第15章 それぞれの道を行く
進学先を決める話。それぞれの家庭の事情や経済状態がありますから、現実はなかなかシビアですよね…。
受験生たる高校三年生の夏休みの日常なんて、まじで特記すべきイベントのひとつもろくにない。
ただひたすら予備校と家との往復、そしてときどき合間に吉村との勉強会。吉村の個室で二人きりっていう、少女漫画ならいかにも何か発生しそうなフラグいっぱいのシチュエーションでも現実は厳しい。
公団の五人家族の居室は広さは今いちで常に誰かの気配がしてるし、生活音も賑やかだ。隣の碧の部屋との仕切り壁は薄くて友達と通話してる声やゲーム音が微かに聴こえるし、おばあちゃんは親切に何かとお茶やおやつを持ってきてくれる。
まあ、むしろこういう雰囲気の中での方が落ち着くから、あえて自分ちじゃなくて吉村の家を使わせてもらってるわけで。特に文句はない。
別に今さらお互い親睦を深める必要もない相手同士だから、わたしたちはよそごとにとらわれず黙々と勉強に励んだ。
夏休みが明けて学校が始まってしまえば、こんな風に二人で集中して学習に打ち込む時間を取る余裕もなくなる。
さすがに秋からはわたしも自分の対策一本槍になるので、それまでにある程度は吉村の国語と英語、そして地理を何とか目処つけておかないと。
そういうわけで、夏休み期間はほとんど受験勉強で終わった。結局美術部の合宿もパスしてしまったし。
『去年見てただろ。三年生こそ本番なんだよ夏合宿は。だって、美術部の活動の高校生活最後の総まとめ的な位置付けなんだから…。まじで来ないとは思わなかった。やっぱ薄情だよなぁ、笹谷って』
山内さんと棚田さんもあんたがいなくて寂しがってたよ。とわざわざ電話をかけてきてまでしてぷんぷん怒って文句を言う名越。この切羽詰まり始めた受験生の秋の時分に、こいつだけは常に相変わらずだな。
『こっちで代理で出席って出しておいたのに、あとから勝手に欠席って訂正して提出し直しただろ。そういうことはさ。相談なしに決めないようにって前から言ってるのに』
「いや何言ってんのあんた。頭大丈夫?」
まるで自分の正当性を疑う様子もなく、大真面目にわたしのしたことを非難してくるのがすごい。わたしは呆れて言葉を飾る気にもなれずストレートに突っ込んだ。
「前々から言おうと思ってたけど。そもそも他人の入部届とか合宿の参加申し込みとか、そういうのは本人に黙って勝手に出しちゃいけないものなんだよ。わかる?」
一度きっぱり言い渡しておかないと。まじで名越、その辺の分別つけておかないと後々やばいぞ。
「なんか割と最初からそういうノリが当たり前だったから。突っ込むタイミングを失ってここまで来ちゃったけど、大学入ったあと他の人にそれやらないようにね。わたし以外の人なら普通怒るかどん引きするよ、それ」
こっちの接し方が間違ってたせいで、名越の揺るぎない独断専行が矯正されずに新しい環境下でトラブルの素になったらわたしのせいみたいで寝覚めが悪い。と考えて一応念押しすると、やつはまるで動じた風もなくスマホの向こうでしれっと悪びれず答えた。
『何言ってんの、当たり前でしょ。俺だってそのくらいの常識当然あるよ。てかまずそこまで他人の面倒見る気も決断に介入する気もさらさらないし。どう考えても笹谷くらいだよ、俺からのサポート必須な人間って』
全く何から何まで手がかかるんだよな。俺が手助けしてやらなきゃ一向に何ひとつ話が進まないんだからいつも。と別に冗談のようでもなく真顔な声で愚痴をこぼしてる。いや、純粋に意味がわからない。
「別に必須じゃないし。てか、こっちはこっちで自分のことは何とかできるから。名越こそ美大受験しっかりやんなよ。わたしは手助けとかもちろんしないからね。美大のこと全然わかんないし」
こっちも進路決まるまではもうしばらくの間他人の心配とかまで気が回らないよ。と念を押すと、スマホの向こうでやつはさもわたしが何か面白いことでも口にしたかのように受けてみせた。
『何言ってんだか。俺があんたからの手助けとか、これまでいっぺんだって当てにしたことあるみたいな…。そんなこと心配する余裕がちょっとでもあるんなら、受験終わったあとにこれまでの作品きちんと網羅できるように整理してまとめておいてよ。できたら勉強の合間の気分転換にでも一枚一枚撮影してこっちに少しずつでも送ってくれたらありがたい、ちゃんとしたリスト作りたいんで。…あーあ、まじで今回の夏合宿来なかったからさぁ。そこで描くのを当てにしてたのに、これでその分笹谷の作品リストが乏しくなったじゃん。どうやってその空白を埋めようか、と…。悩みは尽きないなぁ』
「他人のことを遅筆で寡作の漫画家みたいに言わないでくれる?」
すっかり諦めの口調になって言い返す。まじでわたしのフォルダを常に少しでも増やすことしか考えてない男だ。他に夢中になるものってないのか、あんたは。
ちょっとでも真面目に心配した自分がつくづく馬鹿馬鹿しく感じられた。まあ、思えば名越に限って人生を左右するようなでかい失敗とかするわけないよな。
思う通りに進むための武器は生まれついて何でも持ってるし。いつも余裕綽々で全体を俯瞰できる視点もあって、何だか絶対に方針やルートを間違える気がしない。いつもこいつのそばにいてずっとそんな風に感じていたのを、こうして久々に喋ってみてありありと思い出した。
まあ、こいつの将来は本人に任せておけば間違いなしってことで。とため息をついて通話を切り、それっきり名越のことは頭から追い出した。どうやったって、三月にはすんなり何もかも上手く行くルートを辿った結末しか想像つかん、あいつについては。
そのくらいなら自分の心配、もし仮にもう少し精神的余裕があればせいぜい吉村のこと。その方がよっぽど問題だ。二人とも名越ほど余計な才能があり余ってるわけでも、生まれついての幸運持ちでもないんだから。
本格的に秋も深まって、年末がじりじりと近づいてくる。そのくらいの時期になるともう、わたしたちが二人で一緒に勉強する時間をあえて取るようなゆとりはなくなっていた。私立文系志望のわたしと国公立理系志望の吉村とでは、受験科目の違いが大き過ぎるので。
大河原先生の絵画教室もお休みして学校と予備校を行き来するだけの毎日だ。ときどき友達と放課後の隙間時間にファストフードに寄り道したり、たまにひとりで本屋に立ち寄ったりするのが最大の息抜き。新しい絵に手をつけたり小説の長編に手を出したり冊数の多い漫画の頭を気まぐれに試し読みしたりも避けてる。
何故ならふと気がつくと無心でずっとそれにかかり切りになってしまいそうだから。集中力の要る娯楽はこの時期危ない。
