表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/30

第19章 理解ある彼氏≠ストーカー

『T美大』はどうしても実在する在京の美術大学を想起してしまう方もいらっしゃるかと思いますが、気のせいです(しらばっくれ)。ぶっちゃけると該当すると思われる大学については所在地と外観しか知らないので、モデルにしようがなくて。

だったら作中の表記をA美大とかB藝大とかにすりゃよかったじゃんと言われたらまあ。…そうですね。

ただ自分的に超漠然と何となく、都内のあの辺かぁ…と地理的な見当をつけて書いてるとこはある。直織の通ってる大学はこの地域、住んでるところの雰囲気はこの路線。とかね。

だけどどれもぼんやりとイメージを参考にしてるくらいで、全然『そのもの』ではないです。大学も駅も街も、現実の知ってるものをごちゃっと混ぜて割ってる感じなので。全てモデルなしでご承知おきを、ひとつよろしくです。

「…それでね。その近藤先生って人の教室でバイトさせてもらえることになったの。週に二回だし時間短いから、それだけだとちょっと足りないかなーって気もするけどね」

スマホの音声をオンにして机の上にぽんと置き、電話の向こうの相手に話しかけながらわたしは着ていたTシャツの裾を掴んで持ち上げ、勢いよく首から引っこ抜く。

当然カメラはオフ。顔見たいか見たくないかって言えば全然見たくないってことはない。でも、わざわざカメラをオンにしたら画面を固定してじっと顔向けて話さなきゃいけないような気がする。

そりゃそうだ、こうやってテーブルの上に雑に放り投げといたら天井しか映らないもん。けどそれはさすがにめんどい。

大体いちいち話すときにお互いの顔見なきゃなんないのって、ちっちゃい子どものいる単身赴任の親か孫とじじばば、あとは恋人同士くらいだろう。と考えてるから尚更、やっぱり話すときはカメラオンにしない?とかこちらから言い出す気はない。

まあどのみち夏になったら地元に帰るし。そのときには否応なく顔合わせるから別に。…と自分は思いつつ、一方でそっちはわたしの顔見たくはないのかよ。と複雑な気持ちがないでもない。我ながらその辺微妙でややこしい。

こうして話しながら気兼ねなく着替えできるのも、カメラなし通話の良さだからね。と自分に言い聞かせて、あくまでも利便性を優先させた。と納得した体でスマホ越しの吉村に向けて話の先を続ける。

「近藤先生はそっちでお世話になってた大河原先生の大学の後輩で。東京が地元だから卒業後こっちに戻ってきて会社員になってデザインの仕事してたんだって。結婚して子ども生まれたから、辞めて絵画教室を自宅で開いたらしい。美大出の女性でこういうパターン、よくあるのかもね。大河原先生もそんな感じだったし」

『なるほどね。でも、誰でもできるってわけにはいかなさそうだな。まず教室開けるような作りの自宅がないといけないし…』

吉村にもの思わしげに相槌打たれて、それはそうだな。と同意する。

「そもそも美大に進学できるお家の子って割と経済的に恵まれてる場合が多いような。娘を大学にやるならできたらもうちょっと将来安泰そうな学部の方が…って考える家庭はまあ、うちもだけど一般に結構多いんじゃないの。その点すんなり美術系を選択させてもらえる時点で、偏見かもだけど。ゆとり感じるよね」

娘じゃないけど、名越もだな。あの家は長女が経営の適性あって家業を継いでくれるって前提があってこそ、長男が自由に好きな道を選べる。っていう特殊事情ありきではあるが。

『…でも、そしたら結果的によかったな。大学生になっても絵と関係ある生活が続けられそうで。教室では多少なりとも自分の絵を描く機会はもらえそうなの?バイトの身分ではあるけど』

吉村にそう質問されて、まるで関係ないこと考えかけてたわたしはそこで我に返る。

さて、ここはどう答えるのが正解なのか。と一瞬目まぐるしく頭を働かせた。そりゃ、実際のところをそのまま答えりゃいいじゃないか。と言われれば、わたしだってそうしたいのはやまやまなんだけど…。

近藤先生はきびきびとした有能さに溢れた人で、小さな子どもに教えるよりももうちょっと歳のいった生徒に適性があるタイプ。褒めるときは明快だけど悪い点を指摘するのも容赦ない。だから、他の先生やバイトがその都度お子さんをフォローする感じ。

まあまあそのくらいでオッケー、いいよいいよすごく。けどもしもさらにもっと巧くなりたいってんなら、そうだねぇ例えばこの辺をもうちょいどうにかしていけばいいんじゃない?って感じの、割と大雑把でざっくりと肯定的な教え方の大河原先生とはまた違うタイプだ。

お絵描きをこれから好きになるかどうか、っていう小さな子にはまあともかく(そしてフォローに追われる周りのスタッフは、どんどん子ども対応のナーサリースキルが上がっていく…)、絶対上達したい!っていうモチベをしっかり持ってる生徒さんにはめちゃめちゃいい先生だと思う。だから美術系コースに進学したい中高生が熱心に足繁く通ってるイメージ。

わたしはそんなガチ勢に教えるにはさすがに力不足なんで、主に幼稚園から小学生相手のお絵描きの先生をやらせてもらってる。それは適材適所で全然構わないが。

そんな状況で甘えや融通が利く空気じゃないから、ここで空き時間に隅っこで自分の絵を描かせてください。とか言い出せる雰囲気じゃないんだよなぁ…。

でも、受験生向けじゃない社会人コースの教室もあるから。いっそそっちを申し込んで生徒になればいろいろアドバイスもらえるんじゃないの?笹谷は今、絵を客観的に指導してもらえるきちんとした場所がないんだし。不定期でも授業料払って先生に見てもらう機会作るのは無駄じゃないと思うよ、あの人教えるの上手いし。…と名越に言われてはいるので。もしかしたら思いきって、あの手厳しい先生にわたしの絵見てくださいとお願いすることもある、…かも。そのうち。

けど。今の段階でも全く自分の絵を描く場がないのかっていうと。現実の話そうじゃないわけで…。

「…バイトは小さい子に絵を描く楽しさを教える仕事だから。自分の好きな絵を自由に描く時間とかはない、…でも」

ぐるぐると考えて、結局ほんの少し未来にやろうと考えてたことをちょっと膨らませて吉村には伝えておくことにした。

「近藤先生は大河原先生とはまた違った方向に教えるの上手いから。今度バイトとは別枠で指導をお願いするつもり。高校生や社会人コースの生徒さんはキャンバスで油画描いてるからね、わたしもそれをやらせてもらいたいなと。…学生寮のこの部屋で油絵描こうと思うとだいぶ小さいサイズになっちゃうし、匂いもするから。水彩や鉛筆デッサンは部屋でも全然大丈夫なんだけどね…」

『そうか、油絵はやっぱ大変だね。寮の部屋は借り物だから汚しちゃいけないとか気も遣うし』

吉村がしみじみと共感してくれる。あんまり同情してもらうと。…正直罪悪感が。

ちくちくと良心の痛みを感じながら。わたしは上京してきてからようやく最近になって定まってきたこちらでの生活パターンを、素早く脳内でさっと思い返していた。

近藤先生んちの教室でのバイトは週二回、これはどちらかというと〇〇大学の方寄りの地点に位置するので、講義が終わったあとに自力で移動。そのくらい待っててくれたら毎回大学まで車で迎えに行くのに、と名越に言われたけどそれはさすがに断った。

「だって、あんたは教室でバイトしてるわけじゃないじゃん。わざわざうちの大学まで迎えに来て教室のある※※町まで送って行って、そのあとはどうすんの?まさかわたしが終わるまで外で待ってるつもりじゃないでしょうね」

「それはまあ。適当にその辺で時間潰してもいいし、車あるから移動できるし。何なら教室にしれっと乗り込んであんたの仕事の手伝いしてもいいよ。バイト代は要らないし、近藤先生も助かるんじゃない?無給の助手が一人増えて」

それで通ると考えてしれっと答えるあんたが怖い。しかも持ち前の他人を煙に巻くテクニックでそのくらいやりかねないところが…。わたしは頭を横に振って頑としてそれを拒んだ。

「無給で働くのはいろんな面であんまりよくないよ。お互いのためになあなあは避けて、報酬の受け渡しはきっちりした方がいいと思う。だいいち、そこまでしてもらう筋合いはない」

