第17章 It's a small world
章タイトルはKing Gnuの曲から。
結局、その後の上京準備があまりにも壮絶に忙しくて。吉村と二人でゆっくり時間を取る暇もないまま、あっという間にわたしが東京へと向かう当日を迎えてしまった。
それまでの間何度か電話で話したりはしたけど。準備は順調?とか何か手伝うことある?とか、専門学校の入学説明会終わったんでしょ、どんなだった?なんて話題に終始して微妙な部分にはお互い触れず。
高校に在学中の三年間に較べると自然と連絡を取り合う状態にはなれた気はする。通話?メッセージ?何でもないときにそんなの送っても別にわざわざ話すことなんてないし、なんて嘯いてたのが今考えると阿呆みたいだ。
友達なんだから、別に他愛のないことで気軽に連絡してもいいんだ。
そこまで割り切れたのは第一歩だとは思う。けど、やっぱり卒業したらどうしようとかこっちに戻ってきてほしいって気持ち、ちょっとくらいはあるのかとか。そういう未来の話までは最後まで切り出せなかった。
まあ考えてみれば無理もない話で、そもそもわたし自身の将来の展望がまだ漠然としてて何のイメージもできてないわけなんだから。
吉村はどう思う?卒業したらわたしに地元に戻ってきてほしい?とか詰めておいて、もし仮にうん戻ってきてほしい。待ってるから約束してとか(なんか、わたしに対してそういうことを言ってくる吉村はどうも想像しづらい。だからあくまで仮の話)やつが言い出した、としたら。わたしは何て答える?
…結局、急に俯いてごもごもと口ごもり、いや正直まだ卒業後のことは何も決められないんだけど…とか、なるべく帰って来ようとは思ってるけど今の時点では絶対って約束までは出来ない、とか馬鹿正直に言ってしまいそう。だったらそもそも訊くなよとしか。
と、そこまで考えたところでこれは無理。と諦めた。まあ夏休みとかは帰ってこないわけにもいかないし。年に何度か帰省したときには顔を合わせて話す機会もあるだろう。
もっと状況がはっきりしてからきちんと話をすればいい。あやふやな状態で中途半端な駆け引きをする方が向こうにとっても迷惑だし、よくない気がする。
そう自分に言い訳をして、結局ノープランで出発の日を迎えた。
友達連中の中で今回上京が決まったのはわたしだけ。高校の友達は一人が九州一人が名古屋、あとは皆地元か関西の大学に進学が決まった。
だからかみんなお祭り気分で、いいと遠慮したのにわざわざ新幹線の駅まで見送りをするために集まってくれた。クラ子やユラ、宮路さんとあとは中学のときの友人たち。もちろんその中に吉村の人の良さそうな笑顔もある。
宮路さんが、ひと通りわたしに声をかけ終えた女の子たちにこそこそと耳打ちして全員をそっと下がらせる。どう見てもわたしを吉村と二人にしようとする態度が見え見えだ。思わず以前の癖で憮然となりかけた。
その場には久しぶりに会う中学のときの友達もいたから、あの頃吉村とのことをよく冷やかされてたときの記憶をちょっと思い出しちゃったせいかも。けど、当の吉村はにこにこと平常心だし。
わたしの高校の友達に気軽に話しかけてる中学の頃の仲間も、吉村とわたしには特に注意を払わずごく普通だ。やっぱり、男子と女子が幼馴染みだってだけで結婚だー!とかいつもお熱いねぇ、なんて騒いでたのはただ単にこいつらが子どもだったってだけなんだろうな。大人になった今、もうあのときのノリに戻ったりはしないんだ。
そうとわかればややほっとして、わたしは正面に立つ吉村と向き合う。宮路さんやクラ子たちがこっちに視線こそ向けないけどことの成り行きをこっそり伺ってる雰囲気は伝わってくる。けど、大々的に揶揄われたりしないんならもう気にしてる場合じゃない。と割り切ることにした。
目の前のこの幼馴染みと、きちんとしたお別れをしないと。いや別離とか大袈裟なものじゃなくて、初めて長い時間離ればなれになる。このタイミングでこいつにかけるべき正しい言葉をぎりぎりまで探そう。
友達連中みんなが内心で興味津々ながらもこうやって素知らぬふり(あんまり上手くないけど)で遠巻きに距離を取ってくれてるわけだから。なんか乗せられたみたいで悔しいが、せっかくのこの機会を無駄にするのもまた違うと思う。
「…直織。元気でね」
そんな風に心の中でつらつらと考えてる間に、先に向こうから声をかけられてしまった。
「あ、うん。…吉村も」
向こうがごく自然な態度なので、こっちも当たり前の返ししか出てこない。うーん、これは。心に刺さる惜別の言葉みたいなのは、ちょっと諦めた方がいいのかな。
相手の心にインパクトある爪痕を残そう、みたいな野望は一旦捨てた。それよりは今、本心から吉村にかけたい言葉。地元に残る吉村の気持ちを思いやるひと言を何でもいいから見つけよう。
「…え、と。資格の勉強頑張って。でも無理しないで、ほどほどにね。あんたは責任感強いし。周りに気を遣ってばっかだから…。家族や友達のためばっかりじゃなくて。たまには自分のための時間を作ったりとか、あとは」
結局ひと言ふたことでびしっと決めるなどというかっこいいことはできず、こうやって思いつくままにだらだらと並べるだけになる。こういう台詞のセレクトセンスってどうやったら身につくんだろ。
必死に言葉を絞り出してるわたしの様子を見て微笑みを浮かべ、吉村は穏やかに受け応えた。
「大丈夫だよ。俺のことは…。環境も変わらないし、今まで通りに過ごせるから。直織の方こそ無理しないで。勉強も絵も、って頑張り過ぎないようにね。自分のペースで休み休み続けて」
「それは平気。わたしはあんたと違って怠け者だから。無理しろって言われたって嫌だって答えるね」
「はは。でも、そうやって自分を守るって大事なことだよ」
普通に幼馴染みの友達同士がお互いを思いやってかける言葉が交わされて終わりそうだ。
と、そこで東京の新居まで同行するわたしの母がそろそろ…と遠慮がちに促してきた。少し離れたところに固まってるクラ子たちの方へ移動して挨拶してるその背中を眺めて、ああ本当にもう時間がないんだ。と急に実感が湧いてくる。
「…何かあったら。いつでも連絡してよ、直織」
大変なこといっぱいあるだろうから。一人で黙って抱え込まないようにね、としんみりした声で言われる。ちぇっ、こっちが先に言いたかったようなことを。
と思ったら急に本音スイッチがかちり、と入った。
「…連絡はするけど。あんたの方もだよ、吉村。きついときも何でもないときも。ちゃんとLINEとかして、これまで以上に」
きっと顔を上げて目の前の顔を睨めつける。気後れを振り払い、ちょっと気合いを入れて喋り始めたから。まるで怒ってるような顔つきになってたかも。
「高校んときのわたしの音沙汰なし状態は謝る。けど、あんたもだよ。便りのないのは良い便りってのはやめて。どうでもいいことでもいいからときどきは何か送ってよ」
お、喧嘩か?みたいな表情で母親と友達連中が遠巻きにこっちを見てる。いや違うんです、怒ってるわけじゃないんですよ。
鳩が豆鉄砲喰らったような顔つきの吉村を見上げ、少しだけ声の調子を和らげた。
「…どうやらあいつは上手くやってるみたいだから邪魔をしないようにそっとしとこう。てな謎の遠慮ですうっと存在感消そうとするからね、吉村っていつも。でもさ、顔を合わせる機会もない遠く離れてる状態でそれをやられたら。もうただの音信不通なんだよ」
「…うん」
何となく言いたいことは伝わったみたい。そう思ったらわたしもようやく安心できて、ふわっと自然な笑みが湧いてきた。
「…とにかく。こっちからもときどき何か送るようにはする、何でもないときも。けどそっちもただ返信ばっかってのはやめてね。吉村の方からの発信がないのがあんまり続いたらキレるから。わたしばっか連絡してるじゃんってなったらこっちから送るのもやめる。…それが嫌なら吉村からも、たまには何でもないどうでもいい内容でいいから。何かしら適当に送ってきてよ」
「うん。そうするよ」
柔らかな表情でわたしを見下ろし、そう答える吉村の眼差しの中に何とも言いようのない光が浮かんでいる。
よくはわからないけど。言葉で上手く表現できない何かが伝わったような手応えはあったから、わたしは少し安心して吉村とその他の友達に手を振り、母と一緒に新幹線に乗り込む。
駅を出発するぎりぎりまで窓の外から手を振って盛り上がってる連中に混じって、穏やかな笑みを浮かべてる吉村。こいつに限ってわたしがいなくなったら寂しいとかあるのか?
