。
顔だけわかってる状態で、急遽在校生の名前を調べる手段てあるんだろうか。少なくともわたしには思いつかない。
てかそもそも、うちの教室に呼び出しに来たってことは。わたしのいるクラスもちゃんと知ってたってことなんだよな。
さっき背後から聞こえてきた声によれば、この子は3組らしいから。隣のクラスにこの女いたなくらいの認識は最初からあったと思われる。昨日ポスターをねだりに来たときの声のかけ方の気軽さを思い出すにもしかして、わたしの方も彼を見覚えてるだろうからお互い漠然と知り合い。くらいの感覚だったのかも。彼の頭の中では。
そんな風に一生懸命に脳内でこの事態を整理してるわたしの外見がよほどぼんやりして見えたのか。彼は穏やかな笑みを口許に張りつかせつつ、こちらが状況に対応できるようになるのを待つ気はないときっぱり告げるかのようにてきぱきと用件を切り出してきた。
「…そしたら、放課後特に用事はなさそうだな。迎えに来るから、この教室の前で待ち合わせしよう。今日予定とかは別にないんでしょ?学校の外で習い事とか、塾とか予備校通ってる?」
「いえ、…そういうのは。でも」
その口振りから、どういうわけかこの人わたしについて名前とクラス以外にも何か多少の事前知識あるんじゃないか。と察知してしまい、その事実に怯んで咄嗟に上手く言葉が出てこなくなった。
だって、帰宅部で何の委員もやってないこともばっちり知ってるんだもん。ここでいえ実はお茶とお花と日本舞踊習ってて…とか思いつく限りの適当な嘘並べ立てて逃れようとしても。どうやってかあとで絶対、ばれそう。
冷静になって考えたら、ばればれの嘘ついてまでこの人と一緒に行動したくないんだ。と思われて嫌われても全然何の問題もないしこっちはノーダメージなはずなのだが。
それでも目の前の相手から、口から出まかせを言ったんだと看破されて正面きって責められると考えると。人は反射的に気が引けて真っ赤っかの大嘘をつくのは躊躇してしまうものなのだ、となんかしみじみと理解できたような気がする。後付けだけど。
それでもごもごもと口ごもってるだけで、全く了承もせず言質はとられなかったはずなのだが。はっきりと断られなければそれは了解とみなすというルールでこれまでやってきて、特に困ることもなかったんだろう。
用事がなくてフリーならそれは自分に割く時間があるのと同義。とばかりに勝手に納得して、あっさりと片手を挙げたかと思うと踵を返した。
「そっか、そしたら大丈夫だな。じゃあまた放課後に。…あとでね」
「は。…あの、いえ」
お礼なんか。まじで全然、必要ないんですけど…。
まるで振り向く気もないきっぱりとした背中はあっという間に隣の教室へと吸い込まれて消えた。
何ひとつ思うことを伝えられなかった。と何とも後味の悪い気分で、とぼとぼと肩を落としてわたしも教室に戻り自分の席へと戻る。前へと進もうとするとわたしの両側に立ってた人たちがさっと身を引き、道が広がるのでまるでモーゼの歩みみたいになってる。
…ていうか。そもそもあのポスターって昨日あの人が言ってた通りにどうせ燃えるゴミか資源回収に出すしかない代物だったんだし。それに対する謝礼って、よくてせいぜい購買にあるチョコとかグミとか。そこらの自販機で飲み物でも買ってきてくれたらそれでむしろこっちが大得ってバランスなくらいなのに。
わざわざ放課後に仕切り直しで待ち合わせてするお礼って、一体何?しかもご丁寧にも時間あるかって訊かれたってことは。
顔を合わせてぽんと何かもらってありがとね、で五秒で終わる展開は絶対ない。ってことなんだろうなぁ…。即解散にならないとなると本当に何なの。…まさか、そのまま学校を出て。二人でどっかに出かけようとか?
いやいや、おかしいでしょそんなの。てか自分と一緒に過ごすのがこっちに対してのお礼になるって発想がそもそもおかしくね?どんだけ王子様なのあの人?
