第11章 修学旅行へGO!
修学旅行です!行事が立て続けで、何だか学園ものみたいですね。特にそういうつもりで書いてはいないのですが。
単純に主人公たちが高校生なので、普通に時系列を追って筋を作ると学校行事乱れ打ちになってしまうのでした。
というわけで東京編です。彼らは地方在住なので東京に修学旅行に来るんですね。…と思ったけど、今地方の高校の行き先で多いのはどこなんでしょう。やっぱり沖縄か、北海道、もしかして実は意外にもまだ京都?
海外は一時期に較べて減ったでしょうね。それでもまだ一定数、首都圏を行き先に選ぶ高校はある!っていう方に賭けます。さすがにゼロってことないですよね?
美術部の合宿も無事に終わり、夏休み明けの学校。
牧先生が前もって宣言していた通りに美術室の前の廊下には、合宿で描かれた風景画のうち六名の作品が選ばれて展示された。
その中にはわたしの描いたものも入ってた。それから案の定、名越のやつのも。
「はぁなるほど…。こう来たかぁ」
制作者たるわたしの目の前で、そう呟きながら微かな音を立てて何度もスマホのカメラのボタンを押す宮路さん。角度を変え絵との距離を変え、納得いく写真を撮ろうとやけに熱心に頑張ってくれてる。
もちろん、その前にわたしに撮影の許可を得てからのこと。そういうとこなかなか律儀というか、しっかりしてる。この子。
夏に美術部の合宿がある、というのは前もって彼女も知っていて、そこで描いた絵も完成したら見せてねと頼まれていた。合宿の最終日に全員分の作品を顧問が回収して待っていっちゃってたから、見せるのは返却されてからになるなぁと漠然と考えていたのだが。
わたしなんかより巧い人たちが山ほどいるうちの美術部の中から、まさか自分の作品が選ばれて掲示されるとは思わなかった。名越はまあ、ともかく。
だけどそれなら約束通り宮路さんに見せるのも楽だ。返却されるのを待ってわざわざ彼女のところまで持参して広げて見せるよりも、美術室の前に貼ってあるから時間のあるときに見て。と伝えれば済む。
だけど返ってきたLINEには、そしたら昼休みか放課後一緒に見に行かない?とあった。何で連れ立って行かなきゃなんだ。まあ、別にいいけど。
「だって、笹谷さんも掲示するって知らせを聞いただけでまだ自分で見に行ってないって話だったから。せっかくなら一緒に見たいじゃない?」
相変わらずどこか小洒落た薄手のパーカーを羽織ってさり気なく内側にメッシュを入れた洗練されたボブカット、というちょっと目立つ出で立ちの彼女。
対するわたしはと言えば、染めてもいないそのままの茶がかった髪を適当にちょっと上の位置で一本に結んだ、ポニテかどうかも怪しいようないつものスタイルに普通の制服姿だ。まあ、客観的に見ても特にお洒落とは思われない地味地味スタイルだよなぁ。
なのに最近は何となくお互いの存在に馴染んで、噛み合わないなり同士でもそれなりに友達っぽくなってきた。慣れってそんなものなのかも。
「わあ…。しかし、見れば見るほどいいなぁ。この絵も」
ひとしきりばちばち写真を撮ったあと、改めて絵の前に立って近づいたり離れたりで鑑賞してる。やがてしみじみと小声で独りごちた。
「ああ、そっか。美術部の合宿って要するに、自然の中での写生大会なんだね。だからいつもの空想画じゃなくて、現実にあるものだけが題材なんだ。…けどしばらく見るまで気がつかなかった。案外違和感ないんだね、テーマがこれだけ違ってても」
普通の風景画のはずなのに何だか空想画のときと同じ空気過ぎて。まるでこれも全部笹谷さんのイメージの中にある世界みたい、と感嘆した。
「このアップになってる草も向こうに見えてる町や海も。シュールな要素何にもないのに、不思議な独特の世界の中に存在してるみたいに見えるね。本当に何描いても笹谷さんって感じ。強いよね、個性が」
「うーん…。顧問にも名越にも、何描いてもあんただなってこの絵見て言われた、そういえば」
扱う題材の如何に関わらずそもそも癖が強いってことか。それは考えてみれば中学んときからよく言われるな、運動会の立て看とかお祭りのやつとか。
「変わり映えしないっていうか。ワンパターンってことだよね…。自分では同じに描いてるつもりはなくて、構図とか色付けとかは結構変えてると思ってるんだけどな。もっと根本的にがらっとタッチとか工夫してみた方がいいのか…」
思わず知らず、自分で描いたイタドリと海辺の町を前に思案しつつぼそぼそと声に出して独りごちていた。
それを耳にした途端、隣の宮路さんが目を剥いてばたばたと慌ててフォローしてきたので。ああしまった、うっかりぽろっと言葉にしてた。黙って脳内でだけ呟いてるつもりだったんだけどなぁとちょい後悔。気を遣わせてしまったかな。
「え。…いやいや全然。笹谷さんはそのままでいいよ!逆逆。全く違うものを違う描き方で描いてるのに、何故か笹谷さんぽさを感じるってこと。雰囲気の話だよ、絵がワンパターンとかじゃなくて」
彼女は再びわたしの作品に近づいて、触れない程度に表面に指を添えてほら、こことか。と示した。
「今までの絵に較べると、すごい細かくてリアルな描き方。丁寧に細部までくっきり描き込んであるしね。ちゃんと実物見てその通りに再現したんだってわかるよ。でもね、なんか不思議な気分になるんだ。わたしたちがいる本物のこの世界とは違う、ちょっとずれた場所にある世界なんだろうなぁって、これ」
「そう…、ありがと」
一生懸命褒めてくれてるんだな、と思うとありがたさと面映さで複雑なごにょごにょした反応になる。我ながら素直に喜べないのかって気はするけど。照れ隠し混じりに言い訳が口から溢れてきた。
「わたしのできる限りの画力で精一杯細密にリアルに仕上げようとは努力したんだけどね。やっぱり充分に時間が足りなかったのと、多少向上はしたけどそもそもあんまりスーパーリアル系の画風じゃないので…」
このときばっかは名越のスキルが羨ましかったな。まあ、あいつも普段つるつるの写真みたいに磨き上げた念入りなタッチではなくてもっとさらっと描き流すというか、あっさり洗練された画風だけど。
それでもあの腕ならその気になれば、いくらでも現実と見紛うばかりにリアルに描き込めるはずだ。
「写真っぽいスーパーリアルなタッチで描ければもっと違う効果が出たのかなと思うと力不足で悔しいよ。微妙にデッサン力が不足してるから、ちょっと非現実感が出ちゃうのかな…。そのせいで写生画なのに何となくシュールな印象を与えちゃうのかも」
「え、下手なんて全然思わないよ。むしろどんどん巧くなってるじゃん。文化祭のときのも好きだけど絶対あれより画力アップしてるって!」
宮路さんはすぐ隣に並んだ超絶技巧が惜しみなく駆使された名越の絵の方には一瞥もくれず、わたしの絵の方に手を伸べて熱心に弁護してくれる。
「やっぱり画力を向上させようと頑張って努力し続けてるんだなと見ててわかるよ。自信持って欲しいな、そこは。…うん、でも。デッサン力上がって絵がすごい上手になっても、何か通じるものがあるんだよね。空気感は一貫してるなっていうか。統一感あるんだよ、何処がどうとは説明しづらいけど」
「ああ、…そういう意味でなら。ちょっとだけ心当たりあるかも」
自分のデッサン力の向上を褒められていい気になったわけではないが、何となく彼女の言いたいところが理解できたように思えてわたしは言葉を探す。
「絵を意識して描き始めたのは多分中学入ったくらいからだけど。当然その頃は下手くそで今とは画力も技法の知識も全然違う。でも、わたしとしては当時から今までずっと同じ世界の違う場面を描いてるって感覚なんだよね。…例えば鏡とかガラスを隔てて絶対に行き来できない向こう側の世界のうちの何処でも自由に、カメラとかを通してこっちから見ることができてて。わたしはいつもその一場面を選んで描いてる。…そんな感じなの」
「へぇ。面白いね」
彼女は上体を捻ってこちらを向き、俄然興味を惹かれた様子で目を輝かせた。
「そんな風に考えて描いてたんだ。でも、納得。確かに同じ世界観のいろんな場面を見せられてる感じだもん。すごいな、わたしの感じたこと。案外的を射ていたのかも」
「多分ジャストそのまま。わたしもちょっとへぇと思ったよ、宮路さんの感想聞いて。そんなの見てる人に伝わることあるのかなって」