いや物心ついてからずっと近くで育った者同士なんだし、片割れと離ればなれになったらそりゃ多少は寂しいだろ。という一般的感想と、でもこいつが誰か他人のことで怒ったり泣いたり激しく感情を揺さぶられてるのを見たことってないな。そもそも誰かのせいで平常心を失うようなことがあるのか?という素朴な疑問が脳内で交錯した。
「…よかったね。お友達がたくさん見送りに来てくれて」
新幹線の速度が本格的にぐん、と上がって窓の外の景色を目で追いづらくなったくらいのタイミングで母が穏やかな声をかけてきた。今日は父は仕事で外せないので、東京で借りた部屋への入居作業は二人で済ませる。まあそんなに大きな家具なんかもないので、女二人でも特に問題ないだろうと。
「あんたは休みの日でも家でごろごろしてばっかで、あんまり積極的に友達と遊びにも出かけない方だから。あんなに見送りの人たちが集まるの意外だったな。思ってたより人望あるんだね」
悪気のなさそうな声で考えたことをそのままずけずけと口にする。この辺、親子ならまあまあ何言っても大丈夫っていう油断があるな。まあ、親がそういう感想を抱く気持ちはわかる。何なら本人が何故こんなに人が集まったんだ?と不思議に思ってるくらいなんだし。
「うーん…。わたしの人望とかよりも、多分みんな人をダシにして集まってわいわいしたかったんじゃないかな。中学んときの友達、どう見ても高校のわたしの友達をナンパしてたし」
「ああ、結婚式の新郎新婦の友達同士が合コンみたいになるやつ…」
母親が変な納得の仕方してる。娘相手にどんな話題の振り方だよ。
まあ、あとはおそらく宮路さんあたりの仕業。と口には出さず頭の中でだけ付け加えた。
吉村もその場にやって来ると知って、わたしとの間に何かイベントが起こるんじゃないか?と期待して高校の友達を誘ったんじゃないかな。中学のときの仲間は吉村が連れてきたんだろうし、結果としてみんなわたしとやつの間でどんな別れの言葉が交わされるか、楽しみにしてわくわく見守ってたんだろうと想像がつく。
結果的にそこまであの連中が盛り上がって満足するような展開にはならなかったと思ってたんだけど。
別に愛を告白したわけでもなく、涙で抱き合ったわけでもない。
そういう場面が見たかったんだったらお生憎さまでしたね。ヒロインポジションがこのわたしなのに、そんなロマンチックかつベタな展開になるはずないじゃん。
と内心鼻で笑って母が差し出すペットボトルの緑茶を受け取り、キャップをきゅっと緩めた途端。
コートのポケットに無造作に突っ込んであったスマホがやたらとぶんぶんと通知を知らせてくる。消音してあるから振動だけだが、それにしてもなかなか止まない。これ、一体何件来てるんだ。
新幹線実は久しぶりなんだよねー、と嬉しそうに窓の外を眺めてる母の目を憚りつつそっとスマホを取り出して画面を確かめる。…やっぱり。
友達連中からLINEの嵐。こうしてる間にもロックされたままの画面にぽん、ぽんと通知が次々と浮かんでくる。…ユラ、宮路さん。それからクラ子。
『よかったね!思ってたより本音で話せてたじゃん』
『ツンデレ全開』
『吉村くんにはあれで通じたみたいよ。はたから見たらただのケンカだったけど』
『彼、何だかうれしそうだった』
『まあ〜ササにゃんはあれが限界だろね。よくがんばった、お疲れさま』
…めちゃくちゃ労われてる…。
どうやら最初から、愛の告白だの将来を誓い合うだのは期待されてなかったらしい。あれで『よくやった』言われるのはそもそも期待値が低すぎないか?と、わたしは思わず憮然となり、お行儀悪く肘掛けに肘をつく。
それから不貞腐れた態度でふう、とため息をついてから緑茶を一口飲んで、釈然としない気分とあの連中とはもうしばらく会えないんだな。という物寂しさが急にありありと浮かんでくるのを少しだけ紛らわせた。
東京でのわたしの住まいは決して贅沢な造りではない。ていうか激狭だ。だから服や本もほとんど持って来なかった。
「ほわー狭いねぇ。…これ、うちのあんたの個室と大して変わらなくない?」
既に段ボール箱が運び込まれた状態の部屋の入り口に立ち、しみじみと見回しながら母が呟く。
「いやさすがにもうちょい広いよ。簡易キッチンと洗面台とシャワーあるから、そのせいで狭く感じるんじゃない?」
それに思ってたより全然きれいだし。と好感を抱いたわたしは部屋に対する査定が甘くなる。母はそれ以上言い張りもせず、素直に文句を引っ込めた。
「まあ。それだけついてて、入り口オートロックでこの家賃なら。どんなに狭くたって万々歳だよね…」
わたしが住むのは地方から上京してきた女子専用の学生アパートだ。だから場所が東京都区部にある割にはお値段はリーズナブルな方。
女子学生寮にもいろいろあるようだが、ここはさまざまな大学の学生が入っていて比較的自由度が高い。
女友達も事前の申請がないと呼べないタイプのがちがちの寮もあるけど、この建物は寮というより基本的にオートロック式の普通のアパートの形式。
入り口で管理人の前で記名して入居者を呼び出してもらえば男性の客でも入れる模様。ただ異性の宿泊は禁止だと聞いてる。家族は身分証明書提出の上要相談とのこと。
まあそれがわたしにとって何か得になるかと言えば、別に…かな。父親と弟以外の男の人をここに入れる必要が生じるとは思えない。
大学は共学だけど、異性の友達をわざわざプライベートな空間に呼んだりはまずないだろうし。可能性があるとすれば恋人ができたときくらいだが、さすがにそんなのあえてこっちで作るつもりは…。まあ、人生に於いて絶対という言葉はないと言えば。それはその通りなんだけど、それにしてもねぇ。
と、そのときは考えていた。今の時点で大学で恋愛する気なんかゼロだから、この部屋への男の出入りは全く考慮する必要がないと。
そのほんの数十分あとにはもう、あっさりとそんな状況が実現することになるとは。さすがのわたしもそこまで予測がつくわけない。
段ボールのままにしておくと絶対そのままで一カ月とか半年経っちゃうから(迫真。絶対経験ある、この人)とにかく一回全部開けなさい、と母に口うるさく言われてガムテープを片端からせっせと剥がしていた。
「どれが何入ってる箱かチェックしておくんだよ。あと、足りないものあったら今のうちに買い足しておかないと」
「わざわざ向こうで買うと送るの大変だからこっちで揃えた方がいい、って考えてたからなぁ…」
買い物リスト作って、周辺のお店調べなきゃ。と慣れない場所でばたばたしてるわたしと母。
と、そこでいきなりポケットに放り込んであったわたしのスマホが再びぶんぶん言い出した。しかも放っといても一向に止まない。てかこれ、メッセージじゃなくて。コールじゃね?
