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第10章 美術部夏合宿!

まるまる一章分、全部夏合宿です。いいですね、高校二年の夏。一番はしゃいでるのは迫る受験から逃避してる三年生たちみたいですが…。

「…うぉう。やっぱ、いいなここからの眺め!」

今日から二泊三日、美術部の夏合宿が始まる。

最寄りのバス停からてくてくと歩いて、宿泊する予定の宿へ向かう道の途上。それまで鬱蒼と茂った木々に囲まれて周囲に何があるか見通せなかったのが、そこで不意にぱっと視界が開けて眼下に小規模な町並みと入り江が見えた。

何度もここに来たことあると思しき三年の先輩が弾んだ声を上げて足を停め、一年ぶりだなぁ。と呟いてその場でしみじみと景色に見入っている。

わたしたち下級生もつられてその場に佇み、きらきらと輝く水面と木々の隙間にまばらな家屋が散らばる小さな集落を一緒になって見下ろした。

それにしても。

「…三年生も結構たくさん来てるんだね。文化祭も終わったし、夏休みはもう受験勉強だから参加しないのかと思ってた」

名越が終始マイペースであちこちふらふらと見回りながらのほほんと一人で歩いてるのをいいことに、わたしは顔見知りの同級生の女の子と並んで歩いていた。

何となく、いつもいつも名越とばっかりくっついてるやつと周囲から思われたくはないからね。わたしたちが恋愛関係かどうか、いちいち気にする人は美術部にはいなそうだけど。どういう仲かとかよりも二人は他の部員とは関わりたくないんだろうと勝手に思われて遠巻きにされるのは、なんか嫌。

向こうは向こう、こっちはこっちで好きなように動いてるんだよ。と見て欲しかったから、たまたま電車で席が近かった棚田さんと山内さんが喋ってるとこに混ぜてもらい、そのまま流れでここまで一緒に歩いてきた。彼女たちとはこれまでもそれなりに話す機会があったから違和感なく仲間として接してもらえて、ぼっちとしてはありがたい。

泊まりとなるとお風呂とか寝る部屋とかの問題もあるから、ずっと名越と過ごすってわけにいかないからなぁ。とちょっと不安だったがそこは何とかなりそうだ。と安堵してつい口が軽くなるわたし。周りの他の部員(見た目だけでどれが三年生か判別できる自信はわたしにはない)の耳に入らないよう、声を落としてこっそりと。だけど。

棚田さんを挟んで向こう側を歩いてる山内さんがひょいと彼女の肩越しに頭を傾けて、わたしの方にやや小さめの声で囁き返してくれる。

「夏休み、そりゃ受験だからそれに向けて勉強はするだろうけど。休み中一日も欠かさず絶対ずっと机に齧り付いてなきゃいけないって校則も法律もないから。高校だって別に、三年生は部活動も校外活動も全部禁止!とは言ってないし。文化祭を七月にしただけで、それだって学校の勝手でしょ?」

余計なお世話。とでも言いたげな口調なのが何だかじわる。まあ、学校としても生徒が大学に無事受かってほしくて日程を早めに詰めてるだけであって、なんかそれで自分たちが何か得したいみたいな理由ではないと思うが。…てか、高校にとって『自分たち』って何だ。先生たちとか事務の人?

私立だったら学校法人とかあるけど、公立のうちは運営もみんな公務員だろうしなぁ。私利私欲も何もないよなぁとか馬鹿なことをぼんやり考えてたら、後ろからそうそう。といきなり話に入ってくる女の人の声が聞こえてきて思わずぎょっとなった。

「そもそもこの辺のよその高校もみんな、文化祭はどこも夏休み明けだもん。一般的に三年生の部活引退は軒並みそれが終わってからだよ?それに較べたら夏期休業中のたった二泊三日くらい、勉強休んでもバチは当たらないんじゃないかな。この時期からもうその分の取り返しがつかないってほどの負担もないだろうし」

この人も三年の先輩なのかな。振り向くとそこにいたわたしは見覚えのないショートカットの小柄な女子が、余裕たっぷりの笑顔でそう言い切った。

そうですよねぇ、息抜きって大事ですもんね。といかにも調子を合わせて愛想よく受け応える山内さんをよそに、わたしの隣を歩いてる棚田さんはさらに声を落としてこの人は瀬尾さんっていう三年の先輩。とこそっと教えてくれた。

「実際のところ、毎年こうやって受験勉強の息抜きに合宿に参加してくる三年は多いよ。牧先生は特に三年の参加を禁じてないから、これを名目に堂々と休める。ってむしろ下級生より喜んでやって来るみたいでいつもめちゃくちゃ参加率がいいみたい。それに美術部って、割と成績いい方の人が多いからね。このくらいの余裕はみんなあるってことじゃないかな。夏休みの三日間くらいで出遅れるような人たちじゃなさそう」

「成績余裕のやつもいるし、反対に今さら焦っても仕方ないレベルのやつもいるよ。例えば俺とかね」

今度は前を歩いてる男の先輩がぬっと振り向いて話に割り込んできた。てか、何でわたしたちの前後に三年生だらけなんだ。たまたまとしても間が悪すぎる。

「あとは、少数だけど美大狙ってるやつとかはむしろ三日間じっくり絵を描くチャンスだからね。去年も美術予備校の講習で息が詰まってる先輩たちが、いい気分転換になるって嬉しそうにスケッチしまくってたなぁ」

てくてくと田舎道を歩きながら先輩は懐かしそうにそう付け足した。

てか、そのエピソードの人ってどんだけ絵が好きなの。サッカーの息抜きにバスケするとか、漫画描く息抜きに落書きするようなもんか。和菓子の口直しにケーキ食べるみたいな。ちょっと違うか。

言われてぱっと見回すと、確かに群れの中で妙に足取り軽くうきうきしてるのはどうやら年季の入った上級生ばかり、つまりそのほとんどが三年生と推察される。当然わたしはほぼ全員と面識がない(同学年と一年の後輩にはそれでもちらほら見覚えのある顔や話したことのある子がいる)。

わたしの視線に気づいた棚田さんが軽く肘でこちらの腕を突いて、さらに声を低く落としてこそっと囁きふふっと笑う。

「…てことはさ。来年、あたしたちもあんな顔してここに参加してるかもってことだよね。今はその、ちょっとだけ。呆れてるけど」

「うーん。…なくはないのかも…」

苦笑いしつつ、そうだよね。受験生なのによくやるなぁとか今さらあんなうっきうきで学校行事参加する?とか内心で他人事めいた感想を抱いてるけど。

来年の今時分はおそらく、自分たちの代がそろそろ本格的に受験勉強始めなきゃ…ってどんよりしてる頃合いなんだよな。

体育祭も文化祭も終わっちゃったし、遠くからひたひたと迫り来る受験本番のタイムラインから気を逸らしてくれるイベントももうない。そろそろいい加減現実を見なきゃ…しなけりゃいけない追い詰められてる日々なんだと自分の身に引き寄せてリアルに想像してみたら。そりゃまあ、大はしゃぎこの三日間は勉強のこと忘れて、高校生活最後の夏休み行事を精一杯満喫するぞ!といそいそと集まって来るのかも。

「来年は我が身。…かあ」

「高校は修学旅行さえ二年の秋だもんね。半分しか学生生活終わってないのに何が修学なのかって…」

「まあ、それはうちの学校に限った話じゃなく。日本全国どの高校でも同じだから」

ちょっと想像してみただけでもうどんよりとしてきた棚田さんと山内さんに慰めのフォローを投げかけ、景色いい!天気よくてよかったねぇ、とここぞとばかりにきゃいきゃいはしゃぐ先輩たちにつられてわたしも眼下の波打つ水面を眺めた。

足を停めてしばし佇む集団の中で、周りにいる一年の女子がちらちらと気にしてる方を見るとやはりそこに一人立つ無駄なイケメンの姿が。

まあ、一年生は滅多に名越と居合わせる機会もないしここぞとばかりに見ちゃうか。あれで見た目だけじゃなく絵の腕もいいしな。中身はいろいろとあれだが。

集団からやや外れたところに立っている名越は手で枠を作り、それを海の方へ向けて試しすがめつしている。途中でわたしの視線の向きに気づいてこっちを向き、にっこりして手招きした。

その仕草が周囲からどう思われるかなんてまるで気にしていない。めっちゃ一年女子たちの視線がちくちく刺さるのを地肌に感じるけど(二年の子たちは多分、普段の名越の悪評を知ってるから特にお近づきになりたいと思ってはいない様子。それに美術部に所属してるような女の子は多分やつのことを一軍男子というよりちょっとDQN寄りのやばい男と思ってそう)、あえて知らんぷりで手招きを無視する方が悪目立ちする気がしてすごすごと近くに行った。

