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第18章 手取り足取りお世話係

改めて読み返してみると、思ってた以上に名越がやば気なストーカーすぎて。草も生えないです…。

今日は水曜日。わたしが今年度組んだカリキュラムでは、特に講義が終わるのが早い曜日だ。

このあとはどうしようかな。まだ行き慣れてないけど、少しでも顔見知りを増やしておきたいからちょっと面倒くさくて気は進まないけど思いきってサークルの部室に行くか。それともまだ時間早すぎるかな。

他に誰もいないのに顔出してもしょうがないし。だったらさっきまで一緒に講義に出てた子たちとこのまま学生会館あたりで駄弁って時間潰すか…などとつらつら考えながら、まだ出来立ての同じクラスの友達数人と連れ立って講義棟を出た。

そこから学生会館へ移動。と、正門の方へと何気なく顔を向けたと思しき友人のひとりが、途端に何かを見つけたようで。ぱっと表情を綻ばせて楽しげにわたしの方を振り向いた。…わあ。なんか、嫌な予感。

「あ、ねぇ。あれってナオちゃんの彼氏の車じゃない?迎えに来てるよ、ほら」

「ああ。…ほんと、すぐわかるよね。すごい特徴的なカラーだもん」

街ですれ違ってもわかりそう。と別の友達が目をすがめてそちらの方向を確かめながら同意する。

「『彼氏』、…」

即座に否定したい気持ちをもやもやしながら押し込め、苦味と一緒に続く言葉を噛み下し飲み込む。…

『周りに対するガードになるから、俺が彼氏か何かと誤解されたらそのままにしておきなよ。てかあんた、やっぱ東京で恋人作りたいとかそういう願望あんの?だとしたらまあ、そこまでは口出せないけど。笹谷の自由なわけだからさぁ、誰とどういう関係になろうが』

せっかく都会に出てきて憧れのJDになったんだもん、そりゃいっぱい恋愛して素敵な彼氏とかも欲しいよねぇ。と付け加えるその口調がどう考えても煽ってる。ってのはわかったけど、つい売り言葉に対して買い言葉を返さずにはいられなかった。煽り耐性弱い、わたしって。

『そんなの全然興味ないし。こっちで彼氏作るつもりなんか最初からないよ、そんなことのために上京したわけじゃない』

名越が我が意を得たり、とばかりににんまりしないように表情筋を取り繕ってさも真面目な顔を作ってるのがわかった。

向こうの期待する反応をそのまま返さざるを得なかったのが無念だ。けど、それがわたしの本心に一番近い言葉でもあるんだから。

名越の手のひらの上で踊らされてるみたいな形になって不愉快だからといって、訂正するのもおかしいし…。黙って唇を噛み締めて話の成り行きを見守る他ない。

『…だよねぇ?よかった、笹谷に限ってそんなことのために頑張って東京の大学入ったわけじゃないだろと思ってた。だったら俺のガードが入っても別に困りはしないよね?変な虫が近づくのをあらかじめ予防する効果もあるし…』

別に積極的に演技までして彼氏彼女と誤認させる必要はないけど。でも向こうが勝手に思い込んでる分には訂正せずにそのままにしときなよ、誤解されたら嫌だと思うような特別な男が現れたらそのときは相談してくれればいいからさ。

満面の笑顔で悪びれずそうわたしに伝えた名越の意図には私欲みたいなものは全くなく、あくまで純粋にわたしのためって考えしかないのが腹立つ。

いやそれも回り回って自分のためか。作者たるわたしの心身を無事に守り切れば、やつの好きな絵をずっとこの先も供給し続けてくれる。と期待してのことだから、私欲ゼロというのは正しくない。

けどわたしを恋愛絡みのトラブルや変態ストーカーから守ると決めた動機が何でも、結果として表れた行動は特にわたしにとって不利益なわけでもないし。むしろ娘と離れた地元にいるうちの両親からしたら虫除けの役割を買って出てくれてありがたい、てなもんだろう。

そう思うとここで、無碍にいやあいつとは何でもない。ただわたしに一枚でも多く絵を描かせたいだけで他の関心は何一つ向けられてないから。お互い全く興味ない同士のフリーだよ、とか速攻アピっていいのかどうか迷いが生じた。

一瞬躊躇してる間にほらほら、早く行かないと。わざわざT美からここまで車で迎えに来てくれたんでしょ!今どきそこまで献身的な彼ってなかなかいないよぉ、と囃されて正門の方へと押し出される。

「おーい、ナオちゃんの彼!彼女届けに来たよぉ」

「本当に仲良しだよね。わざわざ**区からここまで…」

この友人たちと名越は初対面ではない。こうやって何かと大学まで車を乗り付けて迎えに来るので、早くも覚えられてしまった。

まあそれも致し方なし。車はこの前引越しのときに手伝いで出してくれたあの小型ワンボックスカーなのだが、他の車種ではあまり見たことのない独特の綺麗な青色でとにかく目立つ。そしてそれ以上に何より本人が目立ち過ぎ。

運転席に座ってた名越はガラス越しにぱっと目を輝かせたかと思うと、すぐにするりとドアを開けて出てきて実に愛想よく彼女らに挨拶した。

「あ、こんにちは。いつもこの人と仲良くしてもらってありがとうね。今日はもうみんな、講義終わったの?」

「ううん、わたしたちは一個空いてまだもう1限残ってる。ナオちゃんだけだよね、今日終わりなのは」

「わたしたちは暇だから、一緒にお茶にでも付き合わん?って言ってたところだったんだよ」

名越に向けて次々と矢継ぎ早に話しかけてるときの友人たちは、そこはかとなくうきうきしてるように見えてテンションもいつもよりほんの少し高い。

この子たちは少なくとも名越のことをわたしの彼氏と誤認してるわけだから(しかもそのことに反感を覚えたり不満を抱いたりしてる様子は全然ない)、各々自分こそがこの男と付き合いたいのに…という願望はさほど強くないはず。

それでも女の子だけで話してるときのざっくばらんとしたあけっぴろげな態度とは目に見えて違ってるから、やっぱり見た目爽やかで人当たりよく感じのいい異性と話すのは、特に理由なく人の心を浮き立たせるものなのかもしれないな。

そんな浮き立つ華やいだ空気をぼうっと感じ取りながら彼女らの様子を見てるとふと思う。

…今この場にいる友達はわたしの他に三人。全員が女の子であって名越が退けたがっている『虫』になりかねない異性は含まれてないから、この子たちにくらいは本当のことを言っても問題ないかな、こいつはただのカモフラの虫除けなんだよって。

女の子の友達にまで嘘ついて彼氏彼女のふりをするのはさすがに息苦しいし。この感じだとハイクラスで素敵な彼氏だと思ってた存在がただの友人だった、とわかってもなぁんだ。とただ呆れるというよりは、その新情報をちょっぴりくらいは歓迎してもらえるんじゃ…。彼女たちにも参入のチャンスがある、と好意的に受け止められるかもしれないし(正直なところ友達といえる相手にお勧めできるような代物では全然ないのだが…)。

だいいち身近な人たちには早めに裏事情を知ってもらって、ぶっちゃけた関係になれたらその方が気楽なのに。

「…え?俺たちの本当の仲を女友達にだけは知らせてもいいかって?駄目駄目そんなの、話にならないね」

滅多にない青と藤色の中間のような、爽やかな独特のメタリックな色合いの車の助手席にわたしを乗せてゆったりと発進させる名越。

台詞は全くもって言語道断、とでも言いたげな上から目線の厳しい決めつけだが。その表情は何とも愉快そうなゆとりに満ちてる。怒ってるとか不快に感じてるわけではないのはわたしにもわかる。

それはそれとして、話し合う余地もない。とばかりにあっさりこちらの提案を切って捨てられるのはやはりむっとする。こいつのこういうとこ、まじで何とかしてほしい。

「何でいけないの?あの子たちはあんたのいわゆる『虫』じゃないじゃん。同性の友達にまでカモフラージュ徹底しなきゃいけないほどの話?これって」

まさか彼女たちの中に同性愛志向の人物が含まれてるかも…とまで警戒してるわけじゃないでしょうね。てか、そうだとしても。その子がわたしを必ず狙うだろうって考えるの、さすがに自意識過剰過ぎないか。