全ての女の子が自分と出かけるのはご褒美って喜ぶもんだとは勘違いしてない…、よね?そんな事実ないから、絶対。
そう面と向かって言ってやれなかった不甲斐ない自分自身に憮然となりつつ、自席に戻ってすとんと腰掛ける。さっきの状態のまま前の椅子を拝借してこっち向きに跨った姿勢のユラが、声を落として恐るおそるわたしに探りを入れてきた。
「え、と。…どういう成り行きか知らないけどさ。つまりは、あんたこのあとあの子とデートするってこと?あれ、名越くんでしょ。隣の3組の」
「いや。…知らない。そうなの?」
そんな名前今初めて聞いたわ。
ぶすっとして機嫌がいいとはお世辞にも言えないわたしの反応だったが、周囲はそれどころじゃない。とばかりに身を乗り出して口々に、興奮気味に喋りだす。
「そうだよね?こっちからはちょっと角度的に全部は見えなかったけど。あれって名越だよね?笹谷、彼と知り合いだったの?」
「そういうわけじゃ…。昨日初めて話した。ちょっとだけ」
ふぇーすごいじゃん、と天を仰ぐクラ子。てか、お前は興奮しすぎだ。普段のおっとり大人びたクールさが台無し、まじで。
これまで表に出してなかったからごまかされてただけで、この子はかなり洒落にならないイケメン好きなんだと今回のこれでばれた。まあ、こういう笑えるギャップは嫌いじゃないが。
それに外見の高いレベルを厳しく求められるのはおそらく男にだけだろうし。女友達は審査対象から除外されるんなら別にこっちに実害もないし…とやけにテンションの上がってる彼女を内心面白がって呑気に眺めてると、横からそっとたまちゃんが近づいて、遠慮がちに口を挟んできた。
「笹谷ちゃん。…えーと、さっきのあの男の子とデートするの?それって、彼は何も言わない?大丈夫なのかな。…その、吉村くんに。ちゃんとそのこと断らないでも」
「何でよ」
さっきもはっきり言ったけど、あいつはわたしの彼氏でも何でもないんですけど。
「わざわざ今日、こういう人と会う約束したんですけど…なんて連絡入れたら何で俺にそんな報告すんの?って不審に思われちゃうよ。ああでも、あいつは性格いいからな。いちいち知らせてくんなよ面倒くさいなぁとか思わずに、そっかよかったな。楽しんでおいでよって普通に返信してきそう。でもそもそも、周りに言いふらすようなことでも何でもないと思う。ちょっとした経緯でそのお礼を、っていう意図らしいし…」
「お礼にデート?やったね笹谷。何したかわかんないけど、めちゃくちゃラッキーじゃん」
これはクラ子。瞳をきらきらさせて身を乗り出してくる。しかしほんとぶれないな、この子。
「デートとかにはならないよ。そういう風には言われてないし…。何だか知らんけど謝礼の品を渡そうってだけじゃないの。あんまり時間かかるならそれは断るわ。面倒くさいお礼なら受けるか受けないかはこっちが決めても構わないでしょ。選択権あるだろうし」
…そう。そうなんだよな。
ゆっくりと話しながら考えをまとめてる間に、少しずつだけどわたしの気持ちも落ち着いてきた。
想定外の出来事に怯んで向こうのペースに巻き込まれてしまったのは思い返すに無念だが。そもそも、先方のやり方にこっちが無理に合わせるようなことでもないんだよね。
「多分そんなに時間かけないで終わらせてくれるだろうとは思うけど。学校から場所を移動しなきゃならないレベルの内容なら穏便に、ただ丁重にお断りすれば済むかな…。そこまでしていただくほどのことはしてないし。なんか奢るとかだと正直大袈裟すぎるな。チ◯ルチョコ一個とかならともかく」
一体あいつに何したんだよササにゃん。と焦れったそうに傍から口を挟んできたユラの呟きは、昂ったクラ子の声にかき消された。
「ええ断るの、勿体ないよ!笹谷はそういうの鈍いからそりゃ知らないだろうけどさ。名越ってうちの学年の中でも突出してめちゃくちゃ有名だよ。なんか、結構いいお家のご子息でお育ちも大変よろしいらしいし。あの振る舞いといい表情といい、物腰に表れてるでしょ。何とも言えない余裕と心のゆとりが…」
