ロンドンへ
ロンドンは騒々しく、せわしなく、妙な匂いがした。その匂いがなんなのかはわからなかったが、イザベラは軽い頭痛に顔をしかめることになった。
「大丈夫なの、イザベラ?」
四輪馬車に一緒にのっているアンが、心配そうに訊いてきた。彼女は華奢な――といっても不格好な程ではなく、女性らしいまるみがある――体を、ぴったりしたドレスで包み、しゃれた帽子を被っていた。ドレスはうすでの生地でできていて、ぱっと見るととんぼの羽のようだ。
並ぶと自分がみじめになることはイザベラは気付いていたが、アンの為には自分の名誉などはどうでもいいのだと考えて我慢した。実際のところ、彼女はアンを妹か、もしくは娘のように思っていて、だからアンの為ならば多少不名誉なことが起こっても平気なのだった。
「アン、心配しないで。ロンドンは初めてだから、驚いているだけ」
「そう……ミセス・フィリップスのお邸についたら、横になったほうがいいわ。ラヴェンダー水を戴きましょう」
アンは頭痛持ちではないが、イザベラが頭痛の度にラヴェンダー水をこめかみに塗っていることは知っている。それを覚えている、優しい子なのだ。
イザベラは主に感謝した。シャーロットとその夫だけが親戚だったら、彼女は主を呪っただろう。主よ、アンが居るおかげでわたしは良心を失わずにいられます。
ミセス・フィリップスは、シャーロット、もしくはその夫、或いは夫妻の親しい友人だということだったが、それが信じられないくらいに感じのいいひとだった。
「おばさま、ごきげんよう」
アンは今まで数回、短い期間だがロンドンに出てきている。その時はフィリップス邸に逗留していた。その時から見知っているからか、ミセス・フィリップス相手では緊張した様子はなく、微笑んで挨拶をしている。
今回もしばらくは、ここに世話になる。シャーロットが体調を崩し、数日後にロンドンへ来ることになっているからだ。彼女にも人間らしいところはあって、アンを猫かわいがりしている。自分が居ない、使用人の数の少ない邸でアンがまともに暮らせるとは考えておらず、ミセス・フィリップスに頼ったのだ。
「久し振りね、アン」
ミセス・フィリップスは、軽くアンの手を触るようにして、微笑んだ。「背が伸びたみたいだわ」
「はい、ほんのちょっぴりだけど」
アンはにこっと笑い、それから傍らに控えるイザベルを示した。
「こちら、ミス・マーシュ。以前話したことがありましたよね?」
「ええ、あなたのお姉さんね」
イザベラは心臓が痛いような気がして、アンを見た。彼女は嬉しそうに頷いている。「わたしの自慢のお姉さんなの」
そのひと言で、これまでの苦労がなくなったような気がするから、不思議だった。
「ミセス・フィリップス」
応接室に居たのだろう、身なりの立派な男性がのっそりと、玄関ホールへやってきた。まだ立ち話をしていた三人はそれを見る。
アンが息をのみ、イザベラの袖をぎゅっと掴んだ。赤くなった顔を俯ける。男性はそれに気付いていないふうで、ミセス・フィリップスに軽くお辞儀した。「ご主人に宜しくお伝えください。わたしはもう失礼します」
「申し訳ございません」
「いえ、仕事ならば仕方ない。最近はあちこちでいざこざがありますから、ご商売も大変でしょう」
イザベラはアンを気遣いながら、男性をまじまじと見た。
はきはきとして、好感の持てる喋りかただ。微笑みを湛えた顔は、浅黒く、精悍と云うよりは柔和だった。鼻筋が通り、宝石のような紺の目をしている。白い歯は綺麗に並び、たしかな輪郭で、首はふとい。
身長は普通よりも高いだろう。185cm……といったところか。胸は厚く、腰まわりはひきしまり、すんなりとした長い脚は乗馬に慣れ親しんでいることを連想させる。なんというか……ああ……ええと……。
ミセス・フィリップスが丁寧に彼を送り出した。彼はイザベラとアンを見たが、紳士らしくお辞儀をするだけにとどめた。
「今のかたは……?」
「アッセマイン卿よ」
思わず、礼儀もわきまえずにミセス・フィリップスに訊いたイザベラだったが、善良なご婦人はあっさりと答えてくれた。「侯爵でいらっしゃるわ」
「まあ」アンが口をぽかんと開けた。「侯爵さまがどうして……」
「夫の商売に、出資してくださっているの」
アンが大きく頷いた。イザベラは目をしばたたく。ミセス・フィリップスの夫が貿易で儲けているとは訊いていたが、侯爵さまが一枚嚙むような話なのだろうか。
使用人が来て、アンの荷物が無事に客室へ運び込まれたと云った。アンは大柄な男性のことははやく忘れてしまいたいらしく、アッセマイン卿の話を蒸し返さない。イザベラは多少、気にかかったものの、黙っていた。どちらにせよ、わたしにはああいった立場のかたと会話する機会もないのだし、詮索する権利もない。そうじゃない? イザベラ。