例えば中学のときの秋祭りの立て看とこの前の文化祭の絵、それから目の前の写生画ではテーマもタッチも全然違う。けどわたしの頭の中ではひとつの異世界からそれぞれ切り取ったシーンであって、でもさすがにそれを感知してくれる人が出てくるとまでは思っていなかった。
「だから中にはたまたま普通にこっちでも存在してる草や海や空や町の場面を切り取ったから、一見何の変哲もなく見えるこういう絵もあるし。わけのわからない金属製の魚が当たり前のように浮遊してる空間も一方にあるって感じで、わたしにとってはどっちも等価で繋がってるんだなって。…こんな平凡な普通の風景でもどことなくシュールに見えるとしたら、異世界を描くのと同じ感覚で描いてるのが多少は伝わるからなのかもね。まあ、宮路さんみたいに熱心に読み込んでくれる人の方が断然稀だから。そこまで気づいてもらえること、これからも滅多にないとは思うけどね」
しみじみとそう述懐すると、宮路さんはへへ、と笑って照れくさそうに頭をぽりぽりとかく振りをしてみせた。
「強火のファンですから。あ、でもわたしは第2号か。さすがに順番考えたら第1号の称号は向こうに譲らないとね。見たとこ彼、だいぶ推し活熱心に頑張ってるみたいじゃない」
そう言って、まるでそのとき初めて気がついたかのように名越の描いた真夏の崖っぷちと空の風景画の方を軽く指し示す。
「あたしもかなり笹谷さんの絵好きな方だと思うけど、さすがにあの熱量には負けるかも。自分が同じ推し担になってみるとつくづく実感するな。…本当に全面的にファンなんだね。てかこれ、笹谷さんでしょ?」
何の変哲もない小柄な女の子の背中の絵を指差してずばりと看破され、思わずうっとなる。
「うーん、多分まぁ。…たまたまこういう位置関係で写生してたから。風景からトリミングするのも面倒でそのまま描いたんじゃないかな…」
あのとき、適当に処理するからそのままでいて大丈夫だよみたいに言ってたくせに。いや確かに処理するって表現はしてなかったかもだけど、あの言い方からはなかったものとして画面から外すのかと普通に思うじゃん、こっちは。
だから油断して背中を見られてることにはほとんど気を回さなかった。
「無駄に画力高いから再現性高くてほんとにもう…。多分これ実際にこう見えてたんだろううなと思うときついね。姿勢悪いしまじで嫌。せめてほんのちょっとくらい美化してやろうって慈悲もなかったのか…」
ぼそぼそと納得できないまま未練がましく文句を言うと、宮路さんは笑ってそんなことないよぉ、と一応フォローに努めてくれる。
「姿勢悪いっていうか、これは絵を描いてる最中だから。ちょっと前屈みになるのは当たり前だと思うよ?全然見苦しくないし普通に可愛い背中じゃん。描いてる作者もリアルだけどちゃんと可愛いと感じたから特にデフォルメもしなかったんじゃないの。それに、ほら。この手許」
と、わたしの身体の縁からはみ出した画板の一部を指して、そこをよく見るようにと注意を促す。
「ほんのちょっとだけど、ほら。笹谷さんの描いてる絵の端っこが再現されてる。…すごいよく見てるよね、まじで彼。ここまで来るともう愛じゃない?」
「愛ではないと思う…けど、うわ。本当だ」
指摘されて初めて気がついて、少し引いてしまった。画板の上にある画用紙のほんの一部しか見えないけど、そこにばっちりわたしが描いてた絵のその部分が再現されてるのだ!あいつ、どれだけ器用で眼がいいんだ?
「わぁきも…。本物と見較べると、ちょうど該当する場所とちゃんと合ってるじゃん。あいつ、他人の後ろで観察しながら描きかけの絵も見てたのか…」
「さすがだね。推しが作品を生み出してる場面を目の当たりにしてめちゃくちゃ張り切ったんじゃないの。作品込みで作者の姿を描きたかったんでしょうね」
「はあ…、まあ。そういう絵が実際ないわけじゃないけど」
確か、同居してるときに絵を描く相方を描いてる絵ごと表した肖像画があったような。あれってゴーギャンがゴッホを描いたんだっけ?『ひまわり』だった気がするから、多分そう。逆ではない。
いや自分たちをよりによってゴッホとゴーギャンになぞらえてるわけじゃないよ?ぱっとは出てこないけど、制作中の画家の姿を描く肖像画は他にもいくつか見た覚えがある。いうほど珍しいものでもないのかもしれない。
けど、それらの絵は別に推しの画家が今しも作品生み出してるなぁうっとり、という動機で描かれたわけじゃなくて。多分制作中の芸術家ってのがシンプルにモチーフとして興味深かったってだけだと思うんだよなぁ。
名越だってもしかしたら、自分以外の誰かが絵を描く姿をつぶさに観察する機会がこれまであんまりなかったから新鮮で題材にしてみたくらいの感覚なのでは。…と、そこまで考えたところであいつと出会った頃の初期の記憶がふとつられてずるずると蘇ってきた。
「そういえば、以前にも絵を描いてるところをいつの間にかめちゃめちゃいろんな角度からスケッチされてたことあるな。…思えばあいつ、『制作中の絵描き』が題材としてツボなのかも。確かにあんまり描く機会のない素材ではあるけど…」
「え、何それ。いつの話?」
宮路さんがすぐそこで耳をそば立ててることをすっかり忘れて声に出して独りごちてしまった。案の定秒で食いつかれる。
別に隠すほどのことでもないし、と自分に言い聞かせて仕方なくそのまま事実を伝えた。
「一番最初に美術室で油絵描こうと誘われたとき。その時点では入部してなかったから(わたしの認識では)、描いてる間ずっと付き添ってもらってたんだ。けど他人が制作してるときに自分はすることがなくてずっと暇だったんじゃないの。何かスケッチブックにさらさら描いてるから、わたしの絵が完成したあとに見せてもらったんだよ。そしたらよほど描くものがなかったのか、絵を描いてるわたしをデッサンしてたみたいで…」
説明しながらも漠然とやばいような気がして、スケッチブックまるまる一冊分全部わたしをモデルにしたデッサンが描かれていたことは胸の奥にしまい込んだ。
さすがに暇つぶし故の所業としては重すぎるような。わたし本人ですらあのときちょっと引いたからな、わたしとあいつの関係の実態を知らない外側の人にとっては尚さらだと思う。
だからその辺を曖昧にした分、いかにも手遊びに一枚か二枚さらさらと描きなぐったように聞こえただろうから妙な誤解もされずに済むだろう。と軽く考えてたわたしの予想を覆し、宮路さんは驚いたように瞳を大きく見開いてからきらんと興味津々に輝きを放った。…いけない、多分確実に無駄な予断を抱かせた。
「それって。…ねえねえやっぱり、彼にとって笹谷さんって別格というか。他の女の子たちに較べて特別なんじゃない?一度ならず二度までもと来たらさすがにそれは偶然じゃないでしょう」
制作中の画家の絵どうこうよりも、ただ単にあなたのことを描きたかっただけじゃない?ときらきら目を輝かせて迫ってくる。てか、宮路さん的にはその反応でいいのか。あのお友達のこと忘れてない?
「それはないと…。てか、真面目な話あいつにはれっきとした彼女がいるわけだし。芦屋さんだっけ、あれ以来話してないけど。お元気?」
話を上手いこと逸らそうと過去にわたしに直談判に来たあの子の名前をここで出す、と。無論名越が好きな相手が別にいても告白を受け入れる鬼畜である事実についてはもういちいち言及しない。
少なくともまだ彼女との付き合いがちゃんと続いてるなら、名目上やつの隣の席は空いてないってことだから。その子を押し退けてまでしてわたしにそこに座れとは友達の立場からは言えないでしょ?と匂わせるつもりで。
だけど意外というか言われてみればまあそうか、というか。彼女は目をくるっとさせてからあっけらかんと明るく言い放った。
「あそうか、まだ言ってなかったんだっけ?あの子、もうとっくに彼と別れたよ。夏休み中だったかな…」
まじか。
という呆れたような気持ちと、まあそうなるか、やっぱりねぇ…という悟った考えが同時に沸き起こってきた。早くもそろそろやばそうな感じの呟きを休み前に名越の口から聞いてたような気もするし、どのみち時間の問題だったのかな。
「とにかく全然会えないんだって、学校が休みに入った途端。向こうは美術予備校通ってて忙しいせいでどうしようもないんだって弁解するらしいんだけど。どんなに忙しくても笹谷さんとは会ってるんでしょ、じゃあ作れば時間あるんじゃない!とか言って結局いつも喧嘩に」
えぇ…。そこでもわたし?