「まあ。それはわからなくもないけど」
それで興奮するポイントがよくわからん。まさかお金持ちで金銭的に困ってないはずだから遠慮せずにがんがんいいもの食わせてもらえってこと?理屈としてはそれほど無理くりでもなくてむしろ正しいような気もするが。
と、小声で独りごちたわたしに不満そうにぶんぶんと首を横に振ってみせ、クラ子はやたらな早口で上から畳みかけてきた。
「いやそういう、…得とか損とかの話じゃないのよ。彼が本当にお金持ちかどうかは知らないよ?家柄良くても暮らしぶりは普通って家庭もあるでしょ、だいいちうちって公立だし。でもそんなの些細なことだと思う。けど名越って確か頭もいいんだ。前期の期末で学内10番以内って噂だよ。あの顔とスタイルで成績も優秀なんて、すごくない?」
それ言ったらわたしも一応10番代だよ…。
まあ見た目と身長のスペックが違うでしょ!と正面切って反論されたら何も言い返せないが。一桁順位と20番以内とじゃ越えられない壁がある、って主張されたらそうかな…、そうかも。とならなくはないし。
当惑気味なわたしに構わず、クラ子はうっとりと宙に視線を彷徨わせて熱に浮かされたような調子で独白を続ける。
「それだけじゃないよ、聞いて驚け。聞くところによればスポーツ何でもひと通りそつなくこなすし音感もあってピアノもご堪能なんだって。文化祭のときには軽音部の一年の新人バンドの助っ人でさっと入ってキーボードを担当したらしいよ。そこでコーラスも披露したんだけど、それがまた。透明感のある中性的なきれいな声で…」
「なんで全部伝聞なのよ。あんた、実際にそのステージ自分の目で見てないの」
「だって。夏休み前にはまだ全学年のめぼしいイケメン、ひと通りチェック済んでなかったんだもん」
ユラの突っ込みに口を尖らせて言い返すクラ子。いや学校に何しに来たんだか、本当にもう。
彼女はわたしの前の机に手をついて真剣な顔つきでずい、と上体を寄せてきてさらに言い立てた。
「とにかく、何もかもが平然と水準以上。っていうハイスペックぶりなわけなんだよ。顔だけならともかくそこまで全てがレベルに達してる男ってそうそういないから。何だか知らないけどたまたま接点ができたっていうんなら是非、繋ぎ作っておくべき。隣のクラスだからって仲良くなれるチャンスなんて、まず滅多にないんだから」
みんな密かに狙ってんだよ!と力を込めて念押しされる。いや、そりゃあんただけだよ。
「密かにも何も、わたしはあの人の存在自体昨日知ったばっかりだから…。みんなは大袈裟でしょ。ここにいる面子の中でもクラ子だけじゃないの、もともとあの人認識してたの。いくら目立ってるからって隣のクラスの男までいちいち覚えてられるかって言えば正直」
そこまで言ってぐるりとその場を見回し、ちょっと言葉を失った。…ユラとたまちゃんまでやや気まずそうに曖昧な視線をこっちに向けてるじゃないですか。
やがてユラがぽつりと、忌憚のない意見を口にした。
「いや別に、学年のイケメンコレクションに関心はないけどさ。そういう問題じゃなく名越って普通に自然と目立つよ…。特に覚えようとしなくても目に入るじゃん。単にあんたが周囲の他人に興味なさ過ぎなだけでは」
正面きって否定しづらいことを言われてうっと言葉に詰まってるわたしに、不意にぱっと明るくなった顔を向けてたまちゃんが浮き浮きと声をかける。
「…あ、でも。笹谷ちゃんはしょうがないと思うよ。だってずっと幼馴染み一筋ってことでしょ。だからどんなにきらきらと目立ってるイケメンだろうがハイスペック完璧男だろうが、そんなのは視界にも入らなかっただけだよ。そう考えると改めて純愛だよね。…ねえ、やっぱり。あの人とのデートは吉村くんのこと考えたら、ちゃんとはっきり断った方がよくない?」
ぐだぐだと理屈を捏ねはしたけど、さすがに実際に放課後教室の前まで迎えに来られたら。無視もできないし微妙な顔つきになりつつも出て行かざるを得ない。
