頭痛
ショーンの機嫌は翌日も持ち直していなかった。いつになく険しい顔で、使用人にもつめたい口調で接している。「イザベラ」
「はい」
「三日後、競馬を見に行こう」
パンをちぎっていたイザベラは顔を上げた。
夫はコーヒーをすすっている。イザベラはその匂いが好きではなくて、かすかに頭痛がしてくる。
「伯母が競馬場の席を持っているんだ。彼女は君に会いたがっている」
「あ……はい……」
「あたらしいドレスと帽子が必要になるだろう。日傘も要るな。使用人を何人かつけるから、買いに行きなさい。わたしは用事がある」
「はい」
ショーンは挨拶もせずに出て行った。イザベラの頬に口付けることもせずに。
買いものは楽しいものではなかった。従僕はショーンから、代金は気にしなくていいと云われているらしいが、イザベラは尻込みしていた。このやけにつば広の帽子に、五十ポンドも支払う必要があるのかしら?
しかし、ショーンから買いものの許可が下りたのはいいことだった。幾つかの店をまわれば、噂はどうしても耳にはいる。
ショーンは、家督に関して複雑な状況にあるらしかった。彼には妹と弟が存在しており、非常に折り合いが悪い。弟はショーンが不当に財産を得ていると批判している。ショーンに子どもは居ないので、ショーンが死んでしまったら爵位は弟が継ぐらしい。
イザベラは、社交界でもかなりの「高値」だったショーンを射止めた女性とは見えないらしい。手洗いにたった時に、従業員達が噂しているのを耳にした。イザベラは長年の、使用人同然の暮らしで、気配を消すのには慣れている。
「アッセマイン卿はどうして、あんな背の高い女をめとったんだろう」
「ご当人が背が高くてらっしゃるからだろう」
笑うような声がうけた。
「それに、夫人は経験があるらしい」
「経験?」
「あの年齢まで結婚できなかった理由を考えたことは?」
「不器量なのかと思っていたが、そうでもないな」
「だろう。彼女は一度、子どもをうんだことがあるそうだ。一度あったことだから二度目は簡単だと考えたのさ」
イザベラは気分が悪かった。頭ががんがんと痛んだ。外出などしたくない。ボディスで体を締め付けられることを考えるのもいやだった。
イザベラはショーンを拒んでいた。ショーンははじめ、怒ったようだったけれど、イザベラの顔色に気付くと途端に気弱そうに、医者を呼ぼうと提案してくれた。医者は来て、診察の結果、軽い気の塞ぎだと云われた。医者はショーンと長々話していた。妻が軽い気の塞ぎになったからと云って、そこまで医者と話すものだろうか。
「イザベラ、無理をしなくていい」
ほかに誰も居ない、ふたりきりなのに、夫は優しく手を握って、そう云ってくれた。「競馬はまた今度でもかまわないのだから」
「いえ、約束しました」
「しかし」
「行きます」
強情に繰り返す彼女に、ショーンも言葉はないようだった。女中を呼び、きがえを手伝うようにといいつけて出て行く。あなたはあの噂を信じているの? だからわたしにしたの? 子どもを得る為の結婚だから、わたしが体調を崩したら優しくしてくれるの?
ショーンの「裏の顔」は見ているつもりだった。ひとあたりのいい優しい紳士が「表」、子どもじみた文句をぶつぶつ云い、イザベラに甘えた――そう、彼はわたしに甘えてる――不機嫌な態度をとるのが「裏」。
だがそれも「裏」の全部ではなかったとしたら? 彼がやけに不機嫌な態度をとり続けるのは、イザベラが子どもをうんだことがあるというとんでもない噂を信じてのことだとしたら?