自分の目標を最終的に狙い定め、第一志望の大学と学部も第二、第三志望の学校も決めた。だからわたしに関して言えば、もうここまで来たらひたすら当日の試験に向けて集中して黙々と日々積み重ねていくだけだ。
その一方で気にかかってもやもやしてしょうがない思いが、そんな毎日の中でもずっと心の片隅に引っかかったままだった。…吉村の志望校がいつまで経ってもはっきりしないのだ。
夏の時点でも微妙に歯切れが悪く、多分地元で通える国公立のどこか。くらいの濁した答えしか得られなかった。
吉村の成績で合格可能なレベルの通える範囲の公立(理系学部あり)って言われたら、そんなに言うほど潤沢な選択肢はない。だからこっちで当たりをつけて、□□大とか■■大?と具体的な学校名を挙げて水を向けても、うーん…、まあ、その辺かな。と何とも曖昧な口調で明言を避ける。
確かに、これから本気で猛勉強したら冬頃にはもう少し上を目指せるくらい成績が上向きになってる可能性がゼロってわけじゃないし。今の時点で志望校を確定まではしなくても…と考えて深くは追及しなかった。夏休みの時点では。
どこに出願するか正式に決定したら、さすがに報告してくれるだろうとは思ってたし。
わたしは吉村のお母さんでもないのに、あんまり口うるさくしつこく突っ込むのはおかしいかなと遠慮した。でも、だからといって。そろそろ十二月というこの時期になってもまだ志望校が決まらないのはどうなのか。と…。
たかが幼馴染みっていうだけの関係性で、そこまでずかずかと踏み込んでいいのか気になる。どこの大学を受けるかなんて友達には話したくないっていう考えの子はまあ普通にいるし。わたしにだけ特別に話してほしい、とか言えた立場ってわけでもない。
きっと合格するまでどこ受けたかは知られたくないんだろう。確かにデリケートな話題ではあるので、こっちから何度も尋ねるのはだんだん気が引けてきて。もう年明けて合格発表が済むまで待つしかないのかな。無理やり喋らせるわけにもいかないし…と考え始めていた、そんな年の瀬も押し迫ったある日のこと。
予備校帰りに駅を出て、せっせと坂を登ろうと石段に足をかけたその瞬間。上から降りてきた人の気配に顔を上げると、そこに夏休みに会って以来の久しぶりな吉村んちのお母さんの顔があった。
「…あ。直織ちゃん」
「こんにちは。…こんばんはかな」
どっちだろう。まだ七時前だから夕方と言えば夕方。けどもうすぐ冬至って季節だし、もう辺りは真っ暗だ。夜って言えば夜確か思えない。
オレンジがかった街灯の光の下で、すらりと長身の吉村のお母さんはわたしに視線を向けて驚いた様子で切れ長の一重の目を見開いた。
「今頃予備校からの帰り?ずいぶん遅いね。こんな暗くなるまで大変。大丈夫?大智呼んで、送り迎えさせようか?」
「いえそんな。まだ八時になってないから…」
真夏なら暗くなって間もない時間帯だし、女の子が一人で歩いてても誰も何とも思わないはずだけど。よりによって一年で一番早く日の落ちる頃合いだから、とっぷり暮れてて見た感じ心配になるのかも。
吉村んちは女の子が一番歳下の沙里奈ちゃんだけだし、中学に上がったばかりだからそんなに遅く帰って来る日もまだないんだろう。高校になったらそうも言ってられないぞ、いつまでも親に迎えに来てもらうわけにもいかないし。と考えながらここは愛想よく笑って続けた。
「予備校はもっと遅い授業もあるし、女子もみんな普通に取ってるから。気をつけて明るい道を歩けば大丈夫です。それに、大智くんに迷惑かけちゃうし。この時期みんな大変なのは同じですから」
吉村は予備校や塾を使わないで自力で合格するって言ってたから、今頃は自宅で勉強してるんだろう。
それを中断させてここまで出て来させることになったらまじで忍びない。お母さんは口先だけの社交辞令で言ったわけじゃなさそうで、今しもポケットから取り出したスマホをタップしようと掲げている。
その動作を止めようと、ふと思い浮かんだ質問を口にする羽目になった。
「ところで。…大智くんが受ける大学、結局どうなったんですか?さすがにそろそろ決まりました?」
本人には直に訊きづらいこともお母さんになら訊ける。特別に口止めでもされてるんじゃなきゃ、きっと普通に教えてくれるだろう。
そう思っていい機会だし…と何気に尋ねてみただけだったんだけど。その瞬間、さっと彼女の眉の根が微かに曇ったのを見てとって、ああ。…と何とも言えない予感が胸をよぎった。
わたしが知りたくなかったこと、聞きたくないと思う事実が今から出てくる。だけどそういうものがあるって既に知っちゃったら、もう耳を塞ぐわけにはいかない。
「そうか。…あの子、まだ直織ちゃんに言ってなかったんだ。本人が言い出したことだったから。気持ちの整理はとっくについてるのかとばっかり…」
ああ。やっぱり、そういうことか。
目の前のオレンジ色の光を浴びた冷たい石段の眺めが、やけに生々しく感じられる。わたし、この場面知ってる。
彼女が次に口にする言葉も。その声の調子や響きまで、記憶の中に既にあるものとそっくり同じだと感じてた。絶対にこの話を聞くのは初めてなはず、なのに。
「大智は受験しないの。大学には進まないで、専門学校に行くって。ずいぶん前にそう決めたんだけど、直織ちゃんには言いにくかったのね。…夏休みにお勉強、一緒に見てもらったのにごめんね。でもあのおかげで赤点も回避できたし。ちゃんと三年で卒業できそうだから…」
とっても助かったよ、本当にありがとう。と頭を下げる吉村のお母さん。
いえいえそんな、わたしの方こそ。と上の空で反射的に返す自分の声がまるで他人の口から出てきたみたいに。どこか遠く聴こえるような気がしていた…。
今から駅前のスーパーに買い物に行く、という吉村のお母さんとその場で別れてすぐにわたしは鞄からスマホを取り出しLINEのアイコンをタップする。
階段をゆっくり登りながら繰り返すコール音を耳にして、さっきまでわざわざこの時間帯に吉村を呼びつけるなんてとんでもないとしか考えてなかったのに。結局ほんの数分後にはこうして呼び出すことになるんだな。…あ、でも。あいつはほんのついさっきもう受験生じゃなくなったんだから、まあそれはいいのか。とかしょうもないことをつらつらと脳内で考えていた。
「…あ。わたし。直織、だけど」
ぼそぼそとそう告げると、スマホの向こうでほんの微かに吉村が笑う気配がした。
『わかるよ。それは、まあ』
「…あの、すぐ終わるから。今から少し話せない?』