「電話鳴ってるよ。友達?大智くんかも」
「いや、どうなんだろ…。さっき会ったばっかだし」
ごもごも言いながらポケットからスマホを取り出す。
父親か弟なら母の携帯の方に連絡してくるはず。今一緒にいるとわかってるんだし。
だからあんたの友達の誰かじゃない、という母の反応は正しい。けど開口一番、吉村の名前が出てきたのが何ともこそばゆかった。
見送りの中にいた吉村と他の友達とも分け隔てなく普通に接してたのに。内心ではわたしの母も多少はあいつのことを特別に考えてたのかなと思うと…。現実にはただの一般幼馴染み同士だってのに。少なくともそうじゃない、っていう具体的な根拠は何もない。
まあこういうはっきりしないもやもやした状況は親としても触るに困る感じなんだろうな。というのはわからなくもない。と微妙に複雑な思いを抱えつつ半分上の空でスマホの通知画面を検め、…ふぇ?
「どしたの?誰?」
「いやあの。…ちょっと待って、もしかして、これ」
やばいやつが来た。…かも。
これってすごい既視感ある。もしかしたら、大学合格発表直後のあのときの再現なんじゃないか?と、とても落ち着いていられず立ち上がる。
その瞬間。恐れていたことがやってきた、まじで。
『おーい。…ここ、ここ』
スマホからじゃない、リアルの声。うわぁ。
正真正銘、あの日のリプレイじゃん…。
窓の外、建物の下からする呼び声が誰のものかなんて疑う余地もない。母がどんな顔してるかを確かめる暇もなくわたしはばっと、一つしかない窓辺の方へと脱兎のように駆け出した。
がちりと鍵を開け、今日初めてその曇りガラスの窓を横に引く。三階の高さから見下ろすと少し位置のずれた下の歩道に立ってるその男がこちらに気づき、ぱっと顔を上げて目を輝かすのがわかった。
口を開きかけてこっちに何か言いかけるのを必死に身振り手振りで押しとどめ、今から降りてくから。と何とか意思を伝えようと指で指し示した。
「何、どしたの。知り合いでも来てるの?」
「うん。…ちょっと待ってて。何とかしてくる」
あそこに立ったままでいられる方が絶対やばい。一応女子学生専用アパートなんだし、あんまり長く立ち尽くしてたら通報されかねん。
そう考えて心配そうにわたしを見上げてる母に短く言い置き、駆け足で部屋を出て下の道を目指す。
冷静に考えてみれば電話をかけて来てるんだから普通に出て話せばいいのに。とはあとで思ったんだが、とにかくその瞬間はまるで予想もしてなかった展開にめちゃくちゃ焦ってたから…。
その場で大声で名前を呼ばれたりして悪目立ちしたら、この女子寮で生きてけなくなっちゃう。いや今後どの程度他の住人や管理人さんと接点があるのかはまだ知らないけど、これから四年間住む予定の場所で出来るだけリスクは取りたくないし。
しかも現れたその当人が、明らかにちょっと目を惹くすらりと見栄えのする無駄なイケメンっていう…。せめてもっと無難で目立たない、平凡でほっとさせる見た目ならまだよかった。例えば吉村みたいな。
建物の出入り口から走ってまろび出てきたわたしを見つけ、名越は実に嬉しそうににこにこと無意味に整ったその顔を綻ばせた。
「走って出てきたの?危ないよ、転んだら。もっと落ち着かないと」
そもそも電話したんだから。普通にタップして通話すれば話せたのに、慌て過ぎだろ。と宥められてもね…。
お前の方がよほど常識外れな行動に出てるのに、なんかこっちが度外れな慌てんぼみたいに扱われるのが納得いかない。
「いや…、普通慌てるでしょ。事前の連絡もなしにいきなり他人んちに来るの。前もだけどさ…」
突っかけたままの靴の爪先をとんとんしてきちんと履き直しながら、次に続ける言葉を探して思わず俯く。
もっと猛然と責め立ててめちゃくちゃ文句言ってやるつもりで勇んで出てきたけど。実際にこうやって間近に顔を合わせると、あまりに名越が嬉しそうに顔を輝かせてるので攻撃の矛先のやり場がなくて勢いがへなへなと萎んでしまった。
「…お友達?向こうの、地元の方かしら」
背後で母の声がして跳ね上がってしまった。
しまった、そりゃ心配するわな、わたしが飛んでばたばたと必死の形相で出て行って。上から見たら母が見たこともない謎の男がそこにいるんだもん。
ストーカーか何かと誤解されても仕方ない。いやこいつはそりゃ、常識のかけらもないただのわたしの絵の粘着オタクだけど。
別に側から思われるほど害も悪意もないやつなので、あんまり悪く思われるのもな…と惻隠の情が湧く。何だかんだ言って自分の中にもある程度は名越に対する情はあるんだな。と初めてそのとき自覚した。二年半以上も付き合いが続いてからの今さらな話だが。
「え、と。高校の同級生なんだ。四月からT美大に入るのが決まってて…。美術部で一緒だったの。知り合いで東京に進学が決まったの、この人とわたしだけなんで…」
母からなるべく不審者と思われないよう、わたわたと説明を重ねる。変に慌てて弁解がましく喋るとかえって怪しく思われないかな。と心配になると、さらにますます不審感が増すような…。
口を開きかけた母の表情がどう見ても訝しそう。と感じた瞬間、すかさずすっとわたしの横をすり抜けて前に出た男が。
「…あ、初めまして。笹谷さんのお母様ですね。僕は彼女と三年間美術部でご一緒させていただいた者で。名越と言います」
「はぁ…」
堂々ともの慣れた様子でにこやかに話し出したその横顔といったら。
まるで若手イケメン俳優の如くだ。多分に演技を含んでる振る舞いだから、なおさらそんな印象を与えるのかも。けど、元のこいつを知らない相手なら。
ちゃんとこの誠実さと人柄の温かみ、気さくさが本物にしか思えないだろうな。
無駄に整った横顔から、何かきらきらと光り輝く効果が放たれてるのが視える。育ちと毛並みの良さが如何なく発揮されてて、内心で思わず舌を巻いた。やっぱこいつ、プロだ(何の?)。
「ちょうどお忙しいところにお邪魔してすみません。でも、もしかしたら男手があるに越したことないかなと考えて。…あ、無理にとはもちろん。引越し作業って大変ですよね、そろそろお疲れの頃じゃないですか?そういえばこの近所にいい感じのカフェがさっきありましたよ。もしよかったら休憩がてら、そちらで少しお話しとか。いかがでしょう?」
言葉の文面だけだともう保険かマンションの営業か、宗教の勧誘にしか思えない。でもそう感じるのはこいつのやたらと爽やかな顔面や柔らかな物腰、人の良さと育ちを前面に押し出した声色や裏表を感じさせない誠実(風)な話し方を目の当たりにしていないからだろう。
わたしの母親は決して他人を信じやすくもちょろくもない人だとは思うが。それでもとりあえずその場で立ち話も何だから…と説得されて、やつが熱心に勧める近所の落ち着いたお洒落カフェへと誘導されていった。
そこで三人でお茶をいただき、自己紹介と当たり障りのない高校時代のエピソードなどを名越の口から聞かされるうちに。あっという間に打ち解けて、お互い笑顔で気さくに談笑するまでの仲に…。まるで魔法だ。
いやどちらかというと。ここまで来ると禍々しいというか、一種の邪法では。
と心の中で呟き、美味しいコーヒーを一口飲む。寮の近くにこんなお店があるなんて、それ自体は知れて嬉しい。ちょっとお高めだけどたまに頑張って一人で来よう。
「…そうなんですよ。親が美術に関心が深くていくつかギャラリー経営してることもあって、子どもの頃から絵を習わされていたんですけど。正直僕は高校入るまで、他のことの方が面白いとか考えてて…。ピアノやってたのでバンドもいいなとか」
わたしも以前に聞かされてる名越の過去話。だから台詞の中で言及されてる事実については別に嘘ではないとわかってる。けど、ところどころそれは脚色が勝ってるというか。誇張し過ぎだろ…としか言えない部分も。
「それが、高校で笹谷さんに出会って。彼女の描く絵を見て本当に、衝撃を受けたんです。こんな風に自分も絵を描けたらって心から思うようになって、結局その影響で美大に進学することに決めて…。そうそう、そういえば」
いや嘘じゃん。わたしとの出会いが契機になって進路転換したみたいに言ってるけど。
初めて会話するようになったときには既にこいつ、美大志望だったはず。わたしにそんなに描けるのに芸大受けないの何で?と当たり前のように訊いてきたもんね。