あんなにはっきり直に否定したのに、全然納得してないじゃん。とうんざりしながら口を挟む。
「わたしだって別に休み中あいつと会ったりしてないよ。絵画教室では顔合わせるけどそれは同じ先生に習ってるからであって、お互い相手に会うつもりでは来てないし」
「うん、彼にも同じこと言われたらしい。教室で会う以外に個人的に約束して会うことはないからって。でもそうすると、わたしはそういう機会すらないのに週に二回も顔合わせてるのずるいって言い出したらしくて…」
「え?いや、そんなこと言われてもさ」
そんな。
だったら芦屋さんも名越と同じ習い事をするとか。あそうか、いっそ美術予備校に一緒に通うってのはどうだ?…いや、あいつめちゃくちゃ嫌がりそうだなぁ。
そういうとこ割と隠さないというか。友達にはちゃんと気を遣ってるのに彼女には機嫌の良し悪しをそのまま平気で出すようなとこある、あの男。
宮路さんはさっと周囲に一応注意を払って、聞いてる人間が誰もいないのを確認してから先を続けた。
「それであの子、だったら自分も同じ教室に通うって言い出したらしいんだ。そこで顔合わせるのは自然な成り行きだから問題ないでしょって。そしたらめちゃめちゃ嫌な顔されて、絵なんか好きでもなく描きたいとも思ってないくせにそういうのやめたらって言われたって…。まあ、でもそれはそうだよね。その先生にも教室に通ってる生徒さんたちにも迷惑になるしさ」
「うーん…。そうだね」
としか答えようがない。
実際、習う気もないのに名越目当ての女の子が大挙して押しかけてきたりしたら大河原先生にも気の毒だ。いや、でも月謝はがっぽり入ってくるわけだからそれはそれか?やる気のない人に教えるのは虚しいし、そういう意味では大変そうではあるが。
どのくらいそこを割り切れるかだなぁとのほほんと考えてたけど思えば他人事ではない。芦屋さんが加わるとすれば当然わたしと同じ曜日ってことになるし、絶対空気悪くなる。こっちが敵視してなくても向こうはあんまりいい感情抱いてない様子だし。
宮路さんは肩を小さくすくめてさらに続ける。
「だったらちゃんと会う時間作ってよってもっともな要求したら、それは難しいなってあっさり言われてさ。もういい、付き合いきれないって結局れみの方が切れて終わったんだって。まあ、粘り負けだよね。会う時間なくても後回しでもいいとまでは割り切れなかったのか…。最初から本命じゃないって前提で付き合い始めたけど。心の底では納得いってなかったのかもね」
「まあ。そりゃそうだよね、人の心としては」
もっともだ、と共感してふむふむと頷く。
他に好きな人がいて自分が一番じゃなくていいと考えてのことでも、それは『最初は』だから。
付き合っていくうちに絆されて少しずつでもこっちを見てくれるようになるんじゃ…と期待するのは止められないだろう。可能性低くてもそこに賭ける、と思いきったつもりでもあまりにも変化が見られなければ次第に焦れて荒れだすってなるのはまあまあ想像がつく。
宮路さんは撮影の済んだスマホをするりとパーカーのポケットに放り込み、やれやれといった苦笑いをこちらに向けてみせた。
「そんな成り行きで結局、この夏に二人の関係は正式に解消したみたい。ま、れみの方は嫌いで別れたわけじゃないんだろうけど。あまりにも一緒にいても明るい未来に続く道が見えないもんね…。てわけで、れみの友達だからってあたしに気を遣う必要なし、心配無用。名越氏に特別に好かれてるのをわざわざ否定してみせることないよ?」
油断してほよんとした顔で聞いてたら、いきなりそんな風に矛先がこっちに向かってきてぎょっとなった。
「や。…あくまで絵のファンってことだから。そもそも彼女とはポジション被ってないし、本当に誤解だよ。それは前にも説明したはずだけど?」
あのとき釈然としてない様子だったあなたも、わたしの絵を実際に目の当たりにして納得してくれたんじゃなかったの?と含みを持たせて疑問符を投げかける。その意図が伝わらなかったとは思わなかったけど、彼女は意にも介さず平然と返してきた。
「うん、あのときはそうなのかなと何となく説得されたけどさ。今回のこの絵とか、スケッチブックのエピソードとかを知って改めて考えてみると。…もしかしてあたしが想像してた以上に名越くんにとって、笹谷さんって特別なんじゃないのかなって。絵ももちろん好きだろうけどそれだけじゃない気がする」
「そんなことないよ。個人的な付き合いとかまじでないし、お互いに」
本気で言い張るこちらの方には一瞥も向けず、宮路さんはすっと名越の描いたわたしの背中へと視線を彷徨わせた。
「それはあたしにはわかんないけど。これを見てると、あなたの絵だけじゃなくそれを生み出す存在丸ごと、笹谷さんを好いてるというか。大事に思ってるような気がするな。なんかね、目の前にあるものを何も考えずそのまま描いたっていうよりは。目線に柔らかさというか、あったかさを感じるように思えるんだよね。これ見てると」
「なんか、いつの間にかやけに絵に詳しくなってるよ?前は全然関心がなくて知識もないって言ってたのに」
そのまま言い負かされるわけにもいかず、つい皮肉っぽい言い回しで彼女の言葉を牽制してしまう。言い方に棘があったかな、と口にしてからやや後悔したけど、幸い宮路さんはさほど気に障った様子はなくつっかかるわたしの言葉をあっけらかんと受け流して済ませた。
「そこはさ、まあ笹谷さんの絵を見るようになってから。難しく考えるより感じたことを素直に受け取ればいいってことがわかってきたんで、以前よりは多少なりとも見方は理解できてるつもり。これ見てると描いた人、笹谷さんのことが大好きなんだろうなぁって思う。作品だけ好きってことないよ、少なくとも」
そんな。
「大好きは言い過ぎもいいとこだよ…。そりゃ確かに嫌いとかではないと思う、けど」
すっかり参って反応に困り、視線を逸らせてぼそぼそと口ごもるより他ない。それに。
夏休みの初め頃、フットサルの大会のときに長谷川くんと交わした会話をふと思い出してしまい浮かんだ疑念をそこで口に出してみる。
「そもそも宮路さんだって、あいつが付き合った女の子を雑に扱う畜生野郎だってことはよく知ってるじゃない。なのにわたしにあの男を勧めるの?」
そう言われると確かにそうだねぇ、と笑う彼女はもしかしたら特に深くは考えていなかったのかもしれない。
ふとそこで表情を改め、ちょっと神妙な顔つきになって考えをまとめるように一旦言葉を切った。
「…うん、でも。れみとか他の女の子たちと付き合うときと、名越くんの態度が全く同じになるとは思わないな。向こうから押しかけてきて好きじゃなくてもいいから付き合って、とか言ってくる子と笹谷さんは同等な扱いにはならないんじゃない?やっぱり彼にとってあなたは特別だと思う。…恋愛感情かどうかはそりゃあたしにはわかんないけど。それに近いような、なんかすごい思い込みと執着があるのは事実だと思うな。笹谷さんからしたら迷惑というか。知ったこっちゃないって考えるのも無理ないとは思うけどね…」
それから残暑の中、新学期が始まってただまったりと平穏な日が続く。と思ってたら考えてみれば今年は二年生、修学旅行があるんだった。
グループ分けや行き先決めなど、ばたばたと慌ただしく決まっていってあっという間に当日。夏休み中はまだ先だしとのんびり構えてて何の準備もしてなかったからまじで慌てた…。
とはいえ、班別の自由行動のルートもぎっちり計画されてるからいざ出発してしまうとあとはただ流れに乗るだけ。出発前の忙しさが嘘みたいにひたすら促されるままに新幹線に乗り、事前に決められた席に座って…とほとんどその場で考えたり何かを決めたりする必要もないのでかえって楽だ。
幸い、クラ子も含めてわたしの周りの友達はみんな世話焼きというか、まあ仕切り屋多めの構成になってるので。ぼんやりして見えるわたしみたいなやつはほら、次こっちだよ。とかしっかりついて来なとか声かけされて注意を払ってもらえるので、ほとんど問題なく現地に到着。
一日目はクラスごとの全体行動で、これもほとんど自分で判断して動く余地はない。
東京駅で降りて、そのままぞろぞろと皇居方面へ。お堀の周りをクラスごとに分かれて移動し、日比谷公園の方へ行ったり江戸城址を見学したり、北の丸公園に行って武道館を見学したり。わたし的には近代国立美術館を観覧できたのがめちゃくちゃ嬉しかった。
「いいなぁ、4組。俺らなんか何故か科学技術館だよ?いや別にいいんだけどさ。あそこまで行っといて、近代美術館に一歩も足踏み入れれなかったのまじ凹む…」
宿に戻って部屋に荷物を置き、夕食と風呂も済んでロビーを友達とうろうろしてたら早速名越に捕まった。わたしのクラスがその日美術館見学だったことは事前に知ってるから、また文句たらたらな不満を聞かされる。一体何度目だ。
「そんな後悔するくらいなら自分は絶対美術館!ってがんがん主張すればよかったじゃん。まあ、それでコース変更になるかどうかは。やってみないとわかんないけど…」
ロビーの椅子に腰掛けて駄弁ってるわたしたちのグループに近づいてきて、背もたれに寄りかかって背後から話しかけてくる。周囲からの視線をひしひしと感じるけど、疾しいことなんかないし。と開き直って堂々と突っ込んだ。
ぶうたれる名越の方に軽く振り向いて見上げると、少し離れたその背後に見慣れた姿を見つけてちょっとほっとなる。吉村もわたしの反応に気づいたようで、こっちに顔を向けてごく小さな身振りで一瞬だけ片手を挙げて合図してみせた。