「どした。…何?」

わたしのテンションの低さなど気にならない様子で、崖際の大きな樹の下に立つ名越は下に広がる海の方を指し示しながらにかっと笑った。

「見なよ、笹谷。…めちゃいい眺め」

「うん」

それと同じ台詞はさっきあそこにいる三年の先輩が言ったよ。と考えたけど口にするのは差し控えた。どうせそんなの全然聞いてなかったんだろ、あんた。

遠巻きにしてる美術部員の集団の方などまるで気にかけない涼しい顔で、下界の景色に再び視線を戻してこちらを見ずにさらに話しかけてくる。

「すっごい楽しみ。あんたって滅多に風景って描かないからね。ていうか自然のものをスケッチしてるのもあんまり見たことないな。絵画教室だとリアル系の題材でも静物とか石膏が多いから。普段は空想画ばっかだし…」

「いや、ちゃんと風景のスケッチももともとやってたよ!あんたと初めて会ったとき、海浜公園で海の景色スケッチしてたんだし…」

確かあのとき名越は犬の散歩してて(何だっけあのポメラニアンの名前。だんご?…あ、『まるみ』か)、わたしの隣には吉村がいた。

と当時の記憶を呼び覚ましてるわたしに、やつはちょっと不服そうに異議を唱える。

「そんなの知らないよ。あのとき俺、あんたのスケッチブック見られなかったし。てかさ、家に過去のスケッチブックとってあるだろ。今度まとめてそれ持ってきてよ。絶対見てみたいいつか。何なら言い値で買い取るから」

「絶対やだよ。昔のわたしの絵、自分でも見返す勇気がないほど下手くそだもん…」

そう言いつつ、そういえばあのとき遠くにいた名越を横目に吉村には頼まれるままに描いたもの見せてたんだよな。と少しずつ当時の記憶が蘇ってくる。…あれ、確かあのとき吉村には、せっかく外気に触れて眺めのいい場所にいるのに描いてるの全然関係ない空想画じゃん!とか言われたような。

思い起こせばあの頃は目の前にあるリアルなものを紙の上に写しとるって作業に全然興味が持てなかった時期だったから、さもありなんだ。

ずいぶん前の話過ぎてあんまり覚えてないけど。当時は爽やかな潮風を浴びながら脳内のあれこれを描いてただけで、だとしたらわたしも風景画とか描くよ。は完全な嘘になるなと気づき、素知らぬ顔で話をずらしてごまかそうとする。

「描き終えたスケッチブックなんか多分全部片付けちゃったよ。だから今どこにあるかわかんない。親が捨てちゃったかも…。あんなん、がさばるだけで置き場に困るし。どっちみち駄目、まじで今よりもっと下手くそだから」

何よりも実物見せたらろくに風景描いたこともないのがばれてしまう。ここは断固隠蔽しないと。

「えー何でだよ。帰ったらちょっと真面目に探してみて?将来絶対に価値が出るんだから。あんたの初期絵ってことで、見たがる人たちがいると思うよ?」

まあその前に俺が買い占めるつもりだけど。と意気込む名越。本当にこいつ、ポーズや振りだけじゃなくわたしの絵が根っから好きみたいなんだよな。わけわかんねぇ。

普通にごみだよあんなん、とぶつぶつ言うわたしにほら、行くよ。と声をかけ、宿へと続く道を下って移動を始めたみんなのあとを追うように促す。

棚田さんも山内さんも先に行っちゃったから、仕方なく名越と連れ立って一番後ろからとぼとぼと集団のあとをついていく。

「実は俺も去年これ来てないから初めてなんだけど。確か、ほとんど一日中自由に絵描いててよくて毎日終わりに集合したときに顧問の講評があるんだったよね?」

そう言うやつの口調がやけにうきうきしてる。ちょっと意外な気がしてわたしはぼそっと呟いた。

「そんなに牧先生の講評が楽しみなんだ…。実はあの人のこと、口ほどにもなく評価してたりして。いつも憎まれ口叩いてるのは好意の裏返し?」

「違うよ、まさか。そうじゃなくてそれだけ守ってればあとは、全部自由になにを描いててもいいってことだなって。あと、確か夕食前に一枚自分でベストなスケッチを選んで提出しておくんだよな?その一枚以外は顧問に見せる必要ないって話」

「確かそうだよ。何なの今度は。先生に見せたくないものでも描くつもり?」

軽口を叩きながら、ふと以前に美術室で見せてもらったわたしばっかり一冊分みっちり描かれたあのスケッチブックが脳裏に蘇る。

まさかまたわたしのこと描くつもりじゃないよな。いやあのときも付き添いが暇すぎて仕方なく目の前にある人物を所在なく描き散らして時間を潰してたってのはわかるんだけど。

風景や自然物なら何を描いても先生に見せられないってことはないし。わざわざ確認するってことは、それ以外何かある?

と内心でびびったわたしはさすがに自惚れ過ぎだったようだ。やつはそんなわたしの怯みなど思いもよらなそうな明るい表情で無邪気に首を横に振ってみせる。

「そうじゃなくて。その講評を会場で皆と一緒に聞くだけじゃ、あんたが描いたやつ全部は見られないってことじゃん。だからさ、それとは別に取り決めとこうよ。お互いここで描いた絵は一日の終わりに一旦全部見せ合おう?描き損じとかいたずら描きみたいのも頼むね。さすがにそれは撮影しないからさ」

てか、撮らせてもらいたい場合はちゃんと許可とるから。と当たり前のように意気揚々と交渉してくる名越。ここまで来ると病膏肓に入るって感じだなぁ。とつくづく呆れる。

「あんたってまじでわたしの絵のオタクだよね…。こんな素人の絵に、本当意味わかんないんだけど」

今さら謙遜してもしょうがないのでこいつがわたしの絵を好き。ってことはもう前提として認めてそうぼやく。名越は指摘されてさらに嬉しそうな顔になり、一目で見て取れるくらいに足取りを弾ませた。

「笹谷は絵描きに限らず、なんか推しっていないの?芸能人とか…は興味なさそうだけど、小説家とか漫画家とかスポーツ選手とか歌い手とかさ。いたら俺の気持ちわかるでしょ。推しの新作を生でリアタイできるんだよ!最高に楽しいじゃんこんなの」

「それは想像つくよ。わかんないのはそのうっきうきの推しがわたしの作品だってことなんだよ…」

あんたの方がよほど絵が巧いのに、ってのもおまけで付く。わたしの好きな小説家よりわたしが小説書くの上手いわけじゃないんだし。

逆に言うと同じ絵描きの立場とすると、別の人の絵がめちゃくちゃ好きって微妙な気持ちにならないのかな?とそこで改めて不思議に思った。

わたしが例えば小説家なら、何書いても自分の作品よりすごく面白い人って素直に賞賛できるかな…。なんか、複雑な気持ちになりそう。あーあるいは。本音の部分では自分の方が上すぎて勝負になってないから、余裕があって寛容にちょっといいな(俺には到底及ばないけど、それにしては)と思うものを愛でられる?…うーん、それは。正直あり得なくもないかも。

風景もいいけど一面に空描くとか、植物とか虫とかにスポット当ててどアップで描くのもいいよね。あんたがどういう構図選ぶかも楽しみだな!と、結局ずっとわたしの絵の話しかしてない。

優越ゆえの余裕こいた言動だとしてもやっぱり阿呆過ぎる。と内心でため息をつきながらみんなの後ろをとぼとぼと、目立ち過ぎるのにそのことを全く気にも留めてもいない男と連れ立って宿へと向かうわたしなのだった…。


その日は宿に到着後すぐにお昼で、食事を済ませてからしばし各部屋で休んだあと午後いっぱい外で思い思いに各自スケッチ。

とは言ってもさすがにどこまで行っても自由なわけではなく(当たり前だ)、ここからここまでね。と移動していい範囲を指定された。そして散らばった生徒のところを順繰りに顧問が見て回る。

完全に放し飼いとはいかず、案外きっちり監督されてるわけだ。まあ、そりゃそうだよな。仮にも学校の課外活動なんだし、誰か怪我したり行方不明になっても困るし。

夕方までにスケッチブックに描いた下描きの中で一枚を選び、それをみんなの前で牧先生が講評。そして翌日と最終日を使ってそれを基にした水彩画を完成させる、という流れらしい。そうか、三日間ずっとだらだらと目的もなく適当にスケッチ描き散らしてればいいってわけじゃないんだな。一応ゴール設定はあるんだ。

そうなると翌日からの作業も考えて、最終的に一枚の絵をどう仕上げよう…ってのを頭に置いた上でのスケッチ、つまり習作ってことになる。足許のありんこを描いたりお空の雲を写したりして最終日まで楽して過ごすっていう目論見は早くも潰えた。

今日のうちに何を描くか決めて大体の構図も考えなきゃなと思うと、案外余裕ない。幸い美術部員はみんな普段から基本的にはつるまない独立独歩の集団だから、合図とともにさっさと蜘蛛の子を散らすように思い思いの場所へと向かってばらけて行く。

わたしも集中したいからなるべくなら一人がいい。と考えてたからむしろ好都合、描きたい題材と眺めのいい場所を探してひっそりと腰を落ち着けた。

それでも名越は寄ってくるかな、描いてる途中にも何かとチェック入れに来そう。と半ば覚悟してたけど一日目は時間的なゆとりがなかったせいか、意外にもやつは顔を見せなかった。

