第1章 海の見える坂道の街で
のんびりと地方都市で育ったお絵描き好きの女の子がある日突然美術ストーカーの同級生に遭遇するお話です。
とは言っても人怖とかホラーサスペンスでは全然なくて、ちょっとだけ才能を持って生まれた地方の子が他人から見出されて困惑しながら成長する話…とでも言えばいいでしょうか。リアルベースの青春ものです。一応恋愛もあります。
「…そうだ。海に行こう」
他に誰もいない一人きりの室内で。わたしは自分に言い聞かせるようにぽつりと声に出して独りごちてみた。
ぽっかりと予定の空いた、夏休み明けのある日の午後。
親から頼まれた通りに夕飯のためのお米も研いでタイマーセットしたし、味噌汁のための出汁もとってある。
今から取りかかると早く出来すぎて夕方までには風味が飛ぶ。わたしはくたって味が馴染んでしまったお味噌汁、結構好きだけど母はときどきちょっと文句を言う。何も必要以上に急いで言いつけを済ませて、結果余計な愚痴を聞かされるほどのことでもない。
メインのおかずは母が仕事帰りにスーパーで何か出来合いのものを買ってきてくれるはず。だからまだ時間はあり余ってる、今日は高校の授業が午前で終わりだったから。
友達と帰る途中にファストフードで昼飯を済ませたけど、それでもまだ夕方までだいぶ間がある。久しぶりに外で絵を描こう、と思い立ったらちょっと気持ちが浮き立ってきた。
特別なものは必要ない。自室に戻ってばたばたとスケッチブックと鉛筆、何本かのカラーペンをトートバッグに放り込み戸締りをして家を出る。
高台にある自宅の玄関を出るともうそこから、眼下の住宅地の合間にちらちらと光る海面が見えた。
うちよりさらに高いところにある展望台のある公園に行けば、そこから海の全容が望める。けど今日は思いきり視界いっぱい、間近に広がる生々しい海を感じたい気分だ。
それに、高台の公園は団地の敷地と繋がってる。
絶対に知り合いと顔を合わせそうだし。正直絵を描いてるときはなるべく誰かと会いたくはない。
いつになく軽い足取りで、やや小走り気味に住宅の間をぬって海まで続く階段を駆け降りていく。身体の周りを吹き抜けていく風が真夏とはうって変わって涼しくて、ようやく秋が来るんだなぁ。という実感がある。
下まで降りて海沿いの建物の隙間を抜けると、ゆらゆら絶えず揺れる水面がぱあっと視界いっぱいに開けて広がった。
「…ふぅ」
潮の香りがふわ、と強くなった。苦手な人はもしかしたらこれだけでも顔をしかめるかも。
けど物心ついたときからこの近辺で育った人間にとっては、すっかり慣れてて特に何とも思わないくらいの空気だ。もっとも以前に半年ほど海外に出張に行って帰ってきたときに父が、久々だとやっぱこの辺海の匂いすごいな!と改めて感じ入ってたから。
わたしもいつかこの土地を離れて、久しぶりに戻ってきたらうわぁ…と思うこともあるのかもな。
などとやくたいもないことを考えながら、海浜公園の広場のタイル張りの広い階段の一番上の段にすとんと直に腰を落とす。
通行するためというよりもむしろここに座って海を眺めるために設えられた階段だから、端っこに寄って座り込んでても誰にも迷惑はかからない。空っぽの競技場の観客席みたいなものだ。
もっとも、女の人がここに座るときには汚れを気にして大抵何かをお尻の下に敷いてることが多いかな。レジャーシートとか、手許になければ代わりになるような雑誌とか。その辺で手に入れたチラシやパンフレットとか。
けどわたしは気にしない。どうせ誰にも見せる気もない普通の普段着だ。愛想もなんもない紺の無地のワンピース、確かユニクロ。帰宅して即、制服を脱ぎ散らかしてその辺にかかってるのを引っ掴んで着てきた。
だから、多少埃っぽくなっても砂がついても気にならない。立ち上がるときにお尻をぽん、と払えばそれで済む。どうせ脱いだあとはそのまま洗濯機に放り込むし。
我ながら雑というか。子どものときの感覚のままの振る舞いだな、と頭の端で考えつつ地べたに置いたトートバッグから手早くスケッチブックと鉛筆を取り出した。
しかしきちんとした大人になった自分て、未だにぴんと来ないし想像がつかない。いつまで経ってもわたしは案外このまんまなんじゃないだろうか。
周りの友達や、家族や知り合いが順当に成長して歳とっていっても。自分だけは何でか特に何の進歩もなく、ずっとこのまま。
…そんなどんよりしたイメージを振りきり、軽く頭を揺らしてぱらぱらとスケッチブックをめくった。不確かな未来のことなんて今、考えてもしょうがない。
せっかくぽっかり空いた時間を自由に使えるんだ。とりあえず絵に集中しよう。
…どれくらい時間が経過したのかはわからない。さあぁ、と強めな風が海面を渡ってきてぶわ、と雑に膝に被ってたスカートの裾を持ち上げそうになり、慌てて脚を閉じてそれを片手で押さえた。
危ない、すっかり集中してた。もしかして誰かに見られてたかなとぱっと眼下の階段の下、それから目の前の海岸に面してる護岸遊歩道の辺りに視線を何気なく走らせる。
もちろん意図的にこんなの注意して見てる人がいるとは思えず、誰かがこっちに視線を向けてたとしたら本当にたまたまだろう。どちらかと言えばお気の毒さまだ、見苦しいものをお見せすることになって。
それにどうせ下に短いレギンス履いてるし。こっちのダメージは大したことないが、うっかり他人の太もも見せられる通りすがりの人に申し訳ないと思った。けどありがたいことに、この時間帯はさほど人通りもないようだ。コンクリートでしっかり護岸されたからんと明るい海浜広場に人の影は見当たらない。
考えてみれば平日のまだ午後の二時かそこら。高台にある小学校の子たちが放課になるのももう少し先だ。
今日はうちの高校が早終わりだったのがむしろイレギュラーだったんで、こんな中途半端な時間に人通りが少ないのは当たり前。昨日とか明日なら、わたしもこんな屋外で呑気にのほほんと絵なんか描いてるわけないし。
ちょっと不意を突かれて慌てすぎたか。と軽く肩をすくめて再びスケッチブックに視線を落とそうとしたとき、背後でほんの微かに誰かの気配が動いたような気がした。
…何だって反射的に、ばっといきなり振り向いてしまったのか。そのときの自分の行動の理由はわからない。
背中や首筋に体温や息遣いを感じるほど気配が近かったわけでもないし。身の危険を察知してもいないのに、考えるより先に身体が動いて思わず背後を確かめてしまった。
あとで思い返すに多分、視線を感じたんだ。誰かに見られてる。知り合いか?それともわたしに何か変なとこがあるのかな、特別に注目を浴びるような?