教室の入り口に固まってそわそわとこっちを伺ってる友達の視線をちくちくと感じつつ(同時に、通りがかりの他クラスの同級生たちがおや?と振り向いては二度見しているのを目の端で察しながら)、実に機嫌良さげな様子でにこやかに立っている彼の方へと気の進まない足取りで渋々と近寄った。
「お。…来たね、よろしく」
「は。…いえあの。これって結構時間かかります?」
それでもなるべく失礼にならないように、不満そうな響きや不審感が滲まないフラットな口調を心がける。
わたしが面倒だなぁと思ってるだけで、そもそもちょっとした便宜に対して律儀にお礼をと申し出てくれてるのはあくまでも無私の好意からに過ぎないだろう(変な意味じゃなく)。
そう考えるとあまり無碍に扱うのはよくない。お気持ちは嬉しいです、という部分は強調して伝えて穏便に済ませたいところ。
だから、時間かかるんじゃかえって迷惑なのよね。みたいに暗に匂わせてると受け止められないよう極力穏やかに、単にこのあとの予定に差し支えないかどうか確認してるだけと受け取ってもらえれば。と考えて普段よりだいぶ柔らかめの調子で問いかけた。
思えば今後この人と関わりが続く可能性はそんなにないわけだし、これを機会に向こうから嫌われたり悪い印象が残ったとしてもあと二年半の高校生活、さしたるダメージは受けないはずだ。
冷静に判断すればそう切り捨てて割り切ってもいいだろうにやっぱり、毒にも薬にもならない程度の無味無臭の存在として認識してほしい。
まあこれは彼に限らず誰が相手でもこうなるけど。下手にマイナスイメージを周囲に撒き散らして地雷をうっかり踏みたくない。残りの高校生活、何も起こらなくていいからただ無難に平穏に過ごしたいってだけなんだ。
そんなちびりで小心な精神のありようがわたしに自己主張の少ない受け身の振る舞いを選択させた。そうじゃなかったらどういう結果になったのか?…ってあとから考えないこともなかったけど。
まあ、いうほどその後の成り行きは変わらなかったような気もする。ここで名越の誘いをきっぱり断ってたとしても、どうせそれっきりでこの話の流れが止まるようなことにはならなかっただろうから。
目の前に立つ彼はにっこり笑って(この時点ではこの人が『名越』っていう名前の特定の個人だっていう認識がまだほとんどなかった。ただやけに距離を詰めてくる得体のしれない、なるべく関わりたくない隣のクラスの子ってだけ)、まるでいらついたり不快感を覚えることなど金輪際ない人間って態度で実に人当たりよく受け応えた。
「やっぱり今日何か予定あった?そしたら、その前に終わるようにするよ」
「予定っていうか。…親から頼まれてる家事があるので、あまり遅くはなれないなって。母が働いてるので夕食の支度とか…」
これはちょっと盛ってる。うちの母は小まめな人で、帰って来たわたしに頼むのは基本的にご飯を炊くことと味噌汁かスープを作ることくらい。
メインは事前に作っておくか、それが間に合わなければ自分で帰り際に買ってくる。だからそんなに急いで一刻も早く帰宅しなきゃいけないってほどの仕事量はない。
けどまあ、それを馬鹿正直に打ち明けなければ何とかこれで通るだろ。働いてる親の代わりに平日は夕食を全部一人で作る感心な高校生だって、別に世間ではそれほどもの珍しくはないんだろうしさ。わたしにはそりゃとてもそこまでは無理だけど、そういう有能で働き者な出来るやつがうちの高校に一人もいないだろ。ってほど稀な存在ではなさそう。
案の定、彼はさほど疑う様子もなくその言葉をあっさりと信じた。
「なるほど、了解。そしたら手早く済まそうか。ま、そんなに長くはかからないよ。今日のところはね」
そこで踵を返してじゃあこっち、ついて来て。と言うなりすたすたと階段の方へと歩いていく。
すらりと長い脚を交互にさっさと動かして進む彼は、悪気はないんだろうけど歩くスピードが半端ない。コンパスの長さで圧倒的に劣るわたしはそれ以上差を広げられるのを恐れて慌てて小走りになってそのあとを追った。
