不安
「だいぶ顔色がいいみたいだ」
ほっとしたような声を出し、アッセマイン卿は微笑んだ。本当に嬉しそうな表情に、イザベラは面喰らう。
「申し訳ありません、治療費を……」
「気にしないで。遠からず、わたし達は結婚するのだから」
その言葉に胃がしぼられるような恐怖を覚えたが、イザベラはそれを表情には出さなかった。アッセマイン卿は頷いている。「妻の身になにかあったら、助けようとするのが夫というもの。当然のことをしたまでだ」
イザベラは声が出ず、お辞儀で感謝を伝えようとした。
フィリップス夫妻は慈悲にあふれたひと達で、イザベラを追い出すようなことはしなかった。アッセマイン卿の頼みもあったのだろう。侯爵さまの婚約者を放り出すことはできまい。
当の侯爵さまは、客間の椅子に腰掛けて、機嫌よく喋っている。風邪をなんとか治したイザベラは、その向かいで、婚約者を観察していた。邪気のない笑みと屈託のない様子に、心が段々と解れていく。なにか裏があるようには見えない。なにか大いなる間違いが起こって、彼にはわたしが魅力的に見えているのかもしれない。財産だとか、家柄だとかを考えられなくなるくらいに。
婚礼衣装は彼の伯母が見繕ってくれたそうだ。結婚式についてもなんの心配もない。結婚後はアッセマイン領へ行き、来年の社交シーズンにまたロンドンへ来ようと彼は考えているようだった。
「あなたは、申し訳ないが少々やつれてしまっているから」
彼は気遣うように云う。「来年でも遅すぎると云うことはないでしょう。我が領地でゆっくりと療養してほしい」
「かしこまりました」
アッセマイン卿は微笑んだ。
「そのようにかしこまらずに。ショーンと」
彼の名前はショーン・クリストファー・グスタフ・サイプレスというのだった。イザベラは軽く頷いて、同意を示した。
「あなたのことは、イザベラと呼べばいいだろうか」
「はい」
「変わった名前ですね。ファーストネームは……」
イザベラは顔を赤らめた。それは、人生で何度も云われてきたことだ。名付け親がどう考えて彼女に名前を授けたのかわからない。彼女はしかし、どちらの名前も好きではなかった。
ショーンはそれを見て、ばつが悪そうににやっとした。「すまない。あなたが気にいっているのなら、そう呼ぼう」
「はい、そのように……」
ショーンは頷いた。
すべてが性急にすすめられ、イザベラは教会に居た。ショーンが手配した女中が、イザベラの身のまわりのことをすべてしてくれている。気付けに、化粧に、間もなくはじまる結婚式の心配までだ。
イザベラは婚約指輪を眺めていた。ショーンは、母の形見だという指環を、彼女にくれた。大粒の――本当に大粒の真珠があしらわれたものだ。よく、若い女性の口の端に上る「大粒」ではない。
イザベラはうすでの婚礼衣装を身につけ、座っている。それらはすべてショーンが用意した。彼女は爪の先程も出費していない。何故か? 出費しようにもお金がないからだ。
時間が来て、イザベラは控え室からつれだされた。儀式は滞りなく済み、彼女はトリークル・イザベラ・サイプレスになった。
結婚が厳かに誓われた瞬間、ショーンが奇妙に満足そうに笑みをうかべたのに、イザベラは何故だか背筋がつめたくなった。
「ああ、息が詰まった」
教会からアッセマイン邸への馬車のなかで、ショーンは不機嫌そうに云いながらクラヴァットを外した。乱暴な手付きだ。
イザベラは体をこわばらせる。夫の声の調子は、これまで聴いたことがないものだ。傲慢そうで、長い間そういう声にさらされてきた彼女は身をすくませる。
夫は向かいで脚を組み、彼女を観察している。値踏みするような視線だ。イザベラは馬車内の空気が重たくなっていくのを感じる。「ショーン……?」
「安い買いものだった」ショーンはにっこり笑った。「イザベラ、お前は賢明だ。俺にたてつかないように。それさえできればまもってやろう」
イザベラは自分が罠にかかってしまったような気がした。それも、死に至るような罠に。