結果論で言うとそこに人影はあった。
けど、漠然と予測してたよりもっとずっと遠い。公園の敷地の外側の車道沿いの歩道の上、フェンスの向こうだ。あんなに遠くにいる人の視線を背中で感じたっていうのか?さすがに気のせいなんじゃないだろうか、我ながら。自意識過剰すぎてちょっと恥ずかしい。
と、思ったけど。その人影は急に振り向いたわたしにちょっと怯んだのか、じっとこっちに顔を向けたまま固まってる。けど見ていた理由に疚しさはないんだろう、そのまま視線を逸らさず移動もせずに立ち尽くしたままだ。
わたしはあんまり視力がよくない。軽く目を細めてそちらを睨み、その人が知り合いかどうか確かめようとした。
わたしは物心ついた頃からこの辺りで育ってるから、昼間っから同年代の知人が偶然通りかからないとは断言できない。遠目にうっすら見た感じでは、それはわたしとあまり歳が変わらないくらいの男の子のように思えた。
けど、それだけの情報量じゃなぁ…。わたし自身は別に友達が多い方じゃないが、それでも中学や小学校時代の同級生もみんなまだこの近所に住んでるだろうし。あれ幼稚園のときのあの子じゃないか?とか考えてる人だったとしたら、もうこっちからは全然見分ける自信ない。
わたしは元来、特に他人の顔を覚えるのが得意な方でもないのだ。
わたしが上体を捻って振り返り、目をすがめつして彼の方をみつめてるのは明らかにわかってる様子なのにその人はぴたりと立ち止まってこちらを見返したまま身動きもしない。逆光気味なせいもありここからその表情は全く読み取れないが。声をかけてくるでもなく、何となく不気味だ。
向こうがこっちを見てる理由が不明なまま背中を向けるのも気持ち悪いし、わたしもますます目を細くしてそっちを見返すしかない。けど、そうしてるうちに。…何だろ、あの人。どっかで微妙に見た覚えがあるかも…。
知り合いか、と思うとちょっと目つきも真剣になる。やや身を乗り出しかけたとき、ふいとその人物は視線を足許に落として身体の向きを変えてゆっくりと歩き始めた。フェンス越しにその足周りにふわふわと弾む小型の毛玉みたいなものが見える。
…なんだ。
わけがわかってわたしは思わず両肩の力が抜けた。単に犬の散歩中なんじゃん、あの人。
フェンスと道端の雑草に隠れてよく見えはしなかったけど、おそらくあの地点で犬が止まって用を足してたんじゃないか。それが終わるのを待ってる間、仕方なくぼうっと海を眺めてた。っていうのがどうやら真相のようだ。
こっちにまっすぐ顔を向けてると感じたのは錯覚で、実際にはわたしの背後の海を注視してたんだと思う。だからこっちから見返されてもまるで動じず平然としてたんじゃないか。多分、わたしの姿は視界に入ってても見えてはいなかった。意識の外だったからこっちがじっと睨み返してることにすらろくに気づいてなかったんだろうと思う。
なのに相手を不審者みたいにじっと正体を探ろうと観察してたんだと思うと何とも言えない気持ち。…そもそも先方がわたしの存在に全然気を留めてなけりゃいいけど。
と、馬鹿馬鹿しくも気恥ずかしい思いで今度こそ絵に集中するか。と前に向き直った途端、今度は正真正銘わたしに向けられた声にびっくりして一瞬お尻が浮いた。…それもすぐそば、真横から。
「…ナオリ。ここにいたんだ」
「わっ」
散歩中、顔見知りの犬を見つけて遮二無二駆け寄ってきた大型犬。…というイメージが脳裏に浮かんでしまった。多分今、飼い犬を散歩させてる人を見てたせいだ。
声のする方に顔を向けなくてもわかる。そこに笑顔で尻尾を千切れるほど振ってる大型の和犬のような、わたしの同級生の姿があることは。
「下の名前で呼ばないでって。…言ってんでしょ、前から」
毒気を抜かれてぼそぼそと文句を言いながらぱたんとスケッチブックを閉じる。その男、保育園時代からの幼馴染みの吉村大智はわたしの手許に視線を向けて軽く肩をすくめた。
「いいじゃん別に。学校ではちゃんと苗字で呼んでるだろ?誰も聞いてないときまでそんなの気にするのか。てか、俺が来たからって別に描くのやめる必要ないのに。俺にはあんま、描いてるもの見られたくないとか?」
「いやそんなことはないよ。見られて困るようなものは、別に。…描いてないけどさ」
それはそう。でも、知り合いが横にいる状態で絵に集中できるほどわたしもガチの絵描きじゃないので。
吉村はそれ以上言葉の裏を気にした様子でもなく、わたしが閉じたスケッチブックに目線を据えて身を乗り出してきた。
「え、だったら見たいな。直織の描く絵、最近俺ずっと見てない気がする。前みたいに学校とかでも描けばいいのに。本当に見る機会ないんだよなぁ」
「いや、だって。もう美術の授業ないじゃん、高校って」
正確には選択すればある。けど、入学時にぎりぎり溢れた希望枠を争うくじ引きで負けちゃったから。高校で絵を描く機会って本当にないんだよな。
「中学のときは全員美術あったからだよ。別にあえて学校で描きたいとかまで思ったことない。一人で何処ででも出来るわけだしね、絵を描くことなんか」
「そうかぁでも惜しいよな。小学校とか中学のとき、廊下に展示されてる直織の絵好きだったな。中学じゃ今でも直織の絵、額に入れられて校長室前に掲示されてるみたいだよ。碧がこの前教えてくれた」
碧は吉村家の次男で今中1だ。うちの弟の一個下で、物心ついてからの幼馴染みだし今でも仲がいい。
「そういえばあの絵、結局卒業するとき返してくれなかったな。美術の先生気に入ってたみたいだったけど、こっちから何も言わないでいたらまさかそのままだとは。どうせ先生異動して残されたらいらなくなって処分されるんだろうし、そのくらいなら返却してくれたらいいのにね」
「作者本人が言えばさすがに返してくれるんじゃないの。…え、で今は何描いてたのさ。海とか、向こうのあの船?」
「ううん。全然関係ない」
そこまで見たいんなら別に構わないから、見れば。と描きかけのページを開いて見せてやる。やつは案の定、ちょっと目を丸くして苦笑するような声を出した。
「え、てか。…これ海全然関係ないじゃん。目の前の景色と違いすぎるだろ。何を描いたつもりなの、直織としては?」
「笑うならいいよ。別に」
まだ描きかけだし、わかんない人にいちいち説明するのも面倒くさい。と肩をすぼめてスケッチブックを閉じてしまおうとすると手を伸ばしてきてそれを阻んだ。
「全然笑ってなんかないよ。てか俺、直織の絵好きだよ。ずっとガキんときからさ…。もちろん俺は絵について別に詳しくなんかないから。これが何を表してるのか正直わからないけど」
そう言って描きかけの鉛筆画に見入る。吉村の言葉に嘘とか悪意がないのは知ってるから、わたしは何とも反応しがたく、テンション低く無表情にぼそぼそと返すのが精一杯だ。
「…まあ、まだ描き始めたばっかだし。色もつけてないから、誰が見ても何がなんだかわからないのはしょうがないよ」
「そっか、俺が頭悪いからなのかと思った。…で、これ何なの?」
「うーん。…何だろ。森、かな…」
説明が難しい。
「わたしの頭の中にあるものをそのまま出してるだけだから。ひと言で表せるんならそうしてる、絶対その方が早いし…。なんか、自分にだけ見えてるものを他人にも見えるような形にしてみたいんだよね。絵はその手段っていうか」
「ふぅん…。面白いな、直織の頭ん中。じかにそのまま覗いたら一体どうなってんだろ」
伝わったのか今いち伝わっていないのか。判断に迷うような反応を見せて首を捻って、手に取ってしげしげと眺めたあとスケッチブックを返してくれる吉村。
「色ついて完成させたらまた見せてよ。どういうイメージだったのか、ちゃんと出来上がったのを見たい。…でもなぁ、いつも思うけど。頭の中の情景を描くんなら別に、わざわざ外に出て海を見ながら描く必要ってなくない?」