だけどこっちは避けられない。わたしのところだけじゃなくて全員の許を平等に回ってるんだから仕方のない話だけど。

「…笹谷さん。どう、ここまで。ちょっとスケッチブック見せてもらっていいかな?」

学校の外だとテンションが変わるのか、単に虫の居所がいいのか。

ちゃんと話すのはあのとき美術室で一対一で対峙して以来な気がする。けど、今ひとつ積極性を見せないわたしにいらっとしてるようなあの棘のある態度はすっかり影を潜めて、意外と当たり障りのない感じで接してもらえてかなりほっとした。

牧先生は木の下に座っているわたしの横に立って仕草でスケッチブックを渡すよう促し、受け取ったそれをおもむろにぱらぱらと広げたかと思うとやけに生真面目な顔つきでしばしの間そこに目を落とす。

「…だいぶ、描き方が前と変わったね。誰か先生についてるの?」

以前と較べるとあまりに毒気が抜けた態度に、もしかしたら最近顔を合わせても何も突っかかって来ないのはあの初対面のときのわたしをもう覚えてないからなのでは。とずっと内心で疑っていたのだが、そうじゃないのがここで確定した。

あのとき芸大受験しないんなら人に非ず、みたいな勢いで無遠慮にまくし立てた自分のことはまるでさっぱり記憶にないみたいにあっさりした表情と物言い。拍子抜けしたけどこっちも喧嘩したいわけじゃない。落ち着いて無難に対応してくれるならそれに越したことない。

口調からしてよその人に師事してるからってぶち切れることはなさそう。最近は三年生と二年生にそれぞれ有力な美大志望の部員がいてそっちにかかり切りだって噂だし、まあ本当のことを言っても大丈夫だろう。

「画塾というか、絵画教室で教えてもらってます。同級生の紹介で…」

何となく名越の名前を出すのは憚られた。牧先生がやつのことをどう考えてるかは全くわからないが、あいつがああもこの人のことを悪し様に言うのは何か過去に因縁があってのことかもしれないし。

しかし、先生が反応したのはそっちじゃなく全然別の方だった。

「もしかして。大河原さんのとこ?確か、〇〇駅の近くだったよね」

「え。大河原先生をご存知なんですか?」

本気でびっくりした。この二人が頭の中で全然結びついてなかったから。

彼はわたしのスケッチブックを手早くめくり、ところどころで目をとめてしげしげと眺めつつこともなげに平然と答える。

「大学の先輩だよ。あの人も教職取って、同じ県で高校教師やってるって話は知ってたから」

そうか、てことは大河原先生ってO芸大卒か。訊こうと思ったことはあったけど、タイミングが合わなくてそのまま忘れてたな。

「去年久しぶりにたまたま電車で会ってさ。あの高校に勤めてるって言ったら、今そこの生徒さんが二人教室に通って来てるよって教えてくれたんだ。名前は聞かなかったし美術部の子かどうかもわからなかったけど」

でも、二人ってことは片方がもう片方にあの人のところを紹介したのかなって。と特に感情も交えず淡々と付け加える。この人、やる気なくて熱量低いときの方がまともなんだな。いつもこのくらいなら接しやすいのに。

と、油断してたらスケッチブックに目線を落としたままいきなりずばり尋ねてきた。

「君に教室を紹介してくれた子って、やっぱり名越?」

う。

ここで頷いていいのか?と咄嗟に躊躇する。けど、ごまかしたり嘘ついて否定するほどのことかって疑問も拭えない。

何より牧先生の態度や訊き方が完全に興味の薄そうなどうでもいい感じなので、これはただ単に世間話であって深い意図はないんじゃないか。と思えてくる。

だとしたらあせあせして嘘でごまかす方が何だか不審じゃないかな…と考え、結局素直に頷くことに。

「はい。そうです」

「ふぅん。…なるほどね」

短くそう呟いたあと、もう一度前のページをめくって頭の方へと戻る。そんなにつくづく見てくれなくていいから。講評が怖いから、こっちは。

彼は何度か手を止めてじっくりとスケッチを観察したあと、独り言のようにぼそりと呟く。

「…すごく良くなってるよ。やっぱり、きちんとした先生についてよかったんじゃないかな」

「ありがとうございます」

自分の手柄じゃなくてもちゃんと褒めてくれるんだな。と少し意外な気持ち。いやひどい言い草だけど、名越や棚田さんや他の美術部のみんなが言うこの人の評判って割と散々だから。こうやってフラットに評価してくれるとは思わなかった。

多分、熱心なのと自身のポリシーが強烈なのでたまに顰蹙を買うけど悪気はなくて結構いい先生なのでは。まあ、藝大を受けないとなると急にすんとなって相手に対していきなり興味を失うってのはさすがにあからさま過ぎるから気をつけた方がいいんじゃないかと思うけど。

と、呑気に考えてたら不意にずばり切り込まれて再び焦る羽目に。

「名越と一緒に教室通ってるってことはさ。結局二人とも藝大受けるんだ?」

「えーと…」

わたしは違います、とここですっぱり正直に答えていいのか。いやそれより何より、名越のことをわたしに訊かないで欲しい。

勝手に答えていいことじゃない気がする。それに、本当にあいつが来年美大受けることになるのかとか受けるとしたらどこか。とかも実際何にも言えないし。

「彼のことはわたしには何とも…。予備校の夏期講習は行ってるみたいです。わたしは、あの。…親の考えが、正直。美術系はちょっと、やめてほしいって。感じなので…」

本当はそもそも頼んでみてないんだから、両親がそう言ったわけじゃない。けど、うちの財政状況と下の弟の将来も考えたら…。まあ、親を困らせるほどのこともないな、と。

けど家庭の教育方針を盾にするこの策は思いの外効果があったようだ。

牧先生は眉根を寄せ、しばし考え込んでからぽつりとひと言溢した。

「そうか。…ご家庭の考え方だから。簡単に横から口を挟める話じゃないな」

ぱたり、とスケッチブックを閉じて返してよこす。

「この中のどれを主題に選ぶつもり?やっぱり、海の遠景?ずいぶん空の面積を広めに取ってるよね。インパクトあっていいとは思うけど」

「あ。…はい。まだ下書きは全然進んでないですけど」

これとこれを組み合わせて、こういう構図で。とわたわたしながら何とか説明を済ませる。牧先生はなるほどね、と相変わらずフラットな態度で納得したように頷いた。

「いいんじゃないかな。自然物を写実的に描いてもやっぱり個性が強いね。…まあ、完成した絵を見ないと何とも言えないけど。実際君は美術系の大学、向いてると思うよ。親御さんがどうしても駄目って言うなら教師の立場からはどうするわけにもいかないけどね」

「あ。…はい」

熱はなく淡々と言われるとかえって、客観的な意見として言ってくれてるのかなと感じてしまいやや気持ちが揺れる。…でもなぁ。

先生はふと腕時計に目をやり、時間配分が気になったのかそれじゃ、とその場を立ち去ろうとする。最後に軽く手を振ってひと言付け加えてから。

「…まあ、奨学金とかいろいろと手がないわけじゃないし。もしもその気になったら相談して。何なら大河原先生を頼ってもいいと思うし。きっと親身に相談に乗ってくれるんじゃないかな。まだ時間はあるから、焦らず前向きに考えてみるといいよ」


その日の自由時間の終わり、ようやくいそいそと近づいてきた名越と互いのスケッチブックを取り替えてばらばらめくりながら集合場所の宿へと連れ立って向かう。

「おお。…いや、上手くなってんねやっぱり。てか、まじでリアルのものしか描いてないじゃん。笹谷のことだから、写生大会でもつい脳内にしかないシュールなものばっかり描いちゃうのかと思ってた」

「失礼な」

そういうのは一年ほど前に卒業しました。

「目の前にある現実のもの描くのは画塾の課題でも慣れてるし。そんなにいつもどこでもファンタジーな題材ばっか描いてないよ。だいいちこの合宿は、風景のいい場所でスケッチする能力を向上させるのが目的でしょ?そこでイメージ画描いてたら何しにわざわざ県境跨いでまでこんな僻地に…ってなるじゃん」

ちょうど一年弱前の海浜公園でスケッチしてた自分自身の記憶については知らないふりをする。

「せっかく外の風景をじっくり描けるいい機会なんだから、自分の好きなものだけ描いていたいなんて我儘言わないし。自分の部屋でそういうのはできるし…」

「そりゃそうだよね。…けど、新鮮だな。現物をモデルにして写生するのも教室じゃ、静物とか室内の光景が多いから。…ふぅん、いいなぁ。笹谷のタッチで描かれた海や山の風景」