ある程度描ける人間は自分も含めて美術の道を目指すの当然だろ?とあの頃とっくに思ってたくせに、よく言うよ。と黙って考えながら母と名越の会話を聞き流していた。ここであえて、あんたずいぶん話盛ってるじゃんとか水を差すほど意地が悪くもないので。
ふむふむ、と他人事丸出しで次から次へとやつの口から滑らかに流れ出すエピソードトークを聞き流して泰然としてたら、いきなり話を振られて反応がワンテンポ遅れた。
「へ、何?」
またあんたはろくに他人の話聞いてない。と口には出さねど思ってるのがありありな顔つきでこっちを軽く睨んでる母を横目に、名越は平然と今すでに喋ったらしい台詞をもう一度繰り返した。
「笹谷、お母さんに個展のこと話してなかったの?せっかくだからちゃんと招待して観に来てもらえばよかったのに。…すごかったんですよ〜、ファンがいっぱい来て。本名出さない覆面作家だから、直接触れ合うとかはなしだったんですけど…」
ほらそのときの写真です。とか愛想よく言いながら自分のスマホを取り出して母の前に差し出してスクロールしてあげてる。…う。
案の定、何も知らされてなかった母はさらにやや険しい目つきに。あーあ、こうなるから。面倒くさくていちいち報告してなかったのになぁ。
「別に隠してたわけじゃないよ。こいっ…、名越くんの親御さんが経営してるギャラリーだったから。レンタル代めちゃくちゃ安くしてもらえて自分の手持ちで何とかなるって思ったし、だったらわざわざ知らせる必要もないかなって。本名も顔出しもNGだったからオープニングセレモニーも欠席で、本人だって平日の空いてる時間帯に観客のふりしてこそっと行っただけで…」
「それにしたって。つまり名越くんのお家の方のお世話になったってことでしょ?こっちからちゃんとご挨拶に伺わなきゃいけなかったのに。報告が必要かどうかはあんたが勝手に判断したら駄目よ」
懇々と丁寧にお説教された。はい、その通りです。
けど名前も顔も出さずに絵だけをほんの一週間くらい出展するだけだし。黙ってれば身内にばれるはずもないだろうとたかを括ってたのはそんなにおかしな判断でもない気がする。そう、まさかこんな風にこいつと親が鉢合わせて、しかもわざわざそのことを話題に出したりさえしなければ何の問題も生じなかったはずなのに…。名越め。
「まあまあ…。お母さん、結果的にこうして大成功だったんですから。いいじゃないですか。僕の絵も彼女のファンがたくさん来場してくれたおかげでついでに一緒に見てもらえたし。うちの親も笹谷さんに感謝してましたよ。…そう、それでさ。笹谷って自分名義の銀行口座あるよね?これから一人暮らしになるわけだし」
ナチュラルに話の方向が明後日の方角にスピンしてないか?
「口座?…まあ、そりゃ一応。あるけど」
子どもの頃からあるお年玉やお祝い金なんかをまとめてぶっ込んであるものと、今回上京してくるに当たって仕送りの振込や水道光熱費の引き落としに使うために作った新しい口座の二つがある。
でもそれがこいつに何の関係が?まさかわたしから何らかの形で詐欺的にお金を搾り取ろうとか…。
いやまあ、全然本気でそう考えてるわけじゃないけどね。名越に限ってお金で困ってるところも必要以上に欲しがってるのも見たことないしイメージも湧かない。
わたしの知ってる中で最もお金関係きれいそうな人物、といっても過言じゃないやつではある。これは特別褒めてるわけじゃなくただの事実ってことだが。
でもそれはそれとして。どうしてそんなこと今、わたしに訊くの?
「ああ、うちの親がさ。売れた絵の代金振り込みたいからって…。あの、ギャラリーなんで売買契約取ろうと思えば取れるんですよ。いくつか売ってもいいと思う絵、選んでもらったろ?」
そうだった。
「てかむしろ、これはとっとこうかな。っていう絵を一枚とか二枚よけといてもらった感じだったけど…。え、売れた絵があったの?どれ?」
売却可能な絵に印つけて、非売対象の絵と区別したのは覚えてる。けどまさか、こんな美大にも進まない一般高校生の作品にお金払う客なんかいるわけないじゃん!一枚も売れないんじゃないかな、売る気があると思われたらかえって恥ずかしい…くらいにしか考えてなかった。すっかりそんなこと忘れてたのに。
「予備校で描いたあれかな。テーマ『翔ぶ』のやつ。それとも文化祭に出した魚の部屋?…女の子と林檎のはさすがに下手過ぎて売れないよなあんなの。美術部で最初に描いた油絵の…」
どれも正直売り物になるとは思えない、素人丸出しの作品じゃん。と悶えるわたしにやつはあっけらかんと予想外の台詞を言い放った。
「あ、それは非売品。販売可のマークつけなかったよ。だってそんなの俺が欲しいもん。てか大事な俺たちの思い出の絵じゃんその辺は。大切に保管してもらえるかどうか、信頼できないようなその辺のやつにはとても売れないよ」
「え、そうなの?」
じゃあ何のためにわたしに訊いたのか。どれなら売却していい?って確認された覚えあるけど、確か。
名越は何に思い当たったか、ふと何故か憤然となりアイスティーのグラスを手に取ってずず。と勢いよくストローを吸った。
「だってあんた、描き終わった作品にたいする愛着なさ過ぎだもん。それもこれも別に売り払っていいよ、なんてさ。普通に考えてもこの先何年かしたらもっと値段上がるのに、今は売り時じゃないよ。まあそれを度外視しても。全部俺が買い取りたいけど…」
素が滲んでる滲んでる。隣でわたしの母がちょっと怪訝な顔してるじゃん。
「じゃあ結局何が売れたのよ。夏合宿の水彩画?」
「あれも絶対売りたくない。俺のと並べてずっと一緒に飾っておくんだ。どうしても売りたいなら今すぐ俺が買うよ。…売れたのはほら、大河原先生んとこで描いたやつだよ。油彩画が二つとデッサンと水彩画。デッサンは室内の風景とやつと静物、油絵は一枚が空想画だったよね。あと、美術予備校で描いたガラス瓶のデッサンも売れたよ。あの魚の形のやつ」
あれも好きだから売りたくなかったんだけど。せっかく展示するのに何も目玉ないじゃんと父親に言われて仕方なくさ…。と実に無念そうに打ち明ける名越。
「もちろん写真には撮っといたけど。できたらうちの画廊で保管しておきたかったなぁ。あ、売却してない絵についてはとりあえずうちの保管庫に入れてあるよ。絵の管理については完璧な環境だから、その方がいいんじゃないかと思ってさ。実家の自分の部屋に置いといても大変だろ?湿気とか埃とか。あと日焼けとか」
「すみません。お手数おかけします」
深々と頭を下げた、これは母親。わたしはと言えばすっかり素を晒してる名越に対してそこまで表面を取り繕う気にはなれず、テーブルに片肘をついて嘯いた。
「うーんまぁ。…高校生が美術部や画塾で描いた絵、そこまで厳正な環境で管理するほどの代物ではないと思うけど。普通の住宅の一室に置きっ放しよりはいいのか…。夏と年末年始しか帰らないわけだし、確かに手は回らないよね」
「でしょ?任せてよ、きっちり良好に状態保全させてもらうから。何ならそのまま全部俺が買い取ってもいいし…」
テーブルの上に前のめりになって熱心に言い張る名越。明らかに様子がおかしい(普段から知ってるわたしから見るとただの平常運転)こいつを見て、うちの母親が内心で引き引きじゃないといいんだが…。
「えーと。そういうわけで、売れた分の代金から仲介手数料をいくらか頂いて残りを全て笹谷さんの口座へと振り込みます。振込人の名義はギャラリーNAGOSHIね。総額で概ね…このくらい、かな」
正確な金額はあとで追って知らせるけど、と言いつつさっとスマホのメモで打ち出して見せる。わたしと母親はそれを確認し、ちょっとびびった。
「うわ。…意外とある」
「え。いいの、こんなに。ついこないだまで高校生だった子の絵に、ここまで?」
母親の感想が正直過ぎる。まあ、その気持ちは完璧に理解できますが。
名越はきりっとした表情を作って母を見据えた。さり気なくまともバージョンへ移行しようとしてる。さっきみたいに素がちょいちょい漏れ出たあとに今さら表面だけ取り繕っても、もうあとの祭りだと思うけど…。