ともっともな疑問を冷静に口にした。うん、そう指摘されるのはさすがに予想がついてたよ。
「いいでしょ別に。外の空気の中で描きたかったの。風を浴びて波の音を聴きながら描きたいなぁと。…勉強だってそうじゃん。一人で勉強するのにわざわざ街中に出て、図書館の自習室とか。ファミレスとかでやる意味って考えてみれば特にないじゃん?それと一緒だと思う」
わたしはまだ学生だからよくわかんないけど、必要もないのにあえてカフェで仕事してる人とかもそうなのかなと。
自分とPCで完結するんだから自室内でやればそれで済むのに、人のざわめきや賑わいの中での方が集中できるってやつ。それにちょっと近いんじゃないかな。よく知らないけど。
「自分の部屋で描いてればそりゃ、静かだし落ち着いて描けるわけだけど。なんかたまにちょっとだけ息苦しさを感じるような気がするんだよね。外の新鮮な空気感じたいかなって…。ただでさえずっと閉じこもって縮こまって描いてると、なんか不健康に思えてくるじゃん」
「まあ。…どうせ外でも固まった姿勢で身動きもせずにずっと描き続けてるから、これが健康的かというと判断に困るけどな。あ、もしかしたら。野外で潮風や波の音を感じながらだと自然と画風も開放的になるとか?なんか出てくるものに影響あんの?」
興味津々に描きかけのスケッチブックを自分の方へと引き寄せてしげしげと検める吉村。わたしはのほほんと首を小さく傾げた。
「えー?いや、どうだろう。多分あんまり変わんないんじゃないの。だって、頭ん中に最初からあるイメージだからさ…」
「変わんないんかい!意味な」
爆速で突っ込まれてしまった。
他の絵も見ていい?と一応了承を求めてくるのでまあ、別に。見られて困るようなもの描いてないし(『これは何?』とかいちいち詳しい説明を求められると困るけど。自分でもよくわからないものもあるし…)と考えつつ許可する。吉村はさっそく前のめりな姿勢になってゆっくりページをめくり、一枚一枚丁寧に目を通し始めた。
「…ふぅん。高校に進んでからまた描き方変わったね。色のつけ方とか立体感とか、なんかすごく上手くなってるよな。ちょっと、プロの画家みたい」
「それはさすがに。褒めすぎだよ」
プロの画家がこの場にいたとしたら間違いなく切れるぞ。と気が引けて、肩をすくめて深く考えての言葉とは思えないその過剰評価を正す。
「専業の画家なんて日本全体でも数えるくらいだよ。それだけ大勢を惹きつけられる作品描ける人なんて超レアなんだから…。毎年美大に何十人も、多分日本全体なら数百人とか進むけど。そのうちどれだけがプロの画家になれるのかって考えたらさ。そもそも何の基礎もない、その辺のただの野生のお絵描き好きとは較べものになるわけないじゃん」
もともと絵にさほど関心のない吉村には、懇々とそう説かれても言うほどぴんとは来ない様子。
「そうかなぁ。でも、美術館にあるよく知らない人の絵って何となくこういう感じじゃん。ピカソとかゴッホとか以外でも、謎の無名の画家の絵って必ず飾ってあるよね?」
「それを無名と取るのは単にあんたが知らないからだよ…」
美術館に展示されてる時点で絶対その人は無名じゃない。中学の美術の教科書に載ってるレベルの画家しか知らない人間がそこを判断するのはちょっと…。
てか、吉村くらい興味が薄いと多分美術の授業で習った作家も記憶できてないよな。何かで以前たまたま話に出たとき、ブリューゲルとか菱田春草も通じなかったような…。いやテストに出ただろこないだ!って言っても、そうだったっけ?ときょとんと首を傾げてた。こいつ、よくうちの高校の内申足りたな。
とそんな風に考えてるわたしの胸の内も知らず、吉村は無邪気にわたしの絵を褒めたたえてる(多分。本人のつもりとしては)。
「ああいう有名じゃない、現代の画家とかの絵も美術館って結構いっぱいあるじゃん。そん中に直織のこの辺の絵が並んでかかっててもあんまり、違和感なさそう」
「吉村って、美術館なんて行くの。普段」
中学までは間違いなくそういうタイプじゃなかったし。幼少時から通ってる剣道か中学から友達と一緒にノリで始めた部活動のサッカーに熱を入れてた姿しか知らないわたしには、こいつがしんと静謐な美術館で真剣に作品に見入ってる絵面は今ひとつ想像できない。
けど高校生になれば関心事の幅も広がるし。わたしが知らないだけで、いつの間にか運動だけじゃなく文化系のものにも興味が湧き始めてたのかな。
中学まではよほど身体を動かすのが嫌いな子以外は、男子は何となく体育会系の部活を選ぶのが当然みたいな空気だったけど。高校はもっと、男女関係なくみんな自由に関心の赴くままに好きなものを選んでる印象だし。
そう思い直し、一応尋ねてみる。
するとちょっとびっくりしたようにどんぐりみたいな真っ黒な目をぐるんとさせてみせてから、やつはけろりとして無邪気に返答してきた。
「え、ほとんど行かないよ。けどこれまで何度か遠足とか校外学習とかで行かされたことあるじゃん。修学旅行んときとかさ」
小中高俺たちずっと同じ学校だし、直織も覚えてるだろ?確かあの年の遠足で…といくつかの美術館や博物館の名前を並べ立てた。
「そうだっけ。…さすがに小学校の遠足んときのとかは。覚えてないや」
ていうか、この近辺の美術館だったらどうせそのあと自力で行ってるしな。おそらくそうやって記憶が上書きされてるんだろう。
大体校外学習なんかで美術館行ったって、絶対ゆっくり自分のペースで気が済むまでは見られないし。みんなの流れに合わせるよう先生に急かされるだけで。
吉村はふんふん、と感心したような声を上げながら(そこまで絵に興味はないくせに一体何に感心してるのかは不明)次々とわたしの過去のスケッチに目を通しつつ、ふとその場で思いついたように付け足す。
「でもさ。だったら直織もちゃんと正式な絵画の勉強して、美術系の大学行けば?美術大学出てればそりゃ確率は低くても画家になれる可能性、ゼロじゃなくなるんだろ。それなら本気で取り組めば少なくともスタートラインには立てるんじゃん?」
てか、直織なら全然いけそう。こういう絵って絶対好きな人いっぱいいると思うよ?と明るい声であっけらかんと言われても、ねぇ。
「いやぁそんな低い可能性にかけるわけには…。大学四年間ずっと絵を描いて、そのあとどうすんの。ってなるから…。普通に考えれば、世間的には」
その辺、あまり突き詰めちゃうと難しい。と何となく流れで鉛筆やペンを片付けながら曖昧な声でテンション低く言い返す。
大体、他人事だからそう簡単に言えるんだろうけどね。大学行くのも自分の稼いだお金ってわけじゃないし、上手く将来の仕事に結びつけられるかどうかわからないような分野に全部振り込むような真似は…。もちろんそこまでの自信もないし。
中途半端などっちつかずのわたしの否定をどう受け止めたのか、吉村は肩をすくめてあっさり言ってのけた。
「まあ言いたいことはわかるよ。けどさ、本当に好きなら駄目もとでトライだけはしてみればいいのにさ。…直織って何だかんだ言い訳して、結局正式に絵を習うどころか。美術部にすら入らなかったんだから」
いや今さらそこを突っ込まれても。入学したタイミングならともかく、高1の夏休みももう終わっちゃったしなぁ。
わたしは首を縮め、どうせ無理だとわかってることに最初から後先構わず突っ込まなかったのをちょっと責められたような気になってますます下を向いてぼそぼそと呟く。
「…だって。絵なんかどうせ、一人で描くものでしょ。群れてる必要そもそもないよ…。それにうちの美術部、一応存在してるけど多分ほとんど活動してないんじゃないかな。みんな兼部のやつばっかみたいだし」
