第13章 絵バトルしようぜ絵バトル!
まるまるみっちり、美術予備校の話です。
受験用の絵の勉強ってなかなか難しそうですね。外から見た評価を意識して描く、って窮屈だなぁと思いつつも。完全な趣味じゃなくて大学で選考する、卒業してから仕事で絵を描く。ってことになるとどうせ客観的な評価と向き合って描くことからは免れないし…。
そう考えると美大を受けるような人たちからすると、評価されたり順位づけされることは言うほど違和感のないことなのかもしれない。どう考えてもストレス溜まりそうで大変だなぁ、と思いますが。
冬季講習最後の課題『飛ぶ』については、最終的に何とかまあまあ自分のイメージする絵に近づけられて終わったと思う。
完成したわたしの作品は漆黒の背景の中、逆円錐を描くように群れを成して飛び立つ鳥の集団を描いたもの。白を基調にした鳥たちの羽の色が微かにグラデーションとなって、全体がうっすらと虹色の光を帯びている様子を表現するのになかなか苦労した。
水彩ならともかく、そこまで油彩に慣れてないしね。もう少し油絵の具を自在に使いこなせるようになりたいなと考えながら、試行錯誤して思い描いてる絵面へとある程度は近づけた。無論完璧とはほど遠いけど。
「わあ。…いいじゃん。なんか、新境地を感じるね。もちろん一目で笹谷の絵だってわかるけどさ。でもやっぱ、新しいよ。こういうのもありだよな」
完成した絵を見て当然のように名越ははしゃいだ、いつものことだが。
ついでにその後ろで何だか微妙に面白くなさそうな顔でふん。とこれ見よがしに息をつくあの彼女の姿が否応なくわたしの視界に入ってきたけど、それはもうあまり気にしないことにした。
…実は、アート系意識高いお洒落な彼女にだる絡みされた例の日の翌日のこと。
前日と変わらずに一人黙々と絵の完成に励んでたわたしの横に、漠然と見覚えはあるけど話したことはない名越の友人の男の子がこっそりと寄ってきて意味ありげに話しかけてきたのだ。
「あのさ。…課題に熱心に取り組むのはもちろんいいことだと思うけどさ。それはそれとして、浮気してるよ。君の彼氏」
「え?」
声をかけられたこちらは、作業に集中してる最中にいきなり何かを言われた。という事実しかわからなくて、ちゃんと反応できずにぽかんとなってしまった。
誰かそばに来たな、というのは察知してたけどわたしに用事があってのことだとは思わなかったから。
それに、彼氏?誰の?まず何の話?…ってとこから頭の整理がつかない。読んだことのない本を真ん中でばんと開いて顔に突きつけられてさあ、感想は?と迫られた感じ。
多分、話についていけなくて面食らったわたしの表情が彼にはショックを受けたように見えたんだろう。前触れなしに衝撃的なことを言い過ぎたと思い直したのか、急に慌ててフォローするように調子を和らげて弁解を始めた。
「いやいや、君はもちろん何も悪くないと思うよ?だってここにはみんな、絵を描くために通ってるわけだからね。休憩も取らずにずっと集中してるのが駄目だとか言われる筋合いないよな。けど、あんまり油断して彼氏から目を離さない方がいいのかなと…。なんか、隙見て二股かけようとしてるよ?あの男」
「ああ…」
目の前の男の子が早口にぺらぺらとまくし立ててる様子をぼんやり見てるうちにようやく脳が夢から醒めたように現実に戻ってきた。
なるほど、この子が言ってるのは名越のことなんだな。そりゃそうか。
多分傍から見たらわたしとあいつが付き合ってるように感じるのは事実なんだろう。この前のあの女の子だけが特別に恋愛脳が過ぎて、世界が過剰にピンク色に見えてる。ってわけじゃなかったんだ、別に。
「また誰かと付き合うつもりなんだ。…別にいいけど。よく懲りないよなぁ、あいつ」
半ば感心してしまいしみじみと独りごちた。てか、この流れからするとその相手は十中八九、昨日のあの女の子なんだろうけど。展開が早いにもほどがある。
わたしに背中を押されて(正確には応援したわけでもなくて、こっちに来ないで直に本人に当たってください。と遠回し気味に追いやった)ほぼそのまま素直に当たりに行ったとしか。それで名越の方も、のらりくらりかわしたりもせず即答で応じたってくらいのスピード感。…いやあんたら、ちょっとは逡巡とかしろよ!
すっかり呆れてため息をついてしまった。けど次の瞬間に気づく。
そんなわたしの表情を、さっきの男の子がまだ横にいてじっと眺めていたことに。
「…やっぱり、あいつって常習なの?そんなしょっちゅう浮気してるんだ。だけど別れる気になれないってこと?いくら顔よくて絵巧くたって、女癖悪いのは致命的だと思うけどなぁ…」
悪いこと言わないから、付き合いは考え直した方が…と心配そうに付け足され、さっきからなんか誤解されてるよな。と肩をすぼめて言い返す。
「いや付き合ってはいないから。そういう意味では別に女癖は悪くないと思う。フリーなんだろうし、誰と付き合おうと自由だよ、名越は」
「あ。…そうなんだ。ふーん」
俺はてっきり、二人そうなのかと。とちょっときまり悪そうな顔になってもごもごと言い訳を始めた。
「いつも一緒にいるし、仲良さそうだし。あいつはすごく君のこと気遣ってる様子だからさ…。なのに他の女から粉かけられたらあっさりそっち行っちゃうんだーと意外だったんだよね。じゃあ名越が最近ここで会ったばっかの女といきなり付き合うとか言い始めても。君としては問題ない?でも、多少はもやもやしないの。あとから来たぽっと出のやつにかっさらわれた、とかさ」
最初はどうやらこの展開を面白がって野次馬的に反応を見に来たのかと思ってたけど。口調や顔つきから判断するに、一応こっちを心配して忠告しに来たつもりらしい。
この男の子も名越や昨日のあの女の子と友達同士なんだろうに、ずいぶん親切なことだな。と感心しつつパレットに視線を落としてぺたぺたと絵の具を再び混ぜ合わせる。別に気を遣ってくれとはこっちから頼んじゃいないが、まあその気持ちはありがたいと言えないこともない。
いつも一人で絵ばっかり描いて、周りから疎外されてるように見えてたのかな。知らないうちに勝手に気の毒に思われてたのかもしれないと考えたらちょっと、忸怩たる気分にはなるが。
この人自身には悪気はないんだと思えばそんなに突慳貪な態度も取れない。昨日の彼女に対するときよりはやや穏当に、まあまあ当たり障りのない応答でこの場を無難にやり過ごそうと努めた。
「本当に別にそういうんじゃないから。美術部と画塾が一緒で腐れ縁みたいなものかな。女の子にどういうスタンスで向き合うかも話の上では知ってるし、相手の子大変だろうな。と思うだけで…」
「そうかぁ…。いや、とにかく早いよね。決断が」
それで納得してくれるかと思ったら、彼も横から椅子を引きずってきた。そのままわたしが絵を描き続けてるのにも構わずにぽつぽつと話し出す。
やはりあの女の子とこの人はいつも名越と絡んでる数人の仲間のメンバーで、彼はこの冬季講習から。彼女の方は名越と同じでどうやら前の夏期講習のときからの馴染みらしい。
「俺は付き合い浅いから詳しいことはわかんなかったけど。雨宮(文脈的に、おそらくこれがあのアート系意識高い彼女の名前)ってあからさまに名越に絡んでくな、どうやら構ってほしくて狙ってんのかな。と横で見てて漠然とね…。でもあいつ彼女いるし絡まれても特に反応もしてないし脈なさそう。って思ってたとこからの、あれだから」
肩をすくめて呆れた口調で彼が説明してくれたところによると。
前々から名越を狙ってるのありありだったその女の子が、昨日みんなで休憩室で駄弁ってるときに珍しくいないなと思ってたら。