ぴしゃりと撥ねつけるように聞こえたんじゃ…とちょっと心配になり、名越の表情を伺うように覗き込んで声を和らげた。

「わたしがびびってたところを背中を押して、教室に連れてってくれただけでもう充分だよ。名越だって自分の時間がもっと必要でしょ。大学の講義もあるし、サークルだってわたしがいなくても行きたいときに自由に行けばいい」

「いやぁあんたの大学くらいがっちり勉強が必要ならそりゃ、そうだろうけど。うちなんか講義なんてみんなろくに出ないからな。ちゃんと期限までに課題仕上げさえすればあとはわりかし自由なんで…」

名越は珍しく当惑したように頭をかいた。そうか、なるほど。そういう認識の乖離もあるわけだな。

「美大ってそうなんだ。うちなんか、昔はもっと適当で自由だったみたいだけど。今は出欠も厳しくて駄目、太古の学園漫画みたいに代返も効かないし…」

「出欠確認が電子になった時点でまあそうなるだろ。勉強がメインの大学と創作活動が評価の対象の学校じゃ、そりゃ根本の考え方がそもそも違うよな。昔は昔でテストとレポートが良ければあとは学生生活何をやっててもいい、っていうのが一般的な大学の思想だったと思うんだけど」

こういう考察をしてるときの名越はそれなりに思慮深く見える。普段わたしの絵が絡むときに見せるぽんこつそのものの姿とはえらい違いだ。

「だからまあ、あんたはせっかくの空き時間を真っ当に自分自身の創作活動に使いなよ。絵を描く時間はいくらあっても無駄ってことないじゃん。わざわざ上京してT美に入ったのは何もわたしの使いっ走りの運転手になるためじゃないでしょうが」

ちょっと強めの表現を使ってまでして牽制してみたが。名越の根性はそのくらいじゃまるで怯まない。

「そうかなぁ。あんたの送り迎えすることだってしっかり、俺の創作の糧になってると思うんだけど。だってそもそも俺のやる気スイッチというかモチベーションは、笹谷に全てかかってるんだからさ。あんたが気持ちよく快適に、気分も乗って制作できるような環境を整えることが。引いては俺の創作意欲を高めることに…」

もう。本当にいちいち何言ってんだ、この男。まじでやんなっちゃう。

いつものことではあるので肩をすくめ、はいはい。と大して取り合わずにその与太話を軽く受け流した。

「それにしても何から何までわたしの面倒を見る必要はないでしょ。自分で出来ることは自分でやらせないと、何も一人で出来ない子になっちゃうよ。それにわたしだって都内をもっと普通に一人で電車で移動したりしたい。いつも決まった学校と寮の間の往復ってだけじゃ…」

ただでさえ、T美のミス研に顔出すときは名越に車で連れて行ってもらうことがほとんどだ。

うちの大学からだと電車で乗り換えも大変だし距離も結構あるので、もうちょっと都内の移動に慣れてくるまではしばらくこのまま頼ってもいいか…とそっちについては考えてるので。せめてバイト先との往復くらいは他人の世話にならずに自力で何とかしたい。

わたしがあくまで言い張ったので、近藤先生の教室についてはそれで通った。けどやつはそれで完全に納得して引き下がったわけではない。

「まあじゃあいいよ、教室はそれで。急ぐときや疲れてるときはすぐさま遠慮なく俺に連絡して頼ってくれさえすれば。…けどそれはそれとして。自分の絵を描くためにもっとちゃんと、うちに通わないと。こんなペースじゃいつまで経っても完成できないよ?描きかけのあの絵」

「う」

急に指摘されてこっちが怯んでしまった。…だって、ねぇ。

そこであの日、初めて名越の借りた部屋がうちの寮の超近所だと明かされたそのあとの時点へとさらに記憶は飛ぶ。

近藤先生んちに連れて行かれて初対面の挨拶を済ませて面接を受け、それから再び車に乗ってわたしの住む街へと帰った。

そこまではいつも通り。青と藤色の中間のメタリックに光る小型のワンボックスカーを停めた駐車場で降り、改めて看板を確認した。…確かに。

全体はタイムパーキングだけど、この車を入れた区画はしっかり月極だった。これまでそんなの全然気づかなかった…。

「あ、俺んちのマンションそこ」

指差されたのはパーキングのほんの目の前に建つ、一目で家賃高そ…となる壮麗な建物。

窓の数とベランダの仕切りを見るに各戸の部屋数も多そうだしどう見てもサイズ的にファミリータイプ、学生の身からするとあまりにも自分の境遇と関係なさ過ぎて視界に入らず存在を認識してない。という状態で、まさか名越がここに住んでるとは…。

いくら実家が金持ちでも一人暮らしの学生、もう少しコンパクトな物件を選択したものとばっかり。でもまあ、アトリエにする部屋を確保するためと考えたら。一区画がこのくらいの広さないといけないのか。

その日はじゃあせっかくだから、今日は見学だけでも…とごり押しされて部屋に連れて行かれて新築ぴっかぴかのやつの居室を見せられた。わたしの寮の個室が四個くらいは軽くすっぽり入りそう。

「ほらほらここが、あんたと俺の共同のアトリエ。画材やキャンバスもひと通り全部用意してあるから。いつでも描き始められるよ」

大きな窓から街の風景が望める(階数が上の方なので。そうは言ってもこの辺りは比較的低層マンションが多く、この建物も12階建てだ。それでも周りにここより高く視界を妨げるものがないので、綺麗に夜景が見渡せた)広々とした一室を誇らしげにわたしに見せる名越。

「何なら今日、少し描いていく?いくつか布張っておいたキャンバスあるから、好きなの使っていいよ。大きいのも小さいサイズも、すぐに取りかかれるように複数用意しといた」

まさに至れり尽せり。ほら見てよ、と真っ白なキャンバスや絵の具や筆を出してきてそこらじゅうにうきうきと広げる名越の勢いにわたしは思わず引き引きだ。

「うん、…いやあの、いきなりだし。正直今日、こういうことになるとは思ってもみなかったんで…。描くんならちゃんと構想を練らないと。そのままぶっつけキャンバスに本チャン描くのは無理だよ」

「あーまあ、そうかぁ。それはそうだよね」

思ったよりあっさり引き下がってくれて、その場は助かった。

超久々にあんたの新しい絵見られるかもと思ってテンション上がりすぎて先走っちゃった。そしたらまずはこっちか、となどとぶつぶつ独りごちながら名越は壁際の引き出しから一冊スケッチブックを取り出してきてわたしに手渡す。

「そしたら、これ渡しとく。何描くか考えて決めといて。あ、何なら今日ここでスケッチいくつか仕上げとく?泊まってってもいいんだよ、あんたの分の布団ちゃんと新品で用意してそこに入ってるし」

一見壁と同化してる一角を指差す。いやいや本当まじで何言ってんのこいつ。

「いや普通に考えておかしいでしょそれは…。何で一人暮らしのあんたの部屋にわたしが泊まらにゃならんのか」

名越は実にむかつくほど無邪気に、わけがわからない。とばかりにぽかんとした表情を見せた。

「へ?でも、別にあんたが嫌なら何もしないし。てかさ、正直なところ笹谷も。俺があんたに何かするとは本心では思ってはいないんでしょ?」

「まあ。…そうだね、それは」

認めるのは癪だが。わたしは思いきり唇の端を曲げてしぶしぶと答えた。

こいつがわたしに性的な関心があるとは思えないし、誰でもいいからというくらい切羽詰まった欲求をため込んでるはずもない。頭や理屈でそう考えてるというより、ずっとそばにいる人間の実感として。

名越に限って、わたしに危害を加えることはないだろう。ちょっとでも態度に不自然な違和感や表面上のごまかしがあればそれはこれまでの間にとっくに伝わってると思う。

こちとら、こいつに対して特に幻想あるとか過大評価してたりは全然ないので。上振れのない真っさらな感覚で客観的に見ても文句の付けようがないくらい、名越かがわたしに向けてる感情は裏心なくクリーンな感じがする。

考えてみればそれはそうで、このわたしの心身を損壊してしまえばやつが心の底から求めてる新作の絵画は今後望めなくなるわけだから。そんな、金の鵞鳥を徒に絞め殺すような真似がこいつに出来るわけなんかないのだ。