俺が描くのと全然違ってるよね。と無邪気に言われて内心で凹む。そりゃ単に画力の差じゃ。

「そしたら今回は徹頭徹尾普通の風景画?あえて個性出してはいかないのか。まあそれでも、ちゃんと笹谷の絵って感じの仕上がりにはなると思うけど」

その絶対の信頼は一体どこから来るんだろう。つくづく謎の感性だ。

わたしは名越の長い脚の歩調に追いつくために時折とてとてと足を早めつつ、曖昧に受け応えてその場を濁した。

「基本はこの状況を生かした、ここでしか描けない絵にしたいと思う。けどせっかくだから、構図とかは自分なりに工夫したいかな…。上手くいくかどうかはわかんないけど」

「ほえ。楽しみ、いつもと違うの見れそうで」

そう言う自分はどうなんだよ。と取り上げたやつのスケッチブックをばらばらめくってうっとなる。…こっちのやる気が削がれるくらい巧いし。

何だろ、さらっと描いてあってほんとに何の力みもない軽いスケッチばっかだけど。どことなく静謐な雰囲気があって情緒的というか。…全然参考にならない。真似できる気がしないわ…。

「…あんたは。このスケッチのうちどれを選んで仕上げるつもりなの」

「内緒〜」

笑ってわたしの手から自分のスケッチブックを取り戻す。ふん、小憎らしいやつめ。

宿に戻ってスケッチブックに付箋で印をつけて提出し、あとは各自部屋に戻って休憩。棚田ちゃん山内ちゃんと合流してうだうだ休んでても時間余るね、と言い合って夕食前に温泉へ。ひと昔の少年漫画なら覗きイベントがあるやつだけどそんなの気にしてたらきりがない。普通にのびのび手脚を伸ばして露天を満喫した。

そして食後、広間に集合。ここで一年から順番に皆の前で晒し者になる。

一人ずつ指名されてその場に立たされ、明日から水彩画に仕上げる下書きの一枚を皆の前で講評されるわけだ。ここで牧先生の棘が特に以前に較べて抜けたとか和らいだ、ってこともなかったって事実を知る。

てか、すぱすぱと斬っては千切るそのやり口を聞いてると、どうやら基本的に完全な初心者に対しては割に優しい。皆の前で腐された経験のせいで絵が嫌いになってしまわないように、って考えるくらいの理性と良心はあるらしい。

それからやりたいことがはっきりしてる上級者のことはあまり否定しない。自分の頭で考えてトライしてる時点でまあ合格、という判断とみた。最終日に完成した絵の出来栄えによってはアウト判定になる可能性もあるかも。

彼の攻撃が容赦なくなるのはその中間の中途半端なレベルの生徒について。この絵のテーマは何?しっかり実物を見て描いてるようには見えないけど。これって完全に手癖だよねとか、何を意識してどこに力を入れて描いた絵なの?とか、なかなか手厳しい。

まあでも、他人の講評をそうやって聞いてるうちに何言われてもいいや。と肝が据わってきた。だってもう何をどう描くか決めちゃったから。

けちょんけちょんに言われても題材変える気はない。だから、講評で酷評されても聞き流すより他ない。わたしはいつもそうで、一度これを描くと決めたら変更が効かないのだ。とにかくそれを描き上げてからしか次へはいけないので。

「次。…笹谷さん」

「はい」

五十音順か、と考えながら立ち上がる。先生はわたしが付箋をつけたページを開いてそこに目線を落としつつ独り言のように呟いた。

「風景か。なかなか大胆な構図だね。遠景と、手前に野草の大アップ?」

「はい。イタドリです」

これは、ちゃんとスマホで調べたから間違いない。何でその草を選んだかというとたまたま手近にあったからだ。じっくりしっかり、リアルに写生できる。

牧先生はふぅん、とその下書きを見て声を漏らした。

「構図がちょっと安藤広重っぽいね。手前のこの草に焦点を当てて、遠景の海辺のあたりをぼやかして遠近感を出すの?」

「いえ。総ピンにします」

わたしがあまりにきっぱり答えたからか、先生は一瞬突っ込まずじっとその返答について考え込んだ。

「…そうなると。画面のメリハリはつけづらいと思うけど。それでも、そうしたいわけね。完成した絵のイメージは出来てる?」

「はい。大丈夫だと思います」

先生はしばし考えてから、軽く肩をすくめた。

「まあ、それでやってみたら。イメージ通りに描けるといいね」

「はい、ありがとうございます」 

それで講評は終わり。判断保留ってことかもしれないけど、あまり激しく突っ込まれずに済んだ。

明けて二日目の朝。

明日の午前中までには絵を完成させないといけないので、慌しく朝の支度を済ませて各々外に出て写生に取り掛かる。わたしが昨日の場所に赴くと、名越もその近くにやってきてどっかり座って絵の具の準備を始めた。

「…そこで描くの?あんた」

背後に陣取られて何とも居心地が悪い。出来たらよそへ行ってくんないかな、とのニュアンスを込めて渋い声をかける。

やつは悪びれもせずさっさっ、と画板の上の画用紙に鉛筆を走らせて昨日のスケッチを手直ししながら答えた。

「しょうがないだろ、俺が描こうとしてるのここから見た図だから。落ち着かなくて嫌なら笹谷がどけば?」

「その地点から見た図?」

わたしは今、ほぼ崖っぷちに生えたブナの木の隣に座ってる。ちょうど目の前に昨日モデルにしたタケニグサがあり、眼下に海と入り江の小さな町が見えてそして木陰で涼しい場所だから。

ここで描き上げるしかない、って一点だし名越が背後にストーカーみたいに鎮座していてもどく気はない。けど、こいつは何でその位置?

「そっからだと角度的に海面見えなくない?いいの、せっかく海の近くに絵を描きに来たのに。木と空だけ?」

「いいだろ、何描いても。俺の自由だし」

まあ。そりゃそうなんだけどね。

「わたしここからの眺め描きたいからどかないよ。邪魔って言われても困るけど」

「いい、いい。気にしない。そこにそのままいて」

特に視界に入るってほどではない。みたいな口調であっさりあしらわれてしまった。それならもうあとは無視するよ。

そのつもりでこっちは真面目に集中し始めたのに、やつの方は暇なのか。ふと思いついたように時折何かとぽつぽつ話しかけてくる。

「…それにしてもさ。よかったな、見てたらちゃんと女子の友達出来たみたいじゃん美術部のなかにも。ちょっと心配だったんだよな、泊まりだと。風呂とか寝るとききっとぽつんと孤立しそうだな、笹谷ならって」

「ああ。…棚田ちゃんとか山内ちゃんとか?」

ご心配には及ばない。昨日の夜から今朝にかけて、さらに仲良くなったよ。

夕食もお風呂も一緒だし、一晩がっつり宿泊部屋も同じだったからね。これまでの一応顔見知りって関係よりはだいぶ気安くなれたと思う、お互いに。

そう答えようとは頭で思ったけど、何せ手許と意識があまりにも絵に集中してるから。咄嗟に言葉が出てこないその隙に感に堪えないような呟きが背後から聞こえてきて、思わず一瞬手が止まった。

「いや杞憂だったよ。それにしても、意外だったな。こっちが介入して世話焼かなくてもちゃんと自力で友達作れるんだと思った」

「いや、それは」

お前が介入する気だったのかよ。

こいつは自分の立ち位置分かってるんだかどうなのか。学年の中でも悪目立ちするくらいのど陽キャイケメンが、美術部みたいな尖った個性派揃いの女子に愛想よく取り入ってこの子と友達になってあげてくれない?とか頼んだりしたら。

かえってわたしがどん引かれて浮いた存在になるのが目に見えて想像できるでしょうが。自分の立ち位置ちゃんと理解してんのかなこの人?

そんなお節介されずに済んでよかった、と内心で胸を撫で下ろしつつ黙々と制作に励んでると。どれだけ頭が暇なのか(見たとこしっかり筆は動いてる)、こっちの返事がないのをいいことにしみじみと保護者ぶった呟きを漏らす。

「正直笹谷ってさ。客観的に見ても人付き合いよくはないじゃん。初見の相手に対して愛想はないし、そもそも友達の数も少ないし」

のんびりとした穏やかな声だが、内容を鑑みるとかなり余計な口を叩いてる名越。てか、何なんだこいつ。まじで失礼だな!