いきなり教室の方から足音高くつかつかとやってきて、名越、ちょっといい?と周りの連中には目もくれずに勢い込んでやつを呼び出したという。
お、これまで一生懸命それとなく匂わせて何とか向こうから来るように仕向けたいのが見てとれたのに。
急に意を決して直截的に体当たりすることに決めたのか。まあその方が絶対話が早いとは思うけど、絶対に相手から動いてもらわないと嫌だって意固地に思い詰めてる感じだったのに、よく腹が決まったな。もしかして誰かから背中でも押されたのか(それ、多分わたしだ)。とかその場に残ったみんなで無責任に口さがなくわいわい喋ってたら、程なくして二人連れ立って戻ってきてしれっと『付き合うことになった』だと。
「雨宮の方はもう鼻高々、意気揚々でどや!って顔つきで皆の前で堂々とそう宣言して。名越はその背後で特に異を唱えるでもなくおっとり構えてる風で、まあ二人がそれでいいんならいいけど…って居合わせてる連中は皆、なんか釈然としない様子で面食らってたよ」
仲間内でカップル誕生なんだし、目出たいことなのに。おめでとう!とかよかったな!ってわっとその場が盛り上がるよりもおお…なるほど。それはまあ、いいんじゃない?って曖昧な空気になったのは、女の子の方だけがやたらとどや顔得意満面で、男の方は承諾したんだかしないんだか、まあどっちでも俺はいいけどね。みたいな一歩引いた泰然とした態度だったのが恋人同士とか彼氏彼女感が薄く感じられせいもあったと思うけど。とその男の子は童顔気味な顔に当惑を浮かべつつ続けた。
「何故かすっきりしないなぁ、何に引っかかっててるんだろ?とずっと自分でももやもやしてた。でも、今日教室に入って君を見てからはっと思い出したよ、そういえばこいつって彼女いるじゃん!じゃああの交際宣言は何だったんだ?…って」
それで横目で様子見してたら、名越は普段と全然変わらずに君最優先だし。それでいて今、向こうで皆で休憩してるときは雨宮に腕なんか組んでべたべたされても平然としてて抵抗もしないしさ。君はもしかしてこのこと全然知らないのかなと思ったら、このままでいいのか?ってすごく気になっちゃって…と彼は微かに顔をしかめてそう打ち明けた。
この人が真面目に思い悩んでくれたことを否定する要素は特にないし(まあこちらが何か頼んだわけではないが)、こうして集中してるところにいろいろ話しかけられても苛々したり怒るほどのことではない。と考え、わたしは絵の具を調合する手は止めずになるべく穏やかな声で受け応えしようと努めた。
「ありがとう。でもこの通り、あいつのプライベートはわたしとは関係のないことだから。ご心配には及ばないよ。お互い、絵を描くことでだけ接点のある仲なので…。まあせいぜい今度はちゃんと誠実に相手と向き合って、長く続けばいいのにねと思うくらいかな」
あんまり希望は持てないが。さっきこの人の口から聞いた二人の様子からして、女の子の方の押しがすごくて名越は断る理由もないな…ってくらいの反応だもんね。彼女の根気がどこまで続くかの問題だと思う。
とりあえず、配慮に対してお礼を言ってこの話は終わり。と考えてるわたしの横に座ってる椅子ごと自分をずず。とそのまま引きずってきて、やや声を落として尋ねてくる彼。
「そっかぁ…。まあ、浮気でなくて何より。そしたらさ、君の好みって別に名越みたいなタイプじゃないってことだよね。女の子は大抵みんな、ああいう余裕綽々な毛並みのいいイケメンが好きなのかなって。てっきり」
「…誰でもが百パーセント好きになるタイプの人って存在しないし。男の人だってそうでしょ。絶対百発百中、全員が漏れなく夢中になるに決まってる女の人っている?芸能人だってどんなに異性にとって都合のいい理想的なキャラだって。普通にそうはならないんじゃない?」
どうして名越みたいな男を好きにならないの?みたいに言われても。わたしにはその程度のことしか言えない。
けど、これまでどんな男性芸能人もみんなに大人気の覇権キャラにもぴんと来たことのない人間にとってはまじでそんなこと言われても…だ。そういう人、男女問わず一般的に結構いると思うけどなぁ。現にわたしの友達で名越に多少なりとも関心を寄せてるの、実際クラ子一人くらいしかいないし。
て感じで軽く思ったことを何気なく言い返したら、その人は意外にその台詞に食いついてこちらに身を乗り出してきた。
「いや、もちろんそれはそうだと思うよ。気持ちわかる。男なら誰でもこういうの好きでしょとか決めつけられるの、普通に嫌だよな。…そしたらさ、あいつみたいの守備範囲外だって言うんなら。君の好きな男って例えばどういうタイプ?てか名前何だっけ。…高校どこ?大学はどこ本命?やっぱO芸大か、それとももしかして」
「お。…すごい、進んだじゃん。ちょっと見ていい?」
急に背後からやたらによく響く聞き慣れた声がして、わたしもその男の子も同時にぎょっとした。一体いつの間にそこにいたんだ、お前。
名越は遠慮なくわたしと男の子との間にずいと割って入り、うわぁいいなぁこれ。と目を細めて齧りつくように身を屈めてしみじみと見入った。そしてそのまま居着いて全然退こうとしない。
「あんたのいつもの絵と結構印象違うね。一見色彩がモノクロで統一されてシンプルに見えるけど、よく見るとすごく複雑な色合いしてるな。…鳥の飛び立つ感じもいいじゃん、動きがあって。あとさ、バックも単純な黒じゃなくて。角度によっては群青に見えるような、深みがあってさ…」
「…え、と。そしたら俺戻るけど。またね、えーと。そういえば君、名前」
延々とその場で長丁舌を展開し始めた名越に閉口したのか。さっき自分が引っ張ってきた椅子が名越の使ってたやつだと気づき、こそこそと立ち去りかけたところで思い当たったように振り向いてそっとわたしに尋ねてくる。名越はそっちに視線も向けず、彼が放棄した自分の椅子に手をかけてしっかり確保しながらわたしが答えるより先に素っ気ない調子で遮った。
「この子の名前は別に知る必要ないでしょ。予備校には別に、仲間作るためとか遊びに来てるわけじゃないしさ」
あんたがそれを言うか。…まあ、名越も自ら積極的に動いてそうしてるわけじゃないもんな。向こうから自然と来るから、受け身で流れに乗ってるだけで。
声の調子は厳しくはないが内容は友達に対しての台詞にしては思った以上に突き放してる。ちょっと後ろめたそうに首を縮める彼に聞かせる気があるのかないのか、まるで独り言のように小さな声で付け加えた。
「それにこの人は真面目に絵が描きたいんで。ここでわざわざ他人と交流したいとかそういう意識ないからさ。…あんたも気をつけて、もっと警戒とか自衛した方がいいよ。隙見せるとすぐナンパしてくるやつとかいるから。全く、信じらんないよ。わざわざ講習受ける場所来てまで何がしたいんだか…」
「いやあんた。…失礼だよ、いくら何でも」
いつになく棘がある攻撃的な口振りに呆れ、思わず声を落としてたしなめるわたし。
さっきの男の子はそれ以上やり返す気にもならなかったらしくそのまま素早く自分の席に戻っていったので、既にわたしたちのやり取りが耳に入る位置にはいない。
だから今さら何を言ってもフォローにはなっていないのだが。やっぱり、わざわざあんな風に聞こえよがしに決めつけるのは正直どうかと思ったので。
「名前訊いたくらいでナンパ扱いされるのはさすがに…。正直さっき話してて、会話してる相手の名前わかんないと不便なもんだなとはこっちも思ったもん。彼も単にそう考えたってだけじゃない?なのにあんな言い方…。どんだけ自意識過剰な女かと思われるよ。かえって恥ずかしいし、わたしの方が」