同性が好きな人は同性なら誰でも好きになるわけじゃないんだぜ。異性愛の人が異性なら誰でもいいと感じないのとそこは同じだから。

わたしがそう言うと、やつはふん。と軽く笑い飛ばして前を見据えたまま悠然とハンドルを切って応じた。

「そこまでは考えてなかった。まあ女子があんたを好きになっても全然おかしくはないけど。現実問題として重度のストーカーになるのは男の方が圧倒的に多いし、相手に致命的な危害を加える確率となるとさらにぐんと上がる。女の子に惚れられて付き纏われても困るけど、トラブルの悪質さが段違いだからね。正直それほど心配はしない」

「じゃあいいじゃん。同郷の友達でわたしをガードするために振りしてるだけなんだよ、本当は付き合ってないよーって言っても。別に」

「駄目。あの子たち皆あんたと同じクラスなんでしょ、確か」

赤信号できゅっと軽くタイヤを軋ませて停まる。ちかちか、とウィンカーの鳴る音に紛れて名越のにべもない声が車内に響いた。

「共学なんだから当然クラスに男もいるじゃん。ここだけの内緒の話って念押して打ち明けても、どこからそれが漏れてクラスの男たちにばれてもおかしくないだろ。人の口に戸は建てられないし、まだあの子らの口の固さが信頼できるほど付き合いは深くない。よって問題外。駄目、絶対」

見てなよ、きっとクラスの男の誰かが笹谷って彼氏いるんだ。俺狙おうとしてたんだけどなぁ、としょぼんとなってたら。あのうちの一人が要らん同情して実はね…と本当のことをこっそり教えるに決まってる。俺にはそういう未来がもう見えてるんで、ときっぱり断定的に告げられてげんなりした。

そこまでわたしに執着する男の子がそうそういるとは思えないんだけど。てか、何なら世界で一番わたしに執着見せてる男は間違いなくあんただよ。執着してるものの内実がそっちの想定とは全然違うし身の危険もないからまあ、うちの親からもわたしからも見過ごされてるけどさ。

「…その理論で言うと大学のどの知り合いにも本当のことは打ち明けられないじゃん。共学だし男子のいない集団なんてないよ。てか、サークルでも駄目ってこと?」

「もちろん駄目。…てか、サークル入ったの?そっちの大学でも。何で?」

初耳だったのか、思いの外強い反応。ハンドルに手をかけたままぐっとこっちに顔を向けた。いや今、運転中だから。

「信号変わるよ、ちゃんと前見て。助手席にいるこのわたしの頭と右手ががちで大事なんだったらさ…。そりゃ入るよ、サークルくらい。てか何でどこにも入らないと思った?そんな約束してないよね」

「してないけど。うちの大学のサークル紹介したじゃん。今からそっちに向かうとこだよ?自分の大学のと掛け持ちすんの、大変じゃない?二つのサークルに同時に所属するってこと?」

「あ、今日T美のサークル行くんだ」

そこで理解するわたしもわたしだが。車に乗ってまず最初に考えたのが、人の目に止まる場所にわざわざ目立つように迎えに来る名越にがつんと文句を言ってやりたい。だったので、そもそも今日は何のために、どこへ連れて行くつもりで迎えに来てたのか確認するのを忘れてた。

説明が遅れたが、名越がわたしにT美大の人脈を紹介する。と言ったのはその場限りの適当な思いつきじゃなかった。

お互い入学式が済んだ翌日のこと。即予定を入れられて、うちの大学まで迎えに来てさっさと連れて行かれた。今日と同じで、どこに何しに行くかの説明は後回し。

「これからうちの大学に戻るよ。あんたが入るサークル決めてきた。あ、一人で入れとは言わないよ。もちろん俺も一緒だけど」

笹谷って確かミステリ小説めちゃめちゃ読むよね?特に翻訳ものが好きだって聞いてるけど。一応国内のも読む?まあ不得意ジャンルがあっても問題ないと思うけど。入ったあとにどうせ布教されると思うし、と淡々と流れるように告げられて。思わずは?と声に出して訊き咎めてしまった。

「え、T美のミス研に入れってこと?てか美大にミステリ研究会ってあるんだ」

「そりゃあるよ。ひと通り何でもある、鉄道研究部もポケモンサークルもあるし。野鳥の会も天文も、普通に大学でありそうなサークルは大体何でもあるよ」

そんなの美術関係ないじゃん。と突っ込むと、やつは実に慣れた様子でスマートに運転をこなしつつ軽く肩をすくめてみせた。

「あんたの大学だって文学も史学も、法学や政治経済も関係ないサークルで溢れてるだろ。大学のサークルなんてそんなもんでしょ、わざわざ課外でまで専門と関連するものやりたくないのはどこでも一緒じゃない?まあ、絵とかイラストに関係する同好会もいっぱいあるよ。漫研とか」

そっちの方がいい?と無邪気な声で明るく尋ねられ、恐れ多くてぶんぶんと首を横に振った。

「とてもじゃないけど…。わたしは読む方専門だから。ただ読んで考察したり感想言い合ったりするだけならいいけど、美大なら絶対みんな描くのもやるでしょ。わたしはそっち系の絵は全然だから無理むり。てか、そういうのもうちの大学での方がいい。プロ並みに描く人たちに囲まれて漫画の話するなんてさ、まじで恐怖だよ。自分の場違いさで消えてなくなりたい」

「何でそんな部外者みたいに…。あんたも描き手じゃん。漫画描くかどうかはともかく」

画力ではうちの学生に引けは取らないんだから、もっと堂々としてていいよ。と当然みたいな顔してとんでもないことを言う。いやそんな風に考えるの名越だけだよ。

「T美の人たちから見たら普通に部外者で素人でしょ。てか、ミス研うちの大学にもあるから入るなら普通そっちだよ。T美まで通うのも大変だし…」

けど。実は〇〇大学のミステリ研究会って、すごい歴史があって全国的に有名なサークルなんだよな。プロのミステリ作家何人も輩出してるし、逆にこっちはこっちで恐れ多いかも。てか自分じゃ絶対入らないな、そんな生半可じゃ通用しない本気でガチなとこ。

とこっそり内心で呟いたのをまるで聞き取ったかの如く。名越はそこから話題が続いてるみたいに自然と滑らかに話を継いだ。

「でも逆に、ミス研としてはうちの大学の方が敷居が低くてリラックスできると思うよ。気楽に好きな作品を読み漁ってああだこうだ言い合って楽しむだけだから…。プロの作家を目指すみたいなガチ勢もいないしね。俺は仮入部済ませて先輩たちとの飲み会も参加してきたから。入りやすい雰囲気についてはまず間違いなく保証できる」

そうですか。もう下見済ませて来ちゃったんだ。

「それもしかして、既に〇〇大学の子連れてくるって言っちゃってあるやつ?他大学の学生入部OKかどうか確認済みとか…」

「え、そりゃそうだよもちろん。もう名前も登録してきた。今日はね、新歓だよ。まだ入学式終わったばっかだから正式なやつじゃないけどね」

入部決めてる数人の新入生囲んで軽く飲まないかって。あ、未成年はソフトドリンクでいいんだよと手柄顔で教えてくれた。いやだからそうじゃなくて…、まあいいや、もう。

反論する気もすっかり失せてそのまま易々諾々と流されるままにT美の近くの居酒屋に連れて行かれ、案外スムーズに受け入れられて好きなミステリの話で盛り上がってしまった。

大して近くでもないよその大学からわざわざここまで来るの?とか怪訝な顔も全くされず。みんな当たり前のように自然に接してくれるので居心地がよくなって、結果そのサークルの正式な一員となり名越が連れて行ってくれるとき限定とはいえ、それなりに楽しく参加している。

「…だからすっかりあれで満足してると思った。いろいろと忙しいのに、自分の大学でも別のサークルに所属して通ってる暇なんてあるの?」

過労で倒れちゃうよ、とまるで聞き分けのない子どもに懇切丁寧に言って聞かせる風である。いやそもそも。こうなったのはあんたが勝手にT美のサークルにわたしを入れたせいでしょうが。

まあ結局いつも文句言いながらも受け入れてなあなあにしちゃってるわたしの振る舞いのせいで、何となくこれでいいってなっちゃってるのが一番いけないんじゃないかとは思うけど。

美術部入部も夏合宿も、予備校の講習も今まで全部本気で怒って頑として断ったことないもんね。こういうやり方でいいんだと成功体験積ませちゃってるからな…と内心で反省しつつ、でもここは譲らないよ。とわたしはきっぱり宣言した。