一瞬ためらいが伝わってくるような無言。ああ、反射的にちょっと怯んだな。わたしに何を言われるか、既に大体はわかってるんだ。とどこか冷静に感じられる頭の片隅で考えた。
『…俺はいいけど。直織は勉強あるだろ。もう追い込みの時期だし、寒いし』
「平気だよ。すぐに済ませるから」
来るまでわたしの家の前で待ってる、とだけ言って返事を聞かずに通話を切った。
こう言えば絶対にあいつは無視できない。わたしを夜の暗い寒空の下に長いこと放置するなんて出来っこないんだから。一刻も早くと走って階段を駆け降りてくるに決まってる。
人けの少ない石段にいつまでも佇んでるのも物騒なので(あと、吉村のお母さんが買い物を済ませて帰ってくるのに鉢合わせるのも気まずい)自分の家の前までそそくさと移動して吉村が姿を現すのを待つ。
こっちは階段の中ほどで分かれ道に出ればすぐそこだから、さすがに向こうよりは先に着くだろう。と踏んではいたけど。予想してたよりだいぶ早く、わたしが家の前で立ち止まって振り向いて見回した途端にやつが息を切らして走ってくるのが視界に入り、あまりに想像通りの様子に何だかおかしくなって笑いそうになってしまった。
今の状況がそれどころじゃない、と思い直して頬の筋肉を引き締める。いきなり呼びつけられて駆けつけたところ、こっちがわけもなくにやにやしてたらそりゃ吉村だって不気味だと感じるだろう。
「…ごめ。待たせて」
「全然待ってない。めちゃくちゃ早かったよ」
すぐに話を切り出そうとするわたしを押し留めるように、どこか入る?とこっちの顔色を伺う吉村。
「ここじゃ寒いだろ、風邪引いたら大変だし。でもこんな時間に俺連れて帰ったらじゃ直織のお母さんびっくりしちゃうだろうし、中には入れないよね。うち来る?今から」
「いや大丈夫。さっさと手早く済ますし」
家の中に引き入れるつもりがないならうちの前にする必要あった?と言われたらそりゃそうだが。
夕食前の慌ただしい時間に、いきなり幼馴染みの男を連れて帰ったら確かに母親が混乱しそうだ。それにあまり前置きを長くしてこの話を引き延ばすつもりはない。わたしは吉村の顔を下から見上げ、ずばりと単刀直入に切り出した。
「さっきお母さんから聞いたよ。大学受けないの、吉村?本当に?」
「ああ。…うん」
居心地悪そうに視線を逸らす。
そのまましばし沈黙が走る。そのあと何か説明が出てくるのかな、と構えて待ったけど吉村はそれ以上言葉を続けるでもなく黙り込んでる。
「…別にその選択を頭ごなしに否定しようってわけじゃないけど。理由を聞いてもいい?」
なるべく穏やかな声を出そうと努めたけど。それでも吉村がすぐに口を開く様子はない。
責めようってわけじゃないのに、ともどかしく思いながら何とかやつの口を開かせようと重ねて問いかけた。
「やっぱり、金銭的な理由?碧と沙里奈ちゃんの将来のことを考えて…。けどあんたにだって自分の人生があるわけだから。お店を継ぐ長男が大学行かなくて大丈夫なの?てか、この件についてお父さんとお母さんの意見は?あんたの決断を良しとしてるの?それとも、もしかして」
ご両親の意向でこうなった?…とは訊けずに、そこでぐっと奥歯を噛みしめて言葉を切った。
「…理系の学部は学費高いから。お家が大変なのはそれはそうかも。…でもまだ何か方法はあるんじゃないの。奨学金って手もあるし。そりゃ、完全給付型は間口狭いのは確かだけど。返済義務のある普通の奨学金だって、借りてる人はいっぱいいるんだから。必ずしも無理ゲーと決まったわけじゃ」
言葉を並べ立てながら自分のことを情けなく思う。そう言うわたしはどうなんだ。
親に予備校代も出してもらえて、しかも私立の東京の大学が第一志望。そんな人間が、金銭的余裕がなくて進学を諦めなきゃいけない友達に三百万とも四百万とも言われる貸与型の奨学金借りろとかどの面下げて…。簡単に勧められることじゃない。
そう考えると思わず知らず言葉に詰まり、最初の勢いは消えてなくなる。すっかり意気消沈して俯くわたしの頭の上に、ふんわりと穏やかな低い声が降ってきた。
「いいんだ、大丈夫だよ。直織が気にすることじゃない」
それはまあ。…そうなんですけど。ただの幼馴染みで友達ってだけの間柄ですし…。
けどその声色から突き放すようなニュアンスは感じ取れない。本当に気にして欲しくないんだろうな、というのは伝わってくるから。吉村がさらに何か語ろうとしてるその言葉の先を、とりあえず大人しく聞こう。という気持ちになった。
わたしの家の前の狭い道路沿いに並ぶ街灯に上から照らされて陰になってる吉村の顔。だけど、その眼に何とも言えない優しい光が浮かんでいるのははっきり見て取れる。
「…これでいい。予定通りなんだよ、俺は。そもそも大学行こうとか行けるって思ってなかった。金銭的にってことじゃないよ。まあもちろん、それもゼロってわけじゃないけど」
急に思ってもみなかったことを言われてぽかんとなる。…最初から大学行く気なかった?何で?
吉村はわたしの顔を見返して、ふと寒くないか。と呟き、自分の首の周りに無造作に巻き付けてあったマフラーを解いてわたしに巻く。男物らしきそれはかなり長さがあって、顔の周りに二重に巻かれると目だけ出した状態になった。…ほかほかとあったかい。
吉村はやや上体を屈めてこちらの目を覗き込む。
「俺はさ。既に将来の仕事が決まってる。この公団もほとんどの住民がお年寄りばっかになりかけてるけど、今でもまだ新しい世帯が入ってこないこともないし。しばらくはこのまま、大勢の人たちが住み続けるだろうと思う。もちろんその人たちの全員がうちで電化製品を買ってくれることはないだろうけどさ。大規模チェーン店の方が安いし、商品も種類いっぱいあるし」
「…うん」
そんなことないよ、とも言えずに曖昧に頷く。うちは公団じゃないけど、まあちょっとしたもんは大型家電店で買っちゃったりするしな。家を新築したときには親同士の付き合いもあって、吉村んちから大型家電のほとんどを調達したはずだけど。
公団の全家庭がそこまでするほど吉村の家の店を優先するとは思わないし。住民の数は安定してても必ずしもそれが昔ほど売り上げに直結してないのかも。というのは確かに何となく予想がつく。
「でも、それでもうちの店を必要としてくれてるお客さんはまだいっぱいいるし。家電の修理やパソコンについての相談なんかはすぐ対応できる近所の店に強みがあるからね。当面の間は閉めるわけにはいかない」
「うん。…でも、まだ吉村んちのお父さん全然若いし。お店を継ぐことについては、そんなに急がなくても」
大学に行くくらいの時間的猶予は全然あるんじゃない?