「いいんですよ、笹谷さんの絵にそれだけの価値があると市場が判断したわけですから。それに絵の価値に描いた人の年齢なんか関係ないです。…というわけで、君の口座に予定にない金額が突発的に振り込まれることになったわけだけど」
途中で母からわたしへと視線を移す。それでも母の耳をまだ気にしてるらしい。二人称『君』は草。一体誰なんだ、お前。
「他人んちの金銭事情に口出しするのもどうかとは思う。でもできたら、そのお金を普通の生活資金と混ぜないでいられたらその方がいいと思うんだ。…東京で一人暮らしするのも、私立の四年制大学に通うのも。すごくお金がかかるしご家庭の考え方によっては生活の足しにしたいとなるのも仕方ないのかもしれません」
またナチュラルに母の方に目線が移っていった。
「でも、あえて僕からお願いするとすれば。笹谷さんの絵はデジタルじゃなくて画材を使って筆で描き込んだアナログなんです。絵の具もキャンバスも、学生にとっては結構な負担になります。…この人、性格とかものの考え方的に生活が苦しいとなったらじゃあ余分なお金のかかる絵画は止めようとなりかねません。だけどもう既に、これだけのファンが彼女の新作を待ってる」
母の顔をじっと見つめながら片手でさっさっとスマホを操作して、出てきた画面を示した。わたしの方からは見えにくいけどどうやらsasarleyのXアカウントっぽい。
「僕が運営してるんです。彼女は世に知られることにあんまり興味がなくて…。描くことで、僕も含めてたくさんの人を幸せに出来るわけですから。学業に支障のない範囲で少しでも続けてもらえたらなと思ってます。金銭的に援助したいけどそれはこの人、嫌がるし」
「そりゃそうだよ。同級生に絵にかかるお金出してもらうなんて、真っ平ごめん」
わたしが横から口を挟んでも二人とも見向きもしない。そういう台詞を出してくるのはこいつの性格上順当過ぎて意外でも何でもない、と考えてるんだろう。
「ですから。絵で稼いだお金は基本絵に使う、っていう方式はどうでしょう。それなら生活を圧迫もしないし、本来なかった収入ですから惜しげもなく使えるんじゃないかな。もちろんこの先もっと絵が値も上がってたくさん売れて、いくら画材に使っても余るほどになったらそのときは本人の自由に任せればいいし。この先いろんな理由で絵に打ち込めなくなることはあるかもしれませんが。お金が理由でってことはそれで何とか避けられるかと」
「…なるほど」
母は名越の提案を脳内で転がしたのち、ゆっくりと噛みしめるように呟いた。
「…まあ。確かに娘が頑張って実力で得た報酬を、普段の生活費やしょうもない娯楽で消費させるわけにはいかないよね。本来なら全部将来のための定期預金にまとめてぶち込むところだけど。直織の今の状況なら画材に費やす充分な余裕がないとなってもおかしくないから、絵で得た収入をそっち限定で活用するのは。いいアイデアかも」
それなら使い過ぎることもないしね。と頷いて独りごちてる。
「もちろん、娘さんが東京で一人暮らしとなると仕送りも馬鹿にならないですし。私大の学費もかなりのものですから、そっちの足しにしたいとなる気持ちはすごくわかります。ていうか僕も他人のこと言えないんですけど。私大の四年制で、しかも美大ですから…。実際親には申し訳ないなって」
いかにも寄り添うような態度で神妙な顔を作る名越。よく言うよ、うちとは経済的余裕が段違いじゃんあんたん家。この先十年くらいアメリカかヨーロッパにぽんと留学、って言われても難なく対応できるレベルだろ。なんたって地元のみならず全国でも名の知れた企業グループのオーナー一族のご子息じゃん。
そんなことは知らない母は、ぱっと破顔して明るく笑いながら屈託なく答える。
「ああ…、でも。ご両親はきっと納得してあなたを東京に送り出してらっしゃるんでしょう。子どものための負担なら苦労とは考えていないと思うわ。もっともうちの場合、恥ずかしながらこの子の頑張りで助けられてる部分もあるんだけどね。かなり取るのが難しい奨学金を今回受けられることになったから…。わたしたちはそこまでしなくても何とかするわよ、と言ってあったんだけど。気を遣って頑張ってくれて」
「…そうなんだ。もしかして返済不要の完全給付型、ですか」
初耳、といった顔つきで驚いたようにわたしの方を見た。まあそりゃ知らないよな。わたしがあんたに話した覚えもないし。
肩をすくめて仕方なく簡潔に説明しておく。
「…まあ。あの大学を志望した理由の一つがそれだからね。地方出身女子対象の給付型奨学金制度があるんで、ただ受かるだけじゃなく一定以上の成績を残さなきゃならなかった。でもそのおかげで、ここの寮費と生活費だけ負担してもらえば東京で学生生活が送れるから。それだって決して安くはないけどね」
「そうは言ってもあなた、こうなると意外に下手に地元で私大に行くより負担少ないかも。今はどこの大学も授業料、半端なく高いから…」
昔は少なくとも国公立ならほんとに驚くほど安かったのよ。今は言うほど私立と差がないのよねぇ、少なくとも文系学部はね。と上機嫌で名越に同意を求める母。
名越はなるほどね。と考えてるのがありありな眼差しでわたしの方をしみじみと見た。
「それはしかし、すごいな。笹谷…、さんが成績優秀なのはもちろん知ってたけど。簡単に取れるものじゃないでしょう。親孝行な娘さんですね」
「そうなのよね、気を遣っちゃって。この子の下にまだ弟がいるから。そっちにも今後学費がかかるだろうからって、それを優先して進路を考えてくれて…」
目の前で同級生に対し娘をさんざん自慢されて実に身の置きどころがない。わたしは母の言葉を遮るのも億劫で、ほとんど中身の残ってないコーヒーのカップに所在なく口を近づけた。
「なるほどね。それでか…」
こちらもほとんど空になりかけてるグラスを手にした名越がしみじみと呟いてるのが俯いてるこちらの耳に届く。
そう、どんなにこいつに勧誘されても結局美大を志望する気になれなかったのにはそういう理由もあった。もちろんそれだけじゃないけど。
学生の属性が偏らないためにそこまでの制度を設けてくれてて、しかもそれなりに偏差値の高い大学ってそういくつもはない。調べた中では美術系だと皆無だ。
そういうことを考慮すると、結局絵は一人でも描けるし。東京で大学生活送るのが一番の目標なら、まずは全力でそこを狙ってみようって話になった。
ただでさえ地元に残ってる他の友達や吉村たちに較べて、そもそも上京を認めてもらえてる時点で恵まれてる。だったらせめて学費くらいは自分で何とかしないと、と奮起したわけだ。
「…まあ。正直笹谷の実力で美大行かないのは世界の損失だとまで本音のところでは思ってたけど。そういう事情なんだったらそれは仕方ないのかな」
ごく小声で独りごちてるけど、うちの母にそれ聞こえてないか。いつものやばさが滲み出てますけど、特に『世界の損失』のあたり。
周りから自分の言動がどう受け止められてるか、まるで頓着しない様子で名越はそのまま悠然と母の方へと顔を向けた。
「笹谷さんは自分のしたいことや目標を冷静にしっかり考えて〇〇大を選んだというのはわかりました。けど、彼女に絵の才能が半端なくあってこのまま描き続けて欲しいと願う人たちが既にいるのも事実ですから。僕は及ばずながらそのためのサポートをします。幸い、自分もこちらで絵を描く環境を用意してありますし。大学で習ったことやそっちの交友関係を笹谷さんに共有することもできます」
「え。…別にいいよ、そこまでは」
放っといたらわたしを美大の学生たちや先生に引き合わせそう。余計な人間関係を広げるようなことはできたら避けたい。
ほら、こういう人なんですよ。と言わんばかりに母に向かってわざとらしく肩をすくめてみせる名越。
「隣でいつも励ましたり背中を押してないと、すぐ何事にも消極的になるんだから。そりゃ無理は禁物だけど、絵を描くための心の栄養になる程度に世界を広げて、いろいろな人に会ってみるのは無駄じゃないだろ。俺がついてるから大丈夫だって。変な人がいたら遠慮なく言って、絵と関係じゃないそっちの大学でのトラブルでも。俺がいつでも飛んで行って守るからさ」
そっちに目を向けてはいなかったけど、わたしの隣の母の方からひゅう。と微かに冷やかすような音が…。いい歳してその反応は何なんだ、お母さん!
