第14章 わたしと誰かの未来の光景
珍しくちょっと恋愛寄りのパート。あくまでちょっとだけ、ですが。
特に男性に対してオープンでなく、ウェルカムサイン出してない地味系の高校生女子の浮いた話なんてまぁ、こんなもんかなと。恋愛って、興味のない人は本当にないですからねー。でもそれは別に変なことじゃない、個人の自由となってる今はいい風潮。物語の主人公としてはどうなんだという気がするけど…。
四月になり、三年生に進級するとかねて以前から予想していた通り。わたしが名越と一緒に行動する機会はめっきり減っていった。
別に仲が悪くなったわけでも意図して距離を置いたわけでもない。彼女がいるから遠慮しなくちゃとか考えたわけでもない、向こうは同じ学校の生徒でもないからわたしたちが一緒にいようがいまいがどうせ視界に入ることもないし。そもそも疾しい部分はお互い何もないので、そこまで気を回す方がどうかと思われる。
だから意図して顔を合わせる回数を減らしたりはしてないんだけど。単純にわたしが絵に費やす時間が二年の時ほどなくなった。それだけの違いだと思う。
美術部の三年は実質ほぼ引退状態で、活動のメインは二年生に移った。
もちろん、三年は部活に来ちゃいけないというわけではない。山内さんみたいに美大志望の子は絵を描くこと自体が受験と直結してるので、今でも頻繁に美術室に顔を出してるようだ。
前にも書いたけど、七月には高校生活最後の文化祭がある。任意であって強制ではないがそのとき出展する三年生の部員は決して少なくない。
でも、別にそれは部室に通ってそこで作品を仕上げなきゃいけないと同義ではないので。みんな個別に受験勉強の合間を縫って思い思いのペースで完成させるようだ。ささっとエスキースや水彩画を描き上げる人もいるし、ちょっと頑張って小さめの油絵を出す人もいる。
わたしは放課後に美術専門じゃない、普通の予備校に通い始めたので。その隙間に時間を作って不定期で大河原先生の教室に週一回程度顔を出している。
自宅では油絵を描く環境にないし、さすがに三年のこの時期から勉強オンリーの生活を送ってたら早々にへたりそうだ。なので気分転換を兼ねて、そこでゆっくりと油彩画の小品を仕上げるつもり。今年の文化祭に出展するのはそれでいいかな、と考えている。
一方で名越の方はと言えば、美大受験組のくせにもう美術部にはほとんど顔を出さないらしい。まあもともとあんまり部活にまめに来る方じゃなかったから全然意外ではないけどね。でも美大志望なら美術室の設備も環境も自由に使えるんだし、活用した方がお得だと思うけどねとこれもO芸大のデザイン科を受ける予定の山内ちゃんが首を傾げつつ教えてくれた。
それで珍しく大河原先生のところでたまたま顔を合わせたときに名越本人に尋ねてみたら、三年になってからは平日も美術予備校に通い始めたという。
「まあ、さすがに毎日じゃないけど。それはもっと追い込みの時期に入ってからだな。まだめちゃくちゃ忙しいわけじゃないよ。だからそっちが時間あるときは言ってよ、何でも付き合うからさ」
彼女持ちが何を言うか。とわたしは軽い調子で付け足されたそのお愛想の言葉が聞こえないふりをして流した。
「時間あるなら美術部も顔出せばいいのに。どうせでっかい作品文化祭に出すんでしょ、今回も?受験生だから描くの控える必要とかないもんね。美大志望者は」
「あんたも控えなくていいんだよ。大体絵描きながらでもどこにだって受かるだろ、笹谷なら。普通に成績いいじゃん、確か」
普通レベルを天元突破して成績いいやつにそれ言われてもなぁ。もっと勉強しなきゃとしか思わん…。
「名越こそ。普通に受験しないのが勿体ない成績じゃん。まあもちろん絵も巧いんだけどね、頭と遜色ないくらい。何だって天は無駄にこいつに二物を与えやがったのか…」
絵筆を操る手を止めずに動かしながら嫌味をかますと、やつはまるで堪えた様子もなくしれっとそれを受け流した。
「歌も上手いしギターも弾けるよ。運動もひと通りまあまあ、そこそこいける。二物よりはもうちょい受け取ってるかな」
そうですか。
「そんな余裕かましてるなら文化祭にもどんと派手にでかいの出してあげればいいのに。あんたの絵がメインなら展示も見栄えがするよ。…あれ、もしかして展示用に用意してるのって、今描いてるその水彩?わたしでさえこうやって、油画手がけてるのに。ちっちゃめだけど」
やつが画用紙の上にさっさっ、と軽やかな手つきで色を載せてるのに目を向けてそう尋ねると、名越は肩をすくめて大真面目な声で答えた。
「これはここでだけ描いてるやつだから。文化祭に出すのは家で描いてるよ。美術室よりその方が落ち着くじゃん?」
「あー…。なるほど」
今度はこっちが肩をすくめる番。そっか、自宅がめちゃくちゃ広いんだもんね。アトリエに使ってる専用の部屋もあるんだっけ…。
実家もお金持ちで多分世間一般的には顔もいい方。そう考えると本当にこいつには足りないものなんてあるのかな。本命かどうかは知らないけど、一応彼女もいるし。
改めてそう思うと自然とため息が出る。こいつはたまたまそういう境遇に生まれたってだけで何一つ悪くはないんだけど。
ちょうどいろいろと個人的に思うところあるタイミングだったので、あまりにも恵まれて欠けるところのない人生を悠々自適に生きてるように思える名越を見てると。…なんかそれだけで微妙な気分になるというか。理不尽な八つ当たりだけど、ちょっと苛っと感じないこともない、かな。
そんなわたしの内心には思い至るはずもなく。久しぶりに顔を合わせてテンション上がった名越が嬉しそうに、てことは笹谷の出展する絵はそれ?ちょっと小さめだけど良さそうじゃん!完成したらまた写真撮らせてよ。とばんばん話しかけてきた。
「三年になったら受験だから。とか言ってもう大学決まるまで一枚も描いてくれないかと思ったよ。けど思えば文化祭あったんだ、よかったなぁ」
とひとしきり喜んだあと、ふと暗い声で
「でも、これが終わったらもうしばらく描かないってことか…。あーあ、早く受験終わらないかなぁ。また以前みたいに、ありとあらゆるテーマで笹谷に自由に描いてほしいよな。その日が来るのを楽しみに、俺も何とか頑張らないと…」
と呟いたあと、ふと声を弾ませてけど受験勉強中も多少は息抜きに描くだろ?スケッチブックでもプリントの裏でも、描いたやつ全部あとで見せてよ。なるべく全部取っといて、絶対に捨てたりしないようにね!と真剣な顔つきで念を押された。
久々の、相変わらずなわたしの絵へのオタクっぷりに気圧されつつ。まあどうやらこいつは放っといても平気そうだな。見るからに精神も安定してるし、受験のための努力を続けるのに途中で心が折れたり迷走したりする気配もなさそうだ、とやや忌々しさ混じりに安堵した。
能力も心の強さも判断力も申し分ないし。三月になって、卒業間際にどこ受かった?と結果聞くだけ聞いて、それはすごいねよかったおめでとう!じゃあ、新天地でも頑張ってねーと笑顔で手を振って送り出してやればいい。どこへどう進んでも絶対に上手くやるやつだ。
けど、みんなが皆そこまで要領いいわけじゃないからなぁ。高校三年生なんて、成人間際でそれなりにいい歳だけど。
自分も含めてほとんどの人間が迷うし悩むし決断しかねてる。とりあえず、あいつなら絶対危なげないと言い切れない存在の姿が最近脳裏にちらちらとなって意識の端に引っかかってて困ってる。
正面きって将来の話するのも億劫でこれまで向き合わずにきたけど。進路も分かれることだし、向こうがこの先どうする予定なのかは一度はっきり確認しといた方がいいんだろうなぁ…。と目の前の楽しげに喋りまくる男に適当な相槌を打ちながら、何とも気重でどんよりとした気分に包まれるわたしなのだった。
とはいえ、同じ学校なのに案外顔を合わせる機会はないもんだ。
文系コースと理系コースは同じ学年でも授業を受ける教室の棟が別だ。一方でHRのクラスはさほど離れてないのに、何故かわたしとやつの組との間でぶっちりと階が分かれてしまった。だから日常の中で偶然鉢合わせて、そういえばあんたさぁ。とかさもその場で思いついたみたいに話を振るってことが出来ない。
これは改めてこっちからLINEでもするしかないのかなぁ。それにしてもせめて自然なきっかけくらいあればいいんだが。まじで声かける口実すらなくて困る。あんた、進路はちゃんと決めた?そのための勉強は問題なく進んでる?とか、余計なお世話だし。お母さんか。