吉村は所詮他人ごとだからなのか、あくまでものびのびと気軽に思ったことをそのまま口にしてるようだ。
「うんまぁ、高校で美術部に入らなかったからって別にそれは。めちゃくちゃ後悔するほどのことじゃないだろうけどさ。でも、入学したときへえ、直織美術部入らないんだ。もう絵を描くの飽きちゃったんだなと俺は勝手に思ってたのに、結局ずっと今でも一人でこうやって続けてるからさ…」
特に気に入ったらしい砂漠の上に広がる星空の絵のページを開いて、わたしの方へと傾けるように広げて見せながら話の先を継ぐ。
「どうせ描いてるならこういう絵、もっとたくさんの人に見てもらえたらいいのになって。特に活動なんかしてなくても美術部なら学祭の展示スペースあるだろうし。そん中に飾られてる直織の絵、見てみたかったなぁ。なんか勿体ないよ」
「…文化祭の展示なんか。そんなにみんな、わざわざ見に来ないよ…」
もっと楽しいこといっぱいあるし、売店とかステージとか。教室でイベントとかの方にみんな行っちゃうと思う。
こっちのノリが微妙に悪いのを気にしてか。吉村は心配そうに眉をひそめて身を屈めたかと思うとひょい。とわたしの俯いた顔を下から覗き込んだ。…近いし。
「…直織ってさぁ。本当は自分の絵、他人に見られるのって実は結構嫌がってる?俺とかがこうやって見せてとか言いに来るのも迷惑だなとか」
「それは。別に全然、ないよ」
さすがにぶっきらぼうな対応過ぎて余計な気を遣わせちゃったか。とわたしは慌てて否定し、吉村の手からスケッチブックを受け取ってバッグにしまう。
「だって、ほんとに誰からも絶対見られたくないんなら。何もわざわざ頭の中のイメージを形にする必要ないじゃん。誰かに見られてもいいからあえて手をかけて現実の世界に描き起こすわけでしょ」
一応フォローしようとそう口にはしたが、実際にはもう少し曖昧。
誰かがたまたま目にしていいね。と言ってくれたらそりゃ嬉しいけど。そもそも脳内でイメージされてる光景はだいぶざっくりで漠然としてて、描き上げるまで自分にも全容ははっきりしてないんだよね。
それをわたしがこの目で確かめたいから、この世で実現したところを見たいから描いてる。他人さまの評価はその二の次かも。
つまり自分の一番の顧客というか、作品の受け取り手は実は自分自身なわけだ。
けど一応絵を褒めてくれてる相手の前で、他人からどう思われるかは割とどうでもいい。とかあえて口にするほどわたしも空気を読めないわけじゃないので。
そんなことはおくびにも出さず、ほどほどに濁して無難な受け応えでやり過ごした。
「せっかく苦労して描いたんだから。自分以外の人も見てくれるの、もちろん悪い気しないよ。かと言って別に響かなくてふぅんと流されても、それはそれで特に気にならないし。何が何でも無理してでもどっか褒めてくれよとか。そこまで図々しく求めるつもりもないしさ…」
むしろ感想要らないかな。ここをこうした方がいいとか傍から言われても。どうせテーマも作風も変えらんないと思うし。多分…。
つくづく自己内完結が酷い趣味だよなぁ、わたしの場合。と図らずもしみじみしてるわたしの感慨をよそに、その台詞を契機に吉村は何故か勢いづいてずい、と身を乗り出してきた。
「あ、じゃあ自分の絵が人前に出るのはいいんだ。いや、実は頼まれててさ団地のおっさんたちに。今年も直織ちゃんポスター描いてくれないかなって頼んどいてよ、って」
「ああ。…商店街の秋祭りのやつか」
吉村んちは高台の団地の一階部分にある商店街の電器屋を営んでる。今どき量販店には敵わないでしょ、とは思うが実際には古株のおっさんおばさんたちの目が黒いうちは意外に仕事が絶えないらしい。
何より修理とかメンテナンス相談のアフターケアが手厚いのが、年配層の客には喜ばれてる様子だ。近年はパソコン関連の実入りがなかなか馬鹿にならないらしい。
「おっちゃんおばちゃんたちはまず、どの機種買えばいいかからわかんなくてみんなうちに相談してくるし。買ったら買ったで、使い方わかんなくて逐一何もかも全部の操作訊きに来るからな。顔見知りの近所の電器店にしかできないフォローがあるわけだよ。というわけでしばらくの間、あの人たちの年代が軒並みいなくなるまではうちの店閉めるわけにはいかないんだよなぁ。まあ日頃からお互いさまだしな、商店街なんて」
このご時世、全国でも古い団地の商店街はシャッターだらけのとこも多いようだけど。吉村んちの団地では一階部分にずらりと並ぶ店舗の中でむしろ閉めてる方が珍しいくらいだ。
最寄りの駅から遠すぎず徒歩で行き来できて、若い住民もそれなりに入ってくるのと古くてごちゃごちゃした街並みのせいでイオンみたいな巨大モールが近所に建つ余地がなかったってのが大きいかも。世間じゃ建ったあと数十年の時を経て限界集落みたいになってる団地も少なくないと聞くから、あそこはまだ活気もあるし恵まれた方だと思う。
かく言ううちも、わたしが小学生の高学年になるまではそこの団地に住んでいた。すぐ近くに家を買って出たけど、そういうわけでわたしも一応商店街のおっちゃんたちとは知り合いだ。最近は団地の子の家に遊びに行くこともなくなり、すっかり彼らと顔を合わせることもなくなったが。
「子どもの頃はさぁ。直織の方から、お祭りのポスター描かせて!って頼み込んできたのに。最近はこっちからお願いしないと描いてくれなくなっちゃったよな、って加山のおじさん嘆いてたよ。せっかくここまでめちゃくちゃ上手くなったのに。中学んときはばっちり、立て看板まで作ってくれてたのにさぁ…」
「う。…だってあん時は。あんたたちもみんな手伝ってくれるって言うから…」
何となく文化祭的なノリで乗せられて、大勢で一気にわっと仕上げたんだった。そういえばそんなの描いたこともあったっけ。
「中学んときはまだみんな集まりやすかったから。冷やかし混じりに同級生も入れ替わり立ち替わり来てくれて、勢いで完成したけどさ。ポスターはともかく大物はきついな。まあ何なら、昔のやつ使いまわせば?まだとってあるんならだけど」
今からだとひと月くらいしか日数もないでしょ。と遠回しに牽制したけど、吉村はまるでこっちの台詞の裏の意を読む気もないらしくへこたれない。
「いや、声かければちゃんとみんな集まるよ今でも。むしろ、去年に較べたらもう受験終わってるだけ時間あるだろ。暇してるやつも何人か知ってるし。白濱とか舘とか。タケチとか」
「まじか。あの子ら、高校で部活もやってないのかよ…」
「いや直織にそれ言われたくないだろ、あいつらも」
そうか、じゃあオッケーだな。商談成立だ!と元気よく声を弾ませて立ち上がり、わたしにも立つよう促した。
「そしたらさっそく、打ち合わせ行こうぜ。よかった、ここにいてくれて。今日午後授業ないって言ったら、おっさんどもにじゃあ直織連れてきてくれって言われてたんだよ。さっきLINEしたのに、全然既読つかないからさ。家まで呼びに行っちゃったよ、留守だったけど」
「そりゃ誰もいないよ。わたしはここだったし、圭太はまだ帰って来ないでしょ。今日はあいつ、部活あるはずだし」
そしたらさっき感じた視線は吉村のだったのかな。こっちからは見えてなかったけど、住宅の間の石段を降りてるときに家並みの隙間からちらほらとわたしの背中が確認できてたのかも。
まあとにかく、詳しい話は団地の集会所で。うちの父ちゃんも今頃そっちに顔出してるはずだし、とわたしを立ち上がらせるべく手を差し出す吉村。何となくつられてその手のひらに自分の手を載せてしまい、よっこらしょと引き上げられながら慌てて言い募る。