名越はといえばそれが聞こえていたのかいないのか、平然としてペースを乱さず自分の言いたいことをさらに堂々と言い募る。
「美大だけじゃないよ。こっちに俺、父の知り合いの画廊のオーナーもいるし。大河原先生の友達の画塾の先生もいるから、その辺も君の役に立つと思う。ちゃんと大学の勉強もして、それと並行して無理のないペースでゆっくり絵を描いていこうね。それで描きためた絵の数が充分になったらまた二人展をこっちでもやろう。…そのときはお母さんにもお知らせしますね。本当に素敵なんですよ、会場で見ても。笹谷さんの絵って」
うっとりして目をきらきらさせてる。もうちょっと隠す努力をして、本性を。
「あんたの絵の方がよほど巧いしすごいから。…本当なんだよ、実際。T芸大だって一次受かってるんだからこの人。二次は残念だったけどそりゃ、一浪してれば次はきっと」
「…本当だ。とっても素敵ねぇ、名越くんの絵って」
わたしが急いでスクロールして出したアルバムの写真を見て、母は心の底から感嘆した様子で呟いた。わたしの絵の話しかしなくて自分の画業の話題ゼロだから、内心それほどでもないのか。と誤解しかけてたのかも。
「いや現役でT美に受かってるんだから。すごくないわけないよ。…ね、これとか。これもいいでしょ。わたしはこっちも好きで」
「まあ俺の絵のことはとりあえずいいから。…そしたら、戻りましょうか。引越し作業まだでしょ、俺が途中でお邪魔しちゃったから」
自分の作品の話が目の前で続くのは実は苦手らしい。二人でスマホを覗き込んであれこれ言ってるわたしたちをよそに、不意に立ち上がってすっと伝票を手に取る。
「このあと、買い出しに行く必要とかないですか?僕もそうだったんですけど。現地で買おうと思ってて持ってきてないものとかあるでしょ。車あるんで出しますよ。…あ、生活用品買える店とかもチェックしてあります。僕もまだ足りないものあるんでついでですから。どうかご遠慮なく」
地方から引っ越してきてまだ数日で、一人暮らしでこっちで車?と不意を突かれてすっかりペースを乱され、うっかりお茶の伝票を奪われた母は一生の不覚とでも考えたのか。
そのあと実際に近所の駐車場に停めてあった車を出してきた名越に買い物に連れてってもらい、あまつさえ買ったものを寮の部屋へと運び込むのも率先して手伝ってもらったので(やつの建物への立ち入り申請は管理人さんにあっさり受理された。わたしの母親が同席した状態だったわけだから、不審者扱いされなくて当然だったのかもしれない)。
むしろこっちがお礼をしないと、と張り切って素早くこの近辺のちょっと評判のお店を検索して見つけ出し、わたしと名越を一緒に連れていき夕食を奢った。
へえこんないいお店があるんですね。今回知れてちょっと得したな、としきりに感心してみせる名越。
ほんとにこういうとこいちいち如才ないやつだと内心でほとんど呆れてるわたしをよそに、母は大真面目な顔で懇々とやつに言って聞かせてる。
「直織から聞いた話だからどの程度信憑性があるのかわからないけど。あなたのお家は普通よりだいぶ経済的な余裕があるんですってね。それは見てて何となく伝わってくるけど、だからと言ってお金は大切に使わなきゃ駄目よ」
「それはそう。いくらでもあるからと言わんばかりに無頓着に何でも自分が出そうとするから。側から見てても危なっかしいし」
普段からずっと感じてたことをずばりと言われて、わたしも思わず横から加勢する。
これで何でお金目当ての連中が周りに集らないのか不思議だ。いや人はいつも大勢たかってるが、奢りやお金出してもらうのが目的じゃなくてちゃんと本人目当てに見える。当人はこれだけ人の心がないのに謎に人望だけはあるの、何て言うか世の中って結構不公平というか。矛盾してるよね。
そんなことを小声でごもごも呟いてると、母よりわたし側の向かいに座ってる名越には概ね聞こえたらしくこれもごく小声で返された。
「…いやだって、基本笹谷絡み以外では余分な金出さないもん。金のあるなしじゃなく、普通友達同士で集まるときに何の理由もなく余計に金出すやつやばくない?対等な関係同士ならあり得ないよ」
すごく尤もらしく諭されたけど。ふぅん、つまりわたしとあんたの仲は対等じゃないんだ。でも確かに、明らかに美術関係に関しては保護対象というかパトロンみたいな気分で接してきてるだろうから。そういう意味ではまあ、納得。
小声でごちゃごちゃやり合ってるわたしたちを鷹揚に眺め、全く子どもたちは。と言わんばかりに余裕ある笑みを浮かべて母は再び名越の方へと向き直った。
「お金はあるから目についたこと片端から何にでも使うんじゃなくて、きちんと対象や目的を絞っておかないと。こんな風に誰にでも気軽に奢ったりしてたら勿体ないわ。ご両親に感謝して節約するところはしっかり締めてね」
「だから誰にでもじゃないので…」
さらに小さく反駁してくる名越に構わず、母はゆったりと微笑み飲み物のお代わり要る?それともデザートは、とわたしたちに尋ねた。
「上京したばかりの同い年の友達にはまだともかく、その母親にまでお茶なんか奢っては駄目よ。でもお気持ちは嬉しかったわ、ありがとう。本当にいろいろとご好意に甘えてお世話になってしまいすみませんでした。とても助かったわ。これからもうちの娘をよろしくね」
どうやらあなた以外に東京での知り合いがいないみたいなのよ、と言わんでもいいことをあっさりと打ち明ける。余計なことを、とわたしはむくれた。
それは今の時点での話だもん。大学始まる前なら知り合いも友達もいなくて当然でしょ。特別にわたしがコミュ障だからとか友達少ないとかじゃないよ。
名越はさすが、その辺は言葉の裏を読み慣れてる。母がわたしの友達の少なさを腐したのは単に謙遜の意を表しただけ、というお約束を読み取ってごく愛想よく受け流した。