「相変わらず呑気なやつだなぁ、あんたは」
肩をすくめて自分のパレットを手に取り、キャンバスに向き直る。てきぱきと作業を再開しつつ噛んで含めるように言い聞かせてきた。
「変に絡まれたりストーカー化されてからじゃ遅いんだよ。それ以前の段階できっぱりシャットアウトしておくに越したことないでしょ。他人から自意識過剰と見られようがいいじゃん、放っとけば。それともあいつからどう見られてるかとか気になる?」
「いや。…それは別に。ない、けど」
多分もうそんなに顔合わせて話すこともないだろうし。冬季講習は明日で終わりで、次の夏にはわたしはもう美術どころじゃないだろうから。ここには二度と来る機会もないはず。
そんなわたしの気のない反応を確認して安心した様子でうんうん、と頷く名越。
「そうそう。ああいうの相手にしなければ、雑音に妨げられずに絵に存分に集中できるしね。それでこそ笹谷だよ。…そしたらあと少し、完成まで頑張って。出来上がり、俺はめちゃくちゃ楽しみにしてるからさ」
弾んだ声で激励され、思わず肩をすぼめた。それはあんたもだろ。制作期限は同じ明日までだし。
自分の作品のことは横に置いといて、とにかくまずこっちの出来栄えが気になるんだな。まあ、今さらそんなことに驚きもしないが。
せっかく休憩時間を使って少しでも進めたかったのに、何かと邪魔が入って結局落ち着いて取り組めなかった。とため息をついて自分のキャンバスの方へと改めて顔を向けると、わたしの真向かいの方に陣取ってる名越の新しい彼女がこれ見よがしにこちらに面白くなさそうな表情を見せてふん。と非難がましく睨みつけてくるのが視界に入り、実にうんざりした気分にならざるを得なかった。
翌日、完成した最後の課題の講評。
前日に描き終えた絵を一人ひとり評価するだけでずいぶん時間を取るんだな、今日は最終日なのに内容それだけ?と思ってたら。…講義の開始前の時間、名越が他の人たちと喋ってる隙を見て例の男の子が再びわたしのそばに寄ってきた。
「や。…警戒しないでいいよ、ただ雑談しに来ただけだから。今日の結果楽しみだね、君のあの鳥の絵、すごく綺麗に仕上がってたし」
「警戒とか。別にしてないよ」
そこまでわたしに執着してる様子でもないし。ただ名越が他の友達に囲まれてる間、わたしがぽつんと放置されてるように見えて話しかけなきゃ、と考えたってだけだろう。こっちは周りが気の毒に思うほど一人を気にしてはいないんだけど。
それに今のは一応何となく絵を褒めてくれたのかな、お世辞というか社交辞令かもしれないけど。と考えつつ、そういえばわたしは彼の描いた絵を見てないって事実に今さら気づく。
反射的にお返しにちょっとでも相手の作品を褒め返そうと思ったんだけど、無い袖は振れない。そういう形でのフォローは難しそうだ。
しかしこちらがそんな風にあれこれ思い惑ってることなど気づいた様子もなく、彼は深く考えず感じたままを素直に口にしてるだけなようだ。名越にあんな風に威嚇されてすっかり萎縮しちゃったんじゃ…などとこっちがわざわざ心配するほどでもなかったみたい。
「…今日の結果。って?」
まるでわたしが他人の作品に全く関心を払ってなかったみたいに思われる(というより、それがばれる)のをごまかそうとしたわけでもないが。ちょっと話を逸らし気味に引っかかった言い回しを何気なく問いただすと、彼は意外そうに大きな目をぐるりと回してその若々しく見える童顔に無邪気な驚きの色を表してみせた。
「え、そうか。もしかして知らないで描いてたの?ここの予備校の講習って、最終日にコースごとに全員の作品の順位つけられるんだよ。優秀作品だけじゃなく、最下位までばっちり発表されるから。今頃別室に一位からドベまで、ずらっと順番に並べられてると思うよ。これからそっちに移動して、みんなの前でみっちり講評されて晒し者にされるわけ」
「うぇ。…まじで?」
しれっと明かされたこのあとの展開の話のエグさにわたしは思わず小さく呻いた。何それ、知らんしそんなこと。
「結構有名な話だし、短期講習受ける人はみんな知ってると思ってた。まあ、美大受けるんなら順位可視化されたり一方的に評価されるのには早めに慣れとかないとね。理不尽ちゃ理不尽だけど、そもそも数値化できない作品の価値を順位付けして当落を決めること自体が無理筋なんだし」
うん。そこはわたしも素直にそう思う。
名越が友達連中との話を終えてわたしの方へ戻って来ると、彼は話を切り上げて急いで離れていった。
どうやら昨日のあのやり取り以降、すっかりこいつのことが苦手になったらしい。もともと友達になりかけてたみたいだったのに、わたしのせいで気まずくなったようで何だか悪いな。
「何なのあいつ。また絡んできた?」
名前とか学校とか教えなかったよね?素っ気なくしちゃうと気の毒だなとかそういう同情は禁物だよ、と心配そうに念を押してくる。
「それはない。言うほどわたし、他人に親切でも優しくもないし。向こうもそこまでこっちに関心とかないよ。…それより、教えてくれなかったじゃん。あの最終課題ランキングされるんだって?」
「あれ。教えてなかったっけ」
名越はわたしの指摘にも悪びれず、平然と受け流した。
「結構有名だからね、ここの予備校の講習。お決まりの名物といっていいくらいだよ。受講者全員の絵をずらっと並べて優劣をはっきり突きつけて終わるっていう容赦なさがね…。俺は既に夏の講習んときに経験済みだけど」
「有名なんだからちょっと自分で調べてたらわかってただろ、って意味?」
まあ、それはそうなんだけど。そもそも押されて気乗りしないまま参加したからって、何もかもを名越任せだったこっちが悪い。だから噛みつくのもおかしい話ではある。いくらでもその気になれば下調べくらいできた。
わたしが自責してるとでも思ったのか、名越はふと生真面目な表情を浮かべて軽い気持ちで口にしたその台詞を真っ向から否定する。
「いや、そういうつもりじゃなくて。笹谷は別にそんなの気にしないと思ったからさ。だって、他人からここがいいとか悪いとか指摘されたとしても描き方変えたりしないだろ。こういうテーマにした方が入試で評価高いとかアドバイスされて、じゃあそれに従ってやり方変えよう。とかならないじゃん、どうせあんた」
「まあ。…そうだね」
ランク付けあるって知ってたらもっと別の絵柄にしたのにとか、点数高くなりそうな講師受けする題材選ぶとか。そういう発想にはならないもんな。わたしがそこまで器用な描き手じゃないのは多分名越も承知してる。
それに個人的にはそこまで順位とか評価にこだわる必要ってない、少なくともわたしには。
他の受講生たちと違って美大受ける予定ないから、こういうのは評価低いよ。とか大学じゃ受けないよとか言われても別にどうってことないし。まあ、そうかガチでファインアートの作家目指すような人たちが行く場所ではこういう絵って評価されないんだ…というのを知るのもまたいい経験なのかも。個人でこつこつ一人描いてるだけじゃ、受験絵画みたいなの知る機会ってないからね。
そんなことを、この場を否定しない言い方を探しつつやや遠回しな感じでぼそぼそと伝えると(名越はわたしが美大受けないことを知ってるからいいけど。うっかり周りに聞こえて、何なのじゃあ何のためにわざわざ講習に来たんだよ?ただの冷やかし?みたいにかちんと思われないように)、やつはそんなことは先刻承知。とばかりにしたり顔で何度も頷いた。
「うん。あんたは周りからの評価なんて気にする必要全然ないよ、そのまま自然体でいい。それに大体、あえて指導者受けなんて狙わなくても大丈夫。笹谷の評価が低いわけない。誰が見ても真っ当にすごいと思うはずだから、ちゃんとここでもトップ取れるよ」
声を潜めもせず、普段と同じ調子で得々と告げられてこっちが思わず身を縮めてしまう。
「そんなことあるわけ。…てか、ここでもよそでも。別にトップなんて取ったことないし、今までも」
そういう序列がある環境にいたわけじゃないから。美術部でも教室でも、わたしより巧い子なんていっぱいいたし、ここでもそうなるよ。まず絶対。
てかそもそもお前がわたしより実力上な存在のうちの一人じゃねーか。とか突っ込む間もなく、はーいそれでは、こっちの端から順に別室へ移動してくださぁい。と講師が顔を出して声をかけてきた。
他の受講生たちは慣れてて平然としてるのかと思いきや、友達や知り合いがいる人たちはお互いに顔を見合わせて、あーやだ。とかもぉ絶対最下位だよ〜みんな巧いもん!とか苦笑い気味に悲鳴のような声を上げてる。
口ばっかりの謙遜かと思えば、ぞろぞろ従順に出荷される家畜のような群れ全体の足取りは何とも重い。やっぱりこんなところで自信満々に絶対自分はめちゃくちゃ褒められるぜ。とかうきうきしてる受験生って、まあさすがにいないんだな。
それは当然その通りで、数値化できる評価と違って絵ってどこをどういう風に加点されたり減点されるのかを事前にわかるわけじゃない。だから例え自分の中では描ききれた!とか手応えがあった、と感じても評価する側の基準を知らないことには、まず安心はできないんだよな。それはわたしに限らず、ここにいる人たちみんなにとっても同じってこと。
だけどわたしの隣を歩く名越だけはそんな中で鼻歌でも歌い出しかねないくらいに上機嫌だ。笑顔を引き攣らせながら軽口で不安を紛らわせてる人たちの中で一際浮いている。
「まあそうだよね、あれだけ巧けりゃ。間違いなく上位だもんね、そっちは」
思わず小声で皮肉混じりに突っ込むと、やつは意外そうに目を見張って無邪気な声で言い返す。
「え、それは俺のこと言ってんの?いや受験直前でもあるまいし、この時点での自分の評価なんて特に気にしてないよ。割とどうでもいい」
「何でだよ」
平然と言い切られて思わず周りの耳を気にしてしまう。
ここは(わたし以外)美大に受かりたくて、そのために評価される絵をわざわざ学びに来てる人たちの巣窟なわけで。
そんな中で、講師陣からの評価なんて別に気にならない。どうでもいいってはっきり断言しちゃうの、さすがにちょっと迂闊じゃないかな。
いやお前も同じだろって言われるかもだけど、わたしは少なくともそんな考え声に出してはいないから。
それにあんたは来年美大受けるはずなのに、どうしてそこまで余裕綽々でいられるのか…。まあ単純にとにかく巧いからね。予備校まで来て他人から教わることなんか今さらあるのか?ってレベルの腕だし。
だからこそ余計に無神経で癪に障ると思われても仕方ない。巧いやつはいいよな、自信満々でゆったり構えてられて。と横で漏れ聞いた人に妬まれそう。
そんなことを小声で遠慮がちにぼそぼそ呟くと、名越はあっけらかんと笑って普通の声量で返してきた。どう見ても周りからどう思われるかなんて、まるで気にもとめていない。
「そういうことじゃないよ。俺自身の評価なんかより、今日はあんたの評価でしょ。一位がはっきり決まるってことは、笹谷の凄さがみんなの目に疑う余地もなく突きつけられるわけだからね。そうなれば皆、あんたの存在を否応なく認めざるを得ない。ついに同年代のガチ勢の前に、その存在を知らしめるチャンスが到来したわけだよ。ずっとこの日を待ってたんだから、俺は」
「いや…、まじで声抑えて。誰かに聞かれたら無茶苦茶やばい」
わたしは身を縮めてやつの足許を思いきり蹴っ飛ばした。誰かこいつの口を塞いでくれ。恥ずかしいを通り越して恐ろしい。
「今のその台詞にわたしがちゃんと突っ込まなかったら、こっちもあんたと同じ異常者と見られちゃう…。てか、わたしの絵なんて他の人たちと較べたら全然普通じゃん。もっと巧い人いっぱいいるし、それこそうちの美術部以上に。それにそもそもあんたの方がさすがに評価は上だと思うよ、順当に。名越が期待するほどわたしは注目されないと思う」
「それはないよ。てか大体俺、夏期講習の時点でそんなにいうほど順位上じゃなかった」
発表会場の前でたまってみんなが扉が開くのを待つ中、名越はこちらを見もせずにさらっと衝撃的なことを口にした。わたしは予測もしなかった事実を打ち明けられて頭がすっかり混乱する。
「え。…嘘。名越がトップ取れないの、ここじゃ?」
「…はーい、それでは前から順番に。全員入れるから、ゆっくり進んで。押さないでね〜」
誰がそこまでして一刻も早く中に入りたいとか思うか。正直側から見た自分の客観的な立ち位置なんて、知らなきゃ知らないままで済ませたいくらいなのに。
と内心で毒づきつつ、さっきの名越の話が本当なのかそれとも何かの謙遜なのか(「一位取れなかったけど二位だった」とかはちょっとありそう)、まだ脳内でぐるぐる迷いながら複雑な気分のまま前の人のあとに続いて教室に足を踏み入れる。
「…おお」
いつも使ってる教室より、一回り小さめの部屋。壁際に絵を立てかける段がずらりと設置されていて、そこに受講生の人数分のキャンバスが並べられていた。…壮観。
「はい、そっちの壁の上から一段目、向かって左が一位です。そこから横に二位、三位…と続いて二段目へ。三段目の一番右端から隣の壁の一段目へと飛んでまた左から右へと、順番に並んでるよー」
「ほぇ。みんな巧い…」
思わず知らず、素直な感嘆がそのまま口を突いて出る。
一位がどれか確かめるより先に全体を一瞥したときのぱっと見の印象が先に来たわたしと反対に、名越は部屋の壁の一点に目を据えてじっと動かないでいる。
何を見てんのかなぁとつられてその隣に移動する。…何だ、やっぱり。わたしの作品か。
自分自身の結果より先にこっちのを確認しに行くの、いつも通りの通常運転って感じだな。と内心で苦笑いしつつ、その順位をさっと見てとってほんの少しだけほっとした。真ん中よりはだいぶ上だ。
「よかった。…思ってたより全然いいじゃん」
人心地ついて冷静に観測するに、大体上から数えて三分の一くらいのポジション。どう見てもわたしよりもずっと描き慣れた、受験向けの百戦錬磨な描き手も散見される中で大健闘の結果だと思う。
ついさっきまで、名越相手に自分は美大受けるわけでもないから予備校での評価とか別にどうでもいい。と言い張っておいてこんなに安堵するのもどうなのか。でもさ、やっぱ最下位とかだったらそれはそれで凹むでしょ?人の心の動きとしては仕方のないことじゃないかな。
と自分に言い訳しつつ無言で悦に入ってるちょろいわたしの横で、名越が苦々しげに呟いた声に思ったより棘があったのでびっくりしてしまった。
「…どこがだよ。全然高くないじゃん。納得いかないよ」
え、何?自分のが一位じゃないからとか?と混乱した頭で考える。そういえば、こいつの絵がトップの方にはなかったな。それは意外だけど、一体何位だったんだ。
と尋ねようとしてそっちを向き、言葉を失った。名越の視線は紛うかたなきわたしの飛翔の絵にだけびしっとロックオンしたままで自身作の絵を探そうとする様子すらない。
やっぱり、本人の結果はそっちのけでわたしの絵の順位のことしか考えてないのか。…わかってはいたこととはいえ、本当に呆れるほど強火というか。徹底してぶれないな、こいつ。
「これじゃ、ここの予備校の講師のセンスはとてもじゃないけど信用ならないな。笹谷のすごさが理解できないなんて…。こんな才能が今まで埋もれてたのか!って驚くところまでがセットだろ。絶対美術の道に進むべきだ、何なら特待生待遇で迎えるからって熱心に勧誘してくれると思ってたのに…」
すっかり毒気を抜かれて言葉もないこちらの反応も顧みず、ただひたすら自分だけの考えに浸って大真面目な顔つきでぷりぷり怒ってる。わたしはどん引きしながらも、周りの怪訝そうな視線をひしひしと感じて何とかこいつを黙らせないと。と思いあぐねてとにかく口を開いた。
「まじであんた、買い被りすぎだよ。てか受験生向けの冬期講習ってそういう場じゃないでしょ。有力な選手をスカウトする青田刈りの試合会場とかじゃないんだからさ。生徒の方がお金出してお願いしますって絵を教えてもらう側だよ?てか美術予備校に特待生ってそもそも存在するの、普通の予備校みたいに?」
模試の成績が飛び抜けて高い合格の可能性高い生徒だと、塾とか予備校の実績になるから特別に褒賞が出たり授業料免除されて囲い込まれるとかは聞いたことがある。けど、美術予備校ではどうなんだろう。
確実に芸大に合格すると太鼓判押される人なんて正直この世に存在しそうにない。誰であろうと平身低頭、三顧の礼を以て迎えられるなんて。多分どんなにスキル高い優秀な生徒だったとしてもあり得そうな気がしないんだけど…。
と、シンプルに疑問に思ったことを突っ込むわたし。
だけど名越は些末な部分にこだわりはない。とでも言うように開き直って尚も言い張った。
「それはどうでもいいんだ、まあ予備校があんたを発見して全力で引き留めてくれたらなぁとあわよくば考えてなかったと言えば嘘になるけど。俺の言うことなんてあんた全然聞いてくれないし、こういうとこの先生に勧誘されたら説得力あるかなって期待もあった。けど、それは枝葉の話だよ」
それからますます眉を吊り上げ、普段の飄々とした表情が嘘みたいにガン決まりな顔つきになって言い切った。
「それより何より、俺はあんたの絵をみんなに見てもらいたかったんだ。美大に進学して本格的に絵をやりたい連中とかそいつらに長年教えてる講師たちとか。いかにも芸術って何か知り尽くしてると思い込んでる、自分たちが結構すごいんじゃね?と内心で自負してる人たちにほんとの本物はそんなもんじゃないぜ。と思い知らせて打ちのめしてやりたかった…。これ見て衝撃受けない、筆を折ろうかって気にならないやつらって。どれだけ客観的に自分を見積もらずに自惚れてるんだか…」
「いや頼むから。もうちょっと声、落として。…というよりも。黙って、お願いだから」
独り言めいた呟きだったから、言うほど大きな声は出てなかったのかもしれない。だけどその内容のあまりの傍若無人さと破茶滅茶さに、ちょっとでも周りのみんなに聞かれたらまじで頭おかしいと思われる。としか思えず、わたしは必死になってやつを何とか制御しようとその言葉を途中で遮った。
「よくわかんない部分もあるけど、気持ちはありがたいよ。それだけわたしの絵を評価してくれるの、さすがに名越だけだから…。けど、あんたの見る世界がそのまま他の人にも同じように見えてるわけじゃないし。何を高く評価するかは人それぞれじゃない?」
なのにこうやって、作品の序列を誰かの手で可視化されるのは受け入れるのか。と言われたらまあ、矛盾はしてる。けどここでそんな細かいとこ突っ込んでも始まらない。
「前にも言ったと思うけど、わたしは絵で身を立てていけるほどの描き手だとは自分のこと思ってないから。ここでどういう評価が付こうと別に気にならないよ。まあめちゃくちゃ低かったらさすがに凹むけど、真ん中くらいなら充分かな。だって、つまりはこれをいいと思う人も今いちだと思う人も半々くらいだってことでしょ?」
名越はまだ納得しかねる様子で、憮然としつつ小声で突っ込んできた。
「…そうとは限らない。良くも悪くもない、って考える人が百パーセントなら同じようにど真ん中に位置することになるだろ。いやあんたの絵がそうだとは思わないけどね。理屈の上では」
むしろ、上から数えた方が早いんだから。これはもしかして、トップに据えた講師が多かったのに数人があえて逆張りでどべに選びやがって、そのせいでちょっと沈んだってことかな?と腕を組んで独りごちてる。いや、そんな仮説立てても。どうせ確認のしようがないし。
「てか、わたしのことはもういいじゃん。あんたは自分のこと考えなよ。美大受けるんならこういうとこの評価だって大事でしょ?他人のよりまずそこからだろ。ちゃんと自分の絵の位置チェックしたの?」
いい加減話を逸らそうと水を向け、同時に名越の作品はどこかとざっと視線を棚に走らせる。
制作途中に描きかけの状態の絵は見たんだけどな。完成したとこを見るより先に、こいつはさっさと片付けちゃった。わたしの方が手が遅くて制限時間ぎりぎりでやっと描き上げたから、追いつかず出来上がりを確認は出来なかったんだけど…。
確か飛行機の絵だったはず。とトップから順にざっと目で追っていく。なかなか見つからず、あれどんな構図だっけ?と記憶に自信がなくなり迷い始めたところで、ようやく心当たりのある絵面にたどり着いた。…真ん中よりもちょっと下。
「えぇ。…そっかぁ…」
何でまたそんな場所に。なんかの手違いじゃないの?と文句を言いかけて曖昧に口を噤む。
そんな風にここでわたしがきゃんきゃん喚き立てるのも名越にはかえって迷惑かも。ここで評価に対し声を大にして不平不満を言い立てたりしたら、変に悪目立ちして講師の先生たちから目をつけられてしまうかもしれないし。
わたしと違って三年になってもここにお世話になる予定なんだし、あまり面倒な生徒だと先入観を持たれるのは得策じゃないだろう。こっちは後足で砂かけて出て行っても痛くも痒くもないが(もちろんそんなことしないよ?あくまで、今後接点なくなるからってだけの仮定の話だ)。
まさかわたしよりも下の順位だとは。とは口にできないが、本心から信じられない思いではある。だって、こうやって間近でつくづく眺めても。やっぱり普通に、誰よりも画力高いし本物かと見紛うほどリアルタッチで巧いし…。うん。
わたしは両手を腰に当て、やつの作品の正面に仁王立ちになりしみじみとそれを鑑賞した。飛行機が一機、晴れ渡った海と思しき水面の上を飛んでいくのを上空から見下ろした光景。
鮮やかで青々とした、細かい細波の立つ海に小さな飛行機の影がぽつりと落ちているのも叙情的でいい構図だなと思うし。画面の端に緑の生い茂った崖が描かれてるのもコントラストが効いてて色遣いもいい。…デッサン力については言うまでもなく、その辺のプロより既に上だと思うし。
けど。
…隣で描いてる名越の様子を何となく見やってるときにはやっぱりめちゃくちゃ巧いな。かっこいいし(絵面が)、何度見ても見惚れる。としか思わなかった。
だけど、そう。今探してて意外だなと感じたのは。ぱっと見ただけだとしばらく名越の絵がどこにあるか、よくわからなかったことだ。
今こうして見返してても周りの他の絵より断然巧いし、構図も色遣いのレベルも高い。なのに視界の中で浮き出てくるような、特別際立って目立つという印象がないのは。どういうわけなんだろう…。
「…夏のときもこのくらいの順位だったよ。だからまあ、驚きはないかな。俺的には」
眉根を寄せていつまでもその絵の前に齧り付いてるわたしをいなすように、背後から飄々とした声をかけてくる。そうなのか、…でも。何でなんだろう?
「どこをどう見ても。粗なんて見つからない、完璧に仕上がってる絵なのに…」
特に近くに寄って、これだけをじっと見つめてると本当にそう思う。タッチもフォルムもバランスも完璧だ。すごく綺麗に撮れたシャッターチャンスばっちりの、プロの手による写真みたい。
もちろんつるつるのスーパーリアルタッチじゃなくて、普通に絵の具の塗りあとも見て取れる油画の仕上がりだ。
…だけど、どうしてかふっと上出来なセンスのいい写真と較べちゃうときあるんだよね、名越の絵って。前に描いてた何でもない夜の街の光景とか、夏合宿のときの大樹と空とわたしの絵とか。
そんな考えが図らずも何故かこのタイミングで浮かんできて、思わず首を捻るわたしに名越はこだわりのない口調で淡々と説明する。
「受験絵画って巧い下手だけじゃないから。てか、ある程度以上巧いのは絶対条件で求められるのはそれ以上の部分だし。デッサン力とか技術だけで選考されるならそりゃどこでも一発合格できるよ、俺は?」
「それを真顔で言い切ってどこからも突っ込み入る心配ないの、まじで羨ましいよ…」
思わず小さな声で言わずもがなの合いの手を入れてしまった。名越はまるで堪えた風もなく、平然と何事もなかったようにその先を続ける。
「だけど絵づくりに関してはまた別の能力だからさ。…俺の絵は印象に残りにくいんだって。まあそれは以前からよく言われるけど」
「印象。…薄い?」
そうかなぁ、ととにかく何か反論した方がいいのか。と口を開きかけたところでうちのコースと他の二つのコースを担当してる講師三人プラス、あと二人ばかり先生らしき人たちがぞろぞろと入室してきた。
「はい、講評始めます。みんな静かに。…後ろの方の人、聞こえる?それではどっちから行こうかな。…うーんじゃあまあ順当に。…この列の一番端の作品から、前へ遡って行こうか」
わたしたちのコースの担当講師が、その場を代表して前に出て仕切り始めた。最下位の作品から遡ってトップまで、とはっきり口にしないあたり。何だかんだ言っても予備校はお客様商売だから一応気を遣ってるんだな、と苦笑いが浮かぶ。まあ、もし仮に自分がどべに選出されていたとしたら。そんな程度の気遣いじゃ全く慰めにもならないとは思うが。
じゃあまず初めの人から。と講評が始まったが、わたしたち生徒全員は暗黙の了解で該当者が誰かを探さず知らないふりをする。
武士の情けというか、明日は我が身ってこともある。自分があの立場で晒し者になってたかもと思うと、そこは見て見ぬふりで軽く流してほしいもん。
一人ひとり順繰りに講評が進んで中ほどまで来た。目で追いながらああ、そろそろ名越のだ。一体どうしてあのやたらと完成度の高い作品がよりによってよくも悪くもないと思われるほぼど真ん中の順位なのかを、きちんとした解説で納得させてくれるんだろうか。
「この人はね。…うーん、本当にスキルは高いよね。確かなデッサン力と正確にものを見てとる目がある。それはやっぱりすごい武器だよね。もしも来年の芸大の実技が石膏デッサンとかだったらめちゃくちゃ有利だと思う。…けどねぇ、まあ一次と二次両方素描オンリーってことは間違いなくないからなぁ…」
この実力にけちをつけたいってわけではないのよ。と言葉を切って、そこで何とか上手い表現を探してる間が一瞬空く。
「…もちろん、技術はいくら高くても高すぎるってことはない。高いに越したことないんだけど、絵の力ってそれだけで成立してるわけじゃないから。そこにやはり、プラスアルファなんだよね。この人の絵は綺麗にまとまってるし。いろんな意味で完成度が高いのは間違いないんだけど…」
再びそこで言い淀み、何かぴったりした評を見つけたくてしばし考え込んでる模様。
「…こんなに画力が高くて色遣いも申し分なくて端正な仕上がりなのに。ぱっと見の印象は全体の中で埋もれてしまうでしょ?例えば画力は今ひとつで綺麗にまとまってない、荒削りな作品だとしても。見てる側に強く訴えかける力があれば目立つわけで、そういう絵に囲まれるとどうしても相対的に印象が薄くなりがちかな。…なんていうのか、そう。美術館に並んでる個性の強い絵の中にある綺麗なカレンダーの写真みたいになっちゃうんだよね…」
ひど。
そこまで言う?と唖然となりながらも、確かに言い得て妙だな。これまで名越の絵を見てきて漠然と感じてた違和感をずばりと看破された気がした。…ほんの少し、だけど。
ちょっと表現がきついと感じたのか、今喋ってた女性講師の横からわたしたちのコースの担当だった男性講師が口を挟んでフォローする。
「この人の作品はいつもこっちが舌を巻くくらい上手で完成度が頭抜けて高いんだけど。ある意味それが殻を破れない要因でもあるのかなと思う。綺麗にまとまってて目に優しいんだけど、強烈な個性が出にくい、印象が弱いっていう傾向にあるんだよね。作風としてはそういうのもありなんだと思うけど、美大の受験は第一印象で刺さってなんぼだから…。せっかくのこのスキルを活かして、もっと表現を冒険してみたりこれまで描いたことのないテーマや大胆な構図に挑戦してみるといいんじゃないかな。手持ちの武器はとにかく最強だからね、破綻を恐れず今後もいろいろと試してみてください」
横で名越が僅かに頷いた気配を感じる。わたしはそっちに視線を向けられはしなかったので、どんな表情を浮かべてるのかはわからなかったけど。
怒ってるとか不満そうな反応ではなかったので、本人としてはある程度納得する部分もあるのか。とは思ったが、何だか複雑な気分だ。綺麗なカレンダーの風景写真とは、さすがに言い過ぎだろうよ…。
けど、言ってることの全てが的外れとも言い切れないのは確かだ。わたしは以前に家族旅行で行った、北海道のホテルで見た光景を思い出していた。
そこのホテルでは、本館と別館を繋ぐ渡り廊下がギャラリーになっていてその観光地のさまざまな名所を描いた風景画がずらりと飾られていた。
フロントに申し込めば買うこともできるらしく、事実いくつかの絵には売却済の印がついている。確かに自分の家に飾っておきたいと多くの人たちに思われるような、名所を美しく再現した目に優しい心和むタイプの風景画だった。
あれはやはり絵葉書とかポスターみたいな需要に近い商品だったんだろう。名越のはそれよりも一般受けを狙った理想化された綺麗さに寄ってはいないし、現実に寄った写実的絵画だとは思うが。それでも確かにどことなくあのとき見た作品群の印象を思い出さないことはない。
作者の我が前に押し出されてないというか。何処か無個性さを感じるようなところはある。本人は我が強くて個性の塊みたいなやつなのに、そこから出てきた作品群のやけにさらりとした癖の薄さは確かに意外だ。
とかつらつら考えてるうちに、あっという間にわたしの作品の講評の番が回ってきた。考えてみたら向こうは真ん中でわたしは上から三分の一ってとこだから、実際大して離れてはいないんだよね。
「えー、と。…はい、この方ね。作品を見せてもらうようになってからまだ日が浅いんだけど、なんか印象的な作風だよね。名前確認しなくてもああ、この人か。ってすぐわかるし」
皮肉かな。と思わず首をすくめてしまった。そんなことすると誰が描いた作品か周りにもわかっちゃうなとはちらと浮かばないこともなかったが、まあいいか。ここまでの生徒たちも何かとうっ。とかあぁ…とか講師のひと言ひと言に身を縮めたり妙に納得してふむふむ頷いたりしてるので、いま講評されてるのが誰なのかはどのみち隠しきれてない様子。
みんなそれぞれ余裕がなくて他人のことまで気が回ってるようでもないしね。てかこれ、作者を伏せる意味あるかな。そこまでプライバシー尊重する必要ないのでは(あとで知ったのだが、三年に進級して現役浪人混成コースになると当然作者の名前なんかそのまま、講評は全員の前で公開処刑らしい。それでも受験本番に較べれば大したプレッシャーじゃないとのこと。まあそりゃそうか。二年生の今の時点では体験コースで生徒はお客様な面もあるので、あまり初期の段階で追い詰めて逃げられても…という商業的な都合もあるのかも)…。
すぐ隣で名越が無言のままぐ、と拳を握ったのが伝わってきた。
どうやらこいつの感覚だと、一目で作者が誰かわかるほど個性が強い。と評されるのは褒め言葉に入るらしい。自身はさっき正反対のことを言われたの、どう受け止めてるんだろう。わたしの評価に小さくガッツポーズするくらいだからそれなりの元気はありそうだけど。
一方のわたしはと言えばそこまで楽観的にはなれない。言葉の上ではともかく、講師の先生の声に微かに滲むニュアンスの中に必ずしも全面的に肯定的とは言えない色が差してるのがわかる。でも、頭お目出度い状態の名越にはどうやら感じ取れてないみたいだ。
案の定、次に口を開いて先生が発した台詞はどことなく苦笑を含んでるようにわたしの耳には聞こえた。
「…多分この人は作家性が強いというか。既に創作に於ける世界観がだいぶ確立してるんだと思うんだよね。だから静物を描いても風景画でも、空想画でも似たようなタッチと空気感になる。…それはいいことみたいだけど。これから大学を受験する学生としてはどうなの?と向こうから思われる可能性、無きにしも非ずなんだよねぇ」
「…何だそれ」
急に腹の底から絞り出したようなごく低い声で呟く名越。わたしは彼の方を見ずに小さく肘で突き、周りに聞こえないよう潜めた声でそっと宥めて落ち着かせようとした。
『…いいから。静かにしてて、頼むから。まずは講評を聞かせてよ。ちゃんと外から見た自分の評価を知りたいの、わたしは』
声に込められた必死さが伝わったのか、何とかむすっとした名越を黙らせることに成功する。
しかしまじで狂犬か、こいつ。わたしの絵に関する事柄以外については淡白でゆったり構えてられるのに、性格変わりすぎだろ。いくら何でも。
「…美大ってとこは当たり前だけど、これから自分の表現の幅を広げて新しい可能性を模索するために行く場所なわけで。入学前の時点での完成度よりも、こういう描き方もできる、こんな振り幅もあるってとこを課題で見せられると評価に繋がりやすいよね。あまりにもパターンが決まってて、何描いても同じと受け取られるのは得策じゃない」
そこでお客様たるわたしたち受講生に向けて言い過ぎたかな?と感じたのか、ふと声色を和らげておどけた調子で軽く言い換えた。
「あくまでも今の時点ではだよ?実際に作家として活動する上で、画面をぱっと見ただけではっきり署名されてるのと同じくらいに誰が描いたかすぐわかる描き手って言われたら。多分君たちもそういう既成の画家がいくらでも思い浮かぶだろうし、現実にはそうじゃなきゃ頭角を表せない。ってくらいに大切な素質ではあるんだけど…」
でも、大学を受ける前の段階でそこまで作風を限定する必要はないよね。とやんわりと制してくる。
「むしろ、これからは今まで描いたことのないテーマや手をつけてない技法、手がけたことのないタッチをどんどん試してみるといいと思うよ。まだ自分の作家性はこうだと決めつけるには早すぎる。こんなこともやってみたい、あんなことにもチャレンジしたい。っていう貪欲な姿勢をアピールしていくのは必要だと思う。…大学側は受験生のそういうところ見てるわけだから。もっと新しい可能性を広げたいと考えてるかどうか、それに取り組む本気度はどの程度か。とかね」
…なるほど。
わたしは狂犬名越を肘で軽く制し続けながら、つらつらと脳内でその長台詞に含まれた意図を噛みしめた。
つまり、作家としての世界観がはっきりしてるのは一見いいことみたいだけど。右も左も分からない世間知らずな、人生これからっていう受験生が決まった作風に凝り固まってるのは美大からしたらしゃらくさいというか、あんまり好感を抱かないよ。というアドバイスらしい。
まあそれは理解できるというか、納得。確かに大学からはそう見られるだろうな、間違いなく。
講習中、わたしたちのコースの指導を担当した若い男性の講師はぐるりと全体を見回してからちょっと一瞬の間だけわたしに目をとめ、すぐに視線を外して明るく付け加えて話を締めた。
「…例えばその大学が参照する作品が一つだけなら、常に作風が似通ってるとは見破れないからそれは通るかもしれない。けど、実技の一次と二次選抜がある大学、T藝大とかね。そういうところでは柔軟性がないとか守備範囲が狭い、対応力がないと見られる危険はあるかな。どのみちこの先美術分野でやって行くつもりなら、これまで手がけてないタイプの作品に果敢に挑戦していく必要性はあるよね。そして絶対無駄にはならないし、そういう経験は」
全員分の講評が終わり、それではお疲れ様でした!また夏の講習で会いましょう、と挨拶されて今回の全てのメニューが終わった。
さっさと帰ろうとするわたしに名越も当たり前のような顔してついてくる。その背後にあの女の子(不確かな情報によれば、名越の現彼女)のちょっと焦ったそうな声が勢いよく飛んでくる。
「ねぇ、ナゴ。もう帰るの?最終日なんだから打ち上げしようよ。みんなも行くってさ」
自分と二人きりってわけじゃないんだからいいだろ、ってことかな。まあ、予防線張りたくなる気持ちはわかる。出来立てほやほやの彼女と二人でよりも、グループでわいわい言いながらの方が喜びそうなところはあるよな、こいつ。
多分モテすぎて女子のありがたみが薄いんだろうな。とどうでもいいことを考えてるわたしの耳に、本人がこともなげにあっさり断る声が響いた。
「あー俺、今日は用事あるから。もう帰るわ」
「え〜…。そしたら、家に着いたら電話して。学校始まる前に会う予定入れたいから」
「ん。了解」
振り向かずに手をひらひらさせて、すたすたと当然のようにわたしの横に並んで教室を出る。正直、こっちの背中に刺さる視線がひりひりと感じられて痛い…。
絶対誤解されてるよなぁ。と弱りつつ、そういえば今回名越はいつものやつ彼女に言ったのかな?とふと疑問が湧いた。
俺好きな人別にいるけどそれで良ければ、ってやつ。彼女ともあのあとわたしは一切話してないし、もちろんこいつとそんな個人的なこと話したくはないから細かい成り行きまでは知らない。
その口上がただ相手を引き下がらせるためのただのブラフなら、今回も同じこと言っただろうし。もしも今でもこいつが変わらず誰かに片想いを続けていて、それでも他の女の子と付き合うことに倫理的な問題を感じてないままならきっと彼女にも同じ条件を出してるだろう。だとしたら、当然わたしがその対象だと彼女が思い込んでこっちに悪感情を抱く可能性はあるよな…。
まあおそらくわたしはもうあの子と二度と会うことはないだろうから、誤解されたままでも困ることはないんだけど。それでもあんまりいい気持ちではないよな、と思いつつ一応そっと念を押す。
「…今日で最後なんだし。せっかく誘ってくれてんだから行って来たらいいんじゃないの?別に、わたしに合わせることないよ?」
名越はまるで取りあう風もなく、すたすたとわたしを導くように半歩先を歩いてけろりと答えた。
「やだよ面倒くさい。何もそこまであいつらに付き合う必要ないだろ。それに、あとでちゃんと連絡取り合えばいいんだから。四六時中一緒にいなきゃいけない理由なんてないよ」
その台詞を聞いてようやく、名越にも彼女と付き合ってるんだっていう自覚があるのがわかった。恋バナみたいにならないように相手の今の状況をそれとなく知るのも結構難しいものだ。
予備校の建物を出ながら、一方の名越はと言えばそれどころじゃないとばかりに腹立たしそうに怒り始めた。
「それより、今日の講評だよ。あんたの絵のことをあんな風に言われるなんてさ…。いつも同じだなんて、何もわかってない。『翔ぶ』がテーマのあの課題、これまでとはまた違っててすごく斬新じゃない?」
「さあ…、どうだろ。それは見る人によるかな…」
ちょっと引きつつ曖昧に答えてその場を濁す。
「あんたほどわたしの普段の絵をいくつも見て熟知してる人なら、微細な差についても目がいくんだろうけどさ。普通ぱっと見で判断したら、どれも似た雰囲気な絵だなあと思われてもしょうがないんじゃない?いちいち描く対象によってタッチ変えたりしてないって自覚はあるし、さっき言われた内容はまあ概ね妥当かな。って」
「何納得してんだ」
「だって、本当のことだもん」
わたしは淡々と特に何の感情もなくそう返した。
「美大がどういう学生欲しいかって考えれば自ずとわかるでしょ。大学で新しい可能性を見つけたい、自分の世界を広げたいって意欲がある人物の方がいいに決まってるじゃん。いやもう描きたいものは決まってるから…なんて言われたら、じゃあなんでわざわざここに来たの?って疑問持つの、当たり前だと思う。けど幸い、わたしは芸大も美大も受けるつもりじゃないからさ」
もしも芸術系の大学にどうしても行きたいって希望があるなら、わたしは今から急いで自分の作品との向き合い方を見直さなきゃならない。
でも、そうじゃないから問題はない。わたしはこれからも好きなものを好きなように、好きなだけ描いていいんだ。
だってこの絵を使ってこの先何者にもなる気はない。わたしにとって描くことは、未来永劫金輪際ただの趣味だから。
何だかいっそ気持ちも吹っ切れて、既にとっぷりと暮れた冬の寒い路地を歩きながらわたしは五月の空みたいな晴れ晴れとした気分になって笑った。
「そういうわけだから。わたしは描き方変えないよ。少なくとも今はこれまで通りにそのときどきに思い浮かんだ題材をイメージした通りに描く。他人から見て斬新かどうかなんて知るか、って感じ。…自分の中でいつか飽きて、新しい表現見つけたいなって欲求が生まれる日が来るかもしれない。でも、それは今じゃないみたいなので」
名越もわたしの絵が新味ないな、もういいやと思ったら気にせず離れていいよ。と付け加えたら速攻で否定された。
「そんなことにはならない。あんたの描く絵の全部が、俺にとってはいいよ。笹谷の内側から必要が生じてやむなく画風とかタッチが変わるのはそれはそれで楽しみだし、受け入れる。けど周りに言われて折れて変わるのは確かにやだな。解釈違いだよ、そんな風に外圧で自分を曲げるあんたは」
…厄介ファン…。
わたしの明るさにつられたのか。いやそんな簡単なやつじゃないな、きっと本人の心からの反応なんだろう。あーそれ聞いて安心した、と声に出して吐露すると冷たいアスファルトの歩道の上をやけに弾んだ足取りで進む。
「でもちょっと心配ではあったな。案外見た目によらず素直なとこもあるから、笹谷って。なるほどそれもそうだなとか言い出すから、あの講師の言うこと聞いてここで画風がらっと変えようとか、いろいろ試行錯誤してみようとかなったらどうしようかと…。さっきも言ったけど変わるのはいいんだよ別に。けど、それがあんたの中からの自発的な変化じゃないなら。やっぱ自然な成り行きがいいな。それで変わってくなら俺もどこまでもついてく。でもあんな講評真に受ける必要ないと思うよ。今はそのままでいい」
迷走する笹谷とか見たくないもん。よかったよかった、と自分で納得して頷いてる。いや迷走することだってあるよ、わたしもきっと。普通の平凡な人間ですから。
そう口を挟もうとして結局思いとどまった。どうせ、そんな先までこいつがそばにいるとは思えない。
例え二人とも東京の大学に進学したって、それぞれの環境に馴染めば自然とお互い疎遠になるだろう。
だったら何も今から幻滅するだろう未来に向けて心構えさせとく必要なんかない。そのうちわたしの絵に粘着してたことなんか忘れるだろうし、それまで放っとけばいいや。
「…さっきからわたしのことばっかだけどさぁ。あんたはもうちょっと自分のことも気にしなよ。てか、何なんあの講評ってば」
ふと思い出すとまた納得いかない気分が蘇る。一方で名越はと言えば、まるで気にしてもいない風でけろりと返してきた。
「え、俺の作品の講評?まあ、あんなもんじゃないの。前に夏の講習のときも大体あんな感じのこと言われてたし」
「何処がよ。なんか無個性だとか、印象が弱いだとか。そんなことある?名越の絵、あんなに巧いのに」
ヒーロー社会かよ。とぱっとこいつに通じるかどうかわからない突っ込みを飲み込む。え、何それ。どういう意味?とか万が一聞き返されたらそれはそれで面倒くさいし。
喋りながらやっぱり改めてふつふつと不満が湧いてくる。名越本人が受け入れて平然としてしまってるのもまた苛立ちのもとだ。
「まあしょうがないよ。巧いだけで特徴がないとはよく言われる。よく撮れた写真みたいな絵だって、まあ褒めてるつもりの人もいるみたいだけど」
まるで写真だねって。素人は平気でそう言うけど、描き手の側からすると微妙だよね。と怒った様子でもなく淡々と語る。わたしはその淡白さが焦ったく思えて、そこで遮るように口を挟んだ。
「でも、そもそも写真て普通にアートじゃん。デッサン力が高くて本物みたいに思えるリアリティがあって、何が悪いの?…てか、芸術的な写真はただのスナップと同じにはならないよ。あの光景を切り取るのも名越のセンスじゃないの」
さっき見た、広々した青い水面に落ちる飛行機の影の絵も。前にこいつが描いた何でもない夜の街の光に満ちた光景も、わたしの背中が描かれた海辺の空の風景画も。
「…確かにシンプルで派手なところはなくて、見る人にさらっとした印象を与えるかも。でも、そこがいいと思うんだよね。変に加工しない、何気ない風景をさっとトリミングして切り取ることでそこに不意に焦点が合うみたいな。…そういう衒いのないすっきりした作風の作家がいてもいいと思うんだ。少なくともわたしは好きだよ、あんたの絵。何でもない普通の景色が不意に浮き上がってきて、ああこいつには世界がこんな風に見えてるんだな。ってささやかな発見があって」
「…それは。なんか褒めすぎな気はする…。けどまぁ。ありがとう」
珍しく俯いて小声でぼそぼそと返す名越。へぇ、また新たな発見。この男でも褒められて照れることなんかあるんだ。
あんまりしつこく褒めると気の毒な気がして、わたしはやつから視線を外して進行方向の街並みに視線を据える。
「でもさぁ。自分は受験しない立場だから気楽に言うけど、難儀だね。ただ絵の巧さだけで選抜してくれればいいのに、その場で出されたお題をどう表現するかを見て判断されるなんて…。反射神経と機転が試されてない?てか、ちょっと大喜利だよね、実は美大の実技試験って」
「お笑い用語で例えられると。なんか、複雑な気分だな…」
あーあ、来年の受験まじで気が重いなあ。と嘆く名越と並んで最寄り駅を目指しながら、こうしてこいつと過ごすのもあと少しだな。受験はばらばらだし、別々の課題に取り組んでるうちにきっと疎遠になるだろうと考えてた。
思いがけなくこの一年ちょっと、何となく成り行きで行動を共にする羽目になったけど。こうやって終わりが見えてくるとそれなりに楽しかったかな、といつになく優しい気持ちになる。
まあ、絶対にそんなことここで口にはしないんだけど。それと実は名越の絵が一番好きなのはわたしかもしれない。デッサンも水彩画も油絵も、結構ずっと見てられるもん。いつ見ても何度見ても、やっぱり惚れ惚れとなる。
そういうことをいつかこいつに言ってやる機会があればいいけど。
改まってそんなことを口にするのもなんか白々しいし向こうは照れるだろうし。まあ結局はなあなあでいつの間にか距離ができて別れていく。みたいな落ちになるんだろうな。…と、漠然とした寂しさを感じながら前方に現れた駅の灯りの眩しさに目をやった。
《第14章に続く》
名越は器用で巧みだけど印象が淡くて個性の薄い作風、直織の方はスキルはともかく印象強くて世界観はっきりしてるけど、テーマの選び方に融通性がなくて受験向きじゃない。という傾向があるようです。
描きたいものを思いつくままに描くでやってきた人からすると、受験の現場で出された課題に臨機応変に対応して高評価を得るってなかなか無理ゲーに思えるんじゃないのかな。受験だけに終わらず大学入ったあとも、出される課題にきっちり対応しなきゃならないので。不器用な描き手には厳しい世界なんだろうなぁと想像してしまいます。
主人公の直織が美大受験に気が進まないでいるのもその辺がネックかと。普通に勉強で選抜受ける方が対策立てやすくて気楽、って思う気持ち。何だかわかる気がする…。