「いやポスターはともかく。立て看はまだ受けると決めてないから…。てか、もうわたし団地の住人じゃないのに。そういうの、外部の人間が担当していいの?団地の若い子とかで自分がやりたいって思ってる子がいるかもよ、もしかして」
自分から言い出せないだけで。
そういう子がいるんならそっちに任せてあげて欲しい。とぼそぼそ言い張るわたしに吉村はあっけらかんと笑ってみせて軽く片付けた。
「大丈夫だよ。そんなの、昔の直織しかいないって。みんな大変だからメインではやりたくないって、碧や沙里奈の友達とかも」
失礼だな!団地の小中学生にひと通り声かけてみて、引き受け手がいないから外部のわたしに回ってきたのかよ、つまりは。
吉村は自分の前にわたしを立たせてからばんばん、と軽く二の腕を叩いて満足そうににっこりと微笑む。
「うん、でもおっちゃんどもはみんなほっとしてたよ。団地の中で描きたい子がいるんならそっち優先しなきゃだけど。やっぱ本音では直織に頼みたいみたいで、だって断然上手いからさ…。去年のポスターも好評だったし。前の立て看もそのままとってあるんだよ?」
なんか、インパクトあるんだよね直織の絵柄って。と付け足して、一緒に階段を上がるよう促した。
「それに、もう団地の住民じゃないから…っていうんなら、さすがにボランティアとは言わないし些少だけど謝礼も用意するってさ。現金じゃなくて商品券とかになるかもだけど。それでよければ」
いえいえ。
「別に。ただじゃやりたくない、ってごねてるわけじゃないよ…」
わたしはやや大袈裟にため息をつき、不承不承やつについて気の進まない足取りでとぼとぼと階段を上がった。
「…もう逃げたりしないからさ。手ぇ放していいよ。ちゃんと行きますって、もう。観念したよ」
「そう?」
わたしに抗議されてようやくまだ手を握ってることを思い出したらしく、不思議そうに自分の手許に視線を落としてからああ…と納得してばっと手を放した。
「ごめんごめん。癖でさ、碧はさすがに卒業したけど。沙里奈とか今でもたまに手を引くから、ついね。妹の感覚になっちゃう」
「何でだよ、同い年だろ。小学生と一緒にするな」
やっと自由になった手を軽く振りながら吉村んちの末っ子の妹の顔を思い浮かべる。
あの子ももう小5か。少し前まで幼稚園児だったのになぁ、早いもんだ。けど別にわたしには似てないだろ…。混同するか?普通。
機嫌よく喋りながら階段を上がっていく吉村。こっちはやれやれしょうがないな、って感情なのに、テンションの違いやばいな。と考えながら足許ばっかり見ていたから、階段を上がりきったところの歩道に達したとき、そこにまださっきの犬の散歩中の男の子がいることに気づくのが遅れて一瞬ぎょっとなった。
わたしたちがいきなり現れたのに反応して小型犬(多分ポメラニアン。茶色いの)がびっくりしたのかきゃんきゃん、と盛んに吠える。
わたしの先を行く吉村はそれに気づいておっとごめんね。と足許を気にしたけど、そのリードを掴んでる飼い主の方には見覚えがなかったのか。特に彼に声をかけようとはしなかった。
でも、これだけ距離が近くなるとさすがに顔が見えるけど。何となくどっかで会ってるような気がするんだよな…。
吉村のクラスは10組でわたしは2組。フロアが違うから、もしかしたら1組とか3組とか、こっちに近いクラスの子かも。今日この時間にうろうろしてる高校生くらいの子、うちの学校の生徒の可能性あるし。
と、思ってちらと顔を向けると彼が生真面目な顔でほんの僅か、軽く目で挨拶をしてきたように思えた。…やっぱ知り合いか?少なくとも先方はこちらに見覚えがあるのかも。
全然どこの誰かはわからないが、一応失礼のないように形だけぺこりと頭を下げておいた。
すれ違うときにわかったけど、かなり背が高い。細身でしゅっとして毛並みがよくていかにも育ちの良さそうな感じ。連れてるポメラニアンの手入れの行き届いた様子からみても服装的にも、いかにもお坊ちゃん。…という印象。
この感じだと少なくとも団地のときの顔見知りではないな。あの団地は普通の公団だし、特別柄が悪いとは思わないけど。…なんていうか、そのぅ。いわゆる庶民的な雰囲気だ。
高校は公立だけど、この辺じゃそこそこの進学校だからきちんとした家庭のご子息も普通にいるし。
そう考えたらきっとそっちでの関係者なんだろうけど。同じクラスでもない(と思う。これが一緒の教室にいたら、いくら周囲に関心を払わないわたしの意識下でも。さすがに最低限何がしかの印象あるだろ…)し、せいぜい廊下ですれ違うことがあるくらいかな。多分話したこともない。
なのにこっちはともかく、向こうがもしも本当にわたしのことを見覚えてたとしたら驚きだ。普通にしててもいかにも自然と目立ちそうな彼をわたしが無意識に記憶しててもおかしくないが。
何しろ適当に伸ばしたのを邪魔にならないよう無造作に上げてるだけのヘアスタイルに、身長は高校に入ってからやっと百五十センチを超えた程度のちんちくりん。学校では制服だから、というのが言い訳にならない地味地味タイプだ。化粧もしてないし邪魔にならないようきっちり切り揃えた爪もそのまま。当然髪も染めてない。
全然美人とか可愛いってほどのこともないし、絶対集団に埋没してるのになぁ。強いて言うなら背丈が小さ過ぎて逆に目立ってた可能性はある。それも百八十超えてる目線から見下ろせば誤差の範囲内、みんな等しくちっちゃくしか見えないような…。うん、やっぱり。さっきの会釈は気のせいだな。
なんか今日のわたし、自意識過剰が過ぎるようだな。別にこの人が好みのタイプだとかそういうわけでもないのに変なの。
ちょっともやもやしながら、賑やかに喋り続ける吉村の歩みに遅れを取らないよう慌てて足を早める。
「…それでさ、今年のポスターなんだけど。せっかくだから駅の方にも貼らせてもらおうかって言ってるんだよね。団地も今空室ちらほらあるから、興味を持ってふらっとお祭りに来たのがきっかけでここに住んでもいいなって気になってくれる若い夫婦でもいたらラッキーじゃん?小さい子のいる家とか、結構いいと思うんだよね。小学校も近いしさ…」
「…題材とかテーマとか、オーダーあるのかな。前の立て看にはつい、実際にはやらない打ち上げ花火盛大に描いちゃって突っ込まれたから。花火大会じゃねーぞって」
住宅街の合間を縫って上まで続く石段の方へと足を早めてた吉村はその台詞に反応し、ちらと振り向いて小さく笑いながら答えた。
「…まあ。お任せで好きに描いていいよって思われてると思うよ、直織に頼むからには。何注文したって結局、いつも何だかんだ描きたいものを描きたいように描くじゃん。まあ一種芸術家みたいなもんだと受け止めてるから、みんな。今さら何描いたって驚かないでしょ」
「いやいや、そんな。そこまでわたし、我が強くはないですけど」
ていうか、正直題材が決まってる方が描きやすいんだよ。特にポスターや看板なんてさ、自由課題じゃあるまいし。と文句を言うと、階段の麓で止まってわたしを待ってた吉村はまた手を差し伸べてきてこっちの手を取ろうとする。
「いいじゃん、せっかく何描いてもいいって言ってくれてんだから。自由に描きなよ。俺も見たいな、久々に直織のスケッチじゃない絵。その辺にいっぱい貼って飾ってあったら、きっと綺麗だろうなぁ」
「う。…多分今年は。花火じゃなくすると思うよ…」
とはいえ、どうしようかな。
季節感にこだわるとしたら、夏祭りなら脳死で西瓜描いてかき氷描いて、ひまわりとヨーヨーでとどめだけど。秋って何か描けばいいんだよ。ぶどう?栗、柿?…食欲に寄りすぎだな。
紅葉と鳥居で雰囲気出して…と思ったけど、神社の秋祭りじゃないんだよなぁ。何処で参拝すんの?本殿どこ?とか、通りすがりの一見のお客さんに言われかねない。うーん、どうしよ?