いい機会だからこの辺で一回、はっきり思い知らせておかないと。何でもかんでもあんたの言いなりにはならないよ、って。

「自分の大学のサークルは絶対に要る。だって、クラス以外の知り合いそうしないと増えないもん。大学生活送るに当たって必要な情報は自力で集めないといけないし。上級生の先輩いないと、試験とか就職活動とか。いろいろわからないこと多すぎて詰む」

「そんな、コミュ障なのに。無理して積極的に動いちゃって…」

俺がいないと駄目なのに。やっぱり同じ大学じゃないと慣れてないこと自分で全部やらせることになって苦労させちゃうなぁ、とさも悲しそうに呟くな。そこまで何もできない無能じゃないわ。

「そのくらいのことはできるから。てかわたし以外の普通の大学生もみんな、自分で自分の居場所確保して自律的に行動してるんだし。何でわたしだけできないと思うの?友達も先輩も自力で作れるよ。まあ、そりゃ行ける時だけ顔出す程度で。フルに通い詰めるほどの時間は、そっちに割けないだろうとは。思うけどさ…」

T美のミス研もあるし、バイトもしなきゃいけない。名越に言われるからってわけじゃないけどやっぱり少しは絵も描きたいし、講義の予習復習もしないと(特に語学!)とか考えると。まあ週に一度か二度、あとは休講とかでふと空いた時間なんかに暇つぶしに顔出せればいい方かな…。

「…まあ。さすがにそっちの大学で自由に活動したらいけない、とまでは縛る気ないけどさ」

ややあってから少し冷静になったのか、折れる気を見せてくる名越。いやそりゃそうでしょ。ていうか、縛ろうとしても別に言うこと聞かないよ、わたし。聞く義理もないし。

「そもそも、何のサークルなのさ。まさかそっちでもミス研?よほど飽き足らないんだな。それとも本音では、絵描きじゃなくて。ミステリ作家になりたいって密かにずっと思ってたとか」

だから全国でも有名な本場のミス研があるあの大学を目指したのか。そういう理由なら致し方ないけど、あんたに小説書く才能があるの?絵を描くよりも?とかまじで詰めてくる。話の展開が早すぎるだろ。

わたしは肩をすくめてまだ真新しい座席に深々と寄りかかり、窓の外の方へと視線をやった。

そろそろわたしの住んでる街のそばを通過するな。わざとじゃなくてたまたまだけど、女子学生会館は〇〇大とT美大のほとんど中間地点あたりに位置してる。本当に意識してのことじゃなくて、条件に合う下宿を探してたらこうなっただけなんだけど。

そのことについて名越からは今のところ何の突っ込みもないけど、内心でどう解釈してるかわかったもんじゃない。そのうちこっちからきっぱりと否定しておかないと、すぐこいついい気になるからな。などと考えつつさっきの台詞に対してぶっきらぼうに言い返した。

「そんなわけないじゃん。絵の才能はともかく、小説なんか人生で一度も書いたことないし書ける気もしないよ。ミステリについてはT美のサークルの活動で充分満足してる。美大生の人たちとあんなにミステリ小説の話でちゃんと盛り上がれるとは思わなかったよ」

「…絵描きだって小説普通に読むよ。てか自分だってそうじゃん、絵が巧くて本もめちゃくちゃ読むし」

笹谷は偏見あるくせに自分は度外視なんだよな。と呆れた口調でぼそっと付け加える。ふん、すいませんね。

てかこいつも何が何でもわたしを美大生の仲間に入れたがるよな。サークルまで見繕って用意してくれるのはありがたいと言えば言えなくもないけど。

進路として美術一本の道を選ぶ覚悟決まりし者たちと、それだと将来が不安…という腑抜けた動機で偏差値重視の選択をしたわたしとが同一視されるべきじゃないような。

退路を絶って美術を専門とした人たちのことはやっぱりすごいなと思うし、そうできなかった中途半端な自分に対する忸怩たる思いもある。だからみんな一緒だよと名越に言われても、いやそうじゃない…とつい気が引けてしまうのは、彼らに対しての純粋な敬意からでもあるのだ。

と、もやもやと心の中で言い訳してるのを名越が知る術もない。軽い口調でそうかぁ。うーんじゃあ、何だろ?とハンドルに手をかけたまま首を傾げた。

「専攻は何だっけ。日本史?だったら歴史サークルとか…ああ、でも。こないだ大学で専門にやることと趣味のサークルくらいは全然関係ない方がいいよねって話した気がする。そしたら何だろ。漫研?ボードゲーム愛好会とか。あ、ポケ◯ン同好会?それはまじでT美でもあるから、あんたはそっちの方がいいかなと迷ったんだよね。そうでしょ?…そうかぁ、やっぱり、大学生になったら憧れの◯ケモンサークル入りたかったのか…。言ってくれればよかったのに…」

T美のポ◯モンも見学に行ったんだよ、あんたが結構好きだって知ってたから。じゃあそっちを選べばよかったのかな?と後悔する表情。

「いやそりゃポケモ◯は好きだけど。そこまでじゃないよ…。別に一人で部屋でこつこつやってればそれで満足だから。てか、サークル入る目的は同じ大学の知り合い増やしたいからなんだし。正直何だってまあまあいいんだよ、たまたま勧誘されたから。何となく入っただけ」

わたしが窓の外に目線を彷徨わせたままぼそぼそと釈明すると、名越はえぇ〜ヒントなしってこと?と素っ頓狂な声を上げて宙を仰いだ。

「じゃあ絶対に当たらないじゃん。てかあんたの大学に何のサークルあるかも知らないよ。まああのマンモスっぷりだから、きっとひと通り何でもあるんだろうけどさ。…何かな、夜のピクニック愛好会?それとも東京の地下施設探検隊とか。キャンベルスープ缶マニアの会…」

「何それ。ちょっと面白そうで入りたくなるじゃん。無駄にハードル上げるんじゃないよ」

咄嗟に思いついて適当に並べ立てた架空のサークルがそれか。絶対にないだろと言い切れない絶妙なとこ突いてくるな。

「そんな奇を衒ったとこじゃない、もっと普通だよ。うん…まあ、T美に同じようなサークルがあるかどうかは。正直ちょっと自信ないけど…」

「何だそれ。いや結局何なの、サークルの名前は?勿体ぶらずに教えてよ」

「別に。勿体ぶったわけじゃないよ」

あーあ。まあ、どうせずっと四年間隠しきれるとまでは思ってないけどね。

ハンドルを操り進行方向を真っ直ぐに見据えてはいるけど、その横顔がわくわくと期待に満ちてるのがわかる。

この様子だと絶対にこっちの大学のサークルにも介入してきそう。いかにも名越が興味持ちそうなジャンルだもんな。動物好きだし。

こいつが全然関わらない環境ってこっち来てからわたし、一個も確保できないんじゃないか、この分だと?…と微かな不安と不吉な予感を覚えながら。わたしは渋々とサークル名を打ち明けた。

「あの。…『猫又の会』、っていうの。活動内容は主に、地域猫の。サポートとお世話…」


「わぁ。本当だぁ、猫ちゃんじゃん。うわめっちゃ可愛い…」

猫ちゃん猫ちゃん、とわくわくはしゃいでるけど動作は静かで大きな声も出さない。さすがに動物好き、こういうとき相手を絶対に怯えさせちゃいけない。という大原則は重々承知しているようだ。

翌々日の金曜日、大学キャンパスの外の細い裏道の一角。さんざん追及されてこの日がパトロール当番になってる、と結局白状させられてしまった。そして当たり前のようにしれっと一緒に乗り込んできてのこれ。

「…あ、耳カットされてる。手術済みなんですね。この子は何歳くらいなんですか?」

触られたらやっぱり嫌だよね、飼い猫ちゃんじゃないし。と一応遠慮して距離を置いて猫を覗き込んでる名越。三年の女子の先輩がそうっとその猫を抱き上げて、大丈夫だよこの子人懐っこいんだ。ね、いい子いい子してもらおうねぇと囁いてから名越の方へ差し出した。

「そっと優しく撫でれば平気。…この子の名前は『ぽんかん』ていうの。多分今十歳くらいかな。ずいぶん前からこの界隈で暮らしてるみたいで。手術もわたしが入学するよりずっと前に済ませてあるんだよね」