「少なくはないよ。…いや少ないけど。でも必要充分な数だから。わたしにはそんなにたくさんの友達は必要じゃないの、あんたとは違って」

少なくとも足りないと感じたことはない。一緒にお昼食べる子は誰かしらいるし、教室移動やトイレに行くにも連れ立ってでもいいけど一人でも気にならない。部活や図書室に行くのはむしろ一人でいいし。

そう考えると、クラスに二、三人。他の組に去年のクラスメイトや同中の顔見知りがちらほら。加えて今回美術部にも数人友達が出来たって本当にジャストちょうどいい人数なんだけどな、わたしにとっては。別に負け惜しみじゃなくて。

こちらとしては真面目にそう考えて抗議したけど、やっぱり陽キャから見るとしょぼ過ぎ交友関係だって笑ってあしらわれちゃうのかな。と半ば諦めて肩をすくめてたら、意外にも名越は声色を改めてやや神妙に頷いた、ようだ。

「…まあ、そうだよな。数ばっかいても正直あんま意味ない。本音でいろんなこと話せる相手なんて結局数人だもんな。あんたは賢いと思うよ、ちゃんと行き届く範囲に交友関係収めてるだけだもんな」

茶化す風でもなくまともな口調。なんか意味ありげだな。こっちの方が心配になるよ。

「あんなにいつも大勢に囲まれてる人の言う台詞?別にわたしに気を遣わなくていいよ。そりゃ友達なんか、多けりゃ多い方がいいってもんでしょ。わたしみたいにまめじゃない人間だとただ持て余すってだけで…」

「いや。誰だって持て余すと思うよ。正直あんなには必要ないって感覚は正しいんじゃないかな」

感情の抜け落ちたような素っ気ない声が意外で、つい振り向いて名越のいる方を盗み見てしまった。

特に怒ったりいらいらしたりって様子には見えない。ただ思ったことを素直に独白してる、それだけのように思える。

「ふぅん。…なんか、意外。外から見た感じ、ちゃんと楽しんでるように見えるのにね」

羨ましくはないけど。と頭の中で付け加える。別にわざわざ皮肉っぽく口にして相手に聞かせるほどの言葉ではない。

名越は俯いてパレットの上で絵の具を混ぜ合わせ、出来上がった色味を確かめるように画用紙の上にそっと筆を乗せた。

「楽しくないことはないよ。いつも心にもないこと喋ってるとか、作り笑いして周りに合わせてるってことはない。…けど、まあ。なければないでいい人間関係も結構あるな、うん。あんた並みの範囲に交友関係留めても多分全然問題ないんじゃないかな。それについては間違いなく同意できるよ」

そうすればもっと絵に打ち込む時間も増やせるしね。とさり気なく付け足す。

こいつ、本気で美術ガチ勢なんだな。わたしなら友達付き合い減らして一人の時間が増えた分を全部絵描きにベットしようとはならない。絶対その分本読んだり漫画読んだり、ふらふら散歩してあてもなく彷徨ったりしちゃう…。

「はぁ。…じゃ、も少し人付き合い整理すればいいのに。何だってあんなぞろぞろ大勢でいつもつるんでるのさ?」

余計なことかもとは思ったけど、口出しされなければこんな話そっちから振ってこなきゃいいわけで。独り言めいていたとはいえ、うっかり他人の前でぼやいたらそりゃ突っ込まれるのは自然な成り行きでしょう。

だんだん話しながら描くのに慣れてきて、さっさっと筆も進む。もっとも全体のイメージを固めてどこをどの色で塗る。って方針を今さっき決めてあとは作業って段階に入ったから、雑談する余裕が出てきたってのもあるかも。

名越は喋りながら描くのが当然、とでもいった調子でわたしの問いかけに何の違和感も感じてないようにあっさり答えた。

「だって、なんか自然と集まって来ちゃうんだ。それをいちいち塩対応してたら角が立つし。当たり障りのないように適当に調子を合わせてると、結果的に大体どこにいても同じような状況になるね」

「なるほど…。人気者は大変だね」

イケメンは、と口にするのはちゃんと思いとどまった。あんたの顔につられてみんな寄ってくると言ってるみたいでさすがに失礼だろう。まあ、実際そういう面がゼロではないとは思うが。見た目大事って人は常に一定数いるからな。

「確かに下手に素っ気なくあしらって、変に敵を作るのもあとが厄介だしね。案外それが正解なのかもね。でも、わたしには無理だなぁ多少人間関係にひびが入ってもいいからほどほどに距離置いちゃうかも。放課後とか休日の遊びの誘いも基本的には受けないで、学校での付き合いに留めておきたいな…。ま、ただのコミュ障の戯言だけどね」

名越くらい器用だから成り立ってるけど、わたしみたいな対人能力雑魚すぎる人間には無理。と呟いて目を細め、丁寧に水彩絵の具を塗りたくる。

わたしの適当過ぎる受け応えの雑さ加減に不満を覚えた様子もなく、彼はもの思わしげに深々と頷いてみせた。

「うん。わかるよ。てか、あんたはそういうの上手いよね。以前はただの友達少ない人ってだけかと思ってたけど」

「…結構さ。わたしには何言っても大丈夫だと油断してないか、あんた?」

「そんなことないよ。てか褒めてるんだってば。遮らないで最後までちゃんと聞きなよ」

全く、こういうとき落ち着きないんだから。としたり顔でわたしをたしなめる名越。いやそんなのこっちは聞かされる筋合いないよ!

ただあんたが話したいだけじゃん。と心の中でむくれてるわたしをよそに、名越はさらさらと筆を走らせる手を止めず徒然に独白を続ける。こっちも片耳で話半分に聞き流してないと仕上がりが疎かになるな、と我に返って慌てて自分の絵に意識を戻すと、右の耳から左の耳へとやつの訥々とした声が通過していった。

「俺の去年クラス一緒だったの含む連中が、二年になったらあんたのクラスに結構いるだろ。秋山とかあの辺中心に…。あいつら割とあんたに声かけたりちょこちょこ誘ったりしてるみたいだけど。いつもやんわり適当に流してるんだろ?」

「ああ…、そうね。うん、声かけてもらえるのは。気持ちとしてはありがたいけど」

だけど今さら秋山たちとわざわざ放課後に遊びたくはない。雑談とか会話に入れてくれるのはあまり素っ気なくするのもな、と思って普通に応じてるけど。

そんなことをぼそぼそと手を動かしながら呟く。名越はそれを聞いて、我が意を得たりといった調子で頷いて言葉を継いだ。

「秋山がさ。いつもあんたにも声かけるけど全然首を縦に振らないんだよな、お前からもたまには誘ってみろよって愚痴るんだよね。けどやれやれって感じの諦め顔だけど別に言うほど不満そうでもないんだよ。かえって面白がってるみたいにも思えて…。だから、断り方が上手いんだろうなと。相手を嫌な気持ちにさせないっていうか」

「うーん。…単にあいつはああいうやつだからなって感覚なんじゃないの。まあ一応誘うけど、どうせ来ないだろってそもそも駄目もとなんじゃないかな」

てか、特に秋山については中学のときのわたしを知ってるし。陽キャの集まりに来ないのはまあ、そうだよなって感じだと思う。周りのノリに合わせて声だけはかけてるけど、本心では来るわけないよなと最初から考えてるんじゃないの。

「うん、最初から期待してないからダメージ少ないってのももちろんあるだろうけど。あの口振りからして、秋山も何だかそれなりにやり取りを楽しんでるみたいだからさ。多分断り方が嫌味なくて上手いんだなと。ちゃんといろいろ応じて、冗談に突っ込んだりいなしたりしてるんだろ?相手が断られたって事実に拘らなくなるような会話の後味なんだろうなって。かわし方がそつないんだと思うな、やっぱ」

「まあ。…何でも断り慣れてるからね。人の誘いに乗ることの方が基本少ないから…」

付き合い悪い人間の性というか。なるべく角の立たない断り方のバリエーションは結構持ってるつもりだ。じゃないと一人の時間を充分に確保しながら社会で浮かない、って生き方は望めない。

わたしの気が引けた答え方に、名越が背後でちょっと笑った気がした。

「だからさ。何でもかんでも受けるばっかりじゃなくても反感買うとは限んない、ある程度断ったり距離置いてもそれなりに認められる方法もあるのかなって、あんた見てると思ってさ。てか、大学入ったら俺も真似しようかな。飲みとか遊びの誘い片っ端から断って、あいつはああいうやつだから。って周りに認めさせようかなと、早い段階で」

「いやぁどうなんだろ…。責任は持てないかな、わたしには。自分以外の人が同じことして同じ反応で済むかどうかは…」

大学で他人を寄せつけず我が道を行く名越の姿を想像し、思わず怯んで口ごもる。

わたしみたいな地味地味な女が人付き合い悪くて集団の中でマイペースに振る舞ってても別にそういうもんというか、目立たないけど。名越だとどうだろう。

他人と馴れ合わない、常に自分のしたいことしかしない顔のいいしゅっとした男が孤立してると。…それはかえって目立つというか。近寄りがた過ぎていかつそう。

あんたみたいな人目につきやすいやつは、ある程度周りからどう見られてるか気にして行動した方が存在感がマイルドなのでは。…というのをどういう風に伝えようかな、と思いあぐねて口を開きかけたところでふと思い当たる。

「そういえば。名越って美術部では全然他人とつるまないよね。一人で行動して誰とも喋らなくても平然としてるし」

わたしが電車の中で棚田ちゃんや山内ちゃんと一緒に座ってあれこれ喋ってる間、離れた席に座ってスマホ見て時間潰してたみたいだし。宿まで移動する間もわたしと会話しただけで他の誰かと親しくしてる様子はなかった。

わたしには美術部で友達出来ないかと思った、と煽ったくせに何のことはない。自分こそ部活で友達いないんじゃん。

「うん、まあ。だってここでは俺に限らずみんなてんでん勝手に一人で動いてる方が普通じゃん。誰がどうしてるか、他人のことなんて気にして見てるやつ基本的にいないし。女子はそれでも楽しそうにきゃあきゃあはしゃいでるみたいだけど、男は全然だよ。必要あるときだけあ、どうも。とかぼそぼそ会話してるだけ」