どうやら、6組の男子たちがその辺に固まってたむろっているらしい。名越と吉村はどうやら特に仲良くもないみたいなのだが、共通する友人はいるらしいからかこういうとき割と近くにいることが多い。
名越は自分越しにそんな小さなやり取りがあったことには全く気づかない風で、ちょっと憤然となってむくれて言い返してきた。
「そんなんで覆るなら苦労しないよ。大体どうやってクラスのコースが決まったのかもわかんなかったし。勝手にいきなり、6組はこのコースね。みたいに一方的に発表されたんだから…」
「そういえばそうだった。うちのクラスでも」
上目遣いになって当時の記憶を手繰る。
希望を募ったり多数決を取るとかもなく、当たり前のように発表されたコースに美術館が入っててわあよかった、と普通に喜んでた。まさか行き先の割り当てがランダムで他のクラスは美術館含まれてないとこもある、とは。憤然となった6組の名越にその後絡まれるまでは思いもしてなかったよ…。
「俺の分のもいっぱい絵葉書買っといて、笹谷。俺がどういう絵が好きかはあんたならわかるでしょ」
あとで代金倍にして返すから。何ならどっかであんたの好きそうなお土産お返しに買っとくからあとで交換しようよ。とか事前にさんざんごねられた。全く、うっとうしいったらありゃしない。
「ちゃんと適当に買っといたよ、何枚も。まじで何となくこんな感じかなくらいの判断で決めたから、当たり外れあるかもだけど苦情は受け付けないから。要らないのがあったら他人にあげるとか普通に出すとかしな。…で、何。もう受け取りに来たの?部屋に戻んないと手許にはないよ。ここで早速会うとは思ってなかったし」
荷物の中にしまっちゃったよ。と素っ気なく告げるわたしに、違うちがう。と大袈裟に目を見張って否定してみせる名越。
「別に請求に来たわけじゃないよ。それは明日でいいや。持って来てよ、自由行動のときに。俺もあんたに買ったもの、持っていくからさ。そのとき交換しよう」
「は?何で明日?」
そんなん地元に帰ってからでいいじゃん。明日のグループ別行動でたまたま会えるかどうかもわかんないのに。
そこまでこっちはチェックしてないけど、もしかしたら名越のグループとわたしの班の行き先被ってるのかな?そういう情報まめに収集してそうだから(とにかく、顔と伝手が広い)、あながちないとも言い切れない。
と思ったら、やつは肩をすくめて唐突にわたしが想定もしてなかった話を切り出してきた。
「いや、その話しようと思って来たんだ。あのさ、倉橋さん。明日のグループ行動のとき、この人借りてってもいいかな?責任もって最後の集合場所まで送り届けるからさ」
いきなり横にぐるんと首を向けて、面白半分興味津々でわたしたちのやり取りを聞いてたクラ子の方に話の矛先を向ける。
その台詞の内容よりも何も、まず急に自身の名前を呼ばれて直に話しかけられた。って時点ですっかり動揺してどぎまぎしてしまってるクラ子。ちょっと、しっかりしてよ。もう。
「借りるって。えっ、と、そういうことしていいのかな?一応こっちはこっちで予定組んでるんだけど。笹谷一人だけ別行動ってこと?」
クラ子の挙動不審気味な返答をどうとも思った風もなく、けろりとして答える名越。
「いや一人にはしないよ。俺がついてるから絶対大丈夫。結構他にもいるよ、二人で行きたいとこあるからって別行動にするカップルとか。最終的にちゃんと合流すれば問題ないんじゃないの?」
「カップル…。彼氏彼女?」
もしかしてデートの申し込み?と怒るとか嫉妬するでもなく(ガチファンのくせに。こういうとこ、呑気というかクラ子という人物の善性を感じる)きらきらと目を輝かせてる。すると名越は違う違う、と慌てるでもなく平然と手を振って否定してみせた。
「いや俺たちはそうじゃなくて、いい機会だから大学見学に連れてってやろうかなと。この人一人だと、わざわざ東京の美大見るために上京したりしなさそうだし。こういうときついでにでもないと見れないだろ、T藝大」
「ああ。…そういう真面目なやつね」
ちょっとほっとした様子でクラ子は頷く。いいんじゃない、と納得してる表情を見てこっちがいらっとなってしまった。てか、何でそっちが許可出す流れになってんだ。わたしの意思とかはそもそも訊かなくていいのか?
「大学見学は修学旅行とは別に日程とって上京すると思うよ、ちゃんと。多分東京の大学受けるつもりだし。何も見ないで志望はできないでしょ。オープンキャンパスとかあるし、来年の夏あたりにまとめて見て回ろうと思ってるけど?」
そう告げるわたしの突慳貪な態度にまるで怯む様子もなく、名越は平然と言い返してきた。
「でもその場合スポンサーも一緒だろ?親つきで大学見て回るんじゃ、あんた絶対美大も見たいって言い出せないじゃん。こういうチャンスを活かさないと、なかなか藝大なんか見に行く機会ないよ。それにそもそも、笹谷そんなにお台場とかめちゃくちゃ関心あるわけじゃないじゃん」
う。
何でうちの班の明日の行き先お台場だって知ってんだよ。全く油断も隙もない男だ、と呆れつつもいきなり心の奥底を半ば言い当てられてしどろもどろに弁解するしかない。
「そんなこと、…ないから。それこそこんな機会でもないと、わたし一人じゃお台場行こうとか思いつかないし。それに、そう。修学旅行はさ、何見たかより誰と過ごすかが大事なんだよ。わたしだって、友達と行動したいから。思い出だって作りたいし…」
我ながら、なんからしくないことをいかにもって感じで言い張ってるな。と頭のどっかでこそばゆく思ったけど後には引けない。さも本当らしく大真面目に主張してたら、思いがけない方角、つまり背後からあっさりと撃たれた。
「思い出なんていつでも作っちゃる。普段からわたしたち、いくらでも一緒にいられるでしょ。それにそもそも自由行動、明日で終わりじゃないし。三日目にもあるし」
そんとき思い出作ろうよ。と急に殊勝なこと言い出したわたしを内心で面白がってることを隠しきれない、いかにも作った大真面目な顔つきでクラ子はわたしを諭す。…この、腹黒めが。
「う。…でも」
「いや倉橋さんもこう言ってくれてるし。観念しなよ、笹谷。俺が強引に連れて行きでもしなけりゃ自分からわざわざ藝大見に行かないでしょ、あんたの性格的に。でも受ける受けないじゃなくて。単純に好奇心の範疇で言えば、正直見るだけは見てみたい気持ちはあるんじゃないの?」
名越に念押しにずばりと言われて押し黙る。…そうはっきり言われちゃうと。そうじゃない、とあえて言い張るほどには。まるで当たってないってほどのこともないし…。
形勢有利と見てか名越の声が急に、わたしを上から説得するかのようにゆったりと落ち着いた響きになる。
「ただの社会見学だから。別に見たからって絶対に受けろとか言う気はないよ。入学しなくてもいいからただどんなところか一緒に見てもらいたい。てか、俺の下見に付き合ってよ。あんたはおまけの付き添いってことでいい。深く考えないで気楽に行ってみない?」
「うーん…」
まあ、すごく正直に単純にいうと。藝大ってどんなとこだろ、外からでもいいから見てみたい。って気持ちはちょっとくらいないことはない。ってのは認めざるを得ず、わたしは曖昧な声で唸った。
ふと目を上げると、わたしの目線の先のやや遠くで吉村が6組の子たちに囲まれて談笑しながら一瞬ちらとこっちに顔を向けたのが視界に入った。さっきは名越が近づいてきたわたしの背後にいたはずだけど、やつがこっちに絡んでる間に集団は移動して別のソファとテーブルを占拠してたらしい。
あの距離だとわたしたちの今してる会話の内容は聞こえるかどうか。と思ったが、目が合った瞬間どうやらこっちの状況は把握してるらしいのが何となく伝わってきた。その目に何か言いたげな色が浮かんでいることも。
『…せっかくだし行ってくればいいじゃん。本当はちょっとくらいは興味あるんだろ?』
多分こんな感じ。と読み取り、こちらからもわたしなりに目に感情を込めて意図を伝えようとする。
『うーん…。でも、どうせ受けないのに。そこまでする必要あるかなって…』
『進学する予定ないなら余計にいい経験じゃないか?どうせ受験するならこの先どのみち見ることになるけど。そうじゃないなら何かのついでに誰かが案内してくれるチャンスが来たら、それに乗っかれば?』
わずかな頷きや小さな身振り手振りで、周囲の誰にも気づかれずに言外にそんな風なメッセージを送ってくる吉村。なるほど。
細かい言葉遣いはともかく、概ねそんな考えらしい。つまり、わたしが名越と連れ立って大学見学に赴くこと自体特に問題があるとは感じていないようだ。
だったらまあいいか、とわたしも割り切った。
傍から見てあいつら二人でここぞとばかりにどっかへ消えて、やっぱ怪しいよな。大学の下見なんてただの口実で実は出来てるんじゃない?とか思われるのは心外だって気持ちもあった。けど、吉村がそういう目でわたしたちのことを見ないんなら。他の関係ない野次馬のことまでは別に考えなくてもいいかな。
わたしは頭上からこちらを見下ろしてる名越の顔を下から見上げ、きっぱりと思いきりよく返答した。
「わかった。行くよ、明日。どこ見に行くの?T藝大ってことは、つまり上野辺り?」
わたしのその問いかけに、ぱっと目を輝かせたかと思うとみるみるうちに顔を綻ばせる名越。