「それは僕も同じようなもんなんで。地元を離れて東京に進学する友達、意外と少なかったんですよね。うちの高校なら例年もっと上京組多そうなんですけど、やっぱりこの景気ですからね」
笹谷さんはその点努力して自力で道を拓いたわけで、親孝行ですよね。と母の前で娘を持ち上げることも忘れない。
目の前で娘を一旦落としておきながら、よその人から褒められるのはそれはそれで満更でもないらしい。会計を済ませたあと、駐車場に停めた車を出しに行くやつの背中を見送りながら母はわたしに声を落としてそっと囁きかけてきた。
「すごく落ち着いてて大人っぽくていい子ね。よかったじゃない、こんな頼れそうな人と友達で」
「うーん…、まあ。どうなんだろ…」
いい子かどうかは置くとして、少なくともわたしにとって害はない。あとこいつがガチ推ししてる絵の作者だから、多分何があってもサポートして守ってくれるつもりなのは本当だろう。
そういう意味では母からしたら当然百パーセント『いい子』であるのは間違いないわけで。その台詞を否定する要素は特に何もない。
それはそれとしてただ見た目通りの爽やかで誠実な好青年ではないのは事実なんですよ…。まあ、そこまで母が知る必要はないのは確かだから。
このまま誤解させとくに越したことはない。といろいろと複雑な思いを飲み込み、わたしは母に続いてやつのぴかぴかな新車と思しき小型のワンボックスカー(スポーツカーとかじゃなく、こういう微妙に若者の身の丈っぽい選択をするところも小憎らしい。絶対もっと高い外車とか買えただろ!)へと近づいていった。
その日は名越の車で再び寮の前まで送ってもらい、母はわたしの部屋に泊まっていくことに。車から降りて丁寧に頭を下げて見送る母の横で、わたしはとりあえず遠ざかる車のお尻に向けて所在なく手を振っておいた。
ワンルームアパート形式の女子学生寮の部屋は実に狭い。当然客用布団なんか持参してないから、管理人室で布団一式を借りる。作り付けのベッドの横に母が寝るための布団を敷いたらあっという間に部屋は足の踏み場もない状態になった。
「久しぶりだね、直織と同じ部屋で寝るの。小学生のとき以来かぁ」
名越の前でのお姉さんぶってた口振りはすっかり消えていつもの気楽な母だ。わたしは首を傾げてベッドの上で掛け布団をはたはた。と振って整えた。
「そうかな。旅行のときとかは同じ部屋で寝るじゃん。そういうときとあんま感覚変わんないよ。なんか、まだ自分の部屋って感じがしなくて。旅先のホテルの部屋で寝てるみたい」
「すぐ慣れるよ。そのうちこのコンパクトな狭さが絶妙に安らぐ、って思うようになるから。意外と実家の自分の部屋の方が落ち着かなく感じるようになったりしてね」
母は何か経験があるのか、やけに確信ありげにそう予言する。わたしはまだ真新しいふかふかの布団の中に脚を滑り込ませて思わずため息をついた。
「そんなもんなのかな。…でも、それもちょっと寂しいな。考えてみると…」
中学に入った歳からずっと住んでた、あのごたごたとものが詰め込まれた勉強部屋。次にあそこに戻ったときにはもう、何処かよそよそしさを感じるようになってるのか。…正直上手く想像できない。
だって、ほんの今朝まであの部屋がわたしの一番落ち着くなくてはならない居場所だったのに。
リビングも洗面所もお風呂も、あの家のどの空間も。今こんなに離れてることが信じられないくらい、まだ意識の上ではわたしのいるべき場所だ。
次に帰る頃、夏になったらもうこの狭々しく殺風景な部屋がわたしの家になってるのかも。…そう思うと、何だか取り返しのつかない選択をしたのかなと微かな後悔が胸の内に萌してきた。
一瞬、猛然と置いてきたものへの恋しさに押し潰されそうな気持ちになる。わたしの部屋、窓から見える風景、駅までの道。
家の脇の石段を上がって昔わたしたちも住んでいた古い公団へ。一階に並ぶ商店街の中の一軒、吉村電器店。…吉村んちのお父さんお母さん、お祖母ちゃん。碧と沙里奈ちゃん、それから吉村。
こんにちはぁ、と訪ねていってみんなと一緒に笑ってお茶を飲みたい。そんな当たり前のことがすぐにはできない。
わたしは皆を置いて遠くに来た。もう後戻りはできないんだ。
おやすみ、と言い合って明かりを消したあと、ベッドの中でそんな思いが交錯して喉元まで熱いものが迫り上がってきてしまう。あー寂しい。何だかちょっと泣きたくなっちゃうな、と涙ぐんで寝返りを打ったわたしに母がそこで、声をひそめてのまさかのひと言。
「…ねぇ、それでさ。結局直織はどっちなの?やっぱり大智くん?それとも、ここまでしてもらうとなると。さすがに名越くんもかなり追い上げてきてるんじゃない?」
何言ってんだ。
不意を突かれて呆れ、涙がすんと引っ込んだ。
てか正直なところ、もっと早い段階でその手のことそれとなく探られるのかな…とうっすら警戒してた。
見送りに来てくれた吉村とのやり取りをそばで聞いてたわけだし。あんたたちもしかして…とか新幹線の中で話振ってくるんじゃないかとか。
名越だって、あんな堂々とした登場の仕方でがんがん積極的に介入してきて。もちろんわたしにはこれまでの経験で、あれは全部絵が目当てなんですってしっかり理解してるから。わたし本人に向けられた特別な好意ではないってわかってる。
けど、初対面の人が側から見てそれを知るのはさすがに難しいだろう。てか一発でそれを見抜けたらそいつは逆にむしろ、名越と同じ異常者では?
母は多分その辺常識的な感覚だろうから、名越がわたしのことを好きとか誤解するんだろうなと思ってた。だけどそのことについて一向に言及してこないところを見るに、親子とはいえ娘のその手のプライベートには口出さないと心に決めてるのかな。そこら辺結構配慮あるんだなとちょっと感心してたのに。
今の尋ね方と言ったら、こそっと声を落として興味津々じゃないか。意外とその手の好奇心強いというか、ミーハー?