そう思えば名越はわたしにとってほぼ世界で一番安全な男だと言えるだろう。それを肌で感じ取っているからこそ、一人暮らしの部屋に来ないか?と言われても何の危機感もなく、こうしてのこのことついて来られたわけだ。

「…あんたを疑うとか怖いとかは正直全然ないけど。それはそれとして、異性の友達の部屋に夜泊まることについて世間でどう思われるか…って部分には普通に気を回すべきだと思う。わたしたちだけが間違いがないと承知してりゃいいってもんでもないんじゃない?」

と、良識ある若い女として噛んで含めるように丁寧に言い聞かせたが。割とプラグマティックなところのある名越には、そんな理屈はどうやらぴんと来ないらしい。

「そんな、存在してるかどうかもわかんない架空の世間なんか気にしても仕方なくない?ここは東京だよ。俺とあんたのことなんか、周りの誰も見てもいないし気に留めてないよ。笹谷が俺を信じられるならそれでいいと思うけど」

「それはまあ。…そういう面では。信じられない要素は全くと言っていいほどないよ」

問題があるとすればむしろそれ以外の面だと思う。それならおそらく、山ほどいろいろある。

わたしが内心で付け加えたそんな突っ込みに気づいた風もなく、やつはその言葉のみを受け取って心から嬉しそうににっこりと笑みを浮かべた。

「よかった。なら、何の問題もないね。そしたら俺、とりあえずお茶でも淹れてくるよ。今日即制作に取りかかるかどうかはともかく、ひと息入れない?帰るんならちゃんと寮まで送っていくしさ。いろいろあって疲れただろうし、ゆっくりしていきなよ」

紅茶でいいかな?とわたしに尋ねる声は既にアトリエの入り口をすり抜けて、早くもキッチンの方へと向かっている。

いや、お構いなく。とその背中に声をかけたけどやつは聞いちゃいない。いいから、座ってて。とさらに遠ざかる声が飛んできた。

一体どれだけ広いんだ、この居室。とため息をついて、ひとまずアトリエの中のあちこちに置かれたインテリアの一種としか思えないハイセンスなデザインの椅子のひとつに腰かける。

それから窓の下に広がる駅前通り沿いの店舗の明かりと、その奥に広がる住宅街に灯る夜の光のきらめきを眺めながら。

…これから本格的に東京での学生生活が始まるんだな。早くもいろいろと想定と違う件がいくつも出てきてしまってるけど、どうなることやら。と広々とした部屋の空気をほんの少しも動かせない程度の追加のため息をそこでもうひとつ吐き出した。


というわけで、この東京で制作するための場所はそんな成り行きで一応確保はできたわけなのだが。

あいにくわたしの常識というか染みついたなけなしの節度が邪魔をして、友人の家に合鍵でいつでも勝手にお邪魔する。というねじの外れたムーブができない。ていうか抵抗がある、どうしても。

事前に約束を入れてか、もっと言えば向こうから今日おいでよ。とはっきり口に出して招かれでもしないと。こっちから今都合がいいんだけど…とかたまたま時間が空いたから、とか図々しく切り出すのかと思うとやはり怖気付くし億劫になって、やっぱり去年はやめとくか…とやる気が萎んでしまう。

考えてみればそりゃそうで、この歳になるまで先方の都合も考えずに自分の独断でいきなりよそのお宅に押しかけてはいけないっていう躾を受けて育ってきたわけだから。

自分ちと思って俺がいないときでも勝手に入って使ってていいよー、とか急に言われても。まず躊躇とか怯みが先に立つ。例え相手が名越でもだ。

あいつに限って、わたしが言われた通りに出入り自由でアトリエを使ったとしても。

『…遠慮なくとは確かに言ったけど本当に遠慮しないんだな。あんなの社交辞令だって普通わかるじゃん、近くに来たらいつでも遊びに来てね。って言うのと同じで決まり文句みたいなもんだから。まさか本気にするとは思わなかった、こんな常識ないやつ現実にいるんだな…』

とかは絶対に考えないし。そのせいでわたしを軽蔑したり嫌いになったりもしないと思う。特にめちゃくちゃ嫌われたくないってわけでもないけれど。

でも、それは重々承知の上でもやはり他人んちに気楽に自分の家みたいに出入りはできない。十八年間親から受けてきた躾ってなかなか根深い、拭えないもんなんだなぁと感心する。今でも部屋の敷居とか踏めないし、爪を夜に切るのも躊躇しちゃうときあるし。

だから結局、建前上自由に使えるアトリエがあっても実際にはわたしはそれを充分使いこなせてない。

もうすぐこっちに来て一ヶ月経つけど、実は直に誘われて向こうの家に連れて行かれたとき以外は描きかけの作品に手をつけられていなくて。ほとんど進んでいないのが現状だ。

まあ、わたしの本領はそっちじゃないので。大学入学以来一作も完成していなくても、誰かに責められるいわれはない。

もちろん名越のやつは顔を合わせるたびにぶうぶう文句言うけど。それはやつの個人的な不満に過ぎないし、誰に不義理を働いてもいない。

四年間の大学生活を無事に完遂するためにわたしに必要なのは本業の勉強であって。絵は余暇に少しでも描けたらいいな、っていうくらいの比重に過ぎなかったはず。

だからまあ、今ひとつ進んでいないことをそこまで後ろめたく思う必要もないのだが。

「そうだね。…うーん、まあ。一度本気の絵を描き上げてみて、それを今のバイト先の教室の先生に見てもらって。実力を認めてもらえたら自分も弟子入りして、ときどき生徒として講評してもらうっていうサイクルができるようになれば、も少し絵を描く機会も増えるとは思うんだけど。とにかく最初の一枚がね、なかなか進まなくて…」

そう、問題はそこ。

つまりわたしが名越の部屋のアトリエを躊躇なく自分のものみたいに使いこなせれば、それはそれでいいんだが。どうやら男友達(気が置けない間柄だとしても。てか女友達でも、本人がいないときに勝手に立ち入るのは嫌だなぁ…)の部屋を自分ちみたいにはどうしても使えそうにない、というのがはっきりわかったので。できれば他にもっと落ち着いて描ける場所を確保したい。

考えてみてもそれは近藤先生の教室しかないんだが。まだ初対面から間もなく、しかも比較的手厳しいあの方が学生バイト(しかも、美大生ですらない)にわざわざ描くスペースと教える時間を割いてなどくれるものだろうか。

ただの普通大学の学生であるわたしを採用してくれたということは、肩書きじゃなくてある程度描けるやつだと判断してくれではいるんだろう。名越は前もってわたしの作品の写真を彼女に送っておいてくれたようだし、おそらくは大河原先生からの推薦もあったはず。

だけどバイトとして接する中で、あなたの作品はこうだねとか、今も描き続けてるのかとか。わたしの画業についての話を振ってくることは全くないので、おそらくは彼女本人の基準上では大して評価してる、というほどでもないのだろう。

そう思うと、バイトとは別に月謝を払ってでも指導を受けたいです。とか申し出る勇気も萎む。え、わざわざそんなことに時間を割くの?美大にも進まなかったのに、今から巧くなってどうするの?とずけずけとストレートに言われたら。…やっぱ凹むよなぁ。

だからせめて、自分の言うことに説得力を持たせるためにも。今現在のわたしの精一杯の力で描いた作品を持参して、こういう現状なんですけどもっとよい絵を描くためにはなにが必要でしょうか?よかったらアドバイス頂けませんか、と持ちかける方がこちらの本気が伝わる気がして。

ああ美大には進めなかったけど何とかしてこれからも描き続けたいんだなぁ、箸にも棒にも引っかからない絵だけど少なくともやる気はあるんだ。…という風に納得してもらえないかな。難しいか。

それでも手ぶらでのこのこ行くよりは話も切り出しやすいだろう。という理由で、小さくてもいいから何かしら渾身の作品を。…と考えて、名越の家のアトリエで描き始めてはいるんだけど。いかんせん通う頻度がなかなか、ねぇ…。

つまりはわたしの現状はこうだ。描く場所は与えられたけど、気後れと面倒くささでなるべくそこは使いたくない。友達と馴れ合いでべったりになるよりも、厳しい先生にきちんと月謝を払ってでも正式に師事して、そこで牛歩ながらもちみちみと定期的に作品を完成させていく方がいい。