こいつ、出会った最初の頃は何考えてるかわからん胡散臭いやつだってイメージが強かったけど。付き合い長くなって改めて考えてみると、案外わかりやすいというか感情は割とそのままストレートに表に出るタイプなんだよな。
軽くてチャラくて異性関係いい加減だけど、実は女好きでは全然なくて重度の厄介美術オタク。そうとわかれば何一つ不可解でもミステリアスな人物でもなく、行動原理や考えてることもすかすかにわかりやすい。てか本人に隠す気が全然ない。
これはこれで得難い率直さなのか、と半ば諦めの境地で考えてるわたしにやつはこの上なく上機嫌な面持ちで答えてきた。
「そう。本当はT藝大だけじゃなくT美も見たいなあと思ってるんだけど、結構離れてるんだよね。自由行動の時間内に両方見るのはきついか…。そしたら、上野公園てめちゃくちゃ美術館と博物館あるから。ついでに一緒に見て回る?どっちがいい、二つ美大梯子するのと?」
「それは断然美術館めぐりでしょ…。てか、あんた。T美も受けるの?O芸大じゃなくて?」
脳裏にT藝大とO芸大原理主義者の顔が浮かぶ。正規の教員じゃなくて講師だし、今回の修学旅行にはもちろん同行してないけど。
あの人の価値観からすると、在京の美術系私大って評価の対象から外れるんだろうか?まあ、『牧セン』がどう考えるかで名越が行動を変えるとは全く思わないけど…。見かけほど悪い人ではないのは確かだが、少なくともこいつからの尊敬はまるで勝ち得てないからな。
まるでわたしのその問いかけが意外だったみたいに名越はちょっとだけ片眉を上げた。
「え、だってせっかくだから東京出て来たいじゃん。あんただって大学は上京するつもりなんだよね?美大じゃなくて普通の大学志望だとしてもそれは決定事項だろ?」
「まあ…。親の収入が今より減らずに、ちゃんと希望の大学に合格できれば」
二年の今の時点でそれを決定事項と言えるどうか。でも確かに地元に残ることはあんまり考えてないし、そういう意味ではこいつと同じか。
今の家から頑張れば通えなくはない範囲にも、同じくらいのランクの大学あるじゃん。と突っ込まれると困ることは困るんだが。それでもこのタイミングで東京に出ないと一生出られないかもって気がするからやっぱりここは外せない。名越にとっても、東京の美大を目指すのってもしかしたら同じような意味合いがあるのかもしれないな。
わたしのごもごもした自信なげな返答を聞いて、やつは何故か得意げに胸を張った。
「だろ?だったら俺も東京に出るよ。一緒なら力強いだろ、知らない土地でもさ」
え、何その言い草。あんたが上京するのはわたしのためだとでも言いたいの?
そもそも自由が欲しくて親元を出てくるのに、何でわたしが見知らぬ土地で頼りない心細い気持ちになると思うのか。それは余計なお世話というか、先入観による決めつけじゃないの?と言い返そうかと口を開きかけたけど思い直してやめた。
ここで衆人環視の中、大っぴらに喧嘩するようなことじゃない。大体まだ二人ともすんなり東京の大学に進めるかどうか、そこからして何の保証もないんだし。
「まあ。…今からそこまで考える必要もないけど。まずはお互い志望校に受からないとだし」
「だよね。だから明日、モチベーション上げに行こうよ。上野いいよ、西洋美術館も都美館も上野の森美術館もあるし」
美大志望者にはたまんない土地柄だよね。とうきうきと付け加え、にこやかにクラ子に挨拶してから自分のクラスのグループへと戻っていく。
やつが手を挙げて合流していく集団の中には吉村の姿もある。みんなが名越に笑って声をかけ、その賑やかさにつられて周囲から6組の女子も集まってきた。
吉村も周りから話しかけられて笑顔で応じてる。会話中だから視線をこっちに向けることもなく、その横顔からはさっきのわたしたちのやり取りの後半部分を聞いてたのかどうかはまるで判断がつかない。
わたしが名越と一緒に上京するつもりみたいに思われたかな。いやちゃんと聞いててくれたら向こうが一方的に言い出しただけで、わたしもそれに同意したとは受け取れないはず。
誤解を受けるような話の流れではなかったよね。引っかかる部分があれば吉村なら忖度なくこっちに直接問いただしてくれるだろう。と考えることにして、わたしはひとまずその件について考えるのを止め、明日の行き先について相談を始めたグループの子たちの会話にとりあえず耳を傾けた。
「へえ。…ここが上野かぁ」
駅から降り立って公園口へ。ぱっと視界が広々開けて、思わず弾んだ声が喉から溢れる。
「なんか、気持ちのいい場所だね。東京なのに思ってたより緑がめちゃくちゃ多い…」
横断歩道を渡り切って公園に足を踏み入れるわたしが嬉しそうなのでどうやら名越も機嫌がいい。縦横無尽に前や後ろを横切る人々からわたしを庇うように気を遣いつつ、目を細めて相槌を打った。
「恩賜公園だからな。逆に東京ってこういう広範囲な緑地多いよ。昔からきっちり手厚く保全されてるから、案外自然に恵まれてる。木のサイズ見ればわかるよね。これ、戦後とかに植樹された育ち方じゃない。地方の方がよほど、ここまで整備された歴史ある広い緑地ないよ」
確かに。
人の手の入らない雑木林とか自然の山とかは街からちょっと奥に行けばあるけど。ここはずっと長い時間をかけて手入れされた歴史の重みみたいなものを感じる。想像してたよりもここの空気、ずっしりとした威厳がある。
「結構混んでるね。今日平日なのに。なんか、お祭りのある日みたい…」
「まあ。この辺は普段からこんなもんだろ。東京でも有数の観光地だしね。てか地方から来た人だけじゃなく、首都圏在住の人でも何かと普通に見に来る場所だから。美術館博物館だけでなく、動物園もあるし」
きょろきょろ物珍しげに辺りを見回してるお上りさん感満載のわたしを馬鹿にするでもなく、ほら前に気をつけて。と誘導しながら慣れた様子ですたすたと人の間を縫って歩みを進める名越。
「入り口にどーんとあるこれは文化会館。音楽ホールだよ。それからあっちに見えて来たあの特徴的な建物、あれが国立西洋美術館。ル・コルビュジエの作品だってのは有名だからあんたも見たことあるだろ。庭にロダンの彫刻のレプリカがあるのも写真とかでよく見るよね。…ここは常設展もさすがの充実ぶりで見応えあるよ。外からだけじゃなく、中もじっくり見たいからあとで大学見てからもう一回来よう」
休館日じゃなくてよかったよな、たまに定休じゃないイレギュラーな休館あるから。と解説しつつ足は止めずにわたしをせき立ててせかせか美術館の前を横切っていく。こいつ、元こっち出身か何かか。めちゃくちゃ慣れてんな。
「上野駅からだと結構歩くことになるけど、公園の中突っ切って行けば少し短縮になるよ。要は国立博物館との間の道に辿り着けばいいんだろ。…しかし、人多いな。ここの広場っていつなら空いてるんだろ。美術館も企画展示の内容によっちゃ平日でもめっちゃ混むしな…」
「名越って。もしかしてこの辺、何度か来てる?結構詳しいの?」
すたすた歩くそのスピードに追いつこうと足を早めながら息を切らして尋ねると、わたしの様子に気がついてやや歩幅を緩める名越。
「詳しいってほどじゃないけど、何度かは来てるな。子どもの頃から親が東京に用事あるときは一緒に連れて来てもらったりしてたから…。ほんの小さいガキの頃は動物園と科学博物館、もうちょっと大きくなってからは国立博物館とか西洋美術館とか。中学んときは一人で都美館と上野の森を梯子したりしたよ」
「はえーすごい。わたしなんか東京自体初めてなのに…」
思わず率直な感嘆が口からぽろっとこぼれてしまう。え、まさか一回も東京来たことないの?とか驚かれたり笑われるかな。とちょっと身構えたけど余計な警戒だった。少し考えてみればこいつがそんな瑣末な理由で他人を煽るようなことするわけない。
何気なくあっさりと、わたしのコンプレックスを弾き飛ばすようにその台詞を流した。
「首都圏以外の地方に住んでる日本人の大半はそりゃ、用事でもなきゃ来る機会ないだろ。あっち出身なら普通だよ。うちは親が仕事の都合でこっちと地元を行ったり来たりだからさ。ついでに同行させてもらって、いろいろ見て回ったりしたことが何回かあったんだ。上野は特に、美術館がこんなにいくつも集まってる場所他にはそうそうないからね」
「はえ。充分すごいじゃん、それ」
「すごくないよ。少なくとも俺はただ、親の都合に乗っかっただけだから。これから先、あんたが自分の力でこっちの大学へ進学したらその方が断然すごいよ」
適当に調子を合わせてるんじゃなく、本心からそう思ってるような生真面目な声。それを耳にしてそれ以上謙遜を重ねる気になれず、わたしは大人しく黙った。
名越はわたしの前に立って人波をかき分けてずんずんと広場を横切りながら、こっちの反応に構わずさらに付け足す。
「自力と他力じゃん。手に入れたときの価値は較べものにならないよ。それに、実際に二年後進学で東京に住むことになったらあんたにとってもこの環境は普通に当たり前のものになるよ。自分でも意外なくらいあっという間にすっと慣れると思う。上京して半年もすれば、まるでここが地元みたいに平然として闊歩してると思うよ、この辺を」
「…わたし。藝大受けるつもりないんだけど。受かる可能性もそもそもないし…」
やけに自信たっぷりに言うけど実感湧かない。こいつは何なのか、自分だってそんな経験あるわけでもないだろうし。未来視?