いっそ吉村や商店街のおっさんたちの寛容さに甘えて、めちゃめちゃ好き放題に描くか。イラストレーター志望の子なら迷わず萌え絵なんだろうけど…とか考えを巡らせつつ、上の空で吉村に手を引かれながら石段の一番下に足を載せる。
うちの父ちゃん直織と会うの久しぶりだからきっと喜ぶよ。と機嫌よく喋る吉村の背中の後ろでふと気になって歩道の方へ振り向くと、少し離れたところから立ち止まってじっとこっちを見てる男の子とポメラニアンの姿がまだそこにあった。
わたしが生まれた育った場所は、海辺にある小じんまりとした地方都市。
びっしりと住宅が建ち並んでるから決して過疎の町ではない。けど海沿いに迫る高台の後ろは山地で、人の住む場所は案外広くないし。
電車の駅はあるけど各駅停車の車両しか停まらないし、駅周辺はからんとしていて特に何もないから皆、買い物や遊ぶときには電車で二十分くらいかかる大きな繁華街のある駅まで出ていく。住宅街も団地も、開発が進んでからだいぶ経つのでそれなりに古びてた。
日本中どこにでも普通にある、ありふれた街だ。深い思い入れも特にはない。ただ、ここにしか住んだことがないからここしか知らない。それだけ。
別にのんびりと平凡なこの街が嫌いだとかいうわけじゃない。子どもの頃からの顔見知りも近所にはまだたくさんいる、おじさんおばさんや同世代の子たちも全部合わせれば。
うちみたいに途中で団地を出て行った家族が、みんなこの辺に家を買ったり建てたりしたわけじゃないので、さすがに近年は地域に留まってる幼馴染みの数も半減した。
けどもちろん、吉村んとこみたいに今でも団地にそのまま住んでる知り合いもそれなりに残ってる。やつの家は店が敷地内にあるから、そのまま住み続ける方が便利っていうもっともな理由もあるし。
だけどお互いの家を訪ね合うような女の子の友達はほとんど出て行ってしまって、中学を卒業したらわざわざ団地まで顔を出しに行く機会はほぼなくなった。吉村なんかいたって、カジュアルに家に遊びに行くほどの仲ではない。弟同士は今でも仲いいみたいだが。
だから団地の自治会のおっさんおばさんたちと顔を合わせるのは久々で、そのことをさんざん突っ込まれた。てかこうなるってわかってるから、ますます顔出すの面倒になっちゃうんだってば。
「おお、直織ちゃん!話には聞いてたけどほんとにあんまり変わんないなぁ。高校生になってから背伸びたか、これでも少しは?」
あの、ですから。身体的特徴いじりは今の時代のコンプライアンス的に…。まあいいか。この人たちも言うほど老い先長いわけでもあるまいし、現代の感覚に順応し切る前にお迎えが来るだろう。
などともし万が一心が読まれでもしてたら確実に憤慨されそうなことをこっそり胸の内で呟いて、ささやかなうさを晴らす。
だって、黙ってそうでもしてないとさ。このパワフルな年配者の集団には、とてもじゃないけど太刀打ちできないもん…。
「いやぁ、しかしあのちっちゃかった子どもたちが今や高校生か。吉村んとこの長男よぉ、そろそろ自分とこの息子の嫁にとこの子に唾つけとかないと。今どきの子は成長も早いし、油断して放っとくとあっという間によそに取られちまうぞ」
さっさと婚約させとけ。とからからと笑う顔見知りの加山のおっちゃん。何言ってんのこの人。
「いやぁ、そういうのは。当人同士のことなのでさすがに親からは何も…。久しぶりだね直織ちゃん。お父さんお母さんはお元気?」
彼らよりは若いせいかもともとの性格なのか、吉村のお父さんはもっとおっとりしてて温厚だ。一緒になってそうだよ一刻も早くうちに来なさい。とか言われたらどう答えればいいのかと密かにびくびくしてたわたしはほっとした。本人はともかく、お父上の前でいやこいつと結婚する気なんてそもそも天からないから、とか平然と無表情に返せるほどはわたしも肝が太くない。
そんなやり取りはしないで済むに越したことない。とばかりに大人しく頷き、素直にその質問に答えた。
「はい。おかげさまで…。父は相変わらず出張ばっかりで。母はわたしが高校に入ってからパートに出てます」
「香也子さんは直織ちゃんがちびっ子の頃、うちでバイトしてたときもあったよ。学校行ってる昼間の間だけね。やっぱりずっと外で働きたかったんだろうな。てきぱきしてよく働くいい子だったよ」
クリーニング屋をやってる加山のおっちゃんが横から口を挟む。へぇ、そうなんだ。当時のことはよく覚えてない。
きっと子どもが下校する時間に間に合うように引けてたから、ぼんやりのわたしは気づかなかったんだな。それにしてもあと数年でいよいよアラフィフに差し掛かろうという年頃の大人に対して『あの子』はどうかと思うが…。
まあこのおじちゃんたちから見れば、うちの親や吉村のおじさんたちもわたしたちとそう変わらない若輩者に見えてるのかも。特に吉村んちは電器屋の二代目だというから、前の代から知ってる年配者にとってはお父さんなんかまだまだひよっこって感覚なんだろう。
そうやって、幼少期から育つのを見られてるおっちゃんおばちゃんたちの遠慮のない口撃に二代でたじたじとなりながら打ち合わせをしてポスターの納期を決め、ついでに結局立て看の作成も結局押し付けられた。
「いや、わたし一人じゃ…。中学のとき手伝ってくれた子たちもみんな引越しちゃったし。残ってる連中は高校でいろいろあって忙しいだろうし…」
学校によっちゃちょうど学園祭の準備の真っ最中だ。うちは受験を気にせずぎりぎり三年生が参加できるようにとの配慮なのか、何と夏休み直前に学園祭を済ます特例的な学校なので秋は結構暇だけれども。
けど、おっちゃんたちはまるで動じない。
「そんなん、団地の中学生と小学生に声かけりゃ一発で集まるわ。大智よ、碧と沙里奈に頼んで友達連れてきてもらえ。直織ちゃんの手伝いだって言えばみんな喜んで押しかけてくるって」
「いえわたし…、そこまでは。人気も人望もないんで」
てか、わたしが来ると子どもたちが喜ぶとおっちゃんたちが考えてる理由が謎。別にすごくちっちゃい子たちと遊んであげた記憶もないのにな。
おずおずと否定したわたしの台詞はまるで響かなかったらしく、高田理髪店のおじさんはこっちに構わず吉村の方を向いてさらに指示を出した。
「大智が責任持ってサポートの子たち集めたって。お前なら顔広いし余裕やろ。あと、材料とか必要なものわかったら早めに、遠慮なしに申し出てね。なんでもこっちで揃えるから」
わたしが口を開くより先に吉村が大きく頷いて請け合ってみせる。
「了解です。てかこれ、謝礼出ますよね?この子ってもう団地の住民でもない外部の人だし。善意の完全ポランティアってわけにも…」
いいよそんなの、とやつの袖を引っ張るわたしに目もくれず、高田さんちのおじさんは豪快に笑って頷いた。
「大丈夫大丈夫、ちゃんと商品券くらい包むつもりだから。予算ないからお気持ちな。さすがに高校生の貴重な時間取ってもらうのに、差し入れのアイスだけで済ますわけにはいかねぇよな。あ、でもアイスもちゃんと差し入れるよ。碧と沙里奈にはそのこともしっかり伝えといてな」
「合点です」
もしかしてふざけてんのか、と思うくらい大真面目な顔つきで吉村(息子の方。大智)がびっと敬礼の真似をする。それから隣に佇むわたしの方へ身を寄せて小声で耳打ちしてきた。
「楽勝だよ。アイスあるならあいつら、確実に釣れるって」
いやそういう問題じゃ…、そうなのかな。
題材は何でも直織ちゃんの好きなように描いていいよ、念のため下絵チェックしてほしい?そんなの自由でいいのに。と言われつつ集会所をあとにした。
「よかったな。何でも直織の好きなように描いていいって」
吉村の方が何故か嬉しそうだ。当たり前のようにわたしを家まで送っていくつもりなのか、一緒に並んで団地の敷地から外に出る。
わたしは手にしたトートバッグを子どもみたいにぐるぐると回して、憮然とした顔で嘯いた。
「そうは言ってもさ。お祭りのポスターっていう枠組みははっきりと存在してるんだから…。ああ、それに立て看。どうしようかな?前のってとってあるんでしょ。それをそのまま使うわけにいかないの?」