とあれこれ思いを巡らせつつやや上の空でその日も放課後に移動して予備校の授業を受け、なんか身が入らないなぁ。せっかく親が安くもない受講料を払ってくれてるんだから、しっかりせねば。とため息をつきつつ帰り支度をしていると、がたがたと机を鳴らして離れたとこからこっちに近づいてくる生徒が。
「…やっぱ君か。なんか久しぶり、冬期講習以来だね」
微妙に聞き覚えがないこともない声に顔を上げる。ああ、わかった。この子、わたしが名越の彼女だと思い込んでこっそり浮気を注進に来た男の子だ。
一瞬、コンタクトレンズの調子が悪くて目をすがめたわたしの表情がよほど不審げに見えたのか。ちょっと童顔気味な顔に慌てた色を浮かべて、もしかして覚えてないかな。ほら冬休み、美術予備校で同じコースだった…と早口に説明する。
「ああ、うん。覚えてる、それはちゃんと。…てか、ここであのときの知り合いに会うとは思わなかったから。美術予備校には通わなくていいの?」
と、自分のことはまず棚に上げて尋ねた。
そっちだってそうじゃん。とかここで突っ込んで来られても思えばおかしくはない展開だったのだが、幸いなことに彼は咄嗟にそこまで思いが及ばなかったようで。ちょっと困り眉になって口ごもりつつも素直に答えてくれた。
「ああ、うん。…あのときは美大もいいなって気持ちがあって。試しに講習受けてみたんだけど。いざ行ってみると、ガチな連中は違うなって思い知ったっていうか。巧いやつはやっぱ本当にまじで巧いから。あと一年くらいで追いつける気がしないな、ってちょっと。認識を新たにしたっていう…」
「ああ。…わかる、本当それ。まじで」
わたしは彼に同意して深々と頷いた。
「誘われて試しにってくらいの感覚で参加したけど。本気の人たちには敵わないしなんか中途半端な気分で申し訳ないな…ってなったから、早々に退散したよ。え、じゃああなたは美大はやめて普通の大学受けるつもり?…えーと」
「内澤だよ。内澤馨。君は笹谷さんだよね、確か」
別にわざわざ調べたわけじゃなくて。予備校であいつと会話してるのが耳に入って自然とわかっちゃったんだ。と申し訳なさそうに弁解する。いやそんな、そこまで気にしなくていいよ。
何となくテキストや筆記用具を片付けるのを待たれてるな。と気づき、これって一緒に帰る流れ?と微妙に気になる。
そんなに神経質になる必要もないんだろうけど…と考えつつ、やっぱりこの人に限らずの話だけど、よく知らない相手に住んでる路線とか駅とか知られるのってあんまいい気持ちしないな。とは感じてしまう。向こうはそこまで意識してないだろうから、こっちの考え過ぎなのは重々承知だが。
こういうとき、名越がいると自動でバリア張ってくれるから便利だ。気を回しすぎだよと呆れては見せてたものの、あれはあれでありがたかったんだな。と今さら実感する羽目になるとは。
まあ、駅から乗る方向反対かもしれないし。いよいよ自宅近くまで一緒になりそうだったら用事があるとか言い訳して途中下車して、本屋にでも寄ってから帰ればいい。と考えて成り行き任せに彼と並んで教室を出た。
「…そっかあ、まさか君も普通の大学受けるとはね。あんなに上手だったのに、勿体なくない?」
わたしの絵覚えてくれているんだ。反対にこっちからも彼の絵を褒めておかなくちゃ、と思いはするんだけどいかんせん記憶がない。
えーと、確か割と最初の方で講評されてた絵だよな。めちゃめちゃ反応してて見るからに作者でしょとなってたからわかりやすかったような…。と何とかほとんど消えかけてた当時の脳内の残像を探る。
「あなたのは。…確か、棒高跳びの選手を描いてた作品?構図がかっこよかったと思うよ。躍動感もよく出てたし」
「ありがとう。描きたいものはイメージ出来るんだ、でもそれを現実に絵の具で見える形にするスキルがね。…この分じゃ入試までには間に合わないなと。でも、何年も浪人してまで絶対に美大じゃないと駄目か?って考えたら…。うーん、親にも申し訳ないしね」
わかる。普通そうだよね、一般家庭の子なら。
「わたしも。絵でプロになりたいの?絶対美大じゃなきゃ駄目?って言われたらそこまででもないし。自分に美大の入試に対応できる絵が描けるとも思えないんだよね。だったらまあ、親が期待してる通り普通の大学行って。まずはきちんと自活できることを目指して、余力があったら趣味で描けばいいかなって。もちろん本職目指す人たちはすごいと思うし、尊敬するけどね」
共感を込めてしみじみ述懐すると、彼はちょっと笑って君くらい巧かったら何処かしらは絶対受かると思うけどね。と一応フォローしてくれた。
「まあ、T藝大は別格だしいくら巧くても絶対に受かる方法ってないから。そこは君に限らずどの受験生でも保証ないけど、M美とかT美ならまず受かるんじゃないの?」
「うーん。それはわかんないけど…。でも美大の中でも私立は、学費がね。しかも東京じゃ、本当に親が気の毒で」
「ああ〜、それはそうだよね…」
お互い相槌に実感がこもってる。彼はいろいろ思い当たることが多いみたいで、しんみりとため息をついた。
「そうなんだよなぁ。もしも一発で現役で受かれて、しかも地元で名が通ってて世間で胸張れる美術系の学校があればそりゃ行くけど。まあO芸大ならちょっときついけど通えなくはない、でもやっぱ難関だしね…。君は考えなかったの、O芸大は?」
東京行きたかったから。とは言いにくい流れに思えたので、少し考えてからなるべく無難な答えを口にする。
「浪人する可能性高いなと思うとそこまでは思い切れなくて…。うちは下にきょうだいもいるし。現役で合格して、卒業したらすぐに就職して収入得られないとって思うとね。美大行っても別に作家にならないで、堅気の会社員になる人もいっぱいいるってわかってはいるけど。だったら普通の大学でいいじゃない?って、親はあまりぴんと来ないみたい」
「まあ、普通そう考えるよな。四年間絵を描いてあとは普通の会社に勤める社会人になるのかって考えたら。だったら学費の馬鹿高い美大に行く意味ある?ってスポンサー様に言われたら、何も言い返せないもん…」
結局チャレンジしないことについて、誰かに責められてもいないのにいろいろと自分に対して言い訳をするわたしたち。
と、喋りながら同じようなことを感じたのか。予備校の建物から出たところで彼はふと苦笑いを浮かべて軽く自嘲した。
「…まあ、そうは言っても。あのとき一緒に講習受けた連中はほとんど、あのまま受験まで頑張るつもりみたいだから…。脱落したやつがここで何を言っても説得力ないよな」
「うーん…。でも、それぞれ家庭環境も財力も違うから。家族の理解とかも差があるし、持てる才能とか技術の差で受かる見込みもほんと、人によるし。一概にみんながみんな、大きな目標に挑戦すべきとは言い切れないんじゃない?出来るだけ安定した道を志向するのも別に、間違ってない選択だと思うけど」
と、自分の話をしたつもりだった。だけどどうしてかその台詞は彼の現状をフォローしたように受け取られたみたいで、そう言ってくれるとちょっと救われるけど…と安堵した様子で表情を和らげた。
「いやまじで、あのときの面子ほとんどそのまま今でもあの予備校に通ってるみたいでさ。こないだちょっと久しぶりに会ったけど、意外と脱落者いなくて。さすがに肩身狭いなぁと思ってたとこだったんだ」
「へぇ。今でも会うんだ、あのときの人たちに」
少し驚いた。
たまたま短期集中講習で同じコースに分けられたってだけの関係なのに、ちゃんと仲良いんだ。
講習期間中も何かあると集まって盛り上がってわいわいやってたし、コミュ強者ってすごいなぁ。大人数で一緒につるんでて、何がそんなに楽しいんだろ。
という余計な皮肉っぽい思いは表に出てなかったのか、彼が素直で裏を見ない性格なのか。人の良さそうな童顔を綻ばせ、意気揚々として頷いた。
「まあ。全員じゃないけどね、一部の連中は今でも連絡取り合ってる。今度また夏休み前に集まろうかって話になってるけどさ、受験勉強本格化する前に。…笹谷さんも行く?」
一応礼儀として声はかける、って感じ。本気でわたしが行きたがるとは思ってないんだろうなぁと考えながら、わざわざその予想を覆してやるためだけに逆張りする気にもならなくてきっぱりと首を横に振った。
「いや大丈夫。気にしないで、わたしのことは」
「うん、そうだね。笹谷さんは顔出さない方がいいかも。面倒なだけだから」
あっさりそう言われてそれはそれで拍子抜け。ふぅん、それは。どういう意味?
わたしの怪訝そうな無言の反応に気づき、彼は急いで取り繕うように口を開く。
「あ、別に来るなと言ってるんじゃないよ。もちろん、来て欲しいなぁと思うのはやまやまなんだけど…。でもさ、あいつも来るから。笹谷さんの顔見たらなんかダル絡みしていきそうで心配かも」
「あいつ?…名越のこと?」
ちょっと苦々しげな呼び方で思い当たる人物はあれしかいない。経緯から考えて、この人との間の仲は正直良好とは思えないし。
だけど、彼は生真面目な顔つきではっきりと首を横に振って否定した。
「ああ、紛らわしかったね。さっき名越のことも『あいつ』って言ったもんな。今のは名越の元カノのことだよ。あいつ、破局したのは笹谷さんのせいだって。未だにうっすら思ってるみたいだし…」
「あ。…あの二人、別れたの?」
わたしが呑気な声でそう相槌を打つと、彼はちょっと呆れたような表情でこちらを見やった。
「まさか知らないとは…。だって、君と名越って同じ高校なんでしょ。普段から顔合わせて口利く機会も多いんじゃないの?」
「いやそんなことないよ。クラス別だし、部活も三年生はほぼ引退状態だし」
そもそも特に友達ってわけじゃないから、わざわざ連絡取り合ったりプライベートで会ったりしないもん。とうっかり正直に言うと、彼は何故か安堵というか。ちょっと満足げな表情を浮かべた。
「そうかぁ。そうだよね、同じ高校だからって必ずしもべったり仲良いわけじゃないよね。俺もそう思ったんだよ、前に君は名越のこと好みとかじゃないと言ってたし。だから二人は何でもないと思うよってシノに言ったんだけどさ。あいつはもう君憎しで凝り固まってて、もう全然耳を貸さなくって」
何それ。怖。
自分の知らないところでいつの間にか誰かの恨みを買っていたと知らされて、思わずどん引きで戦々恐々となった。てか、そうなった経緯が正直よくわからないんだけど。
「だって、三年になってからわたしは名越とほとんど接点ないし。あの彼女…、シノさんっていう名前も今初めて知ったくらい何の関わりもないし、冬期講習以来会うこともなかったのに。どうやったらそんな薄い関係でしかない人たちが別れる原因になれるってか」
「あいつの名前も知らなかったんだ。シノは下の名前じゃなくて苗字だよ。篠春香。…まあ、今そんなの教えられてもしょうがないよね。多分それこそ君は二度と会うこともないと思うし、うっかりどっかで鉢合わせしたら静かに距離置いて逃げていいんじゃないかな。だから、名前を呼ぶ必要なんてこれからもないはず」
わかりました。速攻脳内からその名をスイープアウトします。
彼がその後訥々と教えてくれた話によると、名越と彼女が別れたのはそう最近のことではなく三年に進級する前、三月末くらいの頃だったらしい。
その時期なら確かにまだ絵画教室でそこそこ名越と顔を合わせてはいたが、当時特に様子が変化した記憶もなく。普通に彼女と順調に付き合ってるままだとこっちはてっきり…。まあ、そんな話いきなり打ち明けられても。だったら何?わたしには別に関係ないじゃん、と平気で声に出して返しただろうとは思うが。
だから名越がわたしにいちいち彼女と別れたことを教えなかったのを水くさいとか他人行儀だとは考えないけど。どのみちそれがわたしと何の関係が?っていう疑問は残る。
「…それが、破局に君が全く絡んでないとは言い切れないんだよ。いや本人は何もしてないわけだし本当にただの言いがかりというか。巻き込まれ事故に過ぎないんだけど」
彼が言いにくそうに述懐したところによると。
どうやら、きっかけは彼女がわたしの絵を貶したことからだったらしい。というか付き合い始めからあの女の子はどういうわけかやたらとわたしの存在を意識していて、名越が会話に持ち出しもしないのにことあるごとに自分からわたしの話題を振ってはちくちくと嫌味を言う、というパターンを繰り返していたようなのだが。
「それがある日ついに爆発しちゃって。…篠の方じゃなくて名越がだよ。何でも日頃からあんな子地味でぱっとしないだとか真面目すぎてアートに向いてないだとか…いや俺はそう思わないよ。あくまで篠がそう言ってた、って話だから。しかもやっかみ半分で、ただ悪口言いたくて粗をわざわざ探してたんだと思うしね。君は…、地味とかじゃないよ。全然」
いや地味だと思うよ。客観的に言って、たかが予備校に通うのにきっちり化粧して上から下までばっちり決めて来てた意識高い女子にそっちのセンスで適うとは思ってない。でも。
「フォローありがとう。お気持ちだけで大丈夫。…そのノリで彼女がわたしの絵を貶したってこと?」
「うん。名越があそこまで夢中になって褒めるほどの描き手じゃない、あのくらい描けるのはいくらでもいるし言うほど個性的な尖った画風でもないじゃん。あんな程度じゃ藝大なんて絶対無理だから志望変更して正解でしょとかむきになって散々並べ立てたらしい。どうやらずっと君の存在が気に入らなくてちくちく仄めかしてたのに名越の反応がないから、どんどんエスカレートしていったみたいで。…本気で君の絵が大したことないとは考えてなかったとは思うよ。冬期講習のときも、評価は笹谷さんの方が篠より上だったはずだし」
「うーんそれは、まあ評価者の主観とか好みも入るから。絶対の序列じゃないし」
一生懸命フォローを重ねてくれる彼が次第に気の毒になってくる。しかしそれはそれとして。
「…多分悪手だったな、それは。わたしのことを貶したいならいくらでも他に突くとこあるだろうに。もっとこう、本体というかわたし個人の属性絡みでとかさ。作品にけちつけるは一番やっちゃいけないことだったと思う。…地雷だね、まじで」
思わずぼそぼそと独り言のように口を突いて出る。わたしの隣を歩く彼は、そうそう。と我が意を得たりとばかりに大きく頷いてみせた。
「それまでのらりくらりと聞かない振りでへらへらスルーしてたのと同じ人間か?って引くくらい、いきなりすんと無表情になったらしいよ。で、説明もなくもう君とはこれ以上話しても無駄だと思う。お互い相容れない存在だってはっきりしたからここで終わりにしよう、今までありがとう。それじゃさよならって言い捨てて篠をその場に置き去りにしてあっさり去っていったらしい」
「ああ。…それはよかった。めちゃくちゃレスバ始めなかっただけ」
冗談じゃなく、心底ほっとした。暴力とか事件起こすんじゃとまではさすがに思わないが、名越が本気で相手を論理で完膚なきまでぶちのめそうと思えばいくらでもぐうの音も出ないほど凹ませられるだろうから。
非常時でもそこまでやっちゃいけないという理性はかろうじて働いたってことか。丸腰の相手を容赦なくスパーリングするプロボクサーみたいな惨状を呈するところだった。
名越っておそらく全開になったらレスバ無敵だろうからなぁ。頭の回転早いし語彙もあるし。何より人の心があんまりないから…。
「で、それきり彼氏彼女としてはおしまい。慌ててLINEで弁解しようとしたら既に速攻でブロックされてて、通話も着拒済みだったって。その後美術予備校で顔を合わせたときには、何事もなかったかのように普通におはようとかじゃあまたねとか、他の友達と同じように接してはくれるらしいんだけど。個人的に話しかけようとするとすっと無表情になって無言で離れていっちゃうって…」
なるほど…。
わたしはとぼとぼ歩みを進めつつ思わず知らず腕組みをして考え込んだ。
あり得るかあり得ないかっていうと、まあ想像可能っていうか。派手に喧嘩しなかっただけ名越としては頑張った方かな、と。
彼女は、うーん。…ちょっと頭おかしいやつと泥沼になる前に早めに別れられてまあ良かった、とするしかないんじゃ。実際、付き合うとなるといろいろと面倒なく男だしね、あいつ。
「それにしても、三月かぁ。付き合い始めが確か一月頭だから、やっぱりもって三ヶ月だね。相変わらずだなあいつ。まあ今回は、自分から別れを告げたのが珍しくて新しいパターンだな。とは思うけど」
「あ。…普段は彼女から振られるのがデフォルトなんだ?なんか意外だな。名越の方が早く飽きて気軽に振るって終わり方が多いのかと思ってた。あいつなら、どうせすぐに次が見つかるだろうし」
わたしの無責任な軽口もどうかと思うが。彼が身を乗り出して相槌を打ったあとに付け加えた台詞に含まれた偏見もひどい。わたしはなるべく名越に対して公平であろうと、率直に思うところを彼に向けて表明した。
「別に取り立てていいことだとは思わないけど、名越って言うほど女の子好きではないと思う。途切れなく誰かしらいるのは、向こうから来るのをそのまま受けてるだけってのはどうやら本当っぽいし。でも女の子の方も付き合えるだけでいいと思って最初はさほど期待してなくても、あんまりにも手応えないからだんだん嫌んなっちゃうらしいよ。それをまた、全然引き止めもしないから。どれも結局長続きしないことに…」
「はあ、それで結果的に取っ替え引っ換えになっちゃうってことかぁ。…モテるやつは違うな。女の子に興味ないのに見かけ上はまるで女好きのたらしみたいになるわけだ」
「まあ。…むしろ、他人に根本的に関心ないからできる所業だよね。女子男子に関わらず、来るもの拒まず去るもの追わずだもん。彼女と喧嘩になった理由だって、わたし本人じゃなくて作品というか、絵への執着だもんね。常人の感覚じゃ測れないよ」
それはどうかわからないけど。とやや疑わしげに小さく呟いたあと、気を取り直したように弾んだ明るい声を出す。
「でも、名越の方の本心がどうあれ、笹谷さんはあいつにそういう興味ないのは事実なんだよね?篠と別れたからって次は自分だなとは、少なくとも今のところ考えてはいないんでしょ?」
「今のところも将来もないよ…。あんな面倒なやつを引き受けるほど心の余裕もないし。何のメリットも期待できないしね」
何となく、こうやってある程度長い時間会話してるとつい気安い関係になったような錯覚に陥る。それでつるっと本音を隠さず気楽に口にしてしまった。
そして、あ、しまった。やっちゃったなと次の瞬間にはもう後悔する(早い)。軽口に軽口で返してくる気配じゃなく、彼が急にそこで生真面目で改まった口調になったのを感じたから。
「えーと、そしたらさ。…君に今決まった相手がいないんならっていう、仮定の話だよ?例えば俺とか駄目かなぁって、どうだろう。いや、今すぐってんじゃないよ?俺たち三年だし、これから受験だし」
う。
やばい、やっぱそう来たのか。
薄々そういう話になりかねないってのは、本当は冬期講習の頃には既にちょこっと感じていなくもなかったのに。
まさかそんなことあるわけない。と自分の思い込みと片付けて危険信号を見ないふりしてたつけがここで来た。こういうとき、普段男の子からのアプローチ受け慣れしてない経験の浅さが露呈するよな。
口説かれたら困るなと内心思ってはいても、これまで誰からもそういう風な扱い受けたことないから。現実感ないし自惚れてるみたいで恥ずかしいし、で無意識に危うい予感を否定しちゃうんだよな。
まさかわたしと付き合いたいなんてやつ現実に現れるわけないだろとか。だって、この子とはほとんど話したことないし。プライベートなことはお互い何も知らないんだよ?
だからこそ、ぼんやりやばいなと感じながらも真剣に避ける気になれなかった。わたしがどんな人物かもまるで知らないのに、この子と付き合おうとか思える男の子。やっぱり、他人ってブラックボックスというか。謎だ。
しばし黙り込んで反応に困ってるわたしの様子を察してか、彼は急いで矢継ぎ早に言葉を発してすぐさまの回答を防ごうとする。どうやらこの分じゃ断られそう…ってのはうっすら感じてる様子だ。
「いや、考えてみれば君は俺のことなんも知らないわけで。まともなやつかどうか、そこからまず疑われるのは無理ないよな?って考えたらまあ…。だから、とりあえず最初は友達ってことでどうかな?普通に予備校で顔合わせたら話したり、たまには一緒に勉強したりとかさ。彼氏彼女じゃなくていいんだ。で、受験終わってお互い進路決まったら。改めてその後についてお互い考えてみるってのは、どうでしょうか。…ってことで」
「うん。…いやあの、今すぐ答えを急ぐのはどうかというのは。わかるんだけど」
彼が、勢いでつい切り出しちゃったのはともかく今この時点での返事は聞きたくない。と感じてるのはひしひしと伝わってくるだけに。何とも言えない気持ちで申し訳なく思いながらも、慎重に言葉を選んで口を開く。
「わたしには今現在、誰かと付き合いたいって願望が正直全然ないのは本当のことなんだけど。もし仮にこの先誰かとの将来を考えることになるとしたら。…あの、知り合って間もない人たちのうちの誰かとよりも先に。いろいろ考慮しないといけない相手が実はその既に、全然いないことも。…なくて」
ごちゃごちゃの頭の中を整理するより先に、次々と思ってもみなかった言葉が飛び出してきて一番驚いてたのは多分わたしの方だと思う。
けど、耳に届く現実感のない他人事みたいな台詞を噛み砕いて飲み込みながら。ああ、そうだよな。ずっとわたしが心の奥で漠然と考えてたのはそういうことだったんだ、とその事実が改めてじんわりと腑に落ちていく気がした。
その間も勝手にこの口はべらべらとわたしの思いを代弁している。
「好きだとか将来一緒になろうとかお互いきちんと話し合ったことも。…なくて。けど、いざ誰か男の人といつか付き合うとかそういうことになるんなら、まずは誰よりも先にその人のことを考えてみなきゃって思ってる」
そう口にした途端、ふわりと見慣れた安心感ある面影が脳裏にありありと浮かんで。懐かしいような見飽きて変わり映えしないような。なんとも表現しがたい気分になった。
まるでわたしが吉村のこと好きみたいじゃないか。とどっか醒めた部分で密かに自嘲するけどそれが正しいのかどうかもわかんない。好きか嫌いかって言われればそりゃ、前者ではあるけど。恋愛感情?って正面から問い詰められたらそれも違う…って言いたくはなるし。
けど、ここでそんな複雑な葛藤を正直に口にしても得られるものは何もない。とにかくこの場は何とか自分の言葉に説得力を持たせて、誰が見てもわかりやすい構図にしておかないと。
わたしが本心から納得できてるかどうかじゃなく、例えたった今突然頭に浮かんだ口から出まかせ紛いの咄嗟の弁解だとしても。この場はこれ一本で彼をしっかり丸め込めるかどうかが勝負だ。それ以外のことはまたあとで一人になってから改めて考えればいい。
と慌てて大真面目な顔つきを取り繕い、何とか話の辻褄を合わせて無理矢理に結論へと持っていった。
「向こうの本当の気持ちがどうなのかは確認してみないとわからない。けど、多分。…お互いに全然そういう気持ちがないってこともないのかな、って。何となくだけど思ってるんだ。ちゃんと本人に確かめてからじゃないと何とも言えない、…けど」
「…はは」
横に顔を向ける気になれなかったから声だけだけど。仕方ないなぁとばかりに諦め混じりに笑う彼の声は、思いの外さっぱりしてるように聞こえた。
「なんか、いろいろと遠回しな言い訳だけど。わかりやすく翻訳するとつまり、既に思う相手が決まってます。ってことだよね、それってつまりは」
「…ごめん」
何でここでわたしが謝らなきゃいけないんだ。まるで他に好きな人がいるのに意図してこの人相手に思わせぶりに振る舞ったみたいじゃないかと微妙に納得いかない。全然そんなつもりで接した覚えないし。
けどまあ、とりあえずここは謝っといた方が穏便に済みそうだ。本気であいつとの将来を考えてるとまではいかないし、好きなの?と言われたら実際そこまでは言い切れない。もっとぼんやりした、あやふやな気持ちのような気がする。
それでも。…仮にでも、誰かあいつ以外の男の子がわたしの隣に常に存在する未来を漠然と想定するだけでも。なんだか据わりの悪い疾しい思いを抱かざるを得ないって今、うっかり自覚してしまったんだ。
それが恋愛感情だという気は正直全然しない。でも、だからといって。吉村を差し置いて今から出会って間もない、ろくに話したこともないよく知らない新しい男子と付き合い始めてもいいかな、とかは。どうしてか全然思えない…。
やや重苦しくなった空気を吹き飛ばそうとしてか、彼は急に軽くなった口調でべらべらと話し出した。
「そっかあ、でもなんか納得だな。その話の感じだと相手は長く一緒にいる存在というか、幼馴染み?だったらあとからやってきたぽっと出の男になんかそう簡単に惹かれないよね。名越にも靡かないわけだ。…既に心の真ん中の席がどっしり埋まってる状態なら。その辺のチャラ男なんてそりゃ目じゃないよな?」
「うん、まあ。…大体そんな感じ…」
なんか違う、全然ちがうけど。早くも半ば自分自身の考えに沈みつつ、わたしは曖昧な声でいい加減に相槌を打った。
まあここは、わたしの心情を正確に伝えるよりも。彼の申し出を断った理由を何となく自然に思える形で誤認してもらえることの方が優先って考えて些細な齟齬には目を瞑るしかないんだ。と自分に言い聞かせる。
だけど、交際を断る口実や異性避けのお守りとしてじゃなく。
これまで何となく意識の外に追いやって後回しにしてきた吉村との関係について、いつまでも成り行き任せに放っておくのも本当はよくないんだよな。
気が重いのは確かだけど、そろそろきちんと自分や向こうの気持ちに向き合って、今後どういうスタンスで関係を続けていくのか具体的にイメージしてみた方がいい。
そしてそれは互いの進路選択や未来の展望と密接に関係してくるのは間違いない。その辺、それとなく機会を作って探りを入れてみるべきなんだろうな。
あんまり自分の心を直視するのに気が進まなくて、だらだらと先延ばしにし続けて放置していたのが結局仇となった。
このままじゃ、向こうからはいつまで経っても来そうにないから。どうやら結局こっちから動き出さないことには何も始まらないようだ、と隣の彼が努めて明るい声で雰囲気を壊さないようにあれこれと話しかけてくれてるのにやや上の空で相槌を打ちながら、そろそろ吉村ときちんと話し合える時間を確保しないとな。と密かに心の中で腹を括った。
とまあそんな経緯で。内澤くんという何故かわたしとほんのちょっと付き合いたいかも、と一瞬考えたらしきその男の子の言動にようやく背中を押されて、至極ひさびさにこちらから吉村に声をかけてみるか。という気になった。
何か行動を起こさずにこのまま自然な流れで偶然鉢合わせるの待ってたら受験終わっちゃうかも、と頭の端っこではうすうす感じてて焦燥がなくもなかったんだが。
何分とにかく吉村相手にわたしの方から積極的に働きかけて世話焼く、みたいなムーブには慣れてなくて。これまでは何でも向こうからコンタクト取ってきて、常に痒いところに手が届く。って感じだったからさ…。
だけど、やつとわたしとの間の最近の状況を改めて今、真面目に考え直してみると。…と、その日の予備校からの帰り道を一人でとぼとぼたどりつつ、つらつらと目まぐるしく頭を働かせてみる。
思えば今日まで深く考えてもみなかったけど。最近ここ何ヶ月か、特に三年に進級してからは吉村からほとんど連絡とかないような。…いや別に、話したり顔合わせなきゃいけない用事とかは全然ないんだけどさ。
だけどもっと昔、中学んときや高校に入ってしばらくの間は大した用でもないのにあいつから何かとメッセージが送られてきたり、互いの弟づてに何かを渡されたりしてたような。
ふと気づくとずいぶん長いこと、吉村からは音沙汰がない。こんなの初めてだ。
それをここまでまるで気にも留めてなかった自分も正直どうかと思うが。多分、吉村に限ってわたしから関心がよそに移ったり思いやって心配する気持ちが失くなったりすることはない。と無意識に油断してたんだろうなぁ…。ほんと、ただの幼馴染み同士ってだけなのに思い上がりもいい加減にした方がいい。我ながら。
わたしたちが高校生になって二年以上経ったし、その間普段の行動範囲も人間関係も完全に別々だった。だから新しい環境や友達の方が昔馴染みといるより楽しいし大事ってなる方がむしろ自然だし。
どうやら直織は直織で元気で楽しくやってるみたいだから、放っておいても大丈夫だなってなってるだけなのかも。…と考えつつ、ほんの少し気後れしながら連絡を入れてみた。いや、まじで久々だ。特にこっちから、しかも何の急ぎの用事もなくってのはもしかしたら初かもしれんし。
ちょっとでもさり気なく自然な流れにならないもんかといろいろと文面をこねくり回してみた。でも、何でわたしがそこまで吉村に気を遣わにゃならんのだ?と思い始めると次第にむかむかしてきて、結局どストレートに用件から入ることに。
『久しぶり。元気にしてる?もうわたしたち三年だけど、そろそろ進路はどうするか決めた?』
程なくして返信が来てほっとする。こういうところは相変わらずだ。既読スルーとかは絶対にしない。
『うーん。難しいとこだな。俺正直けっこう成績ぎりぎりだから』
『予備校とか塾行ってる?わたし今通ってるとこあるから。紹介しよか?』
打ちながらちょっと、まじで心配。そういえばうちの高校合格したときも、かなり一か八かというか。通ったのすれすれだったよなぁ…。
チャレンジ受験もいいとこだったからさすがに私立の滑り止めと併願してたけど、落ちてそっちに通うことになると授業料が半端なく高いから…と追い詰められて顔色変わってた(当時まだ全国一律の私立高校の授業料無償化案とかは出てなかった)。
当時はわたしも心配して、直前までやつに教えながら一緒に勉強してたなぁ。と一瞬懐かしくなってしまった。と、そこで吉村からすかさずまた返信が。
『予備校はちょっと無理かな。受講料が結構するから。碧の高校の学費もそれなりにかかるし、まだ沙里奈の進学も控えてるし…』
う。…それを言われると。
吉村んちの弟の碧は、確か推薦で私立に決まりそうだってうちの弟からちらと聞いた気がする。その表現からすると仮に就学補助が出るにしろ全額ではないんだろう(うちの県では親の所得制限なしの学費全面無償化政策は取られてない)。
下の妹の沙里奈ちゃんは成績は悪くないと聞いてるから、おそらくうちの高校かもう一つランク下の公立を受けるはずだけど。それでも万が一、私立の併願校に進学が決まるような事態になればまた負担が増える。
それに将来、下の二人も大学に行くと考えれば兄貴として受験はお金をかけず自力で何とかするべきとか、吉村のこの性格なら。親の考えがどうあれ、頑として決めつけて譲らなさそうなんだよね…。
それで余裕で進学できるほどの頭脳があればもちろん、さすが立派なお兄ちゃんだねで済むけど。結果的に受験失敗したら、元も子もないじゃん?
けどわたしの立場としては。予備校の授業料の金額くらいはまあ何とかなるでしょとか簡単には言えない。
向こうの家族との仲はいいつもりだけど、吉村家の金銭的余裕がどのくらいあるのかももちろん知らないし。吉村本人が勝手に兄としての責任を思い詰めてるわけじゃなく、実際はご両親から受験のための余計なお金は出せないよと釘を刺されてるのかもしれないし…。
しばし返信に悩んでから、思いきって提案してみる。
『そしたら、もしよかったら。夏休み中時間のあるとき一緒に勉強とかする?効果あるかどうかはわかんないけど、一人でするよりは張り合いがあるかも』
『うーん。でも、それ俺にはありがたいけど。直織の勉強の邪魔になるんじゃないかな。そっちは予備校の授業もあるんだろ?』
『うん。だから、その隙間の時間になるけど。こっちも目先が変わるとやる気が出ると思うし、多少なら教えるとかもできるかなって。わからないとことか、訊いてくれたら一緒に考えられるし』
ここまで打ち込んで、はたと考えた。
向こうの返信をまじで文面通りに受け取って返してるけど。もしかしたら、単純に言葉通り遠慮して見せてるだけじゃなく。わたしと二人きりで勉強するのは困る…って可能性、なくもないのか?
これまであんまりリアルに考えてこなかったから思い浮かびもしなかったが。吉村に実は既に彼女ができてる、って事態もあるかもしれないよね。
わたしとあいつは別に付き合ってるわけでも、何か将来の約束を交わしたわけでもない。こっちが絵やら何やらにうつつを抜かして吉村を長いこと放っておいたことを考えたら。その間にとっくに決まった相手が出来てて、内心でこんな提案は非常識ではた迷惑もいいとこ。とか思われててもおかしくはない。かも…。
とちょっと一瞬まじで怯んだが、ただの杞憂だったかも。すかさずすぽん、と返ってきたメッセージの文面には自分の側の都合の良し悪しなど露ほども匂わされていなくて、ただわたしへの影響を慮るだけの言葉が並んでいた。
『それはまじで助かる。けど、本当に無理のない範囲でいいよ。直織の都合優先で、予備校の勉強に支障あるようなら遠慮なくそう言って。俺のせいで成績落ちたりしたら元も子もないし』
何言ってんだ。
率直に呆れた。こいつ、わたしのこと未だにそこまでお人よしだとでも思ってる?天使か何かだとでも。
『こんだけ付き合い長いのに遠慮とかするわけないでしょ。負担なら負担だってはっきり言うよ。あんたに言いたいことも言えないようなわたしじゃないし』
スマホの画面の向こうで吉村が声を出して笑ったような気がした。もちろんなにも聞こえないから、雰囲気。
『それもそうだな。了解。じゃあ遠慮なく世話になるよ。けどくれぐれもきついと感じたら早めに言って。俺の心配より自分の心配だよ』
『もちろん。そこまで自己犠牲精神強くないし。当然自分優先だわ。さっきも言ったけど、他人に教えると自分の勉強になるんだよ。それと一人でこつこつやってるとだんだん滅入ってくる。ちょっと気分転換というか、目先を変えたいの』
『ああ、それはわかる。最近ちょっと集中できなくて、勉強投げ気味だったかも。そしたらお願いしようかな。頼りにしてるわ』
『任せて』
どうやら問題なく話は決まりそう。というわけですっかりほっとして、ぽこん、ぽこん。とお互いスタンプを送り合い無事やり取りは終了した。
ああ、でもよかった。とたかが一緒に勉強する約束をしただけなのにふわっと気持ちが軽くなって足取りも軽くスマホを充電しに机に近づく。
最近顔を合わせる機会がないだけじゃなく、向こうから何気に連絡が全然来てないのは何か不穏な理由でもあるのかな。と内心でずっと微妙に引っかかっていたんだ。
けど、思ったよりも吉村の反応も以前と変わらず普通だし。何だかんだと理屈を並べ立てて会うのは避けられるんじゃないか、と半ば覚悟してたけど結果としては別にそんなこともなかった。
知らない間に嫌われたとか距離を置かれたとか、そういうわけじゃなかったって考えていいのかな。幼馴染みなんて大人になれば鬱陶しいとかうんざりすると思われても仕方ないか。というのはどうやら考え過ぎだったのかも。
わたしもだけど。吉村の方もこの二年間あまりで活動範囲や人間関係が広がって、ただ単に忙しくなってただけだったのかもな。まあ、彼女がいたらさすがに昔の女友達と二人で勉強はできないだろ。と思うからどうやら今でもフリーらしいと推測は出来るが。
それはそれとして、やつの心の中のことまでは判然としない。もしかしたら既に好きな女の子くらいはいてもおかしくないし、それはちゃんと心構えしておかないとな。と自分に重々と言い聞かせてわたしはスマホを繋いでそっと机の上に載せた。
そうこうするうちにあっという間に夏休み。
わたしは予備校の授業がない曜日の午後から夕方にかけて、不定期で吉村の家へと通うことになった。
さすがに親が仕事でいない平日の昼間に自分の部屋にあいつを招くほど非常識ではないが、向こうの家にお邪魔するのは全然気にならない。
いつもふらふらと出かけてるうちの弟と違って、吉村んとこじゃ碧か沙里奈のどっちかが家にいることが多いし、同じ公団内の別の部屋を借りて住んでるおばあちゃんも昼間は顔を出してる(働いてる両親の代わりに留守番して家事をするため)。
それに商売してる関係上、少なくとも店舗の方には確実におじさんかおばさんがいるので二人きりになることはまずないし。てかそもそも、わたしの自室に吉村を入れないのも単に世間への体裁を気にしてるだけであって、そういう意味での危機感とかはお互いの間には全くないのであった。
何だかんだ言っても幼馴染みってこういうとき実際楽だよな。子どものときの感覚の延長線上にあるから、同年代の男女が個室で二人きりっていう気まずさをまるで感じなくて済む。
これが他の同級生男子の誰かだったら、そいつの家に行って自室にこもって顔つき合わせて勉強。なんてとてもじゃないけど落ち着かなくて集中できないし。相手に下心なくても緊張するしだいいち怖い。
…と、そこまで考えといて何だけど、もし仮にそれが例えば名越だったら。と思うと、まあまあ案外平気なんじゃないか。という気がしなくもない。
そういう意味ではあいつはちょっと特殊で、異性を感じずに気楽にそばにいられる関係性であるのは間違いない。付き合いはそう長くもないはずだが、いろいろあって結局今ではお互いの存在に慣れ過ぎてしまった。と考えると無念ではある。そこまで近しくなるつもりなんか最初はなかったのに、最終的に押し負けた…。
とまあそれは置くとして。夏休み入りたての昼過ぎ、てくてくと歩いて住宅街の坂を登り高台に聳える公団住宅の敷地に本当にごく久々に足を踏み入れる。吉村家の店の方じゃなく、裏の勝手口のインターフォンを押すとあまり老けた様子のない元気なおばあちゃんがつやつやした顔で、まあまあ直織ちゃん久しぶりだねぇ。と賑やかに出迎えてくれた。
「すっかり綺麗になって。見違えちゃったねぇ。まあずいぶんと大人っぽくなって、もううちの大ちゃんとは遊んでくれないかと思ったよ」
背もずいぶん伸びた?と矢継ぎ早に話しかけられて思わず苦笑して答える。
「いや背は中学卒業してからほとんど伸びてないから。気のせいか目の錯覚だと思うよ、おばあちゃんの」
「そう?でも、もう五年くらいうちに顔出してないでしょ。外で会うことはあったけど、やっぱり家の中で見るとぐっと大きく感じるんだよ」
それはそうか。とちょっと納得。
高校初めの頃までは吉村とつるむこともまだあったけど、それも外でだもんね。お互いの家を行き来するなんて、まじで多分中学入りたての頃くらいまでだったから。おばあちゃんの感想もあながち的外れとか勘違いとは言えないのかも。
あとで店舗の方にいるおじさんとおばさんにも挨拶しとかなきゃ、と久しぶり過ぎるわたしへのその盛大な歓迎ぶりに内心で首をすくめた。こそこそっと来てさっと帰ろうくらいの気持ちでいたけど。家族ぐるみの付き合いって、そう簡単には済まされないもんだな。
自室から出てきた沙里奈ちゃんと久しぶりにお喋りして、碧の部屋の前でお邪魔!と一応声をかけ(中から『おぉ』だか『あぁ』だか、中途半端な返事が聞こえてきた)、ようやく吉村の部屋に二人して腰を落ち着ける。
「…部屋分けたんだね。それぞれみんな個室にしたんだ」
トートバッグから出したテキストを小さな座卓の上に広げるわたしに冷たい麦茶のグラスを差し出して、吉村は明るく笑って答えた、
「何年前の話だよ。と思ったけど、直織はここ来るの久しぶりなんだな。元の子ども部屋に仕切り入れて何とかそれぞれ個室確保したんだよ。だから結構狭いだろ?」
沙里奈の使ってる部屋は納戸だし。子どもの数多いと公団の間取りって結構ぎちぎちなんだよな、と苦笑して自分も麦茶を手にわたしの向かいの位置に座った。
「俺の個室も狭いから、本当はリビングとかあればそこで勉強した方がいいんだろうけど。この公団、造りが古いからそんな気の利いたもんないんだよね。台所にダイニングテーブルあるだけで…。さすがにばあちゃんが夕飯の支度してる横で勉強してたら、しょっちゅう話しかけられて集中できないし。それとも、ばあちゃんの部屋借りる?」
別の棟に借りてる1DKの部屋だけど、昼間はこっち来てて大体空っぽだし。沙里奈が友達大勢呼ぶときなんかよくそっち使わせてもらってるよ。と提案されたけど、わたしは首を横に振って断った。
「別にここでいいよ。勉強するだけで暴れるわけじゃなし、広いスペースはなくても平気。でもあんたがそっちがよければ…」
「いや大丈夫。俺は自分の部屋の方が気楽だもん。直織に今さら見られて困るようなもの、別に何もないし」
だろうね。あんたらしいや。
雑談はそこそこにして本題に入る。前期中間の順位をひとまず見せてもらうと。…うーん。
「なるほど。…これだけ見ると、大学どうこうよりもまず、赤点回避が優先てとこだね」
各教科の点数によるけど。と呟きばらばらと前回の試験の問題用紙にざっと目を通して思わずうっとなった。しばし固まってから、すごすごとそれを畳んで吉村の前に戻す。
「…ごめん。数学わたしもう無理だわ、絶対教えらんない。薄々そうだろうなと思ってたけど、理数コースの数学のレベルやばいね。わたし私立文系コースだから。今年はついに数学の授業なくなっちゃったし…」
そういえば、一年生のときも既に数学と化学やばかったなぁ。と今さらながら思い起こされる。
逆に二年から文理コース分かれて、出るテスト問題も別になったら理科系科目も数学も急にぐんと成績上がった。文系は文系の中だけで評価されるから、共通テストでそこそこ取れればいいって人の間で比較されたらまずまずなんだよな。
公立の大学で行きたいとこないから、結局数学取るのやめちゃったんだけど。二年のときの評価が悪くなかったから多少は何とかなるかもと甘く見てた。
「理系コースの赤点ぎりぎりの人よりもわたしの方が数学力下かも。…当たり前だけどテスト問題自体文系コースとは全然別なんだね。これは教えられないわ…」
何ならわたしに任せて?他人に教えると自分も勉強になるしね、とか得々となって宣言したのが恥ずかしい。と落ち込んでると、吉村は急いで首を振ってわたしをフォローしてくれた。
「ああ。…大丈夫、そこは心配しないで。俺の成績が駄目駄目なのはこの辺じゃないから。実は数学とか物理なんかは割と点数ましな方なんだ。ほら」
返却された採点済みの解答用紙をさっと見せてくる。確かに、60点台とか70点台くらいのまあまあな数字。
「この問題の内容でそれだけ取れるのすごいよ。やっぱ理数系の頭なんだね、吉村。高校受験のときにはわたしに教えられてたのに、理科も数学も」
いつの間にかすっかり追い抜かされてた。とため息をつく。吉村は慰め顔でそのテストを畳んで横に片付けつつ弁解した。
「俺は電器屋だから。さすがにここら辺は何とかならないと困るからね。割と真面目にやったってのもある。けどまじで無理なのは文系科目だな。国語の中でも古文とか漢文、これは赤点一回取ったことある。それとやっぱ英語…」
打って変わって情けない表情で差し出されたテスト用紙。わたしは受け取ってばらばらと目を通し、無言でそれを閉じた。…なるほど。
「確かに。単位落とすと卒業に差し支えるね、これは。あと英語は、どの進路でもないってとこないからな。このままだときついか」
「うん。だから、直織の勉強に差し支えない程度でいいから。付きっきりである必要ないけど、途中でわかんないとこ出てきたら訊いてもいい?」
「全然いいよ。まさにそういうのを求めてた。文系科目なら任せて」
ちょろいわたしが自信を取り戻し、胸を張って宣言すると。じゃあせっかくだから地理も…と吉村は追加でテスト用紙を取り出した。うぅむ、了解。
「日本史とか世界史じゃなくて地理なんだ。理系の人には、社会科の選択科目は歴史よりそっちのが人気あると聞いたことあるけど」
まあわたしは私立文系ではちょっと珍しい世界史地理選択の民だから。教えるのは全然問題ないが、しかしそれはそれとして。
「あんた、国公立受けるの。もしかして」
ここまで国語も英語も不得手なのに。地理もめちゃくちゃ悪くはないが、あんまり戦力になりそうな点数ではない。
「英語はどのみち受験科目に入らない大学ってまずないから仕方ないとして。国語と社会科はあんまり足引っ張るようなら、いっそ私立も考えてみるとか。…まあ、学費がってことかもだけど。昔に較べると国公立と私立の学費の差、だいぶ縮まってるらしいよ?」
奨学金とかもあるし。と遠慮がちに提案してみた。けどやっぱり、やや考えてからゆっくり切り出す吉村の反応は歯切れが今ひとつ悪い。
「まあ。確かに公立でも大学の学費は、高校と違って半端じゃないから…。それでもまだ私立よりは安いのは事実だしね。てか、理系はやっぱり公立と私立の金額の差はまだかなり開きあるよ。奨学金も将来的に返すあてを考えると。あんまり正直頼れないなと思う」
「うーん…。それは、まあ」
返済不要の完全給付型の奨学金もあるよ。とは頭に浮かんだが、それをここで言ってもなぁと思いとどまる。
理数科目はそんなに悪くないけど、トップとも言いがたいだろう。給付型の奨学金はかなり成績良くないと受けられないから、さすがに吉村には難しいのかな。
確かにそう考えていくと、せめて家から通える国公立っていう結論にはなるかも。けど文系科目に足を引っ張られて落ちて浪人することになったら、一年間の予備校の学費が余計にかかることになるし。結局のところどっちがよりましなのか…。
そこの比較はあとで調べてじっくり検討してみるか。とりあえず今の段階では、国公立に何とか合格できるレベルまで文系科目を上げるしかない。という状況なのは理解した。
わたしは水滴のついたグラスを手に取ってくっ、と飲み干し、それをテーブルにことりと置いてからさあやるぞ。とばかりにシャーペンを掴んだ。
「よし。じゃあ、始めるか。…共通テストレベルって言ったらこのくらいかな。手始めにこの問題集とか。やってみる?」
「おお。…いいの?借りても」
「うん。わたしはもうそれ、終わってるから」
とりあえず時間計って解いてみて、採点するとき見せてね。と告げ、自分の課題に取りかかる。
その方式でしばらくやってみて、吉村が間違えたところを重点的に見て傾向と対策を考えた。どうやらここが苦手そうだなとわかる分野をメモしておいて、あとでどういう参考書や問題集が適してるか調べてみないと。
「…やっぱ、頼りになるなぁ直織は。懐かしいな、この感じ。高校受験のときにもこうやって教えてもらって、世話になったよね」
真剣な顔でいろいろ検討してるわたしに、ふとしみじみした声で呟くように声をかける。我に返って顔を上げると、吉村がなんとも柔らかな表情を浮かべてこちらを見ていた。
「俺はぎりぎりもいいとこだったからさ。直織がつきっきりで教えてくれなきゃ、うちの高校は絶対無理だったと思う。そう考えるとすごいよな。やっぱり他人に教えるの上手いんだよ。頭いいから、直織は」
「…ここで褒めても。別に何にも出ないよ」
曇りのない眼差しをまっすぐに向けられて居心地悪く視線を外す。なんて裏心のない目線なんだ。でも、吉村らしい。
わたしをおだてて持ち上げて、その結果いい目を見られるかもとか。そういう見返りとか、まるで頭に浮かんだこともないんだろうな。まあ下心そのものがないからね、多分…。
「吉村って。彼女とかはどうなの、今のところ?」
ふと気づくと質問が口を突いて出ていた。しまった、こういう現実に引き戻される生々しい話題には出来るだけ触れないで済ませるつもりでいたのに。
どうやらこの様子なら多分今は誰もいないね、よし!で終わりでよかったのに。どうしてここで本人にわざわざ念押しで確かめようとかいう流れになるんだ。
けど、吉村はわたしの唐突な問いかけを別に変だとは思わなかったらしい。まるで動じない涼やかな目つきでわたしを見返し、淡々と何事でもないかのように答えた。
「いないし。特に今は必要でもないかな、そういうのは」
「そっか」
まあ、そう答えるだろうなとは思ってた。わたしは自分の頬の温度や表情の落ち着き具合、声の冷静さなどをチェックしてとりあえず安堵する。どぎまぎしたり動揺したりはしていないし平常運転って感じ。こっちもどうやら普通だ、うん。
「…別にあんたのことだから。わたしには関係ないし、何か言う資格があるとも思ってないけど。そもそも」
俯いてしゃっ、しゃっと吉村が記入した解答に丸をつけていくわたし。うん、さっきよりだいぶ正答率が上がった。やっぱり、解説を聞いてからだとだいぶ理解が深まるみたいだ。
と考えつつ一方で、口はさらっと兼ねてから伝えたいと思ってたらしいことを勝手に言葉にして吐き出す。
「今はともかく。将来いつかはそれぞれお互い、そういうこともあるかもしれないじゃん。…あんたに誰か特別な相手が現れたりしたら、それは心のまま自由にしてね。わたしとか、昔からの知り合いに遠慮したり。こっちを優先しなきゃとか考える必要ないから」
何となく遠回しな表現にはなったけど。わたしが吉村に言いたいことはこれで一応伝えられた気がする。
別に深刻な話じゃないよと伝えるべく、手を動かして採点を続けながら目線を合わせずさらっと言ってのけた。
「あんたはこれまでわたしにいろいろと気を配って、不自由のないよう困ることのないようにといつも考えてくれてた。それはもちろんありがたいけど、そのせいで自分の幸せが後回しになったら本末転倒だよ。だから欲しいものができたときには迷わず自分中心でね。吉村は自由だから、いついかなるときにも」
「…うん」
訥々とした調子で、だけど一方的に一息に言い切ったわたしの台詞が途切れたところで吉村は頷き、ややあってぽつりとしみじみした声で呟いた。
「ありがとう」
「いいえぇ」
それでこのやり取りは終わり。
黙々とお互い課題に取り組みながら、一度はっきり伝えておきたかったことはこうして言葉にできたけれど。
普段言えないことを思いきって口にしたのに、向こうが話の流れに便乗して直織の方は?好きなやつとか付き合ってる相手とかいるの?と全く尋ねてこなかったな。まあ訊かれてもあっさりないよ、で終わるから。別に訊かれたかったってほどのこともないが。
だけど何となく、こっちにそういう相手が現在いないと察してたとしても。将来的にそうなったらわたしのことは気にしないで自由にしてね、と言えば当然のようにうん、直織の方もね。と返してくるのかなと思ってた。それすらないのはちょっと予想外だったかな。
…まあ、わたしは自由に何でもしていいってこいつが心の底から思ってるのは普段からちゃんと伝わってきてるし。それはお互い自明の理だろうと考えてるからいちいち口にしなかったのかも。
それは何となくわかる、だってお前は自由だよ。とわざわざ言わなきゃいけないとしたらそれまでは自由じゃなかったってことになるから(わたしはうすうす吉村に対してそう感じてたからここで改めて念を押した)。
世話をしなきゃ、責任持って面倒を見なきゃって考えから離れたところであえてわたしを見てほしい。それで他の女の子を選ぶことになったらそれはそれで仕方ない。
そう考えて発言したけど。わたしの側の話には結局ならなかったってことは、こっちが思うよりわたしにそういう関心はない。…ってことになるのかな?
採点し終わった解答用紙の上で赤ペンを持った手を止めてため息をついた。まあ、もともと本当にただの幼馴染みだから。お互い男女の意識がないんだから、考えてみればそりゃそうだろって話ではあるんだけどさ。
「…ごめん。散々だよな、それ」
「え。…ううん、そんなことないよ」
しょげた声で謝られてはっとなる。いかん、空事ばっかり考えてないで。少しは集中せねば。
わたしは晴れ晴れとした笑顔を作り、丸つけの終わった解答用紙を持ち上げてみせた。
「思ってたより全然いいよ。この調子なら、夏休み明けの期末はだいぶよくなるんじゃないの?このペースで続けてみようよ」
「さすが。やっぱり、直織の教え方がいいんだな」
自分の結果もこっちの成果にすかさず付け替えて喜ぶ吉村。ほんとに、どんだけ人がいいんだか。
それでその話はおしまい。あとは昔通り、気の置けない友達同士として気楽に勉強に取りかかった。
…このときの話の流れでもし仮に、直織はどうなの?今好きなやついるの?とか訊かれてたら。
わたしはこの時点でどう答えてたんだろう。それはこのあとの成り行きにどう影響を与えてたのかな、と改めて後日考えたことはあった。
どうかな、案外変わらないかも。少なくともこのときだったひと言をきっかけにスピーディーに何もかもがすっきり片付いて、面倒が綺麗一発全てなくなった。とはどうせならなかったんだろうなぁ。
だとしたら結局わたしとこいつの複雑怪奇な関係の微妙さがこのまましばらくずるずると引き延ばされるのも。どのみち避けられない必要な過程だったのかな、とのちに振り返って諦めのため息を禁じ得ないわたしなのだった…。
《第15章に続く》
予備校がきっかけで付き合うパターン、まあまああるんでしょうかね。漫画や小説ではそこそこ見た気がするけど。
だけど主人公にとってはそれよりも幼馴染みの存在が引っかかっているようで。これまで恋愛じゃないその気はないと言い過ぎて、もはや当人でさえも本当の気持ちがわからなくなってしまった状態に陥ってるような…。否定し過ぎて素直な本心が見えなくなってるのか。
そう考えると幼馴染みでそのまま順当にゴールインする人たちが世間に少なく感じるのも納得。今さらそんな目で見れないとなりがちなのかもしれないですね。そこを乗り越えるより先に、成長とともに物理的に離ればなれになって終わることも多いでしょうし。
直織と吉村は今後どうなるんでしょう。まだお互い今ひとつ素直になりきれていないような…。なかなかもどかしいですね。