それにまず、上野って他の大学あったっけ。多分あるんだろうが今のところ志望校の範疇にはない。だから、この辺が将来わたしの庭になるって予言はさすがに眉唾物では。
名越はまっすぐに前方に視線を据えたまま、わたしのうだうだした異議を気にも留めず軽く片付けて済ます。
「別にここがホームタウンになるっていう話じゃないよ。東京のあちこち、どこに行ってもここは自分の街だなって自然に思うようになるってこと。地下鉄の使い方も覚えて土地勘もついて、気軽に東京のどこへでも足を伸ばすようになる。それにさ、ここに住まなくても藝大に進まなくても。東京に住んだら俺らにとって上野は外せないよ?公立の美術館三つもあるんだよ、そりゃ自然と足繁く通うようになるって」
「そうかなぁ…」
わたしはやつの背後で一生懸命てくてくと足を動かしながら疑わしげに呟いた。
T藝大に進むか、でなくてもT美かM美(J子美は。…ないな。少なくとも名越には無理だ)に進学するつもりのあんたとは違って、大学生になったわたしは今よりもっとずっと絵から遠ざかりそうだし。
忙しさにかまけて美術館からも足が遠ざかったりして。…いや、もちろん今の時点では片っ端から首都圏の有名な美術館制覇していくつもりではあるよ?でも、日常の多忙さに流されて自然と好きなものに打ち込む暇もなくなって、そういえば美術展ずっと行ってないな。せっかく東京の大学生になれたのに…とかしみじみするほど理想から離れていく可能性はないとは言えないかも。
…そのときはそんな風に、名越の根拠ない未来予測を半信半疑で受け取っていたものだが。
実際に東京に住むようになって何年か。まるで生まれたときからこの土地にいるように、水を泳ぐ魚のように何の気なしに自在に街を行き来してる自分がいて、ふとあのときの名越の台詞を思い出して時折苦笑することがある。
どうして住めばあっという間に自然に馴染む、ってあんなに自信満々に断言できたんだろう。理由はわからないけどいつの間にか彼の言った通りになった。自分でもあっけないほど素早く東京に慣れてここの空気に簡単に溶け込んだ。
つまりは、それがこの土地の魔力なんだろうな。日本のあちこちばらばらな場所から来たものに違和感を感じさせないまますうっと吸収して飲み込んでしまう。そういう土地柄だからこそ、日本の中心の巨大都市になれたんだと思う。
何回も来たことのある名越は肌感覚で漠然とそういうことがわかっていたのかもな。…と、そんなことを上野辺りにふらりと訪れるたび、初めての場所で感じ取った独特のあの空気感とともに今でもふと懐かしく思い出す。
広場を抜けてから初めて見る国立博物館の建物の壮麗さに圧倒されつつ前を素通りし、てくてく歩き続けてようやくT藝大の前までやってきた。
「…これがそう?外からだけど。やっぱ、だいぶ建物古いね」
「今日は普通に開いてるだろうから中に入れるんじゃないかな。正門ってあっちか…」
塀の外から建物を見上げ、ぶつぶつと呟きつつ入り口を探して進む名越。わたしはちょっとどぎまぎしながらその背中を追って足取りを早めた。
「うわ、ここが正門だ。すごい歴史ある感じ。…かっこいいなあ、さすが」
スマホ取り出して何枚も写真撮ってる。あの調子じゃそこに立って、とか言って門の前で記念写真撮り始めかねない。人影は思ってたより少なくてわたしたちの振る舞いを気に留めてる人もいなそうだが、それでも悪目立ちしそうでひやひやしてしまう。
「じゃ、行くか」
ひとしきり写真を撮り終えて、振り向いてこっちを手招きする名越。まるで気後れする様子もなく平然と足を踏み入れようとする態度にわたしは怯んで思わず問いただした。
「…中入るの?やっぱり」
門の外から見るだけでいいじゃん。とアウェイの空間にびびってるわたしに、やつはこだわりなくけろりと答えた。
「別に警備員も立ってないし。俺らも今日は私服だから、見た目その辺の学生と変わんないよ。誰も他人のことなんか気にしてないから大丈夫。さっきからここでばちばち写真撮っててもこっち気にしてる人全然いないし」
それは本当。中途半端な時間帯だからなのか、五月雨式に通過していく数少ない人たちもまるでわたしたちに視線も向けない。せかせかと、あるいはのんびりと。それぞれの世界に没頭してる様子で周りを気にせず歩いていく。
「ざっと中通過するだけだよ。雰囲気見たら帰るから。ね?」
そう言って門の中へと促そうとする。そこで立ったまま押し問答してる方がよほど目立つと気づき、わたしは渋々それに従った。
結果的に言うと、特に何の問題もなかった。誰もわたしたちのことなんか気に留めてる様子も見せない。
通り過ぎる学生や、年配の人たちは教授とか講師なのかな。集団で楽しそうにぎゃはは、と盛り上がってる人たちもいれば忙しそうにせかせかと速足でどこかへ移動していく人たちもいる。つまり、わたしがそこでどういう感想を持ったかと言えば。…普通だ。
「…別に、いかにも芸術家ですっていう見た目の人はいないね。意外とみんな、なんかその辺の大学にいそうな感じ」
すれ違う相手には聞こえないよう、極限まで声を落として名越の近くにまで寄って囁く。
「もっといかれたやばい感じの人ばっかなのかと思ってた。アートのためなら何でもしそうな。服装が奇抜だとか言動が突飛だとか、目がいっててずっとぶつぶつ一人で喋りっ放しだったりとか」
「失礼な。藝大生だって別に普通の大学生だから。普通の服着てるし友達もいるし、奇天烈な行動の孤高の芸術家ばっかじゃないよ。まあ一般の大学よりは、もしかしたら全体の中の数パーセントくらいは。ちょっとエキセントリックな人物が混ざってないとは言い切れないけど…」
「へえ。だったら楽しみ。今日一人くらいは見られるかな、漫画とか映画の登場人物みたいなアートな変人のひと?」
しかし残念。すれ違う学生たちも先生たちも、うわ何だあいつ。とどん引きになるほど異様なのは全然いなかった。
だけど、絵の具だらけの作業着や白衣を着てる人たちはちらほら。やっぱり制作活動は汚れるからな、あんまりびしっと綺麗な格好でお洒落してる学生はいないのかも。と納得して歩いてたら、向こうから頭の天辺から足先までばっちり作り込んだ何かのキャラのコスプレをした女子二人組が平然と談笑しながらやってきて通り過ぎた。周りの人たちも全く気にせず振り向きもしない。よくわからん空間だ。
「この建物は中央棟だって。あ、あっちが絵画棟か。油画科だったらきっとここに通うんだな。…これは何?彫刻棟?」
「金工棟とかもある。総合工房棟って何だろ。いやめちゃくちゃ広いね!そして古い…」
もう歴史しか感じない。とため息をつくわたしに名越は苦笑して軽く宥めた。
「そこがいいんだろ!下手に改築とかしたら雰囲気台無しだよ。日本に大学に金を注ぎ込むほどの余裕がない時代でよかったぁ…」
そうかな。そこはやっぱり、ぴかぴかな方が結局普段使ってる人たちからしたら快適だしありがたいのでは?