手早く済まそう、ってこっちはまだともかくお礼をしようって側がさらっと言うセリフではないよな。面倒くさいから手短にね。とか言いながらお礼されても、本当に感謝してるのかこの人?ってなりかねないが…。あ、用事があるから早くしてって仄めかしたのはこっちか。それにしても、言い方。
軽い身のこなしとフットワークですっすっとごった返してる放課後の廊下を進み(そしてすれ違う人たちがちら、と時折彼とその後ろをついて行くわたしに目をやる)、階段を降りて二階に。それから渡り廊下へ向かってどうやら西棟へと赴くつもりのようだ。
それを察して、ちょこちょこと急ぎ足で背中を追いながらややほっとする。
昇降口の方向じゃないということは、お礼を外でってつもりじゃなさそう。一緒にどこかお店に入って何かご馳走してもらうという可能性は消えた。
この人の方はそんな気なくとも、二人でその辺のファストフードかファミレスでも向かい合って座ってる現場を同級生に見られたりとかして、余計な注目を集める羽目にならなくてよかった。
ずらりと女の子たちに囲まれて、あんたみたいなちんちくりんの地味子が彼の視界に入れるとでも思ってんの?とか責め立てられることもないだろう。てか、そんなことするモブキャラ、ひと昔前の少女漫画的概念でしか知らないが。
クラ子やユラの反応的にこの男の子が学年でも一際目立ってるイケメンであるのは事実なんだろうけど。だからといって、今どき一人の同級生の男に大勢のファンがついて足を引っ張りあってるなんてマンガみたいな展開あるのか?芸能人でも何でもない、所詮自分と同じ高校生でしかないし。同じ高校に入れるんだから頭脳の出来の違いだって正直誤差でしょ。
うちの高校に入ってまだ半年に満たないが、民度は低くないって感覚だから多少イケメンと出歩いたくらいで爪弾きにされるほど阿呆ばっかりではないと思う。けどそれはそれとして、無駄に悪目立ちはしたくないのだ。
それにわざわざ外でお茶や食事するとなると結局時間かかるからな…。校内で用事が済むならそれに越したことない。
だがしかし。
西棟の二階。…なにがあったっけ?こっち側。
わたしは普段用がないから、これまで滅多に来たことのないエリアだ。普通教室じゃなくて教科別の特殊教室がある棟だけど。科学室とか、音楽室とか。
確か音楽室が四階で科学室が一階だったはず。二階って何だっけな。…わたしがこれまであんまり縁がなかった教科って、何だ?
それとも。わたしが知らないだけでこの辺りに部活の部室とか集まっているのかも。この人って何かの部に所属しているのかな。そういえばさっき昼休みのとき、わたしの友達の誰かが何か言ってたような。…ピアノがどうとか、キーボードがどうとか。
「…軽音部に入ってるんでしたっけ?」
ちょっとさっきより遠ざかったように思える背中に対してそう声をかけると、自分で思ってたより息が上がっててびっくりした。
彼もわたしの問いかけが息切れ混じりなことに気づいたらしい。振り向いてこっちがやや遅れ気味になってるのをようやく見てとって、足取りをスローペースに落とす。
「軽音?…ああ、そっか。前期に文化祭で出演したから…。あれは一応、友達に頼まれての助っ人だよ。キーボードのパートがある曲を演りたいけど、軽音部の一年でピアノ弾けるやつ少ないらしくて、急遽頼まれたんだ」
なるほど。ありそう。
西棟の廊下をゆっくり速度を落として進みながら、こっちの歩みに気を配りつつ彼は気軽な雑談。といった調子で話を続けた。
「そんなのよく知ってるね。友達のバンドは一年だから顔見せ程度で披露したのは一曲だけだったから、一瞬で出番終わったのに。周りにもいちいち出るよって知らせて回らなかったんで、見てるやつあんまりいないと思ってたんだけどな」
もちろんわたしも見てない。
「さっきわたしの友達が。…ああ、でも。彼女も当日のステージは見てなかったみたい。あとから噂で聞いたって。教えてくれて…」