「へぇ。…そうか、避妊手術の面倒まで見てるんだ。かなり本格的な保護猫活動ですね」

笹谷が言ってたのとだいぶ違うな。地域猫のパトロールして餌あげて健康チェックして、あとは部室で駄弁ってるだけ。って言ってたんですよあの人。と気さくな口調で暴露する。おい、勝手に先輩に言いつけるな。

「あ、でもそれで大体合ってるよ。笹谷さんには新歓のときにそう説明したから何も間違ってない。新しい地域猫が迷い込んで来ない限りはやることいつも一緒だもん、この近辺の子はみんな既に手術済みだからね」

わたしたちが入学してくる前にOBの人たちが頑張って全部やっててくれたから。今すごく切羽詰まってやらなきゃいけないことってそんなにないんだよね、猫が元気で病気してないときは。普段はまったりと現状維持って感じ。とその女子の先輩は呑気な口振りでやつに説明した。

「…ああ、そうそうとっても上手。何だか動物慣れしてる触り方だね。あなた、お家で猫飼ってるの?」

「はい、そうなんです。だからこういう子のお世話には割と慣れてる方だと」

相変わらずの無駄に爽やかな笑顔で、得々として言ってのける。…え、そうだったっけ?嘘だぁ。

「あんたんとこで飼ってるの、確かポメじゃなかった?ほらあの白っぽいもっふもふの。『まる子』か『まる太』か、どっちか忘れたけど。まあ猫みたいなもんって言えば言えなくもないけどさ、小型犬なんて…」

わたしが毒気の抜けた声で、でもあまりの名越の調子の良さ(まあいつもの見慣れた姿ではあるが。ただの平常運転)に呆れて思わず横から突っ込むとやつはまるで悪びれもせずに平然と応じた。

「『まるみ』ね。あいつは姉貴がマンションで飼ってるペットで、実家では本当に猫飼ってるんだってば。嘘だと思ったら今度帰省したとき見に来ればいいじゃん。可愛いよ、どでっかいんだけど。ノルウェイジャンフォレストキャットって言って…」

「…え、名越くんのお家ってノルウェイジャンフォレストキャット飼ってるの?うわぁいいなぁ、めっちゃ羨ましい。わたし憧れてるんだよねぇ」

白黒まだらの地域猫を抱っこしているその先輩(瑞原さんという人)が俄然その話題に食いついて身を乗り出してきた。

「あのボリューミーな脇腹のもふに顔を埋めて思う存分猫吸いしたい。箒みたいな尻尾で顔をばふばふされたい…。やっぱり、よっこいしょと抱っこすると結構重いの?ね、名越くん家ってどこなの?都内?」

「いえそれが。…進学で上京してきたばっかりなんです。実家は□□県で…」

目を輝かせてきゃっきゃする先輩と一緒に仲良く『ぽんかん』を撫でる名越。意気投合してる様子はまるでカップル誕生の瞬間だ。

わたしと並んでキャットフードを抱えてぽかんとなってる男の先輩が、よほど所在なくなってるのかわたしに話を振ってきた。促されて慌てて預かってた猫の餌皿を歩道と建物の隙間に置く。

「…もしかして、君も□□県出身なの?ほら、さっき彼の家のペットの話とかしてたし…」

こっちに来てからの知り合いならそこまではなかなかわかんないでしょ。と世間話的に尋ねてくる。彼がからから、と袋を傾けて皿の上にドライフードを盛り始めると瑞原さんの腕の中の猫がぴん!と耳を立てて、盛んににゃあにゃあと鳴き出した。

「えーと、そうですね。高校のときの同級生なので」

「うちの大学の学生じゃないんだよね。今日はわざわざ君についてきたの?仲良いみたいだし、もしかして彼氏とか?」

全く声をひそめる様子もなく、猫とじゃれている二人に聞こえてもいい。むしろ聞こえることを想定して喋ってるようにも思えたので。この男の先輩、瑞原さんが見知らぬ歳下の爽やかイケメンと楽しそうにしてるのがちょっと嫌なのかな…と思わず少し邪推してしまった。

そう考えるとあまりにもにべもなくいえ、滅相もないっす。あんなの全くの赤の他人ですとか断言しちゃうとこの男の先輩への援護射撃にならないのか…って躊躇と。

そういえばこっちから積極的に匂わせはしなくていいけど完全否定は駄目。何となくそれっぽいと思わせとけ、っていう名越からの指令をついでに思い出してしまい。いきおいなんだか曖昧でぐずぐずした反応になってしまうのだった。

「ええと。…そういうわけでもないんですけど。そこまでじゃないっていうか。付き合いだけは無駄に長いし何かと面倒を見られてる、っていうか」

「…あ、そうなんだよ。今日は猫ちゃん見られるっていうから便乗しに来たのもあるんだけど。迎えに来たんだ、このあと画塾に連れて行こうと思って。バイト探してるんだろ?笹谷」

かりかり、と盛んに音を立てて小さな頭を揺らしながら夢中でフードをがっつく猫。その背中をそっとゆっくり撫でながらのんびりとした声で名越はわたしと先輩の会話に入ってきた。

ああ、ほら、やっぱり。今の話背後でがっつり聞かれてた、二人とも猫の一挙手一投足にひたと吸い寄せられてるようにしか見えなかったのに。

「それって、大河原先生が言ってた東京の知り合いの絵画教室?わたしも連絡先教えてもらってるけど。え、早速連絡したの?あんた」

はや。

まだ入学式終わってから二週間そこそこ。やっとカリキュラム決定して講義が始まったばかりだ。サークルも決まって実際にこれで過ごしてみて、どの程度余裕があるかを確認してからバイトを決めようと思ってた。

正直画塾に通うまでの時間的なゆとりがあるかどうかは自信ないなぁ、挨拶に行ったはいいが結局通えない。ってなったら、わざわざ面会の時間割いてもらっといてかえって迷惑になるのでは…と思うと気が引けてしまっていた。一方名越は美大だし、もしかしたら講義の数とかうちより少なくて余裕あるのかな。バイトもする必要ないだろうし。…ん?

「あれ?絵画教室に生徒として通うんじゃなくて。そこでバイトするってこと?受付とか」

そりゃ、居酒屋とかファミレスでバイトするより環境としては良さそうだが。画塾なんてそんなに人手が必要なもの?ぽっと出の一般大学生が働ける分野なんてあるかな。

と率直な疑問で首を傾げてると。かりかりの音がやや落ち着き始めた猫を撫でる手はそのままに、名越は平然と訂正を加えてきた。

「いやいや、講師補佐だよ。そこでは小中学生に絵を教えるコースがあって、結構盛況なんだよね。だから絵を見てあげられる人がもう少し欲しいって。つまりはまあ、子どものお絵かきの先生だよ。あんた出来るでしょ?基本はひと通り押さえてるはずだし」

大河原先生にみっちり基礎から教えてもらってるんだし、もう我流とは言えないでしょ。とけろっとして言われるけど。

「…あんたはいいけど。美大生だし。でもわたし、何の肩書きもないただの一般大学生だよ?美術専攻でもないし」

わたしがテンション低くぼそぼそと突っ込むと、それを聞いた瑞原さんがえー名越くんて美大生なんだ、すごいね。と感嘆したように小声で呟く。しまった、図らずも彼女のやつへの評価をうっかりちょっと上げちゃったか。

わたしらみたいな世間ではそれなりの大学と思われてるとこの学生からすると、高偏差値はもちろん上には上ががんがんいるからきりはないけど。そういう同じ土俵の上の存在より、全然違う分野で輝いてる同年代の方が眩しく見えることあるからなぁ…。考えてみれば芸術系はそこにぴたっとはまるかも。

なんて呑気に考えてたら、かりかりを食べ終えた猫にごろごろと喉を鳴らしてすりすりされてる名越はひょいとなんてことないようにその子を抱き上げ(おのれ、誰にでもすんなり受け入れられる小器用な八方美人とは思ってたけど。猫にも特効なのか!)、さらりと言い放つ。

「何言ってんの、大抵の美大生よかあんたの方が描けるだろ。何しろもう既に画廊デビューしてるし。絵を売った実績もあるし…」

「え。…笹谷さんってまだ大学一年なのにプロの描き手なの⁉︎やば」

こっちが口を挟むより先に先輩たちにどん引かれた。ほら、言わんこっちゃない。そりゃそういう反応になるよ。

「いえあの、この人の家が画廊のオーナーなので…。その縁で特別にギャラリーを使わせてもらっただけです、ほんの高校の卒業記念で。売れたって言ってもたまたま、ニ、三枚ほど。デッサンとか」