だけど近藤先生に正式に弟子として認めてもらうためには、今もやる気があってそれなりに見どころがあると認めてもらわないと。これならわざわざ時間を割いてまで教える意味があるな。と思ってもらえるようなぴちぴち撮れたての活きのいい作品を完成させなきゃ。

しかしそのためには名越のアトリエへ足繁く通う必要が。…というように、結局同じところをぐるぐる回って出だしに戻っているのだ。故に、なかなか話が進まないでいる。ただでさえ新入生にとっての四月は何もかもが未体験で勝手がわからなくてばたばたしてるっていうのに。

『…そうかぁ。大変だね、大学の勉強と絵を両立させるのも』

今までの絵画教室ではバイトじゃなくて生徒だったし、美術部に属してもいたもんな。とスマホの向こうで吉村があのおっとりとした喋り方でわたしを労ってくれる。

『そう考えると描く場所がないって結構難しい問題だよね。自分ちなら最悪、多少絵の具ついて汚してもまあ…ってなるけど。学生寮はその辺厳しそうだもんな。隣の部屋とか廊下まで油絵の具の匂いするとか苦情も来るかもしれないし』

「そうかぁ、やっぱりそうだよね。描かない人からするとあの匂い、結構気になるしきついもんな」

と、美術系じゃない人からの率直な感想にしゅんとなる。あれが気にならないの、わたしたち描く側の人間が慣れちゃって鼻が利かなくなってるだけだよね。

自分の言ったことでわたしがしょげた、と察した吉村が慌ててフォローしてくれる。

『いや、あれはあれで。芸術!って感じがしていいものだと思うよ、俺も美術室とかの匂いって好きだし。てかそんなに気になるんならさ。いっそ最初に先生に見せるのは必ずしも油絵じゃなくてもいいんじゃないの?水彩画とかでもいいじゃん。直織のあの絵、俺好きだったよ。美術部の夏合宿のスケッチのやつ…』

「ああ。野草のアップメインの、総ピンのやつ』

二人展のときに名越のとセットで展示されてた夏合宿の絵だ。確かにあれって水彩だったな。わたしも実は割と気に入ってる。

『ソウピン?』

無邪気な声できょとんと繰り返す吉村。わけのわからない表情を使ってしまった。わたしは首をすくめてその単語を軽く脇に寄せて片付けた。

「あんま気にしないで。多分正式な用語じゃない、手前のものとバックと、別々に焦点が合ってて全部がくっきり見えるのを昔、本でそう表現してた気が…。確か映画の技法の話だったかな。よそで通じない用語だから、覚えてても役には立たない。忘れて」

『いや、なるほどね。用語はともかくそういう風に言われたらそうだな。あの絵、そんな感じだったよ。あれは意識してやってるんだろ?』

「うん。頭の中でイメージしたのをどの程度再現出来るかなと思って。試してみたのがあの絵」

わたしの説明でどの程度伝わったかは不明だが。吉村はそれでも大袈裟なくらい感心してくれた。

『ふぅん、やっぱり描くときはすごくいろいろと深く考えてるんだな。あの絵はさ、いつもの直織の空想した世界の絵だなと思ってそのつもりで鑑賞してて。あとで冷静に考えてみたら非現実的な要素が一個もなくてああ、写実画だ。って気づいて不思議な感覚に陥ったな。現実をそのまま描いてるはずなのに、あまりにも直織の世界!って感じがして』

思い返すような口調で楽しげにそう説明する吉村。褒めてくれてんのかな、と感じつつ照れくさくてぶっきらぼうな反応になってしまう。

「ああ、…うん。そういう風に言われたことある。あんたはなに描いてもいつも同じ世界のものを描いてるよねって。何人かに言われたから、確かにそういう作風なのかもね。タッチと雰囲気変化なさすぎだろってことなのかもしれないけど」

『それだと悪口みたいじゃん。そうじゃなくて、直織の絵って本当に世界観確立してるよなって。でもそれって、高校卒業したばかりの描き手としてはすごいことなんじゃないの?作家としての個性とか、はっきりしてて』

直織の絵ばっかりの美術館とか、きっと圧巻だろうなあ。いつかそういう状況で見られるといいな、と言う声が。全然冗談とか口先だけのお愛想って感じがしなくて、うっかりそれを聞いてるわたしもそんな未来をちょっと信じそうになった。

美術館丸ごとはともかくとして、企画展くらいは…。いやうーん、生きてるうちに美術館で企画展開催される作家って大概だよね考えてみれば。さすがにこれは現実を知らない美術門外漢の吉村ならではの妄想だ。冷静に考えると、残念。

もちろんギャラリーでの個展だって、吉村が言うような状況は実現できる。こないだのは名越とお父さんの好意と尽力のおかげで開催できた二人展だったけど。いつかちゃんとわたし自身の力でそういうことができるようになればいいな。それだって充分高難易度の夢だ。

ふわりと灯ったわたしの胸の明かりを知ってか知らずか。吉村は明るい声でスマホの向こうからわたしを励まし続けてる。

『好みとかはもちろん人によるけどさ。既に何人かは直織の熱烈なファンもいるんだろ。絵が売れた実績だって早くもあるし、プロから見ても見どころが全然ないはずはないよ。少なくとも万人がまあまあ悪くない程度の反応で誰にも深くは刺さらないよりも、少人数にでも深く刺さって心を動かせる力のある絵が描ける方がすごいよな。と素直に思うけど…』

だから今の先生もさ。もしかしたら直織の絵にたまたま嵌まらないってことはあるかもしれないけど、それはそれとして才能はあるって見抜いてくれると思う。個人的に大好きとならなくても、力があると認めれば指導はしてくれるんじゃない?もし結果的にどうしても合わなければ、誰か代わりの先生を紹介してくれるかも。と、あくまでも吉村が想定する今後の見通しは前向き。

『だからさ。油絵か水彩かはあんまり関係ないんじゃないかな。今の直織が本気で描いた自信作でさえあれば、それは伝わると思うよ。何ならスケッチだっていいじゃん、先生に見せたい!と思って真剣に丁寧に描けば、そこは公平に汲んでくれるよきっと。評価の基準はしっかりしてる人なんでしょ?』

吉村が訥々と誠実な口調で説いてくるその話の内容に説得されて、何となく前向きさがこちらにも伝染してきた気がするわたし。

「…それはそう。他人にも厳しいけど、その分自分にも厳しそうな人だな。感情や好き嫌いで目が曇ったりしないタイプに見えるから、わたしの絵が好みじゃないっていう理由で追い返されたりはしないと思う。へぼい絵だと思われたらそのままずばっと言われそうだけど」

『そうか、じゃ希望はあるね。美大には事情があって進めなかったけど絵はどうしても続けたいんだってことがわかってもらえれば、単なるバイト扱いじゃなくて師匠になってくれるかもしれないよ。そしたら東京でも、描いたり見てもらったりする場所が確保できるよね』

「うん。そうだね」

話を聞いてもらってるうちに少しずつ、何かと行き詰まってていろいろと上手くいってない。と微妙にずっととっ散らかってて焦ってる気持ちも落ち着いてきた。

誠実に根気強くことに当たればきっと何とかなるって信じられるようになってくる。吉村って、やっぱり他人の愚痴とか相談を聞くの上手いよな。

これまで東京に来てから何回か、こうして通話で話を聞いてもらってるけど。そのたび頭の中が整理されて、まあこつこつ頑張ってれば将来的には何とかなるでしょ。と楽天的な気分になれる。なかなか得難い貴重な聞き手だと思う。

気づくとしみじみ、素直な思いがそのままぽろりと口から溢れていた。

「…いつもありがとうね、長々と話聞いてくれて。元気づけてくれて」

地元にいていつでも顔を見れると思ってた頃(実際には言うほど頻繁に会ってたわけじゃない。ただその気になれば会える距離にいた、っていう油断)にはこんな風に思ったことをストレートに口には出来てなかった。やはりこれは、お互いの間の物理的な距離の成せる業なのかなぁ。

急にしおらしくなったわたしを本心でどう感じたかは知らないが、吉村は全く照れたり茶化す様子もなくさらっとその感謝の言葉を受け流す。

『いや別に。義務感で話に付き合ってるわけじゃないから。俺も興味があって聞かせてもらってるわけだから、東京での話』

そうだよね、身内や知り合いも住んだことのない名高い大都会はがどんな街なのか。それは普通に興味あるよな若い子なら、と頷いてたらスマホ越しにあっさり出てきた次の台詞に二の句が告げなくなり、一瞬ちょっと詰まってしまった。