人目も憚らず建物の中にずんずん入って行かれたらどうしよう、とちょっと怯えたが。名越も意外にそこまでの度胸はなかったらしい。
「今日はオープンキャンパスでも何でもない普通の日だからな…。学生さんたちの邪魔にならないようにひっそりと見て回らないと」
まあ雰囲気は大体見れたし。と言ってキャンパスを後にし、外部からも入れる一般に開放された売店と画廊へと移動する。
画材や美術本などの書籍だけでなく、学生がデザインしたグッズや絵葉書など一般客向けのお土産品が多く置かれていた。やっぱり芸大ってどんな場所だろ、と興味本位で見に来る人が結構いるんだろうな。まあ気持ちはわかるし、ってそれはわたしか。
小洒落たセンスのアート感溢れる可愛い猫柄の手拭いなどを試しすがめつしていたら、横から名越に腕を突かれた。
「ほら、あれ。…全部学生の描いた絵だよ」
売店の隣のスペースが画廊になってる。壁にずらりと学生の作品が展示されていた。
よく見るとそれぞれに値段がつけられていて、売約済みの札が貼られているものもある。そうか、これ。
飾ってあるだけじゃなく、もう商品なんだ。学生のうちから絵を買い付けてもらえるチャンスがあるんだな。
そう思うとやっぱりすごい環境なんだと実感する。学生のうちから購買対象になれるのって、T芸大っていうバリューあってのものかもしれないし。まあわたしは他の美大のこと知らないから、案外T美やM美の人たちの絵もざかざか売れてるのかも。てかこの景気だし、それは人によるのか…。
張りつくように近づいてじっくりと一つひとつの絵を見て回ってる名越につられて、わたしも反対側から順番に展示されてる学生の作品を見ていく。
「…さすが。個性的だなぁ…」
ぽろっと感嘆が口から溢れる。
個性的って、要はものは言いようだけど。失礼ながらピンキリというか、いやキリは酷いな。単純にこっちの好みの問題なのかも。
けど、うわぁこれはすごいな、本当に学生の作品?って思うほど完成度の高いプロっぽい絵もあればアマチュアの学生の上手な絵って印象のものもある。美術部の生徒の絵がすごく上手くなった延長線上っていうか。
思わず視線が吸い寄せられてずっと見惚れちゃう完成度の高い作品もあるけど、一方で作者はふざけてんのか?っていうくらい遊びが全面に出てるのもあるし、本当に玉石混交でいろいろだ。もちろんここで売りに出されてる時点で学生の中でも上澄みの方なのは間違いないんだけど。
そんなことをつらつら考えて、あ、これ好き。とか呟きつつあちこち見てるわたしの横で不意に、何故か我が意を得たりとばかりに得意げに名越が独りごちた。
「…やっぱり、藝大とはいえ学生は学生だよね。さすがに笹谷よりもすごいって思える作品はないかぁ…。ま、そりゃ仕方ないよな」
「いやわたしが越えられない壁みたいに言うのやめて。ただの高校生だし、美術が専門でもない普通の素人だから」
こいつの親馬鹿、いや親でも親類でもないから何て言うのが正しいのか。身内贔屓に目が曇ってるの、ほんと酷いな。
「客観的に考えて。絶対にここに入れないレベルの一般高校生の絵が天下のT芸大生の選り抜きに勝てるわけないじゃん。勝ってるとあんたが思うなら、それは基準が世間の人と根本的に違ってるの。名越の見る世界と普通の美術関係者の見てる世界がすごくずれてるだけなんだよ」
声を落として懇々と諭す。幸い今、周りに人の耳がなくて助かったけど。あんな無作法な呟きがT芸大関係者の誰かに聞かれたらと思うと…。何て世間知らずな思い上がった高校生だと呆れられちゃう。
しかもこいつが思い上がって鼻高々なのは自分自身の腕じゃなくて、他人のわたしの絵についてなんだから。傍から見たら何で?と混乱すること間違いなしだ。
今日はちょっとあたおかな芸術家たちをわさわさたくさん見られると楽しみな気持ちもありつつここに来たけど。結局一番いかれてるのは高校の同級生に入れ込み過ぎて客観性をすっかり失ってるこの男だと改めて認識した一日だったな、と半白目で思うわたしを連れて次にやつはT藝大付属の美術館へと移動。
すごいな、大学の美術館があるんだ。しかもこれ、一般に普通に公開してるやつ。HP見るとちゃんと企画展もやってるみたいだし。
と感心しつつ名越のあとにくっついて入館。その日開催されていた企画展示はわたしが初めて名前を知ったある作家の業績をまとめたものだった。どうやら大学で長いこと教鞭をとっていて、この度退任するその記念でってことらしい。
「さすが藝大。教えてる先生もちゃんと、制作活動してるプロなんだね」
こんなこと言ったら何だけど、さっきの画廊で見た学生さんの作品に較べると圧倒的に完成してる。普通に美術館で見るレベルのやつだ。
名前を覚えといてあとで検索しないと。と考えながら小声で独りごちると、耳聡くそれを聞きつけた名越に速攻突っ込まれた。
「どっちかと言うと大学の先生が制作活動してるというよりも、作家が大学で教えてるって形だろ。…けど、この人の作品がこれだけまとめて展示されてるのさすがに初めて見たな。…へぇ、初期はこんな作風だったんだ。近年とだいぶ違うな」
年代順に並べられた絵を時系列に合わせて順繰りに見ていく名越。何の気なしに呟いた言葉を聞いてわたしは仰天した。
「名越、この先生知ってるの?これまでに作品見たことあるってこと?」
そんなに有名な人なのか。わたしもそこそこ美術館とか行く方だと思ってたけど、思えば現代作家はほとんど意識して見たことない。美術館で展示があって、たまたま視界に入ったとしても(そしておぉ結構いいじゃん。と好感を持ったとしても)すぐに作者の名前を忘れてしまう。
気に入ったその瞬間はあとでこの作家のこといろいろ調べてみよう、と心に決めるのになぁ。そうやって忘れてきた作品がいっぱいある。まあアマチュアの美術好きに過ぎないわたしの知識なんてそんなレベルだと言えばそれまでか。
しかしそう考えるとやはりこいつの美術オタクぶりが光る。多分知る人ぞ知る高名な作家さんなんだろうが。それでも一般の人が皆知ってる、というほどのこともない大学教授の作風まで網羅してるのはさすがに半端じゃない知識量だ。
半分引くくらい感心してるわたしを横目に、やつはこともなげにひと言で片付けてずんずんと隣の展示室へと移動していった。
「一応、藝大の油画科の教授レベルならね。普通に作家活動してて個展を開いたりする人だと、それなりに視界に入るから。けどもちろん大して詳しくはないよ?一応ひと通りは見知ってるってだけ…。へぇ、ちゃんとインスタレーションとかもやるんだ。割とクラシックな作風だと思ってたからこれは意外かも」
やっぱ芸大の油画の先生だと、学生にもやらせるから自分も手がけないわけにはいかないんだろうなぁ。と何だか感心している。わたしは広々とした真っ白な部屋に設置された、謎のギミックめいたシステムを目の当たりにして呆然と呟いた。
「…インスタ。レーション?」
某SNSと軍用食糧が脳内で悪魔合体する。…絶対違う、と頭の中で自分に突っ込みを入れてるわたしがあまりにも合点のいかない顔つきだったのか。名越は辛抱強く丁寧に説明を加えてくれた。
「そこから見ててもわかんないんだ。印あるだろ、ここに立つんだよ。それでほら、そのボタンを押して。…こっから覗き込むと、ほら」
「ああ。…ほんとだ、なんか見えてる」
小さなピンホールみたいな穴に目を当てると、中でスライドのような画像がぱっぱっと切り替わって移ろっていくのがわかる。色彩が鮮やかに明滅して、網膜にその印象が焼きつく。
「…すごい、綺麗だけど。これはどういう意味?」
「さあ?…何だろな。写真はだいぶ昔のを使ってるみたいだけど。昭和とかの頃かな…」
◯◯の記憶的なタイトルが添えられてる。と、部屋の反対側にも同じような装置があってそちらは塗り潰されたような暗い重い色合いの写真だ。どうやらこの二つは対になって成立してるものらしいが。
「抽象的だね。…これがインスタレーション?」
「向こうの展示もそうだよ。この人、俺は絵画のイメージしかなかったけどこういうのも作るんだな。もともとやってたのかもしれないけど、もしかしたら大学でこの手の表現と接点が出来て幅が広がったのかもしれないね。だとすると、作家が教壇に立つのって案外本人にとってもプラスの効果があるもんなのかな。一人でこもって制作してたら思いつかないようなものに出会える可能性があるから」