こっちは焦ってごもごも必死に弁解してるのに。空気をまるで読まない男が横からばっさり追い討ちをかけてくる。

「いや二人展だったけど。俺のはあのとき売れてないよ。…それに、例の画塾の先生には既にあんたの絵は見せてるから。それ見た上で講師補佐として採用するって判断なんで、美大生かどうかとかは関係ないってさ。別に子どもがこの先生どこの大学?とか気にするわけじゃないしね」

「いや、…中学生ともなると気にするんじゃないかな。子どもはそういうのわかんなくても。親御さんは気にしそうな気もするし」

あくまで弱気なわたしに、ごろごろ甘える猫を抱えたまま肩をすくめてみせる。

「そしたら〇〇大だって言っとけば?それはそれでステータスあるから。ついでに勉強教えてとか言われそうだけど。親御さんは喜ぶんじゃないかな、かえって」

「いやーどうなんだろ…。絵を教えて欲しいならT美の方が絶対いいでしょ。あんたの方が断然デッサン力高いし…」

「へぇ。名越くん、T美なんだ」

なんかかっこいいね、お洒落。アート系って感じ。と瑞原さんは感心してる。ここで再び名越の評価が無駄に爆上げされてしまった。

ぽんかんが全てきれいに食べ尽くしたお皿を片付けてその場を掃除し、猫にバイバイと手を振って別れる。それからいつものルートだという順路をなぞり、猫の溜まり場や出没場所を巡る。

大体巡回する時間が決まっているので猫たちはちゃんとタイミングを承知していて、いつもの場所でそれぞれ待ち受けていた。思ってたよりずっと賢いやつらなんだなぁ、この子たち。

こいつがにしん丸。こっちがオルオル、あれははこにゃん。と次々に紹介される猫たちは既に先輩たちにすっかり慣れていて、にゃあ。とお利口に挨拶してくれる。

「…なかなか個性的なセンスですね。名付けの」

いつも誰か決まった人が付けてるんですか?と感心してるのか苦笑してるのか、名越がやんわりと突っ込むと瑞原さんはさあ?と頭を振った。

「わたしたちの代で名付けた猫は一匹もいないけどね、みんなベテランだから。でもセンスに統一感ないのは名付け主が全部ばらばらだからだと思うよ。地域に新顔が現れたタイミングで、その都度当代の面子が名付けるしかないから。どうしても行き当たりばったりになりがちで、法則も何もないんだよねぇ」

なるほど。

それから大学の周りをぐるりと一周し、途中商店街の方へと抜けて念入りにチェックする。

ちゃんとところどころにトイレも設置してあって、そこでするのを覚えているので地域の人たちにも受け入れられてるらしい。もちろんそのトイレの掃除もサークルのメンバーが担当する。

パトロールが終わって一旦大学に戻り、部室でひと休み。

今日は巡回当番じゃなかった先輩方が部室で待っていて、戻ってきたわたしたちをご苦労さまと労ってお茶を淹れてくれた。よくわからないのはそこに平然として紛れて不思議と馴染んでいる名越の存在なんだが。こいつ、どれだけコミュ能力チートなのか。知れば知るほど少し怖い。

「…手術これからの子はいないって聞いてたからそんなでもないのかと思ってたけど。これ、地味に結構大変ですね。費用はどうしてるんですか?」

餌も猫砂も部費で賄ってるのかな。毎月どれくらいかかるもんなんだろ、と貧乏学生らしくそんなことがちょっと気にかかってしまう。

わたしの遠慮がちな問いに、その日はパトロール当番じゃなく部室でお留守番だった二年女子の先輩が首を傾げて答えてくれた。

「わたしたちの部費だけじゃさすがに心許ないから、学内で猫好きの学生からもカンパもらってるかな。学食とか生協とかにボックス設置してもらってるよ。あとは商店街のお店にもカンパ用のボックス置かせてもらってるし、それで大体賄えてるかな。普段は餌代と猫砂代くらいだしね。わたしたちの人件費みたいなのは考えなくていいわけだから」

商店街の会費からも毎月いくらか頂いてるし。お店で食事するときちょっと割引してくれるとこもあるし、まあそれで回ってる状態だね。と丁寧に教えてくれた。

「でも、いざ新しい迷い猫が現れたらそのときは大変らしいよ。一気に獣医代とか手術費用とかイレギュラーな出費が必要になるし。過去には既に妊娠した状態の猫が流れてきて居着いた事例もあったらしいからね。そうなるとまじで総出でばたばた、病院代捻出やら出産の面倒やら。生まれた仔猫を里子に出せるくらいまで育てるのも、安心安全な引き取り手を見つけるのも」

まあうちのサークルの外でも猫好きは多いから。手伝い募集すれば案外人員は確保できるけどねと他の三年の男子の先輩が笑って付け加えた。

「そういうときは俺も手伝いますよ。うちの大学の学生の中で引き取り手を募集するのもありだと思うし」

名越がいかにも自分もここの一員、って顔つきで悠然とお茶の入った紙コップを受け取りつつ申し出る。二年の女子の先輩が微笑んで頷いた。

「そうだね、そのときはお願いするかも。実際仔猫は割と、貰い手に困らないんだよね。とにかく可愛いし写真見せて回れば、飼いたい!って希望者続出するし。学生は暇もあるから世話の手助けも請け負ってくれる人も多いの。やっぱ問題は病気とかのときの医療費かな」

「あと、野外で面倒見るわけにいかないときのお世話する場所…。猫が出産するときとか。生まれたての仔猫も外でってわけにいかないからね」

今んとこいつメンの猫は手術済みだから出産は心配しなくていいけど。そろそろ弱ってきたかな、って年齢の子はちょっと心配だよね、急に病気になったりしないかって。と考え深げに横から口を挟む長老っぽい四年生の先輩。

「俺が一年のときの先輩たちが言ってたけど。やっぱり歳を取って弱ってきた猫を病院に連れて行ったり、最期看取ったときにはかなり大変だったらしいよ。それをこの部室でっていうのも無理なんで、大学の施設で動物は飼えないから。下宿のやつはアパートがペットOKじゃないと引き取れないし、自宅生で何とか家族の了承を得るしかないんだけど。それでめちゃくちゃ苦労したって聞いたなぁ…」

「うへ。…明日は我が身かぁ」

しみじみした重い語りを耳にして、わたしたちと一緒にパトロールに行った男の先輩が思わずといった様子で肩をすぼめる。

「まあ、今すぐ…ってほど年寄りのよぼよぼな子はいないんだけどな。急病は予測できないから、いざというときは慌てないように段取りを考えておかないと。だからカンパで貯まったお金もちょっとでも余分が出たらこつこつプールして。先を見越して備えておいて…」

なるほど。

わたしは頂いたお茶の紙コップに口をつけ、深々と頷いた。

「たまたま勧誘を受けて、猫可愛いしいいかな。ってくらいの考えで気軽に入部したけど、やっぱり生き物の生命のことだから考えてみればシリアスですよね。今のうちにわたしもバイト頑張って、少しでも余計にカンパしておかないと」

深刻な顔でそう呟くと、四年の主の先輩はあははと豪快に笑い飛ばしてわたしをフォローしてくれた。

「そういう難しいことはいいんだよ、一年生は考えなくて。猫ちゃん可愛い〜で気軽に興味持って参加してくれて、あの子たちと仲良くなってくれたらそれで充分。まあ、あんまり深く考え過ぎずにそのときが来たら何とでもなるって気楽に構えておかないとな。今からがちがちに悩んで考えてもいざとなったらその通りにいくとは限らないんだし」

「そうそう。…変に深刻にならないでいいから、軽い気持ちで遊びに来てね。友達にもそういう風に宣伝して、猫に餌やりするの楽しいよ!って」

「うん。…それは、本当に。楽しかったです、今日」

でもまあ。出来ることはなるべく貢献したい。可愛い猫たちのためになることではあるし。

と、そこで。わたしの隣でじっと考え込んでいた名越がそこでふと口を開いた。

「…そういう方面だったら。俺、力になれると思います」

急に何か言い出した。てかお前、わたしの付き添いでしれっとくっついて来ただけで。ここの部員でも何でもないじゃん。

そう突っ込もうと思うんだけど。こいつの生真面目な表情と、思わずその場にいる人たちがしんとなぅて耳を傾けてしまう語り口の誠実さ、実に半端ない。

おそらく普段は意識的に使ってないだけで、本人がその気になればいつでも皆の耳目を集められるって感覚があるんだろうな。どういうわけかわたしにだけはあんまり通用してないけど。側から見てるとちょっと怖…と思うときある。