三年だけはなんかやたらとハイになってるけどね。俺たちは先輩とは部屋別だし、と冷めた口調で話す。なるほど。

「もしかして、見たことないから想像だけど。美術予備校もそんな感じ?それとも意外とうぇーい、みたいなノリあるの?美術系陽キャの巣窟…」

「いやそんなんないよ。てか、知り合い同士で参加してるやつとかは会話してるけど。誰とも話さないで黙々と描いてる学生のが多いかな…。学費払って授業とってるんだし、遊びに来てるわけじゃないからね」

そっか。やっぱ結構シビアな雰囲気なんだ。

「それは受験が絡んでるからぴりぴりしてるだけかもだけど。ここの部の雰囲気から感じるのは、美術系の人たちって他の分野の人に較べるとあんまり他人のこと気にしない、自立した人が多いかもね。傾向としては」

深く考えず何の気なしに喋ってたけど、言ってるそばからそんな気がしてきた。確かにうちの美術部の空気を見てても、美術系の人たちって我が道を行くっていうか。他人の思惑をあまり気にしない風ってあるな。

「だとしたら美大行くんならそういうのもありかも、名越についてはね。でもわたしは逆に、東京行って普通の大学生活送るんならある程度周りに気を遣って愛想よくするよう努力しないと駄目か…。顔見知りもいない土地で四年間孤立しっ放しはさすがにつらいような」

「いや、だからあんたも美大行こうってば。予備校面白いよ、めちゃめちゃ個性的な絵を描くやつがいっぱいいてさ…」

急に声を弾ませて再び勧誘に励もうとする名越。しまった、また話の成り行きがそっち方面に流れちゃったな。最近この手の会話してなかったから油断した。

「やっぱそうなんだ。みんな巧い?上手なだけじゃなく、結構個性的なんだ」

デッサンの腕がいいのは当然だろうけど、それだけじゃなくてオリジナリティや独創性もあるのか。だったらわたしなんかとてもそこには混ざれないな。日本でも最高峰の美術の学堂を我こそは、とばかりに目指そうっていう気概のある人たちの集まりなんだろうと思う。

と、腰が引けたのを察知されたのか。名越は急いで首を振って熱を込め、わたしを説得しようと試みる。

「でも、別にびびる必要はないよ。そりゃいろんな癖のある描き手が多いけど、見たとこ笹谷より面白いやつはいなかった。それぞれ見どころはあっても所詮美大生未満の受験生だから。てか、俺は今回確信したよ。どんなに巧いやつでもやっぱり笹谷の絵には全然、敵わないよなぁって」

得意げに言われても…。てか、何であんたが鼻高々になってんだ。

「名越ってさ。わたしの絵に対する贔屓目が酷いよね」

褒められ過ぎてだんだん嬉しいよりもちょっと引くというか。怪訝な思いの方が強くなってきた。わたしが疑り深い声でそう言うと、やつはやけに無邪気なきょとんとした様子で軽く首を傾げる。

「え?そうかなぁ。普通にいいもんはいいって、当たり前のことを言ってるだけだよ。あの予備校のクラスにあんたが混ざったら、誰が見ても一段抜けてるってはっきりわかると思う。巧さだけならそりゃもっと上のレベルのやつもいるけど、それ以上にさ」

「巧さでは別に上位じゃないって、もう言っちゃってるじゃん…」

まあ、そこは客観的事実なんだろうけど。

そもそもこいつ自身がわたしより技術で段違いに上なんだから、そこで参加してる学生のレベルも推して知るべし。この辺りじゃ押しも押されぬ強者たちの集まりなんだろう。

「わたしがそこで通用しそうかどうかはまあどうでもいいけどさ(こいつの主観じゃ信用ならん)。名越自身は見たとこどうなの?やっぱ断トツ、普通の高校生の間じゃ?」

話の矛先を変えるためにと、あとは何てことない雑談のたねにとそんな風に水を向けてみる。まあまあどっちでもいいし、それにどう考えてもこいつが絵の実力においてどんな集団でも引けを取るとは思えない。普通にトップレベルなんだろうな、と軽く考えて。

名越は画用紙の上に走らせる筆の音を軽やかにさらさらと立てながら、こだわりのない口調でさらっとその質問に答えた。

「うーん、そうだなぁ。デッサンならそりゃ、他の誰かに引けを取るようなことはないけどね。総合的に見るとまあ、真ん中ってとこかな。他人よりいい部分もあるけど足りないところもあり、って感じだよ」

「ええ?そんなことある?あんたが真ん中って、嘘でしょ」

お世辞でも何でもなく心から意外な答えだったし、ぎょっとした。

「名越が真ん中なら、上位半分はどれだけ巧いんだっての。てかもうプロじゃん。そんな修羅の世界じゃわたしは絶対通用しない、無理なんですけど。…謙遜だよね?ここに来て趣味の悪い過剰な謙遜かましてるんじゃないの?そうだと言ってくれ、お願いだから」

まじでそんな環境、講習費用全部負担してくれてもごめんだ。どう考えてもわたしレベルは底辺になること確定だから。最初から行くだけ無駄なんですが…。

「まあ、落ち着きなよ。多分笹谷の考えてるのとは全然違うと思うよ、美術系大学の受験って」

背後から聞こえてくるその声はほとんど面白がってる。きっとわたしが慌てふためいてるから楽しいんだ。いい反応出た、くらいのテンションなんだろうな。何だか腹が立つ。

「前にも言ったけど、デッサンと画力の強い順にずらっと並べて上から選ばれるわけじゃない。これは芸大に限らずどこでもだよ?てか、じゃないと笹谷みたいな個性派の立つ瀬ないだろ。どこの大学も俺みたいなのでびっしり枠が埋まっちゃう」

そうだけど。正面きって言い切られるとこれもまた小憎らしいなぁ。

ぺたぺた、と筆が画用紙に触れる音をバックに名越は懇切丁寧に説明を重ねる。

「大学だってさ。ただ巧いよりもはっちゃけた、他の誰とも被らない強烈な個性が欲しいんだよ。多少は技術が荒削りでもバランス感覚歪でも構わない。まあ、多少はね」

「わかってる。最低限の水準は必要だって言うんでしょ」

口を尖らせてそう言い返したけど、そもそもその求められてる水準に自分が到達できるって気がしないから…。まあいいや、細かいことは。わたしは受験するわけじゃないんだし。

「てか、美大のセレクション通るような学生なら入学後でも技術面は何とでもなるから。問題は絵づくりの力というか、作家性なんだよね。…俺はあんたと違って。そっち方面の天分が正直、頼りないから…」

「そうかなぁ。いつもそれ、名越は言うけど」

わたしは素直な疑問を口にしつつ首を捻る。

「普通にあんたの絵、わたしは好きだよ。そりゃ突拍子もない想像力が爆発してたり異空間や非現実物が登場したりはしてないけど。リアルな中にも独特の雰囲気があっていいと思う。抒情的というかさ」

確かにぱっと見、絵面の印象は地味なんだ。でも見てるうちにじわじわとなんかいいな、と思えてくる。だから特にこの人が絵づくり苦手だとは思わない。

まあ、確かに目立たないけど。アピールもあんまり上手くないとは思う…。本人はめちゃくちゃ派手なのに、不思議だ。

「…そっか」

名越はしばらく黙ったのち、ぽつりと短く呟いた。

「なんか、そう言ってもらえると。…ありがと、笹谷。ちょっと元気出る」

「いいえぇ」

何だ、意外。こう見えてちょっと凹んでたのか。

まあ、そりゃそうか。あんなに巧いのに予備校行ったら評価が真ん中へんだったらいくら自信満々な名越でもさすがにどうして?となるだろうな。

少し気の毒になり、そちらに背を向けたまま突慳貪な口調ながら一応さらに慰めのフォローを入れてやる。

「予備校や大学の評価の基準は知らないけどさ。あんたの良さが通じる可能性は全然あるし、何ならその絵づくりとやらを勉強する時間は普通にまだまだあるじゃん?そのための予備校でしょ。きっと大丈夫だよ、名越なら。むしろ評価しない方がぽんこつ」

「いやまあ。…そう褒められると。弱るな…」

珍しくやけに照れてる。それからよほど褒め殺しに参ったのか、急にぱっと声をいつものように弾ませて話を変えてきた。

「うん、つまり俺についてはまだこれからの努力次第だけど。笹谷ならもう今の段階でも、絶対いい評価出ると思うんだよな。だからさ、やっぱり冬には一緒に通おうよ。あの連中に見せてやりたいんだ、あんたの絵を。きっとおお、ってなるってみんな」

「そんなことないよ。そうなるのは名越だけだよ…」

また話をぶり返してきた。

今度は弱るのはこっちだ。と当惑しつつ自分の絵の仕上げに没頭するふりをして返答をごまかす。そもそも講習費用をどうするのか、普通の予備校じゃなくてわざわざ美術専門の予備校に通う理由を親に納得してもらえるのか。

問題は山積み過ぎる。…でも、そうだな。

内心でこっそり、口に出さずに考える。そこまで名越が自信を失くしかけるほどの厳しい環境って一体どんな感じなんだろ。他の生徒はどういう絵を描いてるんだ?