切ないホームシックな気分もすっかり引っ込み、毒気を抜かれた声でぼそぼそといい加減に答えておく。
「どっちも。…そんなんじゃないよ。そういう話は出たこともないし。特にまじで、名越は全然お互いそういうんじゃない。絵でしか繋がってないから、わたしたち。美術絡まない話もほとんどしないレベル」
「そうなの?…ふぅん、ちょっと勿体ないね。見た目頭育ち爽やかさ性格の良さと完璧な役満なのに。まあ、大智くんだってもちろん包容力の化身だし直織には勿体ないくらい超絶いい子だから。どっちがどうとか親からは何も言う気ないけど」
そうかい。
それなら余計な口は挟まないでもらおうか。名越はともかく、正直吉村との関係について言えば今はちょっと微妙な段階かもしれない。そこに親がいろいろと介入してきたら(しかも、わたしが地元にいない状態で)目も当てられない。想像しただけでやめてくれぇ、と頭を抱えそうになる。
母がそこで言葉を切ったので、とりあえずこの話は終わりか。とほっとしてさらに反対側に寝返りを打つ。
この絶好のシチュエーションで母娘で恋バナ、ってのを狙ったのかもしらんけどお生憎さまだったね。恋愛って言えるほどの確かなものはわたしの周りのどこにもまだないんだよ。
まあ、新居の明かりを落とした寝室でわざわざ母親としめやかにひっそりと恋愛について語り合いたい、などと考える年頃の娘なんてそうそういようか。いやいるわけない、などと徒然に考えながら目を閉じると。
さっきまでとは打って変わって淡々とした、けど大真面目な母の声がふとわたしの耳を打った。
「…大智くんのことはとりあえず置くとしても。名越くんについて一応確認すると、あんたの方は本当に恋愛感情ないのね?この先成り行き次第でもしかしたら…って可能性も感じてないの?」
「別に…。変じゃないでしょ、そうだとしても。同年代の女子なら誰でもああいう男好きになるのが普通、とか思ってる?」
わたしが意地張ってるんだろうとかわざと捻くれてるとか。どうせ本心ではちょっとは好きなくせに、とか考えられてるのかと思うと憮然となる。顔が良くて金持ちで世話焼きで痒いところに手が届けば必ず惚れる、ってほど人間の感情って簡単じゃないんだ。
まあ今頭の中に並べ立てた名越を形容する要素をしみじみと玩味すると、これで何とも思わないの逆張りの偏屈者だなと言われても仕方ないのか…って気にはなってくるな。と肩をすぼめてたら、母は至極冷静な声でそんな風には思わないよ。と返してきた。
「そういうことじゃなくて。…恋愛になるつもりないなら、早めにそのことについては彼にはっきり口に出して念押ししときなさい。そこら辺、このまま曖昧にしといちゃ駄目だよ」
感情を交えず静かに説いてくる。叱るとか説教されるとかだったらまあ、いつもの口うるさい親ムーブだと受け止めて軽く聞き流したかも。
でもその態度には押し付けがましいところもなく、ただ実務的なアドバイスって感じが強かったから。つられてこっちも冷静になってつい神妙に耳を傾けてしまう。
「…あの調子で献身的に何かと世話焼いてもらって。絵のファンだからそれ以外は求めてない、見返りは要らないって口ではそりゃ言われてるんだろうけど」
何か思うところがあるのか。母は母なりにわたしの知らないところでいろいろ経験を積んでいいことも嫌なことも見聞きしてるんだろうな。そしてその内実をわたしが知ることは多分絶対にないんだ、とそんな部分に自然と思いを馳せてしまう、確信ありげな低い声。
「まだ若いあんたが思ってるより男女のことって理屈では割り切れないから。尽くしたり手間やお金をかけたらやっぱりその分だけ何か見返りがほしいって、無意識に考えちゃうところはあると思うんだよね。だからいくら言質をとってあって、あのとき口では絵だけ描いてくれればいいって言ったじゃん!って言い張っても向こうの感情はどうにもならない。…ってことにならないように。早めにしっかり予防線張っておきなさいよ」
「そんなこと。…ないとは、思うよ。まず」
わたしの反論は微妙に弱々しい。名越が約束を違えてそんなこと言い出すとは正直まるっきり思ってはないが、母親の口振りがあまりに断定的で。お前にはそれを論破できるほどの人生経験の積み重ねがあるのか?って詰められたらそりゃ、ねぇ。
一方で母の方はわたしを言い負かすとか上からマウントするみたいな意図はないようで。こっちの反論を特に問題にする風でもなく軽く受け流して済ませた。
「そう思うのは構わないし、それが当たってるんならそれでいいよ。けど、あとで揉めないように今のうちにきっちりと一線は引いといてね。何となくお互いそういうのなし、って無言で理解り合ってるとかじゃなく。わたしはあなたとそうなる気ないから、もし多少なりとも将来に期待してるとかだったらこれ以上は援助も手助けも受けられないよ?そこはあとで話が違うとかならないようにはっきりしておこう、って一度は言葉にして確認しておいて」
そんな風に疑うのかとか怒って騒ぎ出したり自惚れてるんじゃないの?とか笑って馬鹿にしたりって反応も駄目。話を逸らしてきちんと問いに答えないって態度ならやっぱり危険の兆候はあると思うよ。
そうなったらいくら頼り甲斐があってそばにいて助かると感じてても、彼とは速攻距離置きなさい。便利は安全に代えられないから。とやや厳しめの声で言い渡された。
「はぁ…。まあ、わからないこともない。…けど」
曖昧にぶつぶつ呟いて返答を濁す。
言ってることは別におかしくないと思う。一般論ならわたしも、友達や身内に同じように言うかも。
恋愛的に報いることができない相手にいろいろと借りを作っちゃ駄目。絶対あとでトラブルのもとになるから、距離を置けないならせめて折に触れて念を押して、その都度相手の反応を確かめろと。
それでちょっとでも不穏な匂わせを察知したら素早く何食わぬ顔で遠ざかれ。そのくらい警戒心を持って異性とは付き合え、ってのはわからなくはない。
しかしそれは相手が名越でさえなければ。だけどね、と内心でそっと付け加えた。
母が考えてるよりもわたしとあいつの関係は長い。
気心知れてるとまではさすがに思わないけど、何を求めてて何に興味がないかくらいは大体わかる。
とにかくわたしの手になる絵、それから自分が美術周りで生きること。それ以外は何でも手に入れようと思えば手に入るけど、正直まあまあどうでもいいって感じだ。
恋愛とか女の子にも本当は大して関心がないし。
というか、誰か他人に対して根本的に執着とか興味がないんだと思う。断る方がめんどくさいから申し込まれたら付き合ってるだけで、自分の方から誰かを求めるってこと、これまでの人生でほとんどなかったんじゃないかな。
そういう人間を本気で怖がるのは難しい。しかも頭は悪くなくて感情の波がなくて冷静だから、話せばわかる。って感じの方が強いし。
けどそれを、ここで懇々と母親に説いても。…まああいつのことをよほど熟知でもしてないと。わたしのこの確信を同じように納得してもらうのは、かなり難しいかもしれないな。
そう思って面倒になった(あと、暗くて静かな部屋の中で真新しい布団に包まれて早くもうとうとし始めていた)わたしは、ちょっといい加減だな。と我ながら思わなくもないが。できるだけ神妙な声色で大人しく母の言い分を受け入れてみせた。
「わかった。…そうする。今度会ったときに」
「うん、そうして。…気をつけてね。もう子どもじゃないんだから」
はぁい、と布団越しに返した返事は従順だがだるそうな空気は隠せない。
十八歳、一応法律的には成人。だから母の言うことも大袈裟じゃないんだろうけど。
それでもわたしたちは親世代が考えてるよりはまだまだ子どもな気もする。愛だとか恋だとか欲とか、そういうのが異性同士の間なら必ず芽生えるはず。って思われるほど、お互いに対して深い関心なんて今のところ抱いてはいないんだよな。
せめて本気で誰かを好きになってからだろう。けどわたしも名越も、そこまで大人として成熟した欲求を他人に持つほど成長を遂げてはいないんじゃないかな…などと他人には証明しがたいことを内心では確信しながら。
まあとりあえずこの場を受け流しておけばそれで大丈夫。もし仮に名越の様子が急におかしくなったらわたしにわからないはずないから、対処するのはそれからでも遅くないもんな。とお気楽な考えを最後に、わたしは新居での初めての眠りの中へとゆっくりと落ちていった。
《第18章に続く》
幼馴染みと別れ、上京したら待ち構えてる美術ストーカー。どっちも恋愛とも言えない、恋愛じゃない関係なんだけど友達連中からも母親からもやっぱり微妙な目で見られてしまう。
本人も百パーセントそれはない…とまでは言い切れないけど、まだそこまで踏み込んでは考えられない(異常者は別)。そんな中途半端な状態が宙ぶらりんというか、まだ大人じゃないし大人になりきれてなくてもいい。っていう気分なのかな…と思います。
もう何年かして、大学でも卒業したらそんな甘いことも言ってられないのかもしれないけど。今の段階では異性同士だからどうとかいうことはなくて、普通に友達でもいいじゃないか。しばらくこのままでいたいって感覚。…そうは言ってもあっという間に大人になっちゃうんだけどね、みんな。