「へえ、それでも知ってるのすごいな。それっきりでその後もバンドに参加してるわけじゃないのに。まあ今度やる新人お披露目ライブに誘われてはいるけど。練習めんどいからな…」
「正式な部員ではないんですね」
「全然。…まあ、入部しても別に構わないんだけどね。うちの高校兼部はオッケーだから」
彼はまるで周囲を確認することもせず、迷いのない歩調で前へと進んでいく。普段から行き慣れてるルートを歩いてるから目当ての場所が何処か、いちいち周りに視線を向けて確認する必要がないらしい。
「けどなぁ。一時的に助っ人になるたびにいちいち部活入ってたらいくつ兼部になるかわかんないし。夏にはテニス部の大会にも出たんだよね。うちの運動部、あんまり層厚くないじゃん。新人戦の面子足りないからって。2回戦で負けちゃったんだけどさ、ほとんど練習出来てなくて」
「はあ」
つまり、ほぼノー練習のぶっつけ本番でも一回戦突破できる程度にはテニスも嗜んでいらっしゃる、と。自慢か。
器用貧乏というワードが脳裏でちかちか閃く。絶対口にはできないし、何やってもそれなりにこなせるのは全然悪いことじゃない。だからあえてそんな表現を使うのは悪意しかないと思われても仕方ないから。
…ん、でも。
「軽音は正式な部員じゃなくて、テニス部も助っ人なんですね。どっちかは別に、籍をおいてもいいのでは。…話を聞いてると一回限りで終わらなさそうだし。そりゃ真面目に練習に出るのはだるいし、必要のあるときだけ顔を出す方が楽そうですけど。どうせどこにも所属してないなら…」
むしろ、半分幽霊部員だとしても一応自分は軽音部なんです。とかあんまり練習行ってないけどテニス部ですとか、人に言えるだけいいと思うな。
わたしも放課後は自由に過ごしたい、何かに縛られたくないってだけの理由で入学してからずっと帰宅部だけど。高校で何にも入ってないの?って微妙な顔されるたびにめんどくさいなと感じることがある。
名義だけ置かせてもらって全く関わらなくていい、何もしなくていい部活があれば名目が立つのになぁと思ったりして。まあでも、結局は全然顔出さなくてよくて誰とも関わりを持たず、何の貢献もしなくても存在が許される部なんてなさそうだから。このまま帰宅部で三年間行くしかないかと考えてる。高校受験と違って大学は内申とか関係ないでも行けるわけだし。
そう思って、余計なお世話と思いつつも適当に頭に浮かんだことをそのまま口にした。すると彼はふと足を停め、くるりと身体を横向きにしてちょっと驚いたように目を見開いてこっちを見やる。
「え、どこにも所属してないわけじゃないよ。てか、そうか。さっきから何処に向かってるかもしかして全然わかってなかった?俺、君に説明とかしてなかったんだっけ?」
いえ全く。
わたしのぼけっとした顔つきの何が面白かったのか。彼は有象無象の若手俳優みたいな(言い方。でも、わたしはその手の人たちに対しての知識とか何もないから。つまりは漠然としたイメージってこと)爽やかな顔立ちをふと弾けるように破顔した。
「え。そしたら何も知らないまま大人しくついて来たの?笹谷さんって見た目より変わってるね。深い知り合いでもないのに、何の説明もなく引っ張られて行くの、普通はもっと警戒しない?この辺、放課後は静かで一見人けも全然ないのに」
それはそう。
さっきから聴こえる物音と言えば、階段を通って伝わってくる上の階の吹奏楽部と軽音部が練習してる遠い音ばかり。西棟はグラウンドからは離れてるから、運動部の立てる音はここまで響かない。ずっと歩いて来る間、この棟に入ってからはほとんど誰ともすれ違わないし。
でも。
「校内だし。さすがに同級生といて怖いとか不安とかはないです。すぐ終わることみたいだし、多少人通りのないところとはいえ。職員室からめちゃくちゃ遠いってほどでもないし」
本当のところは警戒する気があんまり起きないのはイケメンだから。顔がいいから何しても許されるって意味では当然ない。