そんな風に内心引いてるわたしには構わず、やつは実に信頼のおける真面目な人。って雰囲気を惜しげもなく醸し出し、テーブルの上に身をもって乗り出してゆっくりと響く声で説き始めた。

「うちのマンション、ペットOKなんです。多少汚れても大丈夫な部屋もあります。アトリエがあるんですよ、油画専攻なので。制作するとどうしても絵の具とか飛びやすいですから。専用の空間を確保できる場所を探して住んでるんです」

「ああ。…そうか、美大生だから」

瑞原さんがぽかんとした表情で独りごちる。別の三年の先輩が、それでもさすがにすぐに納得するとはいかずやや疑り深く問い返した。

「でもさ、そんなに広いお家なら、もしかして同居家族がいるとか。…そちらから何か言われない?アトリエももしかして、その人との共有だったりしたら」

勝手に猫なんか入れないでとか。作品に傷がつくからやめてとか、言われる可能性はないかな。制作する人って、やっぱり何よりも作品が大事でしょ?と心配そうに呟く。まあね、それはその通り。

それにしても。とのほほんと他人事丸出しでちみちみと紙コップの中のほうじ茶を少しずつ嗜みながら(あんまり一気に飲んで空にしちゃうと。なんかお代わり要求してるように見えたら困るから…)、わたしはぼんやりと先輩方の反応を脳内で分析していた。暇なので。

…当たり前だけど、この人たちは名越ん家が全国でも有数の一大グループ企業のオーナーで長男の大学費用を惜しむ必要なんて微塵もない、なんてこと全く知らない。

だとしたら、東京で部屋を借りて下宿してるのはやむないというかそうするしかないわけだが。

ただでさえ半端なくお金のかかる私立の美大。なのによくある生活ぎりぎりの貧乏学生でもなくペット可のマンションに複数の部屋ありで暮らせるならそこには何か理由があるに違いない、と考えたとしても無理はないだろう。

例えば、きょうだいとか身内が既に上京済みでそこにあとから転がり込んだとか。同居人は社会人でお金に困ってないとか、あるいはアトリエがあるってことはその人が美術関係者なのかも。

世間じゃ美術の道に進む人は一族の中に何人もその手の人がいることも多いと聞くし。だとしたらアトリエの使い方は名越が勝手にしていいものなのか?芸術家のいとこか兄姉に無断で安請け合いしておいて、やっぱり無理でしたぁ。とかへらへら言い訳し出すんじゃないの、結局は?

…と、ざっくり想像するに皆そんな心配をしてるのでは。

確かに見るからに調子いいもんな、こいつ。いかにも誠実そうな顔して自分に任せとけ!と懐の広いとこ見せといて、案外すぐにくるりと手のひら返してしまって。登りかけた梯子外すんじゃ…と思うと、何だか都合いいことだけ言われてもあんまり信用できないなぁ。とちょっと疑り深くなりかけたか。

ま、気持ちはわからなくもない。あまりに完璧に愛想が良過ぎてかえって胡散くさいもんなこいつ。でも見た目のいんちきっぷりとは裏腹に、名越が口だけで結局何もしてくれなかった。という事態はこれまでわたしは見たことがない。

こう見えて有言実行、信用はおけるやつなんですよ。いざというとき猫の世話してくれるっていうんならまず約束を違えずにちゃんと引き受けてくれると思うんですよ…と助け舟くらい出してやるか。やれやれ、とため息をついて口を開きかけたとき。

「あ。…大丈夫です、アトリエを共同で使うやつはそういう理解はある人物なんで。猫も好きだと思うし。…ね、笹谷?」

急に名前呼ばれて慌てて紙コップから口を離す。ほとんど飲み終わっててよかった、縁から溢れるところだった。

それまで他人のふりして視線を合わせないようにしていたのがまるで無駄。顔を上げたわたしに、にこっと輝くような裏心のない笑顔を向ける名越と、部室中の先輩方がじっとこちらを伺う気配がそこにはあった。

やつはわたしが体勢を整えて問い返す暇もなく、笑みを浮かべて室内を見回しあっさりと説明を始めた。

「うちのアトリエはそこの笹谷と一緒に使うために用意したものですから。広さも充分に確保したので、片隅に猫のケージを置いても全然邪魔にはならないし。何ならキャットタワーくらい余裕で設置できますよ。ああ、でも。視界に猫がいると笹谷の気がそっちにどうしても逸れちゃうかな。俺は慣れてて平気だけど、あんたは猫好きな割にこれまで接触があんまりなかったみたいだから…。あの可愛さに耐性なさ過ぎて、多分刺激が強すぎるよね」

仕方ないから、いつか俺たちのアトリエに猫を引き取るときに備えて今のうちにこのサークルで少しずつ猫に慣れさせてもらっておくといいよ。と悠然と付け加えてからほうじ茶を飲み干す。いや、猫に慣れとくのは別にそのつもりだし問題ないが。それ以外…。いろいろと突っ込みたいがどこから手をつけていいかわからない。

瑞原さんがちょっと怪訝な顔でわたしとやつを見較べ、おずおずと質問する。

「あの。…もしかして笹谷さんて、名越くんと住んでるの?同郷で一緒に上京してきたし。二人やっぱり、付き合ってる同士。ってことなのかな、と」

「いいえぇ。もちろん全然違いますよ」

わたしは急いで紙コップをそっと木机の上に置き、ぶんぶんと精一杯手を振って否定する。部室中の視線がわたしたちに集まってるこの事態にびびり散らかし、他人の思い込みはそのままにしておけ。と言いつけられてたことも頭の中から吹っ飛んでしまった。

だけど名越はわたしの否定など気にも止めない。小型犬並みにきゃんきゃん吠えたててもどうせ自分が口を開けばみんなこっちの言葉に聞き入る。とまるで確信があるみたいに。

そして事実その通りになった。

すっと上げた名越の顔に浮かぶのは。これまで何度か見たことのある、誠実で真摯に語りかけて他人を信用させる、あの表情。

「…当然、自分が絵を描きたくて美大に進学したんだろと思われるでしょうけど。それより何よりこの笹谷の画業を支えるために俺はこの人と一緒に上京しました」

「…重いよ」

辛うじて呟くようにひと言突っ込んだけど。その場にいる人たちは名越の迫力に負けて誰一人わたしの方に注意を向けてはいない。

こいつは一体何を言い出すつもりなのか、とじっと聞き入る先輩たち。ただの好奇心からなのかもしれないが、誰も笑い飛ばしたり茶化したりせずに名越の次の台詞を待ってる様子なのはやはり大したものだ。

「彼女のこちらでの住環境からして、おそらく自室で油絵を気軽に描くってわけにはいかないでしょうし。俺と違って学校で描く機会もない。だから絶対に、いつでも思い立ったとき気軽に出入りできて心の赴くままに自由に描ける空間を用意しなきゃと考えました。だから俺んちのアトリエの主は、俺自身というよりむしろこの人って想定してます。…あ、そうだ。これ渡しとくから、笹谷。俺がいないときでも自由に入ってていいよ。何なら好きなだけ泊まってもいいから、布団も用意してあるし」

そう言ってごそごそと取り出した合鍵(ご丁寧にもわたしが好きな猫のキャラのキーホルダーが既についてる。このキャラクター好きなんだ、とかこいつに言った覚えもないのに)。テーブル越しにすいとわたしの手を取り、その中にごく自然な仕草で握らせた。…初対面の人たち衆人環視の中で。

えー…。どん引き。かも。

「いやそんな。…他人の家に勝手に出入りなんかできないよ。てかだいいち、あんたの家どこか知らないし。そこまでわざわざ通うのも面倒だし…」

「あ、それは大丈夫。抜かりないよちゃんと、笹谷んちのすごく近くに部屋借りた。徒歩圏内だよ、もちろん。っていうかそれに気づいてないとは…」

やっぱり抜けてるというか鈍いなぁ。そういうとこ、笹谷らしいっちゃらしいけどさ。と呆れたように言われるけど。何だそれ。

「…気づかないとおかしいの?わたし、あんたからまだ聞いてないけど。住所もなんも」

天然ボケみたいに扱われて納得いかないわたしは抱いて当然な疑問を真っ向からやつに突きつけた。けど、名越はうなぎのようにぬるりと身をかわして平然としてる。

「だって、受験終わる前からずっと、住むとこ決まったらすぐ教えろって言ってあったじゃん。当然その近くに俺も住むってことだよ。一刻も早く場所が確定できないといい物件なくなっちゃうからね。まあ結果予算はだいぶオーバーしたけど。その分予定よりも広くて快適な部屋に決まったから、これはこれで悪い成り行きじゃなかったけどね」