吉村は問題にならない、とでも言うように肩を軽くすくめた。
「あれは勿体ないからそのまま取っておくってさ。俺も板を再利用して上から重ねて描いちゃうのかと思ったから訊いてみたら、そんなことはしないで大事しまっとく、看板は新しいのを作るんだって。直織があれを描いてから二年間続けて同じのを使ったから、そろそろ新作が欲しいらしいよ」
「何だそれ。別に十年間くらい毎年同じのでもいいじゃん」
そう呆れつつ、でも確かに満点の星空に打ち上げ花火が次々と開く絵柄は正直団地の秋祭りの実態に全然合ってないよなぁという反省も内心あり。そろそろ代わりを描けっていうんならその方がいいかな、という気持ちがなくもない。
そんなわけで、その後数日かけて苦心惨憺してそれなりに町内会のお祭りに相応しいと思われる絵柄を考え出して、ポスターも立て看もGOサインをいただいた。
結局何の部活もやってなくてよかったんじゃん。というくらい時間と手間を注ぎ込んで短期間集中で絵を描き上げ、ひとまずポスターの方は印刷に回したが看板はそうもいかない。
ペンキって勝手が違うから描きづらいんだよなぁとうんうん言いながら団地の集会所に通って何とか期日までに完成。大まかに全体を描いたあと、ベタ塗りや広い範囲をざっくり塗るのは碧やうちの弟の圭太、それから沙里奈ちゃんの連れてきたアイスに釣られた友人たちに任せてわたしは細かい部分の仕上げに注力した。
わたしが作業してると伝え聞いてちょこちょこ顔を出してくれる同級生の連中の手も借りて、何とか無事に祭りの当日に立て看板も間に合った。
「…へぇ。いいじゃんか。なんか、雰囲気あるな。派手じゃないけど、これはこれで」
なんていうか、直織ちゃんらしいな。と缶ビールを片手に一杯機嫌でわらわらと広場の入り口に集まって来るおっちゃんたち。すいませんね、相変わらず暗めの画面で。
これはどういう場面を描いてるの?とほろ酔いのおじさんたちに口々に尋ねられて何とも落ち着かない気分で俯いてぼそぼそと説明する。
「えっと、夜の鎮守の杜の奥でやってる夜祭りの明かりが木々の隙間からぼんやり見えて。子どもたちがあれは何だろう、って興味津々で見つめてる背中っていう…。えっと、この子たちは人間のお祭りから帰る途中なんですね。そいで、神さまの領域の森の奥でやってる不思議なお祭りの気配を感じて立ち止まってる。っていう場面で…。地味な絵面ですみません」
なんか、自分の絵のコンセプトをあえて言葉にしてみんなに説明してるのってちょっと馬鹿みたいだ。と我ながら何とも微妙な気分になる。けどみんな、優しいからか酔っ払っててご機嫌だからか。あーなるほどねぇ、とこぞって頷いて感心してくれた。
「ほぅ、それでか。これからお祭りなのにお面頭に載せてヨーヨーやわたあめ持ってるんだなぁと思ったんだ。既に終わった帰り道なんだな。ちゃんと理屈に合う」
「森の奥からぼうっと見えてる提灯の明かりが神秘的でいいねぇ。子どもたちの顔が見えなくて背中をこっちに向けてるのも意味ありげで雰囲気に合ってるし」
「色合いは暗めだけどきれいだね。何だか見てると子どもの頃を思い出して懐かしい気分になるよ」
お祭りの空気でみんな盛り上がってるせいか、すごく褒めてくれる。そのあと、手伝ってくれた友達や弟妹たちの仲間にもお礼を言って回り、みんなで連れ立って一緒に屋台を回ってひととき童心に帰って秋の夜祭りを楽しんだ。
「あーよかった、あれでいいって言ってくれて。さすがにちょっと好きなように描きすぎだなぁとうすうす自覚はしてたから…。いくら何でも画面暗すぎだよな。一応、ポスターの方はもうちょっと。ぱっと目を惹くように明るい色合いで仕上げたつもりなんだけど…」
お祭りの途中だけど遅くなると危ないから、と言って吉村が家まで送ってくれた。ちなみにうちの弟はまだ遊び足りないからと言ってまだ会場に残ってる。遅くなったら碧くんちに泊まらせてもらうからとか平然と言い放ってたけど、迷惑だろ。結果うちの母がお礼に手土産持って頭下げに行く羽目になるじゃん。
中学生男子なんてそういうとこが今ひとつまだよくわかってないんだから。とぶつぶつ言うと、吉村はいいよいいよ。と気楽に笑ってわたしを諫めた。
「今さらうちの母親も気にしないよ、圭太なんてほぼうちの子みたいなもんじゃん。その代わり特に大したおもてなしもしないと思うけど。ただ碧の部屋に一緒に放り込むだけで…」
「当たり前だよ。いいのいいの、いきなり他人んちに押しかける方が悪い。床にでも寝かせといて」
そう言いつつ、わたしも吉村家の長男に自分を家まで送らせてる。そもそも声をかけても一緒に帰ろうとしないうちの弟が一番悪いんだが。
遅くなっちゃうと明日に差し支えるよ、送ってくからもう早目に帰んな。とわたしをせき立ててお祭りが終わる前にさっさと連れ出す吉村もどうかと。こっちの方からそろそろ帰りたいなと申し出たり、帰り道怖いから一人じゃ帰れないと訴えたりしたわけでもないのに。
「どうなんだろ、わたしももう少し残ってた方がよかったかな。後片付けまで手伝うべきだったんじゃない?まあ確かに。あんまり大した戦力にはならないだろうけど、気持ちだけでも」
かと言って責めるのもお門違いな気がして、やんわりとそう示唆するにとどめる。案の定わたしの先をすたすたと歩く吉村はそんな遠慮がちな指摘はまるで歯牙にもかけない。
「何言ってんだ。ポスターと看板描いてくれただけで充分だよ。そもそも団地の住人でもないし、むしろお祭りに来てくれたお客さんだろ。ここんとこずっと根詰めて描いてて疲れただろうし、もう今日はゆっくり風呂にでも入って早めに寝な」
それにおっさんたちだって、今夜のうちにそんなに本格的に後片付けには手をつけないよ。今夜のところはほとんどあのままに置いといて、明日の朝一気にみんなでまとめてばたばたと畳むんだから。と言われればそれはそうかも。
わたしのすぐ前を行く吉村がふと足を停めて町内会の掲示板に向き直った。
「…あ、ほら。直織の描いたポスター」
団地の中だけでなく、近隣の町内会や駅周辺の掲示板にも今回のポスターは貼られている。街灯の光の下で、わたしと吉村は何ということもなくつい並んで立ってしげしげとその絵面を眺めた。
「確かに。こっちは打って変わって色合いが鮮やかで明るいなあ。あえて意図してそうしたんだろ?」
秋らしく、と考えて色とりどりの紅や黄色の葉っぱでいっぱいに画面を埋めてその隙間から祭太鼓やヨーヨーや綿菓子、狐の面を覗かせた。わたしは目をすがめてその絵面を検分しつつ真面目な顔つきで頷く。
「街中でぱっと人目を引きたいから。とにかく華やかに、インパクト強いカラーにしたくて…。逆に立て看は夜の会場に半分溶け込んで、画面の中の祭りの灯りが暗闇からぼうっと浮き上がってくる感じにしたかった。上手くいったかどうかわからないけど」
「確かにそういう風に見えたな。主張しすぎないけどなんか気になる、みたいな。逆に確かにこっちは街灯の光の下でもすごく目立つよ。明日剥がしちゃうの勿体ないな」
「どうせ印刷だから…。何なら吉村に原画あげるよ。てかこれ、明日剥がして回った方がいい?描いたわたしが責任もって」
おじさんたち祭り会場の片付けで忙しいだろうし、そのくらいなら。と申し出てみると吉村は大袈裟に目をむいて速攻で否定した。
「いやぁそんなの。手の空いてるおっちゃんの誰かが適当にするだろ。本当にそこまで考えなくていいよ、直織は。依頼された仕事は完遂してるんだから。きりがないよ」
そうかなぁ。
「でも、団地から駅まで降りていくの大変だし。駅周辺のだけはわたしが外しとくよ。どうせ明日昼頃電車乗って街まで出ようと思ってるから、ついでに」
「そうなんか?俺明日、昼頃予定あるから…。夕方なら付き合えるけど」
いや、ポスター剥がすだけだから。…と思ったら何の用事なん?と無邪気な声で尋ねられて気づく。まさか街まで出かける方に付き合うつもりなのか。何の必要があって?
「別に、明日発売の本買いに行くだけ。Amazonでも買えるけど特典つくから、店頭なら。ついてきても別に面白くはないよ」
「それだけのために行くの?直織は本当、好きな本のこととなると。意外と行動力発揮するしまめだよな」
他人のことをまるでデフォルトではやる気のない無気力人間みたいに…。
と、心底どうでもいい会話を交わしてるわたしたちの背後をすっと通過して、すたすたと去っていく人影が。
何故かその瞬間あっ、わたしこの人知ってる。という感覚に襲われた。多分横をすり抜けていくときの自分との身長差とか体格の印象とかを漠然と覚えてたんだと思う。
こちらを振り向きもせずにすたすたと遠ざかっていく背の高い後ろ姿は、服装こそ違うけど多分あのときのポメの飼い主だ。
今夜は犬を連れてない。確かにペットの散歩には、ちょっと時間が遅いかも。
この近所に住んでる人なのかな。この時間に降って行くとなると、やはり団地の住人ではなさそうだ。方向的には駅へ向かっててもおかしくない。
この時間から電車に乗って出かけるのか。まあ、まだ全然。終電には早いけど…。
「…どした?知ってる人?」
わたしが何となく気にしてるのに気づいて、吉村がのんびりと声をかけてくる。
その口振りからするとやっぱり、こいつにとっては見覚えのない人物なんだな。というのがはっきりした。団地とは関係ないし、小中学校の同窓でもなさそう。
そこまでマンモス校でもなかったから、同性の同級生ならうっすらとでも吉村が記憶してそうなものだ。
けど、高校はそれなりに人数が多いしまだ入学して数ヶ月だから、学年全員を覚えるのはまず無理。上の学年の可能性まで考えたらさらにお手上げだし、わたしが微かに印象あるなと感じるならやっぱりそっちの方かな。
でも、もちろんそれくらいじゃ知り合いとは言えない。何処の誰かも全く見当がつかないんだから。
わからないものはわからない、とわたしはそこで正直に事実をただ伝えるにとどめた。
「いや。知らない人…」
ふぅんちょっとイケメンっぽかったね、ああいうんが直織はタイプなん?と深く考える様子もなく無邪気に尋ねてくる。てか、気軽に何言ってんだお前。
「そんなわけないだろ。何でそんなこと言うのよ?」
「いや、なんか。そっち見てた気がしたから…」
通りすがりの人なんてあんまり普段気にしないのに、珍しいなぁと思って。と悪びれず答えるところを見ると本当に感じたことをそのまま口にしただけで他意はないらしい。まあ、別に。こいつにどう思われたって構わないんだけどさ。
「こないだも近所ですれ違ったんだよね。漠然と見覚えある気がするんだけど、どこで会った人なのか全然思い出せなくて」
隠すようなことでもないので正直に打ち明ける。けど、そのときに向こうがじっとこっちを見てたとはわざわざ口にしなかった。ストーカーか?とか、余計な心配をかけるのも悪いし。
そう言われるとやはり気になるのか、掲示板の前に立ち止まったまま吉村はちら、と遠ざかる彼の背中の方に視線を走らせた。既に充分距離があるように思えるけどそれでも一応その耳を憚ったのか、ちょっとだけ声を落とす。
「そしたらこの近所に住んでるのかもな。同年代かもしれないけど、中学一緒じゃないとわかんないよな。最近引っ越してきたって可能性もあるし」
「ああ、そうね。…中学から私立の子もいるもんな…」
その口調からするとどうやら吉村にとっては特に見覚えのない人物らしい。顔の広いこいつが知らないなら、小中学校のときの同窓生な可能性はほぼ消えた。
そして、同じ高校のやつじゃないか?俺見たことあるよ、って台詞も出てこなかった。
吉村が記憶してればまず間違いないと思ったんだけど。かと言ってこいつが知らなければうちの高校の子じゃない、と断言もできない。シュレディンガーの猫状態だ。
まあ、ちょっとこっちを見てたような気がしたくらいでそこまで引っかかる必要もないか。たまたま二回ほど続けて出くわしたけどこれでおしまい、もうこれっきり二度と会わないかもしれないし。
「…さ、遅くなっちゃう。お母さん心配してるよ」
急いで帰ろう。とわたしを促して歩き始める。何も考えずに自動で動くみたいに、当たり前にこちらに差し伸べてきた手をこっちも特に違和感なく自然に取った。
それからやつの後ろについて歩きにくい緩やかな歩幅の階段の方へと踏み出す。足許気をつけろよ、と振り向いて注意を促す吉村の肩越しに遠くのぽつんとした点になったあの男の子が、つと立ち止まってこちらを振り仰いだのが一瞬見えた気がした。
翌日は三連休の最終日。
昨夜は早寝のわたしにしては夜遅い就寝だったので、特に急ぐこともなくゆっくり起きた。
ダイニングキッチンで何か調理してる母親(多分、週末にまとめて作り置きをしてるっぽい)が圭太がまだ帰って来ないんだよねぇ、お休みの日に吉村さんちもご迷惑だと思わん?と愚痴るのを聞かされながらほんやりと朝食を摂った。
「…まあ。そんなに遅くまでお邪魔はしないんじゃない?どうせ朝起きたらそのまま二人で外に遊びに出るでしょ。きっと昼過ぎまで帰って来ないと思うよ」
「そうなの?電話した方がいいかなぁ。お昼どうするのかはっきりしてって欲しいんだよね。こっちも出かけていいかどうか迷うしさ」
そう言われて気がつき、トーストを齧りながらわたしもこのあと出かけるからお昼はいいよ。と改めて母に告げた。
遅く起きたから家を出る前にまた何か食べたくなるほどはお腹が空きそうにない。一人でふらりと気ままに過ごすつもりだから、出先で外食するかどうかも気分次第か。
結局大して空腹にならないようなら、帰宅してから家にあるものを適当に食べて夕食まで保たせても充分な気がするし。
そんなわけで、連休の最終日をようやく自由にのんびりと街歩きして過ごしたわたし。
気が済むまで行きたい店で見たいものを見て、目当ての特典入りの新刊も無事にゲットした。そろそろ足が疲れたなぁと感じたら、誰に遠慮する必要もなくさっと帰れる。やっぱり、ソロ活って気楽だ。
みんなとわいわいするのが絶対に嫌、とまではいかないけど(少なくとも、ある程度気心が知れてる場なら)基本わたしは集団よりも個別行動の方に適性があるんだろうな。とほろ苦みのある再認識をしみじみ噛みしめながら電車に乗って帰途についた。
何も考えずにそのまま改札を抜けて駅を出ようとして、ふと気づいた。そういえば、ポスターついでに剥がそうかって昨日吉村に言ってあったんだ。
見るとあの派手派手な紅やオレンジ色から黄金色へのグラデーションが鬼のように目立つわたしの手になるポスターが、しっかりとまだ掲示板のど真ん中に貼られている。
改めて見ると目立ち過ぎててちょっと恥ずかしい。それに日付がしっかり目立つように配色も気を遣ってデザインしたから。ぱっと見であれ、これってもう日にち過ぎてるじゃん。終わってるのにまだ掲示してるのかよ。と即見た人に思われそうで気が引けた。
商店街のおじさんたちも、昨日の今日でばたばたしててここまでは気が回らないんだろうな。用は済んだのに掲示板のスペースをいつまでも占拠するのもどうかと思うし、駅のこれだけでも剥がして引き取っておこう。
そう考えて窓口に赴き、係員の人にひと言断ってガラス扉を開けてもらってからピンを外してポスターを撤去した。
やれやれ、とりあえずこれで一安心。とお礼を言ってその場をあとにし、すたすたと歩きながらほとんど無意識にぐるぐると手にした紙を丸めていく。
各町内会の掲示板とか学校に貼ったやつとか、そこまではいいや。誰に断って剥がしていいかわたしにはわかんないし、それは頼んだ人がきっと順次やっといてくれるでしょ。
とにかく一番悪目立ちしてる一枚を片付けてさえいれば、作者としてはまあだいぶ気が楽になる。
「…あのさ。君」
駅の構内からちょうど外に出たタイミング。
背後からかけられた声が自分に向けられたものだと気づくのにやや時間がかかった。だって、小説や漫画の中ならともかく。『君』なんて二人称で現実に呼ばれたこと、これまでの人生であんまり記憶にないし。
そんな風にわたしに呼びかけそうな人、正直この辺りじゃまるで心当たりが…。
そう思いつつ、ふとまさかね。と疑念がさしてつい振り返ってしまった。
心当たりと言えるほどはっきりしたものじゃないけど。…喋ったとこ聞いたこともないのに、何だろうこの独特な声の感じ。
わたし、この声の持ち主の顔。何となく脳裏にうっすらと印象だけ、思い浮かぶ気がするんだけど…。
祝日の月曜日。昼過ぎの中途半端な時間、小さな各駅停車の駅の人の行き来はまばらだ。
そんな駅の出入り口の光景を背中にしょって。これまで遠く微かにしか見たことのなかった、やけに整った育ちのいい爽やかな男の子の顔がまっすぐこちらに向けられ、フレンドリーな笑みを浮かべていた。
何だろ。まさか、ナンパではないし。
それでも訝しさは拭えず、不審感を滲ませて身を強張らせてるわたしに彼は見た目の割に高い涼やかな声で至極自然に話しかけてきた。…まるでこれまで一度も言葉を交わしたことのない、初対面同士の会話だなんてかけらも意識してないって顔つきで。
「そのポスターさ。描いたのって君でしょ?一点ものじゃなくて印刷だよね。…もしよかったら。それ、ちょっと手に取って見せてもらってもいいかな?」
《第2章に続く》
最後まで完成させてから順次章ごとに投稿していく習慣なので(完結させたあと遡って内容に間違いとか矛盾がないよう確認していく)、未完で終わることはないと保証済みです。よろしかったら時間潰しにでも読んでいただけたら嬉しいです。
あんまり一気に投稿しても何なので毎週2章ずつにしておきます。しばらくの間そのペースでお付き合いくださいませ。
尚、タイトルに『たたかう』とのワードも入っていますので、せっかくですからイメソンはEVEの『ファイトソング』で。ラストまで完成してから頭に戻ってこの辺の章を曲を聴きながら読むと、ちょっと感慨深いです…。