なんかしきりに感心してる。けど、微妙にわたしにはぴんと来ないかも。
「…やっぱり、大学って。絵ばっかり描いてても駄目なとこ?先生だけじゃなく学生も」
こういうの作る課題もあるのか。と考えつつ、隣の展示室へ移って部屋全体にぶら下がってゆらゆら揺れてる長さとりどりの細い白い線を下から見上げる。
「これはどういう意図で作ってるものなのかな。…何なんだろ。まあ、何となく。綺麗だけど…」
「綺麗だと感じるならそれで全然いいんじゃない。なんか、こっちに書いてあるよ。…ほら、耳を澄ますと微かに低ぅく流れてる音楽があるだろ。その振動で揺れが制御されて。で、これ自体は初期に作者が描いたシリーズのコンセプトを立体で表したもので…」
そこに書かれていた作者の過去作のシリーズ名はさっき見たばかりだからわかる。わからないのはそれをわざわざこういう形に再編し直したことで。
「若いときに繰り返し制作してたテーマを歳いってから解釈し直して違う形にリメイクすること自体はまあ、あるんじゃないかなと思うよ。だけどよりによってわざわざ、元の形よりも全然わかりにくくすることはないじゃん…。あっちにあった絵画でなら、なんか作者の表現したいことがすーっと伝わってくる感じがするんだけど。こうやって小洒落たハイセンスな形式になると、何だか綺麗だね。って見た目のインパクトでとりあえず満足しちゃう感じ…」
「うん。まあ、あんたにはしっくり来ない感じは何となくだけどわかるよ」
ちょっと苦笑しつつもやんわりそう言われて、はっとなって我に返った。何言ってるんだわたし、偉そうに。
「いやごめん…。考えてみたら何だか上からだね。芸大で教えてるレベルの作家さんの業績なのに。自分が個人的に理解できないからって文句つけてるみたいで」
単に自分の無知と無教養が原因でこの作品の良さがわからないだけだし。たまたま周りにわたしたち以外の人がいなかったからよかったものの、誰かこの作家さんの関係者が耳にでもしようもんなら。めちゃくちゃ眉を顰められてもおかしくなかった。
美術のことなんもわかんないくせに勢いで適当なこと言っちゃって。と恐縮するわたしに、名越は慰め顔で親切にフォローしてくれた。
「別に謝ることない。感性は自由だし、ここで聞いてるのは俺しかいないんだから誰に失礼になることもないよ。気を遣って言いたいこと押し込められるんじゃ、傍で聞いてる俺も面白くないし。それに笹谷がそう感じる理由も何となくだけどわからないことないもんな」
優しい声でそう言ってから、頭上でゆらゆらし続けてるその作品を改まって見上げた。
「もちろん俺も絵は好きだけど、まあこういうの興味深いかそうでないかで言えば結構面白いじゃんって思ってる、実は。だから美大みたいな空間にいれば俺もこういうのやりたくなるかも…。いいものが出来るかどうかはわかんないよ?ただ、美術やってる人に囲まれて前衛的なものみんながやってたら俺もやろうかなと自然に思いそうだなってくらい。そっちを本筋にはしないだろうけど」
「まあ。あんたくらい絵が巧ければね…」
単純に持てる才能を活かさないのは勿体ないだろう。けど。
「名越なら器用だし頭もいいから、小賢しくいい感じにこういうのまとめそう。てか、これって美術ジャンルの大喜利だよね。発想と表現の斬新さで意表を突くというか」
「褒めてるつもりかもだけど。圧倒的に『小賢しい』が余計だと思うよ…」
不服そうに呟く名越を横に、わたしはゆらめく謎の構造物を前にして佇みつつ何となく自分の中の違和感の正体がわかったような気がしてきた。
これはこれで面白さがあるし、こういう表現方法があるんだ。と目から鱗な思いだけど、なんか鑑賞してるときに頭の中で使ってる部分が絵画とは違うような気がするんだよね。
もっと知的というか。言葉とか理論を操るときに使う場所が動いてる。それが悪いとは思わないけど、絵を見て感動するときはもっと、本能的というか。動物みたいな深い、普段は触れない部分に届くような…。心のずっとさらに奥の方。
だからもし仮にわたしが美術系の学校に通ってこの手の課題にチャレンジしなきゃいけなくなったとしても、美術的本能の部分を使ってこれに取り組める気がしない。普段勉強とかで使ってる浅い表面の場所で適当にそれっぽくこなしちゃいそうで…。でもそれって、ほんとに美術的体験といえるのか?
退任間近のベテラン作家の力作を目の当たりに見上げながら考える。…まあ、わたしみたいなぺーぺーのアマチュアとこの方はまるで経験値が違うし。
もっと深い、美術的器官の全てを駆使して深いコンセプトの上でこれを作成したのは間違いないと思う。こっちの受け入れるキャパシティが足りなかったってだけで。
だから、つまり。
「…こういう表現方法って向き不向きがあるような気がする。全体的に美術的偏差値高い人なら、頭脳とセンスを上手く組み合わせてちゃんと深いものが出来るんだと思うけど…。わたしはもしかしたら、絵画というか二次元表現に全振り能力な可能性が。制作する方も、鑑賞する方も」
どっちも非常に上っ面をなぞる程度で終わりそう。名越みたいにいろんな方面に目端が利く柔軟性を持ってればよかったんだが、もうそれは仕方ない。
と思ったところで、そうか、だからこそわたし自身あんまり美大に進むことに積極的になれなかったのかもしれないな。とこんなタイミングでふと腑に落ちた。
単純にこのまま絵を描き続けるだけなら一人でも出来る。誰かに客観的に見てもらって直しもらったりアドバイス欲しいなら、今の大河原先生みたいに個人レッスン何処かで受けることもできるし。
大学に行ってまで美術を勉強するとなると、自分にとってこれは美術領域なのか?ここまで必要?みたいなジャンルも満遍なく手掛けざるを得ない。
まあそれが本来の守備範囲の絵画に全く貢献しないのかって言われたら。…今のわたしレベルで絶対無理だよって結果を決めつけることも、もちろん出来ないんだけどさ…。
ちょっと真剣に考え込んでしまうわたしの心の中を知ってか知らずか、名越はそれを聞いてやけに楽しそうだ。
「うん、なんかわかる。笹谷はそういうやつだよな。絵にステータス全振り、いいなぁ。それはそれでいいんじゃない?制作する人が誰でも全部のジャンルそつなくこなせるわけじゃないんだし。むしろ得意不得意がある方が普通というか。偏りはどうしてもあると思うよ。特に何が苦手ってこともない俺みたいなのがむしろ珍しい方かと」
さらっと自慢された。むかつくなぁ。
わたしの隣に立って先を促しつつ、やつは実に嬉しそうな声でうきうきと先を続ける。
「けど俺はあんたみたいな方が全然いいと思うんだ。特別不得手もない代わりにこれって武器もないよりは、絵画なら他より突出して抜きん出てるって誰の目にも明らかな方がさ。だってかっこいいじゃん?だからそんなの気にすることないよ。インスタレーションも立体造形もからっきしだって。本領の絵の凄さでぶん殴っていけばいいんだからさ」
何なの、他人のこと脳筋みたいに。
毒気を抜かれて促されるままとぼとぼと歩くうち、そろそろ展示の順路の先に出口が見えてきた。こじんまりしてて落ち着くいい美術館だったな、と僅かに背後を振り返りながら。
わたしは半年後一年後、ほんとにまたここに見参する機会があるのかな。ここの学生として再訪する可能性はまずないけど。
それでも東京の大学に進学できてさえいればまた展示を観にくることはあるだろう。そのときには今回のことをどんな気持ちで思い返すことになるのかな。その頃もこいつとの付き合いは続いてるんだろうかと、何とも定まらない曖昧な気分のままわたしは名越の後について出口のゲートをくぐった。
《第12章に続く》
上野ですね…。上野にある芸術系の超難関大学ね。なんか現実には一つしか候補ない気がするけど…。
あからさまなように思えるけど、執拗にT藝大とだけ表記して決して東○藝大と書かないのは、実際の東京○大を知らないからです…。まさにさあっと通過したり、付属の美術館や売店に訪れたレベルなので。
ここ、現実の藝大と違うじゃん!と言われたらいえこれはあくまで『T藝大』ですよ?リアルに存在してる○京藝大とは別物です、としらっと言い抜けるためです。てか本当に特に合致してるとこもないので、モデルにしてるとか畏れ多い…。実際に存在してる大学とは何の関係もありません、はい。