そこでスマホを取り出して解除し、何事かさっさっと操作してる。手を動かしながら口は休めない。

「大体さ。いつも家まで送るとき停める駐車場、あんたんちのほんとすぐ近くだし。あんなとこに月極で借りてるの、どういう意味か気づかなかった?当然俺んちもあの近くってことだよ。ふつう駐車場って、自宅の近所に借りるのが当たり前じゃん」

「いや。…あれってコインパーキングに停めてるんだとばっかり…。うちに一番近い駐車場だから一時的に停めて、そこから家まで送ってくれてるんだと…」

遠慮なくずばずばと追及されて、私は思わず押されてたじたじ。

言われてみれば、パーキングでいつも必ず同じスペースに停めてたな。と今になってふと思い当たる。改めて思い返すと確かに不自然なんだけど。

お気に入りの場所なのかな、たまたまいつも同じ場所が空いてるもんなんだな…くらいに考えて深く気に留めてはいなかった。

介入せずにただただ好奇心満載で耳を側立たせてると思しき人たちに囲まれて、こんなところで大々的にやることか。と内心思わなくはないが、大人しく無抵抗で引っ込むわけにはいかない。

「そもそも、自分ちを本当にわたしに使わせる気ならこれまで何でそう言わなかった?いや早く教えてほしいとかは全然思わないけど、でも大学始まって二週間だよ?俺の部屋すぐそこに借りたから、くらい言っても良かったんじゃないの。…いやもちろん、特にあんたの住み場所知りたいとかは。全く思ってはいないんだけどさ…」

何でもっと早く教えないの!とかはさすがに傍からどう受け止められるかわからない悪手のような…。

オーディエンスたちからこいつらただの痴話喧嘩。とかは思われたくない。

演説が終わって喉が渇いてるだろう。と思われたからなのかはわからないが、名越の隣に座ってる三年の女子の先輩が無言でお茶を継ぎ足してあげてた。やつは丁寧にお礼を述べてそれをひと口飲む。

「…どうせわかることだから。入学そうそうあんたは人心地ついてさあ絵を描き始めようか、ってとこまでいってないだろうし、それまでに必要なもの揃えたり室内を使いやすいように整えたりしてたよ。今日このあと画塾で面接だから、バイト決まればそろそろ気持ちも落ち着いて描きたいってなるかな、と。そしたらうちにそのまま連れて行こうかと思ってた。ほら笹谷のための新しいアトリエだよ!って言って驚かせたかったから」

「いや。…この方式で知らされても、別に充分驚かされたよ」

わたしは閉口しきった這々の体で辛うじてそれだけ突っ込む。まじでそのときの名越の様子が想像容易、何度もこれまでその手の展開この目で見てきたから。きっとここでこの話題が出なければ普通にそうするつもりだったんだろうな。

まるで当たり前のこと、とばかりに平然としきってる名越の態度とどん引きしてるわたしを交互に見較べて、隣に座ってる二年の女子先輩が小声でぼそりと独りごちた。

「…ストーカーのサプライズ。ってやつ?」

「まあ。…そうですね、要は」

そんなに笹谷さんの絵ってすごいの?え、今見れる?じゃあちょっと見して、と言い出した男の先輩の言葉を皮切りに部室中のみんなが名越のスマホの周りに寄っていく。

わたしの絵を広める絶好の機会に上機嫌な名越が何故か得意げに開いたスマホをテーブルの上に置くのを横目に、隣の二年の先輩(確か、『鎌ヶ谷』さんだったはず)はさらに低い声で周囲に聞こえないようぼそぼそとわたしに尋ねてきた。

「なんか。…彼の愛想の良さと人好きする感じでごまかされてみんな良い方向に受け取ったみたいだけど。客観的に言ってこの話、ちょっとやばくない?」

わたしはその声音の中に真っ当な警戒感を読み取り、思わず隣の彼女の横顔を見た。鎌ヶ谷さんは胡散くさそうに眉を寄せて名越を眺め、そっちに顔を向けたままこそっとわたしに囁きかける。

「あの調子で皆を魅了して何となくなあなあで彼の思い通りにことを運ぶ感じなんだろうけど。この感じだとあなたがもしも本気で困ってたり嫌だと思ってても、誰も危機感抱いて助けてはくれないんじゃないの?それで実は真剣に悩んでたりするんなら。…さすがに気の毒だし、抜け出すのに手とか貸した方がいい?」

「はあ」

わたしはまじまじと、彼女のきりっと整った横顔を見返した。

どうやらこの人には名越の『魅了』が通用しないらしい。そりゃそうだ、あいつは人間だもの。漫画に出てくるような特殊な能力とか魔法持ちなわけではない。

名越の説得力でみんな丸め込まれるのは単にやつが時折意図して魅力を惜しげなく発揮するからってだけで、超自然的な力でも何でもないので。当然そんなの屁とも思わない人たちもちゃんといる。ここではどういうわけか少数派らしく、今現在しらっとなってるのはこの鎌ヶ谷さんとわたしだけらしいが。

「見せて見せて。…わあ、いいじゃんすごいねぇ。笹谷さん、こんなに描けるのに。美大受けなかったの?なんか勿体ないね」

「いやまあ、今どき必ずしも美大出なくても絵の仕事できるっちゃできるでしょ。SNSでバズればワンチャン…、お、結構フォロワーいるね。既に固定ファンいるんだー」

「結構好きなタイプの絵かも。…『sasarley』ちゃんっていうんだ。わたしもフォローしとこっと。ね、こっちでも個展やるの?そのときは教えてね」

「あ。…ありがとうございます」

とりあえずその場の空気に合わせて礼を言う。

結局こうしてサークルメンバーに絵を宣伝してもらえてるし、それに対して怒ったり否定したりする流れではないのはわたしにもわかる。

次々と絵を褒めてくれてる先輩方にへこへこと頭を下げてるわたしを気遣うように見守ってくれてる鎌ヶ谷さん。どうやらかなり本気で心配してくれてるみたいだ。きっといい人なんだろう。

まあ、客観的に考えてみたら無理もない。とわたしはカオスな空気に満ち溢れた部室の中でぼんやりと考えた。

ここで冷静になれてる人の目から見たら、人好きがして世間に受け入れられてる超巧妙なストーカーの虜になってるのに誰も助けてくれない孤独な被害者。こいつに付きまとわれて困ってるんです、勝手に家の近くに住むし学校にまで入り込んできて、人間関係に介入してくるし…と必死に訴えたとしても誰も味方になってくれない。

またまたぁ、あなたのためなら何でもしてくれる尽くす彼って感じじゃない?たまには一人になりたいとかあそこまでされると正直怖い。とか贅沢言うとばち当たるよ。あんなお金持ちでイケメンで何でも先回りして叶えてくれる気の利く男の子、そうそう他にはいないと思うし。逃したらあなたの方が絶対に損するんじゃない?