いわゆる受験絵画ってやつなのかな。話だけだと上手く想像できない。ちょっとだけ、その人たちの描くものをこの目で見てみたいかも。…と、このとき初めてうっすらと心の底で思った。

自分でもどれだけ本気かは疑わしくて、絵の勉強をしたいとかは全然なくてただ理由は純粋な好奇心だけ。…って気はしなくもない、ように思える。…けど。


「…はーい、じゃあ次。こっから二年の絵ね。まず最初は、…棚田さん」

「はい」

その晩、二回目の講評が始まった。

ほとんどの人はもう仕上げの一歩手前くらいまで絵が仕上がっていて、ほぼここでの講評が本番という感じ。あとはこことここを手直しして、ここをもっと丁寧に。みたいなアドバイスが牧先生から出されて、それを基にして明日最終的な完成を見るわけだ。

「よく出来たもの何枚かは美術室に掲示するから。文化祭終わったから展示がないと思って気を抜き過ぎたら駄目だよ。合宿は遊びじゃない、立派な部活動の一環だからね」

講評前に全員を前にして叱咤する先生の声を右から左へと聞き流しつつ、掲示するったって美術選択コースの人たちの絵もいつもたくさん並んで貼られてるし。スペースが足りなさそうだからせいぜい数枚だろうな、一体誰のが選ばれるんだろ。とか漠然と考えてた。

「…次。笹谷さん」

「あ、はい」

まじでぼんやりしてて順番が来たのに気づかなかった。慌てて半腰で立ち上がる。

夕食前に回収されたわたしの描きかけの絵が先生の手でみんなの前に掲げられた。とは言ってもあとは細かい部分の描き込みと仕上げだけ(明日の午前中は大して時間の余裕ないから、そこで終わらせること考えると今日中にある程度完成に近づけておかないと間に合わない)。だからどういう絵面なのか、もう今の段階でほとんど把握できる。

絵を見せられてる部員たちの中からへぇ、とかおお。なんかかっこよ。などの控えめな声がちらほらと上がった。

もっとも窓側の一番端っこに陣取ってる名越に関して言えば、満足そうに腕組みしてただ全体の様子を見ているだけで自分はほぼ反応を見せない。それは当然で、さっき提出する前に既にわたしとお互いの絵を見せ合っているからな。

初見の反応がここで出ないのは当たり前。それよりも他の部員がちょっと感銘を受けた様子なのをさも得意げに見渡してるのが何とも…。一体あんたはわたしの何なんだ。後方支援者面とはこのことか?

「えー、っと。なるほどね。こういう仕上がりなんだ」

「はい」

まっすぐに立ち上がって牧先生の呟きに返答する。

絵の中で、一番に目立つのは画面の右三分の一ほどを大きく占めるイタドリ。

これを絵画教室で身につけたありったけのデッサン力を駆使して、微細にリアルに鮮やかな色合いで仕上げた。ここに力を入れたので草の部分は今の段階でほぼ完成。

背景の空と海辺と町の部分は、前にも言った通りにぼやかすのではなくここもきっちりピントを合わせて些細に描写。だけど思いきり彩度を下げて、ほぼセピア色に近いくらいに色合いを落とした。

牧先生はボードにマグネットで貼ったその絵を見やり、軽く腕組みして考え込むように言葉を続ける。

「ピントを外すんじゃなくて背景の彩度を思いきり下げて遠近感を出そうとしたのか。…やりたいことはよくわかる。普通の遠近法と違ってちょっと非現実感というか。リアルなようでリアルじゃない、不思議な違和感を出そうとしたのかな」

「はい。…まあ」

概ねその通りです。

作品の意図をひと言であまりにも的確に言い当てられてしまいもうわたしには言うことがない。傍から見ても見え見えで悪かったですね、と首を縮めたけど先生としてはめちゃめちゃ文句をつけたい。というほどの気はなかったようだ。

「狙いとしては悪くないよ。君の絵全般に共通してる独特の空気も感じるし。空想画じゃない、現実の題材だけでも同じような表現ができるってのは伝わってきた。さらにこの上デッサン力が上がれば、もっと作者の意図が見る人に完璧に伝わりやすいと思うよ。…これは、まだ仕上げが残ってるんだよね?特に背景の町並みの細かい描き込みとか」

「はい。…それは、もちろん」

やっぱデッサン力を突っ込まれたか。

内心自分でも、思い描く理想の出来上がりにするにはもう少し画力があったらなぁ…とちょっと残念に思わなくはなかった。

せめて(というには過大な願いだけど)名越くらいの技術があればなぁ。写真のようで写真じゃない、複雑な違和感を演出できる仕上がりになったはずなのに。

頭の中でイメージしてるものをそのまま紙の上に表すほどの腕が自分にないのはやはり否めない。もっと精進せねば。

「じゃ、次。…国崎」

「あ。はい」

そこでわたしの講評は終わってあっさり次へと移った。

割と淡々と進んだが、二人ほどみんなの前でけちょんけちょんにやられてる生徒がいてわたしの知ってる限りではその人たちはT藝大とO芸大を目指してると噂されてる部員だった。

牧先生に師事して特別に目をかけられてるという話だったけど、贔屓されるんじゃなくてかえって厳しくびしびし鍛えられるんだな。まあ、その方が順当か。

甘く接したってそれで難関校に受かるわけじゃないもんな。むしろ当たり障りなく講評されて流される方が、先生にとってどっちでもいい存在ってことになる。わたしへの評価が比較的穏当だったのもむべなるかな、だ。

「えー…。そしたら次。…名越か」

「はい」

そろそろ二年も終わりかな。というところで呼ばれたその名前。やけに通る声ではっきりと返事するのを聞きながら、あーあの絵かぁ。と何とも微妙な気持ちになった。

さっき既に見てるからね、わたしは。けどそれにしても、何でこの構図にしたのか…。まあ、いいけど。描き手の勝手だし。

「…相変わらず画力については大したもんだな。藝大受けるかどうかは決めたのか?」

「…どうでしょう。両親と相談して納得してもらってからの話になりますね」

しらっと大真面目な声を出す名越。実際には親にはお前の好きなようにしていいよ、姉さんが事業やりたいって言ってくれてるし。とお墨付きをもらってるはずだが。

まあ牧先生に目をつけられてびしばしやられたくなんかない、と考えるのにはわたしも同意だ。きっとぎりぎりまで交わし続けるつもりだろう。こいつならきっと最後まで何とか上手くやると思う。

「もちろんスキルは高いし腕については文句のつけどころがあんまりないけど。あとはまあ、個性というか。名越じゃないと描けないものって何なのかっていうのと、もっと我を全面に出していけたらいいと思うよ。よくも悪くも綺麗にまとまり過ぎてる。まあまだ受験までは間があるから。それまで見聞を広げて、世界を見て…」

「はい。よく言われます」

さらりと返したけど、珍しくその声の裏に閃く細い刃のようなものを感じてわたしは思わず首をすくめた。

だけど牧先生にもその場にいた他の部員たちにも、不穏な気配は特に感じ取られなかったらしい。何事もなかったかのように平然と、先生は名越に視線を当ててストレートに尋ねた。

「それで。今回のこの絵で表現したいものというか。制作意図はどんなこと?テーマを説明してみて」

「はい。…『好きな景色、ずっと見ていたい光景』です」

にこやかに意気揚々と宣言され、わたしはうっかり吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

何故なら、既にさっきわたしが得意げなやつから見せられてたやけに達者なタッチで描かれてるその絵には。

広々とした真っ青な空と漂う白い雲、そしてブナの大樹。それだけじゃなくはっきりと、小さな椅子に腰掛けてこちらに背中を向け、筆を手に前屈みに画板に向かってる女の子。…つまりはこのわたしが、まるで主人公のようにその中心に描かれていたから。なのだった…。


「はーい、じゃあ全員に花火行き渡ったかな?まだの人手ぇあげて!」

二日目の講評が全て終わったあと、今夜が合宿最後の夜。

三年生の先輩(一応、まだ引退前の部長らしい)がみんなを仕切って呼びかけてる。場所は海辺の砂浜。

明日は最終日ってことで、打ち上げもかねて全員揃ってぞろぞろと宿からここまで歩いて移動してきた。夜の浜で最後に花火大会ってわけだ。

もちろん、人家が程なく近くにあるからあんまり騒がしいことはできない。打ち上げや大きな花火とかは迷惑過ぎるので、ドンキで買ったみたいな手持ち花火の大袋を開けてみんなに手渡して回ってる。

ろうそくとバケツの準備も完璧。近所の人たちの迷惑にならないように声は抑えてね!と注意して回ってる副部長と二年生のリーダー的な部員(おそらく彼女が次の部長に内定してるんだろう)の様子を見てると、あそこの高校の子たちがうるさい。とか学校に苦情がいかないようにと、顧問も上級生も心を砕いてるんだなあと実感する。大変だね、今どきの若者は。