それどころか、他にやりたいことがあるなら十年二十年くらいはそっちに打ち込んでからでも別に遅すぎることはなさそう。お父さんもお母さんも、吉村に他の夢や希望する進路があるのに今すぐ店を継いでよ。とかごり押しするような人たちには思えないし…。
というようなことを、遠慮がちにごもごもと呟いてると吉村は微笑みを浮かべてうんうん。と頷いてみせた。
「そうだな。うちの親父、まだ四十代だし。すぐに俺に代替わりする気なんか正直ないと思うよ。でも何かあったらすぐ引き継げるように、資格取ったあと大きな電気店とか修理業者とかで修行して、必要な知識や技術を身につけておきたいんだ。それには大学よりも専門学校だなとはずっと考えてた。研究より実務、仕事に直結する資格取るならその方が手っ取り早いし。卒業までも二年で済むし」
「でも。…せっかく進学校に通ってたのに」
うちの学校なんてほとんど、よほどのことがない限り皆大学に進む。98とか99パーセント、大学生になるんじゃないかな。現役か浪人かはともかく。
だからといって全員が何も、同じように横並びで大学に行かなくてもいいだろって考え方もわかるだけに。ここで勿体ないとかもっと頑張れるよとか言うのも、なんか違うのかも…。
そんな思いが浮かんできて、中途半端に台詞の続きを飲み込んだ。わたしの言いたいことのその先を読んだのか、吉村は噛んで含めるように説き始める。
「うん。でも俺は、そもそもあの高校に受かるレベルじゃなかったから。それはわかってて、でも猛勉強して何とか喰らいついて合格したんだ。直織のサポートあっての結果ではあるけどね。…自分のランクに見合ってないってわかってた。でもどうしても、あの学校に通いたかったから」
…何で?
とすんなり聞き返していいかどうか迷う。漠然とだけど、わたしはその答えを知ってるんじゃないか。と思わなくもなかったので。
視線を落としたわたしをどう思ったか、吉村は構わず平坦な声でごく当たり前のことを打ち明けるテンションであっさりと口にした。
「直織と同じ高校に行きたかったから。進学校かどうかなんてどうでもよかった。いや、それは完全に本当ってわけじゃないかな。直織と同じレベルの学校に受かったんだ!ってのは素直にめちゃくちゃ嬉しかったよ。絶対俺の成績じゃ無理だと思ってたからさ…。だから、それでもう満足っていうか。悲願は達成してるんだよね」
「それは、だから。…吉村もあの高校に受かるレベルの頭だって証明されたってことなんじゃ?」
何か憑き物でも落ちたかのような晴れ晴れとした声に思わず顔を上げ、口を挟む。吉村は静かに首を横に振り、悟りきった口調でその問いに返してきた。
「でも、めちゃくちゃ精一杯爪先立ちで背伸びしたぎりぎりの状態で入ったからさ。正直普段の授業についていくのも大変だったよ。あんまりみっともない成績取りたくないから理科系科目と数学だけは何とか頑張ったけど。文系科目はまじでついていけなかった…。けど、直織が教えてくれたおかげで何とか留年せずに卒業できそうだし。悔いはないよ、俺は」
そこで言葉を切ってわたしの顔を見下ろし、ふと口許をほころばせた。
「そんな顔しないでよ。てか将来のこと考えたらさ、どう考えても工業科のある高校行った方がよかったわけだから最初から。電気科とか情報処理科とかさ、そこで資格も取れるはずだったし。それでも我儘言って普通科に行かせてもらって、もう充分だよ。専門学校の学費はまたかかっちゃうんでそれは申し訳ないとは思ってるけどさ、親には」
でも、直織の行く高校に自分も通ってみたかったんだよね。これで同じ学校に通うのはもう最後だとわかってたし。と明るい口調で付け足す吉村。
わたしは何がというわけでもなく、どうにも申し訳なさが勝ってしまい思わず首を縮めた。
「ごめん。…せっかく同じ高校に通ってたのに。結局三年間のあいだ、ほとんど学校で顔合わせたり一緒に行動する機会もなくて…」
吉村は恐縮するわたしの懸念を吹き飛ばすように、あっけらかんと破顔した。暗い街灯の下でこいつの周りだけが心なしか明るく見えてくる。
「いいって、そんな。別にずっと一緒に行動したくてこういう選択したわけじゃないから。ただ三年間を同じ空間で過ごしたかったんだ。直織のいる場所に自分もいられて、同等の立場で同じ空気を味わえただけで満足だったよ。それにたまには行き帰りで一緒になったりとか。遠目にああ頑張ってるなとか楽しく過ごしてそうだな。とか確認するのも同じ高校じゃなきゃできないことだったし…」
「そんな」
そこまで気遣ってもらえるほどの代物じゃないのに。
そう打ち明けられてわたしはかえって、ますます申し訳なく思えてさらに身をすくめる。
大して構ってもあげない、素っ気ない薄情なわたしなんかのために。将来の仕事と関係ない普通科しかない、しかも難易度が高くて入るのが大変な学校を頑張って受けて。
せっかく同じ高校に通ってるのにそのことを特にありがたがりもせずに、あいつと全然学校で顔合わせる機会とかないな。やっぱり文系と理系でコース違うからか?なんて、呑気に考えてた自分を殴りたい。
その上自分だけ、親丸がかりで学費を出してもらって予備校に通ってるだけじゃなく。受験もしない美術予備校まで体験と称して受講させてもらったし。
さらに東京に出させてもらって、しかも理系科目苦手だからなんて軟弱な理由で私立受けようとしてる。いや一応他の理由もあるけど、それにしても。
吉村の前じゃ甘えてるにも程があり過ぎて、顔を上げられない。
両親が働いてて何とか学費を捻出してくれるからって、そこまで頼っていいものか?たまたま経済的にある程度余裕がなくもないから。…きょうだいが弟だけで何とかなりそうだから、恵まれた環境だからって。
わたしだけ好きなことをして、行きたい場所に行くなんて。しかも、自分の力でじゃない。親の財力で。
顔を上げて吉村の目を下から覗き込み、何とか声を振り絞った。
「わたし。…わたしも、ここに。残った方が。…自分だけ東京に行くなんて。贅沢だし我儘だし、それに」
本当は上京しなきゃならない理由なんてそもそも全然ないし。
そんな思いが頭の中に浮かんで、思わず目を閉じた。そう、本当はずっと引っかかってた。後ろめたく感じてたんだ。
吉村だけじゃない。他の友達も、地元から出られない子はたくさんいる。経済的な理由かもしれないし親が一人暮らしを許してくれないとかもある。上京も私大進学も了承してくれるうちの両親はかなり理解のある方だ。
それは単にわたしの運がいいから。だけど考えてみれば、わたしには東京じゃなきゃいけない理由も国公立を目指さなくていい根拠も何にもない。
ただ自分がそうしたいからってだけ。そのためにわたしにかかる費用は半端なく跳ね上がるのに。
もっと、我慢しなきゃいけないんじゃないか。わたしだけ自由に、行きたいところに行けるのは間違ってるんじゃないか。自分もみんなが引き受けてる不自由やままならなさを分け合わなきゃいけないんじゃないか。…吉村と同じように。
やつの目に浮かぶ色を見るのが怖い。けど、勇気を出して閉じてた目を再び開いて吉村の顔をひたと見据えた。
「わたしだけ希望が叶って、好きなところに行けるのは公平じゃない。ここ地元でだって大学は行けるし。必要に迫られてもいないのに贅沢すぎるって…少しは我慢しなきゃいけない気がする。吉村やみんなと同じように」
「俺は別に。そんなこと全然望んじゃいないよ」
「でも」
強い目線で黙らされた。…確かに。
吉村はそんなやつじゃない。自分がままならないから、周りの人間も皆同じように縛り付けられればいい。みんなで不自由になればいい、なんて。…絶対に思わないもん。多分。
わたしの顔色をどう見たのか、吉村はほんの少し目許を緩めて優しい柔らかな声で言い含めた。
「直織は東京に出て行きたい。別に地元が嫌いだとか、家族やここの友達や幼馴染みと合わないからってわけじゃない。ただ知らない世界を見てみたい、誰も知らない新しい環境にぽんと放り込まれて自由になりたいだけなんだ。東京の空気を吸って、身軽に好きなように街を歩きたい。それができるのは学生時代だけかもしれないから今行くしかない。…違う?」
「そう。…だよ。そう」
喉の奥から熱い塊が込み上げてきた。
「家や地元やこれまでの知り合いから離れたいなんて思ってない。でも、何もかもから一旦切り離されて生活してみたいの。東京でなら家族から離れて独立して暮らしてる若い子が普通にいっぱいいる。そんな名もない有象無象のうちの一人になって、紛れて他と見分けもつかなくなって。わたしに誰も気づかないし気にもとめない、そんな空気を浴びてみたい。大学の構内やその辺の街並みを何のしがらみもなく自由に歩き回りたい。…そんなの。なくてもいいものでしょ。ただの無意味なこだわりじゃん。それだけのことにお金をかけて…」
「でも。それが直織が今、喉から手が出るほど欲しいものなんだ」
ずばりと言い当てられて悄然となり再び下を向く。
「そう。…です」
認めて俯くしかないわたしの頭上から、吉村の落ち着き払った淡々とした声が降ってきた。
「全然つまらないことじゃないよ。俺はいいと思う。しかもお金のことばっか言うけど、直織にはそれを実現する学力もちゃんとあるんだから…。勉強もできなくてどこにも合格する当てないのに東京行きたいって言ってるんならそりゃ口だけだけど。難関大学目指してA判定も取って、目標に向けてきちんと努力してる。胸張っていいことだと思うよ」
…うん。
「そうなんだけど。…そう、だけど」
まだぐじぐじ言ってるわたしに構わず、吉村は訥々と話の先を続ける。
「俺はさ。正直それほど、ここを離れたいとか東京で暮らしてみたいって願望がそもそもないんだ。ずっとここで弟や妹の面倒を見て、無事に育ったあいつらを巣立たせて外に送り出してやるんだって最初から自然と考えてた。そのことに不満とか不平とかないよ。でも直織のその希望をつまらないことだとか、そんなの必要ないでしょなんて思わない」
さっき下を向いたときに崩れた、わたしに巻いたマフラーの先を取ってかけ直した。
「むしろ、そういうとこ素直にすごいなって思ってる。今の日常が嫌だとか不服とかもないのにもっと新しい未知のもの、知らないところに気持ちが向いて。安心安泰な場所にしがみつかずに身軽に外へと飛び出していける。俺にはない部分だと思う。どうしても俺は、このままでいいやって小さくまとまっちゃうタイプだし」
だから住み慣れた土地にずっと居着くことに不満なんてないんだよ。とわたしを安心させるように説いて聞かせる。
「直織には、萎縮せずにこれからも思うように自由にしてほしい。俺のことを考えて自分を抑えたりやりたいこと我慢されたらかえってつらいし、悲しいよ。活き活きして楽しんでる直織を見ていたいんだ。諦めて心を殺してる顔は見たくない」
すっと手を差し伸べ、わたしの両手を取って包み込む。冷たくなっちゃったねと笑われて気がついた。
こっちはちゃんと手袋をしてるのに。素手の吉村の手の方があったかいのはどういう仕組みなんだ。
寒がらせちゃったね、早く終わろう。と呟いてしっかりと両手を握りなおした。ぬくぬくとしたやつの体温が伝わってきて、何だかほっと肩の力が抜けてくる。
「四月には上京して、一人暮らしの部屋借りて。知らない電車乗って憧れのキャンパス通うんだろ。講義の合間の空き時間に学生街ふらふらしたりして。何だっけ、神田とか早稲田の古本屋街にも通う」
「うん。…楽しみ」
「一人で好きなもの食べたり友達とご飯食べに行ったり。あとは生まれて初めてバイトもして。それから、当然絵も描いて」
「うん」
肩がひくついて、初めて自分が泣いてるのに気がついた。
両手を取られたままなので涙が拭けない。わたしはもう遠慮なく盛大にしゃくり上げ、涙声でそれを復唱した。
「絵もかく。…受験終わったら心おきなくいっぱい描いて、好きなだけ。親が見たら怒りそうな偏った適当なご飯たべて、大学の授業が休講になったら一人でだらだら時間つぶしたり、知らない街の裏道を探検したりとか。…海も見にいく。お台場の海」
「お台場行けなかったんだっけ、修学旅行のとき」
意外と根に持ってるな。と笑ってから、励ますようにぽんぽんと手袋越しにわたしの手を軽く叩いた。
「ほら、しっかりして。まだ受験終わってないよ。合格発表までは気を抜かない。…俺のことは心配しないで。これでも結構楽しみにしてるんだよ、専門学校とか。ずっと資格取らなきゃって焦ってたからね。これでこっちに本格的に集中できる」
「ごめんね」
「そういう意味じゃなくて。…俺はさ、あんまり欲とか夢、希望とかない方だから」
面白みのないやつなんで。と笑いに紛らわす吉村。
「身の回り10メートルくらいの幸せで満足しちゃう方だからさ。直織みたいに遠くを見たい、新しい環境を知りたいってバイタリティがあるのは本当に尊敬しちゃうよ。だからさ、視野が狭い俺の代わりに。全然違う場所、広い世界をその目で見てきていろいろ教えてくれない?」
こくこく無言で頷くわたしの顔のぐしょぐしょさに気づいた。けどハンカチも何も待ち合わせがないから、マフラーの端を摘んでそれで涙を丁寧に拭く。
「…汚れちゃうよ」
「汚れないよ。直織の涙だし」
何の説明にもなってない台詞であっさり片付け、わたしの頬を軽くぽんぽんと撫でるように叩いた。
「ほら、元気出して。…直織は大学に受かったら四年間、東京で暮らすことになるわけじゃん。その様子を見て話を聞かせてもらったら。俺はもしかしてこれまであんまり考えたことなかったけど実は東京ってすごく楽しいところなのか?意外といいんじゃないかとか考えるようになるかも。逆に直織の方が四年間過ごして気が済んで、あー楽しかった。けどもう東京はいいや、地元に帰って暮らそうって思うようになるかもしれない。どう転ぶかはやってみないとわからない。今から未来を予測しようとしても、どうしようもないよ」
すっかり湿ったマフラーの端を降ろして、わたしの顔を覗き込んでにっと笑う。
「四年後、直織と俺の状態や考えがどうなってるかはそのときが来ればわかる。どっちにしろずっと離ればなれとは限らないよ。将来いつか、東京か地元かどっちかでまた顔合わせて近所で暮らせてるかもしれない。逆にそれぞれの土地で生活の基盤が出来てばらばらに生活するようになってたらそれはそれで、お互いをときどき訪ね合ってもいい。状況がはっきりしたらそこでどうするか改めて考えればよくない?」
「…うん」
自分の頬がほんのり温かく感じられ、思わず俯く。なんか、よくわかんないけど。どさくさに紛れて結構重い話をされてるような。…そうでもない?
いろんな事実がいきなり判明し過ぎて、頭がふわふわしててもうよくわからない。
大学と専門学校をお互いに卒業したら、それぞれどっちを拠点にするか本格的に決めなきゃならない。二人とも同じ場所を選ぶならそれでもいいし、離ればなれで暮らすとしても悲観することはない。遠距離で行き来し合えばいいんだから。…ってこと?
それじゃまるで、将来を約束してるみたいな話では。わたしと吉村はこれまで何でもなかったはずなのに、展開早くないか?
…と戸惑いつつ顔を上げて、そこにある裏心のないあっけらかんとした笑顔を見つけて拍子抜けした。いやこいつ、絶対そこまで考えてないぞ。
「離れてても別に俺たちは今まで通りでいいんだと思うよ。直織は俺の大事な幼馴染みだし、それは東京にいてもどこにいても変わらない。その気になればいつでも会えるんだし、不安に思うことないよ。直織がのびのびと元気に楽しくしててくれたら。俺はそれで充分だから」
「…うん。ありがと」
明るい表情でそう励ましてくれること自体はありがたいと思うが。
これって単純に、離れてても吉村としては今まで通りでそんなに変わらないっていう話では。…まあ、それには普段積極的に会おうともせずにただただのんびり構えてた、わたし自身にも原因というか。理由があるんだけど。
こっちの目に感情の動きが戻ってきたのを見てとったか、吉村はわたしの気をさらに引き立てるように再び手袋に包まれた両手を取って声を弾ませた。
「ほら、弱気になってる場合じゃないし。まだ受験本番までだいぶ間があるよ。年末年始はこれからだし、気を抜かないで。さしずめまずは、風邪引かないように。早く家の中に入らなきゃ」
「わ。…本当だ」
冷静さを取り戻すと、吉村に温められてた手先はともかく背中やら足先やら、あちこちじんと冷え切ってる。あんなに大事な時期だからって風邪ひかないよう気をつけてたのに、油断した。
「すぐ終わるとか言ってたのに。結局話し込んでごめんね。吉村は大丈夫?寒くない?」
「俺は平気。もともと体温高めだし」
わたしの背中に手のひらを軽く当ててほら、早く家に入ろう。とそっちへと促す。
「そもそも結局受験なくなったわけだから、俺は。専門学校って先着順受付なんだよ。だから四月まで普通に遊べるし、自由にしてられる。直織には悪いけど」
「うー。…そうかぁ。確かに」
羨ましいとか言っちゃいけないけど。思わず天を仰いで唸る。
今この瞬間だけを考えると、やっぱり。…いいなぁとは思っちゃう、仕方ないそれは。こっちはこれから二ヶ月間、みっちり勉強詰めだって思うとね。
急に違う意味でずんとなるわたしを見て、慰め顔で激励の言葉をかける吉村。
「無事に受かったらお祝いしよう。どこでも好きなとこに連れてってあげるからさ。…ほら、門開けて。そしたら俺はここで。また連絡するよ」
「寄ってけばいいじゃん。久しぶりだし顔見せれば喜ぶよ、うちのお母さん」
「いや駄目でしょ。こんな時間にうちの娘に何してたの、とか思われる」
ぶつぶつと濁して腰が引けてる吉村。へぇ、側から見たらそういう風に思われてるかもって認識あるんだ。なんか、意外。
こいつの目にはわたしは相変わらず小学生の頃の幼馴染みのままに見えてるんだとばっかり。一応年頃の異性同士だとはわかってるんだな。
うちの母親もそろそろ買い物から戻ってきてるかもだし。俺も帰るよと言い置いて、わたしを家の中に入るまで見届けてから吉村は去っていった。
手をひらひらと振って扉を閉め、鍵をかけてから靴を脱ぎながらはぁ。と深々とため息をつく。
なんか、…いろいろあった。けどまだ気持ちの整理はつかない。
けどそれは仕方ない。まだこの先どうなるかは誰にもわからない状態だから。今この時点で決めつけたり悩んだりするのは時期尚早だってこと。
とりあえず、わたしはうじうじ考えてる暇があったら勉強か。まだ本番まで二ヶ月もある。気を緩めてる場合じゃないんだ。
「直織。…遅かったね。夕ご飯食べ始めてるよー」
奥から母の声。弟の野太い声が姉ちゃんお帰り〜、と追って聞こえる。わたしは頭を一振りして家の中へと上がった。
「うん。…遅くなってごめん」
先に手洗っておいで、と言われて洗面所へと直行する。家族の前に顔出す前に、泣き跡残ってないか確かめないと。
目の周りを丁寧に拭ってごまかしながら、改めてつくづく考えた。
これまではっきりとは意識してなかったもやもやの罪悪感というか。吉村や地元に残る他の子たちに対する申し訳なさとか、わたしの我儘を通すことへの肩身の狭さみたいなものがゼロにはならないけど幾分かは軽くなったような。
自分だけ恵まれててすみませんってずっと薄々感じてたのをやっぱり吉村は気づいてたんだな。そして、その荷物をこうして軽くしてくれた。
身を乗り出して鏡にじっと視線を据えながら、目の前の自分の顔についての情報は全然入ってこない。泣き顔チェックしなきゃと考えてたのも忘れてもうすっかり上の空で、さっきの吉村とのやりとりをずっと脳内で反芻してた。
そうだな、自分だけここから脱出するみたいに考えるんじゃなく。吉村の代わりに違う場所を見てきて、そこで体験したことを伝えて共有するとか。向こうではこんなだったよとあれこれ教えてあげるんだと決めれば話は違ってくるのかも。
狭い世界で満足できるとしたらそれも才能だと思う。けど、そういう人に対して未知の場所に関心を持ってもらうのだって無駄じゃないかもしれない。少なくとも好奇心をかき立ててへえ、とちょっとだけ興味深く思わせるくらいのことは何とか出来そうな気がする。
自分一人じゃない、わたしたちが共有してるこの世界の枠縁をほんの少し広げに行くんだ。そう捉え直せばもしかしたら。…今まで抱えてたこの後ろめたさは幾分か、だいぶましになるの…かも。
そう思いたい。もしかしたらそれも欺瞞とか気休めみたいなものなんじゃないか。って微かな囁きがまだ全く、聴こえてこないこともないんだけど…。
わたしはぶるっと頭を振って、ともすれば弱気になりそうなそんな考えを無理やり追い出した。
今はそう割り切るしかない。ああ言ってわたしの気持ちを軽くしようと努めてくれた吉村の思いやりに感謝して、あの言葉を信じるしかないんだ。
合格したあと、大学を卒業したあとのことはその都度改めてその時点で考えよう。
そこでキッチンからまた母の呼び声。わたしははぁい、と声を張り上げ、もう一度鏡をまじまじと覗き込んで涙の跡がほぼ残ってないのを確認してからおもむろに洗面台の前を離れた。
一旦気持ちを切り替えて勉強に本腰を入れてからの二ヶ月間は目まぐるしく、あっという間に過ぎたような。いつまで経っても明けない夜のように途方もなく長かったような。
特筆すべき出来事もなく、だらだらと単調に続いた重苦しく変わり映えのしないモノトーンの日々は唐突に終わりを告げた。
「ふぁ。…受かったぁ」
四校受けて、最後の発表が本命の大学。ネット上の発表サイトにどきどきしながら震える手でアクセスし、合格の文字を確認して思わず声が出た。
見間違いじゃないよな、と何度も確かめてどうやら本当に受かったらしい。と確信してから仕事に行ってる両親に一報を入れる。それからちょっと考えて一応、吉村にも。
それからあとはばたばた。入学手続きや卒業式もだけど、わたしの場合は上京しなきゃならないからその準備が半端ない。住むところを決めて荷造りして足りないものを買い揃えて。他にも奨学金とか、その手の申請に関する諸手続きも複雑だし間違いがあっちゃいけない。
受かったからってひと息ついてるゆとりもない。余計なことに割くリソースなんかまじで残ってないのだ。
なのに、考える暇もなく。嵐は向こうの方から勝手にやってきた。
久しぶりに学校に登校して合格した大学と学部を全て報告し、やれやれこれで一安心。あとは卒業式に登校してそれで終わりだ。とさっぱりした気分で帰ってきた翌日のこと。
まだ朝の早い時間、在宅していたわたしのスマホがぴん。と微かに鳴った。
友達連中の誰かか、それとも吉村かな。クラ子たちか美術部の知り合い、棚田さんか山内さんか。もしかしたら宮路さんてこともあるか。
昨日の今日、急に知り合いから一斉に連絡が来てもおかしくない。と反射的に考えたのにはちゃんとわけがある。
うちの学校では、合格発表のあと生徒から報告を受けると、その結果を得意げに片端からずらりと書き並べて堂々と廊下に掲示する。という昔ながらの慣習があるのだ。まさに地方の受験校って発想で、プライバシーもくそもない時代からの伝統としか思えないのは正直どうかと思うんだけど。
多分、うちの生徒がこれだけたくさんの大学の合格を勝ち取りました!ってのは自分の学校の誇りでありアイデンティティだから。隠す必要なんてない、むしろ全部開示して広く知らしめたい。って感覚なんだろう。だから受かった生徒が決めた最終的な進学先だけじゃなく、それぞれが併願して受かった滑り止めの合格実績も全て横並びに発表されてる。
へぇあいつこんなとこも受けてたのか。とか、こことここ併願して両方受かったら一体どっち行くんだ?とか、一人でいくつ受かってんだよこいつ!とか、余計な情報も入ってくる。だから昨日、受かった大学をまとめていっぺんに報告してきたわたしの結果の掲示を見て、久しぶりに連絡してみよう。と考える友達がいても全然おかしくないタイミングだな。と漠然と思ってはいた。その第一弾が誰か、ってことまで深く考えてなかっただけで。
何気なく机の上のスマホに近寄って、発信者の名前を見てとって思わずうっとなった。…そうだよな、フットワークの軽さで並べたらこいつに敵うやつがいるわけない。
だけど何でか今、頭の中に浮かばなかったんだ。どう考えてもわたしに対する粘着度で言えば誰よりもぶっちぎりのトップなのに。
そういえば全然こっちから連絡してなかった。まあいいや、少しくらい雑談の相手はしてやるか。と肩をすくめてスマホを手に取った。通話をタップするなり、久々のあっけらかんとした人の心のないあの声が耳許でこだまする。
『あ、出た出た。さすがにスルーはしないよね久しぶりだし。あんたの受験の邪魔にならないよう結果が出るまでちゃんと連絡控えてたんだよ。そこは褒めて欲しいとこなんだけど。とりあえず、第一志望の〇〇大学合格おめでとう。これで四月から東京だな』
「…う、ん。…ありがとう」
文字通りのマシンガントークなんだけど、口調が涼やかで流れが早いから妙に爽やかでそこもまた小憎らしい。これ、こっちが言葉挟む必要なんてあるか?と感じたから黙って聞き流してたけど、おめでとうと言われれば無視もできず仕方なくお礼を返す。
『それにしてもやっぱり薄情なんだよなぁ、こっちが勉強の邪魔にならないようにと気を遣って接触控えてればさ。それをいいことにまるでそっちからも何の音沙汰もないまま何ヶ月も…。こっちから連絡しなければしらっとこのまま卒業する気だったろ。信じらんない、俺たちの仲でこの仕打ち…』
なんか急にわけのわからない愚痴言い始めた。何なんだ、『俺たちの仲』って。どんな仲だよ。
「…そこまでじゃないよ。さすがに卒業式で顔合わせたら結果どうだった?って訊こうとは思ってたし。てか、あんた第一志望まだ終わってないじゃん。だから邪魔しないようにそっとしといたのはこっちの方だし」
明るい声で楽しげに追及されると、まあ確かに。とちょっと気が引けて微妙に言い訳めいた口振りになる。口から出まかせを並べ立てるうちに自分が先に説得されてしまい、そうだよな。と内心で頷いた。
確か芸大は実技の二次がまだこれからじゃなかったっけ?
「てか、こんな電話してる場合なの。一次の発表ってまだだっけ。お祝いをわざわざ伝えてくれるっていう気持ちはありがたく受け取っとくけど。まだ追い込みの最中なんだから、わたしに気を遣ってる場合じゃ」
『うん、その辺の説明なんだけどさ。いろいろ込み入ってて長くなりそうなんだよね。電話でじゃなくて、直に顔合わせて話した方が早いと思うんだよな』
また変なこと言い始めた。だから、今から待ち合わせてわたしのために時間とって…なんて余裕かましてる状況じゃないでしょって。こっちの言ってること、さっきから全然聞いてなくないか?
呆れ果てるあまりにうっかりそんな思考がぽろりと口に出てたらしい。名越はまるで動じた風もなくからりと笑って違う違う。とその突っ込みを軽くいなしてきた。
「今から家を出てくる必要もないから。あんたはそのままそこにいていいよ。てか、この家別に男子禁制とかじゃないよね?娘さんの友達なんだし上げても大丈夫でしょ。まあ親御さんに顔向けできないような疾しいこと別になんもないし、俺たち』
「ええ?何言ってんのあんた、嘘でしょ?今からうち来る気?」
ぎょっとなって声が大きくなってしまった。いや、平日の午前中だし。両親も仕事に行ってて弟は学校だし、誰に聞かれるとかもないから。別にいいんだけど。…よくない。
いや中学入って以降は、吉村だって家に呼んでないのに。何だって名越を今さら家に入れなきゃいけないんだ?
わたしのそんな反応は想定内だと言わんばかりに、名越はけろりとしてスマホ越しに言い放つ。
『あ、今出発してわざわざてくてく歩いてそっちに向かうわけじゃないんで。お気遣いなく。あんたの部屋って二階?玄関ある方の表側の窓からちょっと覗いて下見てみて。…どう、見えてる?』
おーい、という声が何だか、スマホからと外から。二重にダブって聴こえてる、ような。…嫌な、予感。
恐るおそる、机越しに伸び上がって窓から下を見る。…うわぁ。
わたしは眉を顰める気にもなれず、毒気を抜かれて大きく息をついた。そう、何で油断したんだろ。名越がこういうやつだって、この二年半ほどで。わたしが誰よりも心底痛感してきたはずだったのに。
門の前で、嬉しそうににこにことぶんぶん窓に向けて両手を振ってみせてる(懐かしい、とは言いたくない)かつて見慣れたあの姿が。
もう来てる。来てるじゃん、すぐそこに。わたしの人生で出会った人間の中で断トツに一番やば気なやつが。
「ちょ。…ご近所の目が!」
唸るような声が喉から漏れる。なんかの拍子にこの騒ぎが親の耳にでも入ったらどうすんだ。殺す。
もつれる足でどたどたと階段を駆け降り、玄関から飛び出してとりあえずやつを手招きして中へ入れた。
上へあげるかどうかはともかく、こいつの傍迷惑な振る舞いを世間様から隠さないと。何なら玄関先で靴を履いたまま話だけ済ませて、さっさと帰せばいいし。
そう思ってたけどやはり甘くはない。勧められなくても遠慮なく靴を脱いでうちの中へと上がろうとする。これ、恋仲でも何でもないただの同級生の女子の家に初訪問した高校生男子のやることだと考えるとある意味すごい。家族が在宅してるかどうかも確認してないのに。
わたしの父とかがめちゃくちゃ厳格で男女関係に超うるさい体格ゴリラとかだったらどうすんだろ。もちろん実際の父親は割と小柄で四十代にしては線も細い、全然武闘派じゃないただの元優男だが。そんなの名越は知らないはずだし。
腕をがしっと掴んでまでして引き留めるべきか、一瞬悩んだ隙に横をすり抜けて上がられてしまった。わたしは慌ててやつの背中を追って自分も靴を脱ぎ、文句を言う。
「ちょっと。…上がってもいいかどうかくらい訊いてよ。他人んちだよ」
「ああ、ごめん。ちょっとそれどころじゃなくてさ。…あんたの部屋どこ?あ、二階だよね。階段こっちか」
平然とわたしの部屋を目指そうとする名越。いやお前、まじでやばいって。そのムーブ。
こいつがわたしのストーカーとかだったら本気で怖いよな、これ。考えてみればストーカーじゃないと百パーセント自信を持っては言い切れないのがつらいけど。恋愛とか性愛絡みじゃないのでそういう意味での怖さとか危機感がないのが救いか。
ためらいなく階段を上がろうとする名越を何とか止めようと焦り、その背後でばたばた無駄に手を動かすわたし。
「いや何もわたしの部屋行くことないじゃん。別にリビングでいいでしょ。お茶でも淹れるから、大人しく座っててよ。あんまり勝手に歩き回ったりしないで」
名越はわたしが袖を後ろから引っ張ってでも止めようとまで思いきれないのを知っての所業なのか。とんとんと足取りも軽く階段を上がりながらあっさりその文句を片付ける。
「うーん、座ってお茶飲んでる余裕はないかな。こっからもうノンストップ、あんまり日にちに余裕ないから。なんたってもうSNSで告知しちゃったし、画廊も抑えてあるからね。てか改めて考えたらもうそろそろ残り半月か。…準備やばいな」
あー忙しい。と独りごちてから、あんたの作品、全部自分の部屋に保管してんの?それともアトリエ的に使ってる空間とかある?などと気楽な口調で話しかけつつ階段の天辺まで到達する名越。…いや、ちょっと待て。
なんかいろいろとやばいワードが…。画廊、とわたしの作品が結びつくと一気にきな臭くなった。
やっと合格発表が終わってやれやれ、って肩の荷が下りたばっかりなのに。しかも入学手続きとか上京準備とか、こっちも待ったなしの多忙極まりないタイミングだってのに。こいつは何持ち込んでくれてんだ?
わたしは急いで階段を上がったのと受験勉強中の運動不足のせいで動悸と息切れを起こしながら(いや、もしかしたら精神的な理由かも。絶対やばい答えが返ってくるっていう嫌な信頼のせい)、恐るおそる名越の背中に尋ねた。
「SNSで告知、って一体何の?…あの、画廊抑えたって言わなかった?まさかと思うけど。…勝手にわたしの」
…それ以上口にして、恐れてることを現実に目の当たりにするのが怖くなってきた。全く、単独暴走にもほどがある。
階段を上がりきったところで立ち止まり、両側のドアを見較べてどっちが笹谷の部屋?と無邪気な声で尋ねながら名越はこちらを振り向いた。そこでわたしのなんとも情けない表情が視界に入り、初めて気づいた。と言わんばかりの反応でとってつけたように付け加える。
「あれ。全然相談してなかったっけ?でも俺、受験勉強本格化する前にリスト作るから作品の写真全部送ってくれって言ってあったよね。結局一向に対応してくれないから、焦れて直に来ちゃったよ。だってこのままじゃ間に合わないもんな、個展の開催までに」
うわぁ…。
ぞわ、と首筋の産毛が逆立つような思いと。そうだよな、わたしが迂闊だった。もともとこいつはこういうやつなんだ、という諦めの気持ちが陰陽のマークみたいに脳内をぐんにゃりと入り混じりつつ二分した…。
毒気を抜かれて固まるわたしの鼻先に、開いたスマホの画面を突きつけて得意げに宣言する名越。
「ほら見て。…3/15から一週間、何とか借りられたよ。まあプロじゃない高校生の展示だから、規模は小さい箱だけど。ロケーションは●●駅徒歩五分圏内だしなかなかいい立地でしょ?…さあ、忙しくなるぞ。いっぱい客集めて、この機会に笹谷の凄さを広く世に知らしめなきゃ!」
《第16章に続く》
この話を書こうと思ったときにいくつかメインのテーマがあったんですけど、同じ土地で育った幼馴染み同士が大人になるにつれそれぞれの進路を辿った結果ばらばらになる。っていうのがそのうちの一つです。今回はほぼフルにその話でした。
同じ土地で生まれ育って、親同士が親しくて同じように育ったつもりでも同じ家庭の子どもではない。それぞれ能力の得手不得手も違うし(勉強ができるとか。運動が得意とか)、家の経済的事情も違う。
その結果、同じ足取りで進んできたつもりでもいろと乗り越えられない壁ができていつしか離れて疎遠になる。…っていうのは大抵の人に身の覚えがある、あるあるな情景な気がします。端的に言えば地元に残る人離れる人、っていうか。
現実では何となく顔を合わせなくなって自然と心の距離も離れてしまって終わりだけど。どうしようもない事情で別の道を行くとしても、お互い自由は失わずに何とか気持ちを繋げておく方法はないもんかなぁ…と考えて書きました。え、最後に出てきたストーカー?…次回に続きます。