『そっちで直織がどうしてるのか、大学では上手くやれてるのかとか。いつもずっと気になってるからさ。些細な悩みや困ってることでも、何でも打ち明けてほしいよ。聞くだけで、何の役にも立てないのは申し訳ないけど』

「…いや、こうやって。何でもうんうんって聞いてくれる相手ってそんなにいないからありがたいよ。多少情けないこと言っても馬鹿にしたりしないって信頼があるし…」

言葉を選びながら吉村に対する率直な感謝を伝える。

だけど一方で同時に、何でも全肯定で興味持ってうんうん頷いて聞いてる相手って他に正直いなくもないな。とちょっと罰当たりなことを思い浮かべた。言うまでもなく一人、今も超近所にいる。

単純に愚痴垂れ流すだけならあっちの方が手軽なんだけど、何だかんだでしょっちゅう顔合わせてるし。本人の言うところによると大学もそんなに忙しくなくて時間も余ってて暇そうだし。

だから余計な話を延々と聞かせて相手の時間を奪っても、あんまり心は痛まない。でもなぁ、一見同じような関係でいて。何もかもが全然違うんだよな。

と、耳に優しい懐かしい声を味わうように聴き入りながらしみじみ思う。

何たって吉村はこんな風にわたしの長たらしい話に付き合っても、別に何の益もない。ただの無償のボランティア(本人は自分も会話を楽しんでるからと言い張ってるけど。何の報酬もないという意味ではやっぱりそうなると思う)だけど、名越の場合はそうじゃないからなぁ…。しっかり、求めてるものがあるからわたしに関心持って付きまとってるわけで。

やったことの代わりに得るものが欲しい、というのは人として正当たり前の感情だから名越が悪いとは思わない。むしろ吉村の無償の善性が輝くなぁ…と実感してるだけで。

わたしはなるべく明るく聞こえるように声色をがらりと変えて、そこで話題を切り替えた。

「…さっきからわたしの話ばっかでごめん。吉村の最近の話もしてよ。そっちこそ、新しい学校はどうなの。そういう話も聞きたいかも」

『えー…。うんまあ、でも学校以外の生活は相変わらずだからなぁ。自宅から通ってるし、あんま環境は変化ないよ』

面白い話なんか特にないよ、とちょっと遠慮がち。わたしは着替え終わった服を遠投で洗濯かごの中へと放り込み、空いたベッドの上のスペースに勢いよく腰を下ろして言い返した。

「それはわかってるけど。でも家族のみんなだって変化あるでしょ。碧は高校入ったし、沙里奈ちゃんはそろそろ受験勉強?まだ部活忙しいかなとか。お父さんお母さん、おばあちゃんは元気かなとか」

『はは。まだ地元離れてから一ヶ月経ってないんだから。言うほどみんな変わらないよ。多分直織が最後に会ったあのときのままだよ』

おかしそうに笑われてしまった。言われてみればそれはそうなんだけど。

「そっちはわかんないけど。こっちはなんかすごく長いこと経ってる気がするんだよ、地元を離れてから。…毎日新しいことだらけで慣れるのが大変だし。一日が異様に長く感じてるからなのかも。じゃあそしたら、専門学校は?そこは新しい環境だからさすがにいろいろあるでしょ。それとも、高校と案外変わらない?」

些細なことでもいいから、今の吉村の状況が知りたいな。と考えて水を向けると、そこは確かに目新しい部分だな。と指摘されて気づいた様子で話し始めた。

『いや、…どうなんだろう。もっと楽なのかなと入る前は思ってたかも、専門学校って。高校は進学校だったしそれに較べたら勉強だって、大して難しくも厳しくもないんじゃないかなと。ちょっと舐めてたかも、思ってたより余裕ないわ。卒業まで二年しかないからかな。結構きっつきつだよ』

「へぇ、そうなんだ。勉強ばっかって感じ?」

吉村が進んだのは電気系の資格が取れる専門学校だ。まあ、高校の物理を全ぶっちしたわたしから言わせてもらえば、考えるまでもなくそんな学校の勉強が楽でも簡単でもあるわけないじゃんとしか。

『そうなんだよね。もうさ、全課程修了するまでに全員これとこれとこの資格を取ること。取れなかった者は卒業させない!って最初に言い渡されてるから。そのためのスケジュールきっちり決まってるんだよね…。俺、在学中にダブルスクールでIT関連の資格も取れるだけ取っとこうとちょっと考えてたけど。正直そこまではいかないかも。意外と目の前のことでいっぱいいっぱいかな…』

そう言って愚痴ってるけど、苦笑混じりの声はほんの少し楽しげだ。その調子を読み取って、大変そうだけど精神的にはまあ大丈夫そうかな。とほっとする思いだった。

「わたしだったらまず一個も取れそうな気がしないから、その学校は何年経っても卒業できないね。まじで理系の頭ってすごいよな、尊敬する」

『そんなことないよ。直織なら本気出せば絶対受かるでしょ、そう感じるのは本気で必要に迫られてないからだと思う。頭の造りとかの問題じゃないよ』

「いやーそうかなぁ。吉村はわたしの頭のレベルを高めに見積り過ぎでしょ…」

苦笑いして否定しつつ、何だか胸の内側がほっこり温まって心も落ち着いてきた。

地元と東京、遠く離ればなれにはなったけど。逆にこうしてお互い意識して連絡を取り合うようになったから、高校のときよりよほど会話が多い。

そういう意味ではまあ。いつでも会えるとはいかなくなったけど、いい面もあったかな。これでもしわたしも地元にいるまま進学してたら、何となくずるずると高校のときの距離感のまま、特にLINEも電話せずそれぞれ別の人間関係が広がって自然と疎遠になってたかもしれない。

彼氏でも彼女でもないただの友達同士だけど、それでも今はこれで結構満足。たくさんいる友人の中の一人ってわけじゃない。少しだけ特別、一番落ち着ける何でも話せる友達。

…と、そこまで考えて。ふと今の自分の台詞にちょこっとごまかしというか、欺瞞がないかな。とさっきのやり取りを思い返してちくりと良心が痛んだ。

なんか無意識に、ずっと何かの事実を伏せてそこだけ触れないように苦心して話を続けてたような。…というか。何でも話せるとか全てありのまま打ち明けてるってのは我ながら嘘だよね。一生懸命遠回りして避けてる話題がひとつだけある。

それはもちろん、名越にまつわることだ。わたしは見事なくらい綺麗さっぱり、吉村の前であいつの存在について口に出したことがない。少なくともかなり親しくなってからは。

それがどうしてかっていうと。…正直自分でもよくわからない。向こうもこっちも、疾しい部分なんてかけらもないのに。関係性の中に男女の要素なんか清々しいくらい何もない。

なのにごく普通に素直に、聞いてよ名越のやつがさ…って切り出せないのは何故なんだろう。

アトリエを使わせてもらってることも言い出せなかったし。そのせいでじゃあ今、先生に見せようと考えてる絵はどこで描いてんだ?っていう説明も妙に不自然な感じになってしまった。

まあ、まともに考えたら。わたしに絵を描かせるためだけに寮のほぼ斜向かいあたりの豪華マンションを借り上げて、合鍵渡して送り迎えのための車買って…って事実を並べただけで。

そいつは本当に大丈夫なやつ?もしかしてちょっとやばくない?と聞いてる吉村を漠然とした不安の中に陥れるのがオチ、ってのは確かだ。

いくら吉村も当人を知ってて、高校時代から同じようなテンションでわたしの周囲にまとわりついてて、しかも無害だった。むしろちょくちょく絵画教室とか二人展とか、わたし一人じゃたどり着けなかった場所へと引っ張ってくれて助かった面もあると既に承知してるとしても。…とそこまで思いが至ってあれ、と改めて気づく。

そういえば。この二人って、ニ、三年のとき同じクラスだったんじゃなかったっけ?授業のコースじゃなくてHRの方。

体育祭のときや修学旅行で、割と近くにいるのを見たような。…けど、思い返してみれば。

わたしは地味に、名越と吉村が仲良く話してるのを見たって記憶がないんだよなぁ。二年の最初の体育祭準備の頃に顔合わせてああ、とかよ。と軽く挨拶を交わしてすれ違うのを見たことがあるような。…だけどそれきりだ。

思えば二人展に一緒に行ったときだって、奥から名越が出てきてわたしと話してるとき吉村は最後まで寄ってこなかった。名越も吉村のいる方を一瞥もしなかったし、あいつと来たの?とか話題にも出さなかった。

『…どうしたの、直織?こんな話つまらない?』

自分がうっかり黙りこくってたことに気づいて、慌てて弾んだ声を出す。

「ううん、そうじゃなくて。…わたしも何か卒業までに資格取れたら取った方がいいかなぁって。取れるとしたら何だろってちょっと考え込んでた」

文学部って何もないよね。取るだけじゃなくてちゃんと就職に役立つ資格って考えたらさあ。と付け加え、我ながら自然にごまかせた。と内心で安堵する。

『いや普通にあるじゃん、教職とか。あとは学芸員とか?』

「わー学校の先生は絶対やりたくない…。あんな大変そうで時間拘束厳しくて割に合わない仕事ないなって小さいときから思ってたもん。学芸員はね、うん、すごくいいよね実はやりたい。でもねぇ、採用の枠がね…。狭き門過ぎて」

『学校の先生なったら直織んちのお父さんお母さん喜びそうだけどな。でも学芸員はまじでいいじゃん、一応取っとけば?求人あるかどうかはタイミングだろ。運良く卒業のタイミングで、どっかの美術館で欠員出るかもしれないし…』

話が無事弾み出して、ほっと安心。何事もなかったように軽口をぽんぽん叩きながら一方で、頭の隅っこで考えた。

改めて思い出したけど、名越と吉村はやはり特に仲いいとは思えない。それどころか、わたしの記憶が確かなら。二人の間にはむしろ何とも言い難い微妙な空気が流れてなくも、なかったような。

そういうこれまでの曖昧な記憶の積み重ねのせいで、漠然とこいつの前であいつの話をなるべくしない方がいいんじゃ…と無意識にセーブしてたような気がする。

逆に名越の前でも吉村の名前出したことない気がするし。それも何か根拠があってのことじゃなくて、何となく気を回してそれとなく避けてたんだと思う。

まあそれで、これまでは大して困ることもなかった。だから深く考えもせず、面倒くさそうなところを適当に回避しただけで済ませてたんだろう。

でも。これからの大学生活四年間、名越にまつわる話題を徹底的に避けたままこっちでの普段の暮らしぶりを吉村に報告し続けるなんて。…思ってた以上になかなかの離れ業というか。不便じゃない?ただ単に。

地元にいたとき以上に名越の存在がわたしの生活全般に根深く食い込んできそうだし。そこをちょいちょいと避けて話をまとめようとすると不自然に穴だらけになりそう。ていうかさっきの絵を描く場所探しの段階で既にそうなってた。

その上高校のときよりもこうして雑談したり、いろいろと報告するのも頻繁になりそうだしなぁ。

ていうか。本当に名越のこと、吉村に全く話さないでいいのか?疾しい、見られちゃいけないものみたいに必死こいてひた隠すのもまた。かえって変な風に思われない?何かあるのかと心配されたり裏の意味を勘繰られないか?

やっぱり、火種になる前に。早めに自分の口から打ち明けとこうか…。

『学芸員って大学で履修する範囲で取れるんだよね?確か』

無邪気な口調で質問され、慌てて頭を切り替えて話を合わせる。

「あー多分…。どうせなれないと思ってたから。ちゃんと調べてなかった」

『そうか、二年からでもきっと遅くないよ。機会あったら調べといたら?図書館司書も直織には合いそうだけど。あれって確かほぼ非正規しか採用ないんだよね…』

「そうらしい。図書館って利益出ない施設だから、やっぱり大事にされてないというか。絞るだけ絞られちゃうんだろうなぁ、経費」

『長い目で見れば必要というか。めっちゃ国民のためになるものだと思うけどね』

と、日本の未来を憂う方向へと話題はスピンアウトしていく。

何となく切り出しそびれた。まあいいや、今日のところは。また折を見てタイミングを測ろう。

そう心の中で言い聞かせて、ちょっとほっとする自分がいる。

どうしてかはわからない。吉村に限って、名越なんていい加減そうなやつに頼るのやめときなよ。あとで何要求してくるかわかんないよ?とか絶対言い出しそうにないのに。

でも、そうなんだよかったね。高校の頃から何かと助けてもらって、今も直織が描き続けてるのはあいつのおかげだもんな。と穏やかに受け応える吉村の声を聞くのは。何でかちょっと、つらいような…。

理由をはっきり分析する気にはなれないけど。どうやらわたしはこの二人が接点を持つとなると落ち着かないというか。どうしていいかわからなくて混乱しちゃうみたいだなってことを改めて自覚した。

そうなるとこの微妙な状態を今しばらく続けるってことになるのか。吉村との間に話せないこと、触れられないタブーがあるのは正直あまり好ましい状況じゃないけど…。

まあ、うちの母も名越の存在は既に知ってるわけだし。もしかしたらもうそっちから、わたしの東京での住処の近くにあいつがいることは伝わってる可能性もある。

だとしたら何かの拍子に吉村の方からぽろっと、名越とかどうしてる?元気でやってそう?とか振ってくることもあるかもしれないし。そういう自然な成り行きがあったらそれに便乗して話せばいいや、と無理やり片付けて。わたしはせっかくの楽しい会話に漂う微かな暗雲を、頭の中から急いで追い出した。


まあそんな風にあれこれ思い悩み持て余していた名越んちのアトリエについてだが。その後新たな展開があり、それをきっかけにあっさりと問題は解消してしまった。

GWを前に、『猫又の会』で危惧されていたことが起きたのだ。すなわち体調を崩して健康が危ぶまれる新手の猫が地域に現れた、って話。

商店街の裏手にある一軒家のエアコンの室外機の陰で微かなにゃうにゃういう声がする。という相談を受けた定食屋さんの店主がうちのサークルのメンバーに報告をくれて。現地を調査した結果、どうやらここで仔猫を産んだ母猫がいるみたいですねーという結論に。

「この時季だからまあ、猫の出産はあり得るよね。問題はここ辺りの地域猫はみんな手術済みだから。おそらくよそから流れてきた母猫だろうな…。だとしたら保護したあと、その子も手術しないと」

今年から部長になった三年の嶺さんという男子学生が、捕獲器を抱えて移動中にぼそりと憂鬱そうに呟く。

わたしはその日たまたま見回り当番だったため、捕獲の現場に居合わせることになった。だから即その場でするっと提案が出てきたのも、こっちから言い出したことで先輩方が当てにしてたわけじゃない。

「あー…。前に言ってたけど、預かるのは名越んちで受け入れOKだと思います。あのマンションペット可だし。アトリエの床もフローリングで、掃除しやすいようになってますよ」

「え。…でも、笹谷さんの友達ではあるけど外部の人だし。そこまで負担かけるのはやっぱ、やばいよ」

さすがに躊躇してる。でもそこで、名越とはかねて知り合いの瑞原さんが後押しをしてくれた。

「何なら場所だけ貸してもらって、お世話はわたしたちが交替で通うっていうのは?確かアトリエは笹谷ちゃんも共同で使ってるんでしょ。合鍵ももらってたし、割と外部の人が出入りしてもそんなに家主の邪魔になりにくい造りなのでは?」

「ああ。…それはまあ、そうです。あいつの個室とかプライベートな空間は、もっと奥の部屋になりますね」

いやそうかもしれないけど。本人のいないとこで勝手に決めないで、ちゃんと事前に相談しないと。とあくまでも言い張る生真面目な部長(真っ当ないい人だ)の手前、わたしは歩きながらスマホをタップして耳に当てた。

まだ猫は捕まってない。もしかしたら今日中には無理でニ、三日かかるかも。でも万が一すんなり捕獲となった場合、今夜にも猫たちの居場所が必要となる。それからばたばたするよりは、早めに心算をしておいてもらった方がいい。

『…どした、笹谷?なんかあった?変態か痴漢かストーカーか!今すぐそっち行くよ』

出るなり開口一番それ。冗談でもなんでもなく真剣に切羽詰まった声だ。わたしはすっかり呆れてちょっと肩をすくめ、相手を落ち着かせようと話しかけた。

「いやそういうんじゃなくて…。てか、なんでいきなりそれ?今真っ昼間だよ。まだ学校だし、そんな危ない人いないよ」

名越の声が大きかったので、隣を歩く嶺さんと瑞原さんが思いっきり笑いを堪えてる。またこいつの異常なわたしへの過保護っぷりがサークルメンバーに周知されてしまった、畜生。

『だって、あんた普段自分からは滅多に連絡して来ないじゃん。よほどの危機なのかと思ってさ。…じゃあ、今差し迫った危険はないんだね?ああよかった、まじで肝冷えた』

心底ほっとしたようにため息をつくな。なんか、茶化しづらいだろうが。

悪意はなくて純度九十パーセントくらいのただの親切心(残りは金の卵を産む鵞鳥を失ってなるものか、という我欲)からだとわかってるのが何とも。厳しい反応のしようがなく、ぼそぼそと毒気のない声でテンション低く言い返す。

「咄嗟にそこまで激しくガード発動するの、さすがに警戒し過ぎじゃないかな…。ちょっと電話したくらいで大袈裟だよ。そんなんじゃ心臓持たないよ」

『俺の心臓はいいんだ、あんたが無事なら』

そっちを見てはいないけど、先輩方の方からひゅう。と微かな口笛みたいな音がした。慌ててスマホの音量を下げる。

『…それで、どうしたのこんな中途半端な時間に。珍しいよまじで。何かあった?』

「うん、それがさ。…まだこれから捕獲なんだけど。実は猫がね」

『ああ、なるほど。じゃあ今からそっち行く』

ぶちっと唐突に切れた。…はや。

「おいちょっと、まだ説明してな…。ちっ、出ない」

今日これから来ても無駄足になるかもしれない。あんたの出番は猫を無事捕獲できてからだから、まだ動く必要はないよと説明しないと。と思い、何度かかけ直してみたが駄目。通話の呼び出しに反応ないし、メッセージも既読がつかない。

「こいつもう動いてるな、多分スマホ見てない。しょうがないなぁ、ただ猫をひとまず部屋に置かせてもらってもいいかどうか確認したかっただけなのに。…今すぐ来いだなんてそもそもひと言も言ってないし」

「まあ、いいんじゃない。今日は結局出番なかったと知っても怒る子じゃないでしょ。それにもしかしたらこのあと、順調に母猫も仔猫も全員保護できるかも」

そしたら早速彼の家に運ばなきゃいけないから。車あるのは間違いなくありがたいよ。と瑞原さんがフォローしてくれる。

「そうそう。それに向こうはきっと、何か口実つけてでも駆けつけたいんだよ。隙あらば笹谷さんに会いたいんじゃない?少しでも長く」

「いやそれは。…ないと思いますけどね、別に」

余計な口を叩く部長はちょっと楽しげ。多分、若い子同士がラブコメしてるとこを見るのが好きとかそういうおっさんムーブなんだろう。びし、ときつめに否定できないのがもどかしい。どうせ名越も思わせぶりに流すだけで一緒になってまで否定してはくれないし。

結果的に言うと、その日名越がサークルに顔出しに来てくれて正解だった。

仔猫たちは必死にみゃうみゃう鳴きまくってて、どこにいるか丸わかり。お母さんは不在だったので、捕獲用ケージを仕掛けておいてあとで捕まえて手術をしようということに。住民の方がその場に立ち会って、確かに三匹です。と一緒に確認してくれた。

とにかくまずは獣医へ。カンパのストックいくらあったっけ、治療費のつけって効かないよね…と三人で額を寄せ合って、いくらまでなら今日立て替えられる?部員全員に緊急連絡して少額ずつでいいから出せる人は持ってきて!って頼むか…と頭を悩ませてたところ。

「…え、じゃあ俺とりあえず立て替えておきますよ。あ返済はいつでもいいです、カンパが充分集まったタイミングで」

部室に待機してた部員からざっと経緯を耳にして、動物病院の場所を確認して駆けつけてきた名越のひと言であっさり問題は片付いてしまった。

「ごめんねぇ名越くん。その上お部屋のひと隅を当分の間貸してくれ、なんて…。世話はわたしたち部員が交替で通うから。とりあえず、この子たちの状態が安定して。引き取り手が見つかるまで申し訳ないけど…」

まじで何にもしなくていいから。と名越に平身低頭で拝み倒す部長と副部長。

「えぇ?そんなの全然いいですよ。俺の部屋を使ってくれって言い出したのはこっちの方なんだから…。てか、何なら俺を入部させて皆さんの一員に加えてもらえれば話は簡単ですけど。やっぱり外の大学のやつは駄目ですかね?」

「いや全然。ていうか一部員じゃ申し訳ないから顧問にする。客員教授にする。何にしろ、特別待遇で迎えるから」

なるべく早く引き取り先を見つけるから、よろしくね。と腕の中にすやすや眠る仔猫たちをそれぞれ抱いて(ちなみに一匹わたしも抱いてる。柄は錆)ぺこぺこ頭を下げる先輩方。

名越はいつもの人当たりの良さを(おそらく、意図的に)如何なく発揮して、相手にプレッシャーを与えない例の爽やかな笑顔で屈託なく声をかけた。

「そんな、頭上げてください。ただ俺が図々しくよその大学から来て仲間に入れてくれ、って我儘を通そうとしてるだけなんですから。…それに、皆さんも交替でうちにお世話に来ていただけるなら尚更歓迎です。笹谷も一緒に協力してくれますしね」

「え、わたし?」

急に巻き込まれた!と反射的に不服そうな声を上げてしまった。…けど、考えてみれば。

「そうね。…そうかぁ」

「そりゃそうだろ、あんたこそ正式な猫又メンバーなんだから。しかもうちの合鍵持ってるし」

名越の冷静な突っ込みにその場に居合わせた先輩たちの目がきらん。と光る。

「そういえばそうだった。笹谷ちゃん、名越くんちの鍵持ってていつでも出入り可能なんだよね。そう考えると結構便利」

「だよな。名越くんいないときは笹谷さんに鍵開けてもらえばいいんだから…」

え、ぇ…。うん、でも。やっぱり、そうなるかぁ…。

というわけで。わたしは結局、猫又の会の誰よりもがっつり、仔猫のお世話に関わることに。

何しろ部員が交替で毎日通ってくるときに、常に名越に在宅してろっていうわけにもいかない。正式に部員名簿に名前を載せられてサークルのLINEグループにも加わったけど、やはり客員は客員。

ただでさえ少なくない獣医の治療費(数日後に無事捕獲できた母猫の手術費も、結局)を立て替えてもらってるのに。部屋に猫を置いてもらった上に朝晩毎日世話をしろとかは言えない。

名越があるとかはピンポンで入れてもらうけど。いくら講義が少なくて楽とはいえ、いちいち名越に家で待っててくれというわけにも…。それで半分くらいは、わたしにお鉢が回ってくるというわけだ。

明日の朝名越くん一限あるっていうから、笹谷ちゃんもし予定なかったら鍵開けてもらえる?とか、大学終わって帰るなら一緒に行くからついでに鍵開けてとか。わたしとしても名越に負担をかけたいわけじゃないし、何より仔猫たちは可愛いから。ついつい都合を合わせて付き合っちゃう。

そんな日々をしばらく過ごすうちに。自然と名越の部屋への出入りにすっかり慣れてしまい、いつしか自分の自宅のように抵抗なく通えるようになってしまった。

部員のみんなは律儀にローテを組んで仔猫の世話をしてる一方、わたしの方は鍵開けだけで特に仕事のないときもある。

だけど作業が終わったらここんちの鍵は閉めなきゃならないし。どうせこの場にいるんだから手伝いますよと申し出ても、

「いいよ、ただでさえ笹谷ちゃんだけ鍵開けのために余計にここに通ってるんだから。それ以外の作業は任せときなさい。その辺に座ってて、のんびり休んでていいよ」

と親切に労られる。けど、そう言われてもねぇ。

所在なくぐるりと室内を見回すと、そこにはほとんど手をつけていないわたしのキャンバスが。…というわけで。私は鍵開けのついでに、自然とちょこちょこと描きかけの油絵に手をつけるようになっていった。

部員のみんなも世話や掃除を終わらせてすぐに出て行くんじゃなく、のんびりとそこで猫と遊んでいる。絵をぺたぺたと描き進めながら、何となく世間話を交わしたりして。そのうち、お茶でも淹れましょうか。いないときでも自由にキッチン使っていいって言われてるんで。と言って、紅茶を淹れてみんなで休憩したり。

そうこうしてるうちに名越が帰ってきて、楽しく談笑したあと部員のみんなはばいばーい、また明日学校でね。などと口々に言って帰っていく。

「あ、描いてたの?やっぱすごくいいね。けど描きかけの絵にいろいろ言われるのはやだろうからこれくらいにしとくわ。…もう夕飯食べた?なんか作ろっか」

二人きりになった部屋で名越にそんな風に話しかけられても、こっちももう何の違和感も感じなくなってる。

「今から作るのも大変でしょ。外に食べに行こうよ、その辺の近所でいいから。あ、でも割り勘でね」

「またまたそういうことを。…意固地だよなぁその辺。お金なんて回りものだからある方が出すっていう、シンプルなルールでよくない?」

「そんなこと言ってたら永遠にあんたが払う方のままになっちゃうよ…」

わたしもこないだバイト代初めて出たから大丈夫!と言い張り、仔猫たちがクッションの上で思い思いの姿勢ですやすや寝息を立ててるのを確認してからそっと部屋を出る。

…そんな日々が日常になるうちに。そりゃまあ、すっかりこの家に慣れてむしろ狭苦しい自分の寮の部屋よりも気楽に寛げるスペースになったとしてもそんなにおかしくはない、だろう。…おかしくないよね?

最終的に可愛い可愛い仔猫たちの引き取り手が全て決まり、涙ながらに皆で無事に送り出して。アトリエの部屋ががらんと寂しくなって猫又のメンバーが訪ねて来なくなったあとも、わたしは絵を最後まで完成させるために名越の家へと通い続けた。

「あー寂しい。猫がいないってこんなに寂しいものなんだね…。やっぱりあのうちのひとり、俺が引き取ればよかったかなぁ…」

わたしが描く横で、ばかでかいクッションにもたれてごろごろする名越。わたしはそっちに視線も向けず、せっせと手を動かしながら軽くその話を受け流す。

「まあ仕方ない、今回はあっさり全員分の引き取り相手が瞬く間に決まったからね。いつでも必ずそう上手くいくとは限らないんで、引き取ってくれる申し出があるときはお願いした方がいいって。万が一この先同じようなことがあって、なかなか引き取ってくれる人が見つからなかった場合とかに備えといた方がいいんだって、わたしたちは。…まあこの先四年間で。また学校の近所で猫が仔を産む確率はそんなに高くはないかもしれないけど…」

「ああ…。そうだよね、あの子たちめちゃくちゃ可愛かったもん。そりゃ光の速さでみんな欲しい!って手を挙げるよね…。ピンク、パンク。ポンク…」

部長がその場のノリで適当につけた名前にすっかり愛着が湧いて、何度も繰り返し呟く名越。尚それは仮の名前なので、引き取り先ではまた任意の新しい名前になる模様(あとで現在の彼らの様子を聞いたところ、その中でポンクだけは今でもその名前で呼ばれてるとのこと。よかったね、部長!)。

まあそんな風に、名越の部屋に入り浸って自由に絵を描いたり在宅してればやつととめどもなくお喋りしたり。お茶を飲んだり一緒にご飯を食べるのにもほとんど抵抗がなくなった頃、大学入学後初めて描き始めた絵が無事に完成した。

わたしはどきどきしながら近藤先生に連絡をとり、もしよかったら絵を見ていただきたいんですが。と言って約束を取り付けた。

「…車出してくれるのはありがたいけど。あんたは立ち会わなくていいんだから、何もそこまでしてくれなくてもいいんだよ」

わざわざ時間割くの勿体なくない?と言いながら、しっかりキャンバスを膝に置いて助手席に乗ってるんだから我ながら草も生えない。けど名越はそんなわたしの矛盾に突っ込む様子もなく、ハンドルに手を置いて大真面目に答えた。

「俺が好きでやってるんだからあんたは気にする必要ない。それを抱えて電車乗り換えていくの大変は大変だろ。それに近藤先生に久しぶりに挨拶もしたいしね」

それから信号で車を停め、ちらりと横に視線を流してわたしの膝の上のキャンバスを一瞥した。

「…それ、やっぱりすごくいいと思った、俺は。久しぶりの新作だもんね。地味に受験終わってから初じゃない?」

「うん。正確にはその前からずっと描いてないから…。下手すると一年近く?」

「そのくらいだよなぁ。長かった、まじで…」

天を仰いでしみじみするな。

そこまでちょっと軽口風だったのがふと改まった調子になり、アクセルを踏んで車を発進させながらわたしに言い聞かせるように呟いた。

「…近藤先生の評価の軸がわからないから一概に何とも言えないけど。評価してくれるといいな、その絵のこと」

「…うん。そうだね」

そう、どういう絵を良しとするタイプの指導者なのか。それが不明なまま自分の作品を見てもらうのはやっぱりちょっと怖い。

子どもたちの教室で指導してるのは見てるけど、大人の絵描きとはまた違う評価の仕方だろうからなぁ。とため息をつくわたしに、慰め顔でさらに言葉をかける名越。

「大丈夫だって。久々にあんたの作品見たけど、絶対前より良くなってる。ちゃんと進歩してると思うよ。先生だって、好き嫌いとは関係なく力量は評価してくれるはず。…万一褒めてもらえなかったとしても。俺は好きだから、その絵」

真面目に言葉を選んで励ましてくれてるのは伝わった。わたしはちょっと首を縮め、ありがとう。ととりあえず小さく呟いた。

…そして今。わたしは近藤先生の控え室で、彼女と二人きりで向き合ってる。

名越はアトリエで、自分の作品を空き時間に仕上げに来た高校生に声をかけて構ってる。そうかぁ藝大志望なんだ。俺二次で落ちたよ、そんときのテーマ聞いてる?試験場で知らされた瞬間まじで受験生全体から低い呻き声が…などと話術も巧みに話しかけてた。

てかその話わたしまだ聞かされてないんですけど。あとで続き教えてもらわなきゃ、と後ろ髪引かれる思いで先生のあとについてこの部屋に入った。…ああ、あっちの楽しげな空気の方に今すぐ混ざりたい。

そういう後ろ向きな逃げ腰の精神を必死に隠し、眉根を寄せてじっとわたしの絵を吟味している近藤先生の前で。何とかきりっとした姿勢を保ちながら立っている。

「…〇〇大だっけ?笹谷さん」

「はい、そうです」

文学部です。と勢いよく答えそうになったけど、そういうことを訊かれてるんじゃないか…と思ってやめた。

やっぱり、美大じゃないと駄目なのかな。この人は大河原先生の後輩ってことはO芸大か。かなりの名門で狭き門だし、普通の大学を選んだってだけで挫折したやつと思われないかな。

大体何で、美大を諦めたのにまだ描き続けてるの?とか、当然抱くだろう疑問をここでぶつけられそう…と予測して、腹の辺りに力を入れる。描き続ける理由かぁ、何て答えようかな。

と目まぐるしく頭を働かせてるわたしをよそに。先生が次に口にしたのは、まるで予想もしてなかった飛躍した提案だった。

「あの、笹谷さんさ。…もしあなたがよかったら、なんだけど。この絵、**展に出してみない?」


《第20章に続く》


地域猫サークルが存在してる大学っていくつかありそうですが、実際のところどうなのかな?昔TVで特集されてるのをたまたま見たことありますが、もちろんその大学は直織の通う大学とは違います。前書きで書いたように、いくつかの大学のイメージをごちゃっと混ぜて割って、どこかの実在する大学と全面的にに一致しないようにぼやかしてあります。

最近ちょっと複数の大学を見て回る機会があったのですが、うわ変わったな!ってびっくりしたり意外と変わんないな、と感心したり。古い設備を大事に使ってるところも結構ありますよね。

だから自分の持ってる特定の大学のイメージも既に現実との齟齬があったりして。結局、脳内でイメージしてる大学はもうこの世に存在してないようなまだあるような。曖昧な状態になってます。

あからさまに東京そのままだな!ってのは今のところ上野の駅周辺とか美術館くらいですね…。さすがにあの辺はそのまま書いても大丈夫。こんな場末の小説で勝手にモデルにして!と言われるほどのことはなさそう。完全に誰でもうろうろできる公共の空間ですからね…。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