と他人事みたいな顔して棚田ちゃんたちとろうそくの順番待ちをしてたわたしの方に、背後から聞き慣れたあの声がかかった。

「…笹谷」

振り向くと、手持ち花火のひらひらの部分に既に炎が点いたのを持ってもう片方の手で名越が近くに来るように手招きしてる。火を分けてやるからこっちに来い、というつもりらしい。

列の先を見ると人数に比して明らかにろうそくの数が足りなくて、なかなか順番は回ってきそうにない。名越はさすが、特に誰かと仲良い様子でもないのにこういうときはしれっと誰よりも早く火にありついてる。要領の良さ相変わらず半端ないな。

わたしたちの後ろにもまだずらっと並んでるし、そっちに移動して列を抜けた方が早く進んでいいよな。と思って足を踏み出し、棚田ちゃんと山内ちゃんの方を見て向こうで火をくれるって。と一緒に移動するよう促そうとしたけど。

二人は何故かちょっと慌てた様子でぱたぱたと小さく手を振り、いいから行け。と身振り手振りでわたしに指示するばかり。

「わたしたちのことは気にしないで。…笹谷ちゃんだけで。いいから、もう」

「邪魔できないよ。思い出作っといで、せっかくのチャンスじゃん」

「いやだからあの。…そういうんじゃないって」

何度も言ってるのに、二人にはもう。

彼女たちの方へ戻って弁解しようと思い、踵を返しかけたらさらに焦った顔つきになって手で名越の方へと押し返そうとする。

「気ぃ遣うなって。…ほら、彼待ってるよ。ぐずぐずしてると火が消えちゃう」

「わたしらお呼びじゃないから。照れんなって、早く行け」

だから。…ああもう。

ここで押し問答をしてる方が目立ってしまう。あとでしっかり念を入れてまた一から説明しないと。と胸の内で気重なため息をつき、わたしは諦めてこっちにじっと目を向けて待ち受けてる名越の方へととぼとば移動した。

「ほら、早く。のんびりしてると火が消えるってば」

待ちかねたような声で名越に文句を言われる。わかってるよ、もう。

招かれるままにやつの隣に収まった途端に、名越の手にした花火のひらひらが燃え尽きて火薬に火が移り、一気にしゅわーとカラフルな炎が迸る。不意を突かれてびくっとなったわたしを面白そうに眺める名越。

「もしかして火が怖いの?猫みたいだな。代わりに点けてあげようか」

「いい、いい。自分でやれるよ」

周囲からまたあの二人、いちゃいちゃしてるよ。と見られてるんだろうなと思うと他の部員のいる方を見られない。幸い名越が花火の先から出る炎を海の方向に向けたので、わたしもその横に立って誰も立ってない波打ち際の方へと身体の向きを変えた。

促されて急いで彼の花火から迸る青い炎に自分の手持ち花火の先を添える。なかなか点かない。

「もっと、ぐっと近づけたら?腰が引けてるんだよ」

「う。…わかってるよ」

うるさいなぁ、と口を尖らせて頑張って試行錯誤してたらいきなりしゅわあっ!とすごい音がして炎がばちばち跳ねた。…うわ、こういう形式のやつか。

「ひっ」

「やっぱ怖いんじゃん。…ほら、こっち持ちな。取り替えてやるよ」

くっ、絶対いちゃついてると思われてる。

誤解を招くようなこの展開は無念ではあるが、ばちばちと激しく火が弾けるタイプのこの花火は苦手だ。それ以上意地を張る気にもなれず、まっすぐ一直線に炎が出る名越のと素直に取り替えてもらった。

しばらく二人並んで暗い海面を見つめながら、しゅわーというどこか心地よい花火が燃え進む音を聴いていた。背後の少し離れたところで他の部員たちが楽しそうにはしゃぐ声や、花火がしゅわぱちぱち、とそこかしこで弾ける音が響いて入り江の空間に反響した。

「…よかったな。こういう機会があって、今年の夏は」

普段より少し低い声でぽつりと名越が呟く。わたしはその言葉の意図が読めなくて何の気なしに訊き返した。

「『こういう機会』、って?」

やつはこちらに顔を向けず、手許でばちばち弾ける凶悪な火花に怖気づくことなく眼差しを注ぎながら淡々とした声で応じる。

「こういう合宿とか。…夏休み明けたら修学旅行もあるけど、クラス違うからさ。あんたとは。そんなに一緒に行動する場面もないだろうし」

「まあ、そうだろうね。大体クラス単位だろうから、ああいうのは」

軽く首を傾げて頷く。

班行動の日もあるにはあるけど、当然グループ組むのは同じクラスの子とだろうからな。それぞれのクラスが選ぶコースによっては出先で顔を合わせるかどうかも怪しい。それはもちろんわかってるけど、気にするほどのことか?

「わたしさすがに修学旅行中は絵とか描かない。普通にただ旅行するだけだよ」

「そりゃそうだよ。推しが絵を描いてるとこ見過ごせないぜとか、そういう意味じゃない」

じゃあどういう意味なんだよ。と思ったが面倒くさい話になるとやだなぁって気持ちが強くて深くは追及しなかった。

「別に何も修学旅行でまで一緒じゃなくてもいいじゃん。どうせわたしたち美術部でも絵画教室でも顔合わせてるし、普段から」

「そりゃそうだけど。いつもと違う空間にいるあんたも見てみたいじゃん、俺としては」

なるほど。

海とか山とか、超都会のビル群とか(確か今年の修学旅行の行き先は東京だ)。普段と違う環境に放り込まれたわたしが何に気を惹かれるかとかも気になるってことかな。

いずれあとで描くものを見ればそんな情報はちゃんと出力されて目の当たりにできるのにとは思ったけど、もしかしたら推しの絵描きがインスピレーションを得たその瞬間も見ていたいって考えなのかも。因果なことだ。

わたしにはそんな『推し』がいなくてよかったなとしか…。だって、願いが叶えられるたびに一層さらにいろいろ欲深くなっていってすごく面倒そうだもん。

「そっちでも何とかして一緒に行動する隙間を捻り出せないかなぁと画策中だけど。それはそれとして、こんなイベントがあってよかった。おかげで充足したよ、高校二年の夏が」

「そりゃよかった」

本当は予備校にも連れ立って通いたかったのになと花火をばちばちいわせながらしきりに悔しがる名越。

冗談じゃない、そこまで付き合いきれないよ。まあだからといって特にわたしの夏が充実してたわけでもなくて。ただ単にずっとだらだら過ごしてただけなんだけど…。

そろそろわたしの花火の方の火が消えそう。先に名越が火をつけてたやつだから早く終わるのが当たり前なんだけど。しゅうぅ、と弱まり始めた緑色の炎に目をやりながら名越はいつになくしみじみとした声で言葉を継いだ。

「今日のことはこの先ずっと覚えてると思う。…この景色のことも。暗い夜の海、花火の色とか音や匂い」

「うん」

こいつにしては珍しくセンチメンタルだな。と思わなくはなかったけど、茶化す気にはなれずわたしも素直に同意して頷いた。

「気持ちわかるよ。なんか、今ここにしかない空気。…って感じ」

しばらくはこの生々しい記憶が脳裏にくっきり焼きついていても。そのうち時間の経過とともに自然と色褪せて、薄れていくんだろうな。

それは少し残念だと思うと同時に、だからわたしは絵を描くんだ。この情景や空気感、今の気分を何とか再現してどうにかして絵の中に閉じ込めたい。

わたしに限らず、絵を描く人のほとんどがそんな気持ちで筆をとるんだろうな。と考えたそのとき、ふと頭の端っこに今日見た名越のあの描きかけの風景が一瞬浮かんだ。

青い空と真っ白な雲、影を落とす大樹のそばにわたしの頼りない後ろ姿。

あの情景をどうしてかこいつも、紙の上に封じ込めたいと思ったのかな。とちらと考えたけど。

ほぼ同時にやつの手持ちの花火が残り少なくなった火薬の最後の力で一層大きな音を立てて弾け始め、思わずびくっとなってしまったわたしの頭からそんな思考は刹那でかき消えてしまったのだった。


《第11章に続く》


名越との話のときはまあまあ大体、絵の話になりますね。美術部の合宿ってこともあり全編わりと真面目に美術の話をしてた気がします。

名越と直織の間で友達の多い少ないで論争してましたが、名越は実際に友人が多いことを特に自慢に思ってもいないしそれなしではいられないと感じてもいないようです。

彼にとっては周りに常に人が集まってくるのは物心ついた頃から当たり前のことで、そのために自分が努力したわけでもないので別に誇る理由がないと捉えてるんだと思います。

彼にとってはクラスで大勢に囲まれてるのも美術部でソロで平然としてるのもおそらく同じ理由で、周囲の人がそれを望むから。っていうだけのことで深い意味はない。クラスや軽音ではみんな名越といたがるけど、美術部では特に名越がどうとかいうわけじゃなくて皆がお互いに話しかけなくていい。という空気を出してるのでそれに従ってるだけだと思います。

基本、周りに他人はいてもいなくてもいい。というスタンスで、それだけ人に対して関心がないんでしょう。そういう意味でかなり情は薄いタイプだと言えそうです。

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