このサークルの人たちのみならず、クラスの友達もT美のミス研の人たちも口を揃えてそう言うだろうなぁ、ってのが目に浮かぶ。しかもそれが完全に的外れとは言い切れないのが何とも…。

『…どうする?本当に困ってるんならこのままは良くないよ。警察に相談しようか?何ならわたしも同行してもいいよ』

ごく小声で周りに聞こえないよう、慎重に切り出されてようやくはっとなる。

いかん、そこまでやばい様子に見えてたのか。しかしそれはさすがに本意ではない。

こいつが一般常識を超えてやり過ぎなのは全くその通りで草も生えない。けど、全面的に迷惑だとか逃れたくて心底困ってるのかって言われたら。それは正直、そこまででもないかも…。

何より名越は全く危険なやつではない。警察に訴えなきゃならない要素なんて、あいつには何一つないわけで。

「…困ってるというか。わたしのために細々と世話を焼いたり先回りして環境を整えたりしてる暇があるなら自分の大学生活を充実させればいいのに。というのがまず一番あいつに言いたいことかな。と思います」

小声で、でも鎌ヶ谷さんが慎重に声をひそめたほど誰にも聞こえないように気を回してはいない。ある意味他の先輩方や名越の耳に届いてくれても構わない、いやむしろ聞け。というくらいの本音ではあるので。

「わたしの描く絵を好きな気持ちは純粋なんだなとわかるし、そのために自分の出来ることは何でもするってだけで他人に危害を加えるようなことはしない。最低限の常識は理解してるはずだし誰にとっても危険な人物ではないです。ただ、…もうちょっと。程度ってものをわきまえてもらえれば。さすがに自由に使えるアトリエはやり過ぎだと思う」

「えー、じゃあやっぱり芸大受ければよかったじゃん。そもそも美術系の大学進んでくれれば描く場所わざわざ確保する必要もなかったんだよ。しかもあの狭い女子寮の部屋じゃ、ろくにキャンバスも置けないし。俺が近所でアトリエ提供しなかったら一体どこで描くつもりだったのさ?」

う。

「それは。…例えば、例の画塾とか。大河原先生んとこで描かせてもらってたときみたいに」

確かに。と返事に窮しかけて、苦し紛れに思いつくままに口にする。実際のところは名越が連絡しといてくれなきゃ、顔も出さずに終わってたかもしれないのにね。

そこを突かれるかと覚悟したけど。名越はやれやれ顔で肩をすくめながらわたしを軽く論破した。

「大河原先生の教室ではあんたは月謝払ってたお客さんだろ。そりゃスペースも使えるし作品だって保管しといてもらえるよ?でも、こっちの近藤先生んとこではバイトの助手だから。自分の絵描いてる時間なんてそんなにないよ。あっても子どもたちに教える授業の合間でしかない」

う、…んまあ。それはそう。

名越は半ば呆れ、半ばはしょうがないやつだなあ。と考えてるのがありありな生温かい笑みを浮かべた目をわたしに向けて、ため息混じりに呟いた。

「笹谷ってこれだから。危なっかしいというか、意外と抜けたとこあるっていうか。絵を描くこと最優先の人生じゃないんだってことは知ってるよ。でも、あんたの絵に惚れ込んでてそれなしじゃつらいって人間も既にそれなりにいるんだから。もう少し、自分の才能を大事にしてほしい」

そのためには俺は笹谷の役に立つことなら何でもするし。この人が入ったサークルとここの地域猫たちのためにも出来る限りのことをしますよ、これも何かの縁だと思いますから。と後半はにこやかに周囲の先輩たちに向けて付け加えた。

「おお。…それは、まあ。ありがたいっちゃありがたいけど」

「ん。…ね、もしかして。□□県出身の名越さんっていうと、あのNAGOSHIグループの関係者?」

本当にいいのかな。と遠慮がちに口ごもった四年生の先輩の言葉を遮って、俯いてスマホを操作してた女子の先輩が唐突に素っ頓狂な声を上げる。

名越はセレブのお坊ちゃんそのものの無頓着さで、隠さずあっさりとその指摘を肯定した。

「あ、それ俺んちです」

「ふわ。…だから余裕の暮らしぶりなのかぁ。学生の身なのに東京でアトリエ付きペット可のマンション借りても大丈夫なわけだ」

「そういうことです。ですから何かあったときはご遠慮なく頼ってください。あ、さすがに親の資金を勝手に使うにも限度があるので。一応笹谷か地域猫絡みの話に限らせてもらいますが」

平然と線引きを言明する名越。先輩方はあー、そりゃまあねぇ。と納得する様子ではあるけど。

「そりゃ何でもってわけにはいかないよな、きりないよ。うん、でも。この辺りの地域猫のことは大事な笹谷ちゃんと同じように面倒見てくれるんだ?いいやつだな、名越くんって」

「本当に。猫には優しいんだね、名越くん。笹谷さんと同じに考えてくれるなんて」

感心ついでにやつの紙コップのほうじ茶が再び縁近くまで満たされた。

「…いや、名越がわたしに優しいのは既に話の前提みたいじゃないですか…」

「え、だってそれは。ここまでの話聞くともう自明の理じゃん」

わたしたちと一緒にさっきパトロールをした三年の男の先輩が満面の笑顔をこちらに向けて答える。どうやらこれで名越の矢印が向けられてるのはわたし。と確定した(と、彼は思ってる)から機嫌がいいんだ。

「大丈夫、誰も邪魔しないよ。これだけあなたのために尽くしてくれるスパダリの彼がいるんだもん、そりゃ他には目が向かないよねー」

「名越くんといれば好きな絵を思う存分描けるんだもんな。そう考えるととてもじゃないけど、大学で新しい彼氏作ろうとはならないよな」

みんなにこにこと、わかってるから照れなくていいよ。と言わんばかり。いやでも、それは。

…と口を開きかけたけど。ふと頭の中にまあ、いっか。という考えがよぎり、そのまま口を噤んだ。

思えば東京で彼氏なんか作る気ないのは本当のことだし。だとしたらここでみんなに誤解されたままでも、特に何も困らないような…。

名越の方をちらと伺うと、こっちを見てたらしきやつと目が合った。

わたしの考えを読んだみたいに、それでいいんだよ。とばかりにうんうんと無言で小さく頷いてみせる。ちょうどよく曲解してくれてるんだから余計なことを言わなくていい、このまま彼氏彼女かなんかそれっぽいいい雰囲気の仲だと思わせとけ。ってとこか。

そういえば、以前にそんなこと予め言われてたなぁ。と今になって改めて思い出す。

どうせここでお互い恋人作る気がないなら何の差し障りもないから、周りの思い込みを否定するな。二人カップルだと誤解されてた方がむしろ都合がいいだろ、とか…。

まあ少なくともこの『猫又の会』ではそれで構わないってことか。わたしがってだけじゃなく、おそらく名越もそのつもりだとしたら。ここで今、新しい彼女を作る気は特にないってことなんだろう。

その気になればいつでもどこでも彼女候補くらいすぐに見つけられる男だしな。とため息をつき、わたしはもう諦めてさっさとその流れに乗っかることにした。

「うーん、まあもう。そういうことでいいです…」

わあ、ほらやっぱり。笹谷さんはツンデレだなぁ、精一杯ごねてみせても結局そうなるわけだ。とか名越くんこれじゃあ苦労するね、などと先輩方が無責任に楽しくわいわい盛り上がってる中。

鎌ヶ谷先輩が隣でため息混じりに、根負けしたか。とごく小声で呟くのが聞こえてきた。

「まあ。…あなたがそれでいいんならさ。横からどうこう口を挟む気はないけど。ま、でも」

と言葉を切ってちらとこっちを一瞬見やる。

「さっきの弁護を聞いた感じ、実はあなたの方もさほど満更でもないみたいね。言うほど嫌とは思ってないんじゃない?つまりは、まあ。…お似合いっていうか。そのまま頑張れって感じ。二人とも」

その声色の中に心底呆れてる気配が滲んでる。

完全に割れ鍋に閉じ蓋とか、一種のバカップルだと思われてるな。ってのが伝わってきたが、誤解ですとも申し開きようがない。恋愛感情だけは真っ向から否定できるけど。お互い多少はウィンウィンの状態だし、相互利得関係。とは言えなくもないかも…。

せっかくわたしの事情を察して心配してくれたのにな。と思うとちょっと申し訳ない。思わず肩身が狭くなり、首を縮めて彼女にだけ聞こえる程度の小さな声で呟いた。

「まあ。…結局概ね、そんなとこです…」


《第19章に続く》


名越の異常者っぷりが如何なく発揮されてるパートでしたね。

言動も何というか、これ一歩間違うとモラハラ彼氏では…。あんたはこうだから、とか仕方ないやつだなぁみたいな決めつけやあしらい方が実にやばいですね。現実にこれやられたら確実にホラー。

作中でもさすがに登場人物から突っ込みが入るレベル。だけど主人公は呆れつつも本気で嫌がってまではいないし。納得いかない部分にはがんがん突っ込んで従うところと譲れないところは分けて考えてるのでまあ、成立してるんでしょう。

だけどまじでこれ、作品の熱狂的な推しっていうことだからなんかまだ見逃されてるけど。恋愛感情由来だったら即逃げろ、って絶対読んでる人から思われそう。また一見爽やかな好青年で誠実そうに見せかけるスキルが高いのもホラー味強いですよね…。怖。

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