こんだけ見た目がよくてハイスペックらしくて、異性がいくらでもよって来そうな男の子が何もわたしを相手にする必要なんかないだろう。それに、見るからに絶対ナルシストだし。不本意な女子に無理やり何かするなんてかっこ悪いこと、おそらく彼自身のプライドが許しそうにない。
そういうことをする自分なんて考えるだに受け入れなさそうだ。こちらとしても彼のこの余裕綽々な態度が切羽詰まって崩れる場面はちょっと想像しかねるし。
わたしが肩をすくめて返したその台詞を聞いて、彼はこだわりなくあははと声を出して笑った。どうやら本気で自分が女の子に警戒されるかも、とまではかけらも思ってはいない様子。
「まあもちろん、俺もほぼ初めてちゃんと喋る相手に非常識な振る舞いとかする気完全にないけどね。だからそういう心配は無用だけど」
ほぼ初対面、って認識はちゃんとあるんだ…。昨日からちょっと距離感おかしいから、もしかしたらわたしがけろっと忘れてるだけで以前に何か関わりがあったのかな、と密かに不安に思ってなくもなかった。
単に極端に気さくで馴れ馴れしい人なだけだった。
「それはそれとして、今どきの常識としては関係の浅い相手と二人きりになるときは警戒を怠らないのが普通かなと。俺に対してはそういう用心必要ないけど、他の男とのときは一応気をつけた方がいいかもよ。…もっともこの辺が静かなのは人が全然いないからじゃない。だから、実は俺たち二人きりじゃ多分ないと思う。そういう意味でも心配は無用かなと。…よっ、と」
そう言うなり、真横のドアに手をかけて立て付けの悪そうな扉を少し持ち上げてがたがたいわせながら押した。
どうやらそこで立ち止まったのは話の流れのせいなんかじゃなくて、その部屋がそもそもの目的地だったらしい。わたしは慌ててぐるりと周囲を見回した。
薄暗い廊下の壁にずらっと並ぶのは色鮮やかな絵画の数々。
彼がドアを開けようとしてる教室側の壁にはおそらく学校の構内の風景を描いた写生画がいくつか。そして反対側の壁に並ぶのはカラフルな抽象画っぽい。ぱっと見目に入って来たタイトルは文学作品の題名だったから、読んだ本のイメージを自由に描くとかそういうお題かな。
ここから遠いけどそのさらに奥に、プリントされた小さめの画像がずらりとピンで留めて貼られている。何となくだけどあれは写真のような気がする。
ちらりと目の端に入った手前の絵に付けられた名札に書かれた『美術選択2年Bコース』の文字。うん、やっぱりね。
ここ、美術室だ。
ようやくがらりと大きな音を立てて開いた扉。中には木製のしっかりずっしりした大きな机が間隔を空けて並び、窓際の前と後ろに離れてる別々のそれにぽつぽつと座ってる男子と女子が音につられてか、てんでんにに目を上げて一瞬だけこっちを見た。
けど、まるで自分に関係も興味もないものだ。と見てとった途端に視線を外して思い思いの作業に戻る。
女子の方は布地を張ったキャンバスに、男子の方は手許のスケッチブックに再び筆と鉛筆を走らせて。
わたしを連れて来たその彼は、二人には視線も向けず声もかけなかった。
用事があったのはその人たちにではないらしい。わたしを手招きし、教室の中に呼び込むと決して大きくはないけどどこか浮かれて弾んだような、楽しげな声で悪戯っぽく宣言する。
「そういえば笹谷さんて美術選択してないんだっけ。だとしたら多分ここ来るの、ほとんど初めてだよね。…ようこそ。◯◯高校美術部へ」
《第3章へ続く》
芸術科目は選択制の高校が一般に多いと思いますが、ここの学校も音楽と美術と書道の中から一つ選べるシステムです。自分がそうだったんですが、入学前の合格者説明会で美術選択者が多くてクラスが組めないので移ってもいいと思う人は手を挙げて、と言われて居残りさせられました。この話の主人公と違い、絶対に音楽も書道もやりたくない!と意固地に最後まで頑張り抜いて美術選択を勝ち取った、そんな若き日